美しい村
堀辰雄
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天の灝気の薄明に優しく会釈をしようとして、 命の脈が又新しく活溌に打っている。 こら。下界。お前はゆうべも職を曠うしなかった。 そしてけさ疲が直って、己の足の下で息をしている。 もう快楽を以て己を取り巻きはじめる。 断えず最高の存在へと志ざして、 力強い決心を働かせているなあ。
ファウスト第二部 |
御無沙汰をいたしました。今月の初めから僕は当地に滞在しております。前からよく僕は、こんな初夏に、一度、この高原の村に来てみたいものだと言っていましたが、やっと今度、その宿望がかなった訣です。まだ誰も来ていないので、淋しいことはそりあ淋しいけれど、毎日、気持のよい朝夕を送っています。
しかし淋しいとは言っても、三年前でしたか、僕が病気をして十月ごろまでずっと一人で滞在していたことがありましたね、あの時のような山の中の秋ぐちの淋しさとはまるで違うように思えます。あのときは籐のステッキにすがるようにして、宿屋の裏の山径などへ散歩に行くと、一日毎に、そこいらを埋めている落葉の量が増える一方で、それらの落葉の間からはときどき無気味な色をした茸がちらりと覗いていたり、或はその上を赤腹(あのなんだか人を莫迦にしたような小鳥です)なんぞがいかにも横着そうに飛びまわっているきりで、ほとんど人気は無いのですが、それでいて何だかそこら中に、人々の立去った跡にいつまでも漂っている一種のにおいのようなもの、──ことにその年の夏が一きわ花やかで美しかっただけ、それだけその季節の過ぎてからの何とも言えぬ佗びしさのようなものが、いわば凋落の感じのようなものが、僕自身が病後だったせいか、一層ひしひしと感じられてならなかったのですが、(──もっとも西洋人はまだかなり残っていたようです。ごく稀にそんな山径で行き逢いますと、なんだか病み上がりの僕の方を胡散くさそうに見て通り過ぎましたが、それは僕に人なつかしい思いをさせるよりも、かえってへんな佗びしさをつのらせました……)──そんな侘びしさがこの六月の高原にはまるで無いことが何よりも僕は好きです。どんな人気のない山径を歩いていても、一草一木ことごとく生き生きとして、もうすっかり夏の用意ができ、その季節の来るのを待っているばかりだと言った感じがみなぎっています。山鶯だの、閑古鳥だのの元気よく囀ることといったら! すこし僕は考えごとがあるんだから黙っていてくれないかなあ、と癇癪を起したくなる位です。
西洋人はもうぽつぽつと来ているようですが、まだ別荘などは大概閉されています。その閉されているのをいいことにして、それにすこし山の上の方だと誰ひとりそこいらを通りすぎるものもないので、僕は気に入った恰好の別荘があるのを見つけると、構わずその庭園の中へはいって行って、そこのヴェランダに腰を下ろし、煙草などをふかしながら、ぼんやり二三時間考えごとをしたりします。たとえば、木の皮葺きのバンガロオ、雑草の生い茂った庭、藤棚(その花がいま丁度見事に咲いています)のあるヴェランダ、そこから一帯に見下ろせる樅や落葉松の林、その林の向うに見えるアルプスの山々、そういったものを背景にして、一篇の小説を構想したりなんかしているんです。なかなか好い気持です。ただ、すこしぼんやりしていると、まだ生れたての小さな蚋が僕の足を襲ったり、毛虫が僕の帽子に落ちて来たりするので閉口です。しかし、そういうものも僕には自然の僕に対する敵意のようなものとしては考えられません。むしろ自然が僕に対してうるさいほどの好意を持っているような気さえします。僕の足もとになど、よく小さな葉っぱが海苔巻のように巻かれたまま落ちていますが、そのなかには芋虫の幼虫が包まれているんだと思うと、ちょっとぞっとします。けれども、こんな海苔巻のようなものが夏になると、あの透明な翅をした蛾になるのかと想像すると、なんだか可愛らしい気もしないことはありません。
どこへ行っても野薔薇がまだ小さな硬い白い蕾をつけています。それの咲くのが待ち遠しくてなりません。これがこれから咲き乱れて、いいにおいをさせて、それからそれが散るころ、やっと避暑客たちが入り込んでくることでしょう。こういう夏場だけ人の集まってくる高原の、その季節に先立って花をさかせ、そしてその美しい花を誰にも見られずに散って行ってしまうさまざまな花(たとえばこれから咲こうとする野薔薇もそうだし、どこへ行っても今を盛りに咲いている躑躅もそうですが)──そういう人馴れない、いかにも野生の花らしい花を、これから僕ひとりきりで思う存分に愛玩しようという気持は(何故なら村の人々はいま夏場の用意に忙しくて、そんな花なぞを見てはいられませんから)何ともいえずに爽やかで幸福です。どうぞ、都会にいたたまれないでこんな田舎暮らしをするようなことになっている僕を不幸だとばかりお考えなさらないで下さい。
あなた方は何時頃こちらへいらっしゃいますか? 僕はほとんど毎日のようにあなたの別荘の前を通ります。通りすがりにちょっとお庭へはいってあちらこちらを歩きまわることもあります。昔はあんなに草深かったのに、すっかり見ちがえる位、綺麗な芝生になってしまいましたね。それに白い柵などをおつくりになったりして。……何んだかあなたの別荘のお庭へはいっても、まるで他の別荘の庭へはいっているような気がします。人に見つけられはしないかと、心臓がどきどきして来てなりません。どうしてこんな風にお変えになってしまったのか、本当におうらめしく思います。ただ、あなたと其処でよくお話したことのあるヴェランダだけは、そっくり昔のままですけれど……
ああ、また、僕はなんだか悲しそうな様子をしてしまった。しかし、僕は本当はそんなに悲しくはないんですよ。だって僕は、あなた方さえ知らないような生の愉悦を、こんな山の中で人知れず味っているんですもの。でも一体、何時ごろあなた方はこちらへいらっしゃるのかしら? あなた方とはじめて知り合いになったこの土地で、あなた方ともう見知らない人同志のように顔を合せたりするのは、大へんつらいから、僕はあなた方のいらっしゃる前に、この村を出発しようかと思います。どうぞその日の来るまで僕にも此処にいることを、そしてときどき誰も見ていないとき、あなたの別荘のお庭をぶらつくことをお許し下さい。
またしても、何と悲しそうな様子をするんだ! もう、止します。しかし、もうすこし書かせて下さい。でも、何を書いたものかしら? 僕のいま起居しているのはこの宿屋の奥の離れです。御存知でしょう? あそこを一人で占領しています。縁側から見上げると、丁度、母屋の藤棚が真向うに見えます。さっきもいったように、その花がいま咲き切っているんです。が、もう盛りもすぎたと見え、今日あたりは、風もないのにぽたぽたと散りこぼれています。その花に群がる蜜蜂といったら大したものです。ぶんぶんぶんぶん唸っています。この手紙を書きながら、ちょっと筆を休めて、何を書こうかなと思って、その藤の花を見上げながらぼんやりしていると、なんだか自分の頭の中の混乱と、その蜜蜂のうなりとが、ごっちゃになって、そのぶんぶんいっているのが自分の頭の中ではないかしら、とそんな気がしてくる位です。僕の机の上には、マダム・ド・ラファイエットの「クレエヴ公爵夫人」が読みかけのまんま頁をひらいています。はじめてこのフランスの古い小説をしみじみ読んでいますが、そのお蔭でだいぶ僕も今日このごろの自分の妙に切迫した気持から救われているような気がしています。この小説についてはあなたに一番その読後感をお書きしたいし、また黙ってもいたい。二三年前、あなたに無理矢理にお読ませした、ラジイゲの「舞踏会」は、この小説をお手本にしたと言われている位ですから、まあ、あれに大へん似ています。しかし「舞踏会」のときは、まだあんなにこだわらずに、その本をお貸しが出来たけれど、そしてそれをお読みになってもあなたは何もおっしゃらなかったし、僕もそれについては何もお訊きしなかったが、それでも或る気持はお互いに通じ合っていたようでしたけれど、いま僕は、あの時のようにこだわらずに、この小説の読後感をあなたにお書きできるかしら?
