勘平の死
岡本綺堂
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登場人物 初演配役
和泉屋与兵衛 (団右衛門)
女房 おさき (菊三郎)
倅 角太郎
娘 おてる (福之丞)
仲働き お冬 (栄三郎)
番頭 伝兵衛
同じく 弥助
同じく 和吉 (男女蔵)
大和屋十右衛門 (彦三郎)
三河町の半七 (菊五郎)
その妹 おくめ (竹三郎)
常磐津 文字清 (鬼丸)
半七の子分亀吉 (伊三郎)
同じく 幸次郎 (鯉三郎)
ほかに女中。和泉屋の若い者。小僧。素人芝居の役者。手伝いの役者。衣裳の損料屋。芝居見物の男女など
大正一四・一二作
『演劇・映画』
大正一五・二、新橋演舞場初演
第一幕
京橋具足町の和泉屋という金物屋の奥座敷。初午祭の素人芝居の楽屋になっているていで、そこには鏡台が幾つも列んで、座蒲団などもある。衣裳葛籠がある。鬘がある。大小や編笠や鉄砲などの小道具がある。燭台や手あぶりの火鉢が幾つも置かれてある。薬鑵や茶道具などもある。何分にも狭いところに大勢が押合っているので、足の踏みどころも無いような乱雑の体たらくである。──江戸の末期、二月初旬の夜。
(座敷のまん中には忠臣蔵六段目の勘平に扮したる和泉屋の若い息子角太郎がうしろ向きに横たわっている。角太郎は半死半生で唸っているのを、店の若い者庄八と長次郎が介抱している。若い番頭和吉、二十四五歳、千崎弥五郎のこしらえで少しくあとに引きさがって眺めている。同町内の呉服屋のせがれ伊之助は原郷右衛門のこしらえ、酒屋のせがれ三蔵はおかやのこしらえで鬘だけを取り、同じくその傍にぼんやりと坐っている。そのほかに衣裳かづらの損料屋五助、顔師にたのまれて来た役者の三津平、店の若い者四五人と小僧二人、それらが立ったり坐ったりしてごたごたしている。)
庄八 まだお医者は来ないのか。
長次郎 誰かもう一度行って呼んで来い。
庄八 急に怪我人が出来ましたから、すぐにおいで下さいとよく云って来るのだぞ。
小僧一 あい、あい。(下のかたへ出てゆく。)
伊之助 小僧さんひとりが行ったのじゃあ判らないかも知れない。誰か若い衆さんをやったらどうだね。
長次郎 じゃあ、いっそわたしが行って来ましょう。(起ちかかる。)
三蔵 正直に若旦那が大怪我をしましたからと云った方がいいかも知れないぜ。
庄八 そうだ、そうだ。怪我人は若旦那だと正直に云った方がいいよ。
長次郎 わかった、わかった。
(長次郎はあわてて出てゆく。)
三津平 なにしろ飛んでもないことになったものだね。
五助 どうしてこんなことになったのか、夢のようでさっぱり判らねえ。
三津平 わっしにも判らねえ、どうも不思議だよ。魔がさしたのかも知れねえぜ。
(下のかたの襖をあけて、和泉屋の主人与兵衛、四十七八歳、あわただしくいず。)
与兵衛 もし、せがれがどうしました。
伊之助 思いもよらないことが出来して、みんなも呆気に取られているばかりです。
与兵衛 一体どうしたというのだ。
(与兵衛は角太郎のそばに寄りて覗く。)
与兵衛 これ、角太郎。急病でも起ったのか、これ、角太郎……。どうしたのだ。
(角太郎は答えず、ただ唸っている。下のかたより和泉屋の女房おさき、あわてていず。)
おさき 今夜の六段目は大変に出来がよかったと云って、みんなも感心して見ていたら、中途から角太郎が急に倒れたのでびっくりしました。(与兵衛に。)どこが悪いのですえ。
与兵衛 ただ苦しそうに唸っているばかりで判らないのだ。(庄八に。)おい、こりゃあどうしたのだね。
庄八 へえ。(他の人々と顔をみあわせる。)
おさき (のぞく。)おお、大変に血が流れているようだが……。
与兵衛 これは勘平が切腹の糊紅だよ。
三津平 それが旦那、糊紅でないのですよ。
与兵衛 え。
五助 若旦那はほんとうに腹を切ったのでございます。
(与兵衛もおさきもおどろく。)
与兵衛 なに、ほんとうに腹を切った……。そ、それはどういう訳だ。ええ、誰かはっきりと口を利かないか。
(今まで黙っていた和吉進みいず。)
和吉 それはこういうわけでございます。みな様方も御覧の通り、六段目の幕があきまして、腹切りまでは滞りなく済みましたが、若旦那の勘平が刀を腹へ突っ込んで、手負いの台詞になってから、何だか様子がおかしくなったのでございます。
与兵衛 むむ。その手負いになってから、なおさら出来がいいと皆んなも褒めていたのだ。
和吉 その手負いの台詞まわしや思入れが稽古の時よりよっぽど念入りだとは思いましたが、ふだんから芝居上手の若旦那のことでございますから、大勢の見物を前に控えて、一倍気を入れてやっているのかと思って居りますと、どうもそれがだんだんおかしくなって来るので、わたくし達も不思議に思いました。
伊之助 わたしもそばで見ていながら、どうも様子が変だとは思いましたが、まさかこんなこととは夢にも気が付きませんでした。
三蔵 そのうちに角さんは倒れたままで起きないので……。
和吉 (ひったくるように。)よくよく見ますと、若旦那はほんとうに腹を切っていたのでございます。(声をふるわせる。)わたくしも実にびっくり致しました。
おさき でも、その刀はほん物の刀じゃあるまいが……。
与兵衛 そうだ、そうだ。芝居で使う銀紙の竹べらで、ほんとうに腹を切る筈はないではないか。
和吉 それがどうも不思議でございます。
与兵衛 損料屋さん。(詰るように。)おまえさんの持って来た刀は本身かえ。
五助 (あわてて。)ええ、飛んでもねえ。なんで本身なんぞを持って来るものですか。わたしが若旦那に渡したのは確かに舞台で使う金貝張りに相違ないのですが、それがいつの間にか本身に変っていたので、こんな騒ぎが出来してしまったのです。
与兵衛 いつの間にか本身に変っていた……。
おさき まあ、どうしたんでしょう。
与兵衛 それがどうも判らないな。
五助 まったく判りませんよ。
与兵衛 判りませんで済むものか。なんにしてもお前さんが係り合いだから、そう思ってください。
五助 でも、旦那……。
与兵衛 ええ、いけない、いけない。どうしてもおまえさんが係り合いだ。
おさき (与兵衛に。)まあ、おまえさん。そんなことを云っているよりも、早く角太郎の手当てをしてやったらどうです。なんだか息づかいがだんだんにおかしくなるじゃありませんか。
与兵衛 (気がついて。)むむ、うかうかしてはいられない。これ、医者を呼びにやったか。
庄八 はい。さっきから二度も呼びにやりました。
おさき 呼びにやったらすぐに来てくれそうなものだがねえ。手間が取れるようならほかのお医者を呼んでおいでよ。ぐずぐずしていると、間にあわないじゃあないか。
与兵衛 誰でもかまわないから、すぐに来てくれる医者を呼んで来い。三人でも五人でも十人でも一度に呼んで来い。早くしろ。早くしろ。なにをぼんやりしているのだ。
店の者 はい、はい。行ってまいります。
(若い者のひとりは下のかたへ駈けてゆく。)
与兵衛 ああ、こうと知ったら今年の初午などはいっそ止めればよかった。
おさき 初午もお祭だけにして、芝居などをしなければよかったのでしたねえ。
与兵衛 それも角太郎が先立ちになって騒ぎはじめたのだ。(角太郎を覗いて。)ああ、どうもだんだんに様子が悪くなるようだ。庄八、今度はおまえが行って医者をさがして来い。
庄八 はい、はい。
(庄八は起って行こうとする時、下のかたにて案内の声がきこえる。)
長次郎 どうぞこれへお通りください。
おさき おお、いい塩梅にお医者が来たらしい。
与兵衛 医者が来たか、来たか。
(下のかたより以前の長次郎が先に立ち、岡っ引の半七を案内していず。)
庄八 おや、お医者ではないようだぞ。
与兵衛 長次郎。ここへ御案内して来たのはどなただ。
長次郎 三河町の親分でございます。
与兵衛 三河町の親分……。
半七 (丁寧に会釈する。)へえ。御取込みの最中へ飛び込んでまいりまして、とんだ御邪魔をいたします。わたくしは神田の三河町に居りまして、お上の十手をあずかっている半七と申す者でございます。
与兵衛 (おなじく丁寧に。)おお。では、お前さんがかねてお名前を聞いている三河町の半七親分でございましたか。わたくしはこの和泉屋の主人与兵衛でございます。
