『鉢の子』から『其中庵』まで
種田山頭火
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この一篇は、たいへんおそくなりましたけれど、結庵報告書ともいうべきものであります。井師をはじめ、北朗兄、緑平兄、酒壺洞兄、元寛兄、白船兄、樹明兄、そのほか同人諸兄姉の温情によって、句集が出版され、草庵が造作されました。おかげで私は山村庵居の宿題を果すことが出来て、朝々、山のしずけさ人のあたたかさを満喫しております。ここに改めてお礼とお詑とを申し上げる次第であります。
一昨年──昭和五年の秋もおわりに近い或る日であった。私は当もないそして果てもない旅のつかれを抱いて、緑平居への坂をのぼっていった。そこにはいつものように桜の老樹がしんかんと並び立っていた。
枝をさしのべてゐる冬木
さしのべている緑平老の手であった。私はその手を握って、道友のあたたかさをしみじみと心の底まで味わった。
私は労れていた。死なないから、というよりも死ねないから生きているだけの活力しか持っていなかった。あれほど歩くことそのことを楽しんでいた私だったが、
『歩くのが嫌になった』
と呟かずにはいられない私となっていた。それほど私の身は労れていたのである。
『あんたがほんとに落ちつくつもりなら』緑平老の言葉はあたたかすぎるほどあたたかだった。
こうして其中庵の第一石は置かれたけれど、じっとしていられる身ではない。私はひとまず熊本へ帰ることにした(実をいえば、私には行く方向はあっても帰る場所はないのである)。
冬雨の降る夕であった。私はさんざん濡れて歩いていた。川が一すじ私といっしょに流れていた。ぽとり、そしてまたぽとり、私は冷たい頬を撫でた。笠が漏りだしたのだ。
笠も漏りだしたか
この網代笠は旅に出てから三度目のそれである。雨も風も雪も、そして或る夜は霜もふせいでくれた。世の人のあざけりからも隠してくれた。自棄の危険をも守ってくれた。──その笠が漏りだしたのである。──私はしばらく土手の枯草にたたずんで、涸れてゆく水に見入った。
あなたこなたと歩きつづけて、熊本に着いたのはもう年の暮だった。街は師走の賑やかさであったが、私の寝床はどこにも見出せなかった。
霜夜の寝床が見つからない
これは事実そのままを叙したのであるけれど、気持を述べるならば、
霜夜の寝床がどこかにあらう
となる。じっさい、そういう気持でなければこういう生活が出来るものでない。しかしこれらの事実や気持の奥に、叙するよりも、述べるよりも、詠うべき或物が存在すると思う。
ようやくにして、場末の二階を間借りすることが出来た。そしてさっそく『三八九』を出すことになった、当面の問題は日々の米塩だったから(ここでもまた、井師、緑平老、元寛、馬酔木、寥平の諸兄に対して感謝の念を新らしくする)。
明けて六年、一月二月三月と調子よく万事運ぶようであったが、結局はよくなかった。内外から破綻した。ただに私自身が傷ついたばかりでなく、私の周囲の人々をも傷つけるような破目になった。
事の具体的記述は避けよう、過去の不愉快を繰り返して味わいたくないから。
私はまた旅に出るより外はなかった。
何処へ行く、東の方へ行こう。何処まで行く、其中庵のあるところまで。
六年が暮れて七年の正月には、私は緑平居でお屠蘇を頂戴していた。そしてボタ山を眺めながら話し合っていた。
ここで、其中庵の第二石が置かれた。今暫らく行乞の旅を続けているうちに、造庵の方法を講じてあげるとのことであった。
私は身も心も軽く草鞋を穿いた。あの桜の老樹の青葉若葉を心に描きながら坂を下りて行った。
福岡へ、唐津へ、長崎へ、それから島原へ、佐賀へ、神湊へ、八幡へ、戸幡へ、小倉へ、門司へ、そしておもいでふかい海峡を渡った。
徳山、小郡、──この小郡に庵居するようになろうとは、私も樹明兄も共に予期していなかった。因縁所生、物は在るところのものに成る。