第一、この手紙にしたって、筆をとりながら、果してあなたに出せるものやら、出せそうもないものやら、心の中では躊躇っているのです。恐らく出さずにしまうかも知れません。……こんなことを考え出したら、もうこの手紙を書き続ける気がしなくなりました。もう筆を置きます。出すか出さないか分りませんけれど、ともかくも左様なら。
美しい村
或は 小遁走曲
或る小高い丘の頂きにあるお天狗様のところまで登ってみようと思って、私は、去年の落葉ですっかり地肌の見えないほど埋まっているやや急な山径をガサガサと音させながら上って行ったが、だんだんその落葉の量が増して行って、私の靴がその中に気味悪いくらい深く入るようになり、腐った葉の湿り気がその靴のなかまで滲み込んで来そうに思えたので、私はよっぽどそのまま引っ返そうかと思った時分になって、雑木林の中からその見棄てられた家が不意に私の目の前に立ち現れたのであった。そうしてその窓がすっかり釘づけになっていて、その庭なんぞもすっかり荒れ果て、いまにも壊れそうな木戸が半ば開かれたままになっているのを認めると、私は子供らしい好奇心で一ぱいになりながらその庭の中へずかずかと這入って行った。
そうして一めんに生い茂った雑草を踏み分けて行くうちに、この家のこうした光景は、数年前、最後にこれを見た時とそれが少しも変っていないような気がした。が、それが私の奇妙な錯覚であることを、やがて私のうちに蘇って来たその頃の記憶が明瞭にさせた。今はこんなにも雑草が生い茂って殆んど周囲の雑木林と区別がつかない位にまでなってしまっているこの庭も、その頃は、もっと庭らしく小綺麗になっていたことを、漸く私は思い出したのである。そうしてつい今しがたの私の奇妙な錯覚は、その時から既に経過してしまった数年の間、若しそれがそのままに打棄られてあったならば、恐らくはこんな具合にもなっているであろうに……という私の感じの方が、その当時の記憶が私に蘇るよりも先きに、私に到着したからにちがいなかった。しかし、私のそういう性急な印象が必ずしも贋ではなかったことを、まるでそれ自身裏書きでもするかのように、私のまわりには、この庭を一面に掩うて草木が生い茂るがままに生い茂っているのであった。
そこのヴェランダにはじめて立った私は、錯雑した樅の枝を透して、すぐ自分の眼下に、高原全帯が大きな円を描きながら、そしてここかしこに赤い屋根だの草屋根だのを散らばらせながら、横わっているのを見下ろすことが出来た。そうしてその高原の尽きるあたりから、又、他のいくつもの丘が私に直面しながら緩やかに起伏していた。それらの丘のさらに向うには、遠くの中央アルプスらしい山脈が青空に幽かに爪でつけたような線を引いていた。そしてそれが私のきざきざな地平線をなしているのだった。
夏毎にこの高原に来ていた数年前のこと、これと殆どそっくりな眺望を楽しむために、私は屡、ここからもう少し上方にあるお天狗様まで登りに来たのだけれど、その度毎に、この最後の家の前を通り過ぎながら、そこに毎夏のようにいつも同じ二人の老嬢が住まっているのを何んとなく気づかわしげに見やっては、その二人暮らしに私はひそかに心をそそられたものだった。──だが、あれはひょっとすると私自身の悲しみを通してばかり見ていたせいかも知れないぞ?(と私は考えるのだった。)何故って、私がこの丘へ登りに来た時は、いつも私に何か悲しいことがあって、それを肉体の疲労と取り換えたいためだったからな。真白な名札が立って、それには MISS のついた苗字が二つ書いてあったっけ。……そう、その一方が確か MISS SEYMORE という名前だったのを私は今でも覚えている。が、もう一方のは忘れた。そうしてその老嬢たちそのものも、その一方だけは、あの銀色の毛髪をして、何となく子供子供した顔をしていた方だけは、今でも私の眼にはっきりと浮んでくるけれど、もう一方のはどうしても思い出せない。昔から自分の気に入った型の人物にしか関心しようとしない自分の習癖が、(この頃ではどうもそれが自分の作家としての大きな才能の欠陥のように思われてならないのだけれど、)この老嬢たちにも知らず識らずの裡に働いていたものと見える。
……この数年間というもの、この高原、この私の少年時の幸福な思い出と言えばその殆んど全部が此処に結びつけられているような高原から、私を引き離していた私の孤独な病院生活、その間に起ったさまざまな出来事、忘れがたい人々との心にもない別離、その間の私の完全な無為。……そして、その長い間放擲していた私の仕事を再び取り上げるために、一人きりにはなりたいし、そうかと言ってあんまり知らない田舎へなぞ行ったら淋しくてしようがあるまいからと言った、例の私の不決断な性分から、この土地ならそのすべてのものが私にさまざまな思い出を語ってくれるだろうし、そして今時分ならまだ誰にも知った人には会わないだろうしと思って、こんな季節はずれの六月の月を選んで、この高原へわざわざ私はやって来たのであった。が、数日前にこの土地へ到着してから私の見聞きする、あたかも私のそういう長い不在を具象するような、この高原に於けるさまざまな思いがけない変化、それにつけても今更のように蘇って来る、この土地ではじめて知り合いになった或る女友達との最近の悲しい別離。……
そんな物思いに耽りながら、私はぼんやり煙草を吹かしたまま、ほとんど私の真正面の丘の上に聳えている、西洋人が「巨人の椅子」という綽名をつけているところの大きな岩、それだけがあらゆる風化作用から逃れて昔からそっくりそのままに残っているかに見える、どっしりと落着いた岩を、いつまでも見まもっていた。
私はやがて再び枯葉をガサガサと音させながら、山径を村の方へと下りて行った。その山径に沿うて、落葉松などの間にちらほらと見える幾つかのバンガロオも大概はまだ同じような紅殻板を釘づけにされたままだった。ときおり人夫等がその庭の中で草むしりをしていた。彼等の中には熊手を動かしていた手を休めて私の方を胡散臭そうに見送る者もあった。私はそういう気づまりな視線から逃れるために何度も道もないようなところへ踏み込んだ。しかしそれは昔私の大好きだった水車場のほとりを目ざして進んでいた私の方向をどうにかこうにか誤らせないでいた。しかし其処まで出ることは出られたが、数年前まで其処にごとごとと音立てながら廻っていた古い水車はもう跡方もなくなっていた。それよりももっと悲しい気持になって私の見出したのは、その水車場近くの落葉松を背にした一つのヴィラだった。私の屡しば訪れたところのそのヴィラは、数年前に最後に私の見た時とはすっかり打って変っていた。以前はただ小さな灌木の茂みで無雑作に縁どられていたその庭園は、今は白い柵できちんと区限られていた。私はふと何故だか分らずにその滑らかそうな柵をいじくろうとして手をさし伸べたが、それにはちょっと触れただけであった。そのとき私の帽子の上になんだか雨滴のようなものがぽたりと落ちて来たから。そこでその宙に浮いた手を私はそのまま帽子の上に持って行った。それは小さな桜の実であった。私がひょいと頭を持ち上げた途端に、そこには、丁度私の頭上に枝を大きく拡げながら、それがあんまり高いので却って私に気づかれずにいた、それだけが私にとっては昔馴染の桜の老樹が見上げられた。
やがて向うの灌木の中から背の高い若い外国婦人が乳母車を押しながら私の方へ近づいて来るのを私は認めた。私はちっともその人に見覚えがないように思った。私がその道ばたの大きな桜の木に身を寄せて道をあけていると、乳母車の中から亜麻色の毛髪をした女の児が私の顔を見てにっこりとした。私もつい釣り込まれて、にっこりとした。が、乳母車を押していたその若い母は私の方へは見向きもしないで、私の前を通り過ぎて行った。それを見送っているうち、ふとその鋭い横顔から何んだか自分も見たことがあるらしいその女の若い娘だった頃の面影が透かしのように浮んで来そうになった。