半七 実は唯今この町内の角でお店の長次郎さんに逢いましたが、なんだか息を切って駈けてくる様子が変ですから、どうかしたのかと聞いてみると、初午のお芝居から飛んだ間違いが出来ましたそうで……。わたくしもびっくり致しました。して、怪我人はどんな様子です。
与兵衛 (少し迷惑そうに。)長次郎めがおしゃべりを致して、なにもかも御承知とあれば、今更かくし立ては致しません。思いもよらない間違いから、せがれはこの通りでございます。
半七 まっぴら御免くださいまし。
(半七は角太郎のそばに進みより、声をかける。)
半七 もし、若旦那。気は確かですかえ。
与兵衛 さっきから何を申しても返事はございません。
半七 そうですか。困ったものだな。(角太郎の疵をあらためる。)そうして、その刀というのはどれですね。
庄八 これでございます。(血に染みた刀をみせる。)
(半七は無言で刀をうけ取り、燭台の灯に照らして見て、やがて一座の人々の顔をずらりと見わたす。人々は何となく薄気味悪いように眼を伏せる。)
半七 今夜の小道具の損料屋さんはいますかえ。
五助 (ぎょっとして。)はい、はい。わたくしでございます。
半七 この本身はおめえが持って来たのかえ。
五助 それを旦那からも御詮議でございましたが、わたくしは決してそんなものを持って来た覚えはございません。ねえ、三津平さん。
三津平 わたしも皆さんの顔をこしらえに来て、舞台の上のことも何やかやとお世話をしているので、衣裳や持物はみな一と通り調べましたが、五助さんの持って来た大小は金貝張りで、決して本身ではなかったのでございます。
半七 それがいつの間にか本身に変っていたのか。(再び一座を見まわして考えている。)
三津平 今も云っているところですが、どうも魔がさしたとしか思われませんよ。
半七 まったく魔がさしたのかも知れねえな。(刀をながめて再び考えている。)
(下のかたより角太郎の妹おてる、十六七歳。仲ばたらきお冬、十七八歳。あわてていず。)
おてる もし、兄さんがどうかしたのかえ。
お冬 若旦那様がお怪我をなすったそうですが……。(倒れている角太郎を見て駈けよる。)もし、若旦那。どうなすったんですよ。(泣き声になって呼ぶ。)もし、若旦那……若旦那……。
与兵衛 これ、これ、親分さんもいらっしゃる。まあ、静かにしろ、静かにしろ。
お冬 でも、若旦那がこんなになって……。
おさき まあ、まあ、あとで判ることだよ。
(おさきは眼で制する。お冬は泣いている。)
半七 時にお医者はまだ来ませんかね。
長次郎 すぐに来るということでしたが、なにをしているのかな。
おさき おまえの云いようが悪いのじゃあないか。
長次郎 いいえ。若旦那が大怪我をしたから、すぐに来てくれろとよく云ったのでございます。
与兵衛 (じれる。)なにしろ遅いな。庄八、ここには構わずに早く行って来い。
庄八 はい、はい。
(庄八が起とうとする時、下のかたよりばたばたと足音して、大勢の見物客が男女入りまじって、どやどやと入り来たる。)
男甲 若旦那が怪我をしたというじゃありませんか。
大勢 (口々に。)どうしました、どうしました。
半七 ああ、いけねえ、いけねえ。むやみに這入り込んで荒しちゃあいけねえ。
(半七は片手に刀を持ち、片手で大勢を制する。おてるとお冬は角太郎を取りまいて泣いている。)
男乙 でも、若旦那が倒れているようだ。
女甲 ほんとうにどうなすったのだろうねえ。
(大勢はがやがや云いながら覗こうとする。)
半七 ええ、うるせえな。斬るよ、斬るよ。
(半七は持っている刀をふりまわせば、人々はおどろいてあとへ退りながら、まだがやがや云っている。)
第二幕
神田三河町、半七の家。ここは茶の間で、小綺麗に片附けられ、拭き込んだ長火鉢や、燈明のかがやく神棚などがある。庭には小さい池がある。壁には子分等の名前をかきたる紙を貼り附け、それにめいめいの十手がかけてある。次の間の正面は障子、その外に入口の格子がある。
(第一幕より六日目の朝。子分の亀吉が表を掃いている。向うより半七の妹おくめが先に立っていず。おくめは神田の明神下に住む常磐津の師匠で、文字房という若い女。おくめのあとより三十七八歳の女が附いて来る。これはおなじ師匠で、下谷に住む文字清という女、色は蒼ざめ、眼は血走って、よほど取り乱したていである。)
おくめ 亀さん、お早う。
亀吉 やあ、明神下のお師匠さん。早いね。
おくめ かせぎ人は違うのさ。(笑う。)
亀吉 まったくだ。まあ、おはいんなせえ。(云いながら文字清をじろじろ見る。)
おくめ 兄さんは家にいるの。
亀吉 おかみさんは朝まいりに出かけたが、親分はいますよ。なに、もうとうに飯を食って、顔を洗って起きているのさ。
おくめ おまえさんの云うことは逆さまだねえ。まあ、なにしろ御免なさいよ。
亀吉 さあ、さあ、通んなせえ。(格子の内に入りて呼ぶ。)おい、おい、親分。明神下のお師匠さんが来ましたぜ。
おくめ (文字清をみかえる。)さあ、遠慮なしにおはいんなさいよ。
文字清 はい。
(台所より女中おみのが出て、手あぶりの火鉢に火を入れたりする。おくめと文字清は内に入りて坐る。奥より廻り縁づたいに半七いず。)
半七 やあ、大層早いな。(長火鉢の前に坐る。)おい、おみの。なんだかお連れさんがあるようだぜ。茶を入れる支度でもしろ。
おみの はい、はい。
(おみのは手あぶりを二人の前に置いて、奥に入る。)
おくめ 姉さんはいつも御信心ね。
半七 じゃあ、もう亀から聞いたか。きょうは十五日で深川へ朝まいりよ。時にそっちのお客様にはまだ御挨拶をしねえが、どなただね。
文字清 (すすみいず。)申しおくれて相済みません。わたくしは下谷に居ります文字清と申しますもので、こちらの文字房さんには毎度お世話になって居ります。
半七 いえ、どう致しまして……。おくめこそ年がいきませんから、さぞ色々と御厄介になりましょう。この後も何分よろしくおねがい申します。
おくめ そこで早速ですがね。この文字清さんがお前さんに折入って頼みたいことがあると云うんですがね。
半七 むむ。そうか。(文字清に。)もし、おまえさん。どんな御用だか知りませんが、わたしに出来そうなことだかどうだか、まあ伺って見ようじゃありませんか。
文字清 ありがとうございます。だしぬけにお邪魔に出まして、まことに恐れ入りますが、わたくしもどうしていいか思案に余って居りますもんですから、かねて御懇意にいたして居ります文字房さんにお願い申して、こちらへ押掛けに伺いましたような訳で……。お聞き及びかも知れませんが、この十日の初午の晩に具足町の和泉屋で素人芝居がございました。そのときに和泉屋の若旦那が六段目の勘平で切腹すると、刀がいつの間にか本身に変っていたので、ほんとうに腹を切ってしまいました。
半七 それはわたしもその場に立会って知っています。和泉屋でも大騒ぎをして、医者を呼んで疵口を縫わせて、色々に手当をしたが、二日二晩苦しみ通して、とうとう息を引き取ったそうで、どうも可哀そうなことをしましたよ。
おくめ そのことに就いて、文字清さんが大変に口惜しがっているんですよ。
文字清 (泣き出す。)親分さん。どうぞ仇を取ってください。
半七 仇……。だれの仇を取るんだね。
文字清 わたくしの倅のかたきを……。
半七 え。(相手の顔をじっと見る。)少しわからねえな。
文字清 (物狂わしく。)わたくしはもう口惜しくって……口惜しくって……。(泣く。)
おくめ まあ、そう泣かないで、よくその訳をお話しなさいよ。
半七 唯むやみに泣いていちゃあ仕様がねえ。おまえさんの息子が一体どうしたというのだ。まあ、落ちついてはっきり云って聞かせねえ。
文字清 はい。(やはり身をふるわせて泣いている。)
半七 おい、おくめ。おまえがこの師匠を連れて来たんだから、一と通りのことは知っているだろう。師匠の息子がどんなことになったのだ。
おくめ 実はね、今云った和泉屋の若旦那はこのお師匠さんの息子さんですとさ。
半七 なに、和泉屋の若旦那はこの師匠の息子だと……。そりゃあおれも初耳だ。じゃあ、あの若旦那は今のおかみさんの子じゃあねえのか。
おくめ そうですとさ。
半七 ふむう。そうかえ。(かんがえている。)
