血煙天明陣
国枝史郎
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天明五年十一月、三日の夜の深更であった。宵の間にかくれた月の後、空には星ばかりが繁くまばたき、冬の寒さをいや増しに思わせ、遠くで吠え立てる家護りの犬の、声さえ顫えて聞こえなされた。
大江戸の町々は寝静まり、掛け行燈には火影さえなく、夜を警しめる番太郎の、拍子木の音ばかりが寂寥の度を、で、さらに加えていた。
まして隅田の堤あたりは、動くものといえば風に吹かれる、葉の散りつくした桜の木々の、細い梢か枝ばかりで、
春雨や鼠の嘗める隅田川
その野鼠さえ蠢いてはいず、まして人影など見られなかった。
と、厩橋の方角から、その寂しい隅田堤の方へ、一挺の駕籠を取り巻いて、数人のものが歩いて来た。
二人の武士が駕籠の前に、二人の武士が駕籠の背後に、一人の武士が駕籠の脇、引き手の側に引き添って、しとしとと歩いて来るのであった。
枕橋の渡しの辺を、一町あまり歩いて来た時、それまで堤の耕地へ向いた斜面へ、身を伏せて隠れていたのでもあろう、黒の衣裳に黒の羽織、袴なしの着流し姿、黒頭巾で深く顔を包んだ、お誂え通りの一人の武士が、しかし身体に得もいわれない、品と威との備わった武士が、おもむろに現われ斜面を上り、懐手をしたまま無造作に、
「これ、待て待て、その駕籠待て」
声は濁りなくさえていて、そうして不断に部下に対して、命令することに慣れている人の、鷹揚さと威厳とを持っていた。
駕籠の一団は足を止めた。
「これ、その駕籠を置いて行け」
「黙れ!」
と駕籠脇の武士が怒鳴った。
「身知らずの痴者! 尋常の駕籠と思いおるか! ……邪魔立ていたすと切り捨てるぞ!」
鮮かに狼狽はしていながら、相手はたった一人であり、それに自分の位置や身分、そうして駕籠の行く先に、何か自信でもあるとみえ、恐れ気もなく叱咤するようにいった。
「よいよい」
と黒頭巾の武士がいった。
「存じておる、存じておる、存じておるからいったのじゃ、その駕籠を置いて立ち去るがよい」
「黙れ!」
と例の駕籠脇の武士は、相手の武士の何んともいわれない品位、それにだんだん圧せられながら、隙を見せまいと威猛高に怒鳴った。
「何を存じて、汝無礼! この駕籠は、そも、この駕籠は……」
「老中田沼主殿頭の、小梅の寮へやる駕籠であろう、贈り主は松本伊豆守のはずじゃ」
「…………」
駕籠脇の武士は黙ってしまった。
が突然、「やれ!」と叫んだ。
白刃!
抜かれた!
五本!
ダ、ダ、ダ、ダ!
五人の武士の抜いた刀が、地を蹴る烈しい足音とともに、黒頭巾の武士へ殺到した。
抜き合わせて切ったか?
いや逃げた。
踵を返すと黒頭巾の武士は、一散に竹屋の渡しの方へ逃げた。
それを追いかけて五人の武士が、迂濶にも半町ほど走った時、川に面した堤の斜面から、三人の人影が躍り出て、素早く駕籠を取り巻いた。
一人は博徒、一人は若衆、そうして一人は町娘であった。
顫えている駕籠舁きを揶揄するように、
「ねえ、怖かったでござんしょうねえ」
と、こういったのは町娘で、提灯の火に映って艶かしい、赤い袖口から腕を抜き、簪で鬢を掻くようにしたが、
「もう怖かアありゃアしないよ。……そうさ、わたし達のいうままになれば。……駕籠かついでわたし達についておいで」
「へい」
と先棒は顫え声で、
「どこへなりと参ることは参りますが……でも、この駕籠は田沼様へ……」
「来い!」
と気忙しく一喝したのは、博徒風の男であり、
「こう従いて参れ」
と穏かにいい、堤から耕地へ下りたのは、美貌の若衆武士であった。
間もなく三人に守られた駕籠が、今は提灯も吹き消され、星空の下暗い耕地を、黒く走って行くのが見られた。
その翌日のことである。
神道無念流の大剣豪、戸ヶ崎熊太郎が内門弟の一人、平松清三郎を供に連れて、下谷の往来を歩いていた。
牛込神楽坂に道場を持ち、一生を通じて取り立てた門弟、二千人におよぶと伝えられている、この戸ヶ崎熊太郎は、その前後に輩出した剣豪、浅利又七郎や秋山要助や、小野次郎左衛門などという人々と何ら遜色なしといわれた、この時代の代表的剣客で、性恬淡磊落であり、仕官を嫌って生涯仕えず、市井遊侠の徒と多く交わり、無拘束をもって終始したという。
この日は晴れた好天気で、小春のように暖かかったので、両国へでも出かけて行き、本来無邪気な人だったので、盛り場にかかっている見世物でも見ようと、それで出かけて来たのであった。
時刻は白昼で人通りも繁く、暖簾にも長閑に陽があたっていた。
「大変なことがあったそうだな」
不意に思い出したというように、熊太郎はそう清三郎へいった。
「は、何んでございますか?」
藪から棒に大変といわれ、清三郎は驚いて訊き返した。
「世間で取り沙汰しているではないか」
「はて、何んでございますか?」
「昨夜隅田で田沼殿への駕籠が……」
「あああのことでございますか」
やっと清三郎は胸に落ちた。
「何者かにさらわれたと申しますことで……」
「何んでもあの駕籠にはいっていたものは、松本伊豆守殿お宅から、田沼殿へ贈る進物だったそうだ」
「私もそのように承りました」
「お勝手箪笥から献上箱、それから今度は進物駕籠と、いやいろいろの名称をつけて、送る方でもよく送るが、取る方でもよく取るのう」
「それもご時世でございましょう」
「賄賂と、請託と、身贔屓と、ころび芸者と、山師、運上……これが目下の流行だのう」
「それにしても大胆な、何者が田沼殿への進物駕籠などを、襲って奪ったのでござりましょう?」
「さあ、そいつは解らぬが、こうした腐敗した時世には、ああした思い切った荒療治をやる、英雄的人物が出るものさ」
「両極端でございますな」
「うんそうだ両極端だ。得てして血の気の多い奴は、こういう時代にはどっちかの端へ、とっ走って行くものさ。……それはとにかくわしとしては、昨夜隅田で駕籠を奪った手合いの、大将ともいうべき黒頭巾の武士に、逢ってみたいものとこう思うのだよ」
熊太郎はこういうと太い濃い眉、段のない高い素直の鼻、大きくはあるが厚くない唇、左の眼尻へ黒子を持った、切れ長でしかも大きくて、二重眼瞼の一種の鳳眼──そういう顔へ微笑を漂わせた。
「逢って、さて、どうなさいます?」
円い鼻、円い眼、おでこの額、よく喋舌る薄唇、顔の道具は綺麗ではないが、腹が綺麗で追従気がなく、それで熊太郎に愛されている男、それが清三郎という男であったが、そう云って熊太郎の顔を覗いた。
「逢って、さて、話すのさ」
「話してそれからどうなさいます?」
「その男の腹を窺うのさ」
「腹を窺う? 腹を窺う?」
「どういうつもりで田沼殿への駕籠を、何んと思って奪ったかとな?」
「進物駕籠でございますから、いずれその中には高価で珍奇な物が、入れてあったことでございましょうよ、そいつが欲しくて奪いましたまでで……」
「と単純に物を考える、だから幾年剣術をやっても、お前という人間物にならない」
「と早速お小言ですか」
「小言を云わないで抛って置いてご覧、お前という人間一人歩きさえ出来まい」
「烏の啼かない日和はあっても、先生の口から小言の出ない日和、まずもってあるものじゃアございませんな」
「嬉しそうにお前が聞くからよ」
「嬉しそうに先生がおっしゃるからで」
「お前への小言がなくなったら、毎日寂しいことだろうよ」
「今日はどんなお小言が出るかと、実は私としては心待ちに、毎日待っておりますので」
「今日は何回小言を云ったかな?」
「そこまで計算しておりませんなあ」
「いくらかでも小言が減るようにと、計算ぐらいはするものだ」
「ともうそれがお小言で」
「相手は名に負う田沼様への駕籠だ、その駕籠を暴力で奪ったのだ。与力同心を鞭打って、探しにかかるに相違ない、探し出されたら獄門磔刑、どんな極刑に処せられることか! ……そういう事は承知の上で、駕籠を奪った人物の腹、並み大抵のものではない。……」
「私としましては人の腹より、駕籠の中に何が入れてあったか、そっちの方が知りたいので」
「そいつは実はわしも知りたい」
「珍しく賛成なさいましたな」
「と図に乗るとまた小言だぞ」
こういう主従の朗らかな会話を、水色の勝った小振り袖を着、髪に浮き彫りの銀簪をさし、鈴の付いた塗りの駒下駄を穿いた、そういう姿の町娘が、少し肉が衰えて、頬のあたりなど削けてはいたが、濃い地蔵眉に鮠の形をした眼、それに玉虫のように紅をつけた唇、そういう美貌に微笑を湛えながら、その主従の背後から何んとなく足音を忍ばせて、ずっと以前からつけて来ていた。
行き交う往来の人々など、その娘の際立った風姿に、すき心を刺戟されたと見え、振り返ったり横目で見たりした。
娘はそういう人々に対し、年の頃は十九か二十歳の、見せつけがましい素振りをするには、持って来いという年頃なのに、そんな素振りは微塵も出さず、二人の話ばかりに気を止めていた。
「お前のいったように進物駕籠の中に、高価な珍奇な物品があって、それに眼がくれて奪ったというなら、単なる盗賊で面白くない。奪った人物もたかが知れてる。そうではなくて時のご老中、飛ぶ鳥も落とす田沼殿に対し、楯つくという意味において、ああいう所業におよんだとすると、政治上の意味も加わって、事件は非常に面白くなる。やった人物にも興味が持てる。……こっちのようにわしには思われるのだ」
黒羽二重の紋服に、裾長に白縞の袴を着け、表附きの下駄をはく──というのが熊太郎の嗜好だったそうで、今日もそういう姿であり、身長五尺八寸あり、肉附きよく色白皙、大酒を好んで顔赧ずめりと、文献に記してあるところから推すと、立派な体格だということが出来、そういう体格をゆらりゆらりとゆすり、福寿草や雪割り草の花などが、今日は一時に開くであろうと、そんなようにも思われる、暖かい陽の中を歩きながら、そう清三郎へ話しかけた。
と、不意に熊太郎の横を、ほとんどすれすれに擦りぬけて、それまで尾行けて来た町娘が、前の方へ歩み出たが、振り返ると頬へ靨をつくり、熊太郎へ笑いを投げ、今度は足早に歩いて行った。
熊太郎は女を見詰めた。
と、清三郎へ囁くようにいった。
「あの男を尾行けてみよう」
「あの男? どの男で?」
怪訝そうに清三郎は訊いた。
「銀簪を頭へくっつけ、赤と黒との井桁模様の帯を、だらりに結んでいるあの男だ」
清三郎は呆れ返り、
「先生ありゃア女ですよ」
「またお前小言が聞きたいと見えるな」
「…………」
「ほんとうの女が歩く時に、それも小走りに走る時に、ああ肩が水平でいるものか。女装をした男だよ。それも相当武術などに、たしなみのある男だよ」
その時女は山田屋と書かれた、暖簾が微風に揺れている商家の、角を曲がって右へ反れた。
「見失ってはならぬ、それ走れ」
──で、二人は曲がり角まで走った。
女は先を歩いていた。
半町あまりも歩いたであろうか、また女は家の角を、今度は左の方へ曲がった。
二人も従いて左へ曲がった。
こうしてごみごみした下谷の裏町の、露路や小路をあちこちと通って、娘が行き二人が追い、小半時あまりも時刻を経た時、槇の生垣に取り巻かれ、広い庭に厚く植え込みが繁り、その中に萱葺きの屋根などを持った、三棟ほどの風雅の家が、ひっそりと立っているという、茶人か遊芸の師匠などの住むには、うってつけともいうべき構えの前へ出で、厳めしくはないむしろ粋な、それでも冠木門の戸を押して、町娘ははいって行った。
少し遅れて戸ヶ崎熊太郎と、平松清三郎とが門の前に立った。
(さてこれからどうしたものだ?)
女装した男だということと、その男が何か意味ありそうに、笑いかけたということに、興味を持って尾行けて来たばかりで、他に深い理由がなかったので、さてこれからどうしたものかと、かえって熊太郎には見当がつかず、佇んでいるよりほか仕方なかった。
と、その時門をあけて、竹箒と塵取りとを持ちながら、庭男らしい中年の男が、ノッソリと外へ出て来たが、庭男などとは思われない、博徒か遊び人かそんな見当の男の、持っているような隙のない眼で、二人を睨むようにジロリと見たが、散り敷いている枯れ葉を掃き出した。
「ああ、ちょっとものを訊ねる」
熊太郎はこれ幸いと、何気なげに声をかけた。
「…………」
その男は無言で眼を上げたが、またジロリと一睨し、すぐに下を向いて箒を使い出した。
「いま美しい若い婦人が、この家へはいるのを見かけたが……」
「ありゃ当家のお嬢さんで……」
またジロリと睨みながらいった。
「お嬢様にご用でもあるんですかい?」
「いや、別に用と申して……実はな、拙者変な話ではあるが、ある人に嫁女を目附けてくれるよう、依頼されているのでそれでちょっと……」
「後を尾行けて来たっていうんですかい!」
「ナニ、尾行けて……後を尾行けて……」
「でなかったら文句はないさ」
「ところで……はなはだ……つかぬことではあるが……当家の商売……何んであるかな?」
「嫁貰いだから家の商売を調べる。なるほどこいつア順当だ。……そこでこっちも順当にいおうぜ……家の造作から推し計ると、ざっと茶の湯の師匠かな」
ズケズケとその男はいうのであった。
「茶の湯の師匠、おおそうか、実はな拙者無骨者で、これまで茶の湯を学んだことがない。……此処へ来たのも何かの因縁、入門をして学びたいが……」
「アッハハハ」
と庭男は笑った。
「嫁探しから茶の湯入門か、こいつアちょっくら順当じゃアねえが、こっちも商売、弟子が多けりゃア、悪い気持ちはしやアしねえ。……家へはいって師匠に逢い、相談ぶったがよかッぺえよ」
わざと田舎者の言葉を使い、冷笑すようにその男はいい、それでも案内をする気と見え、先に立って門をはいった。
つづいて熊太郎がはいろうとするのを、
「先生」と何んとなく不安そうに、清三郎は耳の側でいった。
「いいんですか、大丈夫ですか?」
うんというように頷いて見せ、熊太郎はズンズン歩いた。
二人の通されたは中央の建物の、ずっと奥まった部屋であった。
古びてはいるが貼り雑ぜの襖、脇床を持った床の間には、呉春の軸がかけてあり、部屋の隅に立ててある二枚折れの屏風、それには荻生徂徠の書が、落款も鮮かに記されてある。そういう部屋のたたずまいを、ノンビリした態度で見廻しながら、熊太郎は何らこだわらない様子で、悠然として坐っていた。
と、その時襖が開いて、前髪立ちの美貌の男が、高坏を捧げてはいって来た。熊太郎の前へ恭しく坐り、高坏を置いて座を辷ったが、どうやらその時片頬を歪めて、ニヤリと笑った様子であった。
その若衆が引っ込んだ後は、静かで寂しくて物音もなく、家の内陰々と凄いようであった。
(変だな)
と熊太郎は考え込んだ。
──茶の湯を学びたさに入門するという、そういう自分に高坏を捧げる。──ということも変であるが、早速に主人か、主人でなくとも、代稽古をする人間か、そうでなければ事務をとっている、その種の人間が現われて、応対しなければならないはずだのに、いつまで経っても誰も出て来ない。
(変だな)と思わざるを得なかった。
非常に長い時間が経った。
と、その時誰かこの家に、訪ずれたものがあると見え、迎えの声がかまびすしく聞こえた。
しかしその声も静まった時、一方の襖がわずかに開き、誰やらこの部屋を覗くものがあった。で、熊太郎は振り返って見た。
すると朗らかに笑う声がし、
「おお戸ヶ崎か、これは珍しい」
こういう声が続いて聞こえ、すぐに襖が一杯に開き、鶯茶の渋い十徳を着た、二十八、九歳の立派な人物が、笑みを含んではいって来た。
顔の色の美しさ、瑪瑙を白絹で包んだといおうか、底に仄かな赤味を持ち、しかもあくまでも白く艶あり、もうその顔色を見ただけでも、正しい血統の高貴の産まれだと、推察することが出来るほどであった。彫刻のような端正な眉目、年に似合わず禿げ上がりかかった、広い高い額など、容貌にはほとんど非の打ちどころがなく、髻を紫の絹の打ち紐で巻き立てているのも高尚であった。
その後から茵を捧げながら、例の町娘が従いて来たが、熊太郎を見るとテレたように微笑し、上座へ茵を手早く直すと、早々にして引っ込んだ。
「水戸様お館で逢って以来、かけちがってとんと逢わぬ。が噂は絶えず聞いていたぞ」
懐手をしたままいうのであったが、それが尊大には見えなかった。
「これは松平冬次郎様、意外も意外このようなところで……」
そのお方を一眼見ると、熊太郎はしたたか驚いたように、こういって畳一畳ほど辷り、平伏して動かなかった。
それまで熊太郎の傍らに坐り、不安そうにキョトキョト眼を躍らせ、部屋ばかり見廻していた清三郎も、師匠の真似をして畳を辷り、これもピッタリ平伏した。
「そう、戸ヶ崎かしこまっては困る。寛げ寛げ」
といいながら、冬次郎は床の間を背後に坐った。
「実は勘助からちょっと聞いた。後を尾行けて来たということだの」
「勘助? ははあ、ではあの女装の……女装の男は勘助殿とやらで」
もうすっかりおちついて、いずまいを直した熊太郎は、しかし十分敬意を払い、謹んだ言葉つきでそういった。
「彼奴賊での、勘助という」
「賊? ははあ、名は勘助?」
「が、今はわしの部下じゃ」
「…………」
「悪い手癖もやめている」
「…………」
「ついでにみんな明かしてしまえ。庭男のような様子をしていた男、あいつも賊で外伝という。……桑門の出だから面白いではないか」
「…………」
「小綺麗な若衆が出て来ただろう、あいつも賊で新助という」
「…………」
「わしの部下、相棒だ」
「奇矯におわしますあなた様ゆえ、どのような市井無頼の徒を、お手なずけ遊ばしても熊太郎、何んの不思議とも思いませぬが、しかし盗賊とありましては……」
熊太郎は苦々しく率直にいった。
が、冬太郎は磊落に、
「止めているからよいではないか」
「は、しかし……しかしながら……」
「まあ、よいよい」と冬次郎は、懐手をしたまま鷹揚にいった。
「それにしてもさすがは戸ヶ崎、勘助の女装よく見破ったな」
「何んでもない儀にござりました」
「それに反してあの勘助、江戸で名高い戸ヶ崎熊太郎を、知らなかったとは迂濶な奴じゃ」
「ハッハッ」と冬次郎は笑ったが、「他出から帰って来たわしに向かい、その勘助めこういうのじゃ──昨夜我々が決行しました事件を、二人の武士が下谷の往来を、批評がましく噂しながら通る、片腹痛く存じましたので、前へ廻って笑ってやりましたところ、後を尾行けて参りました。そこで屋敷へ誘き入れ、奥の座敷へ通し置きました。田沼あたりの廻し者、……ではあるまいかとも存ぜられます、とな。そこでわしは隙見したのさ」
「では昨夜隅田堤で……」
「勘定奉行の松本伊豆守から、田沼へ送った進物駕籠を奪った、悪戯者はこのわしじゃよ。わしと三人の相棒じゃよ」
「…………」
「ところがそういう悪戯をしたのは、決して今度がはじめてではないのだ。この一月の十五日にも、同じ松本伊豆守から、田沼へ送った献上箱と、『ままごと』とを途中に要し、奪ってやろうと企てたものだが、これはお前も名ぐらい知っていよう、十二神貝十郎という風変わりの与力に、妙なふうに邪魔をされて、半分がところしくじってしまった」
「田沼様への進物駕籠、何者の大胆が奪ったかと、不審しく存じておりましたが、それがあなた様と承りまして胸に落ちましてござります」
熊太郎は微笑し意味深くいった。
松平冬次郎とはいかなる人物か? 上州館林六万余石、そこの城主たる松平家へ、水戸家よりはいって家を継ぎ、幕府に仕うること五十余年、執政の期三十年、しかも生涯辞退に辞退し、禄を増すことわずか七千石、忠正にして甚だ謹謙、ために将軍家敬し憚り「西丸の爺」と称して名を呼ばず、安永八年七月二十五日、六十七歳をもって世を終るまで、さすがの田沼意次さえ、驥足を延ばすことが出来なかったところの、身分は遠い徳川の連枝の、松平右近将監武元卿の、妾腹ながらも実子なのであって、水戸家の血統を引いているだけに、尊王の念きわめて厚く、学も水戸派の正統を伝え、生涯に五度兵庫に下り、湊川に立ち寄って、朱舜水の文字を刻したところの、楠氏の墓の前に額いたと、そういわれている人物であり、しかも剣は上州間庭、間庭念流流祖の正統、樋口十郎左衛門に深く学び、無双の使い手であったという。
父の武元がそうであったように、この人も田沼一党を憎み、その子の若年寄の田沼意知を、佐野善左衛門が殿中において、私怨とはいえ討ち果たした時、善左衛門に同情して、その屋敷へ真っ先に駈けつけたのがこの人であるということである。
性奇矯磊落豪放、しかし一面洒落で風流、蜀山人だの宿屋飯盛だの、京伝などという文人と交際ったり、風流志道軒と話を交えたり、文魚だの焼翁だのというような、蔵前の大通と往来するかと思うと、不断に諸国へ旅をして、肥後へ行っては細川重賢、紀州へ行っては徳川治貞、米沢へ行っては上杉治憲、当時賢君と称された諸侯に、賓客のごとくあつかわれたが、わけても尾張の徳川侯とは、気心が合ったか非常に親しく、幾回となく訪ねたそうな。
香具師、博徒、遊芸の輩、そういう下級の人達とも、厭うところなく交際ったが、去る者は追わず来る者は拒まずの、この人一流の処世法が、そういう者どもにも懐かしがられ、それで集まって来たのであろう。
「冬次郎様」と熊太郎はいった。
「進物駕籠の中にありましたもの、どのようなものでございましたかな?」
「見せてあげよう、ちょっとお待ち」
冬次郎は立ち上がって部屋を出た。
間もなく冬次郎は帰って来た。
見ればその背後に年は二十歳、あるいはそれよりも若いかも知れない、武家の娘と一眼見れば知れる、清麗ではあるが艶冶ではなく、若いに似合わず着けている物に、赤色などのきわめて乏しい、年を経たならば烈女ともなろうか、真面目そうな娘を連れていた。
その娘を横に坐らせて、冬次郎は元の座へ直ったが、
「駕籠の中の主、この婦人だったよ」
いいいい癖の懐手をしたまま、熊太郎の顔を正視した。
「いいところへそなた来てくれた。この婦人を送って貰いたいものじゃ」
「送る? ははあ、どこへでござりますか?」
以前小石川の水府館へ、武術をお眼にかけるべく、お館の懇望で参上した時、このお方も座にあってはじめて眼通りしお話ししたが、その時も万事唐突に、ものをいったりものを訊ねたりして、相手の意表に出るという癖を、お持ちになっているということは、熊太郎も知ってはいたけれど、若い女を連れて来て、まだ紹介もしない先に、送って行けといわれたので、胆を潰さざるを得なかった。
「どこへと申してこの婦人の家へじゃ」
「お屋敷どちらでござりまするか?」
「松平越中守(後の白河楽翁公)殿のお長屋じゃ」
「神田北八丁堀の? ……」
「さようさようその通り、そこのお長屋の服部石見家へ、この婦人を送って貰いたいのじゃ」
「いと易い儀にはござりまするが、私がわざわざお送りしますについては、お送りいたす仔細を承りませねば……」
布衣ながらも一流の剣客、気軽で夜郎自大ではないが、時と場合にはうんと自重し、天下の副将軍と下世話にいわれる、水戸中納言家から招かれても、一応のところは断わって、再度の使者によって伺候したという、貫禄を備えた熊太郎であった。いかに相手が奇矯におわす、名門の御曹司であろうとも、素姓も知れず事情も解らない、一面識のそんな女を、送って行けといわれたところで、おいそれと引き受けることは出来なかった。
「もっともである。仔細告げよう」
冬次郎は頷いて眼を閉じて、考えるように沈黙した。
非常に複雑な事情があって、どこから話したらよかろうかと、その糸口を考えている──といったような沈黙であった。
「松本伊豆守が好色の田沼へ、賄賂として送った生贄、それがこの婦人なのだ」
ややあって冬次郎は口を切った。
「名は服部織江といわれる。桑名侯名代の服部半蔵殿の、ご一族の娘ごじゃ。……」
ここでまた冬次郎は沈黙したが、
「実はな、わしとしてはこのような婦人が、あの駕籠にいようとは思わなかったのじゃ。……わしは全然別の女が、あれにいるものと想像し……ままごと狂女! ままごと狂女! それがいるものと想像しそれであの駕籠を奪ったのだが──いやままごと狂女については、いずれ詳しく話すとして……この婦人を偶然救ったことについても、わしは大変いいことをしたと、今では喜んでいる次第じゃよ。……織江殿は不幸なお身の上での……さあ織江殿そなたの口から、ここにおられる戸ヶ崎殿へ、不幸なお身の上をお話しなされ」
こういって織江を見返った。
織江は低く頭を下げた。
「妾の父事服部石見、六十歳の老年ではござりますが、壮年より武術を好みまして、小野派一刀流では奥義を極め、三十歳の時皆伝となり、主家におきましても三指と綽名され、三本の指に数えられましたよしにて、老年になりましても時々参殿、大殿様や若君などの、お相手いたしましてございますが、何んと申しても老年のことゆえ、万事控え目控え目にいたし、目立たぬようにいたしおりました。しかるに……」
と織江は若い女としては、驚くばかりにハッキリした態度と、いうことだけはことごとくいう、無用の遠慮は決してしないと、そういってでもいるような、まことにすがすがしい口調とで──しかし様子はいかにも恭しく、細い白い抜けるような頸を、前にこごめて伏し眼をし、膝の上に寂然と両手を置き、熊太郎に向かって語り出した。
「しかるに今より半年ほど前に、田沼主殿頭様ご用人、三浦作左衛門と申す人より──父事日頃三浦殿と、往来いたしておりましたれば、九州浪人臼杵九十郎と申す、鐘巻流の剣客を、紹介いたし参りました。それゆえやむを得ずしばらくの間、屋敷に止宿いたさせましたところ、主家へ仕官させよとの懇望、しかるにわが父申しますには、そなたは無類の使い手にて、われなど到底およぶべくもなく、江戸に多人数名剣士ありとも、そなたにおよぶもの幾人もあるまい。なれどもそなたの業の中に、邪道の剣とでもいうべきか、相手の足をなぐ一手あり、これ我れの与せざるところ、彼の一手さえ封じたならば、主君へご推挙いたすであろうと、このように九十郎に申しましたところ、九十郎せせら笑い申しますには、足をなぐは我れの得意、得意の業を封じられては、虎の爪を失うごとし、貴殿にご推挙願うまじと、わが家を立ち去り行きましたが、間もなく田沼様に取り入りましたか、田沼様より我が君に対し、該九十郎を召し抱えるよう直接言葉添えありましたため、我が君この儀いかがのものかと、数人の侍臣に計らいましたところ、我が父押し切って異議申し立て、邪道の剣を得意とするは、心に邪まある証拠でござる、召し抱えご無用と申しましたれば、我が君にもその儀よかろうと、それとなくお断わりいたしました。しかるに九十郎このことを聞き知り、我が父を怨みお茶の水にて、討ち果たしましてござります。……わずかながらも我が家に止宿し、いわば食を食みたる九十郎、其奴に討たれしは下世話に申す、飼い犬に手を噛まれしも同然、無念残念と母をはじめ、兄範之丞も歯噛みいたし、復讐とげんと致しまして、九十郎の行方たずねましたところ、大胆と申そうか不敵と申そうか、遠く他国へ走ろうともいたさず、田沼様にいよいよ取り入って表面ての家臣となり、名を平戸九十郎と改め、同気求むる浪人を集め、田沼様警護にあたりおりますよし。これにはわが君もことごとく怒られ、田沼様方へ該九十郎を、お引き渡しくだされいと申し入れましたるところ、そういう名の武士当家におらねば、人違いでござろうと取り合わず……」
「ははあ」
とここまで聞いて来て、熊太郎はいささか驚いたようにいった。
「得意として足を薙ぐ九州浪人、臼杵九十郎と申す者でござれば、わたくしも噂を聞き知りおります」
「わしは知っておるばかりでなく、武州小川の逸見の道場で、その男と試合をしたことがある。しかも負けた」と冬次郎はいった。
「足を薙がれて見事に負けた」
「あなた様さえお負けなされた? では私なども……」と熊太郎は、渋面を作り不愉快そうにいった。
「いやそちは当代無双、まさかに負けはしまいと思うが……しかし、しかしだな、……どうであろう?」
「それに致しましても織江殿を、松本伊豆守様が進物駕籠などに入れて……」
と、熊太郎は話を横へ反らした。
「そいつだ」
と、冬太郎は憤ったような眼付きで、どこともなく睨んだが、織江に代わって熊太郎へいった。
「彼奴悪虐の臼杵九十郎、田沼めのご機嫌を取り結ぼうと、織江殿の美貌を吹聴し、手に入れるよう勧めたので、田沼め好色の本性を現わし、そういうことには慣れている同類、松本伊豆めに語ったところ、彼奴は田沼のひきによって、勘定奉行にまで経上った奴、弱味もあれば腐れ縁もあり、それに以前から『ままごと』だの、『お勝手箪笥』だの『献上箱』だのを利用し、女を献じた経験もあるので、得たりとばかり家来に命じ、織江殿が外出されたのを窺い、かどわかして屋敷へ連れて参り、昨夜駕籠に乗せて田沼のもとへ……」
「ははあさようでござりましたか。……それに致しましても越中守様は──さよう松平越中守様は、ご三卿のお一方、田安宗武卿の御子にましまし、桑名十一万石のご当主の御身、田沼ごときに抑えられ、家臣は殺されその娘はかどわかされ、しかも下手人の九十郎を、引き渡すよう掛け合われても、みすみす田沼に虚言をいわれ、どうにもならず引きさがるとは、腑甲斐なき儀ではござりませぬかな」
聞いただけでも腹が立つと、そういったように熊太郎は、冬次郎へ食ってかかった。
「駄目駄目、それが駄目なのじゃ。……彦根中将井伊直幸殿、侍従松平康福殿など、いずれも田沼の上席におわし、田沼を取って抑ゆべきを、かえって田沼に取って抑えられ、手も足も出せないでいるほどだからな。……越中守殿の現在では、田沼を取って抑えるどころか、楯つくことさえ出来ないのじゃ」
「大変な勢力でござりまするな」と、熊太郎は嘆息するようにいった。「田沼殿の勢力は」
「さよう」と冬次郎は頷いたが、今度は憤った眼付きではなく、期するところある希望に燃えた、玲瓏とした眼付きで熊太郎を見詰め、
「しかし田沼の没落は、もう眼の前に迫っているよ。その前兆は幾個かある」
「ははあさようでございますか」
「子の意知が殺された。これが前兆の一つだな」
「いかさま、御意にござります」
「今お噂の出た越中守様が、溜間詰めとおなりなされた」
「ははあ、さようでござりまするか」
「これも不如意のご家計の中から、田沼へ進物をされたからじゃ」
「越中守様ほどのお方さえ? ……」
「お勧めしたのはこのわしじゃ。田沼にご進物なさりませとな」
「…………」
「溜間詰めは閑職ながら、時に老中と政務を議し、時に将軍家の顧問となる、重要の地位ということが出来る」
「…………」
「この地位へあの卿を置いたことが、田沼没落の前兆の二つじゃ」
「ははあ、さようでござりますか」
「みんなわしの取り計らったことさ」
「ははあ、さようでござりますか」
「時に今夜織江殿を、屋敷へ送って貰いたいものじゃ」
「心得ましてござります」熊太郎は胸を打った。「私お送りいたしませねば、危険のように存ぜられます」
「取り返されては残念じゃからの──ではそれまで席を変えて、無頼漢どもに酌させて飲もうぞ」
その夜おそく一挺の駕籠が、その屋敷から舁ぎ出された。戸ヶ崎熊太郎と清三郎とが、駕籠の左右に附き添っていた。
それ以前から冬次郎の隠れ家の前に、内の様子を窺うかのように、佇んでいた武士があったが、駕籠が門から舁ぎ出されるや、素早く物蔭に身を隠した。
駕籠はしとしとと先へ進んだ。
立ち現われて見送ったが、
「ひょっとかするとあの駕籠に……そう、それに相違あるまい」
呟いて武士はなお見送った。
駕籠は辻を左へ曲がった。
ごみごみとした下谷の裏町、無数に露路や小路があって、それが縦横に織られている。
深夜なので家々はとざされ、燈火などはほとんど洩れず、月もなければ真の闇で、駕籠の先につけた提灯の火ばかりが、人魂のように揺れて見えた。
また駕籠は左へ曲がった。
とたんに覆面をした着流しの武士が、二人ほど行く手から来かかって、熊太郎と擦れ違ったが、素早く熊太郎の顔を覗いた。
「大変な奴が附いているな」
一人の武士が小声でいった。
「うん、戸ヶ崎熊太郎。……」
もう一人の武士が頷いて答え、当惑したように駕籠を見送った。
提灯の火に道を照らし、家々の門をぼんやりと明るめ、駕籠は先へ進んで行った。
神田の方へ行くのである。
右の方へ曲がったとたん、またも五人ほどの覆面の武士が、酔っているような足どりをして、よろめくように寄って来たが、駕籠脇の熊太郎の姿を見ると、ギョッとしたように一斉に反れた。
そうして行き過ぎた駕籠を見たが、
「大変な奴がついているな」
「神楽坂の先生と来た」
「鬼戸ヶ崎か、こいつ敵わぬ」
かたまって、佇んで囁き合った。
駕籠は先へ進んで行く。
行く手に辻のあるのを見て、熊太郎は駕籠を止めさせた。
それから辻まで小走って行き、右と左へ眼を配った。
闇ではあったが辻の左右に、相当多数の人間が、蠢いているのが感ぜられた。
駕籠の側へ帰って来た熊太郎は、駕籠の中の織江へいった。
「織江殿、どうやら田沼の手の者が駕籠につきましたようにござりますぞ」
「はい」
と織江は駕籠の中で、帰る時特に冬次郎から、手渡された長目の懐刀の柄を、砕かんばかりに握りしめたが、
「いずれそうあろうと存じました。……」
おちついた声でそういった。
「妾、覚悟をいたしおります」
「おい外伝。……これ新助。……」
熊太郎は二人へ声をかけた。
「へい、何んでございますか」先棒を担いでいた外伝がいい、「先生切り合いがはじまるんですかい」
と、後棒をかついでいた新助が、むしろ愉快そうに声をはずませていった。
「血煙り一番揚がるかもしれぬぞ」
「それじゃアそろそろ用意しやしょう。……おい外伝、剽軽者を出そうぜ」
「よかろう」というと外伝は、駕籠の戸を開けてのぞき込み、
「お嬢様、ちょっとお出しなすって」
「はい」というと用意して置いた脇差しを二本差し出した。
「それよ新助」
「おっとよし来た」
「久しく血を吸わねえこいつらだ、今夜こそ思うさま吸わせてやるぞ」
「女の肌のようにネットリとした刀身だ。男の肌へ食い込ませてやろうぜ」
「やろうぜ、ホイ」
「ホイ、あがりまアす」
駕籠が宙へゆらゆらと上がった。
神道徳次郎を頭とし、修験者崩れの火柱夜叉丸、浪人で悪の紫紐丹左衛門、女勘助に鼠小僧外伝、そこへ因幡小僧新助を加えて、天明の六人白浪といい、後世にまでも謳われた盗賊、その中の外伝と新助とが、切り合いよかろう腕が鳴らアと、勇み立っているのであった。
これらを率いた戸ヶ崎熊太郎、これは当代無双の剣豪、で、この一団に向かうもの、まずもって勝ち目はないものと、観念しなければならないだろう。
駕籠は進み、人も進んだ。
「清三郎」
と熊太郎はいった。
「そちは駕籠から離れてはならぬ。いかなる場合にも駕籠脇におれ。……危険迫らば大声をあげよ」
「かしこまりましてございます」
駕籠は進み、人も進んだ。
俄然小広い一廓へ出た。
数閃!
白刃!
闇ながら光った!
殺到して来た! 十数人!
「駕籠下ろせ! 塀に付けよ! ……離れてはならぬぞ! 汝らは守れ!」
こういった時には熊太郎、相手を迎えて自身一躍、すでに敵中に切り込んでいた。
「わッ」
「わ、わ、わ、わーッ」
と犬のような悲鳴!
倒れる者! 姿! 地響き!
空に輪を描く剣! 剣! 剣!
プーッと血煙り! 暗中ながら立って、生臭さ! 生臭さ!
ダ、ダ、ダ、ダ、ダーッ!
逃げる音!
見よ、すでに、戸ヶ崎熊太郎、飛び返って駕籠脇に立っていた。
地に蠢きノタウチ廻り、唸り、呻く、声! 声! 声!
が、シーンだ! 一時に寂然! 遙かに逃げのびた敵の姿、見えなくなって寂然となった。
いつか提灯も掻き消えて、黒一色の闇となった。
短くはあったが長く長く、感じられる時間が経って行く。
と、──
ジリジリと後方から……
また、──
ジリジリと左右の露路から……
敵の寄せる気勢が感じられた。
残心! すなわち、敵を斃し、なお心を敵に残し、姿勢を崩さず構えている態度!
熊太郎は残心、血に濡れた刀を、中段に構えてじっと静止、四方の気勢を窺った。
と、耳もとで囁く声がした。
「背後の奴ばら、近づきましたぜ」
外伝の声であった。
「先生、あっし達にもやらせておくんなせえ」
その間もジリジリと近寄る気勢!
「先生」
「やれ!」
「新助エーッ」
「合点だーッ」
足音!
足音!
混乱! 悲鳴! 太刀音! 太刀音! 烈しい太刀音!
「引けーッ」と戸ヶ崎熊太郎!
「先生、やったーッ」と帰って来た。
「切った──二匹!」と新助であった。
「駕籠やれ、先へ! 露路へ駈け込め!」
露路へ舁ぎ込まれた駕籠の先、三間の先に立った熊太郎、
「清三郎は後から続け! 三間の後から、駕籠から三間!」
前後左右から駕籠に迫る、敵の気勢が感じられた。
またも出た小広い一廓。──
ダ、ダ、ダ、ダーッと寄せて来る足音!
「駕籠下ろせ! 汝ら守れ! ……背後へ注意! 寄せつけるな!」
声が──そう──熊太郎の声が、遠退いて十間の彼方になった!
その時「エイ!」という同じ人の声!
つづいて悲鳴! 倒れる音!
「エイ!」
とまたも熊太郎の声!
つづいて悲鳴! 倒れる音!
「エイ!」
「エイ!」
と規則正しく、さながら薪でも割るごとく、聞こえる聞こえる聞こえる聞こえる!
しかも、何んと、ただの一合も、刀を合わせる音がしない。
鬼気! ──といわずして何んといおう! ……鬼気が声から迸って来る!
瞬間逃げ退く足音がしたが、忽ち後方から押し迫る、十数人の足音がした。
「セ、先生エーッ」と清三郎の悲鳴!
「清三郎オーッ」
と馳せ帰り、駕籠脇を駈け抜いた熊太郎、
「前へ! 清三郎! 敵はいぬ! ……なれども注意! ……」
ともうこの時は、後方の敵中へ切り込んでいたが、
「エイ!」
ドーッ。
間を置いて、そうして、規則正しく、前方の敵を切ったるごとく、倒す音が聞こえて来た。
切っては飛び退き、飛び退いては窺い、窺っては飛び込み、飛び込んでは切る!
闇中に多勢を相手にして、名人の戦う戦いに、これ以外の法があろうか!
刀を合わせて切り合ったならば、左右前後から引っ包まれ、乱刃に討って取られるであろう。……逃げ走る敵の足音!
それを見すてて引っ返したらしい、
「駕籠やれ露路へ!」
と熊太郎の声が、もう駕籠脇から聞こえて来た。
人間業とも思われぬ、あまりに見事の戦い振りに、恐怖を感じた外伝、新助、ガタガタ躯を顫わせながら、
「ヤ、やれ」
「イ、いそげ」
またも露路へ駕籠を舁ぎ込み、足を早めて走ったが、南無三また空地へ出た。
と、暗中から叫ぶ声がした。
「戸ヶ崎先生おいでなさるか?」
錆びた、艶のない、底の深い、しかし何らかに自信を持った、中年の男の声であった。
「拙者、平戸九十郎でござる。……平戸九十郎と申すものでござる。……」
「…………」熊太郎はものいわず聞き澄ましていた。
「見事のお腕前ほとほと驚嘆……お噂以上と見申した……」
「…………」
「これ以上切り合いをいたしましても……我らの手の者斃れるばかりでござる。……不愍に存じ申すゆえ……拙者とご貴殿と一騎討ちいたし……幸いにして拙者勝たば、織江殿頂戴仕る。……」
「…………」
なお熊太郎は黙っていた。
「拙者討たれればもはやそれまで……」
この時熊太郎は数歩進んだ。
織江を駕籠で送り出して、心寛いだ冬次郎は、居間にしている中央の建物の、利休好みの清楚の部屋で、一人しずかに茶を飲んでいた。熊太郎を相手に飲んだ酒が、まだ仄かに顔に残っている。
その時襖がひっそりと開き、勘助が艶かしい姿を出した。
「ご来客にございます」
「ナニ、来客? この深夜に。……誰じゃ?」
と冬次郎は眉をひそめた。
勘助は眼を踊らせたが、
「大変なお方でございます。……十二神貝十郎殿で……」
「ナニ、十二神貝十郎が来た? ふうん」
と冬次郎は考え込んだが、
「ともかくも通すがよい」
「はい」
と引っ込んだ勘助と入れ違い、三十五、六の立派な武士が、おちつき払ってはいって来た。
「懐中に十手持っているか?」
率然と冬次郎が声をかけた。
貝十郎は敷居の此方、襖を背にして佇んだが、
「懐中は無一物ご覧の通り」
と、袖をパッパッと叩いて見せた。
莞爾とした微笑が広い額、やや削けた頬、角張った頣、鈎のような鼻、薄い唇、そういう顔に漂っている。
「『冬の夜の、ふけて氷の割るる音、心しずかに、聞き澄ますなり』さてはこういう心持ちで来たか?」
「殿の出ようによりましてはな……」
「わしは松平冬次郎だ」
「右近将監様の御曹司、風流洒落の貴公子として、穏しく殿がおわすなら、私も京伝や蜀山人の伴侶、雅号蝸牛の舎の貝十郎として、『冬の夜は、囲炉裏こそよし、落葉焚き、酒の肴に、栗焼かむもの』風流のお話し致しましょう。ただし……」
といって来た貝十郎は、眼ににわかに光を持たせ、
「悪戯が余り過ぎますれば、懐中から十手出ましょうよ」
「まず坐れ」
「…………」
問答の間に女勘助が、こっそり敷いて行った座布団の上へ、袖口の細い無垢の小袖に、黒竹打ちの紐をつけた羽織、新形の小紋の中着の下に、白糸まじりの黒八丈の下着、大通の姿をフワリと乗せた。これがどうして安永、天明に渡り、牧野大隅守や曲淵甲斐守、名代の町奉行に歴仕して、悪漢からは鬼神のごとくに、市民からは菩薩のごとくに、恐れられ敬われた名与力、鬼十二神と思われようか。
相手の腹を探り合うかのように、二人はしばらく黙っていた。
庭からは夜風に木の葉の片寄る、サラサラという音が聞こえ、部屋の中には脇床に置かれた、藤四郎作らしい田家の形の、小形の香炉から香の煙りが、一筋立って揺れていた。
「貝十郎、用件は何んじゃ?」
ややあって冬次郎は穏かに訊いた。
「すでに済みましてござります」
貝十郎も穏かに答えた。
「用件が済んだ? いつの間にな?」
「ご門外にて済みました」
「…………」
「戸ヶ崎氏が警護して、駕籠一挺行くのを見かけ、用件済んだと存じました」
「何んだ詰まらない、そんなことか」
「殿にとりましては何んでもないことも、与力たる私にとりましては、重大のことにござります」
「十手は持たぬといいながら、与力になっているではないか」
「殿がそのように腹の中で、私を蝸牛の舎として扱かわず、十二神貝十郎として扱かわれる間は、私も与力でおりませねば……」
ここでまた二人は沈黙し、片寄る葉の音がひそやかに聞こえた。
「松本伊豆から田沼へ送った、進物駕籠を隅田堤で奪った、その下手人を俺と睨み、駕籠取り返しに来たというのか?」
ややあって冬次郎は詰問するようにいった。返辞によってはとる手段があると、そういった断乎とした決心が、語気の間に現われている。
「取り返しに参ったのではござりませぬ。確かめに参ったのでござります」
答えた貝十郎の声と態度は、冬次郎のそれとはこと変わり、洒々としてい、落々としていた。
「ただ確かめに参ったというか?」
「御意の通り、ただ確かめに。……与力たる身は事件あるごとに、その真相を確かめねば、一つには役目の落度となり、二つには自身安心いたしませぬ」
「駕籠を奪った下手人はわしじゃ。……どうだ貝十郎からめ取らぬか!」
「からめ取ること致しますまい」
「この冬次郎を恐れてか? ……この冬次郎、無位無官じゃぞ!」
「高位高官の人であろうと、罪あれば貝十郎許しませぬ」
「冬次郎に罪ないというか?」
「心お綺麗にござります」
「心が綺麗? が行為は?」
「連れて綺麗にござりまする」
「しからば貝十郎そちに訊くが」と冬次郎は一膝乗り出した。
「なぜこの冬次郎に楯突くか?」
「滅相もない儀にござります」と、貝十郎は胸を反らせていった。
「何んのあなた様に楯突きましょうや」
「なぜ田沼に使われおる?」
「いやこれとても滅相もない儀、田沼様はご老中、私は属吏、たかが与力、ただそれだけにござります。……お町奉行にこそ使わるれ、なかなかもちましてご老中様などに……」
「いうな!」と冬次郎は一喝した。
「田沼の屋敷へ伺候するではないか!」
「時々冬次郎様のお前へ出て、和歌、俳句、戯文につき、閑談いたすことと変わりませぬ」
「…………」冬次郎は貝十郎を睨むように見たが、慨嘆するような口調でいった。「田沼の屋敷に伺候する奴ばら、取り立て数うべきものもないが、ただそちと平賀源内とが、わしには惜しく思われるよ」
「…………」無言で貝十郎は一揖した。
香の煙りが流れて来て、二人の間に漂った。庭からはまたも夜風に片寄る、落葉の音が幽かに聞こえた。
「その源内の考案で、武蔵野の一所へ田沼めは、屋敷を造ったということじゃの」しばらくたって冬次郎はいった。「『東路に、ありというなる逃げ水の、にげかくれても、世を過ごすかな』俊頼卿のこの和歌から、暗示を得て源内は設計したそうじゃの」
「さよううけたまわっておりました」
「稲荷堀に広大の屋敷を造り、引き移ったは最近のこと、信州浅間の麓あたりに、他人の名義で自己の山屋敷を、造ったという噂も聞いておる。それにも飽き足らず歌枕の地、風光絶佳の武蔵野へ、異様の屋敷を造るとは、田沼の専横尋常でないぞ!」
「…………」
「そちその屋敷へ行って見たことあるか?」
「いまだ落成いたしませねば、参ったことはござりませぬ」
「数日中に落成と聞いた」
「その際お招きにあずかりますれば……」
「行く気か?」
「さあ、今より何んとも……」
「噂によればその屋敷、逃げ水のごとく遠くより望めば、巍々堂々と聳えて見えるが、近寄って見れば消えて見えず……不思議な屋敷だということじゃの」
「そのように私も承りおります」
「阿蘭陀好みの源内のことだ、寒暖計器や、震雷験器や、そんなものを発明した才能で、今度の屋敷も造ったのであろうが、造らせた田沼はその屋敷へ、何を住ませようとするのであろう?」
冬次郎はこういうと貝十郎の顔を、窺うようにじっと見詰めた。
見詰められても貝十郎は、我不関といったように、さも何気なくアッサリといった。
「あの仁のことでございますから、美しい女子に阿蘭陀衣裳でも着せて、住まわせるのでござりましょうよ」
「そうではあるまい」と冬次郎はいった。「そのような屋敷を造らせた田沼、何んでそのような平凡のものを、そのような屋敷に住まわせようぞ」
「ではいったいどのようなものを? ……」
「どのようなものを住まわせるか、それを知るのがそちの役目──与力のそちの役目ではないか!」
「御意。……しかし、私としましては……ただ今申し上げましたように、阿蘭陀衣裳を着せた女子ぐらいを……」
「違う!」と冬次郎は歯痒そうにいった。「人ではなくて物であろう!」
「…………」
「長崎の大通辞吉雄幸左衛門や、甲必丹蘭人カランスなどから、舶来の珍器を献上させたというが、その中には兵器や戎器……鉄砲や大砲や洋刀もあろう、毒薬もあろう媚薬もあろう、拷問機械、貞操帯、罪人に冠せたという驢馬仮面、そういうものもあるであろう」
「…………」
「そういう器具を蔵するには、そういう屋敷がふさわしい」
「…………」
「もちろんそちがいったように、美女も住まわせることであろう」
「…………」
「そういう屋敷が出来たとする。田沼はどなたをご招待するかな?」
「…………」
「さて、ところで、当将軍家様、病弱のお身が特にこの頃、病弱におなりなされたそうじゃ」
「…………」
「そこでそういうお屋敷などへ、ご保養などと申し立て、田沼めご招待申し上げ……」
「冬次郎様!」と貝十郎はいった。いって手を上げて押えるようにした。「もはやそれ以上申しませぬよう」
「なぜじゃ⁉」と冬次郎は眼を怒らせた。
「穿ち過ぎますよう存ぜられますれば……」
「そち田沼に贔屓するか!」
「いえ少くもあなた様が、松平越中守様をご贔屓なさるる、それよりは贔屓仕りませぬ」
「黙れ! 桑名侯越中守様は、賢にして仁、君子じゃぞ!」
「が、田沼様は積極主義の、大政治家にござります」
「彼奴は内々当将軍家を、廃人にするか死者にして、幼主を押し立て我意を揮わん野心……」
「あたかもあなた様が越中守様を、田沼様に代えてご老中とし、政治の実権握らんものと、野心おさおさ怠りなきがよう……」
「黙れ!」と冬次郎は立ち上がった。「この上申さば用捨せぬぞ! ……勘助勘助、刀をもて!」
次の間に控えていた女勘助、冬次郎の両刀を胸に抱き、襖を開けて走り出て来た。
冬次郎は刀をひっ掴み、柄に手を掛け眼を怒らせたが、
「直れ! 十二神! ……貝十郎!」
見て取って貝十郎は苦笑したが、懐中へ手を入れると白檀磨き、朱総の十手を引っこ抜き、膝の上へピタリと立てた。
「こう構えれば拙者は与力、幕府の役人にござります! ……たとえ名門におわそうと、殿は布衣、無位無官、拙者をお斬り遊ばしたが最後、謀反人とおなりなされましょうぞ!」
「謀反人承知! ……その舌の根!」
「殿様!」
ととたんに女勘助が、冬次郎の袖をあわてて控えた。
「あなた様にはお手の穢れ! 斬るならわたくしが斬りましょう!」
突然激しい嘲笑が、貝十郎の口から爆発した。
「お勘、アッハッハッ、女勘助、男とは見えぬ艶かさ、寛永寺の坊主など厭な眼をして、さぞ見送ることだろうな。……がそういう扮装をして、結構なお屋敷に住めるのも、この十二神が見て見ぬ振り、知って知らぬふりしているからじゃ! ……出娑婆るとみっしり喰らわせるぞ! ……殿!」
と冬次郎へ視線を送り、
「田沼様の罪悪お剖き遊ばすも、結構至極とは存じまするが、それには一段と確実なる証拠を……」
「そうだ」
といつか抜きかけた刀を、今は杖のように畳へ突き、それへ身をもたせて冬次郎は云った。
「それにしても獲たいはお浦という女! ままごと狂女のお浦という女! ……貝十郎、そち、行衛知らぬか⁉」
それには答えず貝十郎は、十手を懐中へ納めて立った。
「お別れに臨み一言ご注意。……先刻の駕籠を田沼の手の者、数十人して奪い返そうと、……」
「何?」と冬次郎は眼を見張った。
「この裏町の露路小路に……」
「いたというか! 何故早くそれを! ……」
「駕籠脇に戸ヶ崎氏おられましたれば……」
「危険だ、相手には九十郎がいる!」
「今頃斬り合っておりましょうか……」
「汝与力でありながら……」
「十手はしまいましてござりますよ」
「勘助来い! こうしてはおられぬ!」
数歩進み出た戸ヶ崎熊太郎は、暗中に眼を据え相手の姿、九十郎の姿を求めながら、
「うむ、貴殿九十郎殿か、拙者は戸ヶ崎熊太郎、一騎討ち承知、おかかりなされ」
云ってソロリと位置を移した。
空に星あってきらめくばかり、地上には闇が閉じこめている。
火事があって十数軒焼け、板囲いもせずそのままにして、日を経たという空地であった。周囲を囲繞して人家はあったが、そうして恐らくは家の人々、既に眼ざめているようではあったが、戸を開け覗いて飛び込まれでもしたら、一大事とあってひっそりと、眠っているように静まっていた。
闇の中に闇をひときわ黒め、中段に刀を構えている相手の──九十郎の姿が熊太郎に見えた。
熊太郎も中段、心押し静め、既に十数人斬り斃しながら、腕にも肩にもしこり一つ来ない、柔い体を柔く保ち、仕掛けては行かぬ「居待ちがけ」に、しっくりと構え呼吸を整えた。
徐々に左へ廻り込む、九十郎の姿が感じ見えた。
(来るかな?)
刹那疾風迅雷! 豹! さながら斬り込んで来た。
宛としてこれ大鷲の羽搏き! サーッと横へ熊太郎!
太刀音あった!
後は寂寥!
位置が変わったばかりである。
とはいえ無双の剣豪にして、この人と刀を合わせるもの──しかも相対の闘いにおいて、刀を合わせ得られるもの、江戸の一流剣客の中に、あるであろうかないであろうかと、そういわれている熊太郎と九十郎は一合したのである。
剣技の凄さ、これで知れよう。
(偉い)
と熊太郎は心中で思った。
(油断はならぬ。素晴らしい腕だ)
──思ったとたんにあたかも旋風、砂を巻くがごとき凄じさ、闇を突ん裂いて九十郎、自身も切られろと切り込んで来た。
音!
鏘然!
二合した!
しかも交叉して動かなかった。
暗中に剣が二本組まれ、鍔と鍔とが競り合いせめぎ合い、交叉した刀の間を通し、互いに相手を睨んでいる。
押せば押し返し引けば附け入る、粘りを持った鍔競り合い! 鍔競り合いの恐ろしさは、離れ際の一刹那にある。体形次第呼吸次第、胴を切られるか肩を切られるか、ダーッと腰車をぶっ放されるか!
(足を薙ぐ難剣の持ち主だ! 足へ来るぞ、足へ来るぞ)
熊太郎にはピーンと感じられた。
とまれ迂濶には離れられない、粘った暗中での鍔競り合いであった。
ダ、ダ、ダ、ダダーッとその瞬間、四方から九十郎の手の者が、駕籠へ殺到する足音が聞こえた。
「来たぞーッ外伝!」
「やれーッ新助!」
掛け声! 刃音! 悲鳴! 呻き声!
「先生エーッ、いけねえーッ、人殺しーッ」
と、清三郎の叫ぶ声も聞こえた。鍔競り合いで離れられない、その虚を狙って九十郎の手の者、織江を奪うべく寄せたらしい。
織江はさすがに小顫いしながら、懐刀を犇と握りしめていたが、
(駕籠から出た方が安全らしい)
扉を排してスルリと脱け出し、跣足のままで駕籠の背後に、しばらくの間佇んでいた。
身を引っ包む闇の中に、切り合い組み合い、追いつ追われる、無数の人影が渦のように見えた。
(逃げた方がいい、逃げて行こう)
織江は露路へ駈け込んだ。
家並みの片側へ体を寄せ、しばらく様子を窺った。
「いないぞ!」
「逃げた!」
「追え!」
「こっちだ!」
声々が聞こえ、足音がし、数人の武士の走って来るのが見えた。
(どうしよう?)
織江は懐刀を抜いた。
しかしピッタリ家の戸により、呼吸を詰めて動かなかった。
武士達は知らずに駈け抜けて行った。
空地では切り合いが続けられている。
その烈しい刃音掛け声を、道標にしてこの時ようやく、冬次郎と勘助とが駈けつけて来た。
「勘助、向こうだ、向こうの空地だ!」
一つの露路を先に立って、冬次郎は走りながら勘助へいった。
女装ながらも褄ひっからげ、勘助はその後から走って来たが、
「間にあいましたでございましょうか?」
「解らぬ、急げ、もうそこだ!」
空地へ出た。
渦巻く人影!
「戸ヶ崎氏、冬次郎参った!」
大音に叫んだ松平冬次郎、
「外伝、新助、しっかり致せ! 冬次郎参ったぞ! 冬次郎参ったぞ!」
「殿様アーッ」
と新助の声が応じた。
「必死だ、殿様アーッ、早くそっちから!」
「織江殿は? 織江殿は?」
「駕籠の中だアーッ」と外伝の声だ。「見てやってくだせえー、駕籠の中だーッ」
刃音! 人の渦! 叫喚! 悲鳴!
「勘助」と冬次郎は刀を抜いた。
「そち駕籠へ! 織江殿の介抱!」
「あい」
勘助は駈け出した。
「汝ら!」
と真っ向に刀を振り冠り、冬次郎切り込もうとした一刹那、
「ままごとやろうヨーッ」
という若い女の、異様な叫び声がつい手近の、露路の一つから聞こえて来た。
「お浦だ! お浦の声だ! ままごと狂女の!」
思わず叫んだ冬次郎は、振り冠っていた刀を下ろし、声の来た方へ眼をやった。
乱闘の場の剣戟叫喚、そういうものに関わりなく、狂女特有の締りのない、洞然としたうつろの声で、しかし何かに憧憬れるように、
「ままごとやろうヨーッ」
とまた聞こえた。
(お浦だ! お浦だ! 捕えなければならない!)
由縁ある家の娘だったであろう、顔も姿も美しく、狂女になっても品さえあり、卑しいところがないのであるから。
田沼主殿頭の色慾の犠牲、それに捧げられて「献上箱」に入れられ、「お勝手箪笥」「ままごと」とともに、松本伊豆守から送られた。そうして田沼によって穢されたばかりか、恐ろしい眼に逢ったのでもあろう。発狂して田沼家を出で、爾来江戸市中をああいって叫び、「ままごとやろうヨーッ」とああいって叫び、随所に出没するようになった。
将軍家治公病弱、田沼の屋敷へお成りになってからは──再々お成りになってからは、病弱の度いよいよ加わり、眼に見えて衰弱が烈しくなった。しかもそれでいていよいよますます、田沼の屋敷へお成りになろうとする! それでは何か田沼の屋敷に、そうまで将軍家を吸引する、特殊のものがなければならない。
阿蘭陀風呂だのギヤマン部屋だのと、そういったものが平賀源内だの、吉雄幸左衛門だのといったような、阿蘭陀好みの連中によって、造られているという噂もある。
どっちみち田沼の私生活は、豪奢で淫蕩で陰謀的で、罪悪的であることには疑いない。
田沼を弾劾し失脚させるには、そういう私生活方面の、的確の証拠を掴むことも、大いに必要あろうではないか。
それには幸いお浦という女が、狂女ながらも存在する。彼女は田沼の私生活の、余りにも恐ろしい毒にあてられ、発狂をした女なのである。
彼女を捕えて調べたら、田沼の生活の表裏の仔細、ことごとく知れるに相違ない。
──と感づいたのが冬次郎で、久しい前から苦心をして、お浦を捕え手に入れようとした。
出没自在の彼女であった。
捕えることが出来なかった。
それでも今年の一月十五日に、すんでのことで手に入れようとした。
ところが十二神貝十郎のために、邪魔をされて逃げられてしまった。
爾来行方の知れなかったお浦! それが今夜あらわれたのである。
(織江殿には戸ヶ崎その他が、ともかくも付いて警護している。まず大丈夫といっていい。……お浦を今夜逃がしては、いつふたたび逢えるかしれない。こっちの方を……)
と冬次郎は、咄嗟の裡に思案を定め、声の来た露路へ駈け込んだ。
ここも暗く闇であった。
が、闇ながらすぐ手前を、小走って行く人影が見られた。
「待て、お浦!」
と思わず呼んだ。
これが失敗の基であった。
声をかけられて驚いたらしい、狂女特有の小猿のような敏捷、それでお浦は走り出した。
(南無三、なろうか、逃がしてなろうか!)