句集の原稿は、緑平居で層雲から写してまとめたが、句数は僅々百数十句に過ぎなかった。これが、これだけが行乞流転七年の結晶であった。
私はその句稿を頭陀袋におさめて歩きつづけた。石を磨いて玉にしようとは思わないが、石には石だけの光があろう、磨いて、磨いて、磨きあげて、せめて石は石だけの光を出そうと努めるのが、私のような下根のなぐさめであり力である。
しかし、私にはまだ自選の自信がなかったので、すまないとは思いながら、井師に厳選をお願いした、師が快く多忙な貴重な時間を割いて、何から何まで行き届いたお心づかいに対しては、まことに何ともお礼の申しあげようがない。
句集出版については北朗兄を煩わした。まだ一面の識もない私に示された好意と斡旋とは永久に忘れることがないであろう。
そしてさらに、後援会の事務一切を一身に引き受けて、面倒至極な事務をあんなに手際よく取り捌いて下さった酒壺洞兄に心からの謝意を表することを忘れてはならない。
緑平老、白船老の厚情については説くまでもあるまいが、元寛兄、俊兄、星城子兄、入雲洞兄、樹明兄、敬治兄等の並々ならぬ友誼については、ここで感謝の一念を書き添えずにはいられない。
こうして、身にあまる恩恵につつまれつつ、私は東漂西泊した。鉢の子という題名は私の句集にふさわしいものであった。一鉢千家飯、自然が人が友が私に米塩と寝床とをめぐんだ。
庵居の場所を探ねるにあたって、私は二つの我儘な望みを持っていた。それが山村であること、そして水のよいところか、または温泉地であることであった。
最初、嬉野温泉でだいぶ心が動いた、そこは、水もよく湯もよかった。視野が濶けすぎて、周囲がうるさくないこともなかったけれど、行乞の便利は悪くなかった。しかし何分にも手がかりがない。見知らぬ乞食坊主を歓迎するほどの物好きな人を見つけることが出来なかった。
ついで足をとめたのが川棚温泉である。関門の都市に遠くない割合に現代化していない。山もうつくしいし湯もあつい。ことにうれしいのは友の多い都市に近いことであった。私はひとりでここが死場所であるときめてしまった。
花いばらここの土とならうよ
こんな句が口をついて出るほどひきつけられたので、さっそく土地借入に没頭した。人の知らない苦心をして、やっと山裾の畑地一劃を借入れる約束はしたが、それからが難関であった。当村居住の確実な保証人を二人立ててくれというのである。幸にして幸雄兄の知辺があるので、紹介して貰って奔走したけれど、田舎の人は消極的で猜疑心が強くて、出来そうで出来ない。一人出来たと喜べば、二人目が破れて悲しませる。二人目が承諾すると、一人目が拒絶する。──私はこの時ほど旅人のはかなさを感じたことはない。
ひとりきいてゐてきつつき
思案にあまって、山路をさまようて、聞くともなく、そして見るともなく、啄木鳥に出逢ったのであった。
私は殆んど捨鉢な気分にさえ堕在していた。憂鬱な暑苦しい日夜であった。私はどうにかせずにはいられないところまでいっていたのである。
だが、私はこんなに未練ぶかい男ではなかった筈だ。むろん人間としての執着は捨て得ないけれど、これほど執着するだけの理由がどこにあるか。何事も因縁時節である、因縁が熟さなければ、時節が到来しなければ何事も実現するものではない。なるようになれではいけないが、なるようにしかならない世の中である。行雲流水の身の上だ、私は雲のように物事にこだわらないで、流れに随って行動しなければならない。
去ろう、去ろう、川棚を去ろう。さらば川棚よ、たいへんお世話になった。私は一生涯川棚を忘れないであろう。川棚よ、さらば。
けふはおわかれの糸瓜がぶらり
私の心は明るいとはいえないまでも重くはなかった。私の行手には小郡があった、そこには樹明兄がいる。そのさきには敬治兄がいる。その近くのA村は水が清くて山がしずかだった。それを私ははっきりと記憶している。