(亀吉は盆に茶碗を乗せて出で、おくめと文字清の前に置く。)
亀吉 番茶でございますよ。
半七 話が少し入り組んで来たようだ。おめえは奥へ行っていろ。
亀吉 あい、あい。(奥に入る。)
半七 おい、師匠。文字清さん。和泉屋の息子の角太郎というのは、ほんとうにお前さんの子供かえ。
文字清 (顔をあげる。)はい。角太郎はわたくしの実の倅でございます。こう申したばかりではお判りになりますまいが、今から丁度二十年前のことでございます。わたくしが仲橋の近所でやはり常磐津の師匠をいたして居りますと、和泉屋の大旦那がまだ若い時分で時々遊びに来まして、自然にまあその世話になって居りますうちに、わたくしはその翌年に男の子を生みました。それが今度なくなりました角太郎で……。
半七 じゃあ、その男の子を和泉屋の方で引取ったんだね。
文字清 そうでございます。和泉屋のおかみさんがその事を聞きまして、丁度こっちに子供がないから引取って自分の子にしたいと……。わたくしは手放すのはいやでしたけれど……。(又泣く。)向うへ引取られれば立派な店の跡取りにもなれる、つまりは本人の出世にもなることだと思いまして、生まれると間もなく和泉屋の方へ渡してしまいました。
半七 そうして、おまえさんは其後も和泉屋へ出這入りをしていなすったのかえ。
文字清 こういう親があると知れては、世間の手前もあり、当人の為にもならないというので、わたくしは相当の手当てを貰いまして、せがれとは一生縁切りという約束をいたしました。それから唯今の下谷へ引越しまして、相変らずこの商売をいたして居りますが、やっぱり親子の人情で、一日でも生みの子のことを忘れたことはございません。せがれがだんだんに大きくなって、立派な若旦那になったという噂を聴いて、わたくしも蔭ながら喜んで居りますと、とんでもない今度の騒ぎで、わたくしはもう気でも違いそうになりました。(身をふるわせて又泣く。)
半七 なるほど、そんないきさつがあるのかえ。わたしはちっとも知らなかった。それにしても若旦那の死んだのは不時の災難で、だれを怨むというわけにもいくめえと思うが……。それともそこには何か理窟がありますかえ。
文字清 (きっとなって。)はい。判って居ります。あの角太郎はおかみさんが殺したに相違ございません。
おくめ それをわたしも今朝はじめて聞いたんですけれど、まさかに大家のおかみさんがそんな事を……。ねえ、兄さん。
半七 まあ、横合いから口を出すな。これは大切な御用の話だ。これからは師匠と膝組みで話をしなければならねえ。おまえもちっとのあいだ奥へ行っていろ。
おくめ はい。(文字清に。)じゃあ、おまえさんも御ゆっくりとお話しなさい。
(おくめは奥に入る。)
半七 おい、師匠。もっとこっちへ来てくんねえ。和泉屋のおかみさんが若旦那を殺したというには何か確かな証拠でもあるのかえ。若旦那を殺すほどならば、初めから自分の方へ引取りもしめえと思うが……。
文字清 角太郎が和泉屋へ貰われてから四年目に今のおかみさんの腹に女の子が出来ました。おてるといって今年十六になります。ねえ、親分。おかみさんの料簡になったら、角太郎が可愛いでしょうか、自分の生みの娘が可愛いでしょうか。角太郎に家督をゆずりたいでしょうか、おてるに相続させたいでしょうか。(だんだんに興奮して。)ふだんはいくら好い顔をしていても、人間の心は鬼です。邪魔になる角太郎をどうして亡き者にしようかぐらいの事は考え付こうじゃありませんか。まして角太郎は旦那の隠し子ですもの、腹の底には女のやきもちもきっとまじっていましょう。そんなことを色々かんがえると、おかみさんが自分でしたか人にやらせたか知りませんけれど、楽屋のごたごたしている隙をみて本物の刀とすり換えて置いたに相違ないと、わたくしが疑ぐるのが無理でしょうか。
半七 むむ。
文字清 (いよいよ興奮して。)それはわたくしの邪推でしょうか。親分、おまえさんは何とお思いです。(詰めよる。)
半七 (しずかに。)それだけの話を聴いたところじゃあ、お前さんがそう思い詰めるのも無理じゃあねえが……。
文字清 無理どころか、まったくそれに相違ないんです。わたくしは口惜しくって、口惜しくって……。いっそ出刃庖丁でも持って和泉屋の店へあばれ込んで、あん畜生をずたずたに斬り殺してやろうかとも思っているんですが……。
半七 (なだめるように。)まあ、まあ、そんな短気は出さねえ方がいい。お前さんはそう一途に決めていても、世の中の事というものは白紙へ一文字を引いたように、無造作にわかるものじゃあねえ。ともかくも悪いようにはしねえから、この一件はわたしに任せて置きなせえ。
文字清 じゃあ、親分はまだわたくしの云うことを本当にしちゃあ下さらないんですか。
半七 その本当か嘘かを調べているのだ。まあ、まあ、せいちゃあいけねえ。
文字清 きっと調べて下さいますか。
半七 おまえさんに頼まれないでもわたしの役目だ。きっと調べてあげますよ。
文字清 いくら自分の子になっているからと云っても、角太郎を殺したおかみさんは、よもや無事じゃあ済みますまいね。お上できっとかたきを取って下さるでしょうね。
半七 そりゃあ知れたことさ。
文字清 それでもあのくらいの大きい家になると、内証で色々に手をまわして、いい加減に揉み消してしまうというじゃあありませんか。
半七 (笑う。)それも事による。いくら金を使っても、手をまわしても、人殺しが滅多に帳消しにゃあならねえから、まあ、安心していなさるがいい。
文字清 大丈夫でしょうか。
半七 大丈夫だよ。
文字清 受合いますか。
半七 受合うよ。
文字清 そんならいっそすぐに行ってください。
半七 え、どこへいくのだ。
文字清 これからすぐに和泉屋へ行って、あのおかみさんを召捕ってください。
半七 (又笑う。)はは、そんな駄々をこねちゃあいけねえ。人間ひとりにお縄をかけるというのは重いことだ。
文字清 人間ひとりを殺したのは軽いことですか。さあ、すぐに行ってください。(起ちあがる。)
半七 どうも困るな。(奥に向いて。)おい、おい、おくめ。ちょっと来てくれ。
おくめ はい、はい。(奥よりいず。)もう御用は済んだのですか。
半七 この師匠が無理を云って、おれを困らせていけねえ。なんとかなだめて連れて行ってくれ。
文字清 わたしが無理をいうのじゃあない。親分さんがわたしの云うことを本当にしてくれないんですよ。わたしは口惜しくって、口惜しくって……。(取り乱して泣き伏す。)
おくめ 兄さん、どうしたもんでしょうねえ。
半七 どうすると云って、だまして連れていくよりほかはねえ。師匠はよっぽど取りのぼせているのだ。(文字清に。)おい、師匠。幾度云っても同じことだ。わたしがきっと受合って、おまえの息子のかたきを取ってやるから、その積りでおとなしく帰るがいいぜ。
(半七はおくめに眼くばせして、早く連れてゆけと云う。)
おくめ じゃあ、お師匠さん。兄さんがあんなに受合ってくれたんですから、きょうはこれで帰ろうじゃありませんか。ね、そうおしなさいよ。さあ、いきましょうよ。
文字清 でも、親分さんは何だかわたしの云うことを本当にしてくれないようですから。(又泣く。)
半七 それもこれも長い目で見ていれば自然に判ることだ。あんまり世話を焼かせねえで素直に帰りなせえ。(おくめに。)さあ、早く連れていけ。
おくめ さあ、おまえさん。(文字清の手をとる。)帰りましょうよ。
(文字清は無言で泣きながら起ち上がる。おくめは労わるようにして表へ連れ出してゆく。)
半七 おい、ちょっと待て。おまえ一人じゃあちっと不安心だ。野郎を誰か送らせてやろう。亀のほかに幸次郎がいる筈だ。(二階にむかいて。)おい、幸次郎。来てくれ。
(二階より子分の幸次郎いず。)
幸次郎 なんですね。
半七 妹と一緒にあの師匠を送って行ってくれ。大分のぼせているようだから気をつけろ。
幸次郎 わかりました。(すぐに表へ来る。)
おくめ 御苦労さまですね。
幸次郎 この師匠の家はたしか下谷だったね。それなら遠い旅でもねえ。さあ、行きやしょう。
おくめ 兄さん、さよなら。
(おくめと幸次郎が附添いて文字清を送ってゆく。半七は縁に出で、池の鯉に麩を出してやりながらじっと考えている。奥より亀吉いず。)