冬次郎はまっしぐらに追っかけたが、お浦の姿は見えなくなった。
(残念、逃がしたか、どうしたらよかろう?)
地団駄を踏む心持ち! それで突っ立ち呆然とした時、すぐ横手の小路から、
「ままごとやろうヨーッ」
と聞こえて来た。
「お浦ヨーッ」
と嬉しさにまた呼び、冬次郎は一散に駈け込んだ。
その小路も闇であったが、鼻の先をお浦であろう、暗きが中に黒い輪廓を、影かのように印しながら逃げようとするのが感じ見えた。
「お浦!」
と躍りかかり引っ捕えた。
「あれーッ」
「お浦! お浦! お浦!」
嬉しさに抱いて締めようとしたとたん、何者か傍らに立つ気勢がして、
ピシリ!
「あッ」
手がしびれた。
放された袖を振ったであろう、お浦は脱兎さながらに逃げ、
「ままごとやろうヨーッ」
と逃げながら叫んだ。
「汝、何者! 卑怯にも不意打ち!」
「お手向かいご用捨くだされい!」
「その声は汝貝十郎!」
「ままごと狂女渡されませぬ。……いましばらくは渡されませぬ!」
「これで二度、よくぞ邪魔だて! ……しかも今夜は後を尾行け来て……もはや堪忍……死ね、十二神!」
飛びかかって切った!
空であった!
逃げて行くお浦と冬次郎との間を、へだてるように数間のあなたの、中間の闇の中に立ちながら、
「殿が間庭念流の達人でござれば、拙者は小具足腰の廻り、十手捕り縄の宝山流では、いささか名あるものにござる。……何んの易々討たれましょうや!」
「黙れ! 何を!」
と冬次郎、怒りを今は心頭に発し、刀を上段に振り冠り、ジリリ、ジリリ、ジリリ、ジリリ!
駕籠へ駈け寄った女勘助、
「織江様!」
と扉をあけた。
「藻抜けの殻! ……さては逃げたか!」
(どこへ?)
手近に露路があった。
(あるいはこっちへ?)と盲目滅法に、駈け込んで勘助は声高に呼んだ。
「織江様アーッ、織江様アーッ」
呼んで走り、走って呼んだ。
突然答える声がした。
「織江はここに! ここに織江は!」
織江はこの時一軒の家の、門口に佇んでどっちへ逃げようかと、思案に耽っていたのであったが、聞き覚えある勘助の声で、「織江様アーッ」と呼ばれたので、思わず返辞をしたのであった。
が、返辞をしたとたんに、──切り合いの場からはかなり距たった地点の、この境地ではあったけれど、四辺何んとなく騒がしく、駈け行く人、駈け来る人の、足の音など慌しいので、この家の人も眼を覚まし、門口の戸を細目にあけて、外の様子を窺っていたらしく、細目に開けられた戸の隙から、糸のように燈の光が射していたが、──返辞をしたそのとたんに、ガラリとその戸が大きく開き、
「あなた織江様?」
という女の声が聞こえた。
「はい」
と振り返った織江の眼に、家内から射している燈火を背負った、粋な女の年増姿が見えた。
「では、織江様おはいりなされ」
「はい、でも、どなた様やら」
「恐かアないよ、こうはいるものさ」
「あれ!」
グルグルと年増女の手が、瞬間織江の咽喉へかかり、争う間もなくグーッと締められた。
小太刀を使わせては相当の技倆、その織江ではあったけれど、不意ではあり油断もしてい、躯も疲労れていた上に、相手の女の締めの業、冴え勝れていたからであろう、抜き持っていた懐刀を、まずボッタリと地へ落とし、織江はフーッと気を遠くした。
ズルズルと引っ張り込み、門の戸ピッシャリ閉ててしまうと、気絶している織江の躯を、女は奥へ抱いて行った。
後は寂!
カーンとしていた。
が、すぐに声が聞こえた。
「この辺から返辞が来たんだが、変だなア、いやアしねえ」
駈けつけて来た勘助が、家の外の道をウロウロと、今頃になってさがしているのであった。
その恐ろしかった切り合いの夜から、二日経った日の午後である。
一軒の家から河東節の、水調子の音が洩れて来た。
〽なくより外の琴の音も、二十五絃の暁に、砕けて消ゆる玉菊の……
享保十一年三月に死んだ、新吉原中万字屋の名妓玉菊、その三回忌の追善供養に、竹婦人の作った水調子で、揚屋町なる三味線弾き、河栄というものの宅において、十寸見蘭洲が語って以来、有名になった曲である。
女の声で仇めいていた。
ここは下谷の裏町で、二日前の夜乱闘のあった、あの場所から相当離れている、そうしてひっそりと落着いている、そうして格子作りの家などが、生垣などで隣家と境いし、並んでいるというような──ざっと中流以下の人が、隠し女を囲って置くのに、うってつけとでもいいたげの、そういう場所の一軒から、「玉菊」は聞こえて来るのであった。
階下が三間に二階が二間──そのくらい間数はあるらしく、裏に小広い庭があって、茶の木と八ツ手などがあしらってあり、それを囲繞いて一間の竹垣──などがあろうと思われそうな家で、白っぽい午後の陽が表の格子戸に斜めに明るく射していた。
「お吉っつぁんがまた弾き出したよ。玉菊ばっかり弾くじゃアないか」
向かい合いの家の井戸端で、三人のお神さんが噂していた。
「きっと旦那が来ているんだよ」
「粋だが凄味の旦那さんだねえ」
「お吉っつぁんとは似合いってものさ」
「お武士さんを旦那に持つもいいが、一つ間違うと先夜のような、切り合い果たし合いになるんだから、お武士さんてもの何しろ恐いよ」
「お吉っつぁんの旦那もお武士さんだが、機嫌を取るにむずかしいだろうねえ」
そこへ美しい町娘が、長い袂を胸に抱き、何気ない様子に来かかったが、
「ちょいとお尋ねいたします」
といった。
お神さん達は娘を見た。
品のある若い美しい、綺麗な身なりの娘なので、互いに顔を見合わせた。
「向こうに貸家札の張ってある家、家主様はどこなのでございましょう?」
こういって娘は指さした。
河東節の三味線の鳴っている家の、すぐの並びに同じような家が、なるほど雨戸に随分古びた、貸家札を貼って立っていた。
「あの家借りるならおよしなさいまし」
と、お神さんの一人が口を出した。
「ありゃアお前さん、化物屋敷なのだよ」
「化物屋敷、まあ恐い」
娘は大仰に身顫いして見せた。
「一年も二年も借り手がつかないので、家主さんすっかり参っているのさ」
と、もう一人のお神さんが嚇すようにいった。
「まあまあ恐うございますこと」
「不意に夜女の悲鳴がしたり、髪を振り乱した若い女が、スーッと雨戸から出て来たりして、とても凄いっていうことだよ」
と、別のお神さんがまた嚇すようにいった。
「まあまあ厭でございますわね」
「借りるなら他の家借りた方がいいねえ」
「それでは他の家を借りることにしましょう」
娘は穏しくそういって、行きそうにしたが足を止め、
「先夜少し向こうの方で、恐ろしい切り合いがございましたわね」
「あったあった大変だったよ」
「あのう、その時武家のお嬢さんが、そこからこの辺まで逃げて来て……」
「へえ、そんなことありましたかね」
「この辺で姿が見えなくなったそうで」
「へえ、そんなことありましたかねえ」
「ご存知ないんでございますか?」
「知りませんねえ、初耳だよ」
「化物に食われたんじゃアないだろうか」
別のお神さんが眉をひそめながらいった。
娘は耳を澄ますようにしたが、
「河東節の水調子、玉菊を弾いておりますのね」
「お吉っつぁんというお妾さんだよ」
「綺麗に弾いていなさいますわ」
「あればっかり弾いているんだもの、上手にだってなるだろうよ」
別のお神さんがひやかすようにいった。
「ご免くださいまし」
と挨拶をして、町娘はそこを離れた。
それは女勘助であった。
あの夜織江を探して来て、この辺で返辞をする声を聞いた。が、駈けつけて来た時には、織江の姿は見えなかった。
家の方へ人をやって訊ねたところ、帰って来ないということであり、服部家はそのため上を下に、大騒ぎをしているということであった。
(どうも変だ)
と勘助は思い、もう一度様子を探ろうものと、こうして出かけて来たのであった。
お吉という妾の家の前を通り、貸家札の貼ってある家の前に立った。
(化物屋敷とは笑わせるな)
こんなことを思いながら佇んだが、やがて裏の方へ廻って行った。
神棚の祭ってあるお吉の家の茶の間に、九十郎は寝そべっていた。
〽翼休めよ禿松、茂みにからむ忍び草、
ひょいと胴を膝から外し、お吉は三味線を押しやった。
「あたしゃア玉菊の意気が好きさ」
台から猪口を取り上げて、受け口でひどく仇っぽいが、少し大形の唇へあてた。
「あたしの肌へ灸をすえるんだよ、沢山の色餓鬼に見せてあげようッて、摺り物を配って人を集め、店の女郎を惣仕舞いにし、吸物酒肴本膳まで出し、すえている間半太夫、河東の、二人に浄瑠璃を語らせたっていうが、ご大相もない意気じゃアないか」
飾り気なしに銀簪を、根深くグッと一本だけ差し、それへグルグルと巻きつけた髪が、細面の顔に似合って見え、藍の竪縞の広袖で、痩せぎすの躯をフックリと包み、腰をくねらせての横坐り、酒で身内がほてると見えて、胸もとを少しはだけているので、綺麗な肌が覗いて見える。そういうお吉は二十八、九か、もう少し行っているかもしれない。
いいいい猪口でまた唇をぬらした。
「昔の大籬の女郎って奴、おおよそご大相な見得と見識とを、持ってもいたが見せつけもしたものさ」
九十郎は寝たままそういって、湯呑みを引き寄せグッとあおった。白湯ではない酒なのである。
太い髷の総髪であった。二、三日剃刀をあてないと見えて、もみあげから頣へかけじじむさそうに、髭が薄黒く隈取ってはいたが、細くスーッと切れ上がった眼、高く長く通った鼻、薄くしっかりと結ばれた口、どうしてなかなかの美男であった。
「あちこち手傷負っているというのに、そう飲んじゃア悪かろう」
剃った眉の跡の青い額へ、小皺を寄せてお吉はいった。
「傷がヒリヒリ痛むから飲むのさ。酒で痛みを消すってやつさ」
いかさま、お吉の丹前であろう、紅裏のついた丹前を、身長は並み、肉附きは以下──中肉以下に痩せていて、精悍さを想わせる体の上へ、肩からかけて羽織っていたが、それからむき出した左足に、白衣が二ところばかり巻いてあった。
二階でゴトゴト物音がした。
「また鼠め騒ぎ出したな」
いって九十郎は天井を見上げた。
「へ、やっぱり苦になると見えるね」
男の方へ睨むような、たしなめるような横眼をくれ、いくらか体をシャンと立て、気まずそうにお吉はいい、
「上がって行って叱っておいでよ」
「それよりお前こそお隣りさんへ行って、化物へお斎でも供えて来な」
九十郎は薄笑いをした。
「化物だから干乾しにもなるまい。……お前、鼠をどうする気なんだよ?」
「まあもう二、三日ああして置こう」
「送ってしまったらいいじゃアないか」
「どうせ送ることは送るんだが……」
「お前、すこうし変な気になったね」
睫毛の厚い、黒味の勝った、そうして白味の蒼澄んで見える眼、その眼でお吉は男を睨んだ。
「味な気になったねえということさ」
「いやどうしまして、そうでもない」
真ん中どころを射あてられたので、テレて九十郎はとぼけたようにいい、小さな赤い提灯によって、飾られている部屋の隅の、稲荷の神棚へ視線を投げ、
「稲荷め、ほんとに験のない野郎だ、あちこち掠り傷負わしゃアがった。……痛い! チクチク! こん畜生! ……もう拝んでやらねえぞ」
「そこで弁天様へ宗旨変えかえ」
「でもないということにして置こう。……弁天様へなど宗旨変えしたら、お吉様という荒神様が、滝夜叉の本性を現わして、印を結んで八擒十縛、揉み立て揉み立て苦しめましょうからね」
「荒神様はないでしょう」
お吉はもう一度睨む真似をしたが、
「滝夜叉姫もないでしょう。……あたしゃア玉菊のお吉でありんす」
「ありんすという遊里言葉、こいつを聞くと思い出すな」
「何を主は思い出しなさんした」
「と、だんだん嬉しいことになるが、実はお前が河岸店に坐って、ぼんやりことしていた姿ってやつが、ひどく俺らのすき心を煽って、つい格子先へ寄って行くと、こういうご縁になる前兆か、ヒョイと立って来て突き出したは煙管、雁首で袖の辺をがんじ搦み、お上がりなんしと来やがったので、お上がりなさって縁を結んだが、そいつを思い出したっていうことさ」
「三十三軒の河岸店に、三百二十八人の女郎、その中でもあたしゃア二つ星じゃアないが、入山形の方だったのさ、それだのにお前という悪がついたため、売れなくなったの夥しさ。そのあげくに足ぬきまでして、こうした薄っ暗い借家住居、並たいていお前へ尽したことじゃアない。粗末にすると聞かないよ」
「ともう早速恩にかけか。ナーニ俺らが智恵をつけて、あそこを足ぬきさせなかろうものなら、だんだん下がって三日月長屋、あの辺へ出てごろん棒や折助、そんな野郎の玩具になり……」
「何をいうんだい置いてくんな、三日月長屋って馬鹿にするが、あそこの柏屋にゃア一枚絵に出た、お仙さんだっていたんだよ」
「お仙はお仙、お前はお前、まあいいやな、そんなこたア。……」
いって意味ある笑いを見せた。
で、お吉もニヤリとした。
丸窓に陽があたっていて、小枝の影が映っていて、まぐれた渡り鳥の山雀らしい、来て止まったもののすぐ飛んでしまった。
「それじゃアあたしゃア化物様へ、お斎を供えて来るとしようよ」
思い出したようにこういって、胸もとの辺へ風を入れ、顔を横向けてお吉が立ち、台所へちょっとはいって行き、そこから下駄をつっかけて、歯音を立てて出て行ったのは、それから随分経った後で、その歯音の遠ざかるのを待ち、九十郎も立ち上り、廊下へ出て梯子段をあがった。
二階の一室に織江がいた。
顔蒼褪め眼落ち窪み、髪はほぐされて束ねられている。
あの夜この家のお吉のために、首を締められて気絶をし、蘇生した時には手足を縛られ、この部屋へ抛り込まれていた。
その上その時には九十郎がもうこの家へ帰って来ていた。
縄は解かれたが窓には格子、階下へ行っても九十郎がいる、逃げることは出来なかった。
「声をあげれば用捨なく切るぞ!」
九十郎によって嚇されてもいた。
親の敵の九十郎! 討たねばならぬ九十郎! 其奴のために捕えられ、この恥辱を受けているのであった。
「織江殿」
といいながら、九十郎がはいって来た。
「…………」
無言で織江は睨みつけた。
「睨んだ顔も美しゅうござる」
いいいい九十郎は少し間を置き、織江の前へ図々しそうに坐った。
「今度の災難もことごとく、そなたの美貌から起こったことでござるよ」
事実相違でもないのであった。
服部家へ寄食した。と娘の織江の美貌が、彼の好色心をそそのかした。そこで彼はあたって見たところ、烈婦の気性ある織江であった。「食客の身分で無礼千万」と、剣もホロロにたしなめた。
彼女の父石見からは、足を薙ぐは邪道の剣と、こういわれてたしなめられ、娘には恋を拒絶された。これが彼をして石見を殺し、織江を田沼の生贄にするべく、策を施した理由なのであった。
が、事件が紛糾して、織江が自分の妾の家へ、こんな塩梅になって捕えられて来た。
(千載一遇、とげようと思えば、俺の思いはとげられるぞ)
それで織江を田沼のもとへ容易に送ろうとはしないのであった。
とはいえ烈女型のこの織江が、父の敵である人間の意志に、易々従うであろうなどとは、九十郎といえども思っていず、結局は……と思ってはいるのであった。
それにはお吉が邪魔であった。
(やるなら留守にだ)
と思っているのである。
そうはいうもののお吉に対し、人情も感じ義理も感じていた。
隅田堤で進物駕籠を襲い、織江を奪い取ったもの、松平冬次郎に相違なく、その冬次郎の隠れ家は、下谷の裏町だということを、田沼主殿頭に知らせたのは、役目柄そういう方面のことには、精通している十二神貝十郎で、そう知らされると主殿頭は、即刻冬次郎の隠れ家を襲い、織江を奪って来るようにと、九十郎に命を下した。
かしこまって九十郎は部下を率いて向かった。
と、意外には戸ヶ崎熊太郎が、織江の駕籠を警護して来た。
その結果悪戦乱闘となり、その隙に織江は逃げてしまった。
織江に逃げられては仕方がない。──こう思って九十郎は熊太郎の剣を、辛うじて引っ外して修羅場を遁がれ、お吉の家へ逃げ込んだところ、思いもよらず織江がいた。
「どうしたのだ?」
と訊いたところ、
「お前さんが部下を引き連れて、織江とかいう武家の娘を、取り返すためこの界隈の、冬次郎とかいう人の隠れ家を襲う──ということをお前さんの口から、前もって妾ア聞いていたから、どうなることかと心配していると、近くで切り合いがはじまったという、いよいよやったねと気にかかり、土間に立って様子を聞いていると、誰とも知れず露路の向こうから、『織江様アーッ』と呼ぶ声がし、それに答えて門口の向こうから、『織江はここに、ここに織江は』と、そういう声がするじゃアないか。さては織江とかいうその女、切り合いの場所を遁がれ出て、こんなところへ来たと見える、捕えてやろうと出て行って、首を締めて気絶させ、縛って二階へ抛り上げたのさ」
と、そうお吉はいったものである。
「素晴らしい気転だ。立派な手柄だ」
と、九十郎は礼をいったが、そういう義理がお吉にあった。
そういうお吉のいない留守に、いかに何んでも暴力をもって、織江を自由にするということは、九十郎にも気がさすのであった。
(宝の山に入りながら、手を空しゅうするというあいつだな)
織江の窶れてかえって病的に、美しく見える姿を見ながら、そんなことを九十郎は思うのであった。
「織江殿、その通りなので、今回の事件はそなたの美貌が、原因となっておりますので」
ジワジワと九十郎はやり出した。
「そなたが美貌であられたにより、拙者が煩悩をおこしたまでで、そこでそなたを口説いたところ、見事にことわられてしまいました。で復讐したまでで」
無精髭の生えている頬から頣を、掌でソロソロ撫でながら、上眼を使って織江を眺めた。
ふっくりとした豊かな胸、碗形をしたなだらかな肩、象牙を思わせる滑らかな頸、いかにも処女らしい織江であった。
「こうなった以上は織江殿……田沼殿によってか拙者によって……どっちみち、ハッハッハッ、どっちみち……厭な思いを味わわねば……これは十分そなたにおいても、ご覚悟なされねばなりませぬぞ」
こういって来て九十郎は、
(俺はこれまでいろいろの女を……しかしここにいる織江のような……いや全く立派なものだ! ……処女というやつ、美しいものだなア)
感心さえもされるのであった。
ふっとお吉と比べて見た。
(比べものになんかなるものか!)
「田沼殿はお偉い方じゃ。それはもうもういう必要はない」
九十郎はいい出した。
「国を左右しておられるのだからの。……が、しかし老人でござる。……老人というもの厭らしいもので。……それに反してこの拙者、ご覧の通りまだ若い。……もっとも偉くはござらぬが。……偉いを取るか若いを取るか? ……こいつ全く考えものでござるて。……拙者が女なら若い方を取ります。……そこでそなたにおかれても……」
いって来て九十郎は馬鹿だな! と思った。
(俺はこの女の親の敵だ! なま優しい口説などしたところで、何んのこの女が聞くものか!)
で、黙ってまたジロリジロリと、織江の躯を見上げ見下ろした。
織江は一言も返辞せず、肩を縮め身を堅くし、無念に据えた鋭い眼で、刺すように九十郎を睨んでばかりいた。
彼女の心は決していた。
九十郎の手が身体に触れたら、その瞬間に舌噛み切って死のうと。
争って勝てる相手ではなく、身を穢されて生きていられる、相手でないことはいうまでもなく、そういう相手に迫られた場合、とるべき手段はただ一つ、穢されない前に死ぬことであった。
(こんなことをクドクドいうところを見ると、俺はすこうし酔っているかな?)
九十郎はテレてこんなことを思った。
(それもあるがもう一つ、完全に女を捕虜にしてしまった。逃げられるようなことは全然ない。そこでこっちの心がおちつき、相手をからかうという心持ちに、いつの間にかなっているからさ)
(よし、ゆるゆるからかってやろう!)
「織江殿」
と九十郎はいった。
「そなたは兄上範之丞殿と共々、拙者を敵として狙っているそうで、……では見事にお討ちなされ」
提げて来た刀を差し出した。
キラリと織江の眼が光った。
刀がある! 眼の前に!
そうして眼の前に敵がいる!
キラリと織江の眼が光った。
が、それは一瞬間で、次の瞬間には織江の眼は、力なく伏せられて膝へ落ちた。
何んたる大胆、狙う女の前へ、刀を差し出して自分は無手だ!
この九十郎のやり口が、織江を圧伏したからであった。
「いかがでござるな、織江殿、拙者を討つことなりませぬかな」
「…………」
「アッハッハッハッ、討てますまいよ」
「…………」
「そなたばかりか範之丞殿にも、拙者を討つことなりますまいよ」
眼を上げて織江は九十郎を見た。
「範之丞殿にはあの通りの病弱、学問の方は素晴らしいが、武道にかけてはからきし駄目じゃ」
織江はいおうとして口を動かした。
それを抑えて九十郎はいった。
「それで討てぬということもあるが、もう一つ討てぬ訳がある」
「何んのあろうか! 何んのあろうか!」
はじめて織江は必死の叫び、血を吐くような声で叫んだ。
「きっと討つ! 討たいで置こうか!」
「それが討てぬて」
と憎々しく、九十郎はグイと片膝を立て、無礼にも六尺のタレを見せた。
「拙者、田沼殿、家臣じゃよ」
「それが何して! それしきのことが!」
「と思うのが世間知らず、箱入り娘のうといところさ。……うふ、田沼殿のご勢力はな、稲荷堀のお屋敷を造られた時の、忍侯の態度でも知れるというものさ。……忍侯の別邸稲荷堀にあり、そのお隣りが田沼殿の屋敷、その田沼殿どうぞやして、もっと屋敷を広めたい、と思ったが自由にならぬ、ところが忍侯松平正敏様、田沼殿のお心を推察して、屋敷地献じようと思ったが、こいつもどうにも自由にならぬ、官規がそいつを許さぬからよ。ところがここに粋なことが起こった。何かというに剽軽者の火事で、二軒の屋敷を焼いてしまった。得たりとそいつへつけ込んだのが、忍侯の松平正敏様で、屋敷地を官へ返上したものさ。とはたして将軍家から、その地を田沼殿へ賜わった。ハッハッハッ、どんなものだ、欲しいといえばきっと得られる、ならぬといえば出来ないことになる、これが田沼殿のご勢力よ! その田沼殿仰せらく、桑名侯松平越中守の家臣、服部石見の忰と娘、余が家臣平戸九十郎を、親の敵として狙う趣き、ならぬならぬ討つことはならぬ! ……で、そうなるというものさ! ……だからよ俺は安穏に、逐電もせずに江戸に住み、こんなところにゴロゴロしているのだ。……アッハッハッ、討てたら討て!」
ゴロリと九十郎は寝そべった。
天井を向き傷のある足を、繃帯を見せてピンと立て、両手を頭の下へかい、薄笑いをして眼を閉じた。
織江はそれを見詰めていたが、投げ出されてある刀の方へ、ソロリと膝を押し進めた。
九十郎は眼を閉じている。
織江はソロリと手を延ばした。
抜き打ち!
「敵!」
肩を目掛け、
「これでも討てぬか!」
サーッと一太刀!
「あぶねえ!」
足だ!
足でダーッ!
化物屋敷の奥の部屋に、ままごと狂女のお浦がいた。
これが化物の本体なのである。
雨戸がビッシリ閉まっていて、高いところに開いている窓から、わずかに日の光が射して来ている、古びた畳の、破れた襖の、この部屋は宵のように暗かった。
そういう部屋の一所に坐った、十九ぐらいのお浦という狂女は、誰が着せたものか振り袖を着ていた。髪も結綿に取り上げられていた。
正気であったその頃には、まあどんなに美しかったろう? そう思われるほど狂気している今も、美しく愛くるしく気高くさえあった。柘榴の蕾を想わせるような、小さい、赤い、ふっくらとした唇は、見る人の心を恍惚とさせよう。
彼女の前に玩具があった。
男の人形が二つあり、その横に長方形の木箱があった。
この箱がすなわち「ままごと」なのである。否「ままごと」の模型なのである。
こう文献に書いてある。
「吉原町に『ままごと』といふ音信物を調へる家ありし由。之れは五尺程の押入小棚様の物出来、その中に飲食物、吸物、さしみ、口取、その外種々の種料より庖丁、爼板までも仕込みあり。花月の夜、雨雪の窓を開けば、忽ち座を賑はすため、権家へ送与して媚を取るの具なるが、大抵七、八両より十四、五両までの値段なりし由」と。
でもここにある「ままごと」は、二尺ぐらいしか丈がなかった。
「うえ様ままごとやりましょうヨー」
甘えたような、思慕にたえないような、そういう声でお浦はいって、箱から碗、皿、銚子、杯、箸などを次々に取り出した。
拾い集めたものであろう、どれもこれも粗末なもので、穢れてもい、欠けてもいた。
畳の上へ綺麗に並べた。
と、お浦は一つの人形を、大切そうに取り上げて、──その人形も一尺足らずの、鼻や額のところどころ欠けた、醜しい粗末なものであるが、大切そうに取り上げて、ご馳走の向こう側へそっと坐らせた。
そうしてその前へ杯を押しやり、それへ銚子の酒を注いだ。
でも何んにも出て来なかった。
「さあ、上様召しあがりませ。お浦がお酌をいたしました」
が、突然手を上げて、別のもう一つの人形を撲った。
「お前は嫌い、田沼の爺!」
撲られた田沼主殿頭は、二尺あまりケシ飛んで、古畳の上へひっくり返り、ポカーンと天井を睨み上げた。
お浦は杯を自分の前へも置き、それへ自分で酌をした。
酒も水も出て来なかった。
でも満足して口へあてた。
「上様、あなたはお気の毒なお方、瞞されているのでございます。田沼に、ええ、田沼の爺に! ……妾は生娘ではなかったのです。……妾の生娘は田沼めが……だのに上様はご存知なく、妾を可愛がってくださいました」
お浦は両袖で顔を蔽うた。
肩が小刻みに顫えているのは、思い出して泣いているからであろう。
袖を取ると彼女は笑い出した。それを見ただけでもこの娘の、心の清らかさが想像される、澄んだ、大きな、弦月形の眼から、涙の紐を頬に引きながら、嬉しそうに笑い出した。
「上様は可愛がってくださいました……紗のような天蓋が蔽うていて、忍びやかに匂う香料の、薄い煙りの漂う中で……でも上様のお腕にも、そうして妾の腕にも、刺された銀の針の跟が、赤くついておりましたわねえ」
「あれはいったいどうしたのだろうのう?」
不意に上様の人形がいった。
「あれ!」
とお浦は声をあげた。
狂っているとはいうものの、人形に声を出されては驚かざるを得なかったからであろう。
審かしそうに眼を見張って、お浦は上様の人形を見詰めた。
たいていはお浦が描いたのであろう、上様の人形は鼻の下に、立派な八字髭を持っていたが、その下にあるへの字の口──無造作に描かれたへの字の口は、動こうともせず結ばれていた。
それだのに人形の上様は、
「あれはいったいどうしたのだろうのう?」
と、またもハッキリ声を出した。
「源内様とやらおっしゃるお方が、床へはいる前にわたし達に、刺して下された銀の針の……」
お浦は驚きをいつか忘れ、恋しい上様がものをいうので、嬉しさに心をたかぶらせながら、その時のことを思い出していった。
「そうであったのう、思い出したよ」
上様の人形はまたもいった。
「源内というのは誰だったかのう?」
「平賀源内様にございます」
「そうそう平賀源内だったな……それから何をしただろうかのう?」
「それ前にわたし達は源内様に、綺麗なギヤマンの小さな器で美味いお酒をいただきました」
「そうだったのう、美味かったよ。……田沼はあの時どうしていたかのう?」
「いやらしく笑っておりました」
「そうそういやらしく笑っていたっけ。……それからわたし達はどうしたろうかのう?」
「あのう、うっとりといたしました」
「そうだそうだうっとりしたっけ。……さてそれからどうしたろうかのう?」
「それから妾は田沼屋敷の、恐ろしい凄い数々の秘密を、上様にお話しいたしました」
「そうだ、お前は話してくれたよ」
「それを田沼が隣りの部屋で、聞いていたのでございますわねえ」
「そうだそうだ、聞いていたそうだ」
「その翌日からの妾というもの、まあどんなに田沼の手のものに、虐められ苦しめられ嚇されましたことか」
「…………」
「そうしてそれ以来もう妾は、上様がお成りなされましても、お眼にかかること出来ませんでした」
「…………」
「恋し恋し上様恋しと、思い詰めて泣いておりました」
「そうであったか、気の毒だったのう」
「おのれやれ田沼覚えておれ、屋敷の秘密あらいざらい探り、屋敷を脱け出し上様にお逢いし、お知らせしようと思いまして……」
「屋敷の秘密探ったか?」
「上様、さぐりましてござります」
「話してくれ! 話してくれ!」
この部屋と隣り部屋とを境いしている、古襖の向こう側にしゃがみ込み、お浦を相手に問いかけていた、女勘助はこういったとたん、
「お前は誰だい!」
と女の声で、突然背後から声をかけられ、ギョッとして立ち上がり振り返って見た。
剥げた塗り膳に二種ばかりの、食物らしいものが載っている。──それを捧げた仇っぽい年増が、疑わしそうに眼をひそめ、すぐの背後に立っていた。
(南無三!)
と勘助は思ったが、
「借家さがしに参りましたもの、無断で雨戸をあけまして、はいりましたは無調法、どうぞお許しくださりませ」
と、長い袖を胸へ抱いていった。
「女かえ、それとも男なのかえ」
お吉はグッと突っ込んだ。
「え、何んでございますか」
「お前さん男なのか女なのかと、こう妾ア訊いてるのさ」
「まあ何かと存じましたら、ホ、ホ、ホ、そんなこと。……」
「というセリフは通らないね」
「…………」
「背後に立って聞いていりゃア、お前さんすっかり男の声で、化物と話していたじゃアないか」
「化物?」
「そうさ、化物ぐらいのものさ。……気を狂わせている女だからね」
「道理で妾はいって参りますと、若い娘さんが独り言をいい、ままごと遊びしていなさいましたので、つい妾も面白くなり、男の声色など使いまして……」
「相手になっていたのかえ」
「あい」
「そうかい、なるほどねえ、そういわれりゃア筋が通る」
「それにいたしましてもこんな空屋に、あのような狂人の娘さんが、一人で住んでいなさんすのは?」
「不思議だろうね、妾にしても不思議さ。……あたしゃ隣家のものなんだが、いつからともなしにこんな空屋へ、あんな狂人が舞い込んで来て、行きなといっても行かないので、かかりあいになるなア厭だけれど、さりとてうっちゃって置けもせず、干乾しにしちゃア可哀そうだと、お飯だけはお斎のつもりで、三度三度供えてやってるのさ」
「まあまあそれはご奇特な。……」
「もっともその後あたしの旦那が、狂人さんの素姓を知って、こいつア強請の種になるって……」
「強請?」
と勘助は眼を光らせた。
「ご免よ、あたしゃア口が悪いんだからね。……そこで今じゃアあの狂人さん、あたしんとこの居候でね。お仕着も着せれば髪も結ってやり……厭だね、妾のお喋舌り屋さんは! ………さあ、お前さん行ってくんな。化物屋敷借りなくとも、ほかに借りる家沢山あらアね」
「はい、さようでございますとも」
行きかけて勘助は足を止め、
「あいつアままごと狂女のお浦! なアお神さんそうだろう!」
「何んだとえ⁉」
「知ってるんだ!」
グーッ!
突き出した拳のあて身!
「ヒーッ」
ガラガラ膳が落ちた。
「セリフがあらあ、名セリフがよ。──雉子も啼かずばうたれめえッて……」
褄を掴んでたくし上げた。だらーッと下がった緋の長襦袢の、合わせ目が開いて女の脛とは見えない、細っこい毛臑がニョッキリ出た。
「さあアて、これからどうしたものだ」
気絶はさせたが処置に困り、佇んでいる勘助の足もと、表の備後がすっかり擦り切れ、腸を出している畳の上に、散乱している飯や煮附け、茶碗や皿の間には、お吉が延び倒れている。
と、隣り部屋から声が来た。
「上様、寝ましょう、寝ましょうヨー」
狂女だけにこっちの部屋の、騒動などにかかわりなく、思い出の過去、恋しい人に恍惚とした心をやり、お浦は今にあるのであろう。
「さあ手枕、交いました」
勘助は舌打ちして腰をかがめた。
「押し入れへでもたたっ込め」
お吉のからだをズルズルと引いた。
気絶しているお吉の躯を、押し入れの中へ抛り込み、襖をしめると引っ返して来たが、そこでまた勘助は途方に暮れた。
松平冬次郎様──自分達のお頭──そのお方が必死と探している、ままごと狂女をゆくりなくも、こんなところで発見した。
ちょっと男の声色を使って、田沼の屋敷の秘密を訊いた、と、すぐにあれだけのことが、お浦によって語られた。
なるほど、これでは冬次郎様が、お浦を手に入れ本気になって、お浦に尋ね問われたならば、田沼の私生活の一切合財がお浦によって語られるであろう。
(冬次郎様が必死になって、お浦をお探しなさるはずだ)
そのお浦をここで目付けた。
冬次郎様のお屋敷へ、すぐにも連れて行かなければならない。
が、それは出来そうもない。
というのは今が昼だからで、素直に連れられて行ってくれればよいが、そうでなくて途中で喚かれでもしたら、田沼方でも、ずっと以前から手に入れようと探しているお浦だ、そうして田沼方の人間は、与力から同心から目明しまで、市中に充ち充ちていることであり、感づかれて取って押さえられるだろう。
(そうなっては藪蛇だ)
ではいっそ夜までこのままにして置き、夜になってからしょびいて行くか?
それなら安全で結構ではあるが、気絶させた女の旦那という奴、お浦を強請の種にしようと、気絶させた女と一緒になって、お浦を養って来たというから、そいつが妾の帰って来ないのを案じ、今にもここへやって来るかもしれず、やって来て俺を目付けたり、女の気絶を知ったりしたら、何も彼も破滅となる。
夜まで待ってはいられない!
(どうしたらよかろう? どうしたらよかろう?)
勘助は途方にくれてしまった。
(どうなるものか、やって見ろ、お浦をすかして連れ出してみよう)
これが順当だと決心し、ツカツカ隣り部屋へ行こうとした時、
「お吉! お吉!」
と男の声で、裏庭の方で呼ぶものがあった。
(しまった、来た、女の旦那!)
勘助はグルグル部屋を廻った。
「これ、いつまでも何をしているのだ」
男の声は近寄って来た。
「化物にお斎を供えるのに、そうも時間はかかるまいよ。……いやこっちは二階の鼠が、ひどくあばれててこずったぞ」
勘助は今は絶体絶命、お吉を抛り込んだ押し入れの中へ、自身も隠れて襖をしめた。
九十郎がはいって来た。
「や、こいつどうしたんだ?」
散乱している膳や碗、飯や菜が畳の上にある。
それだのにお吉の姿が見えない。
「お吉!」
と呼びながら隣り部屋をのぞいた。
お浦は今は疲労れたのでもあろうか、何んと無邪気にもいじらしくも、上様の人形を胸に抱き、ぐっすり眠っているではないか。
薄暗がりの中に立褄からこぼれた、白いふっくりとした脛が見え、狂女ながらも艶かしかった。
「いない」
と九十郎は引っ返して来た。
(下駄が沓脱ぎに揃えてあった。外へ出て行ったはずはない。変だ!)
と九十郎は考え考え、部屋を仔細に見廻した。
部屋の中で事件が起こったらしい。──ということは万事の事情で、九十郎にも感じられた。
(この辺が怪しい)
とそこは直感、押し入れへ突き進むとガーッと襖を……
ドーン!
とたんに機先を制し、内にいた勘助が死骸さながらの、お吉の体を投げ出した。
「わッ」
外したがよろめいた。
躍り出した勘助はさながら飛鳥、横擦り抜けると部屋を突っ切り、縁から雨戸、雨戸から庭へ!
「待て! 汝!」
九十郎は追ったが、
(お吉も?)
と自分の妾である女の、生死のほどが案ぜられ、引っ返すとお吉の側へ寄り、ペッタリと坐り、
「お吉、お吉、お吉イーッ」
裏庭を斜めに勘助は走り、玉菊をうたっていた家の横手──お吉の家の横手に沿い、往来の方へ駈けぬけようとした刹那、お吉の家の二階から、二階の窓の格子の間から、閃めき落ちて来るものがあった。
こんな場合にも油断なく、八方へ心を配っていた勘助、
(何んだ?)
と宙で手に受けた。
銀簪だ!
紙が巻いてある!
血で書かれた数行の文字!
二階には織江がいた。
その織江だが先刻方、九十郎を目がけ抜き打ちに、
「これでも討てぬか!」
と切りつけた。
が「あぶねえ」と九十郎に、冷笑されてダーッと足で、腰の辺を蹴られ不覚にも倒れ、起きようともがいているところを、また九十郎のために足蹴にされ、他愛なく刀を奪われてしまった。
「こんな拍子に汝の体、もてあそぶなア訳はねえが、今日はまあまあ勘弁してやろう。が、毎日ゆるゆると、嬲るぞ嬲るぞ覚悟していろ!」
毒吐いて九十郎は立ち去ったが、立ち去り際にもう一度、
「逃げようなどと階下へでも下りたら、それこそ汝真ッ二つだぞ!」
と、嚇かしではなく真実にいった。
九十郎の立ち去った後、織江は口惜しさに泣きぬれた。
親の敵に足蹴にされて、それでも生きていられようか! それもいいがこれから毎日、今日のようにさいなまれたあげく、穢されでもしたら何んとしよう?
(恥辱の恥辱、生きてはいられぬ!)
(遁がれたい、遁がれたい、遁がれたい!)
気がついて見れば持った刀で、足に掠り傷をつけたと見え、血が甲を流れていた。
(これで!)とさながら天籟かのように(事情を書いて投文しよう!)
どうして今までこんなことが、考えつかずにいたのであろう?
障子の紙を手早く破り、畳の表をむしり、それの先に血を浸ませ、
「織江と申す女この二階に、監禁されて責め折檻、憐れと覚し召し、官へお知らせ、なにとぞお助けくださりませ」
こう書いて簪を抜き、脚に巻きつけ様子を窺った。
と、この家の二階の下を、走って行く人の足音がした。
拾ってくだされと心に念じ、格子の間から投げ下ろした。
間。
駈け上がって来る足音がした。
「織江様アーッ」
「勘助殿か!」
かけ上がって来たのは勘助であった。
「事情は後で! ……さあご一緒に! 急いで、急いで、急いで、急いで!」
「あい!」
バタバタと梯子段をかけ下り、上がり框まで来るとヌッと土間に、突っ立っている武士があった。
「お勘か! これはこれは勘助殿か!」
それは十二神貝十郎であった。
「…………」
声も立てられず呼吸を呑み、勘助は立ち縮みガタガタ顫えた。
そういう勘助を見詰めながら、戸外の陽で肩の上をぽっと明るめ、顔を反対に陰にして暗め、貝十郎は前歯を見せて笑った。
「妙なところでぶつかったなあ、お前達の方からいう時は、敵の重鎮九十郎の家でよ」
「えーッ」
と勘助は飛び上がった。
「コ、ここが九十郎の家⁉」
「知らなかったのか、いよいよ変だぞ」
「知りませんでした。ヘー、そうですかい! ……じゃア先刻の武士は……ク、九十郎だったのですか!」
「何んのためにここへ参ったのだ?」
「旦那アー」
と勘助は死に声をあげた。
「お願いでござんす、必死の場合だ、どうぞどうぞお見遁がしを!」
「うん」と貝十郎は頤をしゃくった。
「捕えようと思えば汝ごとき、この貝十郎とうに捕っている。捕らずに今まで助けて置いたは、汝らの主人冬次郎様が、立派なお方であるからよ。その上拙者には詩文の友じゃ。……それに今日は汝を挙げようと、貝十郎出張って来たのではない。……九十郎に用あってやって参ったのじゃ」
さよう、まさにその通りであった。
あの夜あれほどの騒動があった。怪我人も出で、死人も出た。本来なれば町奉行は、南北手を分け騒動の首魁と、兇徒を探して狩り取るべきであったが、事件の性質が性質であり、首魁が一方は田沼主殿頭、一方が松平冬次郎。──これではどうにも手が出せなかった。のみならず素早く田沼の方からは、それとなくしかし厳重に、手入れ無用との命もあった。で、揉み潰されてしまったのである。そう、たしかに揉み潰された。が、世間では揉み潰さなかった。その結果がこの頃流行の、落首となって壁や塀に、田沼の横暴と世相の乱脈とが、深刻に穿って書かれ貼られた。その取り締りに貝十郎は、こうして出かけて来たのであったが、田沼殿の用人三浦作左衛門に聞けば、事件の当の責任者ともいうべき、平戸九十郎があの夜以来、田沼殿のお屋敷へ参らぬとのこと。「不都合な」と貝十郎は思った。「いずれ自堕落の彼であるから、妾の家にでもいるのであろう。叱咤してお屋敷へ追い立ててやろう」──そこは松平冬次郎の、隠れ家をさえ知っていた彼、九十郎の妾宅も知っていたので、今、こうしてやって来たまでなのであった。
「見遁がし承知、遁がしてやろう。……が、それは誰じゃ? その女子は?」
こういって貝十郎は織江を指さした。
「へ、へい」
と勘助は狼狽した声で、
「旦那アー、こいつもお見遁がしを!」
「ならぬ!」
と貝十郎は威厳をもっていった。
「その女子は誰じゃ、名を申せ!」
再度貝十郎は威厳をもっていった。と、織江が進み出ていった。
「妾事は桑名侯、松平越中守の家臣にして、服部石見と申すものの娘、織江と申すものにござります。……」
彼女としては自分の所業に、一点のやましいところもない。相手は与力、官役人そうな。では早く身分を宣り、かえって助けを乞おうものと、そう清々しく宣ったのであった。
「織江⁉」
と貝十郎は驚いたように、改めてつくづく織江を見詰めた。
「ははあ、さようでござったか。そなたが織江殿でござったか」
ここでしばらく沈思したが、
「勘助、そちは立ち去るがよい。……織江殿は残して行け!」
「いけねえ、旦那ア、そいつアいけねえ!」
「黙れ! それでは汝を捕ろうか!」
「え、捕るって⁉ こいつもいけねえ!」
「これ、とっくり考えて見ろ、俺がお前を捕るとする。……と、織江殿はどうなるか。残すも残さぬもありはしない。拙者の自由になろうというものだ」
「ソ、そりゃアそうですが。……」
「安心いたせ」と急に優しく、貝十郎は訓すようにいった。「わしを信じて織江殿を、残してお前は早く立ち去れ」
いわれて勘助は考え込んだが、
「一面は恐ろしい与力様だが、半面は優しい貝十郎様だ。……じゃア私は旦那を信じて、織江様をお預け致し……」
「それがいい、早く行け」
「織江様」と勘助はいった。「お聞きの通りでございますから……」
「勘助さん!」と織江は驚き、かつは不安を感じたらしく、「いいえ妾もあなたとご一緒に……」
「それが行けないのでございますよ」
「織江殿」と貝十郎は、慈しむような声でいった。「お屋敷へお帰りなされたならば、田沼殿の権力で、またどのようなご難儀になるやら。……むしろ拙者貝十郎の手に、安危託された方が安全でござる」
「織江様それじゃアあっしは行きます。……十二神の旦那ア、どうぞよろしく」
出て行く勘助の背後姿を眺め、
「お勘!」
と貝十郎は声を掛けた。
「へい」
「馬鹿者!」
「何んですって⁉」
「お勘になって行けというのだ」
「…………」
「その風まるで男じゃアないか」
「ナールほどね」
「それがもう悪い」
「…………」
「女がそんな返辞をするか」
「あ、なるほど、それじゃア『あい』」
「行きな」
「あい」
「アッハッハッ」
勘助の姿の見えなくなった時、気絶から甦生ったお吉を肩に、九十郎がさすがに取り乱した姿で、門口まで来たが貝十郎を見ると、
「お、これは十二神様!」
驚き呆れ当惑したようにいった。
「どうなされた平戸氏」
貝十郎も少し呆れていった。
「いや酷い目に逢いましたよ」
いったが九十郎は貝十郎の背後に、織江が立っているのを見て、再度驚き当惑したようであった。
田沼殿のお手へ渡さなければならない、その織江を自分の妾宅へ、止めて置いたのを貝十郎のために、発見されたということが、九十郎には痛かった。それで当惑したのであった。
そういう心持ちを見すかされまいと、九十郎は忙しくいった。
「いや隣りの化物屋敷で、まこと酷い目に逢いましたよ。これが化物、ままごと狂女の、お浦という奴に斎をやろうと、膳を持って参りましたところ、女やら男やら見当のつかない、変な奴が飛び出して参り、これを一あてあてましたそうで、……」
「ままごと狂女、お浦という女が、隣家におるといわれるか」
貝十郎は微笑して訊いた。
(しまった!)と九十郎はまたも思った。(度を失っている俺ではあるぞ。いわでものことをいってしまった)
ままごと狂女お浦という女が、田沼邸の秘密を知っていて、市中を隠見出没して、その秘密を洩らしているらしい。捕えて来て処分しなければならない。で、田沼の手のものが、捕えようと苦心していることを、九十郎は知っていた。そのお浦が隣家にいた。そこで九十郎は考えた。
(俺は田沼殿の警護方の武士だが、俺のような人間は、いつお暇になるかもしれない。そんな時お浦を抑えていれば、そいつを囮に田沼殿を嚇し、お暇の儀を取り止めさせるか、あるいは大金を取ることが出来る)と。そこでお浦を今日まで、ひそかに養って来たのであるが、そのことを貝十郎へ喋舌ってしまったのである。しまったと思わざるを得ないではないか。
九十郎は渋面して口をつぐんでしまった。
それを見やりながら厳めしい声で、
「さて九十郎殿」と貝十郎はいった。「ままごと狂女お浦という女が、隣家にいるとはちょうど幸い、拙者これより連れ帰る。なおこれにいる織江殿をも、拙者これより連れ帰る。貴殿にご異存ござるまいな」
「…………」
「田沼殿へお渡しいたさねばならぬ、二人の女を今日まで引き止め置かれた貴殿の心底、何んとも合点いたしませぬが、その儀については貝十郎、一切不問にいたすばかりか、田沼殿へも申しますまい。ゆえに」
と貝十郎は澄んではいるが、肺腑まで徹する鋭い眼で、九十郎の顔を正視した。
「ゆえに拙者が二人の女を、連れ帰ったということを、貴殿におかれても田沼殿はじめ、一切他人へ告げ口無用! よろしゅうござるな、平戸氏!」
「…………」
九十郎は渋々ながらも、観念して頷いた。
武蔵野の一所多摩川に近く、「逃げ水の屋敷」と俗に呼ばれる、田沼主殿頭の野別荘が、全く落成して巍々たる姿を、秋空の下に現わしたのは、数日後のことであった。
その屋敷を眺めながら、六人の男女が逍遙していた。
野遊びに出た武家の家族。──といったような一団であったが、その実は松平冬次郎と、戸ヶ崎熊太郎と三人の賊、──外伝と新助と勘助と、他にもう一人織江の兄の、服部範之丞との一団であった。
秋の深い十一月、なかばになった清麗の武蔵野──落葉樹の林、芒尾花、ちょろちょろ野川、土橋小径、冬近いので鳴き弱った虫の音、そういう風物に飾られた野を、外見はまことに長閑そうに、六人のものは歩いていた。
六人の眼の向こうの逃げ水屋敷は、和風、阿蘭陀風、支那風、ロシア風、イスパニア風まで取り入れた、全く異風の建物であって、この時代に日本と交渉のあった国々、その国々の建築様式を、巧妙に塩梅して造ったもので、一代の奇才と称されたところの、平賀源内でないことには、考えもおよばないであろうところの、それは驚くべき造形芸術で、それらの各国の特殊の様式が、あるいは望楼にあるいは塔に、あるいは閣に、あるいは窓に、あるいは階段にあるいは別館に、屋根に柱に廊に廻廊に、無類の微妙な調和をもって、加味され配置され布設されてい、それが遠くより望み見れば、一個のまとまった大屋敷として、周囲に、ないしは建物の間に、植えられてある様々の樹木、それも各国の珍奇の樹木、そういう樹木の林や叢と、これまた微妙な調和をなして、柔い弱々しい黄味の多い、秋の陽の中、晴れた空の下に、盛り上がり浮かんで見えているのであった。
六人は眺めながら歩いて行った。
「おや、支那風の一廓が見えなくなってしまいました」
女装の勘助が驚いたようにいった。
いかさま今まで見えていたところの、右脇の支那風の一つの閣が、今は消えて見えなくなっていた。
「なるほど見えない、おかしな話だ」
野袴を穿き編笠を冠った、冬次郎がいって熊太郎を返り見、
「戸ヶ崎、お前にも見えないだろう」
「見えませんでございます」
同じような装いをした戸ヶ崎熊太郎はそういって、「いや、まるで化物のようで」
しかしそれからさらに六人が、いよいよその屋敷に接近するに従い、阿蘭陀風をした別館や、イスパニア風をした望楼や、ロシア風をした出櫓が、次々に消えてなくなったばかりか、屋敷そのもの全体が、次第次第に低くなり、その代わりに樹々が背延びしたかのように、高く高く延びて感ぜられた。
「いかさまこいつ逃げ水屋敷だ」冬次郎はいかにも感に堪えたように、
「源内の考案した建物らしい、まことに不思議な屋敷ではある」
「あの屋敷へ今夜入り込みまして、父の敵の平戸九十郎めを、討って取るのかと思いますれば、血のわく思いいたします」
こういったのは範之丞であった。
病弱といってもこれといって、持病を持っているのではなく、要するところ腺病質、蒲柳の質であるまでであった。その範之丞は肉痩せてはいたが、身長は普通でスラリとしてい、そういう身体へ同じように、野袴をつけ羽織をつけ、編笠を深くかぶっていた。
「越中守様のお手を通し、幸い手に入れた切手三枚、これを利用し屋敷へ入り込み、異国好みの田沼めの、仮装の酒宴の乱痴気騒ぎの、隙を窺って貴殿には、戸ヶ崎氏を介添えとし、きっと九十郎めをお討ち取りなされ。……拙者は断じて機会を見出し、田沼めを刺して国をみだる元根を、この世から消す決心じゃ。仕事は大きい油断してはならぬ」
いつもは沈着の殿ではあったが、今夜やるずば抜けた荒料理、そのことを思えば心が躍る、とそういったように声に顫えと熱気と、殺気とをこめていた。
と、この時、これ以前から、一人の年取った百姓が、大根の荷をかつぎながら、一行の後からついて来たが、アーッと大きな欠伸をした。
驚いて一同は振り返って見た。
「爺」冬次郎は鋭くいった。「そちどこからついて来た?」
「この大根でごぜえますかな。この大根売り物でねえんで」
「大根のことをいっているのではない。どこから従いて来たかと訊いているのだ」
「よいお天気でございますとも。この分なら明日も大丈夫で」
「アッハッハッ、聾者なのか」
冬次郎は苦笑いをした。
百姓は六人を追い越して行った。
そうして行く手の三叉の道から、右の方へヒョイと反れ、遙かの彼方に見えている、百姓家の方へ歩いて行った。
で、六人は歩みつづけた。
「戸ヶ崎、お前の方は大丈夫だろうな?」
少し不安そうに冬次郎が訊いた。
「門弟より精撰って三十人、屋敷の周囲に伏せて置き、合図を待って斬り入るよう、手筈十分に致し置きました」この点大丈夫というように、熊太郎はいって胸を打って見せた。
「外伝、お前達三人の方も、手筈を狂わしてはならないぞ」
「あっし達の方は大丈夫で。……昔の商売を出すばかりで。……かっ攫って逃げりゃアいいんですからね」
愉快そうに外伝はいった。
で、みんな笑ってしまった。
「先方も貝十郎をはじめとし、九十郎や九十郎の手のものが、警護を致しているのであるから、決して油断をしてはならぬ」
「全く油断はなりませぬ」
熊太郎も頷いてそう応じた。
「やり損いますれば我々一同、あべこべに田沼一党に、狩り取られますでございますからな」
一同ここで沈黙した。
と、範之丞がしめった声でいった。
「それに致しましても、妹織江、今頃どうしておりますことやら」
「さあ」といったのは冬次郎であった。「連れて行ったのが貝十郎ゆえ、大事あるまいとは思っているが……」
あの日勘助が走り帰り、九十郎の妾宅のかくかくのところに、織江殿おりましてございますが、貝十郎が連れて帰りました。ままごと狂女もおりましたが、これまた同じく貝十郎がと、冬次郎へ注進した。
「残念、しかし念のためじゃ、行って見よう」冬次郎は押っ取り刀で駈けつけて見た。
と、その家には家財道具はあったが、九十郎はもちろん妾のお吉も、織江もお浦もいなかった。
素早く立ち去ってしまったのである。
が、冬次郎はこう思った。
(与力としてある時には敵へ廻り、ある時には詩文の友として、味方につく貝十郎、気の許せぬ人間ではあるが、心の底は正義らしい)と。
しかし要するにらしいのであって、ハッキリしたところは解らなかった。
そこで今もそういったのである。
──連れて行ったのは貝十郎ゆえ、大事あるまいとは思っているがと。──
とはいえ範之丞の身になってみれば、安心することは出来なかった。
その範之丞であるが昨日であった、冬次郎殿の依頼を受け、参上したという口上で、戸ヶ崎熊太郎が訪ねて来てくれた。高名の熊太郎の来訪なので、範之丞は驚き慇懃に通した。
来意とあって熊太郎は、織江に関するあらましを語り、付けて範之丞の心を訊いた。
「父上の敵討とうとならば、拙者介添え仕る。いかがでござるな、お討ちなさるか?」と。
「もちろん!」
と範之丞は言下にいった。
「しからば明夜お討ちなされ」
それから熊太郎は冬次郎によって、計画されている明夜の討ち入り──否、潜入について物語った。
物語ったといっても熊太郎は、範之丞の人物性行に、不安を感じていたからであろう。「田沼の新邸逃げ水屋敷へ、明夜拙者と冬次郎様と、潜入いたすことになりおります。当夜は饗宴がござりまして、九十郎めは警護の士として、臨席することになりおりますとか、ついては貴殿も我々とともに、明夜該屋敷へ参り、九十郎めをお討ち取りなされ。それに関しては冬次郎様へお目通りいたすこと必要でござれば、明早朝おいでなさるよう」
こういって冬次郎の隠れ家の所在を、仔細に明かしたばかりであった。
そこで範之丞は今日早朝、冬次郎の隠れ家へ伺候した。
一眼見て範之丞は冬次郎の、素晴らしい人物に景仰してしまった。
と、その冬次郎が五人の者へいった。
「どれ、それでは逃げ水屋敷の、外廓なりと日のうちに見よう」と。
こうして六人来たのであった。
六人は先へ歩いて行く。
逃げ水屋敷が眼の先に見える接近した地点までやって来た時、六人の者は唖然としてしまった。
屋敷が全然消えてしまい、広大な森が亭々と、空を摩しているばかりだからである。
森の中には人声がしていた。
今夜の饗宴の準備のために、働いている人々の声なのであろう。
透かして見たが森の中は暗く、建物の姿も見えなければ、人の姿も見えなかった。
「よし、それでは引っ返そう」
こう冬次郎がいったので、五人のものは歩を返した。
半町あまり歩いて来て、一同は振り返って眺めて見た。
森の梢を抽んでて、屋敷の屋根が見えていた。
数町歩いてまた振り返って見た。
巍々堂々たる大屋敷が、和漢洋の調和をととのえて、浮かぶように聳えていた。
「不思議だな」
「不思議にござります」
さらにしばらく歩いた時、冬次郎は熊太郎へ何か囁き、自身は外伝や勘助とともに、草を敷いて地へ坐った。
「範之丞殿、こちらへおいで」
こういったのは熊太郎で、横へ反れてズンズン歩いた。
「まずこの辺で一休み」
いって熊太郎は腰を下ろした。
で、範之丞も腰を下ろした。
晴れた、風のない、好天気で、陽の中に羽虫が飛んでいた。丘、疎林、ところどころに耕地──そんなものが見えていた。
すぐの背後には丘があり、遙かの向こうには逃げ水屋敷が、謎めいた姿で聳えている。
幽かな羽音を立てながら、蜜蜂であろう、範之丞の、耳を掠めて飛んで行った。
十数間離れた草の上に、冬次郎の組が親しそうに、額を集めて話しているだけで、ほかに人影は見られなかった。
「範之丞殿」
と熊太郎がいった。
「貴殿の人物を冬次郎様には、ことごとくお褒めでござりますぞ」
無言で、微笑し、恭しく、範之丞は一揖した。
それだけで熊太郎は沈黙し、膝の先の辺に咲いている野菊の花を毮り出した。
が不意に熊太郎は、熱のある口調でいい出した。
「田沼の悪政秕政については、おそらく貴殿におかせられても、夙にご承知と存じますが」
こう熊太郎はいい出したのである。
突然だったので範之丞は驚き、相手の顔を凝視した。
それに関わず熊太郎は、ますます熱のある口調で語った。
「叙位叙勲人事行政、ほとんどことごとく私縁をもってし、子の意知は若年寄となり、その弟の意誠は、一橋家の家老となり、第三子が養子となしたる、水野忠友は七千石より、万石となって若年寄となり、その孫竜助のために娘を遣わしたる、掛川侯は寺社奉行より、これまた若年寄に経上りたる等、ことごとくその悪例でござるが、さらに幕府の疲弊した財政、これを建て直すという美名のもとに、各種の官営事業を行い、銀座、鉄座、真鍮座を設け、その冥加金の幾割かを、公然として着服し、味を占めては朱、人参、竜脳、明礬というがごとき、薬品をさえ専売とし、さらに石灰、油等のごとき、日常品をさえ専売とし、もって冥加金を着服し、私腹を肥やす一方においては、せせこましき故意とらしき倹約令を出し、足袋のこと、褌のこと、結髪のこと、それらのことにまで干渉し、贅を尽くさば重き処刑、などと人心を暗きに落とし、課税の手段に至っては、いわゆる微に入り細に入り、特に農民方面へは、苛斂誅求をこれ事とし、ために農民負担に堪えかね、一揆を起こし嗷訴をし、押し込み強盗その間に横行、全く凄じい有様でござる。印旛沼、手賀沼を開鑿したるは、一つの功には相違ござらぬが、工事を請け負わせたる町人より、莫大の金子を献ぜしめたるごとき、許されがたき曲事でござる。……上に立つ田沼のこの秕政により、士風はおびただしく頽廃し、淫風しきりに吹き荒み、この有様にてここ数年、経過いたさば日本の基礎、まことにあやういと申さねばならぬ。もっとも田沼の勢力は、今は下り坂になっており、その前兆も数多くござる。ところが何んとその下り坂が、世にも恐るべく憎むべき、一大陰謀を田沼めに、企てさせましてござります」
ここまで語って来て熊太郎は、義憤の眼に光を持たせ、範之丞の顔を正視した。
聞き澄ましていた範之丞は、熱を持った熊太郎の言々句々に、若い、純な、血に燃え易い心を、燃やしたかぶらせ膝進ませたが、
「その陰謀と仰せられるは?」
すると熊太郎は手をあげて、逃げ水屋敷を指し示した。
「田沼め今夜あの屋敷へ、将軍家をはじめ奉り、彼の推挽によって役付いたる人々、立身出世したる奴、また常日頃出入りする輩、および市中の俳優や妓女、それらを招いて仮装の酒宴を催し、落成を祝うことになり、準備出来たるよしにござるが、その席において勿体なくも、人知れず将軍家をなきものにし……」
「ナニ将軍家をなきものに! すりゃ大逆! 主殺しの大逆!」
織江に似て容貌は清々しく、一文字の眉、細く高い鼻、神経質と多血質とを、如実に現わしたやや上がった眼──美しくはあるが女性的の顔へ、紅潮を注して範之丞は叫んだ。
「それというのも田沼主殿頭、己が下り坂を支えんためでござる。すなわち将軍家をなきものにし、己の自由になる幼主を立て、我意を振るわんそのためでござる」
「それに致しましてもかかる逆臣を、誅伐いたそうと心掛くる人、一人もないとは歯痒き限り!」
「いや」
と熊太郎は手を上げて抑え、声を細めて忍びやかにいった。
「あそこにおられる冬次郎様がな、先刻チラリといわれたように、断乎として今夜おやりになるのじゃ! 逃げ水屋敷で! 断乎として!」
さらに一層声をひそめ、熊太郎は深沈とした口調でいった。
「その計画をこの拙者に、お明かしなされたのが一昨日! そこで拙者直ちに加盟し! ……」
「拙者も! 拙者も!」
とそこは血気、血気の範之丞が腕を扼しながらいった。
「加盟しましょう! お許しくだされい!」
「諾! 金打! 範之丞殿!」
「金打!」
──で、二人の武士は、刀の鯉口くつろげて、三寸抜いてヒタと合わせた。
「殿、服部範之丞殿、義党に加盟仕りました」
「欣快」
と朗らかにいいながら、冬次郎の笑顔がこっちを向いた。
とたんに一つの小さい石が、砂と一緒に丘の上から、熊太郎の膝もとへ落ちて来た。
一躍!
