草木塔
種田山頭火
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庵のまわりには茶の木が多い。五歩にして一株、十歩にしてまた一株。
私は茶の木を愛する、その花をさらに愛する。私はここに移ってきてから、ながいこと忘れていた茶の花の趣致に心をひかれた。
捨てられるともなく捨てられている茶の木は『佗びつくしたる佗人』の観がある。その花は彼の芸術であろう。
茶の木は枝ぶりもおもしろいし、葉のかたちもよい。花のすがたは求むところなき気品をたたえている。
この柿の木が其中庵を庵らしく装飾するならば、そこらの茶の木は庵の周囲を庵として完成してくれる。
茶の花に隠遁的なものがあることは否めない。また、老後くさいものがあることもたしかである。年をとるにしたがって、みょうが、とうがらし、しょうが、ふきのとうが好きになるように、茶の木が、茶の花が好きになる。
しかし、私はまだ茶人にはなっていない、幸にして、あるいは不幸にして。
梅は春にさきがけ、茶の花は冬を知らせる(水仙は冬を象徴する)。
茶の花をじっと観ていると、私は老を感じる。人生の冬を感じる。私の身心を流れている伝統的日本がうごめくのを感じる。
茶の花や身にちかく冬が来てゐる
前も柿、後も柿、右も柿、左も柿である。柿の季節に於て、其中庵風景はその豪華版を展開する。
今までの私は眼で柿を鑑賞していた。庵主となって初めて舌で柿を味わった。そしてそのうまさに驚かされた。何という甘さ、自然そのものの、そのままの甘さ、柿が木の実の甘さを私に教えてくれた。ありがたい。
柿の若葉はうつくしい。青葉もうつくしい。秋ふこうなって、色づいて、そしてひらりひらりと落ちる葉もまたうつくしい。すべての葉をおとしつくして、冬空たかく立っている梢には、なすべきことをなしおえたおちつきがあるではないか。
柿の実については、日本人が日本人に説くがものはない。るいるいとして枝にある柿、ゆたかに盛られた盆の柿、それはそれだけで芸術品である。
そしてまた、彼女が剥いでくれる柿の味は彼氏にまかせておくがよい。
柿は日本固有の、日本独特のものと聞いた。柿に日本の味があるのはあたりまえすぎるあたりまえであろう。
みんないつしよに柿をもぎつつ柿をたべつつ
楢の葉はおどろきやすい。すこしの風にも音を立てる。枯れても、おおかたは梢からはなれない。その葉と葉とが昼も夜もささやいている。
夜おそく戻ってくると、頭上でかさかさと挨拶するのは楢の葉である。
訪ねてくる人もなく、訪ねてゆく所もなく、そこらをぶらついていると、ひらひらと枯葉が一枚二枚、それも楢の葉である。
楢の葉よ、いつまでも野性の純真を失うな。骨ぶといのがお前の持前だ。
楢の葉の枯れて落ちない声を聴け
底本:「山頭火随筆集」講談社文芸文庫、講談社
2002(平成14)年7月10日第1刷発行
2007(平成19)年2月5日第9刷発行
初出:「三八九 第五集」
1933(昭和8)年1月20日発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年5月19日作成
2014年9月16日修正
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