亀吉 親分。飛んでもねえ気ちげえに取っ捉まって、ひどい目に逢いなすったね。(笑いながら茶碗などを片附ける。)陽気がだんだんぽか付いて来ると、ああいうのが殖えて来るものだ。
半七 そうは云うものの半気ちげえになるのも無理はねえ。考えてみりゃあ可哀そうなものだ。なんとかして早く埒をあけてやりてえものだ。
亀吉 和泉屋の息子はとうとう死んだそうですね。
半七 それだからいよいよ打っちゃっては置かれねえ。
亀吉 芝居の六段目がほんとうの六段目になったのは不思議さね。
半七 不思議といえば不思議だな。
亀吉 あの師匠の云うのはほんとうだろうか。
半七 おめえはどう思う。
亀吉 そりゃあ判らねえ。だが、あんなに半気ちげえになっているのを見ると、まんざら跡方のねえことでもねえらしいね。兎も角ももう少し手繰ってみちゃあどうです。
半七 むむ。
(半七はやはり考えている。向うより大和屋十右衛門、四十五六歳、相当の町家の主人の風俗にて出で来たり、内をうかがいて丁寧に案内する。)
十右衛 御免ください。
亀吉 あい、あい。(出る。)どなたですえ。
十右衛 三河町の半七親分のお宅はこちらでございましょうか。
亀吉 そうですよ。どこからお出でなすった。
十右衛 わたくしは芝の露月町で金物渡世をいたして居ります大和屋十右衛門と申す者で、親分さんにお目にかかりまして、少々おねがい申したいことがございますが、お宅においででございましょうか。
亀吉 ちょいと待っておくんなさい。(引っ返して来る。)親分。
(半七は黙って考えている。)
亀吉 おい、親分。ぼんやりしていちゃあいけねえ。お客ですよ。
半七 (気がついて振向く。)そうぞうしいな。誰が来た。
亀吉 露月町の金物屋で大和屋十右衛門という人だそうです。
半七 なにしろこっちへ通すがいい。
亀吉 (入口へ来て。)さあ、どうぞ。
十右衛 ごめん下さい。
(十右衛門は丁寧に会釈して内に入る。亀吉は手あぶり火鉢を出し、茶の支度をする心で台所に入る。)
半七 わたくしが半七でございます。
十右衛 手前は大和屋十右衛門、どうぞ御見識り置きをねがいます。
半七 どうぞお楽においで下さい。
十右衛 はい、はい、有難うございます。
(十右衛門は自分の用向きを云い出し兼ねて、もじもじしている。おみのは茶を持っていず。)
十右衛 どうぞもうお構い下さいますな。
(おみのは台所に入る。)
十右衛 (やはりもじもじして。)まことに結構なお住居でございますな。
半七 野郎共が大勢ごろごろしていて男世帯も同様ですから、家のなかは散らかし放題、一向にだらしがございません。
十右衛 いえ、よくお綺麗に片附いて居ります。
(十右衛門はそこらを見まわしながらやはりもじもじしている。半七は何を云いに来たのかと、相手の顔をながめている。)
十右衛 よいお天気がつづきまして、まことに仕合せでございます。
半七 ことしは余寒が強くないので大きに楽でございました。もう直きに彼岸が来る。雛市がはじまる。世間もだんだん陽気になって来ましょう。
十右衛 左様でございます。空の色などももうめっきりと春めいて参りました。
(十右衛門はいつまでももじもじしているので、半七は少し焦れったくなって、煙管で火鉢の縁をぽんぽん叩く。十右衛門はその音にびっくりしたように半七の顔を見る。)
半七 そこで、早速ですが、どんな御用でございますね。
十右衛 いや、どうもお忙がしいところへお邪魔に出まして、なんとも申訳がございません。
半七 そんな御挨拶には及びませんから、肝腎の御用を早く仰しゃって下さい。
十右衛 はい、はい。どうも恐れ入りましてございます。
半七 (じれる。)どうもいけねえな。もし、旦那。なんにも恐れ入ることはねえから、早く云って聞かして下さいよ。
十右衛 では、申上げますが……。(ようよう思い切って。)親分も御役柄で何もかも御承知の筈でございますが、具足町の和泉屋のせがれも飛んだことになりまして……。(眼をうるませる。)
半七 ははあ。それじゃあおまえさんもあの和泉屋を御存じなんですかえ。
十右衛 実はわたくしは和泉屋の女房おさきの兄でございます。
半七 むむ、そうですかえ。(少しく形をあらためる。)まったくお気の毒なことでしたね。あの晩お前さんも行っていなすったのか。
十右衛 わたくしは風邪で昼間から臥せって居りましたので、あの晩は芝居見物にも参りませんでしたが、あとでその話を聴きまして実にびっくり致しました。
半七 (うなずく。)お察し申しますよ。
十右衛 就きましては、死んだ者は不時の災難で今更致し方もございませんが、さてそのあとの評判でございます。(ため息をついて。)世間の人の口はまことにうるさいもので、出入りの者などの中には何か詰まらないことを申す者もあるようで、妹も大層心配いたして居ります。
半七 (素知らぬ顔で。)詰まらないこととは……。どんな事を云うんですね。
十右衛 (云い淀んで。)それがどうも困りますので……。そんな悪い噂がそれからそれへと拡まりますと、妹がまったく可哀そうでございます。
半七 (やはり素知らぬ顔で。)それじゃあ今度のことに、和泉屋のおかみさんが何か係り合いがあるとでも云うんですかえ。
十右衛 まあ、まあ、そんなわけでございます。兄の口から斯う申すも如何でございますが、あれは正直おとなしい女で、角太郎を生みの子供のように大切にして居りましたのに、それを何か世間にありふれた継母根性のようにでも思われますのは如何にも残念でございまして……。ともかくも葬式は昨日で済みましたから、これから何とかして当夜の間違いの起った筋道を詮議いたしたいと存じて居るのでございます。その筋道がよく判りませんで、妹が何かの濡衣でも着るようでございますと、妹は気の小さい女でございますから、あんまり心配して気ちがいにでもなり兼ねません。それが不便でございまして……。(鼻紙を出して眼をふく。)どうか親分さんのお力で、一体どうして角太郎の大小が本身の品と取り変ったのか、それをよく詮議して頂きたいと存じまして、こうしてお願いに出たのでございます。
半七 舞台で使う銀紙の刀がどうして本身に変ったのか、わたくしもその晩すぐに楽屋へ踏み込んで調べてみたが、さっぱり見当が付かないので困ってしまいました。損料屋も色々に詮議しましたが、まったく何んにも知らないらしいし、町人衆ばかりが寄り集まっているところに、ほん物の大小が置いてあろう筈もなし、どうして取り違ったのか……。(云いかけて考える。)それに就いてわたくしもちっと考えていることもあるんですが……。
十右衛 (乗り出す。)お心当りがございますか。
半七 さあ。そこで大和屋の旦那。妙なことを伺うようですが、若旦那は芝居のほかに何か道楽がありましたかえ。
十右衛 素人芝居の役者になるほどでございますから、お芝居は勿論大好きでございましたが、そのほかに碁将棋のたぐいの勝負事は嫌い、酒も嫌い、若い者としてはまず道楽の少ない方で、女道楽の噂などもついぞ聞いたことはございませんでした。
半七 お嫁さんの噂もまだ無かったんですね。
十右衛 (やや迷惑そうに。)それは内々決まって居りましたので……。
半七 きまっていましたか。
十右衛 はい。こうなれば何もかも申上げますが、実は和泉屋の仲ばたらきのお冬という女に手をつけまして……。尤もその女は気立ても悪くないものですから、いっそ世間に知れないうちに相当の仮親をこしらえて、嫁の披露をしてしまった方がいいかも知れないなどと、親たちも内々相談して居りましたのですが、思いも付かないこんな事になってしまいまして、つまり両方の運が悪いのでございます。
半七 そのお冬というのは、年は幾つで、どこの者ですね。
十右衛 あけて十八になりまして、品川の者でございます。
半七 若旦那と色になるようじゃあ、定めて容貌もいいんでしょうね。
十右衛 容貌はまず十人並以上で、和泉屋の嫁に致しても恥かしくはないかと、わたくし共も存じて居りました。
半七 (うなずく。)いや、わかりました。(ひとり言のように。)やっぱりあの女か。
十右衛 お冬を御存じでございますか。