サーッと熊太郎、丘の上へ駈け上がった。
悲鳴!
つづいて逃げる足音!
「いかが致した⁉」
と冬次郎も、四人の者も駈け上がった。
丘の頂きに血刀をひっさげ、熊太郎はムーッと佇んだが、
「立ち聞きするものありましたゆえ、一人はこの通り仕止めましたが、残念一人とり逃がしました」
いかさま一人の四十恰好の男が、丘の斜面に朱に染まり、虚空を掴んで斃れてい、頬冠りをしたもう一人の男が、一軒の農家を背景に持った、疎林の中へ駈け込む姿が、陽の中に黒い点のように見えた。
「その筋の奴らか? ……何んにしても怪しい」
「殿、油断はなりませぬ」
「とすると先刻の大根かつぎの爺も……」
「はなはだ怪しく存ぜられまする」
「農家があるのう、一軒だけポッツリ……」
農家の窓を細目に開けて十二神貝十郎は丘の方を、眼じろぎもせず眺めていたが、
「あッ、やられた金蔵がやられた。……しめた、伴作は助かった! 逃げるわ逃げるわ素早い足で!」
こういってなお見入っていた。
「金蔵がやられましてござりますか」
貝十郎の横に腰をかけ、煙草をくゆらしていた百姓が──先刻大根の荷を担ぎながら、冬次郎の一行の背後から、従いて来て先へ通り越した──その百姓がそういいながら、静かに立って貝十郎と並び、窓から外を窺った。
ここは農家の広い土間で、陽が射さないので薄暗く、一所には籠に伏せた、家鶏などが飼ってあり、壁には簑、笠、合羽、草鞋、そんなものが掛けてあり、隅には鋤だの鍬だのの、道具が寄せて立てかけてあった。
上がり框から板張りで、巨大な炉が一つ切ってあり、釣るされてある薬罐の下では、薪が焔をあげていた。
「白須氏、貴殿は奥へ」
「は」
というと百姓爺──まことは貝十郎の腹心の同心、白須源吾は窓から離れた。
「十二神様、大丈夫で?」
「うん」といって頷いた。
間。源吾が立ち去って間。
と、入口から冬次郎が、ツカツカと土間へはいって来た。
「貝十郎、汝であったか! ふうむ、やっぱり汝であったか!」
何んとなく殺気立った気勢に驚き、啼き立つ家鶏の籠脇に立ち、冬次郎は烈しい叱咤の声で、
「本年一月十五日の夜、田沼屋敷をなつかしがり、立ち廻ったお浦ままごと狂女を、稲荷堀附近にて発見し、捕えんとせし時汝出でて、邪魔して逃がせしを手はじめに、先夜は先夜で再び邪魔をし、無礼! 余が手を十手にて挫き、捕えしお浦をまたも逃がしたな。それさえあるに今日は卑怯、我らが後を忍びやかに、尾行けさせ立ち聞きさせおったな! ……あらば申せ、いい訳あらば申せ!」
「何んのいい訳などありましょうや」
腰かけていた上がり框、そこから立った貝十郎は、貴人に対する礼は崩さず、慇懃に両手を膝に垂れながらも、儼として冒されぬ役人の態度、声も冷徹森厳にいった。
「ただただ拙者与力としての、役目果たせしそれまででござる」
「いうな姦物、首鼠両端児! 味方となり敵となる譎詐の奴! 汝本心はこうであろう、田沼の隠密こうであろう! ……これ十二神、聡明達識、その方の資をもってしても、田沼の悪逆わからぬか⁉」
「その悪逆はいざ知らず、すくなくも私より見ますれば、田沼様は大施政家!」
「黙れ! 何を! ……何を、何を! ……大施政家なんどと何を何を!」
「与力としては申しますまい、殿を相手の論客として、貝十郎一応申そうならば、まず第一に開化施政! 蘭学勃興いたせしこと!」
「愚かや十二神何と申す! 蘭学勃興は自然の趨勢、それを田沼が自分自身、異国物もてあそぶ性癖よりして、わずかに助長いたせしまで!」
「異国物を愛するその性情こそ、すなわち開化に念ある証拠、何んぞ難ずることありましょうや。……次に讃うべきは貿易方針! 実にこのことにござりまする。鷲の国ロシアのカザリン女帝、不世出の英資をもって、版図を拡め日本の地をさえうかがわんとして虎視眈々、蝦夷地に向かって手を延ばさんとす。ここに至って松前侯、密貿易を行わせらる! これを察した主殿頭様には、密貿易こそ国の害、如かず開港して正々堂々、ロシアと交通貿易せんと……」
「口実は立派だ、甚だ立派だ! が、十二神汝は知らぬか、漂流者崩れの工藤平助、なんどと称する無頼の徒を用い、田沼めには己密貿易をし、私腹を肥やしておるのであるぞ!」
「異国の商況知らんためには、実地に貿易致し見ねばと、田沼様ご自身その方面に、手を延ばされたは真実でござるが、さるを一概に密貿易なんどと……次に田沼殿の施政において、特に讃うべき事柄は、我が国の相場、金銀の相場、異国に比べて廉価とあって、以前より流出いたしたるを慨し、支那の商人に旨を含め、かえって海外より金および銀を、輸入いたすように計らいました。……殿! 松平冬次郎様! 田沼様は偉大な施政家でござるぞ! 次に……」
となおも続けようとする、貝十郎の言葉を睨んで抑え、
「余が計画、汝知ったか⁉」
「は? 計画? 計画とは?」
「今夜の計画探り知ったか?」
シーンとなって土間は暗かった。
「いやさ配下に尾行けさせて、逃げ水屋敷にて今夜行う、余が計画を知ったかと訊くのじゃ」
「聞き知りましてござります」
「善悪是非はそちに訊かぬ。……聞きたきはそちのそれに対する処置じゃ」
「与力の本分を尽くすまで!」
「邪魔致す気か?」
「御意!」
「よーし! ……戸ヶ崎参れ! ……こやつ斬れ!」
声に応じて戸ヶ崎熊太郎、門口に立って聞いていたが、刻み足してはいって来た。
「十二神殿か、拙者は戸ヶ崎。……ご令名は以前より、諸方において承ってござる。……はじめての対面にかかる仕儀、遺憾ではござるがご覚悟なされい!」
刀の柄へ手をかけた。
「しばらく」
と貝十郎は手で制し、
「殿、松平冬次郎様、私を斬るは法を斬ると同様! それ心得てのご断行か?」
「非常の時には非常のことを行う! 非常事を行うことによって、かえって国は安泰じゃ!」
「非常の時ゆえ法を行うもの、いよいよ森厳であらねばならず! ……」
「いうな酷吏! しかのみならず、田沼に対する汝が見解、余とことごとく反対たること、今の汝の弁によって知った。……加うるに我らの計画を知って、邪魔だて致すとあるからは! ……斬れ! 戸ヶ崎! 斬れ! 斬れ! 斬れ!」
「あいやしばらく!」
と十二神貝十郎、ふたたび手もて制したが、
「ご様子で解る、今はこれまで! ……白須氏、出て参られい!」
答えあって奥の障子がひらき、織江を連れた白須源吾──百姓姿のままノッソリと出た。
「や、織江!」
「先刻の農夫か!」
「妹! 妹! おお妹」
驚喜の声をあげながら、門口に佇んでこの時まで、内の様子を窺っていた、服部範之丞が駈け込んで来た。
「お兄イ様アーッ」
と織江も驚喜、駈け寄ろうとする中を距て、
「ならぬ! 許さぬ! 白須氏、戸ヶ崎先生拙者を斬らば、織江を斬れ! 用捨いたさず!」
「貝十郎オーッ」
と激怒の冬次郎、
「織江に罪ない! 放せ放せ!」
「罪の有無、かくなっては無用! 織江は人楯! 拙者の楯じゃ!」
「非道! 無慈悲! 何んといおうぞ! ……貝十郎オーッ! 汝は汝は!」
「殿」といよいよ冷やかに、額の蒼ざめた十二神貝十郎、「あえて今日ばかりでなく、いついかなる場合なりとも、拙者の生命あやうしと見れば、可憐の人楯使用いたす所存! ご注意あれ、ご用心あられい!」
この時織江が声をあげた。
「妾、命捨てました! 奥にてゆくりなく伺いますれば、一大事の企て、回天の事業……かかる場合に妾なんどの命! ……お兄イ様! お兄イ様! ……父上の敵はあなたにお委せ! ……」
「よい覚悟! 礼いうぞ織江!」
火焔吹く意気、冬次郎は叫んだ。
「戸ヶ崎斬れ! 貝十郎を斬れ!」
「伴作いるか! 桐島伴作! ……召し連れ出ませい! 桐島氏!」
叫んだ貝十郎の声より早く、同じ奥よりお浦を連れて、百姓姿の男が出て来た。
熊太郎の刃をあやうく遁がれ、逃げ帰って来た貝十郎の腹心、これも同心の桐島伴作であった。
「やあお浦! ままごと狂女! ……お浦まで連れて! お浦まで連れて!」
呻く冬次郎を尻目にかけ、
「これも人楯、拙者の人楯! 拙者を斬らば織江殿ともども、お浦も殺すでござりましょう!」
「…………」
「お浦を失わば冬次郎様、田沼屋敷の数々の秘密も……」
「…………」
「殿、お引き上げ遊ばしませ」
「お浦ごとき、ナーニ我々、逃げ水屋敷に潜入し、今夜田沼を討って取れば、必要のなき女ながら……」
「その屋敷には拙者籠り、蠢動妄動いたさせませぬ。……」
「あったら男、惜しい奴じゃ」
にわかに冬次郎は憮然として、気の毒そうに貝十郎を見た。
「上に賢明の宰相あって、旧慣を破って汝を引き立て、町奉行なんどに据えたなら、伝え聞く享保の大岡越前ほどの、手柄をしように田沼ごときの、隠密となって碌々たる与力、貝十郎、惜しく思うぞ!」
「殿こそ惜しゅう存ぜられます。……穏しやかに振る舞われ、出でて他家を継がれましたら、万石の主となり給い、やがてはご老中にもなられるご身分。……それを浪人の巨擘として、草莽の間に埋もれ給う……殿こそ惜しゅう存ぜられまする」
「戸ヶ崎行こう。範之丞も参れ」
率然といって冬次郎は、土間を横切り門口から出た。
「妹!」
「あッ、あッ、お兄イ様!」
「範之丞殿」
と熊太郎は制した。
「参りましょう、辛抱どころじゃ」
一同立ち去って静かになった土間に、織江の忍んで泣く声と、お浦が狂女の空洞声で、呟いているのがただに聞こえた。
と、ツカツカと貝十郎は、家鶏の籠へ近寄ったが、ポーンと籠を足で蹴った。
けたたましく啼き立つ家鶏の群は、一時四方へ散って逃げたが、すぐに住み慣れた籠を慕い、集まり寄って籠を巡った。
「アッハッハッハッ」
と貝十郎は笑った。
「桐島氏、白須氏、此奴らとんと駄目でござるぞ」
二人の同心は不可解そうに貝十郎の顔を眺めた。
「逃がそうとしても逃げて行かぬ」
「永らく飼われておりますからで」
伴作が何気なくいった。
「わしも永く飼われ過ぎたよ」門口を通して戸外を見ながら、貝十郎は感慨深くいった。「広い世間へ、自由の世間へ、わしは飛び出して行きたくなった」
「浪人なんどになられましても……」
「駄目だろうかな、家鶏のように」
同心は顔を見合わせた。
「宮仕えして禄を食んでおれば、心にもない厭アなことも。……」
戸外では柿の葉が散っていて、陽の中にその実が赤く照っていた。
その日の夜の深更となった。
逃げ水屋敷の建物の一つ、小高い丘の上に建てられてある、イスパニア風の望楼の窓から、外の様子を眺めながら、囁き合っている二人があった。
「逃げ水屋敷と申すゆえ、内へはいったらどんなにか奇怪? そう思って期待して参りましたところ、向こうに一軒こっちに一軒、いろいろの異国の建物が、それも大して大きくもない奴が、書院造りのこれは広大な、日本家屋を中心にして、建ててあるばかりとは驚きましたな」
こういったのは浦島太郎の、仮装に仮面をつけた男で、肩がかがんで猫背をなしていた。
「遠近法とやらを利用して、一軒一軒のそれらの建物が、遠くより望めばどこから眺めても、渾然と一つに綜合され、一大屋敷に見られるが、構内へはいればバラバラに別れて、別々の小さな建物となる。──というところに平賀源内の、鬼才が窺われるということでござるよ。近寄るに従って一つ一つ、建物が消えてなくなるのも、遠近法から来ているそうで」
こういったのは大津絵の鬼──鬼の念仏の仮装をしている、身長の低い男であった。
二人ながら酒に酔っているようであった。
「それにいたしましても贅沢な構造で」
浦島太郎は部屋を見廻した。
「床の甃は大理石とか、模様の市松も精巧なもので」
「壁にかけてあるあの壁懸け、一枚で百金とか申すことで」
「誰が献上いたしましたかな?」
「佐竹右京大夫様じゃと申すことで」
「ご所有の羽州の銅山を、直営直轄にされた礼じゃの」
「それにいたしては献上高が少い」
「いやこの一棟そっくりの費用を、佐竹侯が出されたよしで」
「これは大袈裟、アッハッハッ、では佐竹侯またご出世じゃ」
「さようさようまたご出世じゃ」
「ところで」とにわかに鬼の念仏が、気がかりのように忍びやかに訊いた。「ご貴殿、どなたでござりますかな?」
「これで」というと浦島太郎は、そっと仮面を上げて見せた。
「おおこれは松本伊豆守殿で」
「貴殿は?」
「これで」と鬼の念仏は、自分の仮面をかかげて見せた。
「ははあさようで、赤井越前守殿で」
「お互いご懇意の仲でよかった。……今の話は内緒内緒」
「内緒内緒。心得てござる」
「シッ、誰か来たようでござる」
「シッ、お別れ、いずれ後刻」
二人は別れて戸口から消えた。
決闘用の洋刀二本を、ぶっちがえにして壁にかけた、その下に楕円形の出入り口があり、そこにマドリッドの産らしい、赤金色の垂布がかけてあったが、それをかかげて三人の男が、しのびやかにはいって来た。
一人は能の安宅の弁慶、兜巾をいただき、篠懸をかけ、大口を穿き金剛杖をついて、威風堂々たる人物であり、一人はこれも羽衣へ出る、腰簑をつけた瀟洒とした漁夫で、手に櫂を持っており、もう一人はこれも熊坂へ出る、大盗熊坂の仮装をし、薙刀をかい込んだ男であった。
いずれも仮面を冠っている。
「戸ヶ崎、範之丞、ここから見るがいい」
弁慶姿の冬次郎はいって、窓によって外を見た。
「来たぞ行列が、将軍家の行列が。……田沼もいる、貝十郎もいる、九十郎もいる、源内もいる」
熊坂の仮装の熊太郎も、漁夫の仮装の範之丞も、窓によって外を見た。
ロシア風に造られた出櫓めいた建物、その裾の辺を前駆として二本、後駆として二本都合四本の、松明の火に照らされながら、そうして遅く出た半かけの月に、頭上を蒼白くぼかされながら、妖怪の行列が通っていた。高砂の尉の仮装をした、老人らしい人物を中にはさみ、その左には猩々に扮し、赤毛を背に垂れた人物が行き、その右には阿蘭陀風の、胴服を纒った人物が行き、その後から仕丁姿の、二人の小男が扈従をし、それらを警護するように、花やかな花四天の扮装をした、三十余人の壮漢を率い、山伏姿に天狗の面をつけた、精悍らしい男が行き、少し離れて穏かに、衣冠束帯の公卿姿をした男が沓を引きずりながら従っていた。いずれも仮面をつけていた。
「尉姿が将軍家じゃ」と、冬次郎が囁いた。「猩々姿が田沼意次、阿蘭陀風が平賀源内、仕丁姿の二人の奴は、田沼が進めた悪医師どもじゃ。天狗の面が九十郎、公卿姿が貝十郎じゃ。……越中守様より内々のお知らせ、で、これには間違いはない」
「どこへ参るのでござりまするか?」
熊太郎が訊き返した。
「宴が終えたので寝に入るのじゃ。阿蘭陀風の別館へ行かれ、将軍家御寝なされるのじゃ」冬次郎は苦々しくいった。
「それからが大変じゃ。……兇事行われるそれ以前に、どうでも将軍家を救い出さねば……範之丞!」と冬次郎は、勇気づけるように範之丞へいった。「将軍家寝所へお入りの後は、いよいよもって無礼講、招待された追従武士ども、呼び集められた遊女や女芸人、腰元どもとトチ狂い、乱痴気騒ぎするであろう。……九十郎めも警護をゆるめ、己も油断し酔いしれるであろう。戸ヶ崎氏を介添えとし、その方には九十郎を、その隙に討って取るがよいぞ」
「かしこまりましてござります。櫂に仕込んだ父譲りの貞宗、これで九十郎めの首打ち落とし……」
こういって範之丞は櫂を叩いた。
「俺はどうともして田沼めに近寄り、白毛首これで刎ねねば置かぬ」
冬次郎はいいいい金剛杖を、三寸ばかり抜いて見せた。それにも刀が仕込まれてあった。
「田沼め今夜は機嫌上々はしゃいでいるということであれば、将軍家への悪虐は平賀源内や、二人の医師に任せて置いて、己はあちこちの建物へ行き、阿諛の輩と一つになり、乱倫の真似するであろう、そこを狙って、そこを狙って……」
「行列曲がりましてござります」
この時熊太郎がそういった。
蛇の尻尾が石垣の隙へ、ソロリソロリと隠れるように、百鬼夜行の行列が、支那風の建物と高麗風の建物、その二つの建物の間の、小広い道を左へ曲がり、次第次第に見えなくなった。
「向こうに阿蘭陀風の別館があるのだ。ともかくも行こう、忍んで行こう」
三人の姿の消えた後、この特別に高いところに、陰気に建てられてある望楼へは、誰も来るものがなかったので、ひっそりとして寂しかったが、諸所に立っている建物からは、笑う声、囃す声、追う足音、逃げる足音、女の媚を含んだ声、悲鳴に似た淫らの声々が、どこで奏しているのであろうか、異国めいた楽器の音色とともに、化物の国の夜遊じみた、調和をなして聞こえた。
将軍家治は仮面だけ外し、装束は解かず疲労したように、黒檀で出来ている寝台の上に、体を横たえ唸っていた。
家治は年四十九歳、中年ともいうべき年頃だのに、不摂生と放縦との生活が祟り、年よりずっと老けて見え、ほとんど老人のそれのようであった。鬢などには白毛が多く、眼の縁などにも小皺が多かった。
「田沼、わしはもう帰る。……わしは疲労れている。面白くもない。田沼、わしはもう帰る」
酔ってもいたが、そうでなくても、だだっ子のような口を利くのが、この人の日頃の癖であった。
「が、それともお浦をよこすか。……お浦をよこすならわしはいる。……宿まってもいい、お浦をよこせ」
どういうものか家治にとって、お浦は忘れ難い女なのであった。あらゆる高級の、あらゆる上流の、そういう女には飽きている彼、だから一種の悪食趣味として、また、いかもの食いとして、ああいう女に捉われたと、そういうことも云えるのではあったが、しかし一方お浦という女が、いかにも初心で純情で、彼が将軍家であるがゆえに、犠牲の心で仕えたという、そういう二義的の心からでなく、彼を本当に好いていて仕えた。──ということが家治の心を、今に捉えているのであった。
「田沼」と家治は執拗に云った。
「お浦、あれはいい娘だったよ。正直でな、率直だった。……お前のことも色々話したぞ。……それはもちろんよくないことも云った。……お前のやっているよくないことも。……お浦とそうして越中とが、お前に関するよくないことを、わしに話してくれた二人だったよ。……」
銀とビードロとの瓔珞を垂らした、彫刻のある巨大な碇形の、シャンデリアが天井から下がっていて、十数本の蝋燭が、そこで焔を上げていた。で、部屋は明るくて、壁にかけてある軍船の油絵、紫檀の卓の上に載せられてある、地球儀の置き物などを輝かせていた。
意次は部屋の隅にいた。側に長椅子が置いてあり、その上に雪のような白熊の毛皮が、剥製された頭を持って無造作に投げ掛けられていたが、腰もかけずに立っていた。仮面も装束もそのままであった。で、冠っている赤熊の毛が、まるで火焔でも背負っているように見えた。
(だから俺はこの男を──将軍という名ばかり持って、その実木偶に過ぎない男を、早く片付けようと思っているのだ)
眼の穴から──仮面の裏から、寝台の上へ、氈の上へ、尉の装束を皺くちゃにして、左の片足を床へ落とし、毛を毮られた鶏のような、毛穴の立った長い細い首を、イスパニア絹の枕へもたせ、ドロンとした眼でこっちを見ている家治の姿を眺めながら、心の奥で呟いた。
(どうやらこの頃この男は、俺に疑問を持ちはじめたらしい。だからどうしても一刻も早く。……)
「田沼」と家治は口の端から、少し泡を吹きながら云った。「どうもお前は変な男だぞ、このわしに智恵をつけようとする者を、わしから遠ざけようとするようだ。……そうそう以前にもこんなことがあった。奥医師の栗本瑞見が、わしに祖父様(吉宗)の話をしてくれた。祖父様の素晴らしかったご政治の話を。わしは大喜びで聞いたものだ。するとお前が瑞見をしかって、わしの前へ出さないようにした筈だったな。……そこでわしは思うのだ、お浦という女を一度だけ出して、その後わしに出さないのも……」
「上様」と意次は嘲けるように云った。「お浦と申すあの女、発狂いたしましてござります」
「何を云うか! ばかな事を!」
ムックリと家治は起き上がった。
すると意次は焔のような赤熊を、ユサリと揺って前へ出たが、圧迫的の覇気のある声で、
「お浦と申すあの女、発狂いたしましてございます!」もう一度いって仮面の眼穴から、家治の顔を一睨した。
これで家治は抑えられた。首を縮め肩を下げ、グッタリとなって寝台にもたれた。
何か口の中でいってはいたが、声となっては出なかった。
いわせず聞かせず見せずという、家治に対する意次の、従来とって来た教育法が、いまだにさすがに威力があって、家治を圧倒し終ったのであった。
意次は部屋を出た。
と、廊下に立っていたのは、公卿姿の貝十郎であった。それから遙か離れたところに、天狗姿の九十郎が、花四天姿の自分の手のものを、五人ほど連れて控えていた。
「貝十郎一緒に参れ」
「は」
二人は歩いて行った。
すぐ後から九十郎がつづき、少し離れて花四天がつづいた。
滑石の円柱が左右に並び、その柱の諸所に、意匠を凝らした小さい篝火が、とりつけられて燃えている廊下は、床は空拭きの寄木細工であり、天井は絵模様の合組であった。
「貝十郎」と意次がいった。「上様には困ったぞ」
「…………」貝十郎は首ばかり傾げた。
「お浦を是非とも出せというのだ。……ああいう女に心を引かれる? 嗜好というものは変なものだな。……出してあげたくてもあの狂人女、とらえられないのだから仕方がない」
貝十郎は少し考えたが、「お浦差し出すでござりましょう」
「ナニ?」と意次は驚いたようにいった。「お浦を差し出す? ではお浦を?」
「数日前にあるところで……」こういって来て貝十郎は、チラリと背後を振り返って見た。九十郎がそのとたんに、ヒヤリとしたように首を縮めた。「とらえましてござります」
「そうかそうか、それはよくした。……では至急そのお浦を……」
「実はすでにこのお屋敷へ──このようなこともあろうかと存じ、召し連れ参りましてござります」
「それはそれは、素早いことだの。いやいかにもその方らしい。ではすぐにも差し出すがよかろう。……上様にもお気の毒じゃからの」
(今夜ばかりの命なのだ)ふと意次はこのことを思った。(満足させてやったがいい)
番頭からお側衆、やがて知行も万石とされ、お側ご用人から宿老にされ、侍従に進められ連署の衆にされ、とうとう今日の位置とされ、知行も五万七千石とされた。
(随分あの男には引き立てられたものさ)
こんなことも考えられた。
(満足させてやったがいい)
廊下が左右に枝を出してい、その交叉点が行く手にあったが、この時そこへ左の方から、安宅の弁慶の仮装をした男が、金剛杖をついて現われ、立ち止まってこっちをじっと見た。
「あ」と意次は声をあげ、怯えたように足を止めた。「あれは誰だ! 何者だ! ……宴の席では見かけなかったが……」
「お招きにあずかったどなたかが、遅れて参られたのでございましょう」
貝十郎は何気ないようにいった。
「わしは嫌いだ。あの仮装は嫌いだ。……誰だろうな、思いあたらない。……人間も嫌いだ、あの人間も嫌いだ。……なぜだろうな、ゾッとする。……九十郎行って訊いて見ろ! 何者であるかを訊いて見ろ!」
意次にこういわれて、九十郎がツカツカ行きかけた時、弁慶姿のその男は、右の方へ廊下を歩み去った。
「行った、よい、捨てて置け! ……変だな、わしは汗をかいた。冷たい汗を! なぜだろう?」
意次は歩を運んだ。
こうして三人が歩いて来て、その交叉点まで歩いて来て、右の方を眺めたとたん、
「うーむ」と九十郎が唸るようにいった。
弁慶の姿は見えなかったが、羽衣の漁夫の姿をした男と、熊坂の姿をした男とが、廊下の左右、壁の面へ、何気ないように背をもたせ、じっとこっちを見ているではないか。
「彼ら何者でござりましょう。……私、ゾッといたします。……あのお方達も宴の席には……姿見せませんでござりましたが……」九十郎は譫言のようにいった。
「そうさな」と意次も審かしそうに、「宴の席には姿なかった。……誰だろう、わしには解らぬ」
「やはり遅れて参られた、賓客達でござりましょう」貝十郎だけが少しも動ぜず、そう悠々とした声でいった。
「弁慶といい、あいつらといい、変な人間が今夜はいる。……呼びもしなかった変な奴らが!」
「殿」と貝十郎は勇気づけるようにいった。「私がついておりまする。何事も大丈夫にござります」
三人はソロソロと先へ進んだ。
十数間歩いたところで、三人のものは振り返って見た。
と、弁慶と羽衣と熊坂とが、一つ所に塊まって、交叉点に佇んで、囁きながらこっちを見ていた。
「貝十郎、彼奴ら、組んでいるぞ!」
「組んでおります! 党をなしております!」九十郎も上擦った声で、「そうして私達を狙っております!」
「平戸氏! はしたないではないか! ……殿、ご安心なさりませ、貝十郎をお信じくださりませ。……貝十郎ついております!」
書院造りの母屋の一室──侍女などの控える部屋の一つに、お浦が道成寺の花子の姿で、壁にもたれてボンヤリ坐り、その横に警戒でもするように、甲賀忍び衆の仮装をした、白須源吾が附き添っているところへ、貝十郎がはいって行ったのは、それから間もないことであった。
「白須氏、貴殿はあちらへ」
「は」と立ち去ったその後へ、貝十郎はピタリと坐った。
「お浦!」と、非常に力をこめた、たとえば暗示を行う人が、被術者に対していうような、そういう声で貝十郎はいった。「上様に逢わせつかわすぞ!」
「上様へ!」
パーッと眼を開き、その眼へ歓喜の光を漂わせ、金属のような声でお浦はいった。
「上様へ……あッ、あッ、上様へ!」
「お浦、上様へ逢わせてやる! その上様一大事じゃ! ……お浦そちの力を持って、その上様の一大事を! ……よく聞けお浦、わしのいうことを!」
眼を見詰め、気力をこめ、貝十郎は教えるようにいった。
「誰であろうと上様に対し、飲み物なんど捧げたなら、そち即座に叩き落とせ! よいかお浦、解ったであろうな?」
ムーッとお浦を見詰めながら、貝十郎は噛んで含めるようにいった。
お浦はコックリ頷いたが、
「誰であろうと上様に対し、飲み物なんど捧げたら、そなた即座に叩き落とせ!」と、貝十郎の言葉を暗誦し、「わたくしが叩き落とすのでござりますね?」と、ハッキリした口調でいった。
眼が澄んで瞳が静止していた。
「そうだ」と貝十郎は力強くいった。
「上様にとっては一大事、そち必ず押し切って致せ!」
「上様のおためでございましたら。……」
「やれ!」
「はい」
「それでよろしい。……白須氏、お浦を向こうへ!」
返辞があって源吾が出て来た。
それを見すてて貝十郎は、一間をへだてた別の部屋へはいった。
招ばれて来た町方の妓女を擬し、白拍子の静の仮装をした、織江がそこに坐ってい、桐島伴作が付いていた。
「桐島氏、貴殿は彼方へ」
貝十郎の言葉に従い、立ち去る伴作を見送って、貝十郎は膝を進めた。
「織江殿」と忍びやかにいった。「兄上潜入いたしておりますぞ」
「…………」織江は頬に血の気を注し、眼に光を加えたばかりで、何んとも一言も云わなかった。兄が潜入していようとも、自分は敵の手に捕えられている身分、逢うこともならずどうすることも出来ないと、そう諦めているからであった。
「羽衣の漁夫の仮装をし、範之丞殿には潜入しおります」
「…………」
「戸ヶ崎先生も来ておられる。熊坂長範の装いしてな」貝十郎は云いつづけた。「冬次郎様にも安宅の弁慶の、変装のもとに忍び込んでおられる」
「それでは……昼間……仰せられたように……お三人様……忍び込まれて……」はじめて織江はそう云って、たかぶる動悸を抑えるかのように、そっと胸へ手をやった。
「範之丞殿潜入された理由、そなたにはご承知でござりましょうな?」
「はい……敵……九十郎を……」
「そなたも一緒に討ちたいでござろう?」
「…………」織江は俯向いて膝を見詰めた。
「拙者、そなたをお連れして以来、失礼の待遇いたしましたかな?」
「いえいえ決して、滅相もない……分に過ぎるほどご丁寧に……」
「その儀三人に逢われましたら、そなたの口からお話しくだされ」
「…………」
「その装束では万事に不都合、田舎娘の衣裳万端、小太刀も添えて隣り部屋にござる、身軽に出で立ちお出でなされ」
「まあ」と織江は声をはずませた。「それでは妾をおゆるしくだされて?」
「今日まで保護しておりましたのじゃ。……かかる機会あるようにと。……田沼様へはこの貝十郎、指一本誰にもさわらせぬ。……が、九十郎、九十郎如きは、剣鬼、無双の手利きながら、惜しくない奴、小人に過ぎぬ。……天狗の仮装いたしおる彼を、兄上ともども討ち取って、首尾よく本望をおとげなされ。……そこでわしも衣裳代えじゃ。アッハッハッ、忙がしい」
意次は庭を歩いていた。あちこちの建物からは人声がし、窓からは燈火が華やかに射し、その部屋で飲食し談笑し、悪ふざけさえしている妖怪変化の──仮装の人々の姿が見えた。
と、築山の前へ出た。その裾の辺りに二人の男が、何やら声高に話していた。
「源内に平助か」云い云い意次は近寄って行った。
「お、これはご前様で」コサック風の仮装をした男──漂流者崩れと一部の人々からは、軽蔑をもって呼ばれているが、その実は漂流した経験などはなく、自分から刻苦してロシアの事情を、いろいろ調査したり、人から聞いたりして、ロシア通となった男であるところの、工藤平助はそう云って、毛皮帽の頭を恭しく下げた。「本日はお招きにあずかりまして、光栄至極に存じます」
「どうだ平助、充分飲んだか。女もいるぞ、選べ選べ」
「充分いただきましてござります……婦人の方に至りますると、この平助ちと不粋で」
「そうでもあるまい、相当であろうぞ。……もっとも『赤蝦夷風説考』などという、しちむずかしい書籍を作り、ロシアとの貿易をわしに説きつけ、いわば開国の第一声、また国防の最初の叫び、こいつを揚げたお前のことだから、固苦しいかもしれぬのう」
「殿、さようでござりますとも。……この平助の希望とするところは、ロシアの南下を防ぐにありまして、今日のままにて打ち捨て置きましたならば、カムチャッカの者は蝦夷と合し、蝦夷もやがてはロシアの勢力に……」
「あやまる、平助、今夜は止めてくれ。……今夜は飲んで遊ぶ晩だ。……それにしても世間には馬鹿者が多いぞ。わしがお前や松平摂津の──摂津も死んでしまったのう。目先の見える偉い奴は、早死にするか殺されるか、寿命が少いのでわしには悲しい……その摂津などの意見に基づいて、開国貿易しようとするのを、密貿易、抜け荷買いなどと、誹謗する者があるそうじゃ。……わしはな外人を自由勝手に、内地に住ませてやりたいのだ。大船などもドシドシ造って、海外へ出してやりたいのだ。外国の技術、外国の知識、こいつはどうあろうと取り入れなければならぬよ」
この時築山の向こう側の、こんもりと豊かに盛り上がっていて、丘のように見える萩の叢の横へ、弁慶姿が現われた。
意次へ仮面の眼を注ぎながら、気付かれぬようにソロリソロリと、次第次第に近寄って来た。
と、意次の背後の方に、少し離れて佇んで、警護するように九十郎がいたが、その九十郎を狙うように、漁夫と熊坂とが九十郎の背後の、糸杉の蔭から現われて、こっちへ徐々に近寄って来た。
九十郎は知らなかった。
九十郎はずっと向こうにある、書院造りの母屋から田舎娘に扮した、見覚えある姿体の若い女が、こっちへ足早に歩いて来るので、疑惑の瞳を注いでいた。
(あの女織江に似ているが?)
「源内」
とこの時意次が云った。
「何をあちこち見ているのだ?」
意次にも自分を狙っている、弁慶の姿が眼についていず、で、源内へ話しかけたのであった。
「建物を吟味しておりますので」
そう云って源内は舌打ちをした。
「どうも心に充ちませぬ」
「立派に出来ているではないか。その方の設計立派なものだぞ」
「私にはさよう思われませぬ」
平賀源内は憂欝にいった。
「個々の建物にも不満があれば、綜合の仕方にも不満がござります」
「作った本人の身になってみれば、あるいはそうかもしれぬのう」
意次は頷いていった。
「政治などもその通りだ。思うように執政されることなど、ほとんどないといっていい」
「綜合統一の技量において、私腕の未熟を知り、悲しいことに存じおります」
「ところが他人からそいつを見ると、綜合統一されていて、立派な形をなしている」
「盲人千人に褒められましたところで、私にはうれしくござりませぬ」
「政治になるとそれが反対になる。盲人千人に満足され、褒められないことにはどうにもならぬ。……政治も綜合統一じゃ。さてそいつをやったとする。あっちの希望、こっちの願望、それらを万遍なく斟酌してともかくも事を行ったとする。するというところの識者という奴が、ケチつけてくさしおる。……わしにはお前がうらやましいよ。自分の頭脳一つだけで、死物、ものをいわぬ物質を使い、自由に勝手に物を創造り上げる。不満はあっても自分だけの不満だ。……わしの方はそうはいかぬ。相手は生きている人間だ。ガヤガヤと物をいう。非難攻撃、陥穽迫害! ……が、わしは恐れない! わしは力でやっつける! 一人の力で、もっぱらに政る!」
この時九十郎がツカツカと進んだ。
田舎娘の方へツカツカと進んだ。
そうしてやにわに仮面を取った。
仮面の下から現われたのは、服部織江の顔であった。
「はたして織江! おのれどうして⁉」
「九十郎オーッ!」
とそのとたんに、切り込んで来た漁夫姿!
「範之丞なるわ! 父の敵汝!」
「何を!」
と驚いたが九十郎、飛び違って引き抜いたは大陣刀、
「ヤア方々狼藉者でござるぞッ」
「お父様の敵イーッ」
とそこを目掛け、風呂敷に包み抱いて来た小太刀を、抜いて斬り込んだは織江であった。
「妹オーッ」
「お兄イ様アーッ」
「遁がすな敵を!」
詰め寄る左右の兄と妹を、右に睨み、左に睨み、天狗の仮面をユサユサ振り、
「方々掛かれよ、狼藉者でござるぞ!」
その九十郎の呼び声に応じ、遠巻きについて従って来た、十数人の手のもの花四天が、旋風に落花が一所に集まり、渦巻くように馳け寄って来た。
遮って大音声に呼ばわったは、歌舞伎の道具に見せるため、刃に銀紙、柄に金紙を、わざと張りつけ巻きつけたものの、実は真の大薙刀を、抱い込んでいた熊坂長範──すなわち戸ヶ崎熊太郎で、
「汝ら寄らばこの熊坂、薙刀見舞うぞ、下がれ下がれ!」
羆熊岩穴を出たといおうか、意次目掛けてこの瞬間、突き進んだは松平冬次郎で、弁慶姿に抜刀構え、
「姦賊、田沼、天誅ウーッ」
と、──
紫電! 横なぐり! 胴から胸へ!
が、ほとんど間髪を入れず、イスパニアふうの望楼から、投げ下ろされた黒丸子!
音!
幽かではあったけれど……
白煙立って……
漠々濛々!
数十間四方白濛々、あやめも知れない混沌の世界!
そこを素早く逃げたのは、源内とそうして平助とであった。
「平賀氏、あれは何んで、煙りでござるか、それとも何か?」
植え込みの蔭で平助がいった。
「煙りではござらぬ、白粉で。……イスパニア人がカランス殿を通して、珍しいというところから、田沼の殿様へ献上した、西班牙の捕り物の一つだそうで」
「卵の殻へ灰を入れて、目潰しとして投げるという、日本にもある捕り物の……」
「さようさよう、それと同じじゃ。ただ紅毛の品物だけに、大袈裟に精巧に出来ているまで」
「誰が投げたのでございましょうな?」
「十二神氏、あの人でござろう。いつぞやあの仁とこの拙者、その使用法を研究ましたっけ」
「何が起こったのでございましょうな?」
「さあ、どうやら誰かが誰かを、斬ろうとしたようでございますな」
不意の目潰し、濛々とした白粉、それに姿を眩まされ、互いに互いを見失い、一斉に四方へ散じたと見え、濛気が消えて晴れた後には、一人の姿も見えなかった。
戸ヶ崎熊太郎は亭の蔭にいた。
丘から遙か東へ離れ、ポッツリ建ててある支那風の亭の、背後に一人立っていた。
(殿は? 範之丞や織江殿は?)
で、じっと耳を澄ました。
広い屋敷の構内であった。
これほどの事件が起こっても、建物の中で酔い乱れ、戯れている人々にはわからなかったと見え、無数の建物から無数の人声が、陽気に華やかに聞こえて来た。
(探さねばならぬ)
亭の蔭から出た。
そこを目掛けて二人の花四天、さっきから地に伏し狙っていたが、声も掛けず斬り込んだ。
キリキリ! 宙で、大薙刀を!
廻してサーッ!
「ギャーッ」
仆れた!
足が胴からもげていて、夜目ながら大巾の血の河が、二筋流れ出、地をぬらしている。
眼にも止まらぬ早業で、石突きを返したと思ったが、もう一人の花四天の剽軽な姿が、月へ上がって行くかのように、空でハッキリ大の字を描いた。
落ちて来たところを刃の先でとどめ!
「不愍ではあるが……」
と呟いて、血にぬれた薙刀を肩にかつぎ、物の具ユサユサとゆすり上げたかと思うと、
〽熊坂思ふやう、ものものし其の冠者が、斬るといふともさぞあるらん、熊坂秘術を奮ふならばいかなる天魔鬼神なりとも、中につかんで微塵になし……
と、朗々と「熊坂」を謡い出した。
と、その熊太郎の声に答え、築山の彼方西の方から、
〽いかに弁慶、さても唯今の機転更に凡慮のよくなす業にあらず……
と、冬太郎の謡う声が聞こえて来た。
(殿は向こうか。よオし、では……)
熊太郎は小走った。
冬次郎の謡う声を聞いたのは、戸ヶ崎熊太郎ばかりでなく、虎の伏した形に刻んである大岩の蔭に身をひれ伏し、敵や何処? 九十郎や何処と、見廻していた範之丞と、織江との二人にも聞こえて来た。
戸外の騒動には関係なく、阿蘭陀風の建物の、阿蘭陀風の寝室では、家治とお浦とが話していた。
「わしは大変寂しいのだよ。誰も彼もわしにものを隠してのう。……奥へ行けば女どもが、にわかに話を外へ反らし、あらぬことをいい出すし、表へ行けば家来どもが、やはり話を外へ反らして、あらぬことをいい出すのだよ。……それでいて蔭ではわしのことを、いろいろうわさしているらしいのだ」
白熊の毛皮のかけてある長椅子、それへ倚りながらこういっている家治、その家治に手を取られながら、お浦も長椅子に腰かけていた。
身分の相違は甚だしくて、ほとんど比較にもならなかったが、心に相通う何物かがあって、それで結びついているからであろう、そうやって寄り添って話している二人が、変にも畸形にも見えなかった。
狂女ながらも逢えた嬉しさは、正気の女と変わりないが、うっとりとした潤んだ眼で、お浦は家治の顔を見詰め、握られている手に力をこめ、家治の言葉の一句一句に、それを締めそれを緩めた。
そうして、
「上様、上様」
とばかりいった。
恋いこがれていた心持ちを、ただその言葉とその動作とだけで、告げ知らせるより他にはない、無策の無心の狂女だからであった。
シャンデリアの光に髪に差してある、銀簪のピラピラが、燐火を燃やしているように見えた。
「誰もが本当のことを話してくれない、だからわしにしても誰の耳へ、本当のことを話していいか見当がつかなくて困っているのだよ」
穏やかといえば穏やかに見え、意気地がないといえば意気地がないようにも見える、眼尻の垂れた細い眼に、家治は涙さえ溜めていた。
女と酒と不摂生と、抑圧された精神とで、家治の脳は久しい前から、低下を告げているのであった。
口の端には泡が吹かれていた。
「越中へ頼むのがいいのだが、越中とばかりは逢えぬからのう。誰かがきっと側にいるのだよ。……だからお前へ頼むより他は……」
酔いも廻り切っているらしかった。
感情ばかりが先に立って、理性が失われているようでもあった。
「それにわしはどう考えても、永い命はないように思う。……ここが悪いのだ、ね、ここが」
こういって家治は後脳を抑えた。
「ここも悪いのだ、ね、ここも」
こういって今度は額を抑えた。
「そうしてここも悪いようだよ」
胸の上をオズオズと抑えた。
「永いことはない。……死ぬだろうよ」
「上様、上様!」
とお浦は叫んだ。
死ぬという意味は狂った頭脳にも、悲しいこととして解っていた。
上様が死ぬという! 永い命はないという!
お浦には悲しくも恐ろしかった。
「上様、上様!」
とお浦は叫んだ。
そうして堅く上様の手を、掌の中で握り締めた。
涙が後から後からと湧く。
泣き声が細い笛の音のようにやがてお浦の口から漏れた。
「お浦、いけない、泣いてはいけない」
いいいい家治は眼を閉じた。
眠りが襲って来たかららしい。
「泣くな」
自分では眠りはじめた。
お浦の泣き声が遠い里あたりの、笛の音のように感じられ、家治には快くなって来た。
ウツラウツラした気持ちの中へ、一人の少年が現われて来た。少年の前に貴人がいた。
その前で少年は大字を書いていた。犬という字を書いていた。
大の字を余り大きく書き、点の打ちどころがなくなった。
と少年は躊躇もせず、畳の上へ点を打った。
「よし、その覇気で一生を貫け」
貴人、祖父、八代将軍吉宗、そう吉宗は喜ばしそうにいった。
少年は若き日の家治であった。
(俺にもああいう時代があった)
ウツラウツラとした心の中で、そう家治は呟いた。
(それだのにどうだ、その後の俺は?)
将軍職について二十四年、その間における生活といえば、何物か強い力によって、絶えず上から圧せられながら、酒と女と遊楽と阿諛と、「ああよろしい」「ああそうせい」といわれるままに従って、自分の意思など通そうとはせず、また通すことの出来なかった生活──そういう生活の連続であった。
こうして今の有様となった。
(後継だけは! 後継だけは!)
もう自分は余命とても少く、たとえ永く生きられたところで、身心を昔に取り返すことも、意思的生活をすることも、出来そうもなく思われた。
で、せめて後継だけは、最初であり最後でもある、たった一つの意思の貫徹! それとして自分で定めたい!
(養子ではあるが可愛い家斉を、どうあろうと将軍職にしたい!)
それとても現在の有様では、覚束なく危険に思われるのであった。
遺言などをいったところで、中間で消されてしまうであろう、書いて文庫などへ入れて置いても、中間で破られてしまうであろう。
(遺言を書いて松平越中──定信の手へでも渡して置いたら、まず安全と思われる)
是非そうしたく思うのであったが、そう思うようになった昨今、越中守と自分との間を、田沼が極度に警戒し、絶えず傍らに人を附け、自由の行動や秘密の話を、させないように計っていた。
(でもどうしても越中へ……)
今も家治は思っているのであった。
「お浦」
と家治はオロオロ声でいった。
「頼む、これを渡してくれ……」
いいいい懐中へ手を入れて、紐のついた金襴の小袋を出した。
「これをお前から越中へ──定信の手へ渡してくれ」
涙がポタポタと膝へ落ちた。愚に返っている彼であり、酔えば泣く彼であるからでもあったが、身将軍でありながら、こんな女の手を通して、柳営に関する一大事、後継に関する遺言状を、思う家臣の手へ渡さなければならない。──ほとんど一人の味方もない寂寥、高位高官であるがために、かえって凄くすさまじい孤独! それが感じられて泣けたらしかった。
「これをお前から越中へ──定信の手へ渡してくれ。……妾から渡すのでござりますのね」
大事そうに金襴の袋を戴き、一生懸命に握りしめ、そうお浦は暗誦するようにいった。
その時隣室から扉をあけて、薬湯を捧げて仕丁姿の、奥医師日向陶庵が、刻み足をしてはいって来た。
市井の医であった日向陶庵が、同じ市井医若林敬順と、奥医師に推轂されたのは、ほんの最近のことであり、推轂したのは意次であった。
自分の意のままに働かせようと、そう思って推轂したことは、いうまでもないことであった。
薬湯を捧げている陶庵の躯が、麻幹のように顫えていた。
尋常の薬湯でないからである。
平賀源内が苦心をして、蘭医の杉田玄白から、分けて貰った砒石の一種、相当永い時間を経た時、人の命を安らかに取り、しかも痕跡を残さない毒素、それが入れてある薬湯だからであった。
それを将軍家に進めなければならない。
前代未聞の大悪逆! それをやらなければならない自分! ──そう思った時いかな悪医でも、戦慄しないではいられないではないか。
「酔いをお醒まし遊ばしませ」
こういった声も顫えていた。
顫えた声でそういいながら、マジョリカ皿へ載せたギヤマンの湯呑みを、陶庵はおずおずと差し出した。
「渇いていたところだ、どれ」
といって、家治は手を差しのばした。
と、不意にお浦の手が、横から延びて払い落とした。
「あッ」
と陶庵が叫んだのと、払い落とされたギヤマンの湯呑みが、床の上で懐れたのと、お浦が立ち上がったのとは同時であった。
「狼藉! 勿体ない! 狂人! いや、……オオお浦殿、お浦殿には!」
「誰であろうと上様に対し、飲み物なんど捧げたなら、そなた即座に叩き落とせ! ……叩き落とした、叩き落とした!」
「敬順殿、この女を!」
叫んだ陶庵の声に応じ、扉を排して仕丁姿の、若林敬順が飛び込んで来た。
将軍家のお前だということも、より恐ろしい田沼様の命を、やり損ったということに対する、恐怖に比べては何んでもなく、やり損なわせたお浦に対する、怒りが二人を狂人にした。
「この女を!」
と追い廻した。
狂女特有の例の敏捷、お浦はゲラゲラ笑いながら、長椅子、椅子、卓の周囲を、巧みにまわり逃げながら叫んだ。
「叩き落とした、叩き落とした」
部屋の隅へとうとう追い詰められた。
と、これも狂女特有の、強い力で椅子を掴むと、お浦は高く振り上げた。
ピューッ!
ガラガラッ!
火の雨! 火の雨!
シャンデリアが椅子に叩き壊され、無数の蝋燭が降って来た。
火焔!
燃えついた! 毛皮へ、氈へ!
「火事だ!」
「一大事!」
「お浦ヨーッ」と、これはこの時まで意外の出来事に、呆然としていた家治であった。
二人の医師は隣室へ逃げた。
つづいて家治もお浦を抱え、火を払い払い隣室へ逃げた。
すぐ火が後を追って来た。
四人は廊下へ走り出た。
すぐ火が後を追って来た。
忽ち窓から吹き出す焔、蜓って昇る黒煙り、八方へ散って乱れる火の子、阿蘭陀風の屋敷は火となった。
悲鳴、叫喚、逃げ惑う男女!
歓楽に耽っていた人々も──イスパニア風、ロシア風、支那風に造られていた屋敷屋敷で、乱痴気騒ぎをしていた人も、悲鳴をあげて走り出して来た。
消すもののない火事であった。
見る見る四方へ燃え移った。
外見も外聞もなくなって、ただ逃げよう、ただ助かろうと、他人を突き退け踏みにじり、自分もこけつまろびつする人々!
仮面を脱ぎ仮装を引き千切り、跣足になって走って行く。
二人の男がぶつかった。
二人ながら仮面を落とした。
一人は田沼主殿頭によって、大老職に引き立てられたが、完全に木偶にされているところの、彦根中将井伊直幸であり、もう一人は茶坊主の珍阿弥であった。
「無礼者!」
と珍阿弥が怒鳴り、
「失礼、ご免、お許しくだされい!」
と、ご大老が謝った。
逆上している証拠である。
火の蟒!
そっくりそうだ!
のの字を描き、しの字を描いて、風に捩れ束になった焔が、蟒のように蜓って来る。
こういう修羅場を突破して、冬次郎と熊太郎と範之丞と織江とが、一つに塊まって走っていた。
花四天十数人に周囲を囲ませ、十二神貝十郎と伴作と源吾と、そうして九十郎とに護衛され、意次がここの境地から、構外へ遁がれ出ようとして、走って行く姿が遙か向こうの築山の裾の辺に見えたからであった。
「上様は?」
と貝十郎はいった。
他の連中はほとんど誰もが、将軍家のことなど忘れていた。
「上様は⁉」
と貝十郎はいった。
その貝十郎は公卿姿ではなく、伴作などと同じ姿であった。
今はほとんど珊瑚の楼といおうか、火になっている阿蘭陀風の屋敷の、すぐの近くに煙りに巻かれ、派手やかな女を横抱きにした、尉姿の男が起きつ倒れつ、走りもならず喘いでいるのが見えた。
「上様とお浦だ! 上様とお浦だ! ……白須氏、桐島氏!」
と叫んで貝十郎は走って行った。
つづいたは二人の同心であった。
と、その時一人の女と、二人の男とが走って来て、家治とお浦とを舁き上げた。
「外伝と……新助と……勘助か……あいつならいい、任せて置け。……いやならぬ、お浦だけはならぬ! お浦だけは取り返せ! 白須氏、お走りくだされ!」
貝十郎はこういったが、気がついて振り返った。
「しまった!」
と叫ぶと走り返った。
「桐島氏! 桐島氏! ……殿を、殿を、ご介抱!」
その殿田沼意次へ、追い迫る冬次郎の姿が見えた。
金剛杖に仕込まれた刀が、長く高く上がったのが見えた。
「エーイ!」
と声を長く引き、貝十郎は何か投げた。
両端に分銅を持っているので、堤宝山流の投げ鎖は、深紅の空で蜓らず曲がらず、一文字の姿で飛んで行った。
「姦賊! 田沼!」
と冬次郎は、振り冠った刀で肩をズーン! が、刀はグラグラと揺れ、狙い狂って空を切った。
鎖が刀身に搦みついている。
追いついた範之丞と織江とが、
「今度こそ遁がさぬ、九十郎オーッ」
「お父様の敵! ……重なる怨みイーッ」
と、左右から切り込んだのはこの瞬間であった。
「猪口才! 何を!」
と九十郎は、左右に払って後退ったが、あやうしと見たか花四天ども、中を駈けへだて競いかかった。
が、その中の二、三人は、混乱の中では長柄は不利と、薙刀投げすて刀引き抜いた、熊太郎のために切り倒され、その間も寄せて来る人なだれの、足に踏まれて七花八裂!
この間に遁がれ行く九十郎!
後追いかける服部兄妹!
が、邪魔するは人なだれで、次第次第に遠ざかり、遠ざかりながらも敵も味方も、大勢に連れ外へ外へ──逃げ水屋敷の外へ外へと、押し出され流れ出た。
外へ出た。
四散する人々。
立ち昇る焔、焼け落ちる棟々、ぼんやり出ている月を包んで、火の粉を梨地に含みながら、空を蔽う煙り煙り! 槿花一朝の夢として、武蔵野に現われた阿房宮、逃げ水屋敷の燃え崩れる姿を、背景にして四散する人々!
機を見て構内へ切って入ろうと、構えの外に潜んでいた、熊太郎門下の壮士達が、意外の出来事に飽気にとられ、今はかえって避難の人々を、助けている姿が諸所に見えた。
翌年の春が訪れて来た。
冬次郎は熊太郎とその門下の、清三郎とを供に連れ、他に外伝と新助と、女勘助とを従えて、信濃の方へ旅に出た。
漫然とした旅ではなく、天変地妖と田沼の悪政とで、中央は腐敗し地方は疲弊し、社会全体綱紀が弛み、町民百姓の直接行動が流行り、農民達は一揆を起こした。そうして将来いよいよますます、そういう傾向になるらしい。──と、そんなように感ぜられたので、地方の様子を視察して来ようと、それで出かけた旅なのであった。
事実この時代の天変地妖は、物恐ろしいほどであって、明和七年から八年にかけ、諸国は非常な旱魃に襲われ、小田原のごときは一日一人に、水一升とされたほどである。
安永二年には疫病流行、三月から九月までで江戸市内だけで、十九万人が死んだそうである。
天明三年に勃発したところの、信州浅間山の大爆発は、前代未聞というべきであって、七月六日に青灰降り、七日に至って軽石降り、八日の朝に至っては、藤岡あたり灰八、九寸つもり、高崎辺は一尺四、五寸、松井田に至っては三尺もつもり、軽井沢、沓掛、追分などへは、二抱えもある大石降り、人家ことごとく倒壊し、山を出た猪、熊、大蛇など、人畜を無数に殺傷し、川水かれ、ある水は熱湯となり、山林すべて火となって燃え、やがて山ヌケ出現し、田畑家屋人畜草木を、一挙にして埋め尽くし、縦二十五里、横七、八里、一物なきまでにしてしまった。
村数にして百二十三、人口にして三万五千人を、滅し亡ぼしてしまったのである。
冬次郎は主としてこの地方の、その後の様子を知ろうとして、こうして旅へ出て来たのであった。
信州諏訪の郡高島の城下(今日の上諏訪町)そこへ一行がついたのは、三月上旬のことであった。
脇本陣へ宿を取った。
その翌日の午後であったが、外伝と新助とは連れ立って、お城下見物に宿を出た。
「殿様とご一緒では窮屈でな」
「第一生物が食われねえ」
「その生物にもいろいろあるが」
「いうまでもねえ生きた貝さ」
「信濃で貝はおかしいぜ」
「諏訪にゃア名物の蜆があらあ」
「蛤じゃアねえのか蜆っ貝か」
「大と小との相違だけだア」
「大きな蜆っ貝目っけようぜ」
「日のあるうちから見つけてよ、夜になってから開かせるんだ」
「そこでこっちの肉ばなれってやつが……」
「当座助かろうっていうものさ」
戯口叩きながらぶらついた。
三万石のお城下である。大して繁華でもなかったが、でも時候は春であった。寒国ゆえに桜はまだ、梅があちこちに咲いていて、着飾った人々が出歩いていた。
風景ばかりは美しかった。
一方に蓼科、八ヶ岳の、山々が聳えているかと思うと、一方には今日の日本アルプスの、消ゆがに見える連峰が、まだ深々と雪をかつぎ、遠く淡く流れて見え、その前備えといったように、伊那の地へ越せる山脈が、牛の背のように起伏している。
四方山々に囲まれた盆地、これぞすなわち諏訪の平、その中央にたたえられているのが、鵞湖──諏訪の湖で、廻れば周囲四里はあり、その岸に春陽に甍を光らせ、諏訪困幡守様の高島城が、浮かぶがように立っている。石垣には波が寄せていた。
蜆っ貝を目っけながら、二人の不良は城下外れの、盛り場までやって来た。
遊廓というのも気恥ずかしいような、そんな遊廓を中心にして、煮売り屋、小茶屋がゴチャゴチャあり、江戸両国の盛り場を真似た、掛け小屋なども出来ており、手品、軽口、不具の見世物、そんなものをやっていた。
江戸の淫靡廃頽の気分が、剛健質実の地方へも伝わり、いやらしい化粧の女などが、ピラリシャラリと出入りしている。
「蜆っ貝の本場へ来たぞ」
「さあ掘れ掘れ、掘り出そうぜ」
とたんに二つの蜆っ貝が、二人の腕へ食いついた。
「寄って行かっせに、放さねえだアー」
「ワーッ、新助、助け船だアーッ」
「いけねえこっちも難船だアー、……櫂が、じゃアねえ腕がもげらアー」
「美い娘がいるだアー、寄って行かっせえ 〽こぼれ松葉を手で掻き集め、コラコラ、主さ来るかと焚えて待つーウ……歌もうたうだア寄って行かっせえ」
「ヤーイ新助、主どうする」
「魘されらア、逃げろ逃げろ」
振り切って露路へ飛び込んだ後から、
「文なし野郎。一昨日来う!」
悪罵する女の声がした。
「あたったらしいぜ、オイ新助、お前お宝持ってるかい」
「バラ銭集めて両と二分」
「ご大相もないお大尽だ、それだけありゃア明日まで抱けらア」
とたんに一軒の格子戸があいて、
「お二人さんえ、寄って行かしゃんせ」
「出たア新助、またいけねえ」
「どころの騒ぎか、ちょいと見な、滅法もねえ、尤物だぜ」
だいぶ窶れてはいたけれど、ネットリとした色気を持った、地女などとは思われない、ひどく垢の抜けた三十がらみの女が、暗い屋内を背にしょって、スラリと立っているではないか。
「こいつア素敵だ」
と外伝はいった。
「おい新助、俺ア寄るぜ」
「が、女は一人だぜ」
「ところが客は二人と来ている」
「籤で行こうか、拳で行こうか」
すると女はニンマリ笑い、
「ご一緒でいいじゃアありませんか」
「え、二人をばんこに取るのか」
こいつあ参ると外伝がいった。
「お二人さんさえよろしかったら」
「おい新助エー、どうしたもんだ」
「改めて兄弟になるばかりよ。……いいじゃアねえか、洒落てらア」
「洒落てるともよ、じゃア捻じ込め」
二人は私娼窟へはいったが、しばらく経つと化かされたような、トボケた顔をして飛び出して来た。
「新助エー、いっぺえ掛かったなア」
「囮があんまりよかったからさ」
「俺の敵娼に出て来た女、ご丁寧な黒あばたさ」
「まだそれなら御の字だ、こっちへ現われた女とくると、眉毛と唇とが欠けてるんだ」
「饑えていたって手は出せねえ」
「別の蜆っ貝めっけようぜ」
露路を通りへ出たとたんに、羊羹色の黒紋附き、袴なしの着流し姿、編笠を深々とかぶっている、尾羽うち枯らした浪人の、典型であるといったような、そういう武士とぶつかった。
やり過ごして二人は振り返ったが、
「見たことのある野郎だなア」
「そうよナー誰だったろう?」
が、しかしもうそういった時には、その浪人は露路へ反れていた。
手荒く私娼窟の格子を開け、
「お吉」
と、声をかけながら、暗いじめじめした部屋へ通った。その浪人は平戸九十郎──本姓臼杵九十郎であった。
「お帰りかえ、いいご機嫌ねえ」
長火鉢ともいえないような長火鉢の前に、茶箪笥ともいえないような茶箪笥を背にし、先刻外伝たちを誘き入れた女──玉菊のお吉がさも伝法に、片膝を立てて坐っていたが、
「朝風呂、丹前、長火鉢、そんなご大相な身分でもないのに、昼から酒とは豪気だねえ」
と、腹立たしそうな声でいった。
「戻る早々お小言か」
なるほど酔っている九十郎であった。
九十郎は酔った巻舌で、少オし廻らぬ口説でいった。
「自棄が手伝っての昼の酒さ、まあそうガミガミいわねえものだ」
編笠を脱いで抛り出し、両刀を取って脇へ置くと、火鉢を中にお吉と向かい合い、
「どうだ今日の商売は?」
「江戸者らしい二人の野郎が、昼中女が欲しそうに、露路をキョロキョロあさっていたから、引っ張り込んで奥へ寝かし、お金とお由とをあてがったところ、厭だの違うのと吐かすじゃアないか……」
「そこでお前が出たってわけか」
「おふざけでないよ、何をいうんだよ、……もっとも妾が出たことは出たがタンカを切って嚇しつけて、取るだけのものを取ったまでさ」
「だんだん技量が上がることのウ……頼もしいお神さんを持っているので、浪人になっても干乾しにもならず、俺アくらせるというものさ」
逃げ水屋敷の大乱闘、それが浪人する原因であった。
「警衛の任にあたっていた汝が、この手落ちは何事か!」
主殿頭は激怒した。
「九十郎をとらえて打ち首にせい」
伝聞した九十郎はお吉を連れ、その夜のうちに逐電した。
田沼様に睨まれては江戸は愚か、どこへ行こうと安穏ではいられぬ。
その後の九十郎は悲惨であった。
奥州街道や中仙道、なるたけ辺鄙の個所を選び、博徒や香具師などの頭をたより、用心棒や剣術の指南、そんなことをして日を過ごした。
それも長くはいられなかった。
田沼様に睨まれている浪人者と、そう知られては所の領主に、とらえられて渡される虞があるからで。
長くて一月とはいられないのであった。
流れ流れてこの地へ来たのは、二月足らずの以前のことで、窮余の策から妾のお吉が、むかし女郎であったのを幸い、私娼となって稼ぐことになり、ここの露路のこの家を巣に、同じ商売の女二人を、出入りさせて稼ぎはじめた。
と、こいつは少しあたった。
この辺へ来ればお吉の縹緻が、ずば抜けて美しいからであった。
そこで九十郎も酒が飲め、友は類を呼ぶ悪友の、喜連川の浪人櫛木団八、津軽侯の浪人司馬又助──などという輩と押し廻り、賭場へ行っては賽をころがし、女郎屋や小料理屋へ出かけて行っては、強請がましく只で遊んだりした。
うるさがたになってしまったのである。
それにしてもどうにもお吉にとって、不思議でならないことがあった。
半月ばかり前からのことであるが、それまでは立てて養ってくれる、自分に対して恩を感じ、気の毒にも感じているからか、以前にもまして大切にし、縋るようにしていた九十郎が、にわかに変に物を隠したり、厭味をいったり乱暴をしたり、二、三日前からは事もあろうに、
「のうお吉、お前の商売、まずもって厭アなものさ。やがては瘡を掻くだろう、鼻が落ちたり眼がつぶれたり、膿がジクジク流れ出したり……といってそいつを止めさせるような、好い運、俺にゃア巡って来ねえ。来ねえ来ねえ絶対に来ねえ、甲斐性のねえ亭主だアね、……別れた方がよさそうだのう」
と、別れ話を持ち出したではないか。
そういうことには敏感のお吉、
(他に情婦をこしらえやアがったな)
(もしそうならどうするか見やがれ!)