私はその白い柵のあるヴィラを離れた。私の帽子の上に不意に落ちて来た桜の実が私のうちに形づくり、拡げかけていた悲しい感情の波紋を、今しがたの気づまりな出会がすっかり掻き乱してしまったのを好い機会にして。
私は村はずれの宿屋に帰って来た。私がその宿屋に滞在する度にいつも私にあてがわれる離れの一室。同じように黒ずんだ壁、同じような窓枠、その古い額縁の中にはいって来る同じような庭、同じような植込み、……ただそれらの植込みに私の知っている花や私の知らない花が簇がり咲いているのが私には見馴れなかった。それはそれでまた私を侘びしがらせた。母屋の藤棚から、風の吹くごとに私のところまでその花の匂がして来た。その藤棚の下では村の子供たちが輪になって遊んでいた。私はその子供たちの中に昔よく遊んでやったことのある宿屋の子供がいるのを認めた。そのうちに他の子供たちは去った。そしてその子供だけがまだ地面に跼んだまま一人で何かして遊んでいた。私はその子の名前を呼んだ。その子はしかし私の方を振り向こうともしなかった。それほど自分の遊びに夢中になっているように見えた。私がもう一度その名前を呼ぶと、やっとその子はうす汚れた顔を上げながら私に言った。「太郎ちゃんは何処にいるか知らないよ」──私はその時初めてその小さな子供は私の呼んだ男の子の弟であるのに気がついたのだ。しかし何という同じような顔、同じような眼差、同じような声。……暫らくしてから「次郎! 次郎!」と呼びながら、一人の、ずっと大きな、見知らない男の子が庭へ這入って来るのを私は見た。ようやく私になついて私の方へ近づいて来そうになったその小さな弟は、それを聞くと急いでその方へ駈けて行ってしまった。私の方では、その大きな見知らないような男の子が昔私と遊んだことのある子供であるのを漸っと認め出していた。しかし、その生意気ざかりの男の子は小さな弟を連れ去りながら、私の方をば振り向こうともしなかった。
⁂
私は毎日のように、そのどんな隅々までもよく知っている筈だった村のさまざまな方へ散歩をしに行った。しかし何処へ行っても、何物かが附加えられ、何物かが欠けているように私には見えた。その癖、どの道の上でも、私の見たことのない新しい別荘の蔭に、一むれの灌木が、私の忘れていた少年時の一部分のように、私を待ち伏せていた。そうしてそれらの一むれの灌木そっくりにこんがらかったまま、それらの少年時の愉しい思い出も、悲しい思い出も私に蘇って来るのだった。私はそれらの思い出に、或は胸をしめつけられたり、或は胸をふくらませたりしながら歩いていた。私は突然立ち止まる。自分があんまり村の遠くまで来すぎてしまっているのに気がついて。──そんなみちみち私の出遇うのは、ごく稀には散歩中の西洋人たちもいたが、大概、枯枝を背負ってくる老人だとか蕨とりの帰りらしい籃を腕にぶらさげた娘たちばかりだった。それ等のものはしかし、私にとってはその村の風景のなかに完全に雑り込んで見えるので、少しも私のそういう思い出を邪魔しなかった。もっとも時たま、或る時は私があんまり子供らしい思い出し笑いをしているのを見て、すれちがいざまいきなり私に声をかけて私を愕かせたり、又或る時は向うから私に微笑みかけようとして私の悲しげな顔を見てそれを途中で止めてしまうようなこともあるにはあったが……。
そんな風に思い出に導かれるままに、村をそんな遠くの方まで知らず識らず歩いて来てしまった私は、今更のように自分も健康になったものだなあ、と思った。私はそういう長い散歩によって一層生き生きした呼吸をしている自分自身を見出した。それにこの土地に滞在してからまだ一週間かそこいらにしかならないけれど、この高原の初夏の気候が早くも私の肉体の上にも精神の上にも或る影響を与え出していることは否めなかった。夏はもう何処にでも見つけられるが、それでいてまだ何処という的もないでいると言ったような自然の中を、こうしてさ迷いながら、あちこちの灌木の枝には注意さえすれば無数の莟が認められ、それ等はやがて咲き出すだろうが、しかしそれ等は真夏の季節の来ない前に散ってしまうような種類の花ばかりなので、それ等の咲き揃うのを楽しむのは私一人だけであろうと言う想像なんかをしていると、それはこんな淋しい田舎暮しのような高価な犠牲を払うだけの値は十分にあると言っていいほどな、人知れぬ悦楽のように思われてくるのだった。そうして私はいつしか「田園交響曲」の第一楽章が人々に与える快い感動に似たもので心を一ぱいにさせていた。そうして都会にいた頃の私はあんまり自分のぼんやりした不幸を誇張し過ぎて考えていたのではないかと疑い出したほどだった。こんなことなら何もあんなにまで苦しまなくともよかったのだと私は思いもした。そうして最近私を苦しめていた恋愛事件をそっくりそのままに書いてみたら、その苦しみそのものにも気に入るだろうし、私にはまだよく解らずにいる相手の気持もいくらか明瞭しはしないかと思って、却ってそういう私自身の不幸をあてにして仕事をしに来た私は、ために困惑したほどであった。私はてんでもうそんなものを取り上げてみようという気持すらなくなってしまったのだ。で、私は仕事の方はそのまま打棄らかして、毎日のように散歩ばかりしていた。そうして私は私の散歩区域を日毎に拡げて行った。
或る日私がそんな散歩から帰って来ると、庭掃除をしていた宿の爺やに呼び止められた。
「細木さんはいつ頃こちらへお見えになります?」
「さあ、僕、知らないけれど……」
それは私が何日頃この地を出発するかを聞いたのと同じことであるのに爺やは気づきようがなかったのだ。
「去年お帰りになるとき」と爺やは思い出したように言った。「庭へ羊歯を植えて置くようにと言われたんですが、何処へ植えろとおっしゃったんだか、すっかり忘れてしまいましたもんで……」
「羊歯をね」私は鸚鵡がえしに言った。それから私は例の白い柵に取り囲まれたヴィラを頭に浮べながら、「あの白い柵はいつ出来たの?」と訊いた。
「あれですか……あれは一昨年でした」
「一昨年ね……」
私はそれっきり黙っていた。爺やのいじくっている植木の一つへ目をやりながら。それからやっとそれに白い花らしいものの咲いているのに気がつきながら訊いた。
「それは何の花だい?」
「これはシャクナゲです」
「シャクナゲ? ふうん、そう言えば、じいやさん、このへんの野薔薇はいつごろ咲くの?」
「今月の末から、まあ、来月の初めにかけてでしょうな」
「そうかい、まだ大ぶあるんだね。──一体、どのへんが多いんだい?」
「さあ……あのレエノルズさんの病院の向うなんか……」
「ああ、じゃ、あそこかな、あの絵葉書にあった奴は。……」
その翌朝は、霧がひどく巻いていた。私はレエンコートをひっかけて、まだ釘づけにされている教会の前を通り、その裏の橡の林の中を横切って行った。その林を突き抜けると、道は大きく曲りながら一つの小さな流れに沿うて行った。しかしその朝はその流れは霧のためにちっとも見えなかった。そしてただ、せせらぎの音ばかりが絶えず聞えていた。私はやがて小さな木橋を渡った。それからその土手道は、こんどは今までとは反対の側を、その流れに沿うて行くのであった。さて、その土手道へ差しかかろうとした途端、私はふと立ち止まった。私の行く手に何者かが異様な恰好でうずくまっているのが仄見えたので。その異様なものは、霧のなかで私自身から円光のように発しているかに見える、私を中心にして描いた円状の薄明りの、丁度その円周の上にうずくまっているのだった。しかし霧は絶えず流れているので、或る時は一層濃いのが来てその人影をほとんど見えなくさせるが、やがてそれが薄らいで行くにつれてその人影も次第にはっきりしてくる。漸っとそれが蝙蝠傘の下で、或る小さな灌木の上に気づかわしげに身を跼めている、西洋人らしいことが私には分かり出した。もっと霧が薄らいだとき、私はその人の見まもっているのが私の見たいと思っていた野薔薇の木らしいことまで分かった。向うでは私のことに気づかないらしかった。そのため、誰にも見られていないと信じながら何かに夢中になっている時、ややもすると、あとでそれを思い出そうとしても思い出せないような変にむつかしい姿勢をしていることがあるものだが、私の行く手を塞いでいるその人も恐らくそんな時の姿勢をしているのにちがいなかった。……気がついて見ると私のすぐ傍らにもあった野薔薇の木を、それが私の見たいと思っている野薔薇の木のほんのデッサンでしかないように見やりながら、私はそのままじっと佇んでいた。──やっとその人影は身を起し、蝙蝠傘をちょっと持ちかえてから歩き出した。そうしてずんずん霧のなかに暈けて行った。