半七 あの騒ぎのときに楽屋でちらりと見かけたのが多分そのお冬という女でしょう。若旦那のそばへ行って無暗に泣いているのがちっとおかしいと思いました。いや、まだほかにもおかしい奴がありましたが、成程そんなわけがあったのですか。(かんがえて。)まあ、ようございます。それじゃあ、旦那。これからわたくしは具足町のお店へ出かけましょう。
十右衛 すぐにお出かけ下さいますか。
半七 下手の考え休むに似たりとか云いますから、思い立ったらすぐに取りかかって、なんとか早く埒をあけてしまいましょうよ。ぐずぐずしていると色々の面倒が起りますからね。
十右衛 では、もうお見込みが付きましたか。
半七 さあ。(笑って。)まだどうなるか判りませんが、あらましの段取りは附いたようです。
十右衛 (やや不安らしく。)そこで、そのお見込みはどういうことに決まりましたのでございましょうか。
半七 それは聞かないでください。この芝居も幕をあけてみなければどうなるか判らねえ。下手にやり損じると、今度は半七が腹を切らなければなりませんからね。
十右衛 でも、わたくしだけには御内々で……。決して他言いたしませんから。
半七 地獄極楽の区ぎり目の付くまでは、素人衆はまあ黙って見ておいでなさい。
十右衛 はい。(よんどころなく黙っている。)
半七 (かんがえる。)いや、そうでもねえ。おまえさんは味方に抱き込んで置く方が都合がいいかな。時に旦那はお酒をあがりますかえ。
十右衛 飲むというほどでもございません、まあ一合上戸ぐらいのことでございます。
半七 お飲みなされば丁度いい。生憎かかあがいねえので、碌なお肴もありませんが、まあ一杯飲んでから出かけることに致しましょう。(台所に向いて。)おい、亀。
(台所より亀吉いず。)
半七 肴はなんでもいいから早く酒の支度をさせてくれ。
亀吉 あい、あい。(引っ返して去る。)
十右衛 どうぞお構いくださいますな。わたくしはもうお暇をいたします。(起ちかかる。)どうもお邪魔をいたしました。
半七 ああもし、おまえさんはこれから和泉屋へ行きなさるんでしょうね。
十右衛 え。
半七 先廻りをしていかれちゃ困る。ここでわたしと一杯飲んで、どうぞ一緒に行ってください。
十右衛 (迷惑そうに。)はい。
半七 わたしもたんといける口じゃあねえ。やっぱり一合上戸のお仲間ですが、きょうは少し飲みましょうよ。顔でも紅くしていねえと景気が附きませんや。(笑う。)
十右衛 はい。
半七 旦那もまあお飲みなさい。よたん坊が二人連れで威勢よく和泉屋へ乗込もうじゃありませんか。
十右衛 (いよいよ困った顔をして。)はい。
半七 (台所に向いて。)おい、おい。なにをしているんだ。早くしねえか。
(亀吉は徳利を持ち、おみのは膳を運びていず。)
亀吉 馬鹿に急ぐんだね。
半七 ゆっくりしちゃあいられねえ。立場だ、立場だ。
亀吉 まだ燗は本当に出来ねえぜ。
半七 冷でもいいから早く持って来い。
亀吉 あい、あい。
半七 どれ、今のうちに衣裳を着かえて置こうか。(起つ。)旦那、かまわずに一杯やっていて下さい。亀、お相手をしろ。
(云いすてて半七は奥に入る。十右衛門はなんだか落着かないような顔をして、あとを眺めている。)
第三幕
(一)
京橋具足町の金物屋、和泉屋の店さき。間口の広い大店にて、店さきの土間にも店の左右の地面にも、金物類が沢山に積んである。上のかたには土蔵の白壁がみえて、鉄の大きい天水桶もある。軒には和泉屋と染めた紺暖簾がかかっている。下のかたには町家がつづいて見える。
(第二幕とおなじ日の午頃。店の帳場には四十歳以上の大番頭伝兵衛が帳面を繰っている。ほかに番頭弥助、三十二三歳。おなじく和吉、二十四五歳。いずれも帳面をならべて十露盤をはじいている。若い者庄八と長次郎は尻を端折って店さきに出で、小僧三人に指図して、五徳や火箸のたぐいを縄でくくらせている。)
庄八 さあ、さあ、早くしろ。
長次郎 午飯までに片附けてしまわなければならないのだ。
小僧一 これをみんな土蔵のなかへ運び込むんですかえ。
庄八 おなじことを幾度も聞くな。長どんのいう通り、これを片附けてしまわないうちは、誰にも午飯を食わせないぞ。
小僧二 この火箸は馬鹿に重いんですね。
長次郎 鉄で出来ているから重いのは当りまえだ。苧殻の箸じゃあねえ。その積りでしっかり持て。
小僧三 餓鬼に苧殻ならいいが、餓鬼に鉄棒を持たせるのだから遣り切れねえ。
庄八 生意気なことをいうな。ぐずぐずしていると、なぐり付けるぞ。
小僧一 やれ、やれ、きょうは朝からお小言の続け玉だ。
小僧二 定九郎なら二つ玉だが、つづけ玉じゃあ全くやりきれねえ。
小僧三 定九郎ならまだしもだが、勘平と来た日にゃあ大変だ。
長次郎 (叱る。)これ、大きな声でそんなことを云うな。
庄八 大旦那やおかみさんにきこえたら、それこそ大変だぞ。
(小僧共も首を縮めて口をおさえる。)
長次郎 さあ、早くしろ、早くしろ。
庄八 四五日商売を休んだので、みんな怠け癖が附いてしまやあがった。
小僧 (声をそろえて。)さあ、さあ、早くしろ。
(庄八と長次郎も手伝いて、小僧共は金物類を上のかたへ重そうに運んでゆく。)
伝兵衛 (あとを見送って舌打ちする。)小僧どもは碌なことを云わない。定九郎だの勘平だのと、そんな噂は禁物だ。
弥助 大旦那やおかみさんはもう忠臣蔵の芝居は一生見ないと云っておいでですよ。
伝兵衛 まったくお察し申すよ。わたしももう忠臣蔵は見たくない、あの晩のことを思い出すと、今でもぞっとするようだ。小僧共ばかりではない。若い者や女中たちにも今後決して忠臣蔵の噂をしてはならないと、かたく云い渡して置くがいいぜ。
弥助 はい、はい。
(三人は再び帳面や十露盤にむかっている。向うより半七は着物を着かえて草履をはき、酒に酔いたるていにていず。あとより十右衛門が附添っていず。)
十右衛 (不安らしく。)もし、親分さん。大丈夫でございますかえ。
半七 なにが大丈夫だ。神田から京橋まで、この通り真直ぐにあるいて来たじゃあねえか。(云いながらよろよろする。)
十右衛 もし、あぶのうございます。
半七 なにがあぶねえのだ。あぶがなければ蜂もねえや。はははははは。まあ、そんな理窟じゃあありませんかえ。
(半七はよろよろしながら店さきに来る。十右衛門は困った顔をして、附いて来る。)
弥助 おお、露月町の旦那様でございましたか。
和吉 いらっしゃいまし。
(半七はよろけながら店先に腰をかける。十右衛門は立っている。)
十右衛 この中はみんなも御苦労でした。さぞくたびれたことでしょう。
伝兵衛 (帳場を出る。)これは入らっしゃいまし。この中はいろいろ御心配にあずかりまして、ありがとうございました。
十右衛 旦那もおかみさんも内ですかえ。
伝兵衛 はい。どなたも奥にお揃いでございます。どうぞおあがり下さい。
半七 そんな挨拶はどうでもいい。わっしの方に少し用があるんだ。
伝兵衛 おお、三河町の親分でございましたか。先夜は御苦労様でございました。いや、どうもお見それ申しまして、とんだ失礼をいたしました。
半七 どいつもこいつもみんな失礼な奴ばかり揃っているのだ。それを一々気にかけていた日にゃあ、ここの店へ足ぶみは出来ねえ。おい、誰でもいいから湯でも水でも一杯持って来てくれ。
伝兵衛 はい、はい。それ、和吉。
和吉 はい、はい。
(和吉は半七を尻目に視ながら奥に入る。)
半七 ああ、酔った、酔った。まっ昼間に飲んだせいか、馬鹿にのぼって来やあがった。
十右衛 まったく暑くなって来ました。
(十右衛門は店に腰をおろし、ふところから手拭を出して額の汗をふく。)
伝兵衛 どなたもよい御機嫌でございますな。まあ、ともかくもおあがり下さい。親分もどうぞ。
半七 おまえさんは今、大きな面をして帳場に坐っていなすったね。番頭さんかえ。
伝兵衛 はい。
十右衛 一番々頭の伝兵衛という者でございます。
半七 なるほど金物屋の番頭だけに、薬鑵あたまに出来ていやあがる。どんな音がするか、おれに叩かしてみろ。
伝兵衛 え。
半七 はは、びっくりするな。冗談だ、冗談だ。(弥助に。)おまえさんも番頭かえ。
弥助 はい。弥助と申します。
半七 そっちがおしゅん伝兵衛で、こっちが鮓屋の弥助か。みんな揃って芝居がかりに出来ていやあがるな。それだからこの間のような騒動が起るのだ。今立って行ったのは何というのだね。
弥助 あれも番頭で和吉と申す者でございます。