で、今日こそは確かめてやろうと、決心をしていたのであった。
「ねえお前さん」
とお吉はいった。
「正直にいったらいいじゃアないか」
「何をよ」
と九十郎はこの頃になって、わけても下卑て来た言葉つきでいった。
「何を正直に申し上げますので」
「お前さん、増花作ったね」
「えッ」
こいつは痛かったらしい。
肘枕をして寝ていた躯を、ヒョイと起こすとお吉を見詰め、
「ナ何をいやアがるんでえ」
「ふふん」
とこっちも莫連のお吉、嘯くように鼻でいい、蜘蛛の緯に煤が紐のようにたかり、無数に垂れている天井へ、濃化粧の白い顔を向けた。
「出来たら出来たといったらよかろう」
お吉はやがて嘲けるようにいった。
「妾の嫌いななア持って廻って、厭がらせの散々ッ腹、出て行けがしにあつかわれることさ」
「そうか」
と売り言葉に買い言葉──いやそれ以上にいい機会だ、こんな時ズバリとやってしまえ! ……そう九十郎は思ったらしかった。
「そうかそれじゃアあっさりといおう、俺アお前に飽きが来た、別れようぜ、なアお吉!」
「…………」
お吉は無言で九十郎を睨んだ。
火が──嫉妬と猜疑と憤怒、その火がチロチロと眼に燃えている。
「情婦が出来たか出来ねえか、そんなことアいう必要はねえ、飽きたから別れようとこういうのだ。おっこちなんていうもなア、いわば合わせものに離れもの、好きな間だけ一緒にいてよ、厭になったらオサラバさ。出来た隙間を無理につないで、友白毛まで添いとげる──というやつは高砂やアと、仲人っていう剽軽者がはいり、謡ってこしらえた夫婦だけさ。こいつア窮屈でお歯に合わねえ。ナーニそういう夫婦にしてからが、縁がなけりゃア別れてしまう。そこへゆくとこちとらの仲はいいや、誰もが仲へはいったんじゃアねえ、一緒になろうヨ、ようござんすと、くっ付き合った仲だアね。そこで別れもアッサリ閑だ。……お吉、俺ア別れるぜ」
起こした体をまた横にし、雨もりの跡やら黴の跡やら、斑紋だらけの古襖の裾に、これだけは艶かしく置いてある、緋の胴がけの三味線へ、冷たい視線を投げてやって、九十郎はいい放した。
(恋どころか怨みもねえ)
そういったような態度であった。
と、お吉の歯が鳴った。
ペッと吐き出したは食い千切った、ほつれた鬢の毛であった。
「オイ、それでも人間かい!」
またキリキリと歯を鳴らした。
「飽きが来たから別れるって! 厭になったから別れるって! オイ、それでも人間かい! いいえさ人間のセリフかよ! ……そうじゃアないか、ねえお前さん、これが普通のくらしをしていて、お互い尋常のくらしをしていて、別れるというなら話になる。何んだよ妾にこんな商売、前尻売らせて置きながら、それで食いつないで置きながら、飽きが来たから別れよう! ……チ、畜生! お前という男はなアーッ」
長火鉢の横を躄って廻り、お吉は九十郎の枕上へ来た。
「へい、さようでござんすか、それじゃアおたっしゃでさようならと、別れてやったら九十郎さん、お前には都合がいいだろうが、妾アそれじゃア納まらないよ。……元の体にして返しゃアがれ!」
モロに男の襟を取った。
平然として取らせながら、
「玉菊のお吉でござんすなどと、大口を叩くお前だが、やっぱり女十八番の、喚いて泣いて胸倉を取って、こづき廻して引っ掻いて……という醜態をさらすそうな。……ナ、何んだって元の体にしろ? ……女郎にして返せとこういうのか! ……いと易いことだ、叩き売ってやろう。……が、そいつも面倒か、お吉、俺アもう行くよ」
立ち上がった九十郎の裾を膝で、必死と抑え両手で袖を、お吉はとらえて睨み上げた。
睨んでいる眼からは手繰られるように、涙の紐が頬に引かれている。
「それじゃアどうでも妾をすてて……」
お吉はとうとう泣き声を漏らした。
「出て行く気かえ、九十郎さん!」
「そうよ」
と九十郎は尻眼を飛ばし、お吉の顔を見返ったが、
「止めたところで止まらねえ俺だ、愚痴も口説も聞き飽きた。未練のあるうちよ、そんなもなア」
振り切ろうとする袖をいよいよ、堅くとらえてお吉は放さず、
「わしゃもういわぬ、悋気はいわぬ、あくどくいったこれまでの厭味、堪忍しておくれよ九十郎さん! ……厭だ厭だ別れるなんて厭だ! ……義理や掻い撫での人情で、何んで妾がお前さんのために、こうまで下がった商売しようぞ! 先の出世、行く末の安楽、何んでましてやそんなことを思って、私娼夜鷹に零落れよう! ……思っておくれ妾の心を! 好きだからだよ、お前さんが! ……そういう妾を振りすてて……行くとはあんまりな、あんまりでござんす! ……従いてく! 妾ア、どこまでも従いてく!」
「遅いや!」
とそいつを振りもぎり、なお這い寄って手に搦むお吉を、九十郎は邪見に退け、
「半月遅エや、半月なあ。……秋社の梅林の花見帰りに、ゆくりなく助けた大家の娘……」
「何んだとえ?」
「おっといけねえ、こっちの話だ。……お吉、それじゃアもう逢わねえぜ」
「阿漕だ! ……九十郎さん……そんな非道!」
足に搦みつきやるまいと締める、そのお吉をドッと蹴り、
「わッ」
と悲鳴、なお追う奴を、提げた刀の鐺で脾腹を……
「キャッ」
「態あ……」
土間へ下りた。
「痛! ……痛々! ……ま、待って!」
脇腹を抑えてズルズルと、土間まで下りたお吉の眼の前へ、開けられた格子戸がピシャリと閉まり、小走って行く雪駄の音! ──
九十郎は行ってしまった。
お金もお由も裏口から、とうに帰ってしまったと見え、出て介抱をするものもなく、膏薬だらけの古畳、ところどころ肋骨を出している壁、高いところにたった一つだけ、明りとりの窓があって、そこから陽の光が射して来るばかりの、陰惨とした部屋の中には、お吉ばかりが呆然としていた。
(捨てられてしまった。一人になった)
夢のような気持ちがした。
(ナーニ)とお吉は不意に思った。(ああはいっても一時の短気、思い返して帰って来るよ)
長火鉢の前へベッタリと坐り、頤を寒そうに襟に埋め、急に乙女になったかのように、ションボリとして考え込んだ。
ふと三味線を取り上げたのは、気を紛らそうためだったろう。
鼠が二、三匹棒のようにつながり、膝の向こうを横切って走り、太紐のような鼬がその後から、背を波立たせて追って行った。
〽ありし夜店をそのままに
後世のともしと明らけく
弾いたはやっぱり玉菊であった。
声が乱れてホロホロ泣かれる。
「姐ご」
とその時格子をあけて、男が一人はいって来た。
喜連川の浪人櫛木団八、四十そこそこの男であった。
「相変わらずの玉菊か、そいつよっぽど好きと見えるなあ」
春の塵埃でよごれた足を、バタバタと叩いて上がって来た。
(好かない奴)
と思ったが、こんな時には話相手が欲しい、三味線を横へ押しやると、
「まあお坐りな」
とお吉はいった。
「どうした風の吹き廻しか、今日は滅法愛想がいいの」
火鉢を前に近々と坐り、
「ついでに日頃の念願ってやつを、どうだい……」
とお吉の手を握った。
「友食いばかりはご法度だよ」
「別れてしまやア九十郎とは他人、俺と出来たって何が友食いだ」
「何んだって、別れたって……」
「いま道で九十郎と逢って聞いた」
「…………」
「合わせものが離れものになったそうだの」
「九十郎さんがそんなことを……」
「脇本陣の素封家の、楢屋佐五衛門の一人娘、お浜という十九の初花に、想われて見りゃア九十郎だって魂フラフラになるだろうよ」
「ほんとか!」
とお吉は顫え出した。
「そりゃアいつから⁉ ……さあ話して!」
「又助と俺と九十郎とで、秋社へ梅見に行ったなア、半月ほどの前だったかしら。……その時藩の悪侍どもが、これも梅見に行っていたお浜の、厭がるやつを無理に呼んで、酒のお酌をさせたのをはじめに、悪いふざけ方をやり出したので、そこは廃れても九十郎だ、武技にかけちゃア凄いものさ、二、三人取って投げつけて、お浜を助けたのが縁となりだ……」
「その娘と出来たのかえ?」
「出来た出来ねえそれどころか、養子に貰ってくれなかったら、妾ア死ぬと大変な執心──その娘の執心よ。……箱入り娘は初心いからなあ。……そこへつけ込んで細工をし、からくっているのが又助だ。……そこでとうとう九十郎め、今夜楢屋へ出かけて行き……」
「そんなに進んで……もう養子に……」
「というところまではまだまだだが、主人の佐五衛門と表立って、会うというところへまでは進んでいる。……そこまで漕ぎつけりゃア大丈夫だ。何んといっても九十郎は美男、人品骨柄も卑しくねえ。……馬子にも衣裳髪形、借り着でも何んでも晴着をひっかけ、押し出して行ったらあの男、立派な若殿に見えるからなあ」
突然お吉は立ち上がった。
「どうした? どこへ? オイお吉!」
「そう聞いちゃア我慢は出来ぬ。妾ア楢屋へ捻じ込んで行って、九十郎の素姓を洗いざらい、ぶちまけて縁談の邪魔してやる。……ご老中田沼のお殿様に、睨まれている、そればかりか、服部兄妹に親の敵と、狙われている身だとねえ」
フラフラとお吉は土間の方へ行った。
「あばれ込むなアいいとして、打ち明けてやった俺へのお礼、おいお吉どうする気だ」
追い縋る団八の頬のあたりを、お吉はピッシリ食らわせたが、
「これがお礼さ、身に滲みたかえ!」
よろけた団八の足に踏まれ、三味線が折れて絃が切れた。
「ヨーシ、何も彼もバラバラにしてやる! 女の一念! 執念で!」
お吉は格子の戸へ縋った。
同じこの日のことであった。
高島の城下から一里ほど離れた宮川の里茅野の郷の、立て場の茶屋で服部兄妹、範之丞と織江とが雲助や馬方に、何やら難題をもちかけられていた。
「高島まではなかなかの難路、谷もありゃア、坂もあり、渡るに渡られねえ荒エ河もあるんで、それに奥方だか情婦だか、そんなこたア知らねえが、お連れのお女中お疲労れのご様子、そこで親切に駕籠オ進めたんで」
「俺らア馬ア進めただア」
「するとどうだい何んにも入らねえ、馬も入らねえ、駕籠も入らねえとよ」
「そのあげくに執拗く申せば、……」
「手は見せねえと仰せられる」
「えへ、その手だが細っこくて綺麗で……ナーニ刀ア持つ手じゃアねえ。舞い扇持って舞台へ出る……」
「歌舞伎者の手だア馬鹿にするねえ」
「情婦ア連れてのイカサマ道中、見破れなくて街道筋の、稼ぎが出来ると思っているけエ」
範之丞は美貌で華奢、それでどうやら雲助や馬方、河原者の変装と思ったらしい。
と、それ以前から四十一、二の、赭ら顔の骨太の武士が群集にまじって見ていたが、この時ツカツカと割ってはいった。
「これこれ貴様たち悪い奴だ、道中不慣れのお方と見て、ゆすりかけるとは何事だ、ナニ高島まで難路だと、谷もありゃア坂もあるって、馬鹿申せ途方もねえ、一路平坦安楽の道だ。……拙者が仲裁、立ち去れ立ち去れ。……と申しても仲裁役、金を使わぬと男が上がらぬ、ソレ持ってけ、蒔くぞ蒔くぞ」
バラバラと小銭を地へ蒔いた。
「大変なお方が仲へはいっちゃった」
「あべこべにこちとらがいたぶられらあ」
「うるさい!」
と武士は一睨みした。
それからわずか経った時、範之丞と織江とその武士とは、高島へ向かう街道を、なんどりとした春陽を浴び、話しながら歩いていた。
「ははア……桑名侯ご藩中、服部範之丞殿にお妹ごの、織江様と仰せられる、ははアさようでござりますか。……拙者は南部の浪人で、高島の城下へ形ばかりの、町道場を開きおるもの、姓は司馬、名は又助、出世出来そうもない人間でござる。アッハハ、いやはやどうも。……が、これでちょっとばかり、任侠の気がありましてな、自分で申すも変なものでござるが、ああいう雲助や馬方などをも、時々世話してやりますので、まアまア名ぐらい知られております」
いいいい又助は横眼を飛ばしては、織江の顔や姿を見、
(どこかへ売かすと一月や二月、飲み代にはなる上玉だ)
そんなことを思っていた。
「あんな塩梅式にお助けし……アッハッハ、何が何が、お助けでも何んでもござらぬが、とにかく虻蜂を追っ払い、こうしてご懇意になってみれば、他人でないような気持ちがいたす。で立ち入ってお訊ねいたすが、ご道中のお目的は?」
「さあ」
と範之丞はいい淀んだ。
悪漢どもを追い払ってくれた、その好意は感じていたが、又助という人物の様子、何んとも信用出来ぬところがある、うかうか真実など話したら、面白くなく危険なことが。──そんなように思われたからであった。
しかし田舎にはこういったような、風体様子こそガサツではあるが、心が綺麗で親切気のある、長兵衛があることはあるものと思った。
そこで範之丞は用心しながらも、
「尋ねる人がござりまして……さよう、この諏訪の地に」
と云った。
「尋ねる人が、ははアさようで。……では藩のご重役とか……」
「いやなかなかもちまして。そのようなお方でござりましたら、われわれ兄妹苦労いたしませぬ。……敵で! ……はい、親の敵で」
つい口に出して云ってしまった。事実この通りであるからであった。
九十郎が田沼方を追われ、江戸から去ったと伝聞するや、範之丞兄妹は雀躍りした。
田沼のイキがかかっている以上、討つことの出来ぬ敵であった。が、それがなくなった以上、探し出しさえすれば討つ事が出来る。
そこで主君へ言上して、お墨付きを頂戴し、遠くへ敵の遁がれぬうちにと、ほとんど取るものも取りあえず、急遽旅へ出たのであった。
武州、上州と付近から探した。
それからそれと足どりを尋ね、噂から噂と手繰ったところ、それらしい武士が女を連れて、博徒や香具師の家々を巡り、五日十日と寄食をし、甲州方面へ行ったとのこと。
で、甲州へ行って見た。
石和の貸元源太郎というのが、
「その男なら二月ほど以前に、信州路へ落ちて行きましたよ。人の噂だから確かとはいえぬが、諏訪の高島に身を落として、くすぶっているとかということで」
と、そう親切に話してくれた。
そこで諏訪の地へ来たのであった。
「敵討ち! それはそれは」
と、又助は意外に驚いたらしく、胸を反らせて大仰に云った。
「いやそれはお勇ましいことで、ふうむ、敵討ち! 敵討ち! ……で、敵の名は何んと云われますな」
「臼杵九十郎と申すものでござる」
敵討ちと明かしてしまったからは、敵の名ばかり隠したところで、仕方がないとそう思って、正直に範之丞は云ってしまった。
「九十郎! 臼杵九十郎! ……ふうん、臼杵九十郎!」
ギョッとして又助は唸るように云った。
「ご存知でござるかな? ご存知なら……」
大仰に驚いた又助の様子に、範之丞は不審を打ち、顔を見守り熱を持って訊いた。
と、それまでは無言をつづけ、兄の傍らに引き添って歩き、二人の話を聞いていた織江が、同じように熱のある声で云った。
「もしご存知でござりましたら、任侠のお心をもちまして、居場所お知らせくださりませ」
「いや……さあ……さあ何んと……」
曖昧に云って又助は黙った。
遙かの右に聳えているのは、八ヶ岳、蓼科山、そうしてそれの斜面であり、スロープには子山や孫山が、瘤かのように起伏しており、森や林が飛び散っていたが、春陽を受けてそれらの物象は、紫ばんだ陰影と、黄ばんだ日向とを織っていた。左はなだらかな耕地であって、ところどころに農家が立ち、鶏犬の声が聞こえていた。
そういう左右を持ちながら、長く延びている街道を、三人はしばらく黙ったままで歩いた。
「九十郎の在家存じおります」
ややあって司馬又助は云った。
「存じておられる! おお存じて!」
「お知らせくださりませ! さあお知らせ!」
往来であるのも打ち忘れ、範之丞と織江とは足を停め、又助が敵でもあるかのように、左右から詰め寄り忙しく訊いた。
「申しましょう、申しますとも」
こうはいったもののこの又助、津軽の浪人でありながら、南部の浪人といわでものことを、からくっていう性質であった。
ここでもからくっていい出した。
「臼杵九十郎と申すものの居場所、拙者たしかに存じおります。彼が敵でござるとなら、拙者任侠お手引きいたし、きっと敵討ちいたさせましょう。が、しかし、彼九十郎、剣道にかけては無双の手利き、それお二人にはご存知かな」
「存じおります、十分存じて」
範之丞は即座にいった。
「鐘巻流を使わせては、剣鬼ともいうべき恐ろしき奴、それにその上彼独特の、足を薙ぐ難剣の術さえ持ち……」
「さようさよう」
と又助はいった。
「で恐ろしい奴でござる。その上に彼奴高島に住み、藩の若侍に取り入ったり、市井の無頼と交わったりし、侮りがたき一勢力を、今日持っているのでござるで……」
といって来て又助は、ジロリとばかり範之丞を見、
「で、もし貴殿方お二人において、九十郎を討って取ろうとなさるや、それらの若侍やゴロツキども、一つにかたまり九十郎を助け、貴殿方お二人にかかるでござろう。その際貴殿方お二人において、彼らにうち勝ち本望とぐる、自信と技量お持ちかな」
(あるめえ)
といいたげにまたジロリと、又助は範之丞の顔を眺め、その眼を素早く織江へ移し、
(うまく売かすと二、三十両! いやもっとになるだろう)
瞬間そんなことを考えた。
「何んの!」
と範之丞は勢っていった。
「私闘いたすというのではござらぬ、公に敵討ちの免許状いただき、まかりこしたるわれわれでござる。高島藩の重役衆へ、この旨あらわに申し出で、そのお手引きを得ました上で……」
「それがならぬて、ならぬてならぬて」
又助はいよいよ嚇すようにいった。
「九十郎佞弁口舌の男、高島藩の重役衆へも、とうに取り入り信用されております。そこへ出かけて貴殿お二人、何を申して出でようと、取り上げられぬは知れたこと……」
「理不尽! 何んの、そのようなことが!」
「あるから妙じゃ! いや浮世じゃ! 理不尽のあるのが浮世であって、ないのが夢の世界というもの。な、そうではござらぬか」
「何んでもよろしい司馬氏とやら、九十郎の居場所お知らせくだされい!」
「静かに静かに! 急いてはならぬ。……もちろん拙者お知らせいたす。……が、服部氏、範之丞殿、とにかく一応拙者の屋敷へ、おちつかれてはいかがじゃな」
これが又助の本心なのであった。
自分の屋敷へ誘き入れて、それからゆるゆる細工をし、九十郎に範之丞を返り討ちにさせ、織江を売って金にする。これが又助の本心なのであった。
「そうなさい、ご兄妹、拙者の屋敷へおいでなされ。必ず便宜ござるでござろう。というのは九十郎、時々拙者の屋敷へ参り、門弟どもを相手として、剣術の稽古などつけくれますので。……そこを狙って敵討ち本懐、おとげなされたら究竟一! ……ということになるではござらぬかな」
範之丞と織江とは考え込んだ。
その日の夕方のことであった。
陽はまだ少し残っていて、破れた窓に射していたが、屋内の器具や調度など、一様に暗くて見境いのつかない、島崎通りの外れにある、櫛木団八の廃借家の、八畳の部屋に三人の武士が──九十郎と又助と団八とが、酒をのみながら話していた。
「いや驚いたの候の、我が身ヒヤッと致したぞ」
こういったのは又助で、猪口じゃアまだるいといったように、湯呑みの酒を一あおりした。
「今夜りゅうりゅう細工がなって、三国一のお婿様の、候補者として楢屋へ乗り込む、わが臼杵九十郎氏を、敵と狙う兄妹なるものが、忽然として現われたんだからのう」
酔ってもいたが手柄も手柄だ、そう思ってか同じことを、さっきから幾度となくいうのであった。
「そこで我が身彼奴らをたぶらかし、拙者屋敷へ引き入れたが、これから、どうしたものだろうかのう」
九十郎の顔をうかがうように見た。
さすがに九十郎は浮かない顔をし、盃を唇へあてようともせず、腕こまぬいて考えていた。
思いなしか顔色も勝れていない。
随分と酒はあおったのであるが、色に出ずに頬など蒼白かった。
「拙者に至っては申し訳ござらぬ」
こういったのは団八で、これもさっきから実のところ、同じことを二度も三度も、クドクド弁解したのであったが、まだどうやら心が済まないと見え、
「つい、その、口がすべりましてな、楢屋へ養子の一件をお吉殿へ明かしましたので。……すると大変な見幕で、今夜楢屋へ我鳴り込むという。……いやはや何んとも申し訳ない儀で」
そういって頭をヒョイと下げた。
九十郎はそれをギロリと睨み、肩をユサリと揺すったが、しかし何んともいわなかった。
(出来たことなら仕方がない。……やるべきことは今後の処置だ)
こう考えているようであった。九十郎にとってはこの二つの事件は、実のところ厄介な事件なのであった。
大家楢屋の養子になれそうだ、その公式の初会見が、娘の父親と行われる、──という今日になって自分を狙う、服部兄妹がこの地へ来たという。
そうかと思うと妬婦お吉が、養子一件を聞き知って、ぶちこわしに楢屋へ乗り込むという。
やっと出かかったよい目いい光が、これでは摘まみ消されそうだ。
ムッツリといつまでも黙り込んで、考えているのは当然といえよう。
が、しかし彼としては、もうこの話を聞いた時から、兇悪の心で大体のところは、こうと定めているのであった。
(三人ながら眠らせてしまおう)
範之丞はいうまでもなく、織江もお吉も殺してしまおう!
「司馬氏」
と九十郎はいった。
「服部兄妹を貴殿屋敷へ、誘き入れられたご好意については、九十郎お礼申す。そこで……」
とここで一考えしたが、
「とてものことに該二人を、湖畔へ誘き出しくださるまいか」
「いと易いこと」
と又助はいった。
「が、湖畔でどうなさるな?」
「ぶった切って水葬礼、一切後腹やめぬよう、湖へ沈めてしまいましょう。……櫛木氏」
と団八を見た。
「貴殿にもお吉を湖のほとりへ、今夜誘き出してくだされい」
「よろしゅうござる、よろしゅうござる」
引け目があるので櫛木団八は、一も二もなく引き受けていった。
「拙者かならず引き出しましょう。……が、まさかお吉殿を……」
「何んでござるな」
白い眼でジロリ、九十郎は団八を睨んだ。
「まさかお吉を……何んでござるな?」
「ナ、何んでもござらぬが……従来親しく連れ添われた婦人……まさかに、まさかに……のう」
「殺してはならぬと仰せられるか!」
「いや……しかし……殺すお気か?」
「災いの根なら……」
「凄いのう」
「刈り取るまでよ!」
「あったら女を……」
「貴殿欲しいか?」
「バ、馬鹿な!」
「でもあるまい」
「ひとの女房を……」
「遠慮する柄か!」
「…………」
この時又助が言葉を入れた。
「女を殺す、ちとよくない。わしもそれには同意せぬの」
九十郎は荒々しい眼で、今度は又助を睨むように見た。
「織江とかいう女、助けたがよろしい」
「…………」
「売かして、金にして、飲むとはどうだ」
「貴殿たちにはよろしかろう」
「貴殿も飲むのじゃ、三人で飲むのじゃ」
「飲む飲まぬ、何を痴言、息ある限りあの女、拙者を狙うことご存知ないか!」
「ナールほど、そうだったのう」
燈火がともされる時刻となった。
脇本陣楢屋の奥の座敷では、冬次郎が熊太郎を相手にし、わざと婢の酌をことわり、勘助や清三郎に酌をさせ、酒汲み交わし話していた。
「田沼の没落も遠くない。……彼奴この頃御殿への出仕を、いたさぬという噂を聞いた」
冬次郎はそういって会心そうに笑った。
「将軍家のお覚えめでたくなくなり、田沼の施政徐々に廃され、諸閣老方擡頭し参られ、ご親藩三家や越中守様たち、いよいよ手強く田沼に抗し、それに彼奴の忰意知めを刺殺した、佐野善左衛門に類するところの、硬骨多血の近侍の武士、近来ひそかに談合し、田沼めを殿中にて刺さんものと、よりより企ておるとかで、性来臆病の彼意次、病いと称して出仕せぬそうじゃ」
「そればかりでなく噂によりますれば、稲荷堀の屋敷にいることさえ、生命の安危心もとなしと、いわば替え玉を屋敷にとどめ、自身はどこへか姿をくらましたなどと……」
熊太郎はそういった。
「うん、そのような噂も聞いた」
この時襖がしずかに開いて、番頭がつつましく顔を出し、
「ご来客にござります」
といった。
「わしに来客、誰であろう?」
「殿、私にござります」
番頭の背後に立っていたのは、意外にも十二神貝十郎であった。
「貝十郎か、さてもさても」
冬次郎はそういった。
まったくさてもさてもであった。
何かしら事件のあるごとに、必ずあらわれる男ではあったが、このような信州の旅の中に、あらわれて来ようとは冬次郎にしても、夢にも思いはしなかった。
それだのに現われて来たのである。
まったくさてもさてもであった。
貝十郎は例の悠然とした態度で、が、しかし貴人に対する尊敬と慇懃の態度は崩さず、部屋へはいると末座へ坐り、一別以来の挨拶をした。
白け渡ったというほどでもないが、逃げ水屋敷で遺憾ないまでに、こっちの計画の邪魔をされ、せっかくとらえたままごと狂女をさえ、途中でかれの部下白須源吾のために、取り返されてしまったところの、時々味方にはなるけれど、おおよそは敵の貝十郎に、不意に出現されたのであるから、不気味といえば不気味であり、冬次郎はじめ一同のもの、固くならざるを得なかった。
「過去は一切いわぬとしよう。貝十郎お前も旅か?」
こうややあって冬次郎はいった。
「はい、旅にござります」
何んにもこだわらない声と態度とで、そう貝十郎は答えたが、
「殿よりお訊ねなき前に、私より先に申し上げまする。……懐中に十手持ちませぬ」
「アッハッハッ、それはそれは、ご念の入った挨拶じゃの。が、それなればなお結構、もっともわしとしても今度の旅は、そちに警戒されるような、あらけない計画も目的も持たぬ。ただの長閑な遊山旅なので、たとえそち十手を持っていようと、ビクとも何んとも思いはしない。……そちいつこの地へは参ったのじゃ?」
「数日前にござります」
「で、どこへ泊まっておる?」
「さあ」
といったが貝十郎は、当惑したような表情を見せた。
「その儀不問に遊ばされたく、貝十郎お願いいたしまする」
「不問に? ……なぜじゃ? ……変ではないか」
「…………」
「で、一人で参ったのか?」
「その儀もなにとぞ不問ということに……」
「これも不問? 変だのう」
刺すような眼で冬次郎は、貝十郎の顔を見詰めた。
(油断はならぬ)
とそう思った。
「戸ヶ崎」と冬次郎は熊太郎へいった。「貝十郎の様子ちと変だの」
「ちと変にござります」
どういっていいか挨拶に困る──そうは思いながら熊太郎は、冬次郎の言葉に合槌を打った。
「いつもは何事も天空海濶に、行動される十二神氏が、今回に限りものを隠される、ちと変にござります」
「どうやらやはり十二神様には、懐中に十手お持ちのようで」
勘助までが口を出した。
と、貝十郎はその勘助へ、ジロリと横眼を走らせたが、
「お勘、何んだ、ビクビクするな。……そう懐中が恐ろしくば、遠慮はいらぬ、探ってみい。……いや気味の悪い変性男に、鳩尾の辺探られぬ先に、俺よりよいもの見せてやろう」
いって貝十郎は懐中へ手を入れ、一葉の紙を取り出した。
「そこにおられるは戸ヶ崎先生の、ご門弟のお一人と見申した、卒爾ながらこれをお読みくだされい」
清三郎の前へ紙片を置いた。
和歌らしいものが書いてあった。
そこで清三郎は声高に読んだ。
「きられたは、ばか年寄と、きくとはや、山もお城も、さわぐ新番。
諸大名、むしやうに憎む、七つ星、今しくじれば、下の仕合せ。
金とりて、田沼るる身の、にくさゆゑ、命捨てても、さのみをしまん」
「何んだ」
と冬次郎は眉をひそめていった。
「田沼の忰意知めが、佐野善左衛門に討たれた時に、市中へ張られた落首ではないか」
「御意、その通りにござります。……この事件以来田沼様には、不遇つづきにござります」
いって貝十郎は懐中から、もう一枚紙片を取り出して、清三郎の前へ置いた。
清三郎はそれを読んだ。
「田が沼と、濁る浮世に、ごもつとも、天も変るぞ、地には妖し」
「何んだそいつも落首ではないか。浅間山が爆発いたせし際に、田沼を罵って作られた落首だ」
「御意、その通りにござります。天変地妖の起こったをさえ、田沼様の咎にいたしまする、よき例の落首にござりまする」
「それがいったいどうしたというのだ?」
「これをお読みくださりませ」
こういってまたも貝十郎は、懐中からもう一枚紙片を取り出し、清三郎の前へ置いた。
清三郎は取り上げて読んだ。
「これやこの、酒も料理もへらされて、へるもへらぬも、お湯漬の腹」
「これも落首にござります」
貝十郎は自分でいった。「柳営より諸役人へ賜わるお料理、老中、若年寄はお湯漬けにてよろしく、お側衆、評定衆の面々は、一汁一菜香のものにて結構と、田沼様おきめ遊ばされました際に、お城坊主が作りました、勤倹令嘲笑の不届きの落首で」
「その通りじゃ、それがどうした?」
「田沼様おやりの一切合財を、非難いたします不都合を、殿に改めてお心に強く、お認め願いたく存じまして、お目にかけました次第にござります」
こういうと貝十郎は一膝さがり、畳へ手をついて一礼した。
(変だな)
と冬次郎は怪訝に思った。
(何んと思ってこの男、このようなことをいい出したのであろう?)で無言で見詰めやった。
「人物には表裏ござりまする」
貝十郎は熱をこめていった。
「裏ばかりを見られ攻められましたでは、いかなる人物もゆきたちませぬ。英才も才を施すに由なく、埋もれますでござりましょう」
「貝十郎」と冬次郎はいった。「そういう理窟はともかくとして、今さらそのようなわかりきったことを、冬次郎は改めていい出した存意、何んとも不思議それが聞きたい」
「は」
といったが貝十郎は、意味ありそうに冬次郎を見詰め、
「田沼様は窮鳥にござります」
「…………」
「四面楚歌裏におられます」
「…………」
「次に」
とまた貝十郎は、意味深き眼で冬次郎を見詰めた。
「殿が当地へ参られました趣き、本日知りましてござりますゆえ、貝十郎ただちに参上仕り……」
「うむ、わしは、昨日着いたばかりだ」
「で、参上いたしました」
(どうも解らぬ)
と冬次郎は思った。
──何かを疑がっているらしい? 何かを不安に思っているらしい? ……だがそれは何んだろう? ──
「貝十郎」
と冬次郎はいった。
「率直にいえ! いったい何んだ?」
「は」
と貝十郎はいったものの、率直にはいえないような様子であった。
ここで二人は黙ってしまった。
熊太郎も勘助も、何んとなく異様な貝十郎の様子に、横から言葉もはさみかね、これも黙って控えていた。
宵ではあったが奥まった部屋は、表の人出入りにかかわりなく、寂しいまでに静かであった。
前庭の池に落ちる築山の水が、筧から落ちる水のような、閑寂の音を立てているばかりであった。
燭台の灯も筆のような火花を、素直に立てて燃えていた。
狩野筆らしい漁樵問答の図を、二双に描いた銀屏風が、その灯に映じて華やかには見えたが、それさえ派手には感じられなかった。
「いつお立ちにござりまするか?」
ややあって卒然と貝十郎は訊いた。
「いつこの地をお立ちにござりまするか?」
「さあ……わからぬ……決めていない」
冬次郎は少しうるさそうにいった。
「それがどうお前にかかわりがあるのか?」
しかし貝十郎はそれには答えず、
「どちらへお越しにござりまするか?」
「信濃一円見て廻るつもりじゃ」
「佐久の方へもおいででござりましょうな」
「参る。あそこが眼目じゃ」
「さてこそ!」
と貝十郎は唸るようにいった。
いって冬次郎を睨むように見た。
「さてこそ? ……何んだ? ……貝十郎? ……佐久へ行くのがなぜさてこそじゃ?」
「浅間の山がござります」
「一昨年爆発し、農民に大災害を与えたはずじゃ。その後の農村を見ようと思って、わしは出かけて行くのじゃよ」
「浅間山麓に田沼様の、山屋敷があるはずにござります」
「そんな噂を聞いておる。あの辺は本来遠江守様の領地、それを柳営禁猟地の、多摩川附近に逃げ水屋敷を造った、その手であの地に山屋敷を作り、時々参るということじゃ。……が、それが何んとしたかな」
「は」
といったが貝十郎は、またもここでいい淀んだ。
と、不意に手を仕えた。
「殿、おいとまいたします」
「何んということだ。どうしたのだ。せっかく訪ねて来たのではないか。飲もう、そうしてゆっくり話そう」
「数日中に高島お城より、駕籠一挺出るでござりましょう」
「…………」
「殿の信州ご漫遊、私見をもって申しますれば、日頃のご行動より推し計り、単なる遊山とは存ぜられませぬ。……駕籠の主あるいは殿のお眼に、苦々しく映るかは存じませぬが……」
「貝十郎!」
と吼えるような声で、突然叫ぶと冬次郎は立った。
「その駕籠に田沼乗っているというか! それで汝諒解に来たのか!」
もうこの時には貝十郎は、部屋を出て縁を歩いていた。
夜になっても主人の又助は、なかなか帰って来なかった。
商家町の裏通りにある、町道場というのも気恥ずかしいような、貧弱きわまる町道場──司馬又助の家の奥の部屋に、範之丞と織江とはかしこまっていた。
又助の言葉について釣られて、ここへやって来た二人なのであった。
「九十郎の様子、見て参るでござろう」
と、こういって又助が家を出たのは、午後の日のあるうちだったのに、いまだに帰って来ないのであった。
耳の遠い婆やただ一人いて、煮焚きから拭き掃除までしているらしく、他には下男も下女もいなかった。
藩の次男か三男か、それも風儀のよくないらしい、冷飯食いの若侍が、時々出たりはいったりしたが、二人を見ると囁き合い、そのくせ挨拶などしようともせず、不作法を尽くして帰って行った。
道場らしいものはあった。
十三間に十間の、板の間の部屋が出来ていて、板壁には竹刀だの木刀だの、稽古槍だの、鎖鎌だの、面、籠手、胴だの脛当だのが、ひととおり揃えて掛けてあり、一段高く師範の坐る席が、つくり設けてありもしたが、部屋の隅には蜘蛛の巣が張り、床にはほこりが溜っていた。
それでも婆やが行燈をつけて行った。
その燈の前に坐りながら、兄妹はだんだん不安になる心を、言葉に出してポツポツ話した。
「妾にはどうにも司馬というお方が、不安に思われてなりませぬ」
織江はこういうと兄の顔を、うかがうように正視した。
「うむ」と範之丞は頷いた。「わしにも不安には思われるが……しかし田舎にはああいう人物で、案外親切なのがいるものでな。……疑がうのは少し早かろうよ」
範之丞は神経質で取り越し苦労をし、またすぐにカッと怒りもしたが、しかし物事を善い方へと、考えて行く善良なところがあった。そこで今もそういったのであった「疑がうのは少し早かろうよ」と。
「妾一番恐れますのは、司馬様というあのお方と、九十郎とが親しくしていて、それで今も出て行って、わたし達のことを九十郎に話し……」
「さあ」と範之丞は眉をひそめた。「思わぬことはないのだが、そこまで疑がって思ったら、一刻もここにはおられないし……また最初からこんなところへ、来なかった方がよかったのだが……来てしまった今はもう少し、寛大に様子を見た方がなあ」
「でも」と織江は押していった。「いくらかでもあぶなっかしく思いましたら、大事持つ身万全を計り、少しも早くここを出て……」
「ここを出て……どこへ行くな?」
「ひとまず旅籠へおちつくか、藩のお重役──お奉行様へなり、お縋りして事情を話し……」
「さあそれは考えものだ」範之丞は首を振った。「第一敵の九十郎が、はたしてこの城下にいるかいないか、それさえハッキリわからぬうちに、奉行などへ届け出るのは、あわてものに見えて見苦しく、町の旅籠へ泊まるのはよいが、主人の留守にここを出るのはのう」
いわれて見ればもっともであった。
で、織江は黙ってしまった。
しかし彼女としては兄の態度が、心もとなく思われるのであった。
(愚図愚図してここにいる間に、司馬という男と九十郎とが、もしも恐ろしい策動でもしたら?)
大変なことだと彼女は思った。
彼女もいわば箱入り娘で、世間のことなど知らないはずであったが、わずかの間に生命にかかわる、貞操にかかわる一大事にぶつかり、艱難辛苦をしたがために、そうして兄の範之丞よりも、その性質が理智的であり、また意志的でもあったがために、世間を見る眼、人を見る眼も、兄よりはかえって実際的であった。
そういう彼女の眼から見ると、この家の主人の司馬又助が、迂散に思われてならなかった。
「ねえ、お兄イ様」
と少しくどく、叱られるのを覚悟の上で、織江はもう一度いって見た。
「藩のお重役へ申し出ること、これは少しくあわただしく、差し控ゆべきかとは存じまするが、ここを出て町の旅籠へ泊まる、というのはかえって安全のように、妾には思われるのでござります。主人が留守でありましても、婆やさんにことわって出ればよく、置き手紙いたしてもよろしいはずで……」
しかしここまでいって来た時、大勢の足音が玄関の方で聞こえた。
(はてな?)
と二人は耳を澄ました。
と、足音は少し離れている、道場の方へはいって行った。
そこで相談でもしているらしく、高い声になったり低い声になったり、笑ったりシーンと静かになったりする、そういう声々が聞こえて来た。
(不作法のここの門弟どもであろう)
兄妹ながらそう思った。
と、こっちへ歩いて来る、一人の足音が聞こえて来たが、すぐに間の襖が開いて、又助の笑顔が現われた。
「お待たせしましたな、恐縮恐縮、が首尾は上々吉で」
坐るとべらべら喋舌り出した。
「九十郎めおりましたよ、さよう家に、自分の家に。……で、拙者言を設け、湖畔へ今夜引き出すようしました。町内で切り合いいたしましては、先刻も申した彼奴の味方、無頼漢や藩の悪侍どもが、聞きつけて助太刀いたしますからな。……どうでも湖畔人気ないところへ、おびき出さねばなりませぬて。……それにはもう一つ……」
といって来て、又助は得意そうに肩をゆすった。
「これで拙者にも門弟があります。その門弟へ拙者命じ、貴殿方お二人の後見するよう、いたさせましてござりますよ。ただ今道場でそうしましたので。その上拙者が後見いたす。鬼に金棒大丈夫でござる。……おお、そろそろ時刻でござる。九十郎めが夜釣りしようと、湖畔へ出て行ってまだかまだかと、拙者の参るのを待っているでござろう。……さあさあご兄妹出立出立!」
狩り立てるようなこの言葉に、意気込んだのは範之丞であった。
「司馬氏、千万忝けのうござる! そこまでお運びくだされたか、まことにご任侠、幾重にもお礼! ……妹よいざ! さあ行こうぞ!」
「はい」
といったものの織江の心は、疑惑の雲に包まれていた。
(あわただしくて空々しい)
そんなように思われてならないからであった。
さりとてこれといって非を打つべき、的確の難所もなかったので、不精不精に立ち上がった。
「方々」
と又助は玄関へかかると、道場の方へ声をかけた。
「ご出立じゃ、参られい!」
「応」
と答える声があって、十人ばかりの若侍が、ドヤドヤと姿を現わした。
一面の枯れ芒、その奥に低い湖面を背負い、引き上げられてある漁船の縁に、股をひらいて腰をかけ、九十郎は待ちかねていた。
(服部兄妹を返り討ちに、お吉も殺して水葬礼、その後で楢屋へ押しかけて行き、どうせ婿入りなど出来ぬ躰、強請って大金ふんだくり、明けるも待たず逐電)
と、こう思って待ちかねているのであった。
十日ばかりの月があって、芒を灰色に湖面を銀に、遠い山々を墨色に、ぼかして朧にかかっていた。
眠っていた鷭がにわかに啼き立ち、芒の間からパッとたち、ザワザワとその芒を分け、人声がすると思ったとたん、二つの人影が走り出て来た。
「九十郎オーッ!」
範之丞であった。
妹織江を背後にかばい、
「服部範之丞、妹織江、見覚えあろう、参ったるぞ! ……父上の敵は云うもさら、妹に対する理不尽の怨み! 怨みは重なって二重三重! ……尋ねて旅へ出ここに四月! 今ぞ見出でた、尋常に勝負!」
抜き持った刀を中段につけ、刻み足してジリジリと進んだ。
横へ廻った妹織江、これも抜き身を中段につけ、
「父上の怨み、この身の怨み、思い知れ、今ぞ晴らす!」
ジリジリとせり詰めた。
ノッソリ立ち上がった九十郎、刀も抜かず懐手のままで、
「おお参られたか服部ご兄妹、久々の対面たっしゃで恐悦……敵討ち、まさに承知、尋常に勝負してくりょう。……が、汝ら知らぬで不憫、明かして成仏させてやろう」
ここで九十郎はカラカラと笑った。
「司馬又助は俺の仲間、汝らを屋敷へ引き入れたも、汝らをここへ引き出したも、仲間同志の誼みと知らぬか!」
ここで九十郎はセセラ笑った。
「むごたらしいが返り討ちと、待ちかまえていた九十郎だ、ヨーシ、切ってやる殺してやる、鐘巻流の流儀通りに、三段に分けて切ってやる。ナーニそれにも及ばぬか、汝らが父親服部石見、非難した拙者の足を薙ぐの一剣、こいつで汝らの足をバラバラ、胴のつがいから放してやる、参れーッ」
とはじめて刀の柄へ、九十郎は手をかけ引き抜こうとしたが、
「司馬よ、又助、ソロソロ出な!」
「もうとっくに出ているよ」
そういう声が背後からした。
いかさま、服部兄妹の背後に、胸へ腕を組んだ又助が、足を束に立っていた。
「ご兄妹、ちと殺生、いや大変に殺生と、又助いまは少なからず、心を苦しめているのでござるが、これも悪友を持った因果、さよう臼杵九十郎という、悪友を持ったこの身の因果と、憐れんでお許しくだされい」
例によって能弁、いや駄弁で、又助はベラベラまくし立てた。
「そこで止むを得ぬ、のう、ご兄妹、充分九十郎と立ち合われ、敵わなくなったら観念して……ただし女は、織江殿とやらは、死ぬにも及ばず殺させもしませぬ、拙者引き受け介抱いたし……」
「何んだ又助、何を云う!」
驚いて叫んだ九十郎へ、
「おい兄貴、分け前くんな!」
「何んだとオーッ汝!」
「知れた話だアーッ。……。方々出られい! 手筈通り!」
声に応じて芒を分け、門弟十人が飛び出して来た。
芒から分け出た若侍十人、ムラムラと織江を引っ包んだ。驚いたが織江は声を怒らせ、
「無礼! 狼藉! 汝ら、汝ら!」
グッと刀を横へ揮った。
相手は女、まさかと思い、油断していた若侍の一人、パーッと血! 腕を切られた。
「切ったぞ!」
「女郎!」
「油断するな!」
「それ引っ担げ!」
「叩き落とせ! 得物を叩き落とせ、叩き落とせ!」
一旦散じたがまた合し、手取りにしようと若侍ども、織江を引っ包み揉み立てた。
「お兄イ様アーッ」
とそこは女、思わず悲鳴はあげたものの、復讐の場合、必死のおりから、捕られてなろうか、切り散らそうと、小太刀を使わせてはかなりの技倆、くぐりつ脱けつ、くぐりつ脱けつ、
「云わぬことではござりませぬ! お兄イ様! お兄イ様! ……司馬又助悪逆無道、敵の片割れにござりました! ……このようなこともあろうかと、遁がれ出るようお勧めしたに! ……汝ら来るか、まだ来るか! 女ながらも汝らごときに! ……お兄イ様、お兄イ様! こうなりましては絶体絶命、生きて敵は討たれませぬ! ……身を殺して、せめて敵を! ……妾にかまわず九十郎を! ……おおおお汝らさるにても無慈悲! ……刃傷でない敵討ちじゃ! ……お墨付きまで戴いて……公に出た敵討ちじゃ! ……男なら、武士なら、助太刀こそすれ! ……お兄イ様アーッ妾にかまわず! ……」
切りつ防ぎつ、叫ぶのであった。
怒り、悔恨、憎悪、恐怖──渦巻き、たかぶり狂う感情! 感情にグラグラゆすぶられながら、
「妹ヨーッ!」
と範之丞、馳せ寄って無頼の若侍どもを、切り崩そうと焦心るのであったが、いつか己の前へ廻り、織江との中を遮って、上段に刀を振り冠り、動かば一討ちと構えている。九十郎の姿に圧せられ、身動きすることさえ出来なかった。
裾たくし上げて帯に揷んだ。で、細っこい脛ながら、武道で鍛えた腱の逞ましさ、そいつを蒼白い月光に、生々と見せてムキ出しにし、延び延びと立った九十郎、
「それもいい、気に入ったぞ、男は膾に俺が切る! 女は捕えて又助が介抱、すなわちなぐさんで叩き売る! ……前代未聞の返り討ち! 気に入ったぞ、フッフッフッ」
含み笑いも幽鬼さながら、
「討て! 敵じゃ! 俺は敵! 討てめえがのう、討てたら討て!」
ユサユサと刀を頭上でゆすぶり、
「どうだどうだアー、討てめえがのう」
「…………」
無言! 切歯! 範之丞! 付けた刀が、顫える、顫える!
段違いの業の悲しさは、引きもならず、進みもならない。
が、忽然浮かんだは、伊藤一刀斎の和歌であった。
──切りむすぶ、太刀の下こそ、地獄なれ、身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ。──
(身を捨ててこそ!)
と眼をつむり、
(切られて突こう!)
と飛び込んだ。
とたんに又助の声がした。
「しめた! 女め捕えられたぞ!」
ハーッとなった範之丞、突きの切っ先とどかなかった。
「未熟者め、それで討てるか!」
ユラリと左へ体をかわし、九十郎は嘲笑った。
体をかわされたので行方が見えた。
十数間の彼方にあたり、若侍どもに手取りにされ、担がれたのであろう織江の姿が、芒の上に高く上げられ、月光に漂っているかのように、宙を渡って行くのが見えた。
「妹ヨーッ」
と思わず呼び、範之丞はそっちへ走りかかった。
「逃げるか!」
と喚く九十郎、遮ってその前に立ち塞がった。
「敵を目前に置きながら、女に心引かされて、意気地のない奴、逃げる所存か!」
「何を! ……汝エーッ」
とはずむ呼吸──もう範之丞は呼吸さえはずみ、腕にしこりさえ来かかっていたが、
(身を捨ててこそ!)
と同じイキ! 眼をつむって飛び込んだ。
「遅い!」
とまるで稽古の態度だ、九十郎は今度は右へユラリと、体をかわし、刀はそのまま、頭上に高く振り冠ったまま、前歯を見せて苦く笑った。
と、又助の声が聞こえた。
「いけねえ、奴ら、女を放した! 織江め、あばれるわあばれるわ! 命がけだからなア、強いぞ強いぞ!」
その又助は佞姦狡猾、九十郎へ助太刀しようともせず、若侍と一緒になって、織江を手取りにしようともせず、両者の間の位置に佇み、依然として胸へ腕を組み、両方へ眼を配っている。
出た足あまって範之丞、一間あまりすべるように、タタラを踏んで前へ出たが、見開いた眼に光景が見えた。
織江であろう白鉢巻、白襷した小さい体が、靡きつ揺れつ髪乱れるように、騒立つ芒の原の中を、前後左右によろめいている。
それを囲んで若侍ども、あしらいかねたその幾人かは、刀を抜いてふりかざし、その幾人かは鞘ぐるみ抜いた、刀を揮って打ってかかっている。
憐れさ、悲壮さ、むごたらしさ!
(今九十郎を逃がしても、また巡り逢うこともある。その時討てば討てる敵だ! ……妹にもしものことがあったら?)
取り返しがつかぬ! 取り返しがつかぬ!
咄嗟に考えた範之丞、これも白鉢巻に白襷、袴の股立ちとり上げた姿、甲斐甲斐しくはあったが疲労と困憊とに、クタクタになっている姿を踊らせ、
「妹よ、織江よ、しっかり致せ! 兄が参るぞーッ」
と声をかけ、九十郎を見捨てて走り出した。
が、三間とは走れなかった。
先廻りをした九十郎が、行く手を塞いで立っていた。
その九十郎、今は本心、嬲るのは止めだ、討って取ろうと、そう決心したらしく、刀を中段へ構えて凄く、競り詰めて行く足も鋭く、しかも剣道の定規に則り「先々の先」を挫くの気合! それでジリリ! ──ジリリ、ジリリと、次第次第に範之丞を、背後へ背後へと詰め出した。
次第に詰められて範之丞、今は必死、死に物狂い、一太刀なりと怨まんものと、突きつ、撃ちつ、薙ぎに出た。
と、その先を未然に察し、突くを払い、撃つをかわし、薙ぐを流して九十郎、悠々として一歩一歩、いよいよ詰め、いよいよ押した。
ますます焦心った範之丞、
(神々のご加護、この一太刀に!)
ほとんど最後に残った気力、それで一躍飛び込んだとたん、
「カーッ!」
と掛けた九十郎の声!
三掛け声のその一つ、敵のかかるを挫くのそれだ!
「ハーッ」
範之丞は気を遠くした。
「エッ!」
ダーッ!
体当り!
もんどり打った範之丞、地へ倒れたが天運尽きた、背後は崖、下は湖!
パーッと立った水煙り!
月の光に霧のように見えた。
範之丞の姿がどこにも見えない。
湖へ落ちて沈んだのである。
刀をヒョイと肩へ担ぎ、九十郎はツカツカと崖ぶちまで行ったが、及び腰をして覗き込んだ。
眼の下に波紋が描かれている。
泡の浮かぶのが仄かに見える。
「水葬礼! 世話はなかった。……彼奴水練も知らぬそうな」
しかし向こうの水面へ、範之丞の姿がポッカリ浮かんだ。
「こいついけない、浮かび出おった。……飛び込んで行って刺し殺してやろうか?」
夢中で水を掻き沖の方へ出て行く、範之丞の姿へ眼をつけながら、そう九十郎は呟いた。
が、その瞬間沈んでしまった。
「やっぱり水練知らねえのだ。……沈んだ沈んだもう出て来まい」
しかし二、三度範之丞の姿が、それからも水面へあらわれたが、水を飲んでの苦しまぎれ、断末魔の空もがきらしく、時々水を掻くばかりであった。
やがてそれさえしなくなった。
全く姿が消えてしまった。
「よし」
と呟くと九十郎は、芒原の方へ眼をやった。
ポツポツと燈火のともっている、城下町の方へ人の塊りが、何かを宙へ捧げながら、走って行くのが絵のように見えた。
「とうとう織江もとらえられたそうな」
九十郎は呟いた。
「あいつは又助に任せて置け」
(いや)と次の瞬間に思った。
(手つかずの処女を、田舎浪人の又助ごときに!)
惜しい気がムラムラと起こって来た。
(俺が思いをかけた女だったっけ)
「新助見な、変なことがあるぜ」
「ナールほど、こいつア変だ。俺らのお株を奪っていやがる」
「女を誘拐かし担いで行く、俺らの昔の商売だったっけなあ」
「素人にやられてたまるものか」
「それもよ、ご両人の眼の前で」
「それも二本差しがやってるんだ」
「おいどうする?」
「邪魔しようぜ」
「因縁つけていたぶるか」
「玉アこっちへ捲き上げるのよ」
「やろうぜ新助」
「外伝、やれやれ」
蜆っ貝を掘りそこない、ブラブラ帰って来た新助たちであった。
城下外れまでやって来ると、芒原の方から若侍の群が、女を担いで走って来た。
見逃がせないことになったのである。
「こいつらア!」
と外伝が声を上げ、行く手を遮り両手を拡げた。
「見りゃア立派なお武家様方、悪ふざけかは知りませんが、悪ふざけにも程度がある、女を担いでおいでなさるなんざア、あくど過ぎまさア、あくど過ぎらい! ……放してやりなせえ、放してやれやれ!」
「もしもお放しなされぬなら」
新助がものものしく武士口調でいった。
「われらお敵対仕る」
「黙れ!」
と又助が怒声をあげた。
門弟たちに織江を担がせ、自分はその側に引き添って走り、扇で胸の辺をあおいでいた、司馬又助が怒鳴ったのである。
「見なれない奴、他国者だな、そもわれわれを何者と思う、高島藩士、因幡守様家臣じゃ、この女は兇状持ち、それで捕えて帰るところじゃ」
「馬鹿云え!」
と外伝はセセラ笑った。
「ご定法によってのお捕り物、そうか否かがわからねえような、そんなヤクザの俺らと思うか! 誘拐も誘拐、質の悪い、悪い悪い誘拐だア!」
「めんどくせえや兄貴、やっちめえ!」
「合点!」
ドッと飛び込んだ。
「方々かまわぬ、切っておしまいなされ!」
又助の言葉に若侍ども、織江を抛り出し刀を抜き、二人を取りこめ切ってかかった。
「しゃらくせえや!」
「田舎ワルめ!」
凄い技倆、二人三人、外伝と新助とは投げ飛ばした。
無頼ではあるがそこは藩士、見得も外聞も棄ててはいない。師匠の又助に頼まれたればこそ、こんなてんごうもしたのであるが、見れば本職のヤクザらしい二人に、怪我でもさせられては一大事と、
「退散!」
「よかろう!」
と云い交わすや、四方へ分かれて逃げてしまった。
「新助エーしめた、玉アどうした?」
「いねえ、外伝、ふけっちゃったア」
「気絶していた様子だったが……」
「変だなア、どこにもいねえ」
「何んのために俺らア働いたんだい?」
「考えようぜ、わからなくなった」
「だから田舎は厭だってんだ。……田舎へ来ると江戸の住人、間の抜けた目にあわされる」
「芒ッ原が魔物だぜ」
「狐ちきでもいるのかなア」
「引っ返そうぜ、こわくなった」
「町で一杯飲み直そうぜ」
「今度は貝十郎もやりそこなったぞ」
松平冬次郎はそういいながら、戸ヶ崎熊太郎へ笑顔を向けた。
「才ある者は才に負ける。先見の明あきらか過ぎる彼、取り越し苦労して云わでものことを、わしにわざわざ云って来たため、田沼意次この地へ参り、諏訪侯お城に滞在のこと、容易わしに知られてしまった」
高島の城へ続いている、松の並木を左右に持った、長い大手の縄手道を、熊太郎や清三郎を連れて、お城の方へ歩きながら、そう冬次郎は云いつづけた。
「田沼め身辺の危険を感じ、江戸にもいられず領国相良の、自分の城へも帰って行けず、他人の領地へ他人の名義で、ひそかに造り設けたという、浅間山麓の山屋敷へ、こっそり落ちて行こうとして、この諏訪の地へは来たのであろう。そこへわしがやって来た。と、扈従して来た貝十郎め、才負けして思えらく、冬次郎ほどの人間が、何んの暢気な遊山旅などに、このようなところへ来ることがあろう、田沼様討たんために来たのであろうと。……そこでさっきやって来たのさ。一つにはわしの様子をうかがい、一つにはわしを拝み倒し、田沼への誅伐を緩和させようとな。……アッハハ藪蛇だったよ。あんなことさえいって来ずば、この地に田沼いようなどと、何んのわしが思うものか」
例によっての懐手、冬次郎は悠々と懐手をしながら、会心そうに薄笑った。
「とかくわしの裏を掻いて、計画齟齬させ後手へ後手へと廻す、小面憎いが好敵手でもある彼奴を、今度こそはどうやら取り詰めたらしいぞ。それもさ自分のかけた係蹄へ、自分の方から引っかかってな」
「殿」
としかし熊太郎は云った。
「落ち目になったと申しましても、まだ権勢の田沼意次、それに公職を空しゅうして、このようなところへ潜行する──あり得べきことでござりましょうか?」
「うむ」
と冬次郎は頷いた。
「疑問一応はもっともじゃ。が、ないとはいわれない。将軍家でさえあのとおりではないか」
「うえさまさえあのとおりと仰せられまするは?」
「逃げ水屋敷などへお成りなされた」
「…………」
「田沼の稲荷堀の屋敷などへも、一再ならずお成りなされている」
「…………」
「下様から見れば将軍家などの行状、出るにも入るにも大袈裟一方、正視などしたら眼が潰れると、それくらいに思っているであろうが、真の私的の、真の裏の、お生活振りというものは、意外にあっさりした簡単なものじゃ。……もちろんお成りにも幾通りかある、公的のお成りとあろうものなら、臣下の屋敷へのお成りであろうと、その臣下へ箔をつけてやろうと、そういう意味も加わって、供揃えなど堂々としてい、それにはそれとしての定規もあるが、いうところの忍びのお成り、これになると簡単至極じゃ。……ましてや老中の私的生活など、下様からは想像出来ないほど、一方複雑、一方簡単、一方権勢的、一方恐怖的、不断に他人を怯やかしているかと思うと、絶えず自分が怯やかされている……」
この時行く手に墨で描いた、絵のように見えている高島城の、櫓や天守閣や石垣を、背景として縄手道を、一挺の駕籠を中に揷んだ、十人の人々が、しずかにこっちへ歩いて来た。
それへ冬次郎も熊太郎も、疑惑の眼を注いだが、迎えるようにして歩いて行った。
「老中でありながら病いと称し、出仕をしない田沼意次、では先刻そちが云ったように、生命の危険をおもんぱかって、全く人に気づかれない所の、浅間山麓の山屋敷などへ、一時なりとも身を隠すこと、全然ないとは云われないではないか」
「承りますればお言葉通りで」
駕籠の一団と冬次郎の組とは、その間も次第に近寄った。
「老中などと云ったところで、役目を活かして使おうと思えば、躰が二つあっても足りないほどに、忙がしくもあれば重要でもあるが、殺して使えばいてもいなくともよい。たとえば松平康福侯のように。……戸ヶ崎……熊太郎、あの駕籠は?」
「女乗り物のようにござりますが」
熊太郎はそう云った。
「ただし供はことごとく武士、あるいは城内の奥の女子が、所用あって町方などへ……」
「それにしては供が仰々し過ぎる。それにこのような夜になって……」
冬次郎は首を傾げた。
と、不意に感付いたように云った。
「先刻貝十郎が云ったのう、数日中に高島お城より、駕籠一挺出るでござりましょうと。……その駕籠に乗って出る奴、田沼と睨んでいるのだが、数日と申したその数日、戸ヶ崎こうなると怪しくなったぞ」
「数日と申してたぶらかし、今夜あの駕籠で田沼殿を……」
「さようなこともあろうかと、今夜わしは出かけて来たのだが……貝十郎のことじゃ、何をやるか知れぬ」
「ではあの駕籠を誰何しまして……」
「余人であったら面目ない」
「わたくしにお任せくだされますよう」
その間に駕籠は近づいて来た。
黒塗りの金鋲打ち、引き戸に総を下げた駕籠であった。
擦れ違おうとした時熊太郎は、わざとよろめいて駕籠へあたった。
「失礼、ご免」
と周章てて怒り、寄って来ようとした供の者へ、そう素早く声をかけ、手では引き戸を開けようとした。
その熊太郎の耳へ聞こえて来たのは、
「これをお前から越中へ──定信の手へ渡してくれ。……妾から渡すのでござりますのね」という、若い女の情熱的の、しかしあどけない憧憬れるような、涙を誘うような声であった。
何んだやっぱり女だったのか。
熊太郎は駕籠から離れた。
その間に駕籠は行き過ぎた。
「殿、女でございました」
「…………」
「若い女のあどけない声で『これをお前から越中へ──定信の手へ渡してくれ。……妾から渡すのでござりますのね』とこのように申したのが聞こえました」
「…………」
「やはり城内の奥の女子が、病気で帰るのでござりましょう。大熱往来いたしおるため、譫言申したのでござりましょう」
「これをお前から越中へ──定信の手へ渡してくれ。……妾から渡すのでござりますのね。──とこのように申したというのか?」
「さよう申してござります」
「越中……定信……というからには、われらの盟主桑名侯、松平越中守定信侯、このお方以外ほかにはない」
「…………」
「変だな」
と云って冬次郎は、既に遙かに行き過ぎた駕籠を、振り返り見送り考え込んだ。
(駕籠の中の女、何者であろう?)
