夜長ノート
種田山頭火



 小春日和のうららかさ。のんびりとした気持になって山の色彩を眺める。赤い葉、黄色い葉、青い葉、薄黒い葉──紅黄青褐とりどりのうつくしさ。自然が秋に与えた傑作をしみじみ味わうたのしさ。いつしか、うっとりとして夢みごころになる。自然の無関心な心、秋の透徹した気、午後三時頃の温かい光線が衰弱した神経の端々まで沁みわたって、最う社会もない、家庭もない──自分自身さえもなくなろうとする。

 けたたましい百舌鳥の声にふっと四方の平静が破れる。うつくしい夢幻境が消えて、いかめしい現実境が来る、見ると、傍に老祖母がうとうとと睡っている。青黒い顔色、白茶けた頭髪、窪んだ眼、少し開いた口、細堅い手足──枯木のような骨を石塊のような肉で包んだ、古びた、自然の断片──ああ、それは私を最も愛してくれる、そして私の最も愛する老祖母ではないか。

 老祖母の膝にもたれて『白』と呼び慣れている純白な猫が睡っている。よほどよく睡っていると見えて、手も足も投げ出して長くなれるだけ長くなっている。かすかな鼾の声さえ聞える。

 その猫の尻尾に所謂『秋蠅』が一匹とまっている。じっとして動かない。翅の色も脚の色もどす黒く陰気くさい。衰残の気色がありありと見える。

 秋の田園を背景として、蠅と猫と老祖母と、そして私とより成るこの活ける一幅の絵画。進化論の最も適切なる、この一場の実物教授。境遇と自覚。本能と苦痛。生存と滅亡。

 自覚は求めざるをえない賜である。探さざるをえない至宝である。同時に避くべからざる苦痛である。

 殊に私のような弱者に於て。

       ○

 新刊書を買うて帰るときの感じ、恋人の足音を聞きながら、その姿を待つときの感じ、新鮮な果実に鋭利なナイフをあてたときの感じ。……

 その日の新聞を開いたときの匂い、初めて見る若い女性に遇うたときの匂い、吸物碗の蓋をとったときの匂い、埃及エジプト煙草の口を切ったときの匂い、親友から来た手紙の封を破ったときの匂い。……

 穏かな興奮と軽い好奇心と浅い慾望と。……

       ○

 一度行った土地へは二度と行きたくない。一度泊った宿屋へは二度と泊りたくない。一度読んだ本は二度と読みたくない。一度遇った人には二度と遇いたくない。一度見た女は二度と見たくない。一度着た衣服は二度と着たくない──一度人間に生れたから、一度男に生れたから、一度此地に生れたから、一度此肉躰此精神と生れたから。……

 一度でなくして二度となったとき、それは私にとって千万度繰り返すものである。終生□れ難い、離れ得ないものである。

       ○

 いつまでもシムプルでありたい、ナイーブでありたい、少くとも、シムプルにナイーブに事物を味わいうるだけの心持を失いたくない。

 酒を飲むときはただ酒のみを味わいたい、女を恋するときはただ女のみを愛したい。アルコールとか恋愛とかいうことを考えたくない。飲酒の社会に及ぼす害毒とか、色情の人生に於ける意義とかいうことを考えたくない。何事も忘れ、何物をも捨てて──酒というもの、女性というものをも考えずして、ただ味わいたい、ただ愛したい。

       ○

 片田舎の或る読者から観て──その読者の受ける気分とか感じとか心持とかいうものによって、日末現代の文学雑誌及び文学者を二つのサークルに分つことが出来る。

 スバル、白樺、三田文学、劇と詩、朱欒。永井荷風氏、吉井勇氏、北原白秋氏、秋田雨雀氏、上田敏氏、小山内薫氏、鈴木三重吉氏。……

 早稲田文学、文章世界、帝国文学、新小説。島村抱月氏、田山花袋氏、相馬御風氏、正宗白鳥氏、馬場孤蝶氏、森田草平氏。……

       ○

 現代の日本文明を呪咀して、江戸文明に憧憬し仏蘭西文明を駆歌する荷風氏。現実の醜悪を厭うて夢幻に遁れんとする未明氏。温雅淡白よりも豊艶爛熟を喜ぶ白秋氏。

 或る意味に於て、すべての人間はアイデアリストである。ドリーマーである。ロマンチケルである。アナクロニズムといい、エキゾーチシズムという語は色々な、複雑な意味を持っていると思う。

       ○

 俳壇の現状は薄明りである。それが果して曙光であるか、或は夕暮であるかは未だ判明しない。

 俳句の理想は俳句の滅亡である。物の目的は物そのものの絶滅にあるということを、此場合に於て、殊に痛切に感ずる。

(「青年」明治四十四年十二月号)

底本:「山頭火随筆集」講談社文芸文庫、講談社

   2002(平成14)年710日第1刷発行

   2007(平成19)年25日第9刷発行

初出:「青年 明治四十四年十二月号」

   1911(明治44)年12

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2008年519日作成

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