半七 むむ、和吉というのか。番頭にしちゃあ若けえね。
伝兵衛 当年二十五になりまして、昨年の春から番頭格になって居ります。
半七 そのほかに牡の犬っころは何匹飼ってありますね。
伝兵衛 (面喰らって。)はい。
半七 はは、犬っころじゃあ判るめえ。男の奉公人のことさ。その犬っころが何匹いるんだよ。
伝兵衛 はい。
半七 小じれってえな。はっきりと返事をしろ。まさかに五百羅漢ほどに鼻をそろえている訳でもあるめえ。考えずともすぐに判る筈だ。
十右衛 (見かねて。)ここの家の奉公人は若い者が十二人、小僧が五人でございます。
半七 白雲あたまの小僧なんぞに用はねえ。大きい犬っころ十二匹をみんなここへ引っ張り出してください。
十右衛 はい。(伝兵衛と顔をみあわせる。)
半七 とんだ寺子屋だか、一匹ずつに首実験だ。早く引摺って来てください。
十右衛 はい、はい。
(十右衛門は仕方がないから早く呼んで来いと眼で知らせれば、弥助は心得て店さきに立出で、上のかたに向って呼ぶ。)
弥助 おい、おい。誰かいないか。
庄八 はい。はい。
(上のかたより庄八出で、十右衛門と半七を見てあわてて会釈する。)
弥助 少し用があるから若い者をみんな呼んで来てくれ。
庄八 はい、はい。(引っ返して去る。)
半七 あいつは何といいますね。
伝兵衛 庄八と申します。
半七 ここの家はお冬どんという小綺麗な仲働きがいる筈だ。それはどうしました。
伝兵衛 お冬は昨晩から気分が悪いと申しまして、奥の四畳半に臥せって居ります。
半七 その四畳半は女中部屋かえ。
伝兵衛 女中部屋はなにぶん狭うございますので、おかみさんの指図で奥の小座敷に寝かしてございます。
半七 むむ、そうか。(うなずく。)時にさっき頼んだはずの湯も水もいまだに持って来てくれねえのか。あの番頭め、駈落ちでもしやあしねえか。
十右衛 御冗談を……。しかし遅いな。(弥助に。)これ、和吉はどうしているのか、見て来なさい。
弥助 はい、はい。
(弥助は起って奥へはいろうとする時、出逢いがしらに和吉は盆の上に湯呑を乗せていず。)
弥助 ええ、あぶなく突き当るところだ。親分さんがお待ち兼ねだよ。
和吉 どうも遅くなりました。(半七の前に盆を持ってゆく。)
半七 ひどく待たせたじゃあねえか。おれの註文を聴いてから玉川まで水を汲みに行ったわけじゃああるめえ。
和吉 台所の薬鑵があいにく冷めて居りましたので、沸かさせて居りました。
半七 (湯呑を取る。)おい、これを飲んでもいいかえ。
和吉 え。
半七 毒でもはいっていやあしねえか。
和吉 飛んだことを……。
半七 はははははは。(湯を呑む。)
(上のかたより庄八、長次郎を先に立てて、和泉屋の若い者六人いず。奥よりも若い者四人いず。)
十右衛 どうだ。みんな揃ったかな。
伝兵衛 (見わたして。)はい。これでみんな揃いました。
半七 こっちに八匹、そっちに四匹……。(見まわして。)むむ、これで犬っころが皆んな鼻を揃えたわけですね。
(若い者等はおどろいて顔をみあわせる。)
半七 なんだ、なんだ、どいつもこいつも脂を嘗めさせられた蝦蟇のような面をするな。ねえ、もし、大和屋の旦那。具足町で名高けえものは清正公さまと和泉屋だと云うくれえに、江戸中にも知れ渡っている御大家だが、失礼ながら随分不取締だとみえますね。ねえ、そうでしょう。主殺しをするような太てえ奴等に、三度の飯を食わして、一年いくらの給金をやって、こうして大切に飼って置くんだからね。
(人々はびっくりして、再び顔をみあわせる。)
十右衛 (あわてて。)まあ、お静かにねがいます。ここは店先、表は往来でございますから。
半七 そんなことは知れていらあ。(せせら笑う。)だれに聞えたって構うものか。どうせ引きまわしの出る家だ。
十右衛 もし、親分。
半七 いいってことよ、うるせえな。(一同を睨みまわして。)やい、こいつ等。よく聞け。(羽織をぬぐ。)てめえたちは揃いも揃って不埒な奴等だ。おれがさっきから犬っころと云ったのも無理はあるめえ。大それた主殺しを朋輩に持ちながら、知らん顔をして一つ店に奉公して一つ釜の飯を食っているという法があると思うか。ええ、白ばっくれるな。この中に主殺しのはりつけ野郎が一匹まぐれ込んでいるということは、おれがちゃんと睨んでいるのだ。多寡が守っ子みたような小阿魔ひとりのいきさつから、大事の主人を殺すというような、そんな心得違げえの犬畜生をこれまで平気で飼って置いたのがそもそもの間違げえで、ここの主人もよっぽどの明きめくらだ。もし、大和屋の旦那。おまえさんの眼玉もちっと曇っているようだから、物置へいってあくの水で二三度洗って来ちゃあどうですね。
十右衛 いや、もう、どんなに叱られても一言はございません。併し親分、お願いでございますから何分お静かに……。
半七 お前さんにゃあお気の毒かも知れねえが、わっしに取っちゃあ仕合せだ。ここで主殺しの科人を引っくくって連れていけば、八丁堀の旦那にもいいみやげが出来るというものだ。(また呶鳴る。)さあ。こいつ等。生けしゃあしゃあとした面をしていても、どいつの腹が白いか黒いか、おれがもう睨んでいるのだ。てめえたちの主人のような明きめくらだと思うと、ちっとばかり的が違うぞ。なん時両方の腕がうしろへ廻っても、決しておれを怨むな。飛んだ梅川の浄瑠璃で、縄かける人が怨めしいなんぞと詰まらねえ愚痴をいうな。嘘や冗談じゃあねえ。(ふところから十手を出す。)これを見て、神妙に覚悟をしていろ。
(十右衛門は堪らなくなったように半七のそばに来る。)
十右衛 もし、親分。おまえさんはさっきから大分酔っていなさるようだから、まあ奥へ行ってちっとお休みなすってはどうでございます。店先であんまり大きな声をして下さると、世間に対してまったく迷惑いたしますから、兎も角もあっちへお出で下さい。これ、和吉。親分を奥へ御案内申せ。
和吉 はい、はい。(おずおず進み寄る。)もし、どうぞ奥へ……。わたくしが御案内申します。
(和吉は半七の手を取ろうとすると、半七はその横面をいきなり撲りつける。)
半七 ええ、なにをしやあがるんだ。手前たちのような磔野郎のお世話になるんじゃあねえ。やい、やい、なんで人の面を睨みやあがるんだ。てめえ達はみんな主殺しの同類だからはりつけ野郎だと云ったのがどうした。手前たちも知っているだろう。(和吉の顔をきっと見る。)はりつけになる奴は裸馬にのせられて、江戸中を引きまわしになるんだ。それから鈴ガ森か小塚っ原で高い木の上へくくり付けられると、突き手が両方から長い槍をしごいて、科人の眼のさきへ突き付けて、ありゃありゃと声をかける。それを見せ槍というのだ、よく覚えておけ。見せ槍が済むと、今度はほんとうに右と左の腋の下から何遍となく、ずぶりずぶりと突き上げるのだ。
(この怖ろしい刑罰の説明を聴かされて、人々は聴くに堪えないように息をのんで身をすくめている。十右衛門も眉をひそめ、和吉も蒼くなって黙っている。)
半七 さあ、これだけ云って聞かせたら、血のめぐりの悪い手前たちも大抵わかったろう。さっきから無暗にしゃべったので、がっかりしてしまった。奥山の豆蔵だって、これだけしゃべれば五十や六十の銭はかせげるのだ。ほんとうにばかばかしい。店をふさげて気の毒だが、おらあここにちっとのあいだ寝かして貰うよ。
(半七はそこにごろりと寝転んでしまう。人々はほっとして又もや顔をみあわせる。)
伝兵衛 (小声で。)もし、どうしたものでございましょうね。
十右衛 (顔をしかめる。)どうも飛んだ人を連れて来てしまった。まあ、仕方がないから、暫くこのままにしてそっと置くよりほかはあるまいよ。正気なら真逆にこうでもあるまいが、なにしろ酔っているのだから手の着けようがない。
弥助 (おなじく小声で。)それにほかの人とは違いますからね。
十右衛 そうだ、そうだ。それだから猶さら始末が悪い。眼のさめるまでまず斯うして置け。(人々に。)みんなももう用はないから、ここには構わずにめいめいの仕事をしなさい。
一同 はい、はい。
(庄八、長次郎をはじめ、若い者等は皆それぞれに分れて去る。伝兵衛は帳場に戻り、弥助も帳面と十露盤を取る。)