(何を渡せというのであろう?)
「戸ヶ崎、あの駕籠を従行けてみよう」
冬次郎達は引き返した。
脇本陣からかなり距てた、本陣柊屋の門口へ、新助や外伝が来かかった時、その玄関から二挺の駕籠が、多勢の供人を従えて街道へ出、下諏訪宿の方へ向かった。
「おい新助、大変な奴がいるぞ」
供人の中に貝十郎の配下、白須源吾と桐島伴作、二人の同心のいるのを見て、外伝は驚いて囁いた。
「ナールほど、こいつア変だ」
新助も唸るように云った。
二人ながらこれまで二人の同心には、いためつけられたり目こぼしされたりして、ご厄介になっているからであった。
それにしても江戸の同心が、管轄違いの信州路などへ、どうしてやって来たのだろう? これが不思議でならなかった。
駕籠を警護して行くようだが、二人の同心が警護して行く駕籠、それが罪人でない限りは、中に乗っている主人公は、特殊の人間と云わなければならない。
二人は佇んで見送った。
と、二人の横を通って、きらびやかな女乗り物が行った。立派な武士達がお供をしている。
と、その駕籠の同勢と、二挺の駕籠の同勢とが、二人の眼の先で一緒になった。
揃って下諏訪の方へ行くのであった。
「二挺の駕籠が三挺になった。……新助いよいよ変なことになったぞ」
「あいつら確かに仲間同士だな」
「新助さんに外伝さん、何をぼんやりしていなさんす」
この時優しい女の声で、こう背後から云うものがあった。
驚いて二人は振り返って見た。
勘助が立っていた。
「お勘か! チェッ、気味の悪い声を出すな」
云ったものの外伝は首を縮めた。
側に冬次郎と熊太郎と清三郎がいたからである。
「新助エー、いけねえ、凄いことになったぞ」
「蜆っ貝の掘りそこない、オイこいつ内緒だぜ」
二人の囁きなど問題にせず、冬次郎は前方を見詰めていたが、
「戸ヶ崎、あの駕籠は何者だろう? 女乗り物と一つになって、二挺の駕籠が行くようだが」
「殿様」
と外伝がむずむずいった。
「あの二挺の駕籠でございましたら、只今本陣柊屋から、かき出されたものにござりまして、供人の中には貝十郎の配下、白須源吾と桐島伴作とが……」
「いたと申すか、二人の同心が!」
「はい、おりましてござります」
「外伝、新助、誰でもよい、脇本陣楢屋へとって返し、勘定済ませ荷物とりまとめ、予らが後を追って参れ! 爾余の者は予につづけ! あの駕籠を追うのだ、あの三挺の駕籠を!」
お吉を乗せた小船が一艘、団八が櫓を漕いで平野村の方へ渡っていた。
櫓に連れて蜒る波に揺れて、湖面の月は折り畳まれたり、延び縮みしたり砕けたりした。
「九十郎悪逆の本性を発揮し、お前を湖畔へ引っ張り出し、ぶった切ることになっている。あのような男に未練残さず、すてて逃げたがいいだろう。陸路はあぶない湖上から……」
団八はこういってお吉を説いた。
九十郎の残忍の性質は、以前からお吉も知っていた。
(他に増花出来たからは、彼奴それくらいのことやるだろうよ。殺されてはつまらない)
楢屋へ今夜あばれ込んで、九十郎と娘との婚礼話を、ぶちこわそうという算段なども、こうなっては愚にもつかない。そこでお吉は逃げることにした。
船は湖を渡って行く。
諦めてしまえばそこは水性、もうお吉の心の中には、九十郎のことなど残っていなかった。
(これからだっていい運は来るさ)
ナーニあんな世を狭めた男、廃者といつまでも一緒にいるより、別れて一人となった方が、どんなにいい運が来るかしれない。
そんなことを思っていた。
(当分団八を足にして、……)
こんなことも思っていた。
(団八、厭な野郎だが、云って見りゃア命の恩人、自由になってやらなけりゃアならないだろう)
その辺は心得ているのであった。
(とは云え綺麗な心から、妾を助けてくれたんじゃアない。妾の躰が欲しいものだから、そこで助けてくれたまでさ、友達の頼みを裏切って、恋女の命を助けたってものさ。頼みにならない野郎ったらないよ。そこは心に締めて置いて、いいかげんのところつきあって、頃を見計らっておさらばするがいい)
蒼褪めて見える鼻の高い顔を、随分寒い風に晒らし、鬢の毛をサラサラ靡かせながら、お吉は湖面を眺めていた。
団八はすっかりいい気持ちであった。
(今こそ私娼でおちぶれてはいるが、昔は吉原の花魁だ、腐っても鯛、上玉だ。こいつを今夜から締めることが出来る。……まずもって船を向こう岸へ着けてよ、上総屋あたりへ引っ張り込んでよ、介抱申し上げて一汗かけば、女ってやつ他愛はねえ、九十郎さんへと云ってたやつが団八さんへと変わってしまう)
都合のいいことを考えていた。
漁をしている舟の篝火が、数点酸漿のように遠方に見え、長地村、湊村、川岸村、湖水を囲繞している村々は、その背後に頂きだけを、月光に明るめている山々の、裾の暗さに融け込んでいて、ほとんど姿は解らなかった。
「おや」
と不意にお吉が云った。
「気味の悪いものが従いて来るよ」
「何が?」
と団八は振り返った。
「あれをご覧よ、土左衛門らしいよ」
云ってお吉は指さした。
「えっ」
さすがにギョッとして、団八は差された指の先を辿った。
水脈に引かれて水死人らしい男の、丸太のような身体が浮き沈みしながら、船尾から一間ほどの水面を、船の方へ従いて来ていた。
「いけねえ、大変なお客様だ! 突っ返してしまえ!」
と備えてある櫂を、団八は取り上げて振り上げた。
「ちょっとお待ちよ! 生きているらしい。時々水を掻くじゃアないか」
「なおいけないや、ぶち沈めろ!」
「可哀そうだよ、助けてやろう、ともかくも船へ上げてやろう」
「駄目だ、げんが悪い、漕ぎぬけてしまえ!」
「妾が云っているのだよ、ともかくも船へ上げてやろうッて!」
「仕方がねえなあ、では上げるか」
又助の道場の真ん中どころに燭台が一基ともっていて、周囲がわずかに明るい中に、気絶からたった今蘇ったばかりの、織江の躰が横たわっており、その裾の辺に又助が、及び腰をして覗き込んでいた。
二人の無頼漢に襲われて、門弟達が散ってしまった。
その隙に織江を引っ抱え、屋敷へ帰って来た又助であった。
門弟たちの散ってしまったことは、かえって又助には好都合であった。
(玉は俺一人のものとなった。煮て食おうと焼いて食おうと勝手自由だ)
又助の顔には野卑と残忍と、好色の笑いとが浮かんでいた。
初穂を自分が頂戴し、後を諸人へ総振る舞い──宿場女郎に叩き売る──というのが彼の目算なのであった。
蒼褪めた顔に唇だけ紅く、閉じた眼の下を睫毛が蔽い、時に痩せた頬の辺へ、乱れた髪がかかっている。そういう織江の容貌は、いたいたしいものの極みであり、美しいものの極みであった。
(悪くないなあ)
と又助は思った。
(介抱してすっかり正気にし、口説いて納得させてから、お情けにあずかるとしようかい?)
(駄目だ)
と又助はすぐに思った。
(この女いわば烈女型だ。俺のような人間が口説いたところで、承知するような女じゃアねえ。……だからよ、こんなように正体ない時、とりあえず体を貰ってしまうのさ。正気に返って怒り怨み、泣き喚いた時は後の祭り。と、女ってやつ妙なもので、そうなってしまうと観念するものさ)
しかし、織江は意識は取り返していた。ただ疲労極まって、五体が役立たないばかりであった。
自分の前に立っている男の、誰であるかも解っていた。自分と兄とをたぶらかして、九十郎につきあわせ、返り討ちにかけて殺そうとした、憎い怨みある又助だ!
そうして又助の態度や表情で、何をこの男が自分に対して、企てようとしているかも、彼女には解っているのであった。
(はずかしめようとしているのだ!)
こんな男にはずかしめられるほどなら、その前に舌噛んで死んでやろう!
しかし彼女のはげしい疲労は、抵抗することを許さないばかりか、舌を噛むことさえ許しそうもなかった。
眼をあくことさえやっとなのである。
(兄上はどうなされたか……。九十郎をお討ちなされたか? それとも返り討ちになられたか?)
あの時の様子……剣技の相違……それから推し計ると返り討ちに! ……これに近いように思われた。
(不運の兄妹! わたし達!)
織江は眼をあげて又助を睨んだ。
眼で睨む、このことばかりが、彼女に出来る所作であった。
又助の手がヌッと延びた。
「あッ」
と思わず声を上げ──それも口から外へは出ず──ある限りの残った力で、織江は必死と争った。
両手が宙で泳いだばかりである。
他愛なくその手も抑えられた。
範之丞は船へ引き上げられていた。
水を吐かせられ介抱された結果、幽かに呼吸を吹き返した。
女にしたいような端正の顔が、神経質の細面が、水に濡れた髪で半分蔽われ、さながら水の精のように見えた。
「綺麗だねえ」
と不意にいって、お吉は枕もとに膝を揃えた。
「ナ、何んだって、何をいうんだ!」
腕組みをして船尾の方に立って、面白くも何んともありゃアしないと、そういったような顔をしていた、団八が憎さげに罵った。
「こんな綺麗なお侍さんとなら、一苦労したいといってるのさ」
「多情、淫乱、この阿魔アーッ」
可愛さ余ってというあの感情、百倍の憎さで腰の刀を、思わず団八は引っこ抜いた。
「おや、妾を切る気かえ」
「あたりめえだアーッ」
と刀を振り上げた。
「命助けられた恩を忘れ、半土左衛門に綺麗だの、苦労してえだのとほざく汝、よしんば俺と一緒になっても、そのうち寝首ぐらい掻くだろう! いっそ未練の残らねえように、汝を殺して半土左衛門ともども、湖の底へ沈めてやる! そこで汝ら夫婦になれ!」
足を踏み出したが船がグラツキ、切りつけたがマトを外した。
そこへお吉は飛びかかった。
「田舎のワルの手前なんかに……」
「何を、ひきずり!」
「こうなる運さ!」
素早く団八の差し添えへ手をかけ、
「可哀そうだねえ」
「わーッ……わ、わ、わ、わッ」
「もう一抉り!」
タラタラと血!
脇腹から流して船板を染めた。
「ザンブリコッてね、大きな風呂さ!」
水音。
ヒラヒラと二度三度四度、水面へ団八の手の先が出て、船縁の辺で泳いだが、それもなくなると船の周囲には、水の輪が月影を揺るがせていた。
又助はニッと凄じく笑い、のっとばかりにかかろうとした。
とたんに、
「わッ」
と悲鳴をあげ、咽喉を抑えると飛び上がり、道場をキリキリとぶん廻ったが、やがてドッタリと床へ倒れ、二、三度左右へノタウッたが、すぐ手を拡げ足を延ばし、咽喉から血筋を床へ引き、凍ったように動かなくなった。
と、細目にあいていた、道場の出入り口の戸があいて、九十郎がはいって来た。
まず死骸の側へ寄り、小柄を抜くとこめどころへ納め、それから織江へ眼をやった。
口の端へ不可解の微笑が浮かんだ。
燭台では蝋燭が燃え尽きようとし、火の穂がふくらんで呼吸づいた。
その火が消えて道場一杯に、闇が拡がったのと九十郎が、織江を小脇に引っ抱えて、忍びやかに道場から外へ出たのと、ほとんど同じ時刻であった。
塩尻の社家北条主計、この人の屋敷へ貝十郎一行が、滞在してから五日経った。
朝の陽が裏庭に射していて、真っ盛りの数株の梅の花が、強すぎるほど強い香を、縁に腰かけている貝十郎と、ままごと狂女のお浦とへ、惜し気もなく送っていた。
あたりには人気がなく、飼い鶯の啼く声が、藪鶯であろう高塀の向こうに、起伏している高原の方から、ひっきりなしに聞こえて来るのへ、合わせているのが聞こえて来た。
「お浦、わしを信じるがよい。信じてわしに渡すがよい」
いいいい貝十郎は自分の横へ、狂女などと思われないほど、つつましやかに腰かけているお浦の、胸もとの辺へ眼をやった。
「…………」
無言ではあったが首を振り、合わせた両袖で胸を抑え、お浦は貝十郎をただに見詰めた。
当惑と不安と恐怖とが、そのお浦の眼にあった。
しかも断じて貝十郎の言葉に、従うまいという決心が、その同じ眼にあった。
──これをお前から越中へ──定信の手へ渡してくれ。……妾から渡すのでござりますのね。
こうお浦はいいながら、大切そうに自分の懐中を、両手で抑える癖のついたのは、逃げ水屋敷の騒動以来であった。懐中の中に大切な物を、秘蔵しているとしか思われない。
(あの夜お浦は将軍家に逢った。そうしてお命をお助けした。その際何か大切なものを、お浦は将軍家から預かったらしい)
そう貝十郎は直感した。
(松平越中守定信侯、これは田沼様の正面の敵だ。このお方へ将軍家から渡そうという品、田沼様にとって不利の品であること、もういわずと知れている)
で彼としてはどうあろうと、その品を手に入れたく思うのであった。
瞞しつ賺しつお浦を説いて、その品物を渡させようとした。今はすっかり貝十郎になつき、兄かのように思っているらしい。そういうお浦ではあったけれど、その品ばかりは頑強に断わり手渡そうとはしなかった。
もちろん貝十郎はお浦の体を──衣裳を、五体を、探しても見たが、どこにどのように隠しているのか見つけ出すことが出来なかった。
それに貝十郎にはお浦という娘が、今では眼に入れても痛くないほどに、可愛いものとなっていた。
終生娶らなかった彼であった。
したがって子がなかった。
お浦が子のように思われるのであった。
それに将軍家のお命を救った。この功績も没せられない。
かたがた無理に嚇かしなどして、その品物を手に入れようなどとは、貝十郎には思いもおよばなかった。
いつも自分の傍らへ置いて、自分の徳に感化させて、彼女の方から自発的に、その品物を手渡すのを待とう。そう思ってそういうようにした。
意次は自分の私生活を、知悉していて世間へ知らせる、そのお浦を殺せと強いた。
が、いつもは大概のことは、その意に従う貝十郎ではあったが、この事ばかりは押し切って反し、頑として応じようとはしなかった。
そこで意次も諦めてしまい、
「では冬次郎の手へ渡さぬように」
こういって放任してしまった。
貝十郎にしても冬次郎様の手へお浦を渡しては一大事、なぜかというに冬次郎様は、越中守様を傀儡として、田沼様の権勢を傾けようとする、その首謀者であるからで、この手へもしもお浦が渡り、お浦が越中守様に逢われたら、その品が越中守様の手へ渡るからであった。
(冬次郎様の手へ渡されぬばかりか、うかうか世間へも放してやれない)
そこで今度の信濃への旅にも、お浦を連れて来たのであった。
「お浦、わしとままごとやろうかな」
貝十郎は眼を細め、お浦の顔をいとしそうに眺め、冗談のようにそういった。
「上様とでなければ厭でござります」
狂女だけに率直に、そうお浦はにべもなくいった。
「その上様親切だったかな、火事を起こしたあの晩に?」
「上様お泣きなされました」
「泣いた、ほほう、それはそれは」
「後継者のことをおっしゃいまして、上様お泣きなされました」
「ナニ、上様が後継者のことをいって? ……ふうん」
と貝十郎は眼を見張った。
と、そこへ白須源吾が、百姓姿ではいって来た。
「白須氏か。いかがでござった?」
「容易のことでは治まらず、困難の様子にござります」
「岩村田の方も騒いでいるそうだが?」
「双方の勢気脈を通じ、次第に猖獗となります様子。……なおここに詳しきことは、認め置きましてござります」
源吾は懐中から帳面を取り出し、貝十郎の前へ出した。
「ご苦労であった。奥にて休まれい」
源吾は立ち去り、貝十郎は、熱心に帳面の文字を辿った。
小諸の城主一万五千石、牧野遠江守の城へ向かって、発足したところの一行なのであるが、それが塩尻にとどまって、五日というもの発しないのは、遠江守領内に、百姓一揆勃発し、それが岩村田侯内藤豊後守の、領内にまでも波及して、北佐久一円物情騒然、そこへ乗り込んでは危険というので、ここに滞留しているのであり、その様子をさぐるべく、白須源吾が命を受け、一昨日その方面へ出かけて行ったが、今帰って来て復命したのであった。
一応帳面を読み終ると、貝十郎は沈思した。
(蔭の首謀者が問題だ。あるのであろうかないのであろうか? あるとすれば誰だろう?)
この時裏口の木戸をあけ、町人姿の桐島伴作が、忍びやかにはいって来た。
「桐島氏か、異変はなかったか?」
「昨日のままにござります」
「人数に変りあるまいな?」
「冬次郎様に戸ヶ崎氏、その門下の清三郎とやら、他に例の三人の無頼が……」
「小諸かないしは岩村田の方へ、出かけて行くらしい様子はないか?」
「そのような様子ござりませぬ」
「浪人者など出入りせぬか?」
「見受けませんでござりました」
「では依然として我ら一行を、狙っているに過ぎないのだな?」
「はい、さようにござります」
ここで貝十郎は打ち案じた。
「今夜あたりが少し物騒、邸の内外警護するよう」
「かしこまりましてござります」
伴作は一揖して立ち去った。
冬次郎の一団が高島城下から、自分たちの一行を尾行けて来て、この塩尻までやって来て、ここからおよそ半里距てている、苗字帯刀を許されている豪農、諸角覚蔵方に滞在している。──ということを知ったので、このお方に一揆を指揮されたら、それこそ大変なことになる。またこっちへ切り込まれても容易ならぬことになると、それを案じて貝十郎が、桐島伴作に命を含め、様子をうかがわせていたのであった。
「お浦」
と貝十郎はややあっていった。
「後継者に関して上様には、どのようなこと仰せられたかな?」
「…………」
その時までお浦はうっとりとした眼附きで、朝の陽の中につばらかに咲き、小鳥が時々やって来て、枝を渡り花弁を散らす、庭の梅の花を眺めていたが、そういわれて貝十郎を見た。
でも何んともいわなかった。
狂った心にも上様のことを、あまり他人に話してはいけないと、そう思ったかららしい。
貝十郎は苦笑いをした。
(この娘の心を占めているものは、いとしい上様一人だけらしい。俺など問題になっていないようだ。……こういう一本気悪くないなあ)
そう思わざるを得なかった。
(俺のようになってはお終いだ。向こうを推量しこっちを斟酌し、法を冷厳に行うかと思うと、時々詩文に逃げたりする)
「殿様お召しにござります」
若侍が出て来てつつましくいった。
田沼意次は奥の部屋にいた。
武家の統領、最高貴人、将軍家吉宗、家重、家治、三代に歴仕し枢機に参じ、いつも中央にいた人物だけに、何んともいわれない品位があった。
この頃意次は六十八歳、でも非常に若やいでいて、髪多く白髪など少かった。眉と眉との間が広く額は高くて抜け上がってい、鼻ばかりは太く高く、剛頑の気象を現わしていたが、眼は細く口も小さくそれに首が長くて細く、全体が華奢に出来ていた。公卿のようなところがあった。
黒塗り蒔絵の円火鉢の胴を、皺の少い細い指で撫で撫で、背を少し猫にして、決して大きな声など立てず、いつも囁いているような声、そういう声でポツリポツリと、その前に端座し相手をしている、十二神貝十郎と話している様子は、まことに温厚なご隠居様であって、今が浮沈の別れるところ、権勢が傾くか挽回出来るか、その瀬戸際に立っている人物──などとは少しも見えなかった。
「そう百姓が一本気になっては、牧野殿もお困りであろうよ」
同情に堪えないように意次はいった。
いま貝十郎から百姓一揆に関する、詳しい報告を聞いたところなのであった。
「わしは」と意次はちょっと微笑し、「お前に反対をされるかもしれぬが、百姓に対する施政方針は、豆州公と同じなのだよ。つまり松平伊豆守殿とな」
「でござりましょうと存じまする」
貝十郎も微笑していった。
智恵伊豆といわれた松平信綱、彼は農民をこう解していた。「いってみれば油粕のようなものじゃ、絞れば絞るほど油が出る」
だから絞らなければいけないというのが、その信綱の意見なのであった。
「本佐録にはこう書いてあるのう」
ややあって意次はまたいった。
「──百姓は天下の根本なり、これを治めるに法あり、まず一人一人の田地の境い目を能く立て、さて一年の入用作食をつもらせ、その余を年貢に収むべし。百姓は財の余らぬように不足なきように治むること道なりと。……どう思うな?」
「ははあ」
貝十郎はそれだけで止めた。
あんまり馬鹿らしいと思ったからであった。
(治める方はいいだろうが、治められる方はたまらない)
同時に彼は本佐録の話者、本多正信のその意見と、松平信綱の見解とが、徳川代々の執政者の、百姓に対する治法であって、そうして意次その人の治法もそうであることを看取した。
だから何んともいえなかった。
(積極的施政家開放主義者、そう思われるこの殿さえ、その考えから出られぬものと見える)
寂しい気持ちがするのであった。
二人はしばらく黙っていた。
高原塩尻の三月であった。朝の気は部屋に冴え冴えとしていたが、寒くて襟が掻き合わされた。
社家家宝の雪舟筆の、豪宕の唐風景を描いた屏風が、二人を囲って立っていたが、墨色さえ寒く感じられた。
(ひとつ横から突いてみよう)
こう思って貝十郎は何気ないようにいった。
「享保年間に田中丘隅様が、このように申しましてござります。『それ百姓というもの、元来性癖にして凄まじきものなり。集まる時はよく城を守り、散ずる時はよく郭を破る。党を結ぶにおよんでは、金銀珠玉を顧ずして身命をかえりみることなし』と……恐ろしいものにござりまするな」
「さようさ」
と意次は横を向きながら、
「だからどうしても瞞さなければいけない」
(瞞す! ははあ、凄いことをいうぞ! この殿らしい凄いことを!)
で貝十郎はニヤリとした。
そうして何んともいわなかった。意次もしばらく黙っていたが、
「いわせざる、聞かせざる、知らせざる! 彼奴らに対するやり口じゃ……知らしむべからず、拠らしむべしじゃ」
冷然とした口調でいった。
まだ貝十郎は黙っていた。
「わしの一番恐れるのは、彼奴らが怜悧になることじゃ。各自意見をいい出すことじゃ。……そうなってはたまらない。……で、彼奴らはいついつまでも、魯鈍でおって貰わねばならぬ」
「いつまでも魯鈍でおりましょうか?」
「おるおらぬは別問題じゃ。……魯鈍でおって貰わねばならぬ」
「…………」
「政治の執り方一つによって、いついつまでも魯鈍でいるよ」
「…………」
「誰かに──一番力のあるものに、犠牲になって貰わないことには、国というもの治まるものではない」
「ははあ」
と漠然と貝十郎はいった。
(深い意味があるらしい)
こう思ったからである。
「百姓は産み出してくれる。……物を。……土から。……一番力がある」
「ははあ」
と貝十郎はまたいった。
少しわかったからである。
「犠牲になって貰わねばのう。……気の毒だが、犠牲になって」
意次はここで幽かに笑った。
貝十郎も幽かに笑った。
「恐ろしいのは浪人群じゃよ」
ややあって意次は話をそらせ、この方面へ持って行った。
「貝十郎、どう思うな」
「はい」
と貝十郎はいったものの、恐ろしいのに幾通りもある、どういう意味の恐ろしいのか? これがハッキリわからなかったので、ただそういってだまっていた。
「わしはこういう触書を出したよ。『近年村々へ虚無僧、修行の態にて参り、百姓共へねだりヶ間敷儀申掛、或は旅宿を申付候様村役人へ申候故、宿取遣候得ば、麁宅にて止宿成難を申あばれ、其の場に居合候ものどもを尺八にて打擲致、疵付候儀有之段相聞不届之至に候』……ええとそれから『以来虚無僧ども聊かも不法之筋有之ば其の村方にて差押、御領者御代官、私領者領主地頭役場可致注進候』とな。……虚無僧。こいつが浪人じゃ」
「そのお触書は安永三年、たしか春頃にお出しなされましたはずで」
「浪人の跋扈はそれ以前から、幕府にとっては頭痛の種でな、ご府内では兵学者だの剣道指南だの、軍書読みだのと看板をあげ、上は士大夫に取り入ったり、下は町人に食い込んで、不穏の言説を注ぎ込むかと思うと、他方田舎や農村へ入っては、一揆を起こさせたり指揮したりし、もっと下がった輩になると押し借り強請、誘拐までやる」
「働くに職なく食うに術なく、そこでそのようになりますものと……」
はなはだ平凡の言葉ではあったが、そういう以外にいう言葉がなかった、で貝十郎はそういった。
「今日本に浪人ども、いったいどのくらいいるであろうな?」
「慶長五年より本年までに、除封減禄のお大名衆、おおよそ三百五十家と見、四十五、六万の浪人が、産まれいでましたはずにござります。死者生者、それらの家族、かようなものを推算いたしますると……」
「まあ大変なものだろうな」
例の香合へ手をやりながらいった。
香を無造作に火鉢へくべた。
隙洩る風など一筋もはいらぬ。ここ奥まった部屋の中へ、見事な蜒りを見せながら、さも緩かに紫煙が立ち、末拡がりにひろがった。
一時に四辺が薫染された。
「貝十郎何んと聞いた?」
「伏柴と聞きましてござります」
「あたった、偉いな、さすがはそちだ。……村田春海から贈ってよこした品じゃ」
「ははあさようで、村田殿から」
蔵前の札差しの一人であり、十八大通の仲間であり、しかも学者であり才人であり、意次とも貝十郎とも懇親あるところの、春海はこの時代での寵児なのであった。
二人はしばらく香を聞いていた。
「わしはな」
とややあって意次はいった。
「最近浪人取り締まりについて、もっと徹底した触書を出そうとこう思っているのだよ」
「…………」
「近来彼奴ら党を組み、槍鉄砲など携えて、横行いたすということじゃから『槍鉄砲等携帯者は勿論、長脇差を帯または所持致し歩行候者共は、悪事の有無、無宿、有宿之差別無く、死罪其の外重科に行う可し』とな。……こういう触書じゃ」
「…………」
貝十郎は眼を見張った。
が、何んともいわなかった。
「彼奴らだけは徹底的に弾圧せねばならぬ。なぜかといえば煽動家だからの。……百姓は元来凄じきものなりと、田中丘隅はいったかもしれぬが、わしからいわせると日本の百姓は、元来穏しいものなのじゃ。ただ煽動家が現われて、こいつを煽動した時だけ、兇暴性を発揮する。とこんなように思うのだがな」
香の煙りは天井に近い宙で、乱れ綾を織り紋を描いていた。
が、やがて消えてしまった。
しかし余燻は部屋に残り、清々しく暖かかった。
「だから煽動家浪人どもは、どうあろうと弾圧し狩り取らねばならぬ。……彼奴らにも無理のないところはある。第一彼奴らには学問がある、一度は上層にいた経験もある。その時代のことが忘れられないで不平と不満とが、心を一杯に充たしている。したがって乱を思うのじゃな」
「何んとか救済いたしませねば……」
「それがない、救済の法が」
「慶安の頃、熊沢蕃山先生が……」
「説いた、救済説を、わしも読んだ、有名な『大学或問』であろう。が、あれは理想論じゃ。元禄の頃には荻生徂徠が『政談』で意見を述べておる。が、こいつも理想論じゃ。……学者の名論卓説というやつ、実行出来ない理想論と、おおよそ相場がきまっているよ。……ところで一層恐ろしいは、浪人ではなくて金貸しじゃぞ! そうは思わぬかな、貝十郎」
「金貸し? 金貸しと仰せられますると?」
「金を融通する金持ちどもよ。幕府直属の金貸しといえば、御為替方御用達じゃ。旗本に属する金貸しといえば、村田春海や大口屋暁翁、いわゆる蔵前の札差しじゃ。各藩に属する金貸しといえば、掛屋と称するあの手合いじゃ。もちろんお前などはよく知っていようが」
この時襖の向こうから、
「申し上げます」
という声が聞こえた。
「何じゃ? よい、襖をあけろ」
「牧野遠江守様よりお使者のお方が、参上いたしましてござります」
「後刻逢う。待たして置け。……なぜ彼奴らが恐ろしいかというに、武士の内臓を食い荒すからじゃ」
「殿、お使者にお逢い遊ばせ」
「まあよい、それよりお前と話そう」
意次は珍しく熱を持っていった。
なお語ろうとする意次を制し、貝十郎は部屋を出た。
「お使者お通しなさるがよい」
一間をへだてて控えていた、小侍へそういって、貝十郎は裏庭へ出た。
庭下駄をつっかけさまよったが、
(従来お屋敷へ伺候して、いろいろお話を承ったが、それは風雅の話ばかりだった。今日はじめて殿の政治談を聞いた。……聞いて見れば! 聞いて見れば!)
貝十郎は渋面をした。
(自分では一摘み何金という、高価の香を焚きながら、百姓はいつまで、魯鈍でなければいけない、浪人は弾圧し狩り取れという! ……何んだかこう胸に詰まるものが出来たぞ)
不意に足を止め両手を合掌、胸へ二本の拇指を着け、グッと正面を凝視した。呼吸は正に止まっている。
堤宝山流の「十全」である。
僧慈音きわめて傑物、武技一切に通じていた。門下に中条兵庫之助あって、中条流を創始したが、門流に鐘捲自斎あって、鐘捲流を創始した。富田九郎右衛門の富田流、富田一放の一放流、長谷川宗喜の長谷川流、ことごとく慈音から出ているのである。
この慈音別格の門下に、堤山城守宝山あって、小具足および腰の廻り、すなわち捕り手組打ちの術を、夢想流竹内流とは自ら別に、創始してもって「堤宝山流」と称した。
宝山流の特色たるや、一、呼吸を重んずること、二、忍術を加味したこと、三、気合を尊んだこと! 剣禅を打して一丸とし、無刀、わずかに十手と縄もて、悪魔を擒縛するがごとく、悪人を縛し挫くにあった。
斯流の奥義に達したる、十二神貝十郎いま構えた! 一念三界に通ずるという、まして況や身内の邪気をや、払うに何んの手間暇いろう! 自己の邪念を払うとともに、対者を遠あてにあてて倒す、両様の徳を具備したのが、この十全の法なのである。
「呍」と封じて精神集中、長く間を保って精神統一、──この心境持続の間は、壁を攀ずることも天井を渡ることも、いながら肉身空に向かって、数丈の高さに浮かぶことも、自由自在だといわれていた。
極まった瞬間「阿」と呼吸吐く!
刹那前方の鉄壁へ、穴を穿つことさえ出来るという。
今、貝十郎の呼吸極まった。
「阿!」
と瞬間呼吸を吐いた。
とたんに眼前の高塀の、向こうから悲鳴が聞こえた。
「しまった!」
と貝十郎は思わずいった。
(人をあてる気もなかったが、誰か塀外を通っていて、その人をあてて倒したそうな)
走って行って裏木戸を開けた。
村娘が一人倒れている。
走り寄って抱き起こし、
「娘!」
と背の辺をドンと打った。
「あッ」
「気づかれたか!」
「十二神の旦那アーッ」
「貴様は勘助!」
「堪忍してくだせえ!」
「さては汝、様子さぐりに……」
「お見遁がしを! ……十二神の旦那アーッ」
「ならぬ! 来い!」
と襟がみを掴み、庭へズルズルと引っ張り込んだ。
木戸をとざす貝十郎は、女勘助の前へ立った。
「不覚者め。事さえ起これば、忽ち女から男へ返る! ……アッハハ、男女め!」
勘助は苦笑いをするばかりであった。
「勘助!」
と貝十郎は厳しくいった。
「いつも振り袖姿の汝が、村娘風に姿をやつし、ここらあたりをさまよっていたは、当方の事情をさぐろうためな」
「違いまさあ旦那、大違いだ」
「冬次郎様をはじめとし、戸ヶ崎氏や汝らが、諸角覚蔵方に滞在し、我々の様子うかがいおること、拙者においては夙に承知じゃ」
「そりゃアまあ、さようでござんしょうとも」
「事情知りたくば知らせてやろう」
「え、そいつアほんとですかい」
「ゆっくり泊まって探って行け」
「ゆっくり? ……泊まって? ……といいますと?」
「この屋敷から出さぬということじゃ」
「いけねえ、それじゃア監禁だアー!」
「どなたかちょっとおいでくだされ」
貝十郎の声に応じ、白須源吾が奥から出て来た。
「白須氏、こいつを一間へ!」
「狂人よ! 狂人よ!」
と、源吾の背後から従いて来たお浦が、足踏みをし、指をさし、勘助に向かってそう叫んだ。
「やっぱりお浦か! ままごと狂女の!」
そう勘助は思わずいったが、
「ひでえや、狂人が俺らのことを、狂人だって吐かしゃアがる」
「世間一統が狂人になっている」
貝十郎は笑っていった。
「世はさかさまだ、正気の者はない」
「狂人よ! 狂人よ!」
なおお浦は囃し立てた。
勘助を引きずりお浦を連れ、源吾が奥へ行きかけた時、
「桐島氏は?」
と貝十郎は訊いた。
「また出かけましてござります」
「よくみんな働いてくれるのう」
一人となった貝十郎は、梅の木の下にぼんやり立った。
咽るような芳香であった。
佶屈聱牙の枝ぶりであった。
苔のむしている幹のあたりを、貝十郎は撫でまわしたが、
(隠君子、偏屈者、こういう梅のような人間が、一人でもあれば面白いのだが。……その代りさぞまア世の中から、排斥されることだろうなあ)
「貝十郎」
といいながら、この時意次が縁へ出て来た。
「殿、お使者は? 牧野様の」
「逢ってたった今帰したところだ。わしに至急に来てくれとのことだ。……わしの智恵が借りたいらしい。……ところで先刻の話のつづきだが、彼奴ら、すなわち金貸しどもは、武士から俸禄米を質に取って、金を貸して高利をむさぼり、自身は蓄財し武士たち一統を……」
「殿」
と貝十郎はそれには答えず、梅の木の下に佇んだまま、空を見上げ片手を差し出し、掌を上にして呻くようにいった。
「灰が降り出しましてござりますぞ」
「なに灰が? ……すりゃまた浅間が!」
「爆発するかもしれませぬ。……人間社会がこの発狂! では日月山川草木、自然の世界も発狂して。……降るわ降るわ青灰が! ……幽かながらも降るわ降るわ!」
豪農諸角覚蔵の家へ、高阪郡兵衛と名を宣り、一見して浪人と見える武士が、冬次郎をひそかに訪れたのは、同じこの日の午後のことであった。
頤髯、猪首、長身、肥大、郡兵衛はそういう風采であり、年は四十二、三であった。
彼は冬次郎を説いているのであった。自分がこれまで背後にあって、統帥し指揮し駈け引きして来た北佐久の百姓一揆軍に、この松平冬次郎をいただき、さらに一層の結束を固め、一層の気勢を揚げようとして、熱心に説いているのであった。
彼と冬次郎とは旧知己であった。
天明三年に起こったところの、東北地方の大饑饉、死人の肉をさえ食したという、大饑饉の時この郡兵衛は、その地方へ出かけて行き、あらゆる救恤の働きをした。その際冬次郎も出張っていた。
そこで二人は知り合ったのである。
勤王の先駆者、一世の奇人、熱血そのもののような高山彦九郎、この人物の友人であり、同志であり、むしろ先輩であるのが、この高阪郡兵衛であり、そうして高山彦九郎をして、その東北の大饑饉の様を、実地に見聞させるべく、慫慂し実行させたのも、この高阪郡兵衛なのであった。
「殿」
と郡兵衛はいいつづけた。
先刻からいいつづけているのであった。
牧野遠江守の藩士により、一揆の煽動者指揮者として、狙われている彼だったので、その眼を眩ましてここへ来ること、容易の業ではなかったのに、そこをどうして潜りぬけたものか、白昼くぐりぬけてやって来たのが、二刻ほどの前であり、爾来説きつづけているのであったが、どうしたものか冬次郎はそれを諾おうとはしないのであった。
「殿」
と郡兵衛はいいつづけた。
「ともかくも現場へお越しくだされ、百姓どもの憐れの様子、一揆嗷訴をいたさいでは、とうていいられぬ窮境を、実地にご覧くださりませ、郡兵衛お願いいたしまする」
「…………」
冬次郎は黙っていた。
側に引き添い端座している、戸ヶ崎熊太郎も当惑したように、これも黙って俯向いていた。
「一昨昨年の浅間の爆発が、いかに悲惨でありましたかは、ご存知のことと存じまする。人畜の死傷、家屋の倒壊は、申すまでもない儀にござりまして、酸鼻の極みにござりまするが、それは一時の災いとしまして、諦めますること出来まするが、百姓にとり何より大切の、田地田畑山林が、降灰、落石、熔岩、熱水それらのものによってことごとく荒らされ、全く用に立たなくなりました。それを営々辛苦いたして、三年の日子を費やして、わずかに昔日の俤とし、やれ嬉しやと思う間もなく、また昨年の大旱魃、で再び荒廃いたしました。しかるにご領主牧野遠江守様、すでに浅間の爆発も、数年前の出来事となった、昨年の旱魃は小天災、そのようなものは数に入らぬと、このようのこと仰せられ、爆発の際に発布されました、年貢ご免や割減らしの制を、昨年の秋より旧に復し、なお本年は早々に、検地尺入れをなされるとのご諚、申すまでもなく検地尺入れは、年貢高増徴のお目的でござる。……これで百姓ども生きられましょうか!」
冬次郎が遠江守であるかのように、郡兵衛は巨大な円らの眼を、白身だけにして睨むよう見詰め、声涙下るというような声で、そういって様子をうかがった。
豪農諸角家のこの屋敷は、そこにいる三人の人間が、小さく見えるほどに広かったが、やはり浅間の爆発や、大旱魃の影響を受け、収入減少したために、手入れをすること出来ないからか、襖は破れ畳は古び、荒涼の体を見せていた。
「殿、お出張りくださりませ!」
「郡兵衛」と冬次郎は重々しくいった。「行く行かぬは即答しまい。というのはより一層重大の事件を、決行しようとしているからじゃ」
「それは何事にござりまするか?」
「悪政を施す大名ばらの、元兇を斃すということじゃ!」
「元兇? 殿、何者でござるな?」
「老中田沼主殿頭じゃ!」
「ワッハハハ!」
とそのとたんに、軽蔑と憤怒と憎悪とを雑えた、凄い笑い声が郡兵衛の、髭逞ましい口から出た。
「ワッハハハ、何を痴言! 口を酸くしてこの拙者、百姓の惨苦、一揆の状況、事を細かに申し上げ、お出張りお願いいたしまするや、余はいわゆる名門の出、それに金銭に事も欠かぬ、そういう身分でありながら、惨苦そのもののごとき農民に雑り、総帥めかしく采を揮うこと、後ろめたく良心に恥ずるの、一揆嗷訴もさることながら、それ以上に勢い逸らば、咎人いよいよ多く出で、罪なき妻子までに禍いおよばんの、余がこの度の信濃の旅、直接さようの事件に伍して、働く所存なかりしため、身心の用意出来ていぬのと、言葉を左右に設けなし、断わるさえ卑怯と思ったに、江戸にいる老中田沼主殿も、信濃に在す冬次郎殿が、討って取ろうのご詮索、それゆえ一揆へ加担せぬとよ! ワッハハハッ、何を痴言! さようの痴言申そうより、命が惜しく罪着るが恐い、それゆえ止めじゃと仰せられい! その方が遙かに男らしい! その代りに拙者日本国中、殿のお噂出るごとに彼松平冬次郎は、草莽の志士、浪人の巨擘、天下民衆を思念する英雄──などと申すが実は贋物! 要するに搢神紈袴の子弟、悲歌慷慨も貴公子の道楽と、吹聴いたすと心得られよ! ご免!」
というと熱血誠心、真摯真剣ではありながら、彦九郎流の一徹短慮、思慮に乏しい浪人者の粗笨、傍らの大刀ひっさげるや、ヌッと立って席を蹴った。
襖は一切開け放されていた。
密談する時の作法だからである。
幾間かへだてた彼方にある、縁側の端に外伝と新助とが、庭の方へ顔を向け、近寄る人を警戒しながら、夕陽がその庭にある土蔵や納屋に、砂金のように降りそそぎ、その中で山鳩が人を恐れず、餌をひろっている姿に見入り、こっちへ背中を向けていたが、この騒ぎに驚いて、一斉に顔を振り向けた。
「まず待たれい、高阪氏!」
いって止めたは熊太郎で、これも傍らの大刀を取ると、鐺で郡兵衛の袴の裾を抑えた。
「田沼意次、この地におります」
「ナ、何を!」
と高阪郡兵衛、自分の耳を疑いながら、
「田沼がこの地に? バ、馬鹿な!」
「この熊太郎、虚言は申さぬ」
「すりゃ真実⁉ で、どこに?」
「社家北条主計の屋敷に!」
「…………」
「さればこそ殿冬次郎様には、討って取ろうと申されるのでござる!」
「…………」
ドッと郡兵衛は座に坐った。
「意外も意外……老中たる彼が……かかるところに……しかも真実! ……詳しく事情お話しくだされい! ……いやいや聞かぬ、事情など聞かぬ! ……いかにも冬次郎様仰せのごとく、悪政を施す大名ばらの、かれこそ元兇にござりまする……そいつがいる! この地にいる! ……ヨーシ、血祭り、一揆の血祭り、しかも何んたる大犠牲ぞや! ……拙者踏み込み、一刀に刺し!」
またも性急飛び立ち上がり、郡兵衛は走って行こうとした。
「静かに、郡兵衛、まず静かに」
冬次郎は冷静にそういってとめた。
「十二神貝十郎先方にいるぞ!」
「十二神貝十郎? あの与力の?」
「与力ながらも器量人、彼奴が田沼方に附いているのじゃ。……そればかりでない高島藩よりも、おそらく小諸の藩よりも、内々警護の武士を出し、田沼の身辺守りおるはずじゃ。……そち一人に討てるほどなら、何んでわれわれ今日まで、彼を安穏に捨てて置こうぞ」
冬次郎は少しく苦々しそうにいった。
しかし郡兵衛は驚かなかった。
「こう見えましても私は甲州の浪人にござります」
「うむ、そんなことをいつぞや聞いた」
「祖先は甲陽二十四将の一人、高阪弾正にござります」
「高阪の姓、そこから来ているか」
「これは自慢にはなりませぬが、私血統より慶長年間、高阪甚内と申す賊、三甚内の一人として出で忍の術もて横行いたしました」
「剣道は宮本武蔵より学び、無双の使い手であったそうだの」
「この私におきましても、いささか忍術を使いまする」
「これは初耳、そうであったか」
「甲州流の兵学に、伝授番外といたしまして、蜈蚣衆忍術のありますこと、殿にもご承知と存じまするが」
「蜈蚣衆のことなら存じおる。戦時にありては物見使番、平時にありては細作となって、敵国に潜入、隠密をつとめ、腕を揮ったということじゃ」
「蜈蚣衆を創始いたしましたは、真田幸隆にござりまするが、指揮して縦横に使いましたは、高阪弾正にござります」
「うむ、そちの祖先であったか」
「蜈蚣衆忍術の奥義書なども、わが家に伝わりおりまする。……私使いまする忍術というは、この蜈蚣衆忍術にござりまする。……この忍術もて主計方へ入り込み、田沼めを一刀に刺し殺し……しばらく! 静かに!」
と不意にいって、郡兵衛は体を畳へ伏せた。
(はてな)
と冬次郎と熊太郎とは、顔を見合わせて息を呑んだ。
俄然郡兵衛は大音をあげた。
「床下に何者か忍びおり、話盗み聞きいたしおります! ご家来衆狩り出し縛めとりなされ!」
声に応じて外伝と新助とが、庭へ飛び下りる姿が見えた。
間もなく喚く声が聞こえて来た。
「いたーッ、……捕ったーッ……捕ってやったーッ」
「大変だーッ……桐島さんだーッ」
冬次郎は熊太郎と郡兵衛とを連れて、座敷を出て縁に立った。
外伝と新助とに袂を取られた、貝十郎配下の同心の、桐島伴作が無念そうに、顔を地に向け立っている姿が、夕陽に明るく染められて見えた。
夜が更けて細雨が降り出して来た。
塩尻の宿はことごとく眠り、戸をとざされた家々からは、燈火一筋洩れていなかった。
まして郊外桔梗ヶ原は、墨のような闇に一色され、森も林も丘も藪も、その闇の中に埋ずもれて、そこで雨に濡れ小声で咽ぶ、夜鳥の声は聞こえたが、姿はかいくれ解らなかった。が、春の雨であった。一雨ごとに育つ草木、一雨ごとに蕾をひらく花──その葉や茎や枝や花の馨しい香が空気に充ちて、いっそ清々しく感じられた。
と、その野を宿に添って、辿って行くらしい人物があった。傘にあたるささやかな雨音。濡れた草を踏む幽かな足音。
「はてな、不思議な歩き方ではあるぞ」
その人物は呟いて、じっと前方を隙かして見た。
それは十二神貝十郎であった。
冬次郎方の動静をさぐりに、ふたたび出て行った桐島伴作が、深夜になっても帰って来ない。
(変事があったに相違ない)
部下思いの貝十郎であった。自身出て行って様子を見て来ようと、今出かけて来たところであった。
と暗中を前方から、忍術衆特有の横歩きで、風のように歩いて来る人の姿が──貝十郎その人が忍術を加味した、堤宝山流の達人だけに──感じ見え疑惑された。
傘をたたみ小脇にひっさげ、藪の蔭に佇んだ。
と、すぐにその横手を、辷るがように走って行った。
とたんに貝十郎は声をかけた。
「中身は二尺、鞘は四尺、鐺は頑丈に鋭く強く、地に立てるに適当であるはず。鍔は尋常より一廻り大きく、足かかっても辷らぬよう、刻み目多く刻してあるはず。さて下緒は延ばせば一丈、たたんで下げれば五寸となる。──そういう刀を差しているはずじゃ。……蘇芳染めの三尺手拭い、帯に揷んで下げてもおるはず……鈎縄、石筆、打ち竹なんど、六具ことごとくお持ちと睨んだ。……乱波衆(関東派)か透波衆(関西派)か⁉ ……ここにも一人同業がござるに、ご会釈なしの素通りとはどうじゃ!」
「…………」
返事はなかったがギョッとしたらしく、ピタリと足音を止めてしまった。
(どう出て来るかな?)
と貝十郎は思った。
間。
しとしと藪に降りかかる、雨の音ばかりが聞こえて来た。
「透波でもなく乱波でもござらぬ。……甲州蜈蚣衆の名残りのものでござる」
ややあってそう答える声がした。
「大切の用件帯びたるもの、ご会釈はご用捨くだされい。……ご免」
というと歩き出したらしく、幽かな足音が聞こえて来た。
「蜈蚣衆とは珍しい。われらは堤宝山流じゃ。……一屈折(一勝負)参ろうか!」
「ナニ堤宝山流? こ奴!」
と叫ぶと高阪郡兵衛は、身を翻えして帰って来た。
さよう、高阪郡兵衛なのであった。
危険がって止める冬次郎や熊太郎、二人の言葉を笑って排し、必ず田沼の寝首掻こうと、忍び姿に身を鎧い、今来かかったところなのであった。
「宝山流とあれば小具足じゃ。われらとは筋違い。何の会釈の要あろうや。止めたは奇怪! 弁解あらば聞こう!」
忍術衆同志には作法があった。
それと認めると特定の言葉で、会釈しなければならなかった。
〽筑波晴れ、浅間曇りて鵙啼かば、雨は降るとも、旅よそいせよ
こう一方が呼びかけると、
〽五月西、春は南に秋は北、いつも東風にて、雨降ると知れ
こう答えるそれのごとく。
言葉で会釈出来ない時には六具(編笠、鈎縄、石筆、薬、三尺手拭い、打ち竹)の一品を叩いて見せて、それを会釈としたものである。
この会釈にもとったものは、贋物と見られ討ち果たされた。
忍術を多分に加味したとはいえ、堤宝山流は忍術ではなく、それを使うものも忍術衆ではなかった。
にもかかわらず忍術衆としての会釈を、必死の用件帯びて行く自分に、突然要求されたので、短気の郡兵衛は怒ったのであった。
しかし貝十郎は悠々としていった。
「怪しと見たればかけて(ペテンにかけて)止めたのじゃよ」
田沼様が籠っている、その方へ向かってこんな深夜に、忍術衆の風をした人間が、忍術の歩行で走って行く。怪しと睨んで止めたのは、貝十郎としては当然と云えよう。
「かけてと、黙れ、無礼の奴! 止めるだけの任ある汝なのか! いや汝でもあるまい!」
「任ある者じゃ! 与力じゃよ!」
「与力? 与力で宝山流を?」
(はてな?)というように郡兵衛は云った。
「では、もしや貴殿には?」
「江戸の与力じゃ。与力じゃよ」
「では、……もしや……十二神?」
「ご存知か……貝十郎じゃ」
「…………」
無言! 一足ソロリと下がった。
指を反らせ、踵を上げ、土踏まずの先蹠で、一足下がった時息を吸い、蹠地面へ着いた時、吸った息を静かに吐く。──いわゆる「無足の術」なのであるが、これで郡兵衛は一足下がり、つづけて数間引き下がった。
(いい機会、討って取ろう!)
こう決心したのであった。
宝山流の使い手で、器量人ではあるが、田沼の隠密、浪人にとっても苦手の人物──そういう意味において貝十郎のことを、彼は以前から知っていた。そうして昼のうち冬次郎様から、その貝十郎田沼を守護してこの地にあることを聞かされた。
(田沼を刺す際邪魔するであろうが、ナーニ、たかが知れている、田沼と一緒に首掻いてやろう)
こう思って来たのであった。
その貝十郎と逢ったのである。
(いい機会、討って取ろう!)
体を固め暗中に構えた。
藪をへだてて二人はあった。
降るは雨! ささ啼くは夜鳥!
他は絶対に無声無音!
(何者だろう?)
(意外に手強い!)
忍術衆としても技倆の勝れた、ほとんど一流の貝十郎であった。人間さながら消えたかのように、存在の気勢さえも示そうとしない、相手の精妙の遁業にひそかに舌を捲いたのであった。
(俺の素姓を知ると同時に、決死の構えで働きかけた! 討って取ろうの目算らしい。……田沼様のいる方角へ、冬次郎様のいる方角から、忍び姿で走って来たこいつ? ……刺客だな……冬次郎様からの!)
ここに考えが落ちて行った。
まことは最初からそうではあるまいかと、疑わしく思われる節あって、それでかけて止めたのでもあった。
(ではこいつ助けては置けぬ!)
こう思った一刹那、心フーッと遠くなり、躯自ずと浮き上がり、足二、三歩左前へ出た。
(凄いな!)と貝十郎は瞬間に思った。
(凄い誘いだ! 見事な引き手だ!)
「むッ」
と堪え、丹田臍下に、呼吸を納めて踏みとどまった。
とたんに藪の左裾から、白々とした物象が出た。
(児戯!)と笑って貝十郎、振り返り逆に右裾を睨んだ。
はたしてそこに人気あって、サーッと藪越しに一条を投げた。
十手引き抜き、発止受けた!
ギリギリと捲きついた!
グーッと手繰り、ピーンと刎ねた。
「あっ」
「取ったアーッ、六具の一つ、鈎縄貝十郎取り申したぞ! 一屈折! ご異存あるまい!」
「…………」
無言! とはいえ磅礴とした殺気! 怒濤! 藪を背に切り込んで来た。
引きかわした貝十郎、薪裾を巡って数間逃げたが、躓いたらしい、地へ倒れた。
してやったりと追い逼った郡兵衛、
「姦物、返すぞ一屈折!」
二尺の刀でグーッと突いた。
と、──
「ワッハハハ」
と笑う声、三間あまりの背後から聞こえた。
「それは合羽じゃ、長合羽じゃ! 平賀源内の発明にかかわる、火浣布(羅紗)でこしらえた雨よけ合羽じゃ。……脱いでそこへ置いたまでよ! ……手をやってご覧ぜ、ご自身の腰へ! ……六具の一つ蘇芳染め三尺、あるまいがな、拙者抜いた! ……これで二屈折取り申したぞ!」
「…………」
全く悲痛の無言であった。
郡兵衛今は魂消え気萎え、怒りばかりは燃え狂っていたが、頭は乱れ胸は動悸、沈着きことごとく失われてしまった。
暗中に小太刀を必死と構え、忍術衆としての自負と自信を、破壊し失わせた怨敵を、一太刀なりと怨まんものと、足の爪先に土を噛ませ、ジリリと詰め、ジリリと詰めた。
迎えて立った貝十郎、刀も抜かず手練の十手、右手に構えて左手は腰へ、柔かくあてて足は前後に、これも柔かく開いて踏み、心眼働けば肉眼も活躍、闇にも見ゆる相手の動作を、仔細に看取し静まっていた。
しかり、静まってはいるのであったが、かかる場合に用いてこそ、真価を発揮する堤宝山流の窮極の精髄「十全」の遠あて! これで挫いているのであった。
見よ、ジリジリと詰めて来ていた、郡兵衛今は進みかね、像のように立ったではないか。
「阿!」
吐く息!
勝負決いた!
ガックリ腰挫け大地に坐り、両足を開いて左右へ投げ出し、刀も落とし両の拳を、左右の膝の上へのせ、首うな垂れ瞑目し、郡兵衛は全く動かなくなった。
「ご姓名は?」
と近寄って、その前へ立って貝十郎は訊いた。
返事はただの無言であった。
「刺客でござろうな、冬次郎様よりの?」
「…………」
「無言、さようか、よいお覚悟」
貝十郎は考え込んだ。
「心剛に情烈しく、立派な烈士とお見受け申した。……拙者に屈折されましたも、技量の相違と申そうより、運不運と解した方がよかろう。……決してお恥じなされぬがよい。……田沼様を刺そうのおぼしめし、拙者においては左担出来ませぬが、しかしこれとても見解の相違、ゆるゆるお話しいたしましたら、お解りになるでござりましょうよ。……さて、拙者貴殿を屈折いたした。忍術衆同志の作法に基き、貴殿拙者に臣事せねばならぬ。拙者の申すこと諾かねばならぬ。……そこで……」
というと貝十郎は、郡兵衛の周囲大地の上へ、十手で大きく円を描いた。
「拙者よろしいと申すまで、円より外へ出てはならぬ。……次に両刀お預かり致す」
貝十郎は歩き出した。
降りまさって来た雨の中に、藪を横にし同じ姿勢で、郡兵衛はいつまでも坐っていた。
諸角覚蔵家の前庭から、犬がけたたましく吠え出したのは、それから間もなくのことであった。
犬の吠え声はやがて止んだ。
犬小屋の隅に二匹の猛犬が、首を垂れ耳を伏せ舌を食み出し、懾服したように縮んでいる。
庭に人影が立っていて、犬小屋の方を睨んでいた。
と、主屋の雨戸があいて、
「勘助だろう、遅かったなあ。誰も彼もみんな心配している。でもよく帰った、さあさあはいりな」
こういって、半身を出したものがあった。
ほかでもない外伝であった。
どうしたのか縁から庭へ下りた。
「どいつだ、俺を引っ張るのは! 止せ、苦しい、やい止せ止せ!」
見えぬ手が彼を引き出したらしい。
すぐバッタリと倒れてしまった。
そうしてそれっきり動かなくなった。
ぼっと立っている庭の人影は、同じ姿勢で動かなかった。
とまた雨戸から人影が出て、
「おい外伝どうしたんだ? ……勘助、帰って来たんじゃアねえのか。……苦しい、やいやい引っ張るねえ。……どいつだ畜生、やけに引きゃアがる」
こういったがこいつも庭へ引き出され、そのまま倒れて動かなくなった。
他でもない新助であった。
犬は犬小屋に萎縮してい、人影は立ったまま同じ姿勢でい、風を加えて降る雨が、積み藁の丘を叩いていた。
と、開いている雨戸の側へ、庭の人影が寄って行った。
すぐに雨戸が自ずと閉ざされ、人影が庭から消えてしまった。
広い座敷に蒔絵の燭台が、太い焔をあげていた。
寝もやらず冬次郎と熊太郎とが、燭台の横に向かい合っていた。
村娘ふうに姿をやつし、田沼方の様子をさぐろうと、単身出て行って帰らぬ勘助、田沼の寝首掻かんものと忍術衆姿に身を鎧い、出かけて行った高阪郡兵衛、二人の安危心もとなく、案じて二人とも寝ないのであった。
と、遠々しく戸の開く音がし、外伝と新助の声らしい声が、同じ方から聞こえて来たが、間もなく絶えてひっそりとなった。
二人はちらりと顔を見合わせた。
しかし何ともいわなかった。
荒廃した豪農の家であった。
作男、作女、婢女、寄食人──大家族主義の典型的に、以前は大勢の人々が、ここの家にもいたのであったが、打ちつづいた天災に家計衰え、一人去り二人去り人々去って、今はわずかに肉親だけが、主屋の片隅の一劃に、住居しているばかりであった。
で、幾十となく作られてある部屋の、幾筋となく作られてある廊下の、館のような大屋敷は、夜に入ってはひときわ寂しく、化物屋敷さながらに、陰々としてい、滅々としていた。
不意に二人ながら燭台の火を見た。
百目蝋燭の燃え尽きるには、まだまだ十分の余裕があるのに、焔がにわかに今にも消えそうに呼吸づきながら痩せたからである。
部屋の中がそれで朦朧となった。
同時に二人ながら重い何物かに、上から圧迫されるような、不快な圧力を身心に感じた。
「殿」
と小声で熊太郎はいった。
「ちと変にござります」
「うむ」
と冬次郎は頷いた。
「変に苦しい。変に弛い。……骨や筋が融けそうな気がする」
「はてな」と熊太郎は耳を傾げていった。「隣室へ何者か参ったようでござる」
「まさかに。……しかし真実か?」
「真実のように存ぜられます」
「が、どうして解るのだ?」
「心眼心耳によりまして」
「そちは剣道では海内無双、そこまで行けばなるほどのう、それほどのこと解るであろう。……戸ヶ崎、襖をあけてみよ」
熊太郎は側の大刀を取り、左の手に持ち膝行し、襖際に寄るとソロリと開けた。
こちらの部屋の燭台の燈が、向こうの部屋へ流れ込み、その部屋を明るめた。
隣室には人はいなかった。
「戸ヶ崎誰もいないではないか」
「立ち去りましてござります。……廊下を奥の方へ歩みおります」
「わしには何にも聞こえぬが」
「佇みましてござります。……襖をあけましてござります。……奥へ奥へと進み行きます」
「行こう! 追おう! 戸ヶ崎参れ!」
「雪洞なりと持ちまして……」
元の座敷へ一旦帰り、地袋から朱塗りの雪洞取り出し、火を点じて廊下へ出た。
つづいて冬次郎も刀をひっさげ、廊下へ出て熊太郎と並び、広い廊下を奥の方へ進んだ。
と、行手から足音が聞こえ、こっちに向かって近寄って来た。
「殿」
「戸ヶ崎」
「こちらへこちらへ」
左側の部屋の襖をあけ、二人ながらはいって襖をとじた。
それとも知らぬ曲者であろう、襖の前を通り抜けようとした。
踴り出て熊太郎グッと一あて! 他愛なくぶっ倒れた。
「殿、燈火を! ……や、清三郎めか!」
燈火に浮き出して気絶しているのは、熊太郎の弟子の清三郎であった。
厠などへ行っての帰りらしい。
二人は苦笑し顔を見合わせた。
「熊太郎こやつが曲者か?」
「滅相もない、こいつは馬鹿で。……今も曲者は奥へ奥へと、進み行きおりますでござります」
「追おう。が、清三郎は?」
「うち捨て置きましても夜の冷気で、蘇生りますでござります」
二人は廊下を奥へ進んだ。
と、廊下の左側の部屋の襖が一枚開いていた。
「戸ヶ崎これは?」
「ともかくもはいって……」
はいった二人はギョッとして立った。
抜き身が畳に突きさしてあり、雪洞の光に刀身輝き、虹をさえ吹いているではないか。
「さすがは戸ヶ崎、心眼心耳、今に至って受け取れた! 曲者はいったに相違ない! ……この場の有様、曲者の所業じゃ!」
「それに致しても何と思って? ……おッ、殿々、お眼止めご覧ぜ! この脇差し! この脇差しは?」
「やア、郡兵衛の脇差しなるわ!」
「まさしく! 彼の仁出立の際差し代えました忍術衆特有の……」
「その脇差しじゃ、相違ない!」
「と致しますと曲者は?」
「うむ」
と熊太郎の顔を見た。
熊太郎は打ち案じたが、
「まさかに高阪郡兵衛殿が……ひそかに帰ってこのようなことを。……殿、どっちみちもう一追い!」
廊下が尽きると中庭であった。
松の幹に抜き身がまた刺してあった。
中庭の奥にも一構えあり、構えの奥に内土蔵があったが、その前の闇に佇んで、十二神貝十郎は静まっていた。
手は合掌、足踏みひらいた、例の十全の構えであったが、眼で睨んだは土蔵の一所!