私も歩き出しながら、やっとその野薔薇の小さな茂みの前に達した。そうして今しがたその人のしていたような難しい姿勢を真似ながら、その上に身を跼めてみた。そうすればその人の心の状態までが見透かされでもするかのように。その小さな茂みはまだ硬い小さな莟を一ぱいにつけながら、何か私に訴えでもしたいような眼つきで私を見上げた。私は知らず識らずの裡にそれらの莟を根気よく数えたり、そっと持ち上げてみたりしている自分自身に気がついた。ふとさっきの人のしていた異様な手つきがまざまざと蘇った。そうしてその小さな茂みがマイ・ミクスチュアらしい香りを漂わせているのに気がついたのもそれと殆んど同時だった。湿った空気のために何時までもそのこんがらかった枝にからみついて消えずにいるその香りは、まるでその小さな茂みそのものから発せられているかのように思われた。──私はいつもパイプを口から離したことのないレエノルズさんのことを思い出した。そして今の人影はその老医師にちがいないと思った。そう言えば、さっきから向うの方に霧のために見えたり隠れたりしている赤茶けたものは、そのサナトリウムの建物らしかった。
私は再び霧のなかの道を、神々しいような薄光りに包まれながら、いくら歩いてもちっとも自分の体が進まないようなもどかしさを感じながら、あてもなく歩き続けていた。私の心はさっき霧の中から私を訴えるような眼つきで見上げた野薔薇のことで一杯になっていた。私はそれらの白い小さな花を私の詩のためにさんざん使って置きながら、今日までその本物をろくすっぽ見もしなかったけれど、今度こそ、私もそれらの花に対して私のありったけの誠実を示すことの出来る機会の来つつあることを心から喜んでいた。そしてそのための私の歓ばしさと言ったら、昔の詩人等が野薔薇のために歌った詩句を、口ずさむなんと言うのではなく、それを知っているだけ残らず大きな声で呶鳴り散らしたいような衝動にまで、私を駈り立てるのであった。
⁂
私の書こうとしていた小説の主題は、漸くその日その日を楽しむことが出来るようになったこんな田舎暮しの中では、いよいよ無意味なものに思われて来た。それに、そんなものを書くことは、自分で自分を一層どうしようもない破目に陥し入れるようなものであることにも気がついたのだ。「アドルフ」の例が考えられた。ああいうものにまで私は自分の小さな出来事を引き揚げたかったのだ。弱気でしかも自我の強いために自分自身も不幸になり、他人をも不幸にさせたところのアドルフの運命は又、私の運命さながらに思えたからだ。しかし、「アドルフ」の作者ほど、そういう弱々しい性格(恐らくそれは彼自身のであろうけれど)に対するはげしい憎悪も持っていない、むしろそういう自分自身を甘やかすことしか出来そうもない私がそんな小説の真似なんかしようものなら、それによって更にもう一層自分自身をも、又他人をも不幸にするばかりであることが、わかり過ぎるくらい私にはわかって来たのだ。……こういうような考え方は、私の暗い半身にはすこし気に入らないようだったけれども、この頃のこんな田舎暮しのお蔭で、そう言った私の暗い半身は、もう一方の私の明るい半身に徐々に打負かされて行きつつあったのだ。
そうして今の私がそれならば書いてもみたいと思うものは、たとえどんなに平凡なものでもいいから、これから私の暮らそうとしているようなこんな季節はずれの田舎の、人っ子ひとりいない、しかし花だらけの額縁の中へすっぽりと嵌まり込むような、古い絵のような物語であった。私は何とかしてそんな言わば牧歌的なものが書きたかった。私はこれまでも他人の書いたそういう作品を随分好きでもあり、そういう出来事に出遇ったということでその人を羨ましくも思って来たが、私自身でそう言うものを書いてみようとも、又、書けそうにも思えなかった。が、それだけ一層、今の私はそういう牧歌的なものを書いてみたいと思い立ったのである。──私はしかし、それを書くためには、いま自分の暮らしつつあるこの村を背景にするよりほかはなく、と言って一月や二月ぐらいの滞在中にそういう出来事が果して私の身辺に起り得るものかどうか疑わしかった。莫迦莫迦しいことだが、私は何度も林の中の空地で無駄に待ち伏せたものだった。男の子のように美しい田舎の娘がその林の中からひょっこり私の前に飛び出して来はしないかと。……そんな空しい努力の後、やっと私の頭に浮んだのは、あのお天狗様のいる丘のほとんど頂近くにある、あの見棄てられた、古いヴィラであった。あのヴィラを背景にして、そこに毎夏を暮らしていた二人の老嬢のいかにも心もとなげな存在を自分の空想で補いながら書いて行く──それなら何んだか自分にもちょっと書けそうな気がした。この間その家の荒廃した庭のなかへ這入り込んで其処から一時間ばかり眺めていた高原の美しい鳥瞰図だの、一かどのニイチェアンだった学生の時分からうろおぼえに覚えていた zweisam という、いかにもその老嬢たちに似つかわしいドイツ語だのを、ひょっくりと思い浮べながら……。
或る夕方、私は再びそのヴィラまで枯葉に埋まった山径を上って行った。庭の木戸は私がそうして置いたままに半ば開かれていた。私の捨てた煙草の吸殻がヴェランダの床に汚点のように落ちていた。私は日の暮れるまで、其処から林だの、赤い屋根だの、丘だの、それから真正面に聳えている「巨人の椅子」だのを、一々暗記してしまうほど熱心に見つめていた。……ときどき、こんな夕暮れ時に、二人のうちの私のよく覚えている方の神々しいような白髪の老婦人が、このヴェランダの、そう、丁度私の坐っているこの場所に腰を下ろしたまま、彼女のとうに死んでいる友人と話し合ってでもいると言ったような、空虚な眼ざしがまざまざと蘇ってくる……と思うと、一瞬間それがきらきらと少女の眼ざしのようにかがやく……家の中からは夕餉の支度をしている、もう一方の婦人の立てる皿の音が聞えて来る……彼女はふと十字を切ろうとするように手を動かしかけるが、それはほんの下描きで終ってしまう……彼女にだけは一種の言語をもっていそうな気のする「巨人の椅子」……そんな一方の老嬢のさまざまな姿だけは、私が実際にそれらを見て、そして無意識の裡にそれらを記憶していたのではないかと思えるくらい、まざまざと蘇って来るが、──もう一人の老嬢の方は、いつまでも皿の音ばかりさせていて、容易に私の物語の中には登場して来ようとはしない。私はどうしても彼女の俤を蘇らすことが出来ないのである。……
そんな或る午後、私のあてもなくさまよっていた眼ざしが、急に注意深くなって、私の丁度足許にある夕日のあたっている赤い屋根の上にとまった。何か黒い小さなものがその屋根の頂きからころころと転がって来ては、庇のところから急に小石のように墜落して行くのだった。しばらく間を置いては又それをやっている。私は何だろうと思って、眼を細くしながら見まもっていた。そうしてそれ等が二羽の小鳥であるのを認めた。それ等が交尾をしながら、庇のところまで一緒に転がって来ては、そこから墜落すると同時に、さあと二叉に飛びわかれているのだった。同じ小鳥たちなのか、他の小鳥たちなのか分らないが、それが何回となく繰り返されている。──これは私の物語の中にとり入れてもいいぞ、と思いながら私はそれを飽かずに見まもっている。──こんな風にして、自分の見つつあるものが自分の構想しつつある物語の中へそのままエピソオドとして溶け込んで来ながら、自分からともすると逃げて行ってしまいそうになる物語の主題を少しずつ発展させているように見える……。
