俳句に於ける象徴的表現
種田山頭火
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井泉水氏は印象詩乃至象徴詩としての俳句について屡々語られた。しかし俳句に於ける象徴の本質に就ては説かれない。筆端が時々此問題に触れたとも言うべき程である。私は此の根本的説明に接するを待つよりも、こういう問題はお互に協力して研究すべきものではないかと思う。
病雁の夜寒に落ちて旅寝かな 芭蕉
僅かの花が散りければ梅は総身に芽ぐみぬ 井泉水
わが足跡人生ひてわれにつゞく朧 地橙孫
陽の前に鳥ないて安らかな一日 鳳車
これらの句を読んだ時、私は或る物を掴んだように思うた。私の心がぱっと光輝したように感じた。かかる傾向は層雲を中心とする人々ばかりの間に起ったのではかい。他の二三氏によっても試みられつつある。
象徴(symbol)が符号(sign)と同じ意味であった時代は既に過ぎて了った。象徴は生命の刹那的燃焼の表現を外にして自己を全力的に表現し得ないのである。かるが故に象徴的表現しか自己を表現し得ない場合に於て、換言すれば或る刹那に於ける自己表現の方式として唯一の象徴的表現が存在する場合に於て象徴的表現は最大の効果を発輝するのである。
そして文芸に於ては詩、殊に俳句は性質上又形式上かくの如き境地をかくの如き方式によって表現せざるを得ないのである。
広い意味新しい意味に於ての象徴主義は霊肉合致であり神人渾融である。そして古典主義と浪漫主義(自然主義以後のそれらで『新』字を附せられている)との合一である(中村星湖氏片上伸氏等の最近論文参照)。私にはよく解らないが当来の新文芸は象徴主義によって生れるのではないかとも思う。
象徴的表現ということに関聯して忘れてならないのは言葉というものの真意義である。言語を生かさなければ──言葉が生命とならなければ──言葉が生命となった詩でなければ、まことの象徴詩ではない。そして我々の心が物心一如の境地に到達しなければ言葉は我々の生命となり得ないのである。
底本:「山頭火随筆集」講談社文芸文庫、講談社
2002(平成14)年7月10日第1刷発行
2007(平成19)年2月5日第9刷発行
初出:「樹 八号」
1914(大正3)年12月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年5月19日作成
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