十右衛 どれ、奥へ行って旦那やおかみさんに逢って来ましょうか。まったく飛んだ人を連れて来て、みんなにも気の毒なことをしてしまった。わたしも悪気でしたことではないから、まあ堪忍してください。
伝兵衛 どうも恐れ入ります。
(十右衛門は寝ている半七をみかえり、そこに脱いである羽織を取って半七の上に着せかけ、そのまま奥に入る。和吉は半七の枕もとにある茶盆と湯呑をそっと取りにゆき、その寝顔をじっと眺めて、やがてしずかに奥へゆく。半七は少しく身を起して、そのうしろ姿を見送る。)
伝兵衛 (気がついて。)おお、親分。お目ざめでございますか。
(半七は無言で再びごろりとなる。九つの時の鐘きこゆ。)
弥助 もう石町の九つか。
伝兵衛 朝からなんだかごたごたしていたので、馬鹿に午が早いようだ。
(下のかたより常磐津文字清が取り乱した姿でかけ出して来るのを、おくめと幸次郎が追っていず。)
おくめ おまえさん、まあ、お待ちなさいよ。
幸次郎 冗談じゃあねえ。おめえに滅多なことでもされて見ろ。おれ達が親分にどんなに叱られるか知れねえ。
文字清 いいえ、構わずに放してください。
(文字清は激しい剣幕で二人を突き退けて店さきに来る。)
文字清 (叫ぶ。)おかみさんに逢わして下さい。
弥助 (びっくりして。)おかみさんに逢いたいと云うんですか。して、おまえさんは。
文字清 (じれる。)逢えば判るんだから、早くここへ呼んで下さいよ。
(弥助は煙にまかれて相手の顔をながめている。伝兵衛は気がついて帳場を出る。)
伝兵衛 (小声で。)おまえさんは下谷のお師匠さんじゃありませんか。
文字清 そうですよ。早くおかみさんをここへ呼んで下さいよ。
伝兵衛 なにか御用ですかえ。
文字清 じれったい人だねえ。なんでもいいから逢わして下さいというのに……。
(伝兵衛も困っている。おくめは進み寄って文字清の袂をひく。)
おくめ お師匠さん。後生だから素直に帰って下さいよ。それでないと、わたし達が困りますからさ。
文字清 わたしの方でも頼むから、まあ気の済むようにして下さいよ。(伝兵衛等に。)さあ、早く呼んで来て……。
伝兵衛 でも、むやみに逢わせることは出来ませんよ。こっちにも色々の取込みがあるので……。
文字清 どうしても逢わせないのかえ。そんなら勝手に通るから邪魔をおしでないよ。わたしはね、角太郎のかたき討に来たんだから。
(文字清は帯のあいだから紙にくるんだ剃刀を取り出し、逆手に持って店へかけ上がろうとするので、伝兵衛も弥助もいよいよ驚いてうろうろする。おくめも幸次郎もおどろいて支える。)
おくめ まあ、お前さん。飛んでもない。そんなものを持ってどうする積りですよ。
幸次郎 どうも驚いたな。刃物三昧はあぶねえから、止しねえ、止しねえ。
文字清 ええ、放して下さいよ。
幸次郎 いけねえ、いけねえ。
(文字清は哮り狂って店へあがろうとするを、おくめと幸次郎は一生懸命にひき戻そうとして争ったが、文字清はむやみに剃刀をふりまわすので、二人も持て余して手を放せば、文字清は店へかけあがる。伝兵衛と弥助はあわてて飛び退く。この時、寝ていた半七は不意に飛び起きて、自分の羽織を取って文字清のあたまから被せて引き伏せる。)
半七 (おくめ等に。)あれほど云って置いたのに、なんで又ここへよこしたのだ。
おくめ だって、兄さん。一旦は家へ帰って又飛び出したのよ。
幸次郎 半気違げえだから仕様がねえ。
(文字清は羽織をかき退けて跳ね起きようとするを、半七は又おさえる。)
半七 なるほど、こいつは始末に負えねえ。おい。番頭さん。大和屋の旦那を呼んで来てくんねえ。
(文字清は身をもがくを、半七はおさえ付ける。)
(二)
和泉屋の奥の小座敷。正面の上のかたには三尺の釣床、かけ花生けには白椿の一と枝がさしてある。それにつづいて奥へ出入りの襖。庭の上のかたには四つ目垣、蕾のふくらんだ桃の木がある。下のかたには稲荷の小さい社、そのそばには八つ手の葉が茂っている。
(座敷には屏風をうしろに立てまわして、仲ばたらきのお冬がやつれた顔をして寝床の上に起き直り、薬をのんでいる。その枕もとに和泉屋の女房おさきが同じく暗い顔をして坐っている。)
おさき どうだえ。まだ気分はよくないかえ。
お冬 ゆうべからどうも頭が痛んでなりません。
おさき それも無理の無いことさ。こころの疲れと、からだの疲れで、わたしでさえもがっかりして、骨も魂も抜けてしまったようだから、まして、お前は……。(云いかけて涙ぐむ。)察していますよ。
(お冬は声を立てて泣き入る。)
おさき ああ、そんなに泣いてはからだに悪い。もう、もう、何事も因縁ずくと、わたし達も諦められないところを無理にあきらめるから、お前もどうぞ諦めておくれよ。
お冬 わたくしはいっそ死んでしまいとうございます。(すすりあげて泣く。)
おさき それでは却って仏のためにもならない。たとい角太郎がこの世にいなくっても、一旦はここの家の嫁にと思ったお前のことだから、わたしの方でも決して他人とは思いません。あとあとまでも面倒をみてあげる気でいるから、かならず弱い気を出さないで、一日も早く癒っておくれよ。旦那もしきりに心配していらっしゃるからね。
お冬 奉公人のわたくしにあんまり勿体ないことでございます。そうでなくても御苦労の多いところへ、わたくしがまた御苦労をかけましては相済まないことだと存じて居りますけれど……。(又泣く。)いくら諦めようと思いましても、それがどうにもなりません。こうして臥せって居りましても、若旦那のお顔やお姿が絶えず眼の先にちら付きまして……。
おさき それはわたし達も同じことで……。(眼をぬぐう。)あきらめると云う口の下から、未練も出る。愚痴も出る。ほんとうに情けないことだねえ。
お冬 おかみさん。わたくしはやっぱり死んだ方が優しでございます。(声を立てて泣きくずれる。)
おさき (眼をふいて。)ああ、もう止しましょう。お前をなだめる積りでいながら、わたしが一緒に泣いてしまっては何んにもならない。後生だから、せめてお前だけはからだを丈夫にしておくれよ。忘れても死ぬなどという気を出してはなりませんよ。いいかえ。
お冬 はい。(泣いている。)
おさき あとで女中をよこすから、なんでも用があったら遠慮なくお頼みよ。
お冬 ありがとうございます。
おさき (いじらしそうに見て。)いいかえ。もうお泣きでないよ。風があたるからここの障子は半分閉めて置こうね。
(おさきは縁側の障子を半分しめて奥に入る。お冬はひとりで泣きながら薬をのむ。庭口より和吉が忍んで出で、あと先を見まわしながら縁先に来る。)
和吉 (小声で。)お冬どん、お冬どん。
お冬 誰。和吉さんかえ。
和吉 (やはり小声で。)だれもいないね。
お冬 おかみさんが出ておいでなすったけれど……。今は誰もいませんよ。
(和吉は縁側ににじり上がり、障子をそっと明けてのぞく。)
和吉 まだ頭が重いかえ。
お冬 いそがしい中をたびたびお見舞に来てくれて有難うございます。
和吉 大旦那やおかみさんも心配していなさるから、早く癒らないじゃあいけないぜ。
お冬 あい。
(お冬はやはり啜り泣きをしている。そのいたましい姿を和吉はしばらく無言でじっと眺めていたが、やがて庭に降り立つ。)
和吉 じゃあ。きっと大事におしよ。
お冬 あい。(泣きながら。)おまえさんの親切は忘れませんよ。
(和吉は行きかけて躊躇し、また思い切って縁先へ引っ返して来る。この時、下のかたの八つ手のかげより半七がそっと姿をあらわし、和吉とお冬の様子をうかがいて再び隠れる。)
和吉 (あと先を見返りながら。)お冬どん……お冬どん。
お冬 え。どうかしたの。
和吉 (縁に腰をおろす。)いっそ何んにも云わずにしまおうかと思ったのだが、それではやっぱり気が済まない。(声をうるませる。)わたしは思い切って何もかもおまえの前で白状するから、どうぞ落着いて聴いておくれ。いいかえ。びっくりしないで聴いておくれよ。いいかえ。
お冬 (不審そうに。)そんなに念を押してどんなことを話すの。
和吉 どんなことと云って……。(だんだんに興奮して。)さあ、それだからびっくりしないで聴いてくれというのだ。これ、お冬どん。(声をふるわせる。)おまえは若旦那がどうして死んだのだと思っている。
お冬 舞台で使う勘平の刀がいつの間にか本身に取りかわっていて……。それはおまえさんもよく知っているじゃありませんか。