呍の呼吸極まり、
「阿!」
と発した。
ビーン!
瞬間音あって、土蔵の錠前自ずと外れた。
「桐島氏!」
「十二神様!」
出て来た伴作の耳に口あて、
「委細は後! ……聞くも話すも! ……即座に逃げろ、この方角から! ……冬次郎様、戸ヶ崎氏、あなたより今にも迫って参る! ……二本の刀で牽制はしたが。……行け……少し待て! ……二刻経っても……二刻経っても我帰らずば……」
声を細くし囁いた。
「よいか」
「は。……しかしながら、あなた様にもご一緒に……」
「それが行かれぬ、危険じゃからよ! ……来たらしいぞ! ……伴作行け!」
伴作の姿消えたとたん、雪洞の光闇に浮かび、冬次郎と熊太郎とが現われた。
「やあ汝は貝十郎!」
「殿。……戸ヶ崎先生にも、また逢いましてござりまするな」
「汝が汝が大胆不敵! ……ううむ土蔵の扉ひらき、桐島伴作とり逃がしたか! ……よいわ、代わりに汝を捕った」
「なりますまい、私事も、お許し受けて立ち去る所存!」
「嘗めるな、いやさ、安く積もるな! 従来はこれまでの交誼思うて、私情はたらかせ見遁がしもしたが、重なる邪魔立て、積もる禍根! 今度は許さぬ、土蔵に閉じこめ!」
「二刻置かば勘助の命、殿、消ゆるでござりましょうぞ」
「ナニ勘助の? さては汝⁉」
「今朝方とらえましてござります」
「案じていたが、帰らぬはずじゃ」
「わたくし伴作逃がす際、二刻経ってわれ帰らずば、殿にお手討ちになったと思い、報復として勘助を刺せと……」
「いったというか!」
「いいましてござる」
「酷烈! おのれ、例によって!」
怒った冬次郎いつもの癇癖、足で床板踏み鳴らしたが、
「不愍ながらも勘助の命、そちの命と釣り代えよう! そちに代わった命と知ったら、あの世で成仏するであろうぞ! ……が、二刻にはまだ間がある。……二、三それ前に汝に訊く! ……高阪郡兵衛殺したか?」
「高阪郡兵衛? 郡兵衛とは?」
「畳の上に、松の幹に、汝突き刺した刀の主よ」
「殿よりつかわされたる忍術の刺客?」
「田沼刺そうと望んで行った彼じゃ!」
「高阪氏と申されまするか。……彼のものとわたくし途中にて出逢い……」
「殺しおったな! 汝が汝が!」
「技を比べて屈折いたし……」
「殺しおったな! 殺しおったな!」
「誠実の烈士と見受けましたれば恥じて腹など切られては……」
「…………」
「惜しくもあれば不愍と存じ、両刀あずかり雨中に残し、……されば現在も高阪氏、雨にうたれ、野の中に……、殿、貝十郎はあたら武士を、益なく手にかけ討ち果たすごとき、無慈悲の人間にはござりませぬぞ!」
ゴックリ冬次郎は唾を呑んだ。そうして思わず頭を下げた。
「貝十郎、礼いうぞ! さすがはその方、立派な振る舞い! ……それにいたしても二本の刀を、畳や木立に突き刺したは?」
「牽制いたして暇どらせ、その間に伴作を遁がしましたまで」
「児戯! とはいえ引っかかったぞ! ……三挺の駕籠の主は誰じゃ⁉」
冬次郎は彼らしく突発的に、話の方向を一変した。
「高島の城下本陣柊屋、そこから舁き出された二挺の駕籠と……」
「その一挺には貝十郎、乗りおりましてござります」
「もう一挺の駕籠には田沼めが? ……」
「かくなりましては万事あからさまに! ……御意、田沼様その駕籠に……」
「高島城より出でたる駕籠には?」
「狂女お浦が、ままごと狂女の……」
「さてこそ」
とはじめて熊太郎が横からこの時言葉を揷んだ。
「女の声して駕籠の中にて、独言申しておりましたが……」
「さるにてもお浦を高島城より……一人はなして舁き出だしたは?」
「何でもござらぬ狂女ゆえに、あの日城中を彷徨いたし、出立の間際に行方不明、それをようやくあの時とらえ、城の方々大事をとり、本陣までお送りくだされましたまで」
「さるにても貝十郎何んと思って、田沼を本陣柊屋から?」
「舁き出しましたは殿の御眼を、眩まそうためにござりました」
「城より本陣へ移したというか?」
「御意、お城より田沼様を本陣柊屋へ一旦移し、あらためて発足いたさせました」
「取り越し苦労! 換言すれば智恵負け! 貝十郎汝智恵負けしたぞ!」
「…………」
「高島にての汝の所業、万事智恵負け智恵負けであったぞ! ……脇本陣楢屋へ汝参って、あのような言説述べさえせねば、田沼彼の地におりしこと、この冬次郎知らなかったものを!」
「…………」
「ワッハッハッハッ、十二神貝十郎! そちほどの明察叡智の男を、智恵負けさせたかと冬次郎思えば、快いぞ快いぞ快いぞ! ワッハッハッハッ、快いぞ!」
「殿!」
と貝十郎は苦渋をもっていった。
「わたくし決して智恵あろうなどと、思いしことかつてござりませぬ。されば殿ほどのお方の口より、智恵負けいたしたといわれましたこと、かえって甚だ光栄の至り、名誉と存じますでござります。……が、今にしてはじめて知る、殿、高島お城下にては、たしかに貝十郎観察をあやまり、殿に乗ぜられましてござります。……とはいえ殿、冬次郎様、あの際におきましてはわたくしならずとも、誰であろうと田沼討とうと、冬次郎様事後追うて来たわと、観察いたすでござりましょう。いかんとなれば田沼主殿頭様、江戸より浅間へ参るというに、近道の木曽の街道を通らず、遠道かけて甲州街道より、甲府へ入り諏訪へ入りました。しかるに殿におかれましても、同じ道順をとられました。道中にて田沼様討たんの所存と、愚案いたしましたこの一条……次に……」
「待て待て、いうないうな、一条二条今は不要、過去のことじゃ、聞くにもおよばぬ。聞きたきことは他にある。田沼今回の信濃への旅の、真の目的真の陰謀! これ聞きたい、語れ貝十郎」
「存じませんでござります」
貝十郎は即座にいった。
「存じませんでござります!」
「黙れ、そちこそは田沼の懐刀、機微に参じているはずじゃ。その汝が田沼の旅の、真の目的知らぬなんどと! いわせぬぞいわせぬぞ決していわせぬ!」
「情なきは殿、意外も意外、この貝十郎、殿に対し、お敵対こそいたしましたれ、かつて不信は働かず、虚言申せしこととてござらぬ。しかるにお信じくだされぬとは! ……それに反して貝十郎、逃げ水屋敷の乱闘の際、殿のお手のもの、ただし無頼漢、外伝、新助、勘助なんど、勿体なくも将軍様を手籠めに、担って駈けて行きました際にも、殿のことゆえ彼らに命じ、将軍様を助け参らせて、柳営へお帰しいたすものと信じ、そのまま打ち捨て置きました。お信じしたればこそにござります。……田沼様はご老中、ことにはあれほどの大人物、風雅の友として貝十郎を、お目かけくだされはいたすものの、何んでご政事の枢機などを、お漏らしくださることありましょうや。……が、わたくし案じまするに、田沼様今回の信濃への旅、その目的といたすところは、あまりにも無理解の人々の、この頃加わった圧迫の手、非難排擠陥穽の手を、しばらく弛め避けんがためと。……とまれ田沼様の現状は、わたくし脇本陣楢屋において、殿に言上いたしましたごとく、窮鳥、窮鳥にござりまする!」
「いうな、いやいや、ナーンの彼奴、窮鳥ではない窮鼠じゃわえ! 猫を噛むという窮鼠じゃわえ! ……これ貝十郎よっく聞け! 今も汝がいったごとく、尋常に浅間へ参る彼なら木曽街道を通るがならい、しかるにわざわざ遠道かけて、甲州街道から入り込んだは、彼の腹心甲府御勤番支配や、諏訪因幡守や牧野遠江や、岩村田侯と密々に逢い、姦謀計らんためなのじゃ! ……その姦謀こそ旅の目的、いえ語れ貝十郎!」
「…………」
「いかにも汝申せしごとく、逃げ水屋敷の乱闘の際に、将軍家を担わせ参らせたは、お助けしよう以前よりの手筈、さればあの夜明けぬうちに、将軍家をひそかに帰館参らせた! その余の存念推察して邪魔立てせざりし汝の好意──その好意もて貝十郎、田沼の旅の目的語れ!」
「…………」
「窮鳥ならぬ窮鼠の彼、旅にて姦謀ことごとく整え、江戸へ帰らば電光石火、猫を噛まんの不軌断行! それを思えば是が非であろうと、道中にて田沼討たねばならぬ! かく決心した冬次郎じゃ! ……ヨーシ貝十郎田沼をかばい、あくまでわれに楯つく気な⁉ いわず語らぬ存念な⁉ ……今はこれまで是非におよばぬ、一人して十人百人にあたる、智謀の汝、田沼方にあっては、現在も将来も余にとって危険、惜しい人物器量ながら、従来の情誼断って討つぞーッ!」
抜き討ち!
紫電!
雪洞の燈を、瞬かせて袈裟掛け左の肩を!
が……
貝十郎の姿は消えた。
土蔵の奥より声があった。
「拙者を切らばままごと狂女、お浦殺すでござりましょう! ……二刻経ってわれ帰らずば、勘助ともどもお浦を殺せと、わたくし伴作に申しつけました。……かくなってはあからさまに、ことごとく申すそのお浦儀、将軍家後継者に関する件の、一大秘密持ちおりまするぞ!」
貝十郎の声であった。
「何を汝! 何を申す!」
刀真っ向に振り冠り、暗々たる土蔵内に踏み入りながら、冬次郎は叱咜した。
「お浦なんど今は不要、田沼の私生活荒暴乱倫、それ探って弾劾せんと、心掛けし頃には用もあったが、逃げ水屋敷の田沼の行跡、それをこの眼で見た以上、それ一つだけを取り上げて、弾劾いたしてもいたすこと出来る。いやいやそれとても今は不要か、弾劾なんど手ぬるくて、討って取ろうとしている今じゃ! ままごと狂女お浦なんどいらぬわ! ……何を卑怯者命惜しさに、将軍家後継者に関する件の、一大秘密をお浦ごときが、持ちおるなんどと今に到って、出放題申す未練未練!」
「未練ではござらぬ。まことお浦、将軍家より後継者に関する件の、一大秘密のお書き附けを、お預かり致したに相違ござりませぬ」
「証拠あるか⁉ あらば申せ!」
「お浦さながら口癖のごとく『これをお前から越中へ──定信の手へ渡してくれ。……妾から渡すのでござりますのね』と、このように申しておりまする」
「殿、その言葉でござりましたら……」と、この時まで雪洞高くかかげ、土蔵の入口に突っ立って、内の様子をうかがっていた、戸ヶ崎熊太郎が声をかけた。
「その言葉なれば私めも、たしかに聞きましてござります。殿へも言上いたしましたはず。……高島お城下にて高島お城より、舁ぎ出だされた女乗り物より……」
「思い出したぞ。そうであったな」
冬次郎は頷いた。
「が、貝十郎その言葉の意味は?」
「将軍家後継者に関しまする、重大のお書き附けをお浦より、越中守様へ差し上げよ。──そういう意味にござりまする。……逃げ水屋敷の乱闘の夜、わたくしお浦を将軍様お部屋へ、差し出しましてござりまする。その時おそらく将軍家より、お浦儀お書き附けをお預かりいたし……さらにお浦に糺しましたところ、将軍家その時後継者に関し、涙催され何事やら、申されましたと申すこと……」
「真実なれば一大事! ……それにいたしてもそのお書き附け、お浦今日も所持しおるか?」
「狂女の一念隠しに隠し、この私にも手渡さず、今にたしかに所持いたしおります」
「とあればお浦は大事な人間!」
「拙者を討たばそのお浦、同じく討たれて死にましょうぞ!」
冬次郎は切歯して考えたが、猛然として絶叫した。
「いや許さぬ、汝は許さぬ! 二刻経つにはまだまだ間がある。汝をここで討って取り、汝の附き添わぬ田沼なんど、それこそ窮鳥殺すに易い、直ちに主計方へ取り詰めて、田沼を討ち取りお浦を捕える! ……観念!」
と疾風! 斬りつけた。
瞬間ヒューッと投げられた器物!
雪洞にあたって消えた燈の後、土蔵内倍する闇となった。
と、不思議や土蔵の扉、自ずと閉ざされビーンと錠!
朗らかに笑う貝十郎の声が、すぐに土蔵の外から来た。
「堤宝山流『逆の火遁』……これで遁がれましてござりますよ。あぶないところでござりました。が、結局土蔵の内に、とじこめられましたは拙者ではござなく、冬次郎様と戸ヶ崎先生! アッハハハ、妙な恰好で! 気候は三月、しかしながら、高原の地ゆえずいぶん寒い、寒い土蔵内の夜気にあたり、一本気に燃えるお胸お頭を、しばらくお冷やしなさりませ。……英俊には相違ござりませぬが、所詮は冬次郎様まだ『お坊ちゃん』! 思慮不熟と存ぜられまする! 熟考こそご肝要! ご免!」
行った。
後は寂寥。
甲州信州の武士たちが、戦国時代に鎬を削った、桔梗ヶ原は古戦場であった。
雨降るごとに鬼火が燃え立つ──これがこの野の名物であり、この夜も春の雨にうたれ、鬼火が四方に燃えていた。
蒼々とした幽霊火! その火に四方を囲まれながら、雨にしとどにぬれながら、高阪郡兵衛は草の上に、依然として坐っていた。
と、二人らしい人間の、近寄る足音が聞こえて来た。
「率爾ながらそこへ参られたは、お武家かそれとも土地のお方か?」
こう郡兵衛は声をかけた。
すると足音は止まったが、
「女を連れた浪人でござるよ」
そう足音の主はいった。
「お腰の物拝借出来ますまいか。……脇差しにて結構にござります」
「脇差しを貸せ? 何んになされるな?」
「腹切る所存にござります」
「…………」
「とてものことにお情けをもって、介錯くださらば何より幸甚。……」
「…………」
「拙者も浪人にござりまする。……人を率いた経験もあるもの。……が、今は自信を失い、生きる気消耗いたしました。生存らえて恥をかかんより、いっそ死してと存じまして。……」
「それにいたしてもご浪人の御身で、腰の物ご所持なされぬとは?」
「取り上げられましてござります。……武士としてこれほどの恥辱ござなく、腹切る気持ちにもなりましてござる」
「何事の事件ござりましたのじゃ?」
「技比べいたしましてござります。……その結果拙者屈折され……その者やがて帰り参れば、臣事いたさねばなりませぬ。……帰り来ぬ間に腹切りたく……脇差しお貸しくださりませ」
「生きて甲斐なき浮世でござるよ」
足音の主もしみじみといった。
「浪人となり世をせばめ、向こうで追われこっちで嫌われ、仕官は出来ず食うにこと欠き、楽しみとてはほとんどなく……拙者も生きて甲斐なきもの。で、ご境遇にはご同情いたす。……さりとて拙者は死ぬ気にもならぬ。……雨露をしのいで生きてさえおれば、やがては麗かな日も見ようかと、頼みにならぬ未来を楽しみ、やはり拙者は生きております。……貴殿にも拙者と同じ気持ちに、おなりなされてはいかがかのう」
「昨日までは生きる気ござりました。のみならず自分と同等に、食うにこと欠く人々を鼓舞して、食わせようそうして自分も食おうと、百姓一揆の指揮などいたし……」
「百姓一揆の? 一揆の指揮を? ……佐久一円に百姓一揆、勃発いたしたと聞きましたが、さては貴殿がその一揆の指揮を?」
「昨日まではいたしました。……何やら熱を持ちまして、何やら希望を持ちまして。……技量に自信がありましたからで。業に誇りがありましたからで。……屈折されて自信を失い、誇りを奪われた只今では、熱も希望も消えました。……残ったは生ける死骸だけでござる。生ける死骸に人を率いる、何んの力などござりましょう」
「それで死ぬ⁉ それで腹切る⁉ 清々しいのう、うらやましいくらいじゃ」
足音の主はそういったが、その声には憐愍と嘲けりとが、むしろ多分に含まれていた。
「拙者などついに自信だの誇りだの、熱だの希望だのと申すもの、うちすてましてござりますよ。食えたらいい? そう思うているだけで」
「腰の物をお貸しくださりませ」
「その一本気、そのご気象では、おとどめいたしても所詮は駄目、お望みに従うでござりましょう。よろしくば介錯もいたすでござろう」
「忝けのうござる、それでこそ本望……つきましてはもう一つ、お願いいたしたきは拙者に代わり、不運の百姓の一揆の指揮を……」
「食えますかな、指揮いたしたら?」
「…………」
「食えるようなら何んでもやる!」
「…………」
「食えるところならどこへでも行く!」
「…………」
「食うことだけで一杯じゃ? アッハハハ、一杯じゃ」
「食うことだけなら、生きて行くだけなら、何をやろうと、どこへ行こうと、この日本、出来ましょうよ」
「それが出来ぬ! なかなか出来ぬ!」
「希望を持たず、生きるだけなら!」
「希望? アッハハ、夢の別名!」
足音の主は嘲笑った。
「が、夢を持っていた人は、その夢さめたら寂しくて、なるほど生きては行けますまいのう。……とうの昔に夢をさました拙者、だから生きては行かれますて。……待てよ!」
とその武士は気付いたようにいった。
「夢⁉ 希望⁉ 希望なら、これから持つことが出来るかもしれぬぞ!」
「希望お持ちくだされい!」
「ただし拙者の希望というのは、女の愛を得ることじゃ!」
「…………」
「拙者ここに連れたる女、拙者を親の敵として、つけ狙うものにござりますよ」
「親の敵と狙う女を……」
「しかし想いを懸けた女!」
「悪因縁! ……」
「しかもむごーい!」
「さまざまの世の中……」
「夢! 希望! ……希望が出来たぞ! 希望が出来たぞ!」
「時刻移って不覚をとらば、死んでも死にきれぬ、いざご介錯!」
「心得申した。……ご姓名は?」
「時々思い出しくだされい、甲州浪人高阪郡兵衛! ……ご介錯くださるそこもとの名は?」
「九州浪人臼杵九十郎」
「む」
と腹へ突っ込んだらしい。
「いざ!」
「南無!」
重い鈍い地へ落ちた首の音がした。
枯れた芒を焼くかとばかり、鬼火が地上二、三尺の、雨降る空に延びつ縮みつ、無数に踊り乱れている。
「織江殿、いざ参ろう」
九十郎は歩き出した。
返辞はせずに後に従い、しょんぼりと歩く織江の姿が、その裾の辺に帯の辺に、縺れて燃えている鬼火に幽かに──幽霊かのように幽かに見えた。
「食えるなら行こう! 佐久へ行こう!」
九十郎は呟いた。
「一揆の指揮! 何んでもやる!」
街道の家々の途切れ途切れを、二張の古びた小田原提灯の、黄味を帯びた燈に点綴させて、油単をかけた旅駕籠が二挺、通って行くのが野を越えて見えた。
燈火をなつかしむ人情からであろう、九十郎と織江とはその後に従いた。
それとも知らず駕籠の中には、範之丞とお吉とが乗っていた。
諏訪湖で溺れて死ぬるところを、お吉によって助けられた、その縁に引かされ駕籠に乗って、お吉の行く方へ従いて行く、これが範之丞の現在であった。
司馬又助というああいう男へ、うかうか身の上を話したばかりに、ああいう憂き目を見たのである。お吉に身の上を訊かれても、彼は本当を語らなかった。浪人桑名伊織と宣った。怨みを受けて闇討ちされ、湖水に落ちましてござります。──偽わって事情をそう話した。
お吉も自分が私娼であり、悪侍臼杵九十郎の、妾であったということなど、明かす苦痛に堪えられなかった。で、旅稼ぎの女芸人、一座に不平のことがあって、一人脱け出して湖水を船で、対岸へ渡ろうとした際に、あなた様のご難儀を見、お助けしたのでございます。名はお玉とこういうようにいった。
お玉のお吉と伊織の範之丞とは、その夜平野村の百姓家を起こし、頼んでそこへ泊まり込み、まず何より伊織の範之丞の、介抱にあらゆる手をつくした。
その家に二人は数日泊まった。
その間に二人は各〻別に、人を使って高島城下の、九十郎や織江の様子を探った。
司馬又助が殺されたこと、九十郎や織江がいなくなったこと──そういうことが解って来た。
(妹織江どうなったことか?)
伊織の範之丞にはこのことが、何よりも一番心にかかった。
又助一味の悪侍どもに、担がれて行ったことは確からしい。が、それからどうなったか? 殺されたかそれともみじめな身の上で、今もなおこの世に生きているか?
(生きていてくれ! 生きていてくれ!)
このことばかりが願われるのであった。
(九十郎は逐電したのだろう)
これは知れたことであった。
(いよいよ重なる怨みの九十郎! おのれヤレ討たいで置こうか!)
とはいえどこへ逐電したか?
それは全く不明であった。
どこから探してよかろうか? それとて見当はつかなかった。
お玉のお吉の心持ちは、今はひとむきに範之丞にあった。
溺死に近い若侍の、美貌に心を引かされて、女だてらに団八を殺し、この若侍を助けたのであったが、介抱しいしい日を過ごすうち、この若侍の生一本な、そしてどこか女性的な、それで純情で清々しい気質に、ほとんど狂気じみた恋慕の情を、寄せざるを得なくなってしまった。
(どうあろうとこのお方の心も体も、妾のものにしなけりゃア!)
女郎から妾、それから私娼、心も体も廃頽しきった女。──そういう女の一念は、処女などの思いとは違いあくどくて凄まじい。
そういう一念の凝った介抱に、伊織の範之丞は回復した。
「田舎を巡っておりましても、芽の出ることではござりませぬ。江戸へ参ろうではござりませぬか」
こうお玉のお吉はいった。
「江戸へ参るでござりましょう」
そう伊織の範之丞は応じた。
旅用の金は湖水へ落としてしまった。一応江戸の自宅へ帰り、それを調える必要があり、かつはもしも妹織江が、なおこの世に生きているなら、兄と別れた一人旅──それも敵討ちの一人旅など、女の身として続けはしまい。自宅へ帰るに相違ない。そういう妹の消息も知りたい。
こう思って江戸入りを諾ったのであった。
二人を乗せた二挺の駕籠が、こうして今や鬼火燃える、古戦場に沿った街道を、塩尻の宿から小諸の方へ、雨に打たれて行くのであった。
その後から九十郎と織江が、黙々として従いて行く。
悲しく恐ろしいは織江であった。
司馬又助に女の命、貞操をあやうく奪われようとした。それを九十郎に助けられた。その九十郎は親の敵、兄の敵でもあるらしく、自分を苦しめた敵でもある。
にも関わらず助けられた。
そうしてそれ以来起居を共にし、こうして旅をさえ一緒にしている。
悲しく恐ろしい悪因縁!
もちろんかの女は隙を窺い、九十郎を討って取ろうとした。が、いかんせん武術にかけては、断然段違いの九十郎であった。討ち取る隙など見出せなかった。もちろんかの女は隙を狙って、九十郎の手から逃がれようとした。が、その隙さえ得られなかった。
織江に対する九十郎の態度、これはまた変ったものであった。
暴力などに訴えて、想いを晴らそうなどとはしなかった。
親の敵として自分を狙う、恐ろしい女であるがゆえに、いっそ後腹病めぬよう、討って取るのが至当だのに討ち取ろうともしなかった。
ただ一緒にいるのであった。
九十郎に助けられ、全く正気に返った時、織江の発した第一の言葉は、
「兄上はいかがなされましたか?」
この悲痛の問いであった。
と、九十郎は言葉少なに答えた。
「拙者この刀で斬りはしませぬ」
と。
(殺しはしないということだろうか?)
織江には疑問であった。
よしんば刀で斬らずとも、殺す方法はいくらでもある。
(殺したのか、殺さなかったのか? 生きているのか、死んでしまったのか?)
これについて織江は幾度も訊いた。
九十郎の答えは同じであった。
「拙者この刀で斬りはしませぬ」
漠然としてい、曖昧としていた。
二人の生活そのものが、漠然としてい、曖昧としてい、捕捉しがたいものなのであった。
あの夜二人は下諏訪宿まで走り、そこの旅籠へ宿をとり、九十郎は織江の介抱をし、高島城下の様子を探った。
司馬又助は無頼の浪人、殺されたのは諸人の幸せ、そんな塩梅に取り扱われて、高島藩でも下手人について、たいして詮索もしていないらしい。ということが解って来た。
お吉と団八とは行方不明、そういうことも解って来た。
どうやら範之丞の死骸らしいものが、湖水から上がったということも聞いた。
ただし脇腹に突き傷がある。──これが九十郎には怪訝であったが、湖へ落ちた時杭などの先で、脇腹を突いたに相違ないと、そんなように解釈した。
数日をそこの旅籠で送った。
こうして現在になったのである。
先に行く二挺の旅駕籠の、提灯の灯に従いて歩いて行く。
塩尻の宿から西へ行けば、木曽を通って名古屋へ行け、東北の方へ辿って行けば、木曽街道を逆行し小諸の方へ行くことが出来る。
二挺の駕籠と九十郎達は、東北の方へ向かって行った。
夜が次第に明けて来た。
が、じめじめと降る雨は、容易のことでは止みそうになく、高原の細路は歩きにくかった。
とうに宿は出はずれてしまい、どっちを見ても曠野と山脈、森と林との世界となった。
やがて十四、五軒の小屋のような人家が、寒そうに塊まっている郷へ出た。
と、行手から人声がし、十数人の人々が、抜き身の槍や、竹槍を持ち、高張り提灯を立てながら、こっちへ歩いて来る姿が見えた。
浪人と百姓の一団らしい。
「駕籠待て!」
と一人の浪人が叫んだ。
バラバラと駕籠を取り捲いた。
「佐久に起こった百姓一揆、窮民の惨状見るに堪えず、天下無禄の浪人ながら、一臂の力添えようと、同志とともに蹶起したもの、この地は他領とはいいながら、地続きのこと援助願おうと、こうして参ったわれわれでござる。家持つ方々よりはいうまでもなく、道中往来の諸人よりも、応分の援助たまわりたいもので。……失礼ながらお顔拝見」
いって浪人は油単をかかげた。
「一人はお武家、一人は婦人。……ご夫婦かな? そうとは見えぬ」
するともう一人の浪人が、
「ちと変じゃ、駈け落ち者らしいぞ」
するともう一人の浪人が、
「食うや食わずの百姓があるに、色の恋の駈け落ちのと、幸福すぎて面憎い。こういう輩からはずんと金をな!」
「それよろしい」ともう一人がいった。
「それにわれわれが挨拶をするに、駕籠に乗ったまま応対するとは、作法さえ心得ぬ無礼者!」
「駕籠から出せ!」
「ひきずり出せ!」
範之丞とお吉とは引き出された。
「いい女だ! これは凄い!」
「男も美男だ! 河原者かな」
「旅用の金子いただこうではないか」
「応分の寄附お願い申す」
「金はない!」
と範之丞は怒鳴った。
怒りと屈辱とで範之丞は、身を顫わせ歯を噛んだ。
「誰何するさえ無礼であるに、駕籠から引き出すとは何事か! 応分の寄附といいながら、寄附せねば腕ずくで取ろうとする、理不尽狼藉の所業は何か! ……金はない、寄附はいたさぬ!」
「黙れ!」と一人の浪人が喚いた。
「金なくて駈け落ち道中が出来るか! 主人の金を拐帯し、遁がれて来おった汝らであろう、吐き出せ金を! みんな吐き出せ!」
「黙れ! 無礼者! 不届き千万! 駈け落ちなんぞと穢らわしい! ……拙者は桑名侯松平の……」
といって来て範之丞は、いってはいけないと気がついた。お玉に話してなかったからで。それに無頼の浪人や百姓に、素姓を語ったら災いが──また災いが起こるかもしれぬと、そう思ったからであった。
「金はない、寄附はいたさぬ!」
「斬れ!」
一人の浪人が叫んだ。
「農民の窮状に同情せず、寄附せぬなどとほざく奴、武士たるものの風上にも置けぬ! 一揆の血祭り、斬ってしまえ!」
二、三人がギラギラと引っこ抜いた。
「まあまあお待ちくださりませ!」
驚いて叫んで抜き身を恐れず、浪人の群を分けるようにして、飛び込んだのはお吉であった。
「まこと旅用の貯えなど、多分に所持はいたしませぬが、せっかくのご所望わずかなりと、妾がご用立ていたしますゆえ……」
いいいいそこは色情を資本に、世を過ごして来た彼女であった。眼を細め唇をすぼませ、次々に浪人どもへ秋波を送った。
浪人どもは顔を見合わせた。
と、めいめいの表情へ、卑しい好色の慾望が浮かんだ。
「金もいいが……それよりもな……」
「何しろ我ら饑えているて」
「そこで一つ……かけ合ってみろ!」
「ご婦人!」と一人の浪人が、ニヤニヤ笑いを笑いながら──でも急いで引っ込ませ、わざと厳しい顔をつくり、
「用がある、こっちへ参れ」
「ならぬ!」と叫んで伊織の範之丞は、刀の柄へ手をかけた。
「何を!」
「こやつ!」
「ジタバタ騒ぐな!」
「騒がば膾じゃ!」
「賽の目に斬るぞ!」
一斉に刀を振り上げて、範之丞を取り囲んだ。
「伊織様、いえいえあなたは! ……」
じっとしておいでなさりませ。こいつらは浪人無頼漢、ほんとうに斬るでござりましょう。一人に多勢敵いはしませぬ。あなたのお体は妾には大切、ナーニ妾の体など、百千人に嬲られた滓。こいつらに嬲られようとどうされようと、いってみれば施こしくらいのもの、悲しくも恐ろしくもありゃアしません。委かせてじっとしておいで遊ばせ。──そういう思いを眼にこめて、範之丞を見詰めて抑え、その眼を返すと浪人どもへ、とろけるように笑いかけた。
「はいはいご用でございましたら、何なと承るでございましょうよ」
「解りがいいの、そうなくてはならぬ。……こっちへ来いこっちへ来い」
いって二、三人がお吉を囲み、人家の裏の方へ廻って行った。
範之丞は身を顫わせ、歯を噛みながら立っていた。
(敵討つ身でなかったなら、何のみすみす命の恩人の、お玉殿をそんな目に! ……無残! …… 地獄! ……畜生道! ……俺は何だ! ……俺は何だ! ……腑甲斐なさ! ……意気地なし!)
が、抜き身がドキドキと、提灯の灯に輝いていた。
この頃九十郎と織江とは、街道を反れた曠野の径の、二町ほどの先を歩いていた。
浪人どもと百姓との群が、二挺の駕籠を取り捲いたのを認め、道中に慣れ、悪事に慣れ、そういうことには精通している、彼九十郎は危険だと感じ、素早く人家の蔭へ隠れ、反れてこの径へ踏み入ったのであった。
(可哀そうに駕籠の乗り主、無残な憂き目を見ることであろう)
チラリとそんなことを思ったが、他人の不幸などにかかずらうような、善根の持ち主ではなかったので、もう忘れて歩いていた。
と、不意に行手の林から、提灯の灯が二点ほど現われ、人声とともに近寄って来た。
同じく浪人と百姓どもとの、武器をたずさえての一団で、先刻の一団の別働隊らしく、無頼の態度を見せていた。
「待たれい!」
「どこからどこへ行かれる?」
「ふふん、女を連れているの」
「我らは佐久より参ったもの、百姓一揆指揮するものじゃ」
「応分のご寄附願いたいな」
「お顔拝見」
「まず女から」
一人の浪人が近寄って、織江の菅笠を取ろうとした。
「待て! ……さわるな! ……その婦人へさわるな! ……さわらばそこから切れて飛ぶぞ!」
抑えた、陰々とした、含み声で──十分の自信と相手を侮蔑し、無視した覇気とをこめた声で、そう九十郎は無造作にいった。
が、いいながら九十郎は、その仲間から数間離れ、それらを尾行けて来たかのように、忍び足して歩いて来、その時側の木立の蔭へ、身を隠して腕組みをし、こっちを見ている大髻の武士へチラリと視線を投げやった。
(あの武士だけが武士らしい。他の輩は、他の輩は!)
そう思ったからであった。
「さわらばそこから切れて飛ぶと! 何をほざく! ご大相もない! さあどうだ、足が切れて飛ぶか!」
そういうと無礼にも一人の浪人、織江の腰の辺をドッと蹴った。
「む!」
瞬間、九十郎の右肘、胸の上まで上がったと見るや、
「ヒェーッ!」
悲鳴!
キリキリと独楽!
一本足でブン廻り、二、三間反れて飛んだかと見えたが、ダーッと草の中へぶっ倒れ、浪人はそこでノタうった。
腰のつがいからぶっ放された、表皮を剥かれた丸太のような脚が──一本の脚が、逆の方向の、これも草の中に投げ出され、足首が剽軽に動いていた。
魅入られたんだ!
引っ込まれたんだ!
不愍の馬鹿者、二人の浪人──
「おのれーッ」
と左右から切り込んで来た。
「…………」
中間を突き抜けた九十郎、
「うふ!」
薙いだ!
はいった刀身! ──一人の浪人の股の付け根へ、たっぷりとはいった刀身が、背後の方へ提灯の灯に、ギラつきながら抜けて見え、それを基点に飴のように、浪人の体が曲がって見えた。
それも一瞬、九十郎の片膝、地へ折り敷いたと思ったが、地面と水平に水のように、刀身、電光! 素走った。
悲鳴! それから叫喚混乱! それが明け近い曠野の上に、森や林を背景にし、ひとしきり展開ったがやがて止み、雨にぬれ足に踏まれしどろに乱れた、芒や萱や藺草の中に、三本の脚がころがってい、三人の負傷者が半分死んで、それが捨てられて燃えている、提灯の灯影に蠢いてい、その傍らに血刀をさげた、九十郎が立っていた。
そうして二町のあなたにある、十四、五軒の人家の方へ、いまだに喚き怒号しいしい、逃げて行く浪人と百姓との群が、暗きが中に幽かに見えた。
と、この時まで木立の蔭で、様子をうかがっていた大髻の武士が、ソロッと進み出で九十郎に近より、懐中から手拭いを取り出したが、慇懃に前へ差し出した。
「お見事。……まず……これで血を……」
「…………」
九十郎は一揖した。
「甲州浪人山県大蔵、佐久に起こりました百姓一揆に、微力ながらも加担しおるもの、義兄弟の高阪郡兵衛というもの……」
「ナニ高阪? ……郡兵衛殿? ……」九十郎は眼を見張った。
「もしやご存知? ……その郡兵衛、あるお方を総帥にあおぐと申し、塩尻の宿へ参りましたが……」
「…………」
「心もとなく拙者存じ、安否きづかい尋ね参りし途次……」
「…………」
「一揆の宗徒と称する贋物……」
「贋物? なるほど、さようでござろう。……今の奴ばら、贋物でござろう」
「あのような贋物横行いたしますゆえ、誠心誠意もて働くわれわれ、疑惑の眼もて見られまする」
「…………」
「討ち果たそうと尾行けて参りましたところ、貴殿のお手にて切り散らされ……」
「…………」
「痛快至極に存じ申した。……お見受けいたせばご浪人、我らの意志に賛せられ、一揆にご加担くだされたく、差し出でました次第にござります」
九十郎は刀の血を、大蔵の差し出した手拭いでぬぐい、鞘に納めて黙然としていたが、
「加担いたすでござりましょうよ」
やがてポッツリとそういった。
「おおご加担くださるか。……聞かば義兄の郡兵衛も……」
「いや」と九十郎は声で抑えた。
「その郡兵衛殿、この世にいませぬ」
「…………」
無言で、驚き、胸を反らせ、いわれた意味が解らぬかのように、大蔵はむしろ茫然とした。
「この世にいぬ? この世にいぬ?」
が、ややあって、審しそうにいった。
「この世にいぬと仰せられるは?」
「割腹して果てましたよ」
「ナニ割腹? そりゃいったい? ……」
「介錯いたしたはこの拙者」
「貴殿が介錯? が、どこで?」
「古戦場の桔梗ヶ原、雨降り鬼火燃ゆる中で……」
「それにいたしても何んのために? ……割腹なんど? あの郡兵衛が?」
「何者かと技比べいたせし結果、屈折されたを恥辱とし……」
「なるほどのう」
と憮然とし、山県大蔵は首を垂れた。
「あの一本気、あの情熱では、さようなこともあったでござろう」
「その死の直前に郡兵衛殿より、拙者一揆の指揮たのまれ……食えると聞いて、フ、フ、フ、食えると聞いて引き受け申した。……フ、フ、フ、食えさえすればのう」
「夜が明けた」とその時まで、無言で立っていた織江が叫んだ。「夜が明けた! やっと夜が!」
降っていた雨もこの時あがり、東の空の山脈の上へ、暁が水色を産み出した。
「織江殿、いざ参ろう」
九十郎は歩き出した。
織江は後に従いて歩いたが、
(これで妾はこの男に──お父様の敵お兄イ様の敵に、二度危難を助けられた)
辛く悲しくそう思った。
半月の日が過ぎていった。
小諸城下から二里ほど離れた、車塚の郷の一軒の家の、薄暗い部屋に伊織の範之丞と、お玉のお吉とが坐っていた。
この車塚の郷民は、農を一方に女は巫女、男は狩猟や川漁をし、別世界をなして住んでいた。
一方は嶮しい岩山であり、三方は低い丘をもって巡らし、千曲川へ流れ込む鳳来川を、その丘の彼方に持った、この車塚には三年前までは、十七、八軒の家があったが、例の浅間山の爆発によって、三軒を残してことごとく倒れ、それを機会に住民散じ、今は一人の住人もなく、立ち腐れのように立っている家──三軒の家がいろいろの怪談や、さまざまの恐ろしい噂を持って、今に残っているばかりであった。
その一軒の廃屋の、簀子が形ばかりに敷いてある部屋に、範之丞とお吉とは坐っていた。
「お玉殿今日はお止めなされ。……私、心配でなりませぬ。……もしものことがありましたら……」
そう伊織の範之丞はいって、蒼ざめ痩せた頬のあたりへ、髷の乱れを幾筋かかけ、力のない眼に不安と哀憐と、恐怖との色を漂わせ、お玉のお吉を見詰めながらいった。
破三味線を膝の横へ置いて、所在なげに絃を指で撫すり、幽かな音色をたてながら、お吉はじっと俯向いていたが、
「参って門に立ちませねば……明日の糧さえ、いいえ今日の……今日の糧さえござりませぬ。……あなた様を一人留守にして、物騒な小諸の城下などへ、参りたくはないのでござりますが……背に腹はかえられず……」
そういってチラリと範之丞を見、その眼を反らすと戸外を見た。
破れ雨戸でビッシリ鎧われ、屋内は黄昏のように暗かったが、一枚だけが開いていて、明るい春の正午の陽があふれるようにみなぎっている、庭の景色が眺められた。
枯れ草が人の身長よりも高く、自然に生えて延びている。その向こうの小丘の脈が、土坡のように巡っている。それを越えた遙かのあなたの、うらうらと晴れた空を染めて、砂塵が高くあがっているのは、東長沢村、西長沢村、小沼村などを荒らし廻り、小諸城下へ押し寄せて行く、一揆の百姓や浪人などが、蹴上げて立てた土煙りらしい。
「何んと申してよろしいやら……」
口籠りながら範之丞はいった。
「あなた様にそのような憂き目を見せ……命助けられたそればかりか……そのような憂き目をあなた様に見せ……食って行かねばならぬとは……いえいえいっそ食わずにいましょう! ……餓えていっそ死にましょう」
ふと二本の指の先で、範之丞は眼頭を抑えた。涙を見せまいとしたのである。
とみに気が弱くなった彼であった。
無理もない理由があった。
お吉は命の恩人であった。そのお吉があの山の郷で、一揆衆と偽称した浪人どもに、残酷なはずかしめを受けたばかりか、有金をさえ奪われた。そればかりでなくここへ来る間に、幾度となく幾人にとなく、同じ目に逢わされた。一揆とそうして浅間山が、またもや爆発するらしく、灰を降らしたり鳴動するので、佐久一円の人心が、戦々とし兢々とし、他面兇暴となり自暴自棄となり、社会の秩序も失われたため、良民さえも暴徒化した。そこを狙って悪浪人や、無頼の遊び人や博徒などが、正義顔をして一揆衆などと称し、往来の諸人を迫害した。で、そういう悪辣の徒に、二人は随所で苦しめられたのである。若くて血の気多い範之丞は、そのつど怒りを心頭に発し、刀の鯉口くつろげたが、いつもお吉に遮られた。遮られて見れば自分は一人、相手は多勢でしかも無頼、切り合えばおよそ斃されるであろう。──ということが感ぜられ、それにどうあろうと親の敵を、討たねばならぬ身の上であった。で、歯を噛んで手を控えた。
それが昂じて病む身となった。
そうして二人ながら一文なしとなった。
でも小諸の城下まで来た。
と、一揆いよいよ猖獗、往来全く閉ざされて、行くことも危険帰ることも危険と、取り沙汰される有様となった。
それでも二人は街道を避けて、山越しに先へ進もうとした。とまた無頼の徒に襲われた。
それを辛うじて避けて逃げ、駆け込んだところがここであった。
この車塚の廃屋であった。
ここでとうとう範之丞は、山を越えての長旅など、どう努めても出来ないまでに、病める心身を疲労させてしまった。
(いっそここを仮りの住居にして)
こう二人は決心した。
これ以前から髪飾りと代えて、お玉のお吉は三味線を手に入れ、それを弾いて門に立ち、一文二文と貰う鳥目で、二人は今日までくらして来た。
で、この廃屋を住居にしてからも、お吉は小諸の城下へ出て、三味線を弾いて人の門へ立った。
こうして幾日か過ごすうちに、範之丞の体は回復し、多少の元気も出て来たが、重なる艱難に心がとみに弱まったのは争われなかった。
(敵討ちに出た昔の人が、乞食にまで零落し、蒲鉾小屋に雨露をしのぐ、そういう芝居を見たこともあるが、それが自分の身になろうとは)
そう思っては暗然とし、茫然となるようなことさえあった。
お吉に対する感謝の情は、今は恋にまで成長していた。門づけなどさせたくない! この感情は申し訳ない、済まないという義理心以上、いとしく、いじらしくて見ていられない! という感情にまで達していた。
(今日はわけてもやりたくない)
こう彼が思ったのは、一揆がますます猖獗となり、諸方から小諸の城下へ迫る。領主牧野遠江守様も、宥めて治める法を失い、兵を出して鎮撫するらしいと、そんなような噂があるからであり、そういう物騒の城下へやったら、命のほどもあぶないと、それが案じられるからであった。
「何をあなた様饑えて死のうなどと……」
お吉は自分では元気よくいい、笑い声さえ立てていった。
「お侍様のくせにお気の弱い、饑えて死ぬほどでござりましたら、これまでの艱難いたしませぬ。あなた様はお若くご身分のあるお方、運さえ向いて参りましたら、どのようにもご出世なされます。……それに反して妾など、これまでに身を持ち崩し、それに素姓も氏もないもの、門づけになろうと乞食になろうと、悔いもなければ未練もなく、先に出世がある身でなければ、恥ずかしいこととてござりませぬ。妾に稼がせてあなた様には、のんびりとしておいでなさりませ。……ご様子によればあなた様には、江戸に立派なお親戚もあり、お屋敷もおありなさるそうな。……私は犠牲、あなた様を介抱、無事に江戸までお送りすれば、それで本望でござります。……添うの何んのとこんな体で、ホ、ホ、思いはいたしませぬ。……でも寂しゅうございますわ。……」
この頃のお吉の本心なのであった。
はじめは彼女は伊織の範之丞の、心も体も自分のものにしよう! 是が非であろうと自分のものにすると、そう決心していたのであったが、一緒に旅してくらしているうちに、普通の零落した浪人などとは、全然違って気品があり、高雅でさえある相手の態度に、邪まの恋は浄化され、処女のような純な恋に、今は帰っているのであった。
「どれそれでは今日の商い、小諸お城下をひとながし……」
いってお吉は立ち上がろうとした。
と、その時ここら辺に住む、親子狐であるのであろう、三匹の狐が縁の上へ、ノッソリと姿を現わして、開けられてある雨戸の隙から、屋内を覗き窺った。
「あれ」
とさすがに気丈でも女、お吉は思わず声をあげ、範之丞の腕へ縋りついた。
とたんに狐の背景かのように、生い茂っている雑草が、枯れて茫々と乱れている庭を、パーッと赤い眼覚めるような色が──派手な衣裳を着た女の姿が稲妻のように駈け抜けた。
白昼とはいえ場所が場所──それも空井戸から燐火が燃えるの、屋根棟に女の姿が立つの、草原の中に白骨が、累々として積まれているのと、噂されているこの境地へ、野狐が現われたのさえ不気味だのに、若い女が派手な姿で、追われたかのように突然現われた。それも百姓一揆の群が、街道を城下へ寄せて行くというので、若い女の一人歩きなど、絶対に出来ないという恐怖の日に!
で、お吉も範之丞も、ハッとして顔を見合わせた。
やがてお吉はソロリと立ち、開けられた雨戸の際に立ち、戸外の様子をうかがった。
この家と並んで同じような、二軒の廃屋が立っていて、これも雨戸がたててあり、縁など腐ちてその縁の上まで、雑草が延びてかぶさっていた。
女の姿は見えなかった。
(ではわたしたちの眼違いだったかしら?)
なおあちこち見廻している時、盆地を巡っている丘の脈の、彼方にあたって喊声が起こり、すぐに数百人の人の群が、丘の頂きへ現われて、盆地へ向かってなだれ下りて来た。
槍、竹槍、長脇差、大鎌、鋤の類を、日光にギラギラ光らせた、浪人と百姓との群であり、高手小手に縛めた三人の男を、中に囲んで走って来た。
顫えながら雨戸を閉じ、お吉は範之丞の側へ走り帰ったが、
「伊織様大変一揆の群が!」
「一揆の群が! ……ではまた憂き目を!」
範之丞は叫んで立ち上がった。
その袖を控えてお吉も叫んだ。
「隠れられるだけは隠れましょう! 奥へ! 奥へ! ともかくも奥へ!」
骨ばかりになっている襖や障子、畳はなくておおよそは板敷き、その板敷きも破れ腐ち、縁の下から熊笹や雑草が、板敷きの上まで延びていた。
それでも幾間か部屋はあった。
二人は奥の部屋へ走って隠れた。
一揆の先頭に立っていたのは、甲州浪人の山県大蔵で、抜き身の槍をかい込んでいた。
「そやつどもを引き据えろ!」
この大蔵の言葉に応じ、口々に罵り猛りながら、一揆の衆は三人の犠牲者を、丈なす枯れ草の中へ引き据え、一同はそれの周囲を囲み、ある者は焚火をし、ある者は武器を振り廻しある者は昂奮にただグルグルと盆地を四方へ駈け廻った。
犠牲者の一人は村役人であり、もう一人は裏切りをした名主であり、もう一人は強慾の富豪であった。
いずれも顔色土のごとく、気萎え体顫え、眼光なく、唇わななき、言葉出ず、半分死んでいる有様であった。
群衆に雑って深編笠に、野袴を着けた九十郎が、これも深編笠に野袴を穿き、両刀さえ帯びて男装した織江を、傍らに引き付けて立っていた。
三人の犠牲者の前へ進み、大蔵は厳かに声をかけた。
「前島作右衛門頭を上げろ! その方村役人の身でありながら、従来村方の利益を計らず、村役人の権を笠に、賄賂を取り請託を入れ、私腹を肥やすこと著しかりしよし、よって今日天誅を加う! 言い訳あらば申せ申せ!」
すると群衆は口々に叫んだ。
「言い訳あらば申せ申せ!」
「あるめえがな、あるはずがねえ!」
「叩っ殺せ!」
「火あぶりにしろ!」
大蔵はさらに名主へいった。
「長沢権左衛門頭を上げろ! 汝名主の身でありながら、支配内の百姓の辛苦を察せず、郡奉行手先と結托し、苛斂誅求の手助けをなし、上に阿い下を虐げるさえ、不届き至極と存ぜしに、今回百姓等辛苦に堪えかね、結束して上へお願いせんものと、よりより相談いたせしを推し、いち早く奉行へ密告し、己一人お褒めにあずかり、庶民に迷惑をかけし罪状、まさに死に相当す。よって我ら天誅を加う! あらば申せ、言い訳あらば申せ!」
すると群衆はまた叫び出した。
「言い訳あらば申せ! あるめえがな!」
「裏切り者!」
「磔刑にかけろ!」
鍬を振り廻し、鎌を振り上げ、竹槍で突く真似をして怒号した。
大蔵はもう一人へ厳かにいった。
「小沼村酒屋五八郎、代々酒造し暴富を積み、己をはじめ一家一族、栄耀栄華に耽りながら、小作を搾り僕を酷使し、辛苦かえりみざる段不届き至極、しかも今回憤起の百姓、ご領主へ嘆願に赴く途次、汝の屋敷へ立ち寄りしところ、労わんとはせず無頼漢を集め、武器をもって攻撃したる段、いよいよもって不届き至極、よって屋敷を焼き払い、汝をここにて誅戮す! 申せ申せ言い訳あらば申せ!」
また群衆は声々に喚き、地団駄を踏み得物を振り廻した。
三人の犠牲者は顫えるばかりで、いおうとしても言葉出ず、立とうとして足立たず、わずかに合掌して群衆を拝み、涙を流すばかりであった。
憐れさはあったがそれ以上、これらの三人に長い間、苦しめられた憤りが、一揆衆の心には根を張っていた。
「殺せ!」
「首切れ!」
「理窟はいらねえ!」
叫ぶ声々が一つに集まり、ウオーッというような吠え声となった。
と、大蔵はかい込んでいた槍を、空高く差し上げて一振りしたが、
「やれーッ」
とばかり命を下した。
ウオーッという群衆の吠え声が、その瞬間ひときわ高くなり、ムラムラと三人の犠牲者を、おっとり囲んだと見る間もなく、その一団は真ん丸となり、中へ三人の犠牲者を囲み、真ん丸のままで雑草の原を、一軒の廃屋の背後の方へ、一直線に縦断し出した。丈なす雑草が左右に靡き、彼らの走り過ぎた道順だけ、広く道を形成した。
廃屋の蔭へ一団が隠れ、ひとしきり盆地がひっそりとなり、だから一層不気味となった。──と思う間もあらばこそであった。狂気したような群衆の叫びが、例のウオーッという吠え声となり、廃屋の蔭から上がったが、忽ち例の一団が、盆地へ姿を現わした。
三本の竹槍が高く高く、一団の頭上に抽んでてい、その先に三個の生首が、果物のように貫かれていた。山県大蔵が先頭に立ち、
ウオーッ!
ウオーッ!
と吠えながら、一団は丘の方へひた走った。
とうとう一団は丘の上へのぼった。
と、土坡のような丘の彼方にも、一揆の大衆いたと見え、数百、数千、万にも余る、大勢の声が法螺貝、竹法螺、鉄砲の音をさえそれに雑え、ドーッとあがりワーンと反響いた。
丘の上の一団は駈け下りた。
で、こうして静かになった、ここ盆地の内側に、ポッツリ点のように残ったのは、九十郎とそうして織江とであった。
「山県氏は真面目だのう」
枯れ草の上へゴロリと寝て、九十郎は呟いた。
「故き高阪郡兵衛殿といい、また山県大蔵殿といい、いずれも随分真面目だのう」
そう思わざるを得なかった。
あの時以来九十郎は、織江を連れて大蔵ともども、佐久の百姓一揆軍の、指揮者の一人として働いた。
働いたといっても百姓そのものの、惨苦の生活に同情して、献身的に働いたのではなく、彼らの生活に同情するごとく、振る舞い働くことによって、自分自身の生活を保証し、今日まで暮して来たのであった。
彼はかつては老中田沼に、警衛の士として仕官して、その田沼の豪奢専横、けた外れの贅沢の生活を、じきじきその眼で見たことがあった。稲荷堀の屋敷が出来あがった時、意次は中庭の泉水を見い見い、「この中へ阿蘭陀錦魚を放たば、ずいぶん見事のものであろうよ」と、ただ何気なく一言いった。と、その日柳営へ上がり、さて夕刻帰宅して見れば、高価無比の阿蘭陀錦魚が諸侯方より献上され、数百匹泉水に泳いでいた。その屋敷の廊下と来ては、巾広く紆余曲折し、全体の長さ半町はあろうか? そんなようにも噂されていたが、意次が御殿から帰宅するや、その廊下を埋めるようにして、進物の品が並んでいた。
そういう権勢の意次の生活、それと比べてこの北佐久の、百姓の生活はどうであったか? 親子六人飢餓のために、枕を並べて死んだ家、死馬を食い、犬を食い、猫を食い、鼠、蛇、あらゆるものを食いつくし、十数軒をもって形成されていた、浅間山麓奥地にある、硫黄谷附近の一部落が、一人残らず死に絶えたという事実。──実にそういう有様であった。
これを見た時九十郎は、
(この貧富の甚だしい差異は、とうてい人為的方法などで、平等化されるものではない。天意だ、宿命だ、業だ、運だ!)
こう思わざるを得なかった。
人為でどうにも出来ないものを、どうにかしようとして真剣になって、一揆を指揮する馬鹿らしさ──それも最初から食えるなら行こう、行って何んでもやろうといって、食うために一揆衆に加入したまでの、彼九十郎は一揆に加わっても、真面目に働こうとはしなかったのであった。
だから真面目に働いて、一揆をどうにか成功させ、その百姓の辛苦の一部を、除去いてやろうと苦心惨憺、指揮する山県大蔵の行為が、彼には馬鹿らしく見えるのであった。
そう、たしかに馬鹿らしく見えた。
にも関わらずそれだから、大蔵や死んだ高阪郡兵衛を、軽蔑しようとは思わなかった。
逆に偉く思われるのであった。
(真面目だのう! 実に偉い!)
こう思わざるを得なかった。
この矛盾!
この矛盾に、彼は苦痛に似た感情を覚え、今草に寝、編笠ごしに、晴れた空を眺めているのであった。
(討ちよい姿勢だ!)
と織江は思った。
ソロッと刀を引き抜いた。
栗の木が一本生えており、その木の蔭に佇んで、じっと九十郎の寝姿に、眼をとめていた織江であった。
寝た間もいつもは油断なく、織江の挙動に留意して、気を許さぬ彼であった。
しかるにどうだろう現在の彼は! ほとんど全身隙だらけとなり、無心に空を見ているではないか。
(討ちよい姿勢だ! 仕止められそうだ!)
そこで刀を抜いたのであった。
その織江は今日まで、まあどんなに苦しんだことか!
父兄の敵と一緒にいる。
しかも敵に一再ならず、命を救助されさえした。
が、もちろんそのことに対して織江は恩など感じはしなかった。
九十郎に父さえ討たれなかったら、旅へ出て来る必要もなく、旅にさえ出なかったら司馬又助や、贋一揆の浪人などに、苦しめられるはずもなかった。そういう憂き目に逢ったのも、九十郎に父親を討たれたからだ。
それにもう一つ司馬又助や、贋一揆の浪人ばらから、九十郎が自分を助けたのは、彼が自分を専有し、情慾の犠牲にしようがためで、決して自分を精神的などで、愛していたためではないということが、あまりに明らかに知れているからであった。
(恩に感ずる毫末もない!)
で彼女はそれ以来、どうぞして九十郎を討って取ろうと、不断に隙をうかがった。
が、いかんせん九十郎には、討って取られるような隙はなかった。
それに一揆衆に加わって以来、彼女は真心の底から、百姓の困苦の生活に、同情の涙をそそいでしまった。生きたいという意志があり、生きようとして人間としての、あらゆる努力をし抜きながら、みすみす饑えて死んで行く! ……恋愛などで他界を夢見て、恍惚状態で心中するなどとは、似ても似つかない苦痛の中で、みすみす饑えて死んで行く! ……この事実は都会産まれで、武士という上層の階級に育った、その彼女には思いもおよばなかった恐ろしい地獄的の見聞であった。
(人間がみすみす饑え死ぬとは!)
理窟ではなく実感として、彼女はひしひしと身に堪えた。
(せめて生かしてやりたいものだ。何んの栄耀など望むものか! この人達はその日その日を、普通に生きてさえ行かれたら、それで満足している人達だ!)
彼女は自分から男装した。そうして一揆の先頭に立った。炊き出しもやり負傷者も労わり、看護もし激励もした。御代田村の陣屋を襲った時には、刀を揮って幾人か斬り、大井村の名主を襲い、相手が逆襲して来た時には、殿をして戦いもした。
そのため九十郎を討ち取ることを、疎そかにしたことは事実であった。
さてこうして現在となった。
一揆も今日が峠であった。
いよいよ城下へ逼る日となり、現に城下へ逼りつつある。
一揆に対する任務は終った。
この時彼女は九十郎の隙だらけの姿を眼に入れたのである。
勃然と復讐の念が湧いた。
「九十郎!」
と斬り込んだ。
「…………」
瞬間九十郎は寝返りを打った。
「復讐! ……観念! ……父兄の仇」
再度斬り込んだ織江の刀を、かわして九十郎はまた寝返った。
それを追い込んで斬り込んだ織江の、刀の下をかい潜り、九十郎は飛んで草の中へ立った。
数回実戦にたずさわり、人を斬った経験もある、そういう彼女織江であった。以前の織江とは異っていた。
凄まじい覇気! 鋭い太刀先!
三度身をかわされても焦心らず急かず、かえって落ち着き粘りを持ち、ジリジリと競り詰め、ソロソロと進んだ。
相対した九十郎、これは一層に悠々としていた。刀も抜かず右手にひっさげた、鉄扇をグッと突きつけたまま、呼吸を計りソロリソロリと、後方へ後方へと退いた。
機を見て飛び込もうとするのであろうか?