アカシアの花が私の物語の中にはいって来たのもそんな風であった。それの咲き出す頃が丁度私の田舎暮しもそのクライマックスに達するのではないかというような予覚のする、例の野薔薇の莟の大きさや数を調べながら、あのサナトリウムの裏の生墻の前は何遍も行ったり来たりしたけれど、その方にばかり気を奪られていた私は、其処から先きの、その生墻に代ってその川べりの道を縁どりだしているアカシアの並木には、ついぞ注意をしたことがなかった。ところが或る日のこと、サナトリウムの前まで来かかった時、私の行く手の小径がひどく何時もと変っているように見えた。私はちょっとの間、それから受けた異様な印象に戸惑いした。私はそれまでアカシアの花をつけているところを見たことがなかったので、それが私の知らないうちにそんなにも沢山の花を一どに咲かしているからだとは容易に信じられなかったのであった。あのかよわそうな枝ぶりや、繊細な楕円形の軟かな葉などからして私の無意識の裡に想像していた花と、それらが似てもつかない花だったからであったかも知れない。そしてそれらの花を見たばかりの時は、誰かが悪戯をして、その枝々に夥しい小さな真っ白な提灯のようなものをぶらさげたのではないかと言うような、いかにも唐突な印象を受けたのだった。やっとそれらがアカシアの花であることを知った私は、その日はその小径をずっと先きの方まで行ってみることにした。アカシアの木立の多くは、どうかするとその花の穂先が私の帽子とすれすれになる位にまで低くそれらの花をぷんぷん匂わせながら垂らしていたが、中にはまだその木立が私の背ぐらいしかなくって、それが殆ど折れそうなくらいに撓いながら自分の花を持ち耐えている傍などを通り過ぎる時は、私は何んだか切ないような気持にすらなった。アカシアの並木は何処まで行っても尽きないように見えた。私はとうとう或る大きなアカシアを撰んでその前に立ち止まった。私は何とかしてこれらのアカシアの花が私に与えたさっきの唐突な印象を私自身の言葉に翻訳して置きたいと思ったのだ。それらの花のまわりには無数の蜜蜂がむらがり、ぶんぶん唸り声を立てていた。しかしそれらの蜜蜂は空気のなかで何処で唸っているともつかなかったし、それに私はさっきから自分の印象をまとめようとしてそれにばかり夢中になっていたので、そんな唸り声にふと気づく度毎に、何んだか私自身の頭脳がひどい混乱のあまりそんな具合に唸り出しているのではないかと言うような気もされた。……
⁂
その村の東北に一つの峠があった。
その旧道には樅や山毛欅などが暗いほど鬱蒼と茂っていた。そうしてそれらの古い幹には藤だの、山葡萄だの、通草だのの蔓草が実にややこしい方法で絡まりながら蔓延していた。私が最初そんな蔓草に注意し出したのは、藤の花が思いがけない樅の枝からぶらさがっているのにびっくりして、それからやっとその樅に絡みついている藤づるを認めてからであった。そう言えば、そんなような藤づるの多いことったら! それらの藤づるに絡みつかれている樅の木が前よりも大きくなったので、その執拗な蔓がすっかり木肌にめり込んで、いかにもそれを苦しそうに身もだえさせているのなどを見つめていると、私は無気味になって来てならない位だった。──或る朝、私は例の気まぐれから峠まで登った帰り途、その峠の上にある小さな部落の子供等二人と道づれになって降りて来たことがあった。その折のこと、その子供たちはいろいろな木に絡まっている、もっと他の山葡萄だの、通草だのをも私に教えてくれたのだった。子供たちは秋になるとそれ等の実を採りに来るので、それ等のある場所を殆んど暗記していた。それからまた小鳥の巣のある場所を私に教えてくれたりした。彼等は峠で力餅などを売っている家の子供たちであった。大きい方の子は十一二で、小さい方の子は七つぐらいだった。三人兄弟なのだが、その真ん中の子が村の小学校からまだ帰らぬので峠の下まで迎えに行くのだと言っていた。
子供たちは何を見つけたのか急に私を離れて、林のなかへ、下生えを掻き分けながら駈けこんでいった。そうして一本のやや大きな灌木の下に立ち止まると、手を伸ばしてその枝から赤い実を揉ぎとっては頬張っていた。それは何の実だと訊いたら、「茱萸だ」と彼等は返事をした。そうして彼等はときどき私の方をふり向いて手招きをしたが、私が下生えに邪魔をされてなかなか其処まで行くことが出来ずにいると、大きい方の子がその実を少しばかり私のために持って来てくれた。私は子供たちの真似をしてそれを一つずつこわごわ口に入れてみた。なんだか酸っぱかった。私はしかしそれをみんな我慢をして嚥み込んだ。そうして子供たちが低い枝にあった実をすっかり食べつくしてしまうと、今度は高くて容易に手の届きそうもない枝をしきりに手ぐろうとしては失敗しているのを、私は根気よく、むしろ面白いものでも見ているように見入っていた。
子供たちはまた林の中のいろいろな抜け道を私に教えてくれようとした。そうして急な草深い斜面をずんずん駈け下りて行った。私はそのあとから危かしそうな足つきでついて行った。ほとんど何処からも日の射し込んで来ないくらい、木立が密生して枝と枝との入りまじっているところもあった。かと思うと急に私たちの目の前が展けて、ちょっとの間何も見えなくなるくらい明るい林のなかの空地があったりした。私たちがそういう林の中の空地の一つへ辿り着いた時、突然、一つの小石が何処からともなく飛んで来て私たちの足許に落ちた。その飛んで来たらしい方を私たちがまぶしそうに振り向いた途端、数本の山毛欅を背にしながら、ほとんど垂直なほど急な勾配の藁屋根をもった、窓もなんにもないような異様な小屋の蔭へ、小さな黒い人影が隠れるのを私たちは認めた。それを知っても、しかし、私の小さな同伴者たちは何も罵ろうとせず、却って私に向って何かその言訣でもしたいような、そしてそれを私に言い出したものかどうかと躊躇っているような、複雑な表情をして私の方を見上げているので、私は不審そうに、
「あの子は白痴なのかい?」と訊いた。
子供たちは顔を見合わせていた。それから大きい方の子が低声で私に答えた。
「そうじゃないよ。──あれあ気ちがいの娘だ」
「ふん、それであんな変な家にいるんだね?」
「あれあ氷倉だ。──あの向うの家だ」
しかしその氷倉だという異様な恰好をした藁小屋に遮ぎられて、その家らしいものの一部分すら見えないところを見ると、恐らく小さな掘立小屋かなんかに違いなかった。
「気ちがいっておとっつぁんがかい?」
「……」兄も弟も同時に頭を振った。
「じゃ、おっかさんの方だね?」
「うん……」そう答えてから、兄は弟の方を見い見い誰に言うともなく言った。「ときどき川んなかで呶鳴っているなあ」
「おれも一度向うの川で見た」弟の返事である。
「向うって何処だ?」
「向うの方だ」弟は何んだか自信のなさそうな、いまにも泣き出しそうな顔をして、漠然と或る方向を私に指して見せた。
「そうか」私はわかったような振りをした。「……おとっつあんは何をしているんだ?」
「木樵りだなあ」とこんどはまた兄が弟の方を見い見い言った。
「変なとっつあんだ」弟は顔をしかめながらそれに答えた。
