道〔扉の言葉〕
種田山頭火
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いつぞや、日向地方を行乞した時の出来事である。秋晴の午後、或る町はずれの酒屋で生一本の御馳走になった。下地は好きなり空腹でもあったので、ほろほろ気分になって宿のある方へ歩いていると、ぴこりと前に立ってお辞儀をした男があった、中年の、痩せて蒼白い、見るから神経質らしい顔の持主だった。
『あなたは禅宗の坊さんですか。……私の道はどこにありましょうか』
『道は前にあります、まっすぐにお行きなさい』
私は或は路上問答を試みられたのかも知れないが、とにかく彼は私の即答に満足したらしく、彼の前にある道をまっすぐに行った。
道は前にある、まっすぐに行こう。──これは私の信念である。この語句を裏書するだけの力量を私は具有していないけれど、この語句が暗示する意義は今でも間違っていないと信じている。
句作の道──道としての句作についても同様の事がいえると思う。句材は随時随処にある、それをいかに把握するか、言葉をかえていえば、自然をどれだけ見得するか、そこに彼の人格が現われ彼の境涯が成り立つ、彼の句格が定まり彼の句品が出て来るのである。
平常心是道、と趙州和尚は提唱した。総持古仏は、逢茶喫茶逢飯喫飯と喝破された。これは無論『山非山、水非水』を通しての『山是山、水是水』であるが、山は山でよろしい、水は水でよろしいのである。一茎草は一茎草であって、そしてそれは仏陀である。南無一茎草如来である。
道は非凡を求むるところになくして、平凡を行ずることにある。漸々修学から一超直入が生れるのである。飛躍の母胎は沈潜である。
所詮、句を磨くことは人を磨くことであり、人のかがやきは句のかがやきとなる。人を離れて道はなく、道を離れて人はない。
道は前にある、まっすぐに行こう、まっすぐに行こう。
底本:「山頭火随筆集」講談社文芸文庫、講談社
2002(平成14)年7月10日第1刷発行
2007(平成19)年2月5日第9刷発行
初出:「「三八九」第六集」
1933(昭和8)年2月28日発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年5月19日作成
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