今はひたすら退いた。
丈なす枯れ草の盆地の原を、陽の明るい正午時に、今は二人ながら掛け声ひとつかけず、討とう討たれまいとの死闘をつづけ、三軒の廃屋のある方へ、一人は進み一人は退いた。
切り込んだ!
引きかわした!
追い詰めた!
後方へ後方へと退いた。
左の端の三軒目の廃屋の縁まで追いつめた。
一躍!
閃光!
その瞬間、何んたる軽捷九十郎は、織江に鉄扇を向けたまま、後方ざまに身を翻えし、縁の上へ飛び上がった。
間髪を入れず身を躍らせ、織江も縁へ飛び上がった。
が、もうその時には九十郎は、一枚の雨戸を蹴ひらいて、すでに屋内に突き進んでいた。
「逃げるか、卑怯!」
追い迫った!
ピシリ!
「あッ!」
キリ、キリ、キリ!
「卑怯!」
「フ、フ、計ってやったーッ」
見れば刀を打ち落とされ、下緒で両手をキリキリと縛され、身動きならず服部織江は、一本の柱にくくりつけられていた。
その前の板敷きに腹這いながら、懐中から取り出した短い煙管で、莨の煙りを吹かせているのは、編笠を脱いだ九十郎であった。
この同じ日の午前のことであった。
牧野遠江守の居城たる、小諸の城内は上を下への、大騒動を演じていた。
諸方の百姓の一揆軍が、各街道から連絡をとり、この城下へ寄せて来るという、そういう注進が次から次と、さながら櫛の歯を引くがごとく、この城内へ届いて来るのに、その対策が確定せず、殿をはじめ宿将重臣、大広間へ集まり周章狼狽、評定をするばかりであった。
その騒動を外にして、むしろセセラ笑う心持ちで、十二神貝十郎は腹心の同心、源吾と伴作とを供に連れ裏門から外へ出た。
彼らはこの時より半月ほど以前に、塩尻の社家を引き払い、この小諸の牧野家の居城へ、田沼主殿頭に扈従して参り、今に滞在しているのであった。
しかるに今朝になって大変なことが起こった。
一大秘密を持っているところの、ままごと狂女お浦の姿が、城内から見えなくなったことである。
城内の混乱に打ちまぎれ、うかうか城外へ出たらしい。
(もしものことがあろうものなら、取り返しのつかないことになる)
これという目標もなかったが、探し出すために貝十郎は、こうして城を出たのであった。
城外も恐ろしい混乱であった。人々が右往左往していた。
と、一人の町娘へ、貝十郎は眼をつけた。
(勘助に似ているが? 女勘助に!)
貝十郎はそう思った。
塩尻の社家主計の屋敷で、一旦勘助を捕えたが、大して憎くない男だったので、覚蔵の家の内土蔵の中へ、冬次郎様と熊太郎とを、翻弄的に閉じこめておいて、主計方へ帰って来た貝十郎は、その夜勘助を追い払った。
その勘助の娘姿が、群衆にまじって見えたのである。
(さてはいよいよ冬次郎様たちは、この城下へ来ておるな)
貝十郎はそう思った。
いずれは冬次郎様一行が、田沼を討とうお浦を奪おうと、自分たちの後を塩尻から追って、この小諸へ来ておるであろうとは、貝十郎は思っていたが、どこにどのように隠れ住んでいるものか、かいくれ消息がわからなかった。
ところが勘助を今見かけた。
ではいよいよ冬次郎様たちが、この城下に来ていることだけは、疑いないものということが出来る。
しかしはたして今の娘が、女勘助に相違ないだろうか?
改めて貝十郎は娘を見た。
が、もうその時にはその娘の姿は、群衆にまぎれて見えなくなっていた。
全く恐ろしいような群衆であった。
どの小路からもどの露路からも、老人や若者や女や男や、子供までがもの怖じしたような、不安に堪えないような表情をして、表通りへ出て来るかと思えば、表通りから小路や露路へ、追われるように駈け込んで行った。田舎の親戚や他領の知人や、そういう安全の人々のところへ、避難するらしい人もあれば、この町の親戚や知人を案じて、他の町から入り込んで来たらしい、そういう様子の人もあった。そういう群衆を分けながら、藩士が血眼で往きつ来つし、伝令らしい様子の武士が、城の方へ走っても行った。何がなしに人々は叫んでいた。
「車塚が一揆の本陣だということだ!」
「鳳来川を渡られたら、このお城下は一揉みだ!」
こんなような声も聞こえて来た。
(車塚の方へ行って見よう)
貝十郎はそう思った。
冬次郎様の一団が、この城下へ来ている以上、是非ともお浦を一刻も早く、探し出して手に入れなければ、容易ならないことになる。というのは冬次郎様がお浦を捕え、例の秘密を手に入れたら、田沼様にとっては致命的打撃と、そう思われるからであった。
さりとて広い小諸城下を、あてなしに漫然と探したところで、捕えることは出来そうもなかった。それに一揆の本陣の様子も、知って置きたい心持ちもあった。そこで車塚を目標として進み、ゆくゆくお浦を探したがいいと、こんなように思ったのである。
源吾と伴作とを従えて、貝十郎は車塚の方へと向かった。
この頃勘助は群衆を分け分け、角町の方へ小走っていた。
さよう、貝十郎が見かけたのは、やはり間違いなく勘助なのであった。
城下の混乱に興味を持ち、隠れ家から出て人に雑り、四辺の様子を見ているうちに、彼も貝十郎を眼に入れたのであった。
(こいつ殿様に知らせなけりゃア)
勘助は小走った。
と、行手からこれも城下の、混乱を見るべく出かけて来たらしい、仲間の外伝が歩いていた。
「おお外伝十二神の奴が……」
「ナニ十二神? 十二神がどうした?」
「例の二人の同心を連れて、あれあれ向こうへ歩いて行く。……見え隠れにお前尾行けてってくれ……いつもの符牒を角々に貼ってよ」
「よーし!」と外伝は人を分けて走った。
こうして勘助は冬次郎様の、隠れ家の方へ走って行き、外伝は貝十郎達の後を尾行けた。
それとも知らない貝十郎達は、行くに従って人数を増し、混乱いちじるしい巷を分けて、車塚の方へ歩いて行った。
その後を尾行けて外伝も行ったが、辻や曲がり角や木立や門に、紙だの藁だのを蝶の形に、目立たぬように結びつけた。道標の符牒なのである。
お浦の在所はわからなかった。それが貝十郎には苦になったが、失望もせずに先へ先へと進んだ。
うらうらと晴れた春の空、正午に近い明るい日光、しかし東北の山脈を抽んで、厳かに聳えている浅間山からは、いつも三筋に立つ煙りが、噴出の量多いためか、一つに集まり束となり、下界の人畜を怯やかすように、時々鳴動と地揺れとを伴い、先広がりに上がっていた。
青味を帯びた粉のような灰が、絶ゆる暇なく降って来て、眼にはいり鼻にはいり、道に薄く積もりさえした。
二里の道程を歩み尽し、鳳来川の岸へ出た。
此方の岸には武器をたずさえ、武装した藩の武士たちが充ち満ち、対岸には百姓一揆の大衆が、莚旗や神社の幟や、節句に用うる吹き流しをさえ立て、時々威嚇的に喊声をあげたり、竹法螺や法螺貝を吹き立てたりした。
後らの背後には丘の脈が、土坡のように延びていた。その背後に車塚の郷があるのであった。
貝十郎は手をかざして眺めた。
本陣でもあろう少し離れて、幔幕を張り焚火をし、抜き身の槍を幾本か立てた、一団が静まって屯ろしていたが、槍の先に三個の生首を貫き、それを示威的に川の畔に立て、幾人かの浪人らしい武士たちが、その側に引き添っているのが見えた。
貝十郎は下流を眺めた。
橋が一筋かかっていた。
(あれを渡って背後へ出、本陣の様子をよく見てやろう)
で、源吾と伴作とを連れて、橋のある方へ貝十郎は歩き、その後を外伝がしのびやかに尾行けた。
と、この頃小諸城下の、雑踏の巷を分けながら、冬次郎と熊太郎と清三郎とが、勘助や新助を先頭に立て、車塚の方へ走っていた。
「殿様ア、こっちだ、こっちの道でえ、ちゃアんとみちしるべの符牒がありやす!」
「今度はこっちだ、こっちの道でえ、ちゃアんとみちしるべの符牒がありやす!」
で、どんどん走って行った。
田沼一行の後をつけ、冬次郎たちの一団が、この城下へやって来たのは、半月ほどの以前のことであった。最も繁華の角町の、商家の奥の離れを借りて、そこで一同住居して、すきを見て意次や貝十郎を討ち、お浦を捕えようと心掛けた。場末などに住んだらかえって気づかれる。繁華の巷にわざと住み、町人その他に身をやつし、出入りに注意したならば、おりから一揆の騒動あって、見慣れぬ人々も入り込んでおり、おそらくかえって感づかれまいと、こう考えてやったことであった。はたしてそれが図にあたって、慧眼無比の貝十郎から、今日まで在所を見あらわされなかった。
その今日になった先刻、勘助があわただしくとび込んで来て、貝十郎と配下二人が、用ありそうに雑踏の城下をしのびやかに歩いて行ったと告げた。
冬次郎は勇躍した。
「今度こそ遁がさず貝十郎を討て!」
で、熊太郎たちを引き連れて、こうして宿を駈け出たのであった。
冬次郎としては貝十郎は、年来の詩文の友であり、友情あつき仲であったが、今はかえって反対であった。田沼を討とう討たせまいの、事件をはさんで幾回となく、二人は争い斬り合ったが、塩尻の諸角覚蔵方で、貝十郎のために翻弄的に、内土蔵の中へとじこめられたことが、処士であり浪人の味方であっても、そこは貴族の御曹司であり、貴族趣味から遁がれられないところの、冬次郎にとっては前代未聞の恥辱、いうにいわれぬ忿懣となって、貝十郎に対し公憤以外、私怨を感ぜざるを得なかった。で、おのれやれ討たいで置こうかの、この心持ちにそれ以来、かりたてられていたのであった。
その貝十郎が討てそうだ! 勇躍せざるを得ないではないか!
鳳来川の岸まで来た。
「殿様アこっちだ、橋の方だア!」
河岸の柳の細い枝に、むすびつけてある蝶形の藁、符牒を目っけて新助が叫んだ。
「そうか、行け! 急げ急げ!」
冬次郎はひた走り、熊太郎、清三郎、勘助、新助は、それに引き添いひた走った。
凄い寂しい車塚の郷の、三軒の廃屋の真ん中の家の、黄昏のように暗い部屋の中に、人形を完全に備えている、五個の木乃伊が並んでいた。
浅間山の爆発によって、窒息して死んだこの家のもので、同族の人達は四散してしまい、他部落他村の人達は、死骸とり片附けにもやって来ず、年を経るうちに木乃伊となって、枕を並べているものらしい。
と、その中の一つの木乃伊が、不意にユラユラと起き上がった。
手を振り足を顫わせ宙に立て、ユラユラと一方へ歩き出した。
パーッと赤い花やかな色が、その木乃伊の背後に寄り添い、むしろぴったりと食い附いている。
振り袖姿の娘であり、先刻範之丞とお吉とが、右の端の一軒の家の、雨戸の隙からチラリと見た、その娘に相違なかった。
ままごと狂女のお浦であった。
十二神貝十郎の想像どおり、城内混乱の隙をうかがい、城を脱け出して城下へ出、城下の混乱をくぐりぬけ、ここへ入り込んだ彼女なのであった。
この家の外の盆地の原で、騒がしい事件があったようで、怒号や悲鳴が聞こえたが、今はそれも静まった。
で彼女はいとしい上様と、好きなままごとをしなければならない。
木乃伊──彼女には上様であった。その上様を背後ざまに抱いた。
(さあどこへ据えましょう?)
骨ばかりになって破れている襖、そういう襖が立っていた。
「上様お坐りなさりませ」
上様を襖へ寄りかからせた。
上様は細い骨のような脚を、板敷きの上へ二本投げ出し、これも細い骨のような両手を、ブラッと両脇へ下げた姿で、襖へあぶなっかしく寄りかかった。窪んで黒い大きな眼、二つ並んでいる鼻の穴、その下に犬の牙のように、ムキ出している上下の歯、そういう形相を持っているところの、凄まじい顔が少し俯向き、お浦の姿を見据えていた。
お浦はその前に坐っていた。
赤味の勝った友禅の振り袖、着崩れてかえって艶かしく、鬢などもほつれて頬へも額へも、幾筋か毛がかかっていた。
と、お浦は手を延ばした。
手に触れたは茶碗であった。
道で拾って来た欠け茶碗であった。
それを上様の前へ置き、これも道で拾ったらしい、欠け徳利を取り上げた。
「お浦がお酌いたします。一つおすごしなさりませ」
注いだが何んにも出て来なかった。
酒も水も出て来なかった。
「妾お相伴いたします」
で、お浦は茶碗を引き寄せ、自分の膝の前へ置き、それへ徳利の酒を注いだ。
でも何んにも出て来なかった。
空っぽの茶碗を唇へあて、さも美味しそうに一吸いしたが、
「上様お重ねなさりませ」
いってまたもや欠け茶碗を、上様の方へ押しやった。
黄昏のような薄明の中に、木乃伊の上様は白く細く、破れ襖を背にして坐っているばかりで、微動さえもしなかった。
梁がムキ出した古びた天井、その上の屋根が破れているので、そこから外光が射し下がっている。
裏に向いた雨戸が開いていて、枯れ芒、枯れ萩に蔽われた崖が、破れ腐ちた縁のすぐの向こうに、壁かのように立っていたが、その崖を背にし縁の上に、先刻の三匹の親子狐が、鼻面を並べ蹲居して、この屋内を覗いていた。
「これをお前から越中へ、──定信の手へ渡してくれ。……ねえ上様こうおっしゃって、私へお書き附け渡されましたのねえ」
思い出したようにこういって、お浦は上様をいとしそうに見やった。
「妾から渡すのでござりますのね、ハイハイ渡すでござりましょうと、妾お引き受けいたしまして、今日までお預かりいたしましたが、いまだに妾越中に、お逢いしないのでございますの」
困ったようにお浦はいって、また可憐しそうに上様を見やった。
「定信様とおっしゃるお方が、どんな方でございますやら、どこにおいで遊ばすのやら、妾ちっとも存じませぬので、途方にくれておりまする。……でも確かにお書き附けは、妾お預かりいたしおります。……ここへ!」
といって懐中の中へ、お浦は両手を差し込んだ。
でもすぐに引き抜いた。
「いえいえ何んでこんなところへ、妾かくして置きましょうぞ。……大切なお書き附けでございますもの。……ここへ!」
といって今度はお浦は、両手を長い袂へ入れた。
でもまたすぐに引き抜いた。
「なんで妾このようなところへ、隠してなんぞ置きましょう。大事なお書き附けでございますもの」
ここでお浦はおかしそうに笑い、甘えるような声でいった。
「上様あててごらんあそばせ、どこにお書き附けかくしてあるか?」
しかし木乃伊の上様は、冷然としてい、粛然としてい、そうしてずいぶん滑稽な姿で、黙って坐っているばかりであった。
「いかな上様でもこればかりは、おあてあそばすこと出来ますまいよ。……上様ここでございますの」
いってお浦は緋の袖口が、柘榴の花弁のようにからみついている、両手をソロソロと上へあげた。
と、その時どこからともなく、三味線の音が聞こえて来た。
「まあ」
と意外そうにお浦はいった。
狂っていても女であった。
このような時に、このような境地で、三味線の音を聞いたのである。ハッとばかりに驚いたらしい。
で、じっと耳を澄ました。
河東節の三味線で、
〽二人が結ぶ白露を
眼元でひろうのべ紙の
この辺を弾いているのであった。
不意にお浦は立ち上がった。
上様のことなど忘れてしまい、三味線に心をとらえられたらしい。板敷きを横切り裏縁の方へ、裾を引き擦って歩き出した。
臼杵九十郎は柱にくくりつけた、織江の姿を眺めながら、板敷きに腹這い考えていた。
(何んという俺は馬鹿だったろう、この女の愛を得ようなどと、今日まで思っていたのだからなア)
そう思わざるを得なかった。
(そんなことを思っているうち、この女は俺を殺そうとして、暇なく狙っておったのだ)
(またそれが当然でもある。親の敵であり兄の敵でもある、そういう憎い俺なのだからなア)
それだのに今日までその女と一緒に、旅をつづけ寝起きしたことが、今になっては変に想われ、あり得べからざる出来事のように思われ、危険至極だったように思われるのであった。
(俺もよほどどうかしている? ヤキが廻ったというのであろうか?)
とはいえこの女が司馬又助によって、その貞操を奪われようとした時、そうして自分と旅をつづけ、贋一揆の悪浪人どもに、無礼の所業におよばれようとした時、自分がほとんど身を挺して、助けたことを考えれば、この女がその恩を多少なりと感じ、ひょっとかするとこの自分を、愛するようになろうもしれぬと、そう考えたということが、そうまで不自然であろうとは、思われないようにも思われるのであった。
(が、それもこれもみんな俺の、思い違いというものさ。現にたった今俺の隙を狙って、復讐の刃を向けたのだからなア)
(ではこれからどうしたものだ?)
考えざるを得なかった。
九十郎は織江を眺めた。
乱れた若衆髷、着崩れた男装、それが美貌と映り栄えて、歌舞伎の色若衆さながらの、艶冶たる姿態を形成っている。それが縛られているのであった。柱にくくりつけられているのであった。
(とるべき手段は一つしかないさ。長い間の慾望を、ここで一気にとげてしまい、不愍ではあるが息の根止め、一切後患のないようにするさ)
兄範之丞は諏訪高島で、湖水にきり込み殺してしまった。で、この妹の織江をさえ討ったら、もう将来自分を敵として狙う、何者もないことになる。どんなにノウノウすることか。どうせこれからは世が乱れる。百姓一揆など随所にあろう。町方へ行けば米騒動や、ぶちこわしの騒ぎもある。そういうものへ加担して、正義顔して働くように見せ、一人二人でも叩っ斬れば、どうにかそれだけで食って行ける。乱脈なこんなご時世だから、考えようによっては住みよいともいえる。禁物は遠慮と引っ込み思案さ。スパスパ本能をとげるんだなア。……
悪の性根がいよいよますます、彼に太々しく甦って来た。
「織江殿」
といいながら、九十郎は両手を顎の下へかい、蛇が鎌首をもたげるように、顔をもたげて薄ら笑いをした。
「兄上範之丞の生死に対し、これまでくどう訊ねられたが、今日こそハッキリお話ししましょう。……諏訪湖の岸で斬り合ったみぎり、拙者に範之丞殿斬り立てられ、後へ後へと退かれたあげく、足踏み辷らせザンブリコと、水中へ落ちてしまわれたのさ。二、三度ポカポカ浮かばれたが、やがて沈んでしまってござる。……その後探った結果によれば、どうやら死骸あがった様子。で、この世にはおりませぬて。……そこで今度はそなたの番じゃ」
やおら九十郎は立ち上がった。
九十郎は猛然とかかろうとした。
と、聞き覚えのある三味線の、河東節の水調子、玉菊の音がきこえて来た。
(あッ)と思わず口の中でいった。
(ありゃアお吉のよく弾いた唄だ!)
そのお吉だがあの時以来──高島城下の事件以来、一度も逢ったことがなかった。殺そう手筈にしていた女、それが殺すことも出来なければ、その後どのような境遇になったか、知ることさえも出来なかった。ただしその後織江と一緒に、下諏訪宿の旅籠にいて、高島の様子を探らせた時、お吉も団八もいないと知れた。
(ひょっとかすると団八め、日頃からお吉をつけ廻していたが、俺にお吉を殺させるかわりに、かえって俺を裏切って、お吉に事情をぶちまけて、お吉を連れて逃げたかも知れない)そんなように考えられた。未練のなくなった女であった。(それもよかろう)とその時思い、爾来念頭にも浮かべなかったが、こんな場合にこんなところで、そのお吉が好んで弾いた、三味線の音色が聞こえて来てみれば、ギョッとせざるを得なかった。
思わず九十郎は部屋を出て、縁から庭へ飛び下りた。
(織江は柱へくくりつけてある。逃げようとしても逃げられない。賞翫はゆるゆるすることにしよう)
それよりともかくも昔の妾──自分の善悪を知悉している、お吉のことが苦になった。
(噂によりゃアこの車塚に、三軒立っている廃屋は、化物屋敷だということだ、そんなところで粋な江戸の、通人の弾く河東節の、水調子の音色が聞こえるとは⁉ それも聞き覚えのあるお吉の手で……」
確かめないことには不安であった。
九十郎は耳を澄ました。
自分が今までいた家と並んで、二軒の廃屋が縁の上まで、丈なす枯れ草に蔽われて、そうして背後に断崖を負って、閉ざした雨戸に昼の陽を浴びて、崩れ傾き立っていた。
三味線の音色は二軒の家の、一軒から聞こえて来るようであった。
(よーし!)と九十郎は足音を忍ばせ、枯れ草を分けてそっちへ進んだ。
三軒の廃屋の右の外れの一軒──その奥まった部屋の隅に、伊織の範之丞とお玉のお吉とは、寄り添いながら坐っていた。
もう二人は他人ではなかった。精神も肉体も他人ではなかった。
一揆の衆徒が寄せて来た。残酷な目に逢わされようもしれない。とはいえ駈け出して逃げもならない。隠れ得られるだけは隠れてみよう。──こうしてこの部屋へ隠れたのであったが、聞こえて来る音や声で知れた。血なまぐさい所業が行われたらしい。恐ろしさに二人は抱き合った。
思いを晴らし心を展ばし、観じてみればこれまでの辛苦、お吉にはかえって楽しみであった。
(これで妾ア死んでもいいよ)
側の三味線に手が触れた。
和み充ち足りた心には、四辺のおどろしい風物も、これからの危険も苦にならなかった。
〽二人が結ぶ白露の
弾き慣れた辺をふと弾いた。
(そうさ二人で結んだのさ。……嬉しいねえ……はずかしかったが……)
〽眼元で拾うのべ紙の
その時隣家から人声が聞こえた。
隣りの家で声を立てたのは、ままごと狂女のお浦であった。
三味線の音色に引かされて、裏縁の方へ出て行ったとたん、親子狐が三匹ながら、ノソリとばかり立ち上がった。
「あれーッ」
と声を上げたのである。
しかしそこは狂女であった、彼女の声に驚いて、三匹ながら太い尾を巻き、背を円くし首をちぢめ、い縮んだ獣の様子を見ると、かえって可愛らしくなったらしい。
「狐よ狐よ親子狐! ……まあ子狐の可愛らしいことは! ……狐よ狐よ!」
と声をかけながら、バタバタとそっちへ走り寄った。
と、それに驚いて、クルリと背を向けると三匹の狐は、縁を伝わり逃げ出した。
「逃げるじゃアないよ。狐よ狐よ!」
三味線のことなど打ち忘れ、お浦は狐の後を追った。
狐は縁から裏庭へ飛んだ。
で、お浦も裏庭へ下りた。
狐の習性で逃げながらも、絶えず背後を振り返って見た。
それがお浦には誘うように見えた。
「狐よ狐よ逃げるじゃアないよ」
いいいいどこまでも追って行った。
左の外れの廃屋の、裏口の辺で三匹ながら、狐の姿は見えなくなった。
(きっとこの家へはいったんだよ)
お浦は屋内へはいって行った。
「お浦様アーッ」
と呼ぶ声がした。
見れば男装武士姿の女が、柱に紐でくくりつけられている。
「まあ」
とお浦は声をあげ、今度は三匹の狐のことなどを忘れ、興味をもってその人を見詰めた。
突然お浦は驚喜の声をあげた。
「織江お姉様! 織江お姉様アーッ」
かつて以前兄とも思われる、十二神貝十郎の屋敷内に、この人と住んだことがあり、最後に上様とお逢いした日、昼のうちは百姓家へ、夜に入っては異国風の屋敷へ──狂える彼女にはその屋敷が、逃げ水屋敷と称された、特異の建築であったということなど、もちろん解ってはいなかったが、その屋敷へ貝十郎に連れられ、二人で行ったことを思い出した。
親切で優しかったその人が、柱などにくくりつけられている!
「織江お姉様アーッ」
とまた叫んで、紐を解くべく飛びかかって行った。
このころ九十郎は三軒の家の、中央の一軒へ踏み入っていた。
「やあ、──木乃伊! ……しかも五個!」
思わず叫び棒立ちとなった。
大胆不敵の彼ではあったが、車塚という薄気味の悪い土地で、殺そうとした昔の妾の、三味線の音色を聞いただけでも、かなり神経を悩ましているのに、化物屋敷といわれている、この廃屋の荒れ果てた部屋の、黄昏のように薄暗い中に、一個は破れ襖に立てかけられ、後の四個は板敷きの上に、都合五個の恐ろしい木乃伊が、まざまざと置かれてあるのを見ては、寒気立たざるを得なかった。
(噂に違わぬ化物屋敷! これはたまらぬ、いたたまれるものか!)
悪業深い彼だけに、この種の恐怖には脆かった。
表庭へ飛び出した。
外は明るく陽があたっていた。
と、彼の恐怖心は、瞬間雲散霧消した。
(この弱気! 何を馬鹿な!)
右の外れの廃屋の中へ、──範之丞とお吉の籠っている家へ、九十郎は踏み入った。
手を取り合い背をかがめ、範之丞とお吉とは裏縁から、裏庭へ飛び下り丈なす草の、枯れ草の中を歩いていた。
最初には女の声が聞こえ、つづいて男の声が聞こえた。
そう、隣りの廃屋から。
そうして間もなく男の声の、主らしい者がけたたましく、庭へ飛び出した物音を聞いた。
これはあぶないとそう思って、二人は裏庭へ出たのであった。
中の家の裏口まで来た。
何がなしに恐ろしく、はいって見る気にならなかった。
二人はソロソロと先へ進んだ。
左の外れの家の中には、紐を解かれて自由になった織江が、嬉し涙をこぼしながら、お浦をひしと抱き締めていた。
「お礼は海山! ……何んと申してよいやら! ……それにいたしてもお浦様が……江戸にいるはずのお浦様が……まあまあまあこのようなところに⁉ ……事情は後で後で聞きます! ……今は必死、大事の場合! ……敵討たねばなりませぬ! ……お父様ばかりか兄上をも、湖水に斬り込み殺したと、白状をした九十郎! 無双の手練、また打ち負け、妾殺されるかはしりませぬが、それも運、どうなろうとまま! ……見逃がしてだけは置けませぬ! ……おおおおおお、向こうの家へはいった! ……あなた様にはここにお待ちを!」
いいいい情の激するまま、頬擦りをしつ抱き締めつしたが、板敷きに落ちている刀を拾うと、庭へ飛び下り走り出した。
お浦はしばらく茫然と、織江の後を見送っていたが、慕わしさに後を引かれたのであろう、これも縁から庭へ駈け下り、
「織江お姉様アーッ」
と呼び呼び走った。
が、不意に中の家の前で、足を止めて考え込んだ。
と、にわかに手を打って叫んだ。
「上様ままごとやりましょうヨーッ」
上様のことが──木乃伊のことが、彼女の心に甦って来たらしい。
中の家の中へ駈け込んだ。
右の外れの廃屋の中へ、踏み込んだ九十郎は用心しいしい、奥の方へ辿って行った。
黄昏のように家の中は暗く、板敷きやぶれ、柱かたむき、すさまじいまでに荒れていた。
見れば裏庭に向かった部屋に、三味線が一挺置いてあった。
(これだな)
と九十郎はその前に立った。
(やっぱり空耳ではなかったのだ。誰かがこれを弾いていたのだ。……そうだお吉でなかったにしても。……河東節の水調子、玉菊を誰かが弾いていたのだ)
昔恋しい心持ちが、九十郎の心へ湧いて来た。
(下谷の裏町のあの家へ、お吉を囲って住んでいた頃が、せめてもの俺の全盛時代だった。……老中田沼様の家人だったからなア)
三味線の前へ坐りこみ、三味線を膝へ抱えこんだ。
(よく玉菊を弾いたっけ。……お吉お吉どうなったことか? ……思い出せば懐かしい。……お吉お吉どこにいる?)
恍惚となって眼を閉じた。
(悪い女ではなかったっけ。……俺には随分つくしてくれたものだ。……私娼にまでも身を落として。……それだのに俺は愛想づかしをいって。……帰って来てくれ! お吉お吉!)
思慕に堪えない彼であった。
その隙だらけの彼を狙って、刀を振り冠った服部織江が、刻み足をしてソロソロと、彼の背後から寄って来た。
左の外れの廃屋の裏口、そこまで辿って来た範之丞とお吉は、人気ないのを確かめて、家の中へ忍び込んだ。
(これからどうしたものだろう?)
これが二人の心持ちであった。
気味の悪い車塚、いっそ身すてて他所へ行こうか?
他所へ行くにしても一揆の衆が、到る所に充ちているらしい。現に盆地を巡っている丘の、すぐの向こう側にもその衆徒が、雲霞のようにいるはずである。
(どうしたらよかろう? どうしたらよかろう?)
二人をこれまで苦しめた手合は、真の一揆の衆ではなく、贋一揆の衆なのであったが、再々苦しめられた二人のものには、その真贋が差別つかず、総括的に一揆衆とあれば、恐ろしく思われてならないのであった。
(それにしても何んとこの俺は、腑甲斐ない人間になったことか!)
範之丞には苦痛であり悲哀であった。
(かりにも親の敵を討とうと、旅へ出て来た俺だのに、人の声に驚いたり、物の音に怯えたりする。この臆病にはどうしてなったか?)
一つには屡〻苦しめられたことが、その原因にはなっていたが、さらに重大な原因といえば、親の敵を討たねばならず、それまでは迂濶には死なれぬ体と、あまりに自分を労わって、命を惜しみ危険をさけたこと──このことのように思われた。
(進んで危険に曝らされよう! 生死の巷へ出て行こう!)
範之丞へ勇気が湧いて来た。
「お玉殿」と範之丞はいい、側に坐っているお吉の手を、情熱をもって握りしめた。「ここにおりましても詮ないこと、一揆衆の中を押し通り、江戸へ参ろうではござりませぬか」
お吉は驚いて範之丞を見た。
従来見られなかった明るさと、雄々しさとが範之丞の顔にあった。
「伊織様!」とお吉はいった。「お供いたすでござりましょう。……江戸へ参るでござりましょう。……妾、あなた様のお心へ、そういう勇気の起こりますことを、どんなに念じておりましたことか! ……道中の苦患はこのお玉が、身に換えお引き受けいたしまする」
「何んの!」と範之丞は凛々しくいった。「今後はいっさいこの伊織、そなたに憂き目など見せませぬ。それほどなれば江戸へ参ろうなどと、何んの私申しましょう。……道中にての苦患も危難も。この伊織こそ引き受けまする! ……死も必定、生も必定、観じて見れば覚悟一つ! ……さあお玉殿参りましょう」
「あい」とお吉は嬉しそうにいったが、名残り惜しいというように、四辺をつくづくと見廻した。「一度去ったら車塚の郷、こんなところへは二度とふたたび、参ることではござりますまい。……恐ろしいところではございましたが、今は懐かしく思われまする」
「まことに」と範之丞もしみじみといった。「しばらくの間のよき隠れ家、雨露をしのがせてくれたところ、名残りおしく思われまする」
この屋内も幽暗としていて、そこにいる二人の人間が、この世ならぬ他界の幽霊かのように見えた。が、雨戸の間から見える、枯れ草の丈なす戸外の庭は、陽に照り栄えて明るかった。
三軒の廃屋の右の外れの、その一軒の奥の部屋で、三味線を膝の上へのせながら、お吉のことを思い出している、そういう九十郎を背後より、討とうとして織江が忍び寄ってる。──とも知らずに範之丞とお吉とが、ふたたび帰らない江戸への旅へ、盆地の草を分けながら、丘の方へ並んで歩いて行く姿が、点景かのように見えたのは、それから間もなく後のことであった。
刀ふりかざし忍び寄った織江、
(討てる!)
と感じ、感じた刹那、
「父兄の敵イーッ」
と斬り込んだ。
が、何んの九十郎隙があろうか、剣鬼であった。
「女郎!」
飛び起き、三味線で払い、つづいて投げ付けたじろぐ相手の、隙に引き抜いた刀を中段、──中段につけて追い立てた。
「縄解いたな、おおそうか! ……斬り込んで来たな、いい覚悟! ……どうせ汝は殺す奴! ……かかれ、来い、来られめえがなアー」
詰める詰める詰める詰める!
気はあせっても技量の相違、意気は余っても剣技の拙さ! 次第次第に後退がる織江、縁まで出たが足踏み辷らせ、ドッと庭へ顛落した。
してやったりと九十郎、つづいて飛び下りグーッと一突き!
が、とたんに中央の廃屋から、何物かドッと投げ出された。
「わーッ」
悲鳴!
「木乃伊だーッ」
お浦の手によって投げ出された木乃伊が、九十郎の胸にあたり、崩れてバラバラ地に落ちた。
恐怖!
タジタジとよろめいた隙に、飛び起きた織江斬り込んだ。
一合!
火花!
飛び違った。
隙なく斬り立てる九十郎! その鋭い太刀風に、タジタジタジ、後へ後へと、あせりながらも退く織江! 南無三宝草の根につまずき、
「あッ」
倒れた!
「くたばれーッ」と、斬り下ろそうとした九十郎の、肩のあたりにまたも木乃伊──縁に現われたお浦の手から、投げつけられた木乃伊が中って、
「わッ」
飛び退いたのを天の与えと、織江は飛び起き、
「父兄の敵イーッ」
自身死ぬ気で斬り込んだが、
「何を女郎!」
と横へ払い、九十郎は踏み込み踏み込んで行く。
屋内に飛び込み狂女のお浦、三つ目の木乃伊を抱えて来たが、縁の上で地団駄を踏み、
「人殺しイーッ、助けてエーッ! 織江お姉様を助けてエーッ」と気は狂っておりながらも、慕わしい織江の命の危険は、自ずと解って血を吐く呼び声! ──金切り声で呼ばわる呼ばわる。
姿を現わしたお浦を眼に入れ、仰天したのは九十郎で、
「やアお浦、狂女のお浦! ……江戸にいるはずのままごと狂女が! ……こんなところに……こんなところに!」
言葉に出して叫んだが、その間も織江を仕止めようと、踏み込み踏み込み切り立てる。
「助けてエーッ、人殺しイーッ!」
地団駄を踏み木乃伊を振り立て、なお叫ぶ叫ぶ叫ぶお浦!
悲痛のその声を聞きつけたは、遙かに盆地の草を分けて、丘の方へ歩いていた範之丞とお吉で、
「人殺しという、助けてという。はてな」
と範之丞は足を止めた。
振り返って見れば廃屋の縁に、女らしい人影が小さく見え、そこから声が聞こえて来た。
「助けてーッ、人殺しーッ」
「人殺しと申しておりましたな」
範之丞は呟くようにいった。
「助けてーと叫んでおりまする」
お吉もいってなお見やった。
丈なす枯れ草の上を抽んで、時々二本の白刃らしいものが、陽に反射して輝くのが見えた。
「助けてという声を聞きましては……武士としてこのまま……武士としてこのまま……」
「いいえ」とお吉は袖を控えた。
「せっかくこれまで危険を避け避け、安泰を保った私たち、江戸への門出に人様のことに……」
「なるほどのう、それもそうか」
「お気の毒だが他人事、かかりあわずに去りましょうよ」
「それもそうか、それもそうか」
範之丞は呻くようにいった。
が、またも悲痛の声で、
「お姉様を助けてエーッ」と、呼ぶ声断腸に聞こえて来た。
と、見る見る範之丞の頬へ、上った血の色が鮮かに注した。
「お玉殿、わしは行く! あの声聞いて助けずば! ……わしは行く助けに行く!」
「…………」
「それに今後は自ら進んで、難にあたろう危険を冒そうと……」
「おおおおそうでござりましたなあ」
「決心をしたこの身でござる! ……人事ながら危難を見すてて、身の安泰今計っては、今後のこの身の危険の際にも……」
「逃げかくれするでござりましょう」
「度胸だめし! わしは行く!」
「それでは私も……」
「一緒に!」
「あい」
一散走り!
二人は走った。
行きついた! 見れば地獄絵! 若衆姿の男装の女が、浪人者らしい屈竟の武士に、斬り立てられてよろめきよろめき、シドロモドロにあやうくなっていた。
「その勝負待てエーッ」
と大音声! 範之丞は叫んだが浪人者を認め、
「やアやアやア九十郎オーッ! ……汝は汝は九十郎オーッ」
「何を⁉」
と瞬間九十郎も、範之丞の姿を認めたが、
「やア汝は範之丞⁉ ……死んだはずの汝が! 幽霊だーッ」
「お兄イ様アーッ」とそのとたんに、危険も忘れ無我夢中、織江は範之丞へ走り寄り、ひしと抱きつき締めに締めた。
「織江か! ……妹か! 夢か! ……現か! ……おおおおおお! ……おおおおおお!」
「九十郎様アーッ」とお吉も仰天、ベタベタと大地へ坐ったが、
「こんなところで……こんなところで……逢おうとはわしゃ! ……夢にも夢にも!」
「わりゃアお吉⁉」と九十郎は、重なる意外に気も顛倒、刀ひっ下げ唇ふるわせ、「こっちこそ夢じゃ! 夢じゃ夢じゃ!」
(事情は後で! 今は復讐!)
こう気がついた範之丞、
「重なる怨みの臼杵九十郎、服部範之丞、妹織江、今こそ討つぞ尋常に勝負……妹よかかれ! ……さあ一緒に! ……覚悟オーッ」と奮迅斬り込んだ。
横へかわした九十郎が、踏み込もうとした背後から、織江が飛燕飛びかかった。
それをも引っかわした九十郎、重なる事変に一時は心も、顛倒し恐怖したとはいえ、要するところ柔弱極まる、服部兄妹が現われて、親の敵と斬り込んで来た、ただそれだけに過ぎなかったので、今はかえって心悠々、いい機会だ兄妹一緒に、ここで討ち取り今後一切の、煩いをのぞこうと決心したが、いかんとも不思議に思われるのは、お吉がここへあらわれたことで──
「お吉よお吉よどうしてここへは。……高島にてのわしのやり口、薄情無残後悔している! ……どうしてここへはどうしてここへは⁉ ……ただしさっき方廃屋の内から、お前のよく弾いた河東節、玉菊の音色が聞こえて来たので、もしやと思いはしたものの……それにいたしても範之丞なんどと──わしを敵とつけ狙う、服部兄妹範之丞なんどと? ……」
刀上段にふり冠り、隙あったら一討ちと、範之丞と織江とへ立ち向かい、威嚇的に刀身をゆすぶりゆすぶり、今もなお大地に坐ったまま、ワナワナ顫えているお吉にいった。
お吉へ答える暇も与えず、範之丞は憤怒の声鋭く、
「黙れ痴漢! 無礼の痴漢! お吉なんどとこの婦人を、呼びすてにする無礼無礼! ……諏訪の湖畔で汝のために、斬り立てられてこの拙者、湖に落ちたを助けくれし恩人、汝に何んのかかわりもない、女芸人のお玉殿じゃ!」
「いえいえ私こそは範之丞様! ……」と、今は絶体絶命のお吉、身を揉みながら声を絞った。
「九十郎の妾玉菊のお吉! それとも知らずあなた様とちぎり! ……悪縁! わたしゃア! おお私ア!」
するとこの時まで縁の上に立って、なお地団駄を踏んでいたお浦が、
「お兄イ様アーッ、お兄イ様アーッ、十二神のお兄イ様アーッ」
と、驚喜したように喚声をあげ、抱いていた木乃伊を抛り出し、縁を駈け下り走り出した。
見れば十二神貝十郎が、二人の配下を引き連れて、こっちへ一散に走って来ていた。
一揆の本陣の様子を見ようと、迂回して丘まで上がったところ、盆地の奥で荒々しく、男女の叫ぶ声が聞こえた。どうやら斬り合っているらしい。他領の出来事ではあったけれど、与力意識が働いて、事の真相を確かめようと、さてこそ走って来たのであった。
が、その三人のすぐの背後から、六人の人間が追いかけるように、走って来るのは何者であろう。
松平冬次郎の一団であった。すなわち冬次郎と熊太郎と、清三郎と勘助と、新助と外伝との一団であった。
と、この時銃声が、丘の背後鳳来川の方から、豆を炒るように聞こえて来た。
忽ち湧き起こる閧の声! 竹法螺の音、法螺貝の音!
見よ見よ丘の脈の上へ、百、二百、三百、四百と、数百の人影があらわれて、盆地へなだれ込んで来るではないか。
対岸にいた城方の武士が、やにわに鉄砲を撃ちかけて、浅瀬を渡り橋を渡り、一揆の衆へ取りかかったため、そこは烏合の衆であり、百姓を主とした勢であり、殊には鉄砲を発たれたので、恐怖に襲われ一たまりもなく、崩れ立って盆地へ逃げ込んだ──その一揆の衆であった。
それを追い立て、追い立て追い立て、城方の武士が弓、鉄砲、槍や刀で撃ちつ斬りつ、これも盆地へなだれ込んで来た。
斬られるもの撃たれるもの、悲鳴怒声、混乱、人渦!
盆地は修羅の巷となった。
混乱修羅の巷を分け、遮るものを斬り倒し斬り倒し、小脇にままごと狂女のお浦を、人質のようにひっ抱えた、臼杵九十郎の遁がれ行く後から、範之丞と織江とが追って走り、その後をお吉が髪ふり乱し、狂乱の女さながらに、走って行く姿が眼についた。
遁がれ行く九十郎の行手にあたって、鉄砲に胸板撃ちぬかれ、血へどを吐いて斃れている、山県大蔵の死骸があった。
(真面目な人間は非業に死ぬなア。……人柱だ! 偉いが不愍! ……俺は厭だ、人柱にはならぬ)
ふと九十郎の心の隅で思った。
大音に叫ぶ貝十郎の声が、雑音を破って響き渡った。
「拙者は十二神貝十郎、ご老中田沼様に扈従して、小諸の城中に滞在しおるもの、城方の衆ご存知でござろう。田沼様代理としてその拙者申す! そこにおられるは冬次郎様、柳営執政に楯つく仁、一揆衆に加わろうもしれぬ! さあ方々鉄砲、弓もて、その仁と輩下の五人のものとを、おっ取り囲み動かさぬようせられい!」
声に応じて喊声が起こった。
見れば盆地の一所に、弓、鉄砲を持った十五、六人の武士が、冬次郎他五人のものを、中へ取りこめ真ん丸に包み、鏃を向け銃口を差しつけていた。
そうしてそれの背後にあたり、十手ひき抜き右手に持ち、軍配のように構えこんだ、貝十郎が立っていた。
冬次郎にしても熊太郎にしても、剣技無双の達人ではあったが、飛び道具には敵うべくもなく、無念の歯がみを立てながら、身うごきもならず突っ立っていた。
そういう一団の周囲では、城方の武士と一揆衆とが、なお斬り合い撃ちあっていたが、次第次第に潮の退くように、盆地から外へあふれ出て行った。
と、貝十郎はまた叫んだ。
「冬次郎様は名門の出、右近将監様御曹司、お怪我あっては申し訳なし、五人の輩下の人々ともども、領地外まで鄭重に、方々お送りなさるがよかろう」
身は一介の与力ではあったが、自ずと備わる将帥の器、貝十郎の命のままに、城方の武士ども唯々として従い、粛々として動き出した。
さてこの日の夜となった。
小諸の牧野遠江守の、天守の窓によりながら、田沼意次は城下を見ていた。
遠江守と貝十郎とが、その左右に付き添っていた。
城下は提灯や松明や、篝火でさながら昼のようであった。
昼間城方の武士によって、飛び道具を持って襲われたことが、一揆衆の心を激発し、やぶれかぶれ死に物狂い、一気に城をもみつぶせと、万にもあまる大衆が、城下へなだれ込んで来たのであった。
城は群衆に埋もれていた。
大手の門も搦め手の門も、一揆衆によって封鎖された。
あがる喊声! 火に輝く武器!
間もなく城門は破られるであろう。
「貝十郎」と意次はいった。「そち塩尻の主計方で、わしにこのようなこと申したのう『それ百姓というもの、元来性頑なにして凄じきものなり、集まる時はよく城を守り、散ずる時はよく廓を破る、党を結ぶにおよんでは、金銀珠玉を顧ずして身命を省ず』と」
「申しましてござります」
「その百姓の凄じさ、わしは目前今はじめて見た。……牧野殿」
と遠江守へいった。
「百姓をあまり苦しめてはならぬ。彼らの要求入れておやりなされ」
顔蒼褪めた遠江守は、頷いて恭しく一揖した。
百姓一揆が鎮まって、浅間山が小爆発をし、それの麓に建てられてあった、田沼の山屋敷が破壊し埋ずもれ、それを最後に降っていた灰も、爾来降らなくなってしまった。
もうこのころには田沼一行は、すでに江戸へ帰っていた。
やがて季節は秋となった。
江戸の秋のさわやかさ!
木犀、萩、水引、鶏頭が、次々に屋敷の庭に咲き、八百屋の店頭には八ツ頭、唐の芋の新鮮なのが現われたり、魚屋の盤台には落ち鮎、かますなどが、膏ののった体を横たえたりした。
幽蘭の分栽の行われる季節。
そう、季節はさわやかであったが、世相は決してさわやかではなく、江戸市中にはこの頃から、いわゆる「うちこわし」があちらこちらに、小規模ではあったが行われ、米屋、富豪が襲われた。
ある日貝十郎は屋敷を出て、市中の様子を見廻った。
(米相場も平価の五倍となっては、窮民たちはたまるまいよ)そんなことを心で思ったが、身分が与力であってみれば、市中に暴動を起こさせてはならないと、腹心の同心白須源吾、桐島伴作にもよく旨を含め、これまでずっと警戒させ、この日も朝から二人の同心を、市中見廻りに出してやったが、自分も夕景から出て来たのであった。
(昨夜は南伝馬町で十五、六軒、一昨夜は鎌倉河岸で七、八軒、米屋がやられたということだが、今夜あたりはもっと大がかりの、うちこわしが起こるものと見なければならない)そんなことが思われた。
掛け行燈に灯のともるころ、北八丁堀へ差しかかった。
桑名侯松平越中守様の、お長屋がいかめしく並んでいた。武家屋敷町は夜に入っては寂しく、ほとんど通る人影もなかった。
と、寂しい夜気を顫わせ、三味線の音が聞こえて来た。
(河東節)だと貝十郎は思った。
(水調子の玉菊だ)
〽本来空の明には、実にともすべき提灯も……
この辺を弾いているのであった。
すぐの行手に辻があった。そこまで行って左の方を見た。と一人の門附け風の女が、一軒のお長屋の窓の下に立って、その三味線を弾いていた。
(おかしいなあ)と貝十郎は思った。(河東節の門附けなんて、およそ世間にあるものではない。しかも施こしなどしそうもない、武家屋敷の窓下などに立って、弾いているとはいよいよ変だ)
しばらく佇んで眺めやった。
(はてな、あの女には見覚えがある。……臼杵九十郎の妾のお吉だ)
こう思ったとたん佐久の車塚で、そのお吉をはじめとし、九十郎や服部範之丞や、その妹の織江などの姿を、見かけたことを思い出した。
(混乱にまぎれ遮られ、一人のこらず見遁がしてしまったが、その後お吉め江戸へ入り、あんなものに零落したものと見える)
つづいて忽然と思い出されたのは、九十郎のためにままごと狂女のお浦を、奪い去られたことであった。
(しめた、お吉は九十郎の妾、あいつの後を尾行けて行ったなら、九十郎の在所知れるかもしれぬ。……つきとめてお浦を取り返してやろう)
門附けの女は歩き出した。
その後をつけて貝十郎も歩いた。
女はやはりお吉であった。
恋しい範之丞の屋敷の前で、いつものように一節弾き、それをせめてもの慰みとして、しおしおと歩いて行くのであった。
かりにも自分の昔の旦那、九十郎を親の敵と狙う、範之丞とたとえ知らなかったとはいえ、ちぎりを交わしたということは、お吉にとっては苦痛であった。ほとんど純情の娘心、それに返っている彼女だけに、一方九十郎に対しても、他方範之丞に対しても、申し訳なく思われるのであった。
それで車塚の乱闘の際、混乱にまぎれ二人を見失い、江戸へ辛うじてはいってからも、範之丞の屋敷は知っていながらも、そうして恋しい範之丞や、妹の織江が自分と同じく、車塚の乱闘に負傷もせず、これもとにかく江戸へはいり、ひそかに屋敷に帰っていることも、探って知っておりながら、昔のちぎりを縁にして、訪ねて行こうとしないばかりか、呼び出しさえもかけようとはせず、依然としてみじめな門附け生活、それに甘んじてただわずかに、夜ごと夜ごとに窓下に立ち──範之丞の屋敷の窓下に立ち、こがれる心を察せよとばかり、河東節の水調子、玉菊の調べを弾くことによって、心をなぐさめているばかりであった。
で、今宵も窓下に立ち、一節弾いて心をなぐさめ、背後から貝十郎が従いて来るとも知らず、しょんぼりと道を辿って行く。
今夜もうちこわしがあるらしいと、そう察したか家々では、早く雨戸や窓を閉じ、江戸の市中は寂しかった。
小路や角の辻々に、得体の知れない人々が、十人、二十人、四、五十人と、組をなして佇んで、ひそひそ囁き合い話し合っていた。
うちこわしに参加する人々か、それを見ようとする人々か、いずれにしても気味悪かった。
お吉が窓下から立ち去った頃、その屋敷の窓に近い座敷の、燭台の下に坐りながら、範之丞と織江とが向かい合っていた。
「お兄イ様」と織江はいった。「潔癖も程々になさりませ。情の強さも程々に。……お吉様のお心持ち、もう汲んでおやりなされませ」
──で、兄を咎めるように見詰めた。
「うむ」と範之丞は呻くようにいったが、そういったばかりで黙っていた。
でも範之丞の顔色は蒼く、唇は痙攣を起こしてい、眼には苦悶の色があった。
「かりにも父上の敵たる、九十郎の妾たるお吉なんどの……」
こうややあって範之丞はいった。
「ちぎったは誤り、知らなかったからじゃ、事情を知った今となっては……」
「聞き飽きましてござります。……だからこそ潔癖と申しますので。……何も手ずからお吉様が、お父様をお討ち果たしなされたのではなし……あの世でお父様がお聞きなされても、お叱りはなさりますまい」
「お父様のことはともかくとして、お前を下谷の妾宅で、気絶させて二階へ閉じこめたも……」
「いえいえそれとてお吉様が、九十郎の妾であってみれば、九十郎の敵の私に対し、ああいう手段をとるこそ真実、私は何んとも思っていませぬ」
「…………」
範之丞は何んともいわなかった。
が、その顔にはお吉に対する、愛慕の心とそれに抗する、義理心とが鬩ぎ合い、苦悶となって表われていた。
燈心に丁字でも出来たと見え、燈火の光が薄暗くなった。
「お可哀そうにお吉様、宵々ごとに窓下に立ち、音色に心知れとばかり、玉菊をお弾きなされます。……女の心は女が知る。……追いかけお連れしお逢いなさりませ」
織江は眼一杯涙を溜め、そういって範之丞を睨むように見詰めた。
「命の恩人ではござりませぬか」
織江はなおもいいつづけた。
「そればかりかその後も道中で、数々お尽くしなされましたそうな。……怨みは間接、恩は直接! ……それだけのご恩忘れては、武士ともいえず人間とも……」
「織江!」と範之丞は烈しくいった。「恩は忘れぬ、そればかりか……」
「愛しておいでなさりましょうねえ。……」
頷いてハラハラと涙をこぼした。「先夜こっそり窓から覗いて、憐れの姿見た時には。……わしは、わしは走り出て……」
「何んの遅いことがありましょう。さあこれから走り出て……私もご一緒に参ります! ……お吉様連れてこの座敷で……」
「うむ」と範之丞はフラフラと立った。が、すぐにベッタリと坐り、「まだ敵を討たぬ先に……主君へも親戚にもこの身の起居……秘密にしてある現在において……恋する女に逢うなんど……不謹慎! ……織江、不謹慎!」
そう、まことにその通りなのであった。
車塚の乱闘を最後にして、敵九十郎を見失い、兄妹ばかりで屋敷へ帰った。帰ってみれば二人ながら、身体の衰弱おびただしく、すぐに再度の敵討ちの旅へ、出て行くことなど出来そうもなかった。で、家人や親戚のものと、ひそかに談合した結果、いまだに旅にある境遇に拵らえ、主君へも秘密、家中にも知らせず、親戚も知って知らぬ態とし、養生を加え外出も憚り、今日におよんでいるのであった。
「いえいえ何んの」と織江はいった。「それとてもみんな表面、われわれ兄妹帰りましたこと、皆様ご存知にござります。生涯かかろうも知れぬ敵討ち、気長くせねば不成功と、ご同情くだされおりまする。……お吉様にお逢いなされたとて、知れましたとて何んの非難。……それにお吉様何んと申しても、以前は九十郎と縁あったお方、ひょっとかすると現在の、九十郎の在所ご存知やもしれず」
「そうだ!」と範之丞は立ち上がった。「九十郎の在所知っておろうもしれぬ! 逢って訊こう! 織江一緒に!」
「あい」というと片時も放さぬ、懐刀とり上げ帯に揷んだ。
「行こう!」
「あい」
戸外へ出た。
夜が更けるに従って、市中は騒動の兆を呈した。
と三人の人間が──外伝と新助と女勘助とであったが、三方に分かれて煽動していた。
小舟町の露路では女勘助が、例の濃艶の町娘姿で、嬌舌をふるって煽りつけていた。
「ねえ。お米の値が騰貴して、わたしたちどうにも食べられないというのに、富豪とくるといい潮だとばかり、お米の買占めをやるんですものねえ、これじゃアだんだんお米の値は、騰貴するばかりじゃアありませんか」
すると群衆は口々に叫んだ。
「そうだ米の値は騰貴するばかりだ」
「そのあげくわたし達はどうなりましょう」
「餓え死ぬばかりよ。そうじゃアねえか」
「餓えて死ぬよりいっそねえ」
「やれ! 米屋を! うちこわせ!」
ワーッと群衆は走り出した。
伊勢町の辻では外伝が、こんな塩梅に説きつけていた。
「おおおお、お前たちついこの間、こんな面白えちょぼくれが出来た。語るから聞きな、まずこうだ。……」
「〽世間が詰まれば、真鍮ぎせるが、銀になるやら、桟留袴は、丹後になりやす。娘子供は、芸者になるやら、鍋釜銭でも、四文に通用、本町通りにちらほら明店、赤絵が世に出て、めくりになるやら、四貫の相場が、五貫になるやら、六位の武家衆が、侍従になるやら、三汁五菜が湯漬けになるやら、町人百姓が、乞食になるやら、うるさいことだに、ホー」
外伝は愉快そうにこううたって来たが、
「みじめの手合いはどこまでもみじめ、運のいい奴アどこまでも好運、こういう浮世は無理があるってものだ! お政治向きが悪いからよ! ──町人百姓が乞食におちぶれ、六位の侍が侍従に出世! これじゃアおれ達ア浮かばれねえ! やろうぜオイ! たたっこわそうぜ! 運のいい贅沢の野郎をよ!」
「やれ!」「うちこわせ!」「ワーッ、ワーッ」
と、群衆は大通りへなだれ出た。
そうかと思うと茅場町の角では、新助がこういって煽っていた。
「こういうお触れ書きが出たんだとよ、『布衣以下は、格別の訳合有之節は、根津、音羽等へも相越し、平日は蹴転(最下等の女郎)し、または百蔵(同様)相用いらるべく候』とよ。……それじゃア、俺ら町人なんかは、どんな女郎買っていいんだい。……こういうお触れ書きを出した奴や、蔵前の札差しなんて奴は、銀で本田髷を巻き立ててよ、吉原の大籬の花魁を買ってよ。一晩に百金を使ってるんだ。いったいこれでいいんだろうかなア」
「いけねえ!」と群衆は喚き出した。
「いけねえともよ、じゃアやらかせ!」
「ワーッ」と群衆は押し出して行った。
町々はうちこわしの群衆と、それを見物の群衆とで、ごった返し沸き立っていた。
そういう群衆にまじりながら、覆面をした二人の武士が、話しながら歩いていた。
松平冬次郎と戸ヶ崎熊太郎とであった。
「農村へ行けば百姓一揆、都会へ来ればうちこわし、これではいかな田沼意次も、執政としての責任上、老中を引くことでござりましょうな」
「さようさ」と冬次郎は考え深くいった。
「信濃の旅から帰って以来、彼田沼どうしたものか、心がとみに変わったということじゃ。気が弱くなったということじゃ。──そうかと思うと一方においては、病弱ほとんど死に瀕しておられる、将軍様後継者に関する件につき、死に物狂いに策動し、自分の自由になるお方を立て、ふたたび権勢を盛り返そうと、苦心しているとの噂もある。──しかし一方彼に対して、反抗していられる三卿ご親藩が、いよいよ彼を逼塞させるべく、積極的にやり出されたそうで、田沼が盛り返すか失脚するかは、ここ数日、長くて一、二ヵ月、そこまでせり詰まっているそうじゃ」
「大事な瀬戸際にござりまするな」
「だからわしにしても一期の活動機、こう思ってやり出したのじゃ」
「今回のうちこわしのご計画を」
「うむ。──外界から民衆によっての、破壊手段がとられないことには、姦物執政の死命を制することなかなかもって達せられぬからの」
「十二神貝十郎今日この頃、何をいたしておりますことやら」
「彼奴も今度は手が出まい。──それにいたしてもままごと狂女、お浦をどうぞして手に入れたいものじゃ。お浦をこっちの手に入れさえしたら、田沼を滅ぼす一切の条件、ことごとく揃うというものだ」
「もし田沼の手に入りましたら?」
「田沼の野望とげられようもしれぬ」
暴徒は次第に数を増して来た。
「将軍様は今は言葉も出せず、文字書くことなどなおさらに出来ぬ、人事不省の有様だそうじゃ」
冬次郎はひそひそと熊太郎へいった。
「で、このままご他界になれば、後継者として一ツ橋家より、西丸へはいられた家斉卿が順当に十一代の将軍家となられる。こうなるとまことに万々歳なのじゃ。というのは一ツ橋家斉卿は、大腹中で濶達のお方、ただし思い切って派手なご性質、この点少しく心にはかかるが、どっちみち田沼意次なんどの、掣肘を受けるお方ではなく、桑名侯松平越中守様とは、日頃から懇親気心も合い、暗々裡に通ずる点あるとのこと。で本丸に直られたら、越中守様田沼に代わり、ご老中筆頭になられるは必定。と、お政治が正しくなる、いくらか世間がくらしよくなる。……ところでそうなると田沼めは、いよいよ手も足も出ないことになる。そこでどうやら田沼めは、将軍家ご他界の一刹那に、武力弾圧(クーデター)をやるらしいのじゃ」
「…………」
「そうして彼自身偽造の遺言──将軍様ご遺言をふりかざし、西丸様を弾劾し、京師五摂家の公達一人を奉戴して十一代将軍とし、自身は大老となる心算とか。……越中守様そう申されたよ」
「とするとあたかも北条氏が、源氏の子孫を根絶やしとし、公卿の子息を将軍に立て、自身執権となりましたと同断! ……」
「その通りじゃ。それをやる気なのじゃ」
「恐ろしき陰謀にござりまするな」
「その陰謀をさまたげるには、真の将軍家のご遺言状を、こっちの手へしかと納めねばならぬ」
「その遺言状は狂女お浦が……」
「持っていると十二神貝十郎がいった」
「諸角覚蔵方内土蔵の中で、さようたしかに申しました」
「今の将軍様のご病体では、もはや新たに遺言状は書けぬ。お浦の持っている遺言状、これが唯一のものとなった」
「田沼、お浦を手に入れましたら?」
「お浦は殺戮、遺言状は破毀じゃ!」
「おそらくさようでござりましょう。……遺憾ながらそのお浦は……」
「うむ、車塚の乱闘の際、悪侍臼杵九十郎めに、奪われ連れ去られ行方不明……」
「それにいたしましてもあの際あの場所に、九十郎、お浦、服部範之丞殿、妹ご織江殿までおられましたは、何んとも不思議にござります」
「服部範之丞、妹ともども、復讐の旅に出たことは承知、思うにあの時九十郎めを、探しあて討とうとしたのであろうよ」
「貝十郎のとったあの時の処置、殿には何んと思し召しますか?」
「アッハハハ」と冬次郎は、むしろ心地よげに朗らかに笑った。
「ああまで見事に捌かれては、敵ながらも天晴れと貝十郎を、わしは褒めたくなったくらいだ」
「御意、わたくしもでござります」と、熊太郎も微笑した。「弓鉄砲で囲まれて、しかも慇懃丁寧に、領地境いまで送られて、これにてご免と申されました際には、何んともいえぬ変な気持ちに、アッハハハなりましてござる」
久しい以前からこの二人を、頬冠りをした職人風の男が、ひそかに尾行けて歩いて来たが、この時やはり微笑した。同心の白須源吾であった。
「ご覧」と冬次郎は熊太郎へいった、「うちこわしの大衆、次第次第に、稲荷堀の方へ向かうではないか。……田沼の下屋敷へ向かわせているのじゃ。外伝、新助、勘助の手合いが」
「それも殿のご命令で?」
「うむ」と冬次郎は頷いた。「そうせよとわしが命じたのじゃ。田沼の下屋敷を破壊せよと! ……かりにも老中の下屋敷が、市民によって破壊されたとあっては、名聞としても田沼意次、地位にいることは出来まいからな」
「ごもっともにござりまする」
暴徒の数はいよいよ増した。一所では富豪の家の、閉ざされた門に大八車を寄せ、それを足場に門内へ入り、内側から門を破るものがあった。一所では米屋を襲い、運び出した米俵を大道へ積み、各自担ぎ去るにまかせていた。
群衆にまじってお吉がいた。範之丞もい織江もい、貝十郎さえ雑っていた。各自が相手を知らなかった。いつの間にか群衆に捲き込まれ、人の渦から遁がれようとしながら、容易に遁がれることが出来ず、押され揉まれ追い立てられ、群衆の潮の流れる方へ、自然と流れて行くのであった。
その人の波を分けながら、白須源吾は冬次郎たちから分れ、貝十郎に逢おうものと、あてなしに探し泳いでいた。
でもとうとう探しあてた。
「十二神様」と言葉せわしくいった。「冬次郎様、戸ヶ崎氏、暴徒に雑りおりまする。わたくし後つけ話しききましたところ、今回のうちこわしの元兇こそ、冬次郎様にござりますよし。それにこれよりこの暴徒を、田沼様下屋敷へ徐々に導き……」
「ナニ⁉」と貝十郎は声をはずませた。「この暴徒を田沼様の?」
「はい、稲荷堀の下屋敷へ導き、破壊させます計画とのこと!」
「一大事!」と貝十郎は呻った。
「それこそ田沼様不面目! いや個人の面目でない! 老中としての不面目! いや中央に政とるものの……閣老一体の不面目じゃ! ……やらせてなろうか、白須氏ござれ!」
いう間ももどかしく貝十郎、群衆を掻き分け刎ね退け蹴退け、稲荷堀の方へ走り出した。
稲荷堀の田沼の下屋敷。──
その宏大な屋敷の外の、土塀に沿って先刻から、二人の人影が動いていた。
臼杵九十郎とお浦とであった。
(田沼様に直々逢い、お浦をかせに強談し、ふたたび禄をいただくか。そうでなかったら大金を──。)
こう思って来たのであった。
田沼様が以前からこのお浦を、自分の私生活の秘密を知り、世間にいいふらす悪女として、手にかけ殺そうとしていることを、九十郎は知っていた。だからこそ以前にはこのお浦を、下谷の妾宅の隣家にかくまい、ひそかに扶養したことがあった。そのお浦と意外も意外、車塚で逢った。そこでああいう危険の際ながら、後日の用に役立てようと、大胆にも奪って逃げたのであった。その後九十郎は江戸へはいった。このお浦さえ抑えていたなら、田沼様といえども憚って、左右なく自分を討ちもせず、縛めとるようなこともあるまいと、そう思ったからであった。その後に至って九十郎、一層大胆の心持ちとなって、このお浦をかせにして、田沼様から禄を食もう、でなかったら大金をと、そんなように思うようになったのであった。
「お浦、上様に逢わせてやるぞ。恋しい恋しい上様に」
土塀を見上げ越す個所はないかと、そう思いながら九十郎は、お浦へは賺すようにそういった。
上様に逢わせようといいさえすれば、いつまでも穏しいお浦だからであった。
もちろん九十郎はお浦に対し、どうしてあのような車塚などにいたのかと、不思議に思って幾度か訊いたが、上様に関すること以外は、何を訊いても返辞をしない、狂女お浦はそれに対して、ほとんど一言も答えなかった。
で、事情は解らなかった。
事情が解らないということになれば、あの時十二神貝十郎たちや、松平冬次郎たちの現われたことも、九十郎には解らなかった。
ただしお吉と範之丞とが、あの際あそこにいたことについては、闘いの間に範之丞が、猛り喋舌った言葉によって、あらかたのところわかったが。
そうして彼は妾であったお吉が、敵である範之丞とちぎったことを知り、怒りと嫉妬とを烈しく感じ、今も感じているのであった。
(親の敵と範之丞が、今後俺を狙うなら、俺は女敵として範之丞を将来狙って討ってやろう!)