氷倉の蔭から、再びちらりと小娘らしい顔が出たようだったけれど、私たちの方からは丁度逆光線だったので、よくもそれを見分けないうちに、その顔はすぐ引っ込んでしまった。それっきりその小娘は顔を出さなかった。ただ私たちはそれから間もなく異様な叫びを耳にした。それはその小娘が私たちを罵ったのか、それとも私たちには見えぬ小屋の中からその小娘に向ってそれが叫ばれたのか、それとも又、その裏の林のなかで山鳩でも啼いたのだろうか? ともかくも、その得体の知れぬアクセントだけが妙に私の耳にこびりついた。──が、私たちは無言のまま、ただちょっと足を早めながら、その空地を横切って行った。私たちはそれから再び林の中へ這入った。その中へ這入ると急に薄暗くなったようだけれど、私たちの眼底にはいまの空地の明るさがこびりついているせいか、暫らく私たちの周りには一種異様な薄明りが漂っているように見えた。そんな林の中をずんずん先きになって駈け下りて行く子供たちの跡について行きながら、彼等がいまだに何となく昂奮しているらしいのを、私は漠然と感じていた。そうして、こんな風に彼等と一緒に峠を下りて行く私は一体彼等にはどんな人間に見えているのだろう? とそういう現在の私自身にも興味を持ったりした。
峠を下り切ったところに架っている白い橋の上に、小さな男の子が一人、鞄を背負ったまま、しょんぼりと立っていた。私の連れ立っている子供たちがその男の子に同時に声をかけた。彼等を見るとその男の子はにっこりと微笑した。が、私にも気がつくと、人見知りでもするかのように、橋の下の渓流の方へその小さな顔をそむけた。私も私で、しばらくその渓流をぼんやり見下ろしていた。さっき林のなかの空地で子供の一人が漠然と指したそのずっと上流にあたる方を心のうちに描きながら。それから私は三人の子供たちに小銭をすこし与えて、彼等と別れた。
⁂
雨が降り出した。そうしてそれは降り続いた。とうとう梅雨期に入ったのだった。そんな雨がちょっと小止みになり、峠の方が薄明るくなって、そのまま晴れ上るかと思うと、峠の向側からやっと匍い上って来たように見える濃霧が、峠の上方一面にかぶさり、やがてその霧がさあと一気に駈け下りて来て、忽ち村全帯の上に拡がるのであった。どうかすると、そういう霧がずんずん薄らいで行って、雲の割れ目から菫色の空がちらりと見えるようなこともあったが、それはほんの一瞬間きりで、霧はまた次第に濃くなって、それが何時の間にか小雨に変ってしまっていた。
私はその暗い雲の割れ目からちらりと見える、何とも言えずに綺麗な、その菫色がたまらなく好きであった。そうしてそれは、殆んど日課のようにしていた長い散歩が雨のために出来なくなっている私にとっては、たとえ一瞬間にもしろそれが見られたら、それだけでもその日の無聊が償われたようにさえ思われた程であった。──「おまえの可愛いい眼の菫、か……」そんなうろおぼえのハイネの詩の切れっぱしが私の口をふと衝いて出る。「ふん、あいつの眼が、こんな菫色じゃなくって仕合せというものだ。そうでなかった日にや、おれもハイネのようにこう呟やきながら嘆いてばかりいなきゃなるまい。──おまえの眼の菫はいつも綺麗に咲くけれど、ああ、おまえの心ばかりは枯れ果てた……」
そんな鬱陶しいような日々も、相変らず私の小説の主題は私からともすると逃げて行きそうになるが、私はそれをば辛抱づよく追いまわしている。私が最初に計画していたところの私自身を主人公とした物語を書くことはとっくに断念していたけれど、私はそれの代りに、その物語の主人公には一体どんな人物を選んだらいいのか、それからしてもう迷っていた。……どうにか一方の老嬢は私の物語の中に登場させることは出来ても、もう一方の方は台所で皿の音ばかりさせているきりで、何時まで経ってもヴェランダに出て来ようとしない二人の老嬢たちの話、冬になるとすっかり雪に埋まってしまうこんな寒村に一人の看護婦を相手に暮らしている老医師とその美しい野薔薇の話、ときどき気が狂って渓流のなかへ飛び込んでは罵りわめいているという木樵の妻とその小娘の話、──そういうような人達のとりとめもない幻像ばかりが私の心にふと浮んではふと消えてゆく……
或る午後、雨のちょっとした晴れ間を見て、もうぽつぽつ外人たちの這入りだした別荘の並んでいる水車の道のほとりを私が散歩をしていたら、チェッコスロヴァキア公使館の別荘の中から誰かがピアノを稽古しているらしい音が聞えて来た。私はその隣りのまだ空いている別荘の庭へ這入りこんで、しばらくそれに耳を傾けていた。バッハのト短調の遁走曲らしかった。あの一つの旋律が繰り返され繰り返されているうちに曲が少しずつ展開して行く、それがまた更に稽古をしているために三四回ずつひとところを繰り返されているので、一層それがたゆたいがちになっている。……それを聴いているうちに、私はまるで魔にでも憑かれたような薄気味のわるい笑いを浮べ出していた。そのピアノの音のたゆたいがちな効果が、この頃の私の小説を考え悩んでいる、そのうちにそれがどうやら少しずつ発展して来ているような気もする、そう言った私のもどかしい気持さながらであったからだ。
⁂
或る朝、「また雨らしいな……」と溜息をつきながら私が雨戸を繰ろうとした途端に、その節穴から明るい外光が洩れて来ながら、障子の上にくっきりした小さな楕円形の額縁をつくり、そのなかに数本の落葉松の微細画を逆さまに描いているのを認めると、私は急に胸をはずませながら、出来るだけ早くと思って、そのため反って手間どりながら雨戸を開けた。私が寝床のなかで雨音かと思っていたのは、それ等の落葉松の細かい葉に溜っていた雨滴が絶えず屋根の上に落ちる音だったのだ。私はさて、まぶしそうな眼つきで青空を見上げた。私は寝間着のまま一度庭のなかへ出てみたが、それから再び部屋に帰り、そしてフラノの散歩服に着換えながら、早朝の戸外へと出て行った。私は教会の前を曲って、その裏手の橡の林を突き抜けて行った。私はときどき青空を見上げた。いかにもまぶしそうに顔をしかめながら。
私が小さな美しい流れに沿うて歩き出すと、その径にずっと笹縁をつけている野苺にも、ちょっと人目につかないような花が一ぱい咲いていて、それが或る素晴らしいもののほんの小さな前奏曲だと言ったように、私を迎えた。私は例の木橋の上まで来かかると、どういう積りか自分でも分からずに二三度その上を行ったり来たりした。それから、漸っと、まるで足が地上につかないような歩調で、サナトリウムの裏手の生墻に沿うて行った。私は最初のいくつかの野薔薇の茂みを一種の困惑の中にうっかりと見過してしまったことに気がついた。それに気がついた時は、既に私は彼等の発散している、そして雨上りの湿った空気のために一ところに漂いながら散らばらないでいる異常な香りの中に包まれてしまっていた。私は彼等の白い小さな花を見るよりも先に、彼等の発散する香りの方を最初に知ってしまったのだ。しかし私は立ち止ろうとはせずになおも歩き続けながら、私は今すれちがいつつある一つの野薔薇の上に私のおずおずした最初の視線を投げた。私は、私の胸のあたりから何かを訴えでもしたいような眼つきで私をじっと見上げている、その小さな茂みの上に、最初二つ三つばかりの白い小さな花を認めたきりだった。が、その次の瞬間には、私はその同じ茂みのうちに殆ど二三十ばかりの花と、それと殆ど同数の半ば開きかかった莟とを数えることが出来た。それはごく僅かの間だったが、そんな風に私が自分の視線のなかに自分自身を集中させてしまってからと言うもの、そんなにも簇がっているそれ等の花がもう先刻のように好い匂がしなくなってしまっていることに私は愕いた。そうして改めてそれを嗅ごうとすると、そうするだけ一層それは匂わなくなって行くように見えた。──私は注意深く歩き続けながら、順ぐりにいくつかの野薔薇の木とすれちがって行ったが、とうとう私はいつかレエノルズ博士がその上に身を跼めていた一つの茂みの前まで来た。私は思わずそこに足を停めた。──