『もし川棚の方がいけないようでしたら、ここにも庵居するに似合な家がないでもありませんよ。』此夏二度目に樹明兄を訪ねてきた時、兄が洩らした会話の一節だった。私はその時はまだ川棚に執着していたので、その深切だけを頂戴した。それが今はその深切の実を頂戴すべく、ひょうぜんとしてやってきたのである。
或る家の裏座敷に取り敢えず落ちついた。鍋、釜、俎板、庖丁、米、炭、等々と自炊の道具が備えられた。
二人でその家を見分に出かけた。山手の里を辿って、その奥の森の傍、夏草が茂りたいだけ茂った中に、草葺の小家があった。久しく風雨に任せてあったので、屋根は漏り壁は落ちていても、そこには私をひきつける何物かがあった。
私はすっかり気に入った。一日も早く移って来たい希望を述べた。樹明兄は喜んで万事の交渉に当ってくれた。
屋根が葺きかえられる。便所が改築される(というのは、独身者は老衰の場合を予想しておかなければならないから)。畳を敷いて障子を張る。──樹明兄、冬村兄の活動振は眼ざましいというよりも涙ぐましいものであった。
昭和七年九月二十日、私は其中庵の主となった。
私が探し求めていた其中庵は熊本にはなかった、嬉野にも川棚にもなかった。ふる郷のほとりの山裾にあった。茶の木をめぐらし、柿の木にかこまれ、木の葉が散りかけ、虫があつまり、百舌鳥が啼きかける廃屋にあった。
廃人、廃屋に入る。
それは最も自然で、最も相応しているではないか。水の流れるような推移ではないか。自然が、御仏が友人を通して指示する生活とはいえなかろうか。
今にして思えば、私は長く川棚には落ちつけなかったろう(幸雄兄の温情にここで改めてお礼を申しあげる)。川棚には温泉はあるけれど、ここのような閑寂がない。しめやかさがない。
私は山を愛する。高山名山には親しめないが、名もない山、見すぼらしい山を楽しむ。
ここは水に乏しいけれど、すこしのぼれば、雑草の中からしみじみと湧き出る泉がある。
私は雑木が好きだ。この頃の櫨の葉のうつくしさはどうだ。夜ふけて、そこはかとなく散る木の葉の音、おりおり思いだしたように落ちる木の実の音、それに聴き入るとき、私は御仏の声を感じる。
雨のふる日はよい。しぐれする夜のなごやかさは物臭な私に粥を煮させる。
風もわるくない。もう凩らしい風が吹いている。寝覚の一人をめぐって、風はどこから来てどこへ行くのか。さみしいといえば人間そのものがさみしいのだ。さみしがらせよとうたった詩人もあるではないか。私はさみしさがなくなることを求めない。むしろ、さみしいからこそ生きている、生きていられるのである。
ふるさとはからたちの実となつてゐる
そのからたちの実に、私は私を観る。そして私の生活を考える。
雨ふるふるさとはなつかしい。はだしであるいていると、蹠の感触が少年の夢をよびかえす。そこに白髪の感傷家がさまようているとは。──
あめふるふるさとははだしであるく
最後に私は、川棚で出来た句『花いばら、ここの土とならうよ』の花いばらを茶の花におきかえなければならなくなったことを書き添えよう。そして、もう一句、最も新らしい一句を書き添えなければなるまい。
住みなれて茶の花のひらいては散る
底本:「山頭火随筆集」講談社文芸文庫、講談社
2002(平成14)年7月10日第1刷発行
2007(平成19)年2月5日第9刷発行
初出:「「三八九」復活第四集」
1932(昭和7)年12月15日発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年5月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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