和吉 それはわたしも知っている。誰よりも彼よりもわたしが一番よく知っているのだ。
お冬 おまえさんは若旦那と一緒に舞台に出て、千崎弥五郎を勤めていたんだから。
和吉 いや、そんなことじゃあない。あの時に勘平の刀をすりかえた者があって、若旦那はとうとうあんなことになったのだ。その若旦那を殺した奴……。それをわたしが知っているのだ。
お冬 え、刀をすりかえて若旦那を殺した奴……。それをお前さんはほんとうに知っているのかえ。
和吉 (苦しそうに。)むむ、知っている。知っている。それをおまえに話そうというのだ。
お冬 (思わず寝床からいざり出る。)あの、おまえさんはほんとうに……。
和吉 むむ、知っている。
お冬 して、そ、それは、だ、だれですかえ。
和吉 え。
お冬 早く教えてくださいよ。(にじり寄る。)
和吉 (縁に手をつく。)お冬どん、堪忍してくれ。
お冬 え。
和吉 主殺しの大悪人はわたしだ。この和吉だ。
(お冬は思わず和吉にしがみつこうとして又躊躇し、やがてわっと泣き伏す。その声におどろいて、和吉はあたりを見まわす。)
和吉 おまえが怨むのはもっともだ。どんなに怨まれても仕方がない。それはわたしも覚悟している。だが、お冬どん。後生だからまあわたしの云うことを聴いておくれ。こうなればみんな正直に打明けるが、わたしがそんな怖ろしい料簡をおこしたのも……。(息をはずませて。)お前が恋しいばっかりだ。
(お冬はおどろいたように顔をあげる。)
和吉 わたしは今まで一度も口に出したことはなかったが、とうからおまえに惚れていたのだ。どうしてもおまえと夫婦にならずには置かないと自分だけでは思いつめていたのだ。そのうちにお前は若旦那と……。そうして、近いうちに表向きにお嫁になると……。まあ、わたしの心持はどんなだったろう。お冬どん、察しておくれ。それでもわたしはお前を憎いとは思わない、今でもちっとも憎いとは思っていない。(いよいよ息をはずませる。)唯むやみに若旦那が憎くってならなかった。いくら御主人でももう堪忍が出来ないような気になって……。わたしは気が違ったのかも知れない。今度の初午の芝居を丁度幸いに、日蔭町から出来合いの刀を買って来て、幕のあく間際にそっと掏りかえて置くと、それがうまく行って……。それでも若旦那の勘平がほんとうに腹を切って、血だらけになって楽屋へかつぎ込まれた時には、わたしも総身に冷水を浴びせられたようにぞっとした。それから若旦那が息をひき取るまで二日二晩のあいだ、わたしはどんなに怖い思いをしたろう。若旦那の枕もとへいくたびに、わたしはいつでもぶるぶる顫えていた。
お冬 (怨みの声をふるわせる。)和吉さん。おまえはなんという人だろう。あんまりだ、あんまりだ。(泣く。)
和吉 さあ、腹の立つのは重々もっともだが、もう少し辛抱して聴いておくれ。恋がたきの若旦那がいなくなれば、おそかれ早かれお前はわたしの物になる。いや、きっとわたしの物にしてみせる……。それを思うと、嬉しいが半分、苦しいが半分で、きょうまでこうして生きて来たが……。(嘆息して。)ああ、もういけない。あの岡っ引はさすがに商売で、とうとうわたしに眼をつけたらしい。
お冬 岡っ引が、もうここの店へ来たんですかえ。
和吉 大和屋の旦那と一緒に来て、酔っぱらっている振りをして、主殺しがここの店にいると大きい声で呶鳴り散らした上に、あてつけらしく磔刑の講釈までして聞かせるので、わたしはもうそこに居たたまれなくなった位だ。(おびえたように左右をみかえる。)そこで、わたしはもう覚悟を決めてしまった。ここの店から縄附きになって出て、牢へ入れられて、引き廻しになって、それから磔刑になる。そんな怖ろしい目に逢わないうちに、わたしは一と思いに死んでしまう積りだ。
お冬 え。
和吉 そういうわけだから、おまえから見れば若旦那を殺した仇に相違ないが、わたしの心持もすこしは察して、どうぞ可哀そうだと思っておくれ。若旦那を殺したのはわたしが重々悪い。この通り、手をついて幾重にもあやまる……。その代り手前勝手の云い分かは知らないが……。(涙ぐんで。)わたしが死んだあとでは、せめてお線香の一本も供えておくれ。それが一生のお願いだ。
(お冬も泣きながら聴いていると、和吉はふところから財布を出す。)
和吉 ここにお給金の溜めたのが、三両二分ある。これはみんなお前にあずけて行くから……。
お冬 いいえ、そんなものを貰っては困ります。
和吉 まあ、そう云わずに受取ってくれ。
お冬 でも、そんなものは……。
和吉 決して係り合いになるようなことはしないから、まあ、受取っておくれと云うのに……。
お冬 そんなことが人に知れると……。
和吉 知れないように黙っていればいいじゃあないか。
(たがいに財布を押し遣り押し戻している時、八つ手のかげより半七が顔を出して咳払いする。和吉はおどろいて見かえれば、半七は再び隠れる。和吉はおちつかぬていにて、無理に財布をお冬に突きつけ、あわてて上のかたへ走り去る。)
お冬 (財布を持って縁先に出る。)ああ、もし、和吉さん。和吉さん。これは持って行って下さいよ。和吉さん。
(この時、八つ手のかげより又もや半七が姿をあらわして、再び咳払いをする。これに気がついてお冬は半七と顔をみあわせ、思わず持ったる財布を縁にばたりと落す。社のかげより十右衛門いず。)
十右衛 親分さん。計略がうまくいきましたね。
半七 途中で御相談した通りの段取りで、とうとうあいつを自滅させましたよ。
十右衛 さすがはお前さんのお腕前、まったく感心いたしました。これ、お冬。この親分さんが角太郎のかたきを見つけ出して下すったのだよ。よくお礼をいうがいい。
お冬 はい。ありがとうございます。
十右衛 これでわたくしも安心しました。いや、ありがとうございます。
お冬 ありがとうございます。
(二人は左右から半七に礼をいう。上のかたにて二三人の声きこゆ。)
声 身なげだ、身なげだ。
半七 もうやったか。気の早え奴だな。(上のかたに向いて。)だが、むやみに引揚げちゃあいけねえ。待った、待った。
(これにて舞台は真暗になる。)
(三)
舞台が再び明るくなると、正面は黒幕。
(幕の外に半七いず。)
半七 みなさん。和吉は裏の井戸へ身をなげて死にました。わたくしがあいつを縛っていくのは造作もありませんが、あすこから引きまわしの科人が出ることになると、和泉屋の古い暖簾に疵が附いて、自然これからの商売にも障りましょう。また本人の和吉とても引廻しやはりつけの重い処刑になるよりも、いっそ一と思いに自滅した方がましだろうと思ったので、酔った振りをして、わざとああ云って嚇かしてやったのです。もう一つには、わたくしも確かにあいつを恐れ入らせるほどの立派な証拠を握っているわけでも無いのですから、まあ、手探りながら無暗にあんなことを云って見たので……。もし、本人になんにも覚えのないことならば、ほかの人達とおなじように唯聞き流してしまうでしょうし、もしも覚えのあることならば、とてもじっとしてはいられまいと、こう思ったのがうまく図にあたって、あいつもとうとう覚悟をきめたのです。
それから常磐津の師匠の文字清、あの女は御覧の通りの始末で、随分みんなを手古摺らせましたが、自分の思い違いだということがすっかり判って、ようようおとなしくなりましたから、どうぞ御安心ください。
それからもう一つ申上げて置きたいのは、わたくしもこれを御縁に、これから先も舞台の上で皆さんにちょいちょいお目にかかることがあるかも知れませんから、どうぞ三河町の半七の顔をよく覚えていて下すって、なにぶん御贔屓をねがいます。
じゃあ、今晩はこれで御免ください。
(半七は会釈して去る。)
底本:「文藝別冊[総特集]岡本綺堂」河出書房新社
2004(平成16)年1月30日発行
底本の親本:「岡本綺堂戯曲選集7」青蛙房
1959(昭和34)年6月
初出:「演劇・映画」
1925(大正14)年12月
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年5月9日作成
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