そうして私はその野薔薇の前に、ただ茫然として、何を考えていたのか後で思い出そうとしても思い出せないようなことばかり考えていた。どれよりも最も多くの花を簇がらせているように見えるその野薔薇とそっくりそのままのものを何処かで私は一度見たことがあるように思えて、それをしきりに思い出そうとしていたかのようでもあった。──それはすこし長い放心状態の後では、しばしば私にやってくるところの一種独特の錯覚であった。放心のあまりに現在そのものの感じがなくなり、私は現在そのものをしきりに思い出そうとして焦っているのかも知れなかった。──それから私は再び我に返って歩き出した。私の沿うて行く生墻には、それらの野薔薇が、同じような高さの他の灌木の間に雑りながら、いくらかずつの間を置いてはならんでいるのだった。あたかも彼等が或る秘密な法則に従ってそう配置されてでもいるかのように。そうしてその微妙な間歇が、ほとんど足が地につかないような歩調で歩きつつある私の中に、いつのまにか、ほとんど音楽の与えるような一種のリズミカルな効果を生じさせていた。……そうしてそれに似た或る思い出をこんどはさっきと異って、鮮明に私のうちに蘇らせるのであった。……十年ぐらい前の或る夏休みに、私が初めてこの村へ来た時のこと、宿屋の裏から水車場のある道の方へ抜けられるようになっている、やっと一人だけ通れるか通れない位の、狭い、小さな坂道を上って行こうとした途中で、私はその坂の上の方から数人の少女たちが笑いさざめきながら駈け下りるようにして来るのに出遇った。私はそれを認めると、そういう少女たちとの出会は私の始終夢みていたものであったにも拘らず、私はよっぽど途中から引っ返してしまおうかと思った。私は躊躇していた。そういう私を見ると、少女たちは一層笑い声を高くしながら私の方へずんずん駈け下りて来た。そんなところで引っ返したりすると余計自分が彼女たちに滑稽に見えはしまいかと私は考え出していた。そこで私は思い切って、がむしゃらにその坂を上って行った。するとこんどは少女たちの方で急に黙ってしまった。そうしてやっと笑うのを我慢しているとでも言ったような意地悪そうな眼つきをして、道ばたの丁度彼女たちのせいぐらいある灌木の茂みの間に一人一人半身を入れながら、私の通り過ぎるのを待っていた。私は彼女たちの前を出来るだけ早く通ろうとして、そのため反って長い時間かかって、心臓をどきどきさせながら通り過ぎて行った。……その瞬間私は、自分のまわりにさっきから再び漂いだしている異常な香りに気がついて愕いた。私がそんな風に私の視線を自分自身の内側に向け出して、ひょいと野薔薇のことを忘れていたら、そういう気まぐれな私を責め訴えるかのように、その花々が私にさっきの香りを返してくれたのだった。そう、それ等の少女たちの形づくった生墻はちょうどお前たちにそっくりだったのだ! ……
私はその朝はどうしたのかクレゾオルの匂のぷんぷんするサナトリウムの手前から引返した。その向うには、その思いがけない美しさでひととき私の心を奪っていたアカシアの花が、一週間近い雨のためにすっかり散って、それが川べりの道の上にところどころ一塊りになりながら落ちているのがずっと先きの先きの方まで見透されていた。
それから数日間、こんどはお天気のいい日ばかりが続いていた。毎朝私は起きるとすぐその辺まで散歩に行った。しかし私はその花をつけた生墻の前にあんまり長いこと立ちもとおっていないで、それに沿うて素通りして来るきりの方が多かった。私は言わば、唯、その生墻に間歇的に簇がりながら花をつけている野薔薇の与える音楽的効果を楽しみさえすればよかったのであるから。だから或る時などは、それのみを楽しむために、私は故意とよそっぽを見ながら歩いたりした。
或る朝、私はそんな風にサナトリウムの前まで行ってすぐそのまま引っ返して来ると、向うの小さな木橋を渡り、いまその生墻に差しかかったばかりのレエノルズ博士の姿を認めた。すぐ近くの自宅から病院へ出勤して来る途中らしかった。片手に太いステッキを持ち、他の手でパイプを握ったまま、少し猫背になって生墻の上へ気づかわしそうな視線を注ぎながら私の方へ近づいて来た。が、私を認めると、急にそれから目を離して、自分の前ばかりを見ながら歩き出した。そんな気がした。私も私で、そんな野薔薇などには目もくれない者のように、そっぽを向きながら歩いて行った。そうして私はすれちがいざま、その老人の焦点を失ったような空虚な眼差しのうちに、彼の可笑しいほどな狼狽と、私を気づまりにさせずにおかないような彼の不機嫌とを見抜いた。
それから数日後の或る朝だった。だんだんに夏らしい色を帯び出して来た美しい空が、私にだけ、突然物悲しく閉されてしまったように見えた。毎朝のようにそれに沿うて歩きながら、しかし、よく注意して見ようとはしないでいた野薔薇の白い小さな花が、いつの間にやら殆ど全部蝕ばまれて、それに黄褐色のきたならしい斑点がどっさり出来てしまっていることに、その朝、私は始めて気がついたのだった。
⁂
……数年前までは半分壊れかかった水車がごとごと音を立てながら廻っていた小さな流れのほとりには、その大抵が三四十年前に外人の建てたと言われる古いバンガロオが雑木林の間に立ちならんでいたが、そこいらの小径はそれが行きづまりなのか、通り抜けられるのか、ちょっと区別のつかないほど、ややっこしかったので、この村へ最初にやって来たばかりの時分には、私はひとりで散歩をする時などは本当にまごまごしてしまうのだった。確かに抜け道らしいんだが、その小径は突然外人たちのお茶などを飲んでいるヴェランダのすぐ横を通ったりするのだった。そういう私道なのか、抜け道なのか分からないような或る小径に又しても踏み込んでしまった私は、私の背ぐらいある灌木の茂みの間から不意に私の目の前が展けて、そこの突きあたりにヴェランダがあり、籐の寝椅子に一人の淡青色のハアフ・コオトを着て、ふっさりと髪を肩へ垂らした少女が物憂げに靠れかかっているのを認め、のみならず、その少女が私の足音を聞きつけてひょいと私の方を振り向いたらしいのを認めるが早いか、私は顔を赤らめながら、その少女をよく見ずに慌てて其処から引っ返してしまった。──その時若し私がその少女をもっとよく見たら、それが数日前に私が宿屋の裏の狭い坂道ですれちがった数人の少女たちの中の一人であることに気がついて、私の狼狽はもっと大きかっただろうに。……
この頃刈ったばかりらしい青々とした芝生が、その時にはその少女の坐っていたヴェランダをこっちからは見えなくさせていた一面の灌木の茂みに代えられて、そうしていま私のぼんやり立っているこの小径からその芝生を真白い柵が鮮やかに区限って。……そのように、すべてが変っていた。いま私にまざまざと蘇って来たところの、そう言うような、最初に私が彼女に会った当時の彼女のういういしい面影と、数カ月前、最後に会った時の、そしてその時から今だに私の眼先にちらついてならない彼女の冷やかな面影と、何と異って見えることか! 彼女の容貌そのものがそんなにも変ったのか、それとも私の中にその幻像が変ったのか、私は知らない。しかし何もかも、恐らく私自身も変ってしまったのだ。……
私はそのとき向うの方から何かを重そうに担いながら私の方に近づいてくる者があるのを認めた。それは羊歯を背負っている宿の爺やであった。私はいつか彼の話していた羊歯のことを思い出した。
私は爺やの言うがままに、彼についてその庭の中へおずおずと這入って行った。そうして爺やが庭の一隅にその羊歯を植えつけている間、私は黙ってヴェランダの床板に腰かけていた。爺やはときどき羊歯を植えつける場所について私に助言を求めた。その度毎に、私の胸はしめつけられた。
一通りみんな植えつけてしまうと、爺やは私のそばに腰を下ろした。私の与えた巻煙草を彼は耳にはさんだきり、それを吸おうとはせずに、自分の腰から鉈豆の煙管を抜いた。
私はふだんの無口な習慣から抜け出ようと努力しながら、これもまた機嫌買いらしい爺やを相手に世間話をし出した。
「爺やさん、峠の途中に気ちがいの女がいるそうだけれど、それあ本当なのかい?」