こう思ってさえいるのであった。
(敵討ちなら相身互いだ!)
この感情が一面において、範之丞兄妹も帰っているらしいこの江戸の地へ彼自身、大胆に入り込んだ原因でもあった。
そうして彼は今日まで、あべこべに範之丞を討ち取ってやろうと、服部家の様子を窺いさえした。
その結果たしかに範之丞も織江も、家に帰っていることと、世間を憚りほとんど絶対に、外出しないことを知った。
(この方はゆっくりでいい。緊急を要するのは食うことだ)
江戸へはいっても仕官は出来ず、町道場をひらくことも、寺小屋らしいものをひらくことも、手蔓と金とがなかったので、実行することは出来なかった。強請かたりに似たようなことを、二、三の悪友と組んでやって、今日まで食いつないで来たのであったが、それも最近いきついてしまった。やぶれかぶれのクソ度胸! それでいよいよお浦をかせに、田沼様に強談しようものと、このうちこわしの夜に出て来たのであった。
(衆怨の府の田沼様だ、こういううちこわしのある夜などは、どこへも出ずに屋敷にいて、多少恐怖も感じていよう。そこを狙って……)と出て来たのであった。
旧田沼様の家臣の彼は、下屋敷の案内も知っていた。
(この辺がよかろう)と土塀の上を睨んだ。植え込みが内側から枝を差し出し、その影で土塀は暗かった。お浦を小脇に抱え込み、土塀にピッタリ寄ったと見るや、武術には無双に精妙の彼、軽々と土塀の頂きまで飛び、一瞬内側を見下ろしたが、ヒラリとばかりに飛び下りた。
佇んで様子を窺った。
それから先へソロソロと進んだ。
(阿蘭陀物で飾られた、いつものお部屋にいることであろう)
こう思って九十郎はそっちへ進んだ。
森閑として人気なく、幾棟か立っている高楼や、それを繋いでいる幾筋かの廊下や、それを囲繞した植え込みや、その間にともされた石燈籠や、泉水や築山や亭や橋や──下屋敷の様は昔のままであった。
長い広い廊下によって、主屋と繋がれてはいたけれど、全く独立して立っている建物、外構えは純然たる和風ではあったが、内部の装飾は阿蘭陀渡りの、珍奇の品によってなされているところの、一宇の建物が八月二十七日の、星空の下に立っていた。
その前まで来た九十郎は、しばらく佇んで様子を窺った。
その建物の阿蘭陀部屋の中に、田沼意次と貝十郎とがいた。
「……そうか、うちこわしの暴徒どもが、わしのこの屋敷へ寄せて来るというのか。うむ、そうして破壊しようというのか。……ハッハッハッ、任せて置け」
たった今貝十郎が駆けつけて来て、そういう事情を話したのを、耳に入れた田沼意次としては──剛愎我慢の意次としては、何という捨て鉢の言葉であろう。そうして何んという容貌であろう。眼落ち窪み唇わななき、頬も一時にこけたようであり、顔色などは蒼白ではないか。
これには貝十郎も気を呑まれ、案外の思いをしたようであった。
「ふむ」と意次はいいつづけた。
「その煽動者が冬次郎⁉ ふむ、そうか、冬次郎か! ……彼奴の父親右近将監めは、生前俺を抑えつけ眼の上の瘤となしていたが、その忰の青二才めが、今度はわしに楯つくものと見える! ……計画的だな、一切のことが! ……田安、一ツ橋、清水の三卿、保科、桑名の親藩輩が、結託してわしを陥穽したが、冬次郎めも一味だな! ……柳営と民間と呼応して、今日の計画にしおったのだな!」
「殿」と貝十郎はいぶかしそうにいった。
「本日何事かござりましたので?」
「…………」
意次は答えようとはしなかった。が、その顔には例えようのない、怒りと苦痛とが現われていた。
逃げ水屋敷の阿蘭陀風の部屋と、ほとんどそっくりの部屋であった。
毛皮をかけた長椅子があり、それに意次は倚っていた。白堊の天井からは錨型の、シャンデリアが無数の蝋燭を持ち、それへ悉く燈をともし、卓の上にあるウェールガラス(天候験器)や、ドンクルカームル(写真鏡)やトーフルランターソン(現妖鏡)など、舶来の珍器や壁にかけてある異国風景の油絵などを、華やかに輝かせて釣り下がっていた。
「旅へ出たことが失敗だったのだ!」突然意次はいまいましそうにいった。「なまじ小諸の牧野の城で百姓ばらの一揆を見、惻隠の心を起こしたのが、今日の失脚の原因だったのだ!」
「殿、失脚と仰せられまするは?」もしやと思って貝十郎は訊いた。
意次はそれには答えずにいった。
「この江戸の地へ帰って来ても、その惻隠の心持ちが、弱気となってわしを支配し、最初の計画を掣肘し──自分自身掣肘し、ああでもあるまいこうでもあるまいかと、躊躇逡巡右顧左眄、仏心を出している間に、彼奴らいわば長袖者流、結託なして余を弾劾!」
「弾劾? ははあ、ではいよいよ?」
「貝十郎!」と吼えるような声で、意次はいい歯を噛んだ。「余が旅へ出た真の目的、存じおるか⁉ 存じおるか⁉」
「は、おおよそは、おおよそは推し……」
「道中筋の諸大名や、甲府勤番支配達、余が腹心股肱のものと、膝を交えて懇談し、一大変がえいたす際、一気に断乎味方するよう! ……」
「一大変がえと仰せられまするは?」
「貝十郎!」とまた意次は、吼えるような烈しい声でいった。「外よりは異国の侵略の手延び、内には淫風頽風すさみ、経済困難いちじるしい今日、寄合合議の政事など、なまぬるく、力弱く話にならぬ! ……必要なのは鉄腕をもって、もっぱらに政事をとることじゃ! いっさいを独りで裁くことじゃ!」
「…………」
「が、それも夢となった。……」
意次は眼を垂れ憮然としていった。「今日お達しを受けたのじゃ、老中罷免のお達しをな」
「…………」チラリと意次の顔を見たままで、貝十郎は眼を垂れた。
(大樹は倒れた! 四方からの斧で!)
心でそう思って眼を垂れた。
(それにしても現金の人々ではあるぞ)
そう思わざるを得なかった。
(このような晩に、うちこわしの夜に、松本伊豆様や赤井越前様など、殿によって役づき世に出られた人々、馳せつけ参らぬはなぜだろうかと、心ひそかに不思議に思っていたが、殿のご老中罷免のこと、早くも知って来られぬと見える。……上流だけに現金ぶりが、下賤のものより甚だしいわえ)
意次の前に椅子に腰かけ、しばらくの間は何んともいわず、貝十郎は俯向いた眼で、床に敷いてある唐草模様の、マドリッド産らしい敷き物を見詰めた。
(老中の権職から離れては、四方敵の多いこの殿の、今後は不遇の連続であろうよ)こんなことも思われた。
「ナーニ、まだまだ大丈夫だ!」昂奮している意次は、椅子から立って部屋の中を、檻の豹のように歩き廻り出した。
「将軍様ご大病、命旦夕! ご他界は知れている! その際参殿、電光石火に、将軍様ご遺言を質として西丸様を斥け参らせ……」
「が、殿にはそのご遺言、お聞きおよびでござりまするかな?」
「…………」
「聞いた聞かぬは二の次とし、将軍様真筆のご遺言状、殿の御敵の桑名侯、松平越中守様のお手なんどに。………」
「何を莫迦な! 痴言申すな! 将軍様真筆の遺言状など、あるはずはなく、よしあるとも、何んの越中定信なんどの手に……」
「かくなりましては万事万端、申し上げまするでござりまするが、将軍様ご真筆のご遺言状、しかも殿にとり不利のお書き附け、将軍様よりご存知のお浦の手へ……」
「ナニお浦の手へ? ままごと狂女の?」
「御意、その手へ渡されました趣き!」
「いえ! 事情を! どういう訳だ!」
「逃げ水屋敷の乱闘の直前、殿よりのご命令ありましたので、わたくしお浦を将軍様お部屋へ、送り込みましてござりますが、その際将軍様ご真筆の、ご遺言状をお浦に渡し、直々松平越中守様へ、渡してくれよと御意ありました趣き、狂女ながらも誠心のお浦の、さまざまの挙動と言葉とによって、たしかめましてござります」
「わかる! 俺には! 遺言状の内容! ……西丸様を直そうとするのじゃ! うむ、十一代将軍家に!」
「おそらくさようでござりましょう」
「お浦はどうした⁉ お浦を殺せ! 遺言状を奪って破れ!」
「そのお浦儀行方不明……」
「探せ! すぐにじゃ、草を分けても!」
「奪い去りましたは臼杵九十郎!」
「ナニ九十郎が⁉ 彼奴をも探せ!」
「くわしきことを申し上げましても、詮ない次第後の祭り! ……どっちに致せその遺言状、廻り廻って越中守様の、お手に入らぬとも限られず……」
この時廊下を走って来る、人の足音が聞こえたが、白須源吾の声がいった。
「暴徒ら寄せましてござります」
門の方から喊声がきこえた。
「暴徒が寄せた⁉ おおそうか、門をひらいて招待しろ! 俺が行って門をひらいてやろう!」
やぶれかぶれの意次であった。
「殿、はしたのうござります」
と、引き止める貝十郎の手を振り払い、扉を排し廻廊へ出た。
と、あけられた扉の間から、パーッと射し出た燈火の光に、全身を明るく浮き出させ、男女が庭に立っていた。
「殿、九十郎にござりまする」
男の方がそういった。
「ナニ九十郎⁉ やア、やア、やア……まことに九十郎! これは何んと⁉」
意外も意外だった今しがた、探し出せといった臼杵九十郎が、自分の方から来たのであった。
「おお九十郎、九十郎、何んということだ、これは何んと⁉」
「不調法にて殿よりご勘気受け、爾来九十郎諸国を流浪し、つぶさに艱難いたしましたが、殿にとりまして必要の女、ままごと狂女お浦を伴い、これを功に帰参願いたく……」
「お浦⁉ お浦⁉ ままごと狂女のお浦⁉ ……やア、やア、やア、そこにいるはお浦か⁉ ……でかした! 九十郎! 帰参許す! ……貝十郎オーッ」
と嬉しさのあまり、意次は廻廊の板敷きの上で、躍り上がり躍り上がり、
「それそれお浦を、そちに預ける! ……例の将軍様のご遺言状を! ……吟味いたして取り上げよ! ……その上にてお浦を不愍ながら……」
一刀両断にする手真似をした。
「はっ」
というと貝十郎は、廻廊から庭へ飛び下りた。
「お浦!」
「お兄イ様アーッ、十二神のお兄イ様アーッ」
と、お浦は袂をひるがえし、走りよるとひしとばかりに、貝十郎へ抱きついた。
それを貝十郎は抱きしめ抱きしめ、
「よくぞ、無事で! ……それでもよくぞ! ……」
この間も表門の方角からは、門を叩く音、閧の声、罵声や怒声が聞こえて来た。
「九十郎」
と意次は憎々しく、その物音の方を睨んだが、
「帰参の手始めに、そち二、三人暴徒の輩たたっ斬れ!」
一揖した九十郎が裾たくし上げ、刀の鯉口くつろげて、表門の方へ走って行く姿が、星空の下に魔物めいて見えた。
それを見送った田沼意次、
「貝十郎」
と忍び音に、しかし陰々とした鬼気ある声で、
「お浦を殺せ! いっそ今!」
「…………」
お浦の肩へ両手をかけ、かばうがように引き寄せながら、貝十郎はものもいわず、意次の顔を凝視した。
「お浦が隠し持っているという、将軍様よりのご遺言状、余にとって不利の品なること、いわずと知れて明らかじゃ。冬次郎の手や越中の手などへ、渡ればこそ恐ろしい。闇から闇へ葬って、湮滅さすれば何より簡単。……それにはお浦を亡き者にし、一切の証跡消すに如くはない。……お浦を殺せ、即座に殺せ!」
貝十郎否といわば、自身手を下して殺すとばかり、そういうと意次は佩刀へ手をかけ、廻廊からユラリと庭へ下り立ち、お浦の方へ刻み足して進んだ。
「否か! いやなら俺が斬る!」
抜かれた刀身が一瞬光った。
「なりますまい」
と貝十郎はいった。
断乎とした声であった。
「お浦は狂女、正体なきもの、虫けらと同じにござります。虫けらを殺すはあまりに殺生、殿、ご寛大になさりませ!」
「黙れ! ならぬ!」
と威猛高に、意次は抜き身をふり冠った。
「大事の前の小殺生、それが何んだ、かまわぬかまわぬ! ……またもお浦をとり逃がし、冬次郎なんどの手に入らば、一切計画画餅となる! ……殺す、斬る、息の根止める! ……放せお浦を、放せ放せ! ……放さぬとなら汝ともども!」
流星! 一刀、斬りつけた。
それをかわした貝十郎、お浦を背後に身をもって蔽い、
「殿、ご老中罷免の今日、申すはいかがと存じまするが、殿のご施政ご方針も、一段落と思し召し、爾後は天命に安んじられ、人為的の小策なんど、もはやお弄し遊ばさぬよう、貝十郎押し切って申し上げまする。……それ政治の則るところは、天の意にござりまする。……天の意いまだその人にあれば、群小徒輩鳴蝉するとも、その人の権勢衰えず、施政おおよそ行われまする。……これに反して天の意去れば、その人の威自然と衰え、施すところ行われませぬ。……殿のご老中をやめられましたは、天の意殿より去りし証拠、されば天意に逆らって、独裁専制の変がえなんど、よしんばご断行なされようとも、行われざるは火をみるよりも明らか、殿は本来腕のお方、進取開放の実行者、その殿長らく柳営にこれあり、施政おおよそ行われました。しからば今後はおもんみるに、腕にはあらで人格をもって、進取開放とは反対に、国粋保守の政治を行う、さようの人をこそ翹望するものと、愚考いたされまするでござります。……桑名侯松平越中守様、まことに、いかさま、このお方など、いわば聖賢明哲の仁、殿に代わって執政たらば、天下小康を得ましょうか。……殿、天命に安んじられませ! ……やあ方々、殿の御身に、微恙あっても申し訳なし、手揃えご介抱ご介抱!」
声に応じてその時まで、どうなることかと周章狼狽、なすところなく立ち縮んでいた、白須源吾をはじめとし、十数人の意次の家臣ら、一時に群立ち両手を拡げ、意次を中に輪のように囲み、
「殿、はしたのうござりまする」
「まずお静まりなさりませ」
と、貝十郎との中を駈けへだてた。
その間に貝十郎はお浦を伴い、表門の方へ徐々に退いた。
その表門の門外には、うちこわしの暴徒雲集し、怒号し罵詈しひしめいていた。
門扉を打つもの礎石を蹴るもの、丸太で土塀をえぐるものもあった。
この群衆の波に巻かれ、流されるともなく流されて、範之丞と織江とがそこまで来ていた。
さすがに自分では手は出さず、さりながら群衆のやり口に、多分の快味を感じながら、兄妹は並んで眺めていた。
と、眼の前の大門が、突然内部から開けられた。
と、思う間もあらばこそであった。二、三人の暴徒が悲鳴をあげ、朱に染まって地に倒れた。
「斬って出たぞーッ」
「田沼の手のものだーッ」
パーッと群衆は後へ退いた。
はたして一個の壮漢が、血刀を揮って躍り出た。
「九十郎だッ」
とそれを見ると、思わず範之丞は声をあげた。
躍り出た壮漢は九十郎であった。
「妹よ掛かれーッ」
と声をかけ、範之丞は斬り込んだ。
「お父様の敵イーッ」
とつづいて織江も、懐刀抜いて飛びかかった。
飛びちがった九十郎、刀を上段にふり冠ったまま、
「おお服部兄妹か、これで四度目、また逢ったなあ。……敵呼ばわりしゃらくさいわい! ……汝範之丞乱倫卑怯、俺の妾お吉を取りおったな! ……こうなりゃアこっちが女敵討ち、恨みは五分五分勝負は対等、ひけめはねえ、討たれるものかあーッ、……ましてや功あって田沼様に、帰参ととのった九十郎、つよオい楯がうしろにある! ご老中様が後ろ楯だアー、討たれるどころか返り討ちだアーッ! ハッ、ハッ、ハッ、返り討ちだアーッ!」
左を睨み右を睨み、グッグッと兄妹を圧迫し出した。
湧き立つのは群衆で、
「敵討ちだとよ」
「さあ事だ」
「静まれ静まれ」
「見ていろ見ていろ」
遠巻きにして見物し出した。
今は必死の服部兄妹、逃げ水屋敷では討ちもらし、諏訪湖畔では逆にやられ、車塚では逃げ失せられ、討つべき機会を三度ながら、取り逃がした上に千辛万苦、もしまたここで取り逃がしたならば、田沼様に帰参した彼だという、いよいよ討ちがたい敵となろう。おのれヤレどうあろうと今回こそはと、急き立つ心、湧く血潮! がいかんせん技量の相違、例によって次第に詰められ追われ、兄妹ながら退く退く!
「妹よ左から」
「兄上右から!」
「背後へ廻れ」
と声かけ合わせ、切っ先揃えて向かうものの、今はその太刀もしどろに乱れ、踏む足さえも覚束ない。
(衆人の見る前、よーし、こいつで!)
足を薙ぐの例の悪剣! こいつでバラバラ斬り落とそうと、臼杵九十郎肩を沈め、両手を下げて握った刀の、柄頭を膝へ引き附けたとたん、
「九十郎殿オーッ」
と群衆の中から、血を吐くような声が聞こえ、女が鞠のように飛び出して来、踏み出した九十郎の足へ縋った。
「わりゃアお吉! 退け退けお吉イーッ」
飛び出して来た女は群衆にまじって、うかうかここまで来たお吉であった。
「この足放さぬ、討たれてくだされ! ……私も死にます! ……すぐに後から! ……範之丞様、範之丞様、さあこの間に、本望とげて! ……」
「姦婦!」
怒声!
瞬間一閃!
「ヒエーッ」
左肩から胸まで割られた。
地に倒れてノタウチ廻る。お吉は無残唐紅!
その余勢で九十郎、血刀揮い範之丞眼がけ……
が、一刹那群衆の中から、
「戸ヶ崎やれ! 兄妹の後見!」
この冬次郎の声に応じ、走り出した戸ヶ崎熊太郎、無双の剣豪刀も抜かず、さながら矢のように九十郎の背後から逼り前へ抜けたが、擦れ違いざまの居合いの抜き討ち!
「わ、わ、わ、わ、わーッ」
鐘のような吼え声!
見よ九十郎の右の腕、肘から斬って落とされていた。
「いざ服部ご兄妹!」
飛びかかる兄妹の姿が見えた。
範之丞によって真っ向を斬られ、織江によって胸を突かれ、九十郎は地に倒れた。
「とどめを」
という熊太郎の声に、範之丞は勇躍し、九十郎の体に馬乗りとなるや、
「父上の怨みいまぞ晴らす、九十郎思い知ったか」
顳顬へプッツリとどめを刺した。
「妹よ、そなたも」
「あい」
と織江も、同じところへ一刀刺したが、心ゆるんだためであろう、そのままグタグタと地へ倒れた。
「勘助、織江殿を介抱せい」
群衆を分けて冬次郎が、この時姿を現わしたが、そう勘助へ声をかけた。
女勘助は町娘姿、振り袖をひらめかすと走り寄り、織江を抱き起こし膝へのせた。
この間も片息でなお地面を、お吉は這い廻り悶えていたが、
「九十郎殿……死なれたか……死なれたそうな。私も死にます。……範之丞様、範之丞様!」
声に気がつき範之丞は、刀投げすて走り寄り、ひしとお吉を抱きかかえた。
「お吉殿オーッ」
と断腸の声!
涙の熱湯を顔へかけた。
「あッ、あッ、あッ、範之丞様アーッ……お吉は死にます、これでこそ本望! ……九十郎様の刀に斬られ……ア、あなた様に、カ、介抱! ……介抱受けて死ぬこそ本望! ……夢を見ました、苦しーイ夢を! ……今も夢か? いえ、いえ、いえ! ……今こそ現実……その後は闇! ……闇の墓場で、墓場の蔭で……あなた様のご出世見守りまする! ……お吉は死にます……ホ、本望! ……」
恋しい範之丞の腕の中で、息絶えたお吉の死に顔が、範之丞の涙にビッショリ濡れて、蒼くはかなく浮かんで見えた。
連続した凄惨たる出来事に、群衆はことごとく胆を冷やし、言葉も出さず見守っている。
その静寂の気を破って、田沼屋敷の大門が、また内部からひらく音がし、お浦の手を曳いた貝十郎がツカツカと門外へ姿をあらわした。
二つの死骸へ眼をつけると、さすがに驚いた様子を見せたが、すぐに大音に群衆へいった。
「やアやア汝ら不届き者め、諸物価騰貴し生活困難、お政治向きに不服あらば、現職の方々のお上屋敷へ、嘆願状など差し出すべきが至当、しかるを何んぞや今日限り、ご老中を退かれし田沼様の、下屋敷なんどに取り詰めて、乱暴狼藉なそうとは! ……立ち去れ立ち去れ即刻立ち去れ」
群衆は口々に喚き出した。
「田沼様ご老中を退かれたとよ」
「それじゃアこれから世は直るぞ」
「非職の田沼にゃア用はねえ、ひきあげようぜ、行こう行こう」
次第に潮の退くように、うちこわしの暴徒たちは引き上げて行った。
「貝十郎」
と声をかけ、冬次郎は二、三歩前へ出た。
「田沼老中を退いたという、今の言葉真実か?」
審しそうにそういった。
「これはこれは冬次郎様、佐久以来久々の拝顔、ご健勝にて大慶至極」
「余事は申すな、何を空々しく。……確かめたきは今の言葉……」
「貝十郎虚言を申しませぬ。今日限り田沼様には、ご老中ご罷免となられました」
「数日中とは思ったが、さても急な、今日であったか」
いいいいお浦へ眼をつけた。
(車塚の乱闘の際、九十郎によって奪い去られた、ままごと狂女のお浦がいる。さては九十郎お浦を連れて、田沼方へ帰参したものらしい。そのお浦だが後継者に関する、将軍様遺言状を持っているはずじゃ。田沼失脚したとはいえ、将軍様遺言状を手に入れ置かねば、絶対安全ということは出来ぬ。……お浦を捕える手段はないか?)
冬次郎は焦慮した。
と、その時女勘助によって、介抱されていた服部織江は、ようやく元気を回復したが、見れば車塚の廃屋で、自分の危難を助けてくれた、お浦が門際に立っていた。
「おおおお、お浦様!」
と懐かしさに呼び、思わずそっちへ走り寄ろうとした。
するとお浦も優しい人として、記憶に残っていた織江の姿を、トロンとした眼にも認めたらしい。貝十郎の手をふり切ると、
「織江お姉様アーッ」
と呼びながら、織江の方へ走り寄った。
素早く見てとった冬次郎、
「外伝、新助、ソレお浦を!」
声に応じて走り出た二人、お浦に飛びかかると引っ担ぎ、まだ散り残り入り乱れている、うちこわしの暴徒の群衆の中へ、さながら韋駄天走り込んだ。
「南無三!」
しかし貝十郎も敏捷、飛びかかると織江を引っとらえ、門内へ駈け込むと大音声、
「門とじめされ! ……用意の武器を!」
間髪を入れず大門とざされ、閂のはいる音聞こえ、すぐに土塀越しに高張り提灯、抜き身の槍、薙刀ばかりか、火縄に火入れし鉄砲十数挺、威嚇的に差し出された。
「妹ヨーッ」
と範之丞、仰天して門へ走り寄り、扉にとりつき声をしぼった。
「お兄イ様アーッ」
と織江の声、門の内より応じて悲しい。……
「卑怯、おのれ、貝十郎オーッ」
「冬次郎様、卑怯は相互……ことごとく対等にござりまする!」
「織江をとらえ、ナ、何する気ぞ⁉」
「お浦をとらえて、何するご所存⁉」
「持ったる将軍様お書き附けを……」
「それ取られましては田沼主殿頭様、立つ瀬ござなくいよいよ不利!」
「それにいたしても織江なんどを?」
「織江殿こそはかつて田沼様、想いを懸けました婦人でござれば……」
「すりゃ田沼に! 汝が汝が!」
「心慰さまぬ田沼様へ、犠牲として差し出し伽いたさせ!」
「穢らわしや貝十郎、おのれ鬼畜!」
「今宵一夜は貝十郎、織江殿の清浄保たせましょう。……その間にお浦をお返しくださらば、処女のままにてご返上! ……今宵過ぎればもはや織江殿……」
「待て待て返す、お浦は返す! ……今宵の内に、返す返す! ……それにいたしても汝という奴!」
「大友ノ黒主にござりまする」
「何を虚言! 何を莫迦め!」
「小町に草紙洗わせましてござる」
「…………」
「殿、……小町と……おなりなさりませ」
「…………」
「妹ヨーッ」
「お兄イ様アーッ」
お浦を担いで走って行く、新助と外伝との行手にあたり、一人の男が現われたが、不意に地面へ身を伏せた。
地に伏した男は十手を抜くと、ダッと外伝の足を払った。
「わッ」
外伝が倒れたとともに、後からお浦の足を担いで、つづいて走って来た新助も倒れた。
投げ出されたお浦はそのとたんに飛び起き、冬次郎の隠れ家にあまり遠くない、ここ下谷の裏町の、露路を一方へ逃げ出した。
「どいつだ、野郎!」
と怒った新助、飛び起きると男へ武者ぶりついた。
男はすでに立ち上がっていたが、無言で、十手で新助の脾腹を、一突き突いて他愛なく倒し、逃げて行くお浦の後を追った。
市中のうちこわしの様子を見るべく、白須源吾とともども出て来た、同心の桐島伴作であり、来かかって見れば外伝、新助が、お浦を担いで走って行く。
(十二神様さがしておられたお浦だ。ヨーシこっちへ奪ってやろう)そこで起こした行動であった。
逃げて行くお浦、追って行く伴作。
裏町の露路は縦横であった。
(草紙洗い小町、小町になれという?)
(いったいどういう意味なのであろう?)
冬次郎は思案しいしい、熊太郎は範之丞へ附けてやった、自分は勘助一人をつれて、隠れ家の方へ歩いていた。
(どっちにいたせ屋敷へ帰り、外伝、新助が連れ帰ったであろう、ままごと狂女を残念ながら、駕籠にでものせて今夜のうちに、貝十郎のもとへかえさねばならぬ……でなかろうものなら孝女烈婦の、織江の体に間違いが起こる)
もちろんお浦の隠し持っている、将軍様ご真筆の遺言状を、手に入れたくは思うのであったが、さりとてそれを手に入れるためと、お浦を無理に抑留し、千辛万苦して親の敵を討った、処女の織江の肉体を、田沼ごときに穢されることを、黙視することは出来なかった。一刻も早く屋敷へ帰り、一刻も早くお浦を返し、織江をこっちへ引き取らねばならぬ。
それにしても思慮緻密、一言半句もゆるがせにせざる、十二神貝十郎が最後にいった言葉が、心にかかってならないのであった。
(草紙洗い小町、小町になれ? ……あの時の小町は草紙を洗った。俺に草紙を洗えというのか? ……草紙? 草紙? 草紙とは何か? ……草紙とお浦との関係は? 草紙? 草紙? 草紙とは何か? ……草紙は紙だ! 紙? 紙? 紙? 紙? 紙? 紙⁉)
にわかに冬次郎は眼を据えた。
「そうか! わかった! そうだったか!」
声に出して思わず叫んだが、
「急げ! 勘助! 謎は解けた!」
しかし例の隠れ家の、茶ノ湯の宗匠でも住みそうな、風雅の屋敷へ帰って来た時、彼を待ちかまえていたものといえば、お浦ではなくてそのお浦を、紛失させたという驚くべき、外伝と新助との報告であった。
さすがの冬次郎も胆を冷やした。
(お浦紛失、行方不明、何者かに奪われたという! では貝十郎へ返すことが出来ない! では織江の肉体は⁉)
「探せ、八方、江戸中を!」
地団駄を踏んで叫んだが、八百八町の江戸は広い、今夜中にお浦を探すことなど……
(どうしたらよかろう? どうしたものだ⁉)
田沼意次は阿蘭陀部屋にいた。お浦を討って取ろうとしたのを、貝十郎の命により、白須源吾や田沼の家臣が、遮り制し無理になだめ、この部屋へ連れて来たのであった。
昂奮して椅子にかけ、血走った眼で四辺を睨み、何か口の中で呟いていた。
老中失脚が彼にとっては、まことに限りない失望であり、また限りない恐怖であった。
自分に敵の多いことは、彼といえども知っていた。
老中を失脚しようものなら、おそらくその敵が次から次と、自分に対して圧迫の手と、迫害の手とを加うるであろう。──ということも知っていた。
それが彼には不安であった。
そればかりでなく彼としては、将軍家薨去の直後において、京師の公卿の公達を迎え、立てて十一代の将軍とし、自身大老の職につき、積極政策、開放主義を、武断的に独力専行し、行き詰まっている日本現在の、国防、経済、風紀その他を、立て直そうとこればかりは本気に、計画をして来たことが、老中失脚の一事によって、画餅に帰してしまったことが、心外に思われてならないのであった。
(どうあろうと機を見て盛り返し、もう一度老中の職につき、自己の計画を実行しなければ!)
それには瀕死の家治将軍が、今日明日にも他界しよう、その時突如参殿して、将軍家生前自分に対して、かくかくのご遺言あったといい立て、それをあくまでも主張した上、いまだに要路に就任している自己腹心の人々をして、この説に是が非でも賛成させ、野望をとげるより策はなかった。
それにはお浦が持っているという、将軍家直筆の遺言状を、敵方の手に取られぬ先に、こっちの手に入れ破棄しないことには、一切の計画齟齬するであろう。
が、幸い九十郎が、そのお浦をひき連れて、今夜帰参を願い出た。
何んという幸運、何んという天佑! これによって見ればこの意次の運命、意外に今後開くやもしれない! それにしても早く遺言状を、お浦の手から賺し取り、破棄し消滅させなければならない。
(しかるを何んぞやあの貝十郎、お浦をかばい余が手に渡さぬ!)
地団駄踏みたい心持ちであった。
とはいえ貝十郎とてこっちの味方、自分がお浦を手にかけて、性急に殺そうとしたればこそ、お浦を娘のように愛している彼が、頑強に拒絶をしたまでに過ぎない。やがては貝十郎自分自身、お浦の手から遺言状を取り上げ、こっちへ渡すに相違ない。
──こう思えば意次はやはり幸運が、いまだに自分から立ち去らないように、そんなように思われてならないのであった。
うちこわしの大衆の喚く声々が、表門の方から潮流のように、騒がしく遠々しく聞こえて来た。
と、その時あわただしく、用人の各務九郎次が、扉を排してはいって来た。
「殿一大事にござります!」
「…………」
意次は睨むように見たばかりであった。
「十二神貝十郎お浦めを! ……」
「何⁉」
と意次は毛皮のかかった、長椅子から思わず立ち上がった。
「松平冬次郎配下とか申す、二人の無頼漢にお浦めを、奪い去られましてござります!」
呻きともつかず吼え声ともつかない、怒りと苦痛とを一緒にしたような、異様な声を出したかと思うと、意次は用人九郎次を突きのけ、部屋から外へ躍り出し、廻廊から庭へ飛び下りるや、表門の方へ走って行った。
と、一人の女を連れて、貝十郎が行手から、こっちへ歩いて来る姿が見えた。
屋内から射している燈の光で、その女の姿は見えたが、それは見ず知らずの女であり、ままごと狂女のお浦ではなかった。
「貝十郎オーッ」
と意次は、刀へ手をかけ吼えるように叫んだ。
「お浦はどうした⁉ いかがいたした⁉」
「や、殿!」
と思わずいい、貝十郎は足を停め、連れている織江を背後にかばい、当惑したような様子を見せた。
「冬次郎の配下に奪われたと、たった今しがた注進があった。事実お浦奪われたか⁉」
「門外において奪われました」
貝十郎は率直にいったが、その声には恐怖も狼狽もなく、何らかを信じているような、泰然としたところさえあった。
が、意次にはそれがかえって、図々しく太々しく思われた。
「汝が汝が貝十郎! お浦がいかに大切かを、知悉しいながら奪われて……しかも敵手の冬次郎の手に、この門前において奪われて、恥じ入らぬばかりか横柄の態度! ……さては汝この意次の失脚失意の境遇を見て、心変りしたな不忠の姦物!」
刀に反を烈しくうたせ、足先で地を噛みジリジリと進んだ。
「お浦こそ冬次郎様に奪われましたが、その代わりといたしまして、これなる婦人を手に入れましたれば、勝負は五分五分にござります」
いいいい貝十郎は顎をしゃくり、織江を意次へ意識させた。
「代わりの女? その女何者?」
「殿におかれましても姓名はご存知の、服部織江にござります」
「服部織江? 服部織江?」
意次は記憶を呼び戻そうと、瞬間小首を傾むけた。
「松平越中守様ご家臣の、服部石見殿の娘ごの……」
「おおそうか! その織江か!」
「その織江殿ご門前において、兄ご、服部範之丞殿共々、父上の敵臼杵九十郎を……」
「ナニ、臼杵九十郎を?」
「討ち取りましてめでたく復讐!」
「やア、すりゃ、九十郎は服部兄妹に……」
「討ち取られましてござります。……その混乱のドサクサまぎれに、うちこわしの暴徒を指揮しながら、ご門前まで参りましたところの、松平冬次郎様配下に命じ、狂女お浦を奪いましたにより、私即座に織江殿を奪い、門内に入りましてござります」
「…………」
意次は凝然と織江を見詰めた。
松本伊豆守が賄賂として、駕籠に乗せて自分へ進物にした、その織江がこの女か? 中途で隅田で冬次郎のために、奪い去られたと聞いた時、残り惜しいような気がしたが、その織江がこの女か!
見ればなるほど美しい!
烈女型の武家の処女の美点! それをことごとく備えている!
それが捕えられて眼の前にいる!
意次の慾望は燃え上がった。
意次は四辺を見廻した。
今は暴徒も立ち去ったからか、弓鉄砲もて表門の辺を、警護している家臣達の、その大半が引きあげて来て、意次と貝十郎との問答を、不安そうに遠巻きにして眺めていた。
「やア汝ら!」
と意次は叫んだ。
「その女を貝十郎より引き放し、阿蘭陀部屋へ閉じこめよ! 有無を申さば貝十郎を、飛び道具もて撃ってとれ」
瞬間貝十郎は弓鉄砲もて、意次の家臣たちに包囲され、織江も弓や鉄砲にかこまれ、貝十郎より引き放され、意次のもとへひっ立てられた。
と、見てとった貝十郎、意次に向かって大音に叫んだ。
「わたくし先刻冬次郎様へ、今夜のうちにままごと狂女、お浦を当方へひき渡さば、織江殿の貞操は穢されず、清浄のままにその身柄、貴殿へお渡しいたしましょうと、このように申しましてござります。その際冬次郎様言葉を強め、今宵のうちにお浦を渡そう、必ず織江は清浄のまま、返してくれよと申しました……殿、ご前、主殿頭様、煩悩のまま振る舞われ、織江殿にお手などつけましたら、殿にとりまして必要無二の、お書き附けを持った狂女お浦儀、お手に返らぬでござりましょう! 情慾を矯めて天下を取られるか、天下取りの大望棄てられて、一介の色餓鬼となられるか、人間真贋の岐路、ご熟慮あられい、ご熟慮なさりませ!」
いい捨て飛び道具に囲繞されたまま、表門の方へ歩いたが、(冬次郎様一党を、こんな具合に飛び道具で威嚇し、車塚の郷から他領へ送り、一種の痛快味を覚えたが、運命自分に巡り来て、今夜は自分がこんな塩梅に、田沼様にあつかわれて追い立てられる。アッハハハ変なものじゃ)と、心の隅でふと思った。
この夜もやがて更けまさった。
織江は一人阿蘭陀部屋にいた。
監禁されているのであった。
親の敵は首尾よく討った。それだのに討った直後において、自分の貞操を奪おうとする、田沼意次にとらえられ、このような一室に監禁され、今夜のうちに狂女お浦が、その田沼の手に返らぬものなら、事実自分は田沼によって……
とこう思うと織江はたまらなかった。(いつまで不幸は続くのだろう?)
とはいえ彼女は今夜のうちに、狂女お浦が冬次郎様の手から、田沼のもとへ返されて、代わりに自分は許されるものと、そんなように思われてならなかった。
(早くお浦様が返されるように、それまでは夜が明けぬように)
彼女は熱心にそう願った。
毛皮のかかっている長椅子の上へ、彼女は体を横たえて、シャンデリアの燈を眺めながら、クタクタに疲労れ極まっている体を、長く延ばして休ませた。
つい彼女はトロトロと眠った。
が、不意に眼をさました。
扉の錠を部屋の外から、音させるものがあるからであった。
扉があいて老人がはいって来た。
それは田沼意次であった。
「あッ」
と織江は声をあげた。
何がなしに意次の顔の表情に、恐ろしいものが見えたからである。
田沼は部屋の内側から、ふたたび扉へ鍵を下ろすと、振り返って織江を凝視した。
「織江殿」
とややあっていった。
「この老人を喜ばせてくだされ」
ソロリと一足前へ進んだ。
「アッ」
と織江はまた声をあげ、長椅子から飛び上がり身を固くした。
「不幸なわしじゃ、楽しみのないわしじゃ、この老人を喜ばせてくだされ」
意次はまたもソロリと進んだ。
「…………」
無言ではあったが織江は必死、身を守ろうと拳を固め、女豹のように構え込んだ。
老いても精悍の意次であった。そういう織江の態度を見ても、躊躇するような様子もなく、舌なめずりをしないばかりに、またソロリと進み寄った。
自暴自棄になっている意次であった。この欝積した心持ちを、何かによって晴らさないことには、いたたまれない意次であった。
そこへ織江が現われたのである。
いかさまこの女を自由にしたならば、報復として狂女お浦を、冬次郎は返してよこさないかもしれない。
それだからこそ阿蘭陀部屋の中へ、織江を一人で監禁し、自分は主屋の一室で、今まで考え込んでいたのであった。しかし彼はこう思った。
(狂女お浦を返したなら、清浄の織江をかえすという約束! ナーニお浦を連れ参らば、策を設けて奪い取り、犠牲にした織江をかえしたところで後の祭り、どうともなるまい)
(見ぬ前はそうとも思わなかったが、眼に見た織江の美しさ! 無垢、清浄、烈女型、真の処女の典型的の娘! それを目前に置きながら……)
(何かしら思い切った荒々しい所業を、断行しないことには欝積した心を、転換させること出来そうもない)
(ヨーシ、あの女を犠牲にして!)そこでこの部屋へ入り込んだのであった。
要するに一代の梟雄たる彼も、一時に寄せて来た今日の不幸に、精神乱れ思慮衰え、一個の小人となったのであった。
「織江殿」
とまたもソロリと、意次は足を進めたが、「そなたの美しさ、そなたの若さ、それで不幸のこの老人を、厭でもあろうが喜ばせてくだされ! ……いやいやいや、否やはいわせぬ! ……思い込んだことはこの意次、従来必ず通して参った! ……今も通す、通さでは置かぬ! ……鳥よ! アッハハハハ、可愛い色鳥! ……バタバタもがき羽搏いて、鶏冠嘴など怪我せぬよう! ……さあ穏しく巣に籠もれ!」
いいいい意次は両手を拡げ、情慾に眼を輝かせ、ジリジリと織江の方へ寄っていった。
扉も窓もとざされている。
泣いても叫んでも敵の館、助けに来るものはないだろう。
織江は絶体絶命となった。
椅子を楯にし、長椅子を柵にし、廻りつ逃げつ避けながら、遁がれ出るべき個所はないか、危難を突破する法はないかと、焦りもがき身を揉んだ。
「ご身分にお恥じなさりませ! かりにも天下の重きに置かれた、ご老中であられた田沼主殿頭様、この狼藉、この非道、お恥じなさりませ、お恥じなさりませ!」
逃げながら織江はたしなめたが、意次にとっては無痛痒らしく、
「憎まれ口も小鳥の囀り、意次むしろ可愛く思うぞ! ……ぬくめ鳥よ、さあ掴んだ!」
猛然と織江へ躍りかかった。
弓、鉄砲に囲まれて、田沼屋敷から追い立てられた、十二神貝十郎は苦笑しいしい、下谷の裏町を歩いていた。
(野望まだ棄てぬ田沼様じゃ、美しい織江を手に入れても、お浦と引き換えにせねばならぬと、こうハッキリ聞かされた以上、今宵一夜はおあずけを食った犬、まさかに手を出し食いもしまい)
そう思いながら歩いて行った。
(それにしても松平冬次郎様、草紙洗い小町の謎を解き、望みの品を手に入れた上、お浦を返してよこすであろうか? ……謎が解かれるか解かれないか、これには疑問あるにしても、お浦を今夜中にかえすこと、これには毫も疑いない)
そう思いながら歩いて行った。
裏町は暗く人通りなく、冬近い風ばかりが吹いていた。
と、人声が行手から聞こえた。
(はてな?)
と貝十郎は耳を澄ました。
(聞き覚えのある声ではあるぞ)
で、家の蔭へ身をひそめた。
そうとも知らぬ二人の男が、話しながら近寄って来た。
「雲を掴むような探しものさ」
それは外伝の声であった。
「八百八町広い江戸の、どこへ素ッ飛んで行ったものか、見当のつかないままごと狂女のお浦、そいつを今夜中に探して来い! ……この冬次郎様の無理難題、こいつにゃア全く弱らせられる)
これは新助の声であった。
「無理難題といったところで、元々俺らがやりそこなって、得体の知れねえ変な野郎に、十手でしたたか撲られた上、お浦を逃がされてしまったんだから、文句のいえた義理じゃアねえが、弱ったことには違えねえ」
「たしかこの辺でやられたんだな」
「そうだそうだこの辺だ」
この時貝十郎がヌッと出た。
「外伝、新助ちょっと待て!」
「や」
「へ」
二人ながら周章てた。
「その話真実か?」
「どなたで?」
「どいつだ?」
「貝十郎だ!」
「ワーイ」
「いけねえーッ」
「助け船だアーッ」
「逃げれば斬るぞ! ……訊くことは一つ! ……その男十手を持っていたというか?」
「へ、へい、お持ちでござりました」
「そうか。……ふうむ。……そうすると彼だな」
考えている貝十郎の、隙を狙って二人のワル、
「それ」
「逃げろ」
ワーイと逃げた。
追おうともせず貝十郎は、星空の下に佇んだが(お浦を二人より奪ったものの、十手を持っていたといえば、おそらく彼であるであろうが、千に一つ間違いあらば、お浦今夜中に帰って来ず、お浦今夜中に帰らずば、織江殿の身の上一大事! これはこうしてはいられない!)
身をひるがえすと貝十郎、田沼屋敷の方角へ、脱兎のごとく走り出した。
老いても強力の意次に、羽掻いじめとなった服部織江、長椅子の上に捻じ倒された瞬間、ピーンと幽かに音あって、扉の錠前おのずと外れ、扉一杯にひらかれた。
「おッ」
意次の驚いたところを、一突き突いてたじろがせ、織江は部屋から走り出た。
廻廊へ出た。
庭へ飛んだ。
木立の間に人影があった。
足踏みひらき、手は合掌、堤宝山流「十全」の構え! その貝十郎が立っていた。
「織江殿か」
「オ、十二神様アーッ」
「静かに! ……いざ!」
織江の体を、軽々と小脇にひっ抱え、木立をくぐり表門の方へ、貝十郎は矢のように走った。
「出合え! 曲者じゃ!」
と田沼の怒声!
諸方から走り出る家臣の姿。
が、貝十郎と織江との姿は、もう邸内には見えなかった。
「貝十郎だな! 汝が汝が!」
意次は廻廊で切歯した。
織江を連れて貝十郎は、八丁堀の自分の屋敷へ、その夜すぐに帰って来た。
と、同心の桐島伴作が、お浦を連れて迎えに出た。
「おおやはりな」
と貝十郎はいった。
「道にて新助、外伝と出あい……」
担いで行くお浦を奪い取ったと、伴作は事件の一部始終を話した。
「それはそれはお手柄でござった」
聞いてしまうとそういったが、しかし貝十郎は苦笑いをし、
「実はなお浦はそうでなくとも、今夜中に松平冬次郎様お手より、よこすことになっておったのじゃ……いや今頃冬次郎様、周章狼狽していることであろう。……よいわ、わしから安堵させてあげよう」
こういってからお浦へいった。
「疲労れたであろう、早くお休み」
お浦は間もなく寝につき、安心したと見えグッスリと眠った。
その間に貝十郎はお浦の髪を解いた。
思ったとおり髪の中に、将軍様ご真筆の遺言状が、油じめりで文字さえ薄れ、もみくちゃになりながら隠されていた。
(あらゆる個所をさぐったが、よもやと思って髪の中までは、これまでさがしたことはなかった。で、もしあれば髪の中で、そこになければ将軍様の遺言状、お預かりしたと思ったは妄想、事実はお預かりしたのではあるまいと、そこまで見究めをつけて置いたが、はたして女の命より大事の、髪の中に可憐くも隠してあったわい)
遺言状をひらいて見た。
西丸の一ツ橋家斉卿を、十一代将軍に直すようにと、そういう意味のことが記されてあった。
それを貝十郎は桐の小箱へ納め、熨斗をつけ水引きをかけ、遺言状に似かよった紙片を、お浦の髪の中へひそかに入れ、小箱をたずさえると織江を籠めた、奥の座敷へはいって行った。
「まず復讐本懐のお慶び、貝十郎申し述べるでござりましょう。ご辛労のほどもお察し申す。次に田沼様お屋敷において、そなたを危険にさらしました段、拙者より改めてお詫び申す。が、今は一切安全。……ご存知の白須氏、桐島氏差し添え、これより直ちに駕籠をもって、冬次郎様お屋敷まで差し立てまする……つきましてはこれなる小箱一個、私より冬次郎様へのご進物、そなたの手よりお渡しくだされ、このようにご伝達くださりませ。『貝十郎代わって小町となり、草紙洗いましてござります』と。……それに致しましても思えば奇縁、そなたを乗せました女乗り物を、去年の十一月隅田堤において、冬次郎様奪われたを発端に、今日までおよそ一年、冬次郎様と競ぎ合い、幾変転幾安危、その間死者あり生者あり、失脚せし人、乗り出す人あり、浮世の性をきわめましたが、ふたたびそなたを駕籠にのせ、冬次郎様お屋敷へ差し立てまして、一切のもつれことごとく解き消え、事件治まる次第となりました。……まこと奇縁にござりますのう」
織江は俯向き黙然としていた。
彼女には十二神貝十郎という、この人物が大きい暖かい、そして非常に手頼りになる、力強い手の持ち主と、そんなように思われてならなかった。
(恐いことなど一度もなかった)
彼女は心からそう思った。
同年九月七日の夜、将軍家治薨去した。
三卿親藩諸閣老、それ以前よりご殿へ詰めきり、おのれの屋敷へとては帰らなかった。
田沼意次は将軍の薨去の、一大悲報を耳にするや、即夜参殿しようとした。が、登城口より引き返した。
彼の腹心の一閣老から、彼もし押して参殿せば、近侍の武士たち身命を賭して、彼を刺そうの計画あることと、桑名侯松平越中守より、将軍家ご真筆の遺言状が、すでに西丸大納言、家斉卿へ捧げられたと、密々に告げられたからだそうな。
(大事は去った。俺の世は終った)
屋敷へ帰ると門を閉じ、来たるべき圧迫の手を待った。
同年十月五日附けをもって、意次は四万七千石を召し上げられ、一万石の小大名に落とされ、大坂の蔵屋敷も召し上げられ、家督は孫の竜助が継ぎ、自身は蟄居を命ぜられた。同類の松本伊豆守も、お役ご免にされた上、二百五十石減禄され、小普請入り仰せつけられ、その他の一味も大なり小なり、ことごとくお咎めをこうむった。
将軍にはもちろん家斉がなった。
まる一年が経過して、冬次郎が隅田の夜の堤で、駕籠を襲って織江を助けた、その日にあたる十一月の、晴れて快い日の午後のことであったが、例の下谷の冬次郎の、数寄と風雅とで造られてある、隠れ家の一室茶室めいた座敷で、中庭を眺めながら冬次郎は、貝十郎を相手に茶を喫しながら、長閑そうに話していた。
二人はすでにこれ以前から、詩文の友として昔どおり、親しく往来していたのであった。
「螺乃舎」と冬次郎はいった。「この頃お浦はどうしている?」
「あてがいました人形を相手に、ままごとをいたしておりまする。……これをお前から越中へ──定信の手へ渡してくれ。妾から渡すのでござりますのね。……などと申してままごとを」
「将軍様ご他界を知らぬのか」
「いいきかせましたが狂女のこと、信じませんでござります。いつかはお逢い出来るものと、堅く信じております様子……」
「心根まことに憐れなものじゃの」
「見ておりまして思わず私、涙をこぼしますでござります」
「髪の中より遺言状、取り去ったことも知らぬそうな」
「代わりの紙片入れ置きましたゆえ」
「何んと思うてそのようなことを?」
「人には何か玩具なくては、くらして行くことなりませぬゆえ」
「なるほど」と冬次郎は頷いた。「浪人好み、世の建て直し……天下を愁うる志士的行動! などと思うてわしのやって来た、これまでの仕事などもいって見れば、玩具いじりに過ぎなかっただろうよ」
「堂々たる玩具いじりと存ぜられます」
「そうであろうよ。そんな気がする」
「ある時には与力として冷徹に、法を行って躊躇せず、ある時には戯作者詩文人として、温情的に行為する私、玩具いじりをいたしおりますので」
案内など待たず気安そうに、戸ヶ崎熊太郎がはいって来た。
「熊太郎、そちの玩具は何んだ?」
「玩具?」と怪訝そうに反問しながら、熊太郎は横手へ坐ったが、
「刀いじりでござりましょうか」
「剣に遊ぶ! 遊戯に相違ないな。……田沼の玩具は政治だったかな」冬次郎は微笑していった。
この時中庭をへだてた方から、──母屋の方から外伝らしい声で、田沼の没落を諷したところの、この頃流行のちょぼくれちょんがれを、愉快そうに歌う声が聞こえて来た。
〽そもそもわっちが在所は、遠州相良の城にて、七つ星から、軽薄ばかりで、お側へつん出て、ご用をきくやら、老中になるやら、それから聞きねえ、大名役人役替えさせやす。なんのかのとて、いろいろ名をつけ、むしょうに家中のものまで、分限になりやす。あんまりわっちも嬉しまぎれに、大老なんぞと、これからそろそろ謀叛と出かけて、出入りの按摩を取り立て、お医者とこしらえ、千川上水、印旛の水田、吉野の金堀、む性に上納お益の、おための、なんのかのとてさまざま名をつけ、奢って見たれば天の憎しみ、今こそ現われ、てんてこ舞いやす……
「アッハハハ、面白い面白い、お前ほんもののちょぼくれ語りになんな」
「俺らも習って語ろうかい」
勘助と新助との囃す声も聞こえた。
冬次郎は微笑を浮かべたが、
「あれが田沼への挽歌だな。薤露の歌というやつだな」
「薤露の歌にござります。……いかな英俊も失脚しましては、末路蕭条にござります」
「どうやらそちの田沼贔屓、いまに至っても衰えぬそうな」
こうはいったものの冬次郎の顔には、不快の色など見えなかった。「いや田沼も凡才ではなかった、度胸があり眼先が見え、世情に通じた調法役者、そういう点では傑物であったよ。……眼中に旧慣古例なく、格式門閥を問題にせず、時代に合った調法人と、便利の法規とを自由に使って、相当進んだ仕事をした。──という点は認めていいのう」
「それだけ殿に認められましたなら、田沼様も本望でござりましょう」
「その後に直られた越中守様、この方をそちどう思うな」
「さあ」と貝十郎は首を傾げた。
「君子仁人にはござりますが、それだけに右を見左を見、断行力に乏しいかと……」
「なるほど、それだから市井では『女の老中』などと申しておる」
「がむしゃらな男の老中の後へ、しとやかな女の老中の乗り出し、かえって結構かと存ぜられます」
「田沼が道徳的に乱した社会を、越中守様が道徳的に直す、それだけでも意味があるよ」
「人間が社会を造るのか、社会が人間を産み出すのか、こうなりますると不可解で。……」
「反対の人間が交互に出て、社会を真っ直ぐに導いて行く。──ということはいわれそうだの」
「どこへ導くのでござりましょう?」
「とにもかくにも一つの成就へ!」
「成就に向かって流転して行く! ……というのが社会の真相で?」
「とそう思うとわしとしては、少くとも楽しく社会が観られる」
「が、成就がとげられました瞬間、もう崩れてさらに流転……」
「うむ、そうもいえるのう」
「と思いますと社会の相、悲しく観られますでござりますな」
「しかし第二の成就に向かって、流転を続けて行くのであり、それがとげられる期あると思えば……」
「御意、楽観いたされます」
この時勘助が例によって、艶麗の町娘の姿で出て来た。
「服部様のご兄妹、ご機嫌うかがいに参られました」
「おおそうか、通すがよい」
範之丞と織江とがはいって来た。
「二人ながら肉づいて、見るごとに健康そうになって行くの」冬次郎は愉快そうにいった。
「範之丞殿お祝い申す」と、貝十郎がにこやかにいった。
「ご加増あったということで」
「は、意外にもご加増にあずかり」
範之丞はつつましくいった。
「苦心惨憺いたしたあげく、復讐を首尾よくとげられたのじゃ、ご加増は至当でござろうよ」と、戸ヶ崎熊太郎も横からいった。
「範之丞も立派な男になった、そろそろ妻帯せずばなるまい」真面目に冬次郎はそういった。
「いえ、私は独身で……はい、少くとも当分のうちは……」言下に範之丞は答えたが、それは善にしろ悪にしろ、あれほど自分に尽くしてくれ、そのあげく非業に死んだところの、お吉のことが心に深く、今に残っているからであった。
(可哀そうに、お吉お吉!)範之丞の眼には涙があった。
「貝十郎一局囲もうか」
「結構にござりますな」
二人の間に碁盤が置かれた。
パチリパチリと石の音がした。
「貝十郎この頃は何が美味いかな」
「伊勢海老、鮪、鴨、蓮根、葱など美味しゅうござりまする」
「肉には飽きた、野菜が食いたい。蓮根、葱など精々たべよう」
「菜食は猛気殺伐の気を、押さえるそうにござります」
「お前はどうだ、貝十郎?」
「野菜と肉類とを取り雑えまして、頂戴するつもりにござります」
「中道を行くのか、お前らしいの」
この時ヤーッという気合をかけ、熊太郎が大刀を引き抜いて、刀身を見上げ見下ろした。
「九十郎の片腕斬り落としました際、大切の備前長船を、刃こぼれさせましてござります」
「ハハハハ」と冬次郎は笑った。
「戸ヶ崎だけは野菜よりも、肉に執着があるらしいの」
織江は九十郎という言葉を聞き、その九十郎と旅をして歩いた、恐ろしかった経験を、心を隅に呼び起こした。(よくまア無事で通されたこと! 心も体も清浄のままで)
そう思わざるを得なかった。
(でも妾はあの旅をして、百姓一揆の中などへはいって、本当に浮世の相を知り、おかげで心がしっかりして来た)
感謝したいような気持ちもした。
陽は明るく庭にあふれ、垣根の裾に咲きつづいている、水仙、寒菊、雪割り草などが、その陽の中で呼吸づいてい、早梅の枝には渡り鳥が、踊るように飛んでいた。
来客があるので遠慮しいしい、小声で歌う外伝の、ちょぼくれの声がなお聞こえた。
〽お役はなれて、女の老中に、めったに叱られ、これまでいろいろ瞞しとったる五万七千、名ばかり名ばかり、七十づらして、こんなつまらぬことこそあるまい、天時つきたる、悲しいこんだに、ホーイホーイ。
「アッハハ」
「アッハハ」
新助と勘助の笑い声も聞こえた。
庭の秋陽のあおりを受けて、この部屋はほのかに明るくて、そうして静かで浄らかであり、その中で烏鷺をたたかわせる、石の音ばかりがしばらくつづいた。
冬次郎も貝十郎も、今は全く無念無想、盤面に見入っているばかりであった。
まさに明朗秋の昼。
パチリ。
パチリ。
パチリ。
パチリ。
底本:「血煙天明陣(上)」国枝史郎伝奇文庫、講談社
1976(昭和51)年7月12日第1刷発行
「血煙天明陣(下)」国枝史郎伝奇文庫、講談社
1976(昭和51)年7月12日第1刷発行
初出:「東京日日新聞」
1933(昭和8)年11月7日~1934(昭和9)年4月20日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「冬太郎」と「冬次郎」の混在は、底本通りです。
入力:阿和泉拓
校正:酒井裕二
2019年3月29日作成
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