砕けた瓦
(或る男の手帳から)
種田山頭火



 私は此頃自から省みて『私は砕けた瓦だ』としみじみ感ぜざるをえないようになった。私は瓦であった、脆い瓦であった、自分から転げ落ちて砕けてしまう瓦であったのだ。

 玉砕ということがあるが、私は瓦砕だ。それも他から砕かれたのではなくて、自から砕いてしまったのだ。見よ、砕けて散った破片が白日に曝されてべそを掻いている。

 既に砕けた瓦はこなごなに砕かれなければならない。木端微塵こっぱみじん砕き尽されなければならない。砕けた瓦が更に堅い瓦となるためには、一切の色彩を剥がれ、有らゆる外殻を破って、以前の粘土に帰らなければならない。そして他の新らしい粘土が加えられなければならない。


 家庭は牢獄だ、とは思わないが、家庭は沙漠である、と思わざるをえない。

 親は子の心を理解しない、子は親の心を理解しない。夫は妻を、妻は夫を理解しない。兄は弟を、弟は兄を、そして、姉は妹を、妹は姉を理解しない。──理解していない親と子と夫と妻と兄弟と姉妹とが、同じ釜の飯を食い、同じ屋根の下に睡っているのだ。

 彼等は理解しようと努めずして、理解することを恐れている。理解は多くの場合に於て、融合を生まずして離反を生むからだ。反き離れんとする心を骨肉によって結んだ集団! そこには邪推と不安と寂寥とがあるばかりだ。


 泣きたい時に笑い、笑いたい時に泣くのが私の生活だ。泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑うのが私の芸術である。


 私は何故こんな下らない事ばかり書くのであろう。私が書く事はすべて、自分の耻晒しであり世上の物笑いである。それは私自身を傷づけるばかりではないか。

 そう思わぬではない。こんなくだらない事はもう書くまいと思わぬではない。しかも私は書かずにはいられないのだ。書けば下らない事しか書けないのだ。あさましい心はあさましい事ばかり考える、荒んだ生活からは荒んだ思想しか生れないのだ。……もっと適切にいえば、私には世間の風評や一身の利害を無視しても、表現せずにはいられない欠陥と悔恨と苦痛とがあるのだ。

 若し私が私の欠陥から脱却し得たならば──私が私自身を超越し得たならば、私は最早何にも書かないであろう。何も書かないで、安んじて生きてゆくことが出来るであろう。何となれば沈黙の福音は全き人にのみ許されるからである。

 Everyman sings his own song and follows lonely path──お前はお前の歌をうとうてお前の道を歩め、私は私の歌をうとうて私の道を歩むばかりだ。驢馬は驢馬の足を曳きずって、驢馬の鳴声を鳴くより外はない。

 お前と私とは長いこと手を握り合って、同じ歌をうたいながら同じ道を進んで来た。しかも今や、二人は別々の歌をうとうて別々の道を歩まなければならなくなった。

 私達は別れなければならなくなったことを悲しむ前に、理解なくして結んでいるよりも、理解して離れることの幸福を考えなければならない。




 男には涙なき悲哀がある、女には悲哀なき涙がある。

       ○

 自殺は一の悲しき遊戯である。

       ○

 溢れて成った物は尊い、絞って作った物は愛せざるをえない、偽って拵えた物は捨ててしまえ。

       ○

 人生は奇蹟ミラクルではない、軌跡ローカスである。

       ○

 真実は慈悲深くあり同時に残忍である。神に真実があるように悪魔にも亦真実がある。

       ○

 苦痛は人生を具象化する。

       ○

 高下駄を穿いているときは、その高下駄の高さほど背丈が高いということは解りきった事である。しかもこの解りきった事を忘れていたために、多くの悲喜劇が屡々演ぜられた。

       ○

 酔わないうちに胃が酒で一杯になった、ということは悲しい事実である。

(「層雲」大正三年九月号)

底本:「山頭火随筆集」講談社文芸文庫、講談社

   2002(平成14)年710日第1刷発行

   2007(平成19)年25日第9刷発行

初出:「層雲 大正三年九月号」

   1914(大正3)年9

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2008年519日作成

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