「へえ、可哀そうにすこし気が変なんでございますよ、──先にはうちでもちょいちょい何かくれてやりましたもので、よく山からにこにこしながら、いろんな花を採って来てくれたりしましたっけが。……ただ、そいつの亭主というのが大へんな奴でしてね、こっちからわざわざ何か持って行ってやったりしますと、いつも酔払っていちゃあ、『くれるというものなら貰っといたらいいじゃねえか』と、嬶の気の毒がるのを叱りつけようてった調子なんですからね。……それで、こっちでもだんだん情が通わなくなって来て、この頃じゃ、もう、ちっとも構いませんです」
「何だってね、──その気ちがいって、ときどき川のなかへ飛び込むんだってね?」
「へえ、そんな人騒がせなこともときどきやりますが、あれあどうも少し狂言らしいんで……」
「そうなのかい? ──どうしてまたそんな……」
私はふと口ごもりながら、あの林のなかの空地にあった異様な恰好をした氷倉だの、その裏の方でした得体の知れない叫び声だのを思い浮べた。そうしてそれ等のものを今だにこんなにも異常に私に感じさせている、峠の子供たちの不思議な領分の上を思った。──子供たちよ、よし大人たちにはそういう狂行が贋ものに見えようとも、お前たちは、そんな大人たちには鎖されている、お前たちだけのその領分の中で遊べるだけ遊んでいるがいい。
爺やとの話は、私の展開さすべく悩んでいた物語のもう一人の人物の上にも思いがけない光を投げた。それはあの四十年近くもこの村に住んでいるレエノルズ博士が村中の者からずっと憎まれ通しであると言うことだった。或る年の冬、その老医師の自宅が留守中に火事を起したことや、しかし村の者は誰一人それを消し止めようとはしなかったことや、そのために老医師が二十数年もかかって研究して書いていた論文がすっかり灰燼に帰したことなどを話した、爺やの話の様子では、どうも村の者が放火したらしくも見える。(何故そんなにその老医師が村の者から憎まれるようになったかは爺やの話だけではよく分からなかったけれど、私もまたそれを執拗に尋ねようとはしなかった。)──それ以来、老医師はその妻子だけを瑞西に帰してしまい、そうして今だにどういう気なのか頑固に一人きりで看護婦を相手に暮しているのだった。……私はそんな話をしている爺やの無表情な顔のなかに、嘗つて彼自身もその老外人に一種の敵意をもっていたらしいことが、一つの傷のように残っているのを私は認めた。それは村の者の愚かしさの印しであろうか、それともその老外人の頑な気質のためであろうか? ……そう言うような話を聞きながら、私は、自分があんなにも愛した彼の病院の裏側の野薔薇の生墻のことを何か切ないような気持になって思い出していた。
私はヴェランダの床板に腰かけたきり、爺やがまた何処からか羊歯を運んで来るまで、さまざまな物思いにふけりながら待っていた。それからまた爺やの羊歯を植えつけるのをしばらく見守っていた。しかし今度は黙ったままで。そうして私は老人の動かしている無気味に骨ばった手の甲を目で追っているうちに、ふいと「巨人の椅子」のことを思い浮べた。──私は爺やが羊歯をすっかり植えおえるのを待とうとしないで爺やと別れた。
それから数分後に、私はその巨きな岩を目のあたりに見ることのできる、例の見棄てられたヴィラの庭のなかに自分自身を見出した。そのヴィラに昔住んでいた二人の老嬢のことについては爺やも私に何んにも知らせてくれなかった。「ああ、セエモオルさんですか」と言ったきりだった。何か知っていそうだったがもう忘れてしまったらしかった。そうしてただ不機嫌そうに黙っていた。「そうすると、それを知っているのはお前だけだがなあ……」と私は、いま私の下方に横わっている高原一帯を隔てて、私と向い合っている、遥か彼方の「巨人の椅子」を、あたかもそのあたりに見えない巨人の姿を探してでもいるかのような眼つきで、まじまじと見まもっていた。
だんだんに日が暮れだした。私のすぐ足許の、いつかその赤い屋根に交尾している小鳥たちを見出したヴィラは、もう人が住まっているらしく、窓がすっかり開け放たれて、橙色のカアテンの揺らいでいるのが見えた。ときおり御用聞きがその家のところまで自転車を重そうに押し上げてくるらしい音が私のところまで聞えて来た。もうそろそろ私もこれまでのようにこの空家の庭でぼんやりしていられそうもないなと思った。そんな気がしだすと、何んだかもうこれがその最後の時ででもあるかのように、私は、私のすべての注意を、半分はこの荒廃したヴィラそのものに、半分はこの高みから見下ろせる一帯の美しい村、その森、その花咲ける野、その別荘、それからもう霞みながらよく見えなくなり出した丘々の襞、それだけがまだ黒々と残っている「巨人の椅子」などに傾け出していた。それにも拘わらず、私はときどきややもするとそれ等のものことごとくを見失い、そしてまるっきり放心状態になっている自分自身に気がついて、思わずどきっとするのだった。
突然、ちょうど私の頭上にある、その周囲だけもうすっかり薄暗くなっている大きな樅の、ほとんど水平に伸びた枝の一つに、ばたばたとびっくりするような羽音をさせながら、一羽の山鳩が飛んできて止まった。そうしてそんなところに私のいることに向うでも愕いたように、再びすぐその枝から、薄暗いために一層大きく見えながら、それは飛び去って行った。あたかも私自身の思惟そのものであるかのごとく重々しく羽搏きながら、そしてその翼を無気味に青く光らせながら……。
突然、私の窓の面している中庭の、とっくにもう花を失っている躑躅の茂みの向うの、別館の窓ぎわに、一輪の向日葵が咲きでもしたかのように、何んだか思いがけないようなものが、まぶしいほど、日にきらきらとかがやき出したように思えた。私はやっと其処に、黄いろい麦藁帽子をかぶった、背の高い、痩せぎすな、一人の少女が立っているのだということを認めることが出来た。……誰かを待っているらしいその少女は、さっきから中庭のあちらこちらに注意深そうな視線をさまよわせていたが、最後にその視線を、離れの窓から彼女の方をぼんやり見つめていた私の上に置いた。そんな最初の出会の時には、大概の少女たちは、自分が見つめられていると思う者からわざとそっぽを向いて、自分の方ではその者にまったく無関心であることを示したがるものだが、そんな羞恥と高慢さとの入り混った視線とは異って、私の上に置かれているその少女の率直な、好奇心でいっぱいなような視線は、私にはまぶしくってそれから目をそらさずにはいられないほどに感じられたので、私はそのときの彼女──最初に私の目の前に現れたときの彼女に就いては、そのやや真深かにかぶった黄いろい帽子と、その鍔のかげにきらきらと光っていた特徴のある眼ざしとよりほかには、殆んど何も見覚えのない位であった。……やがて別館から彼女の父らしいものが姿を現した。そしてその二人づれは私の窓の前を斜めに横切って行ったが、見ると、彼女はその父よりも背が高いくらいであった。そしてその父らしいものが彼女にしきりに話しかけるのに、彼女はいかにも気がなさそうに返事をしながら、いつまでも私の方へ躑躅の茂みごしにその特徴のある眼ざしをそそぎつづけていた。……その二人が中庭を立ち去ってしまった跡も、私はしばらく、今しがたまでその少女が向日葵のように立っていた窓ぎわの方へ、すこし空虚になった眼ざしをやっていたが、ふと気づくと、そこいらへんの感じが、それまでとは何んだかすっかり変ってしまっているのだ。私の知らぬ間に、そこいら一面には、夏らしい匂いが漂い出しているのだった。……
その日の夕方の、別館の方への私の引越し、(今まで私の一人で暮らしていた、古い離れが修繕され始めるので──)その次ぎの日の、その少女の父の出発、それから他にはまだ一人も滞在客のないそんな別館での、その少女と二人っきりの、背中合わせの暮らし……。
しかし私は毎日のように、ほとんど部屋に閉じこもったきりで、自分の仕事に没頭していた。その私の書きつつある「美しい村」という物語は、六月頃からこの村に滞在している私が、そんなまだ季節はずれの、すっからかんとした高原で出会ったことを、それからそれへと書いて行ったものだった。そうして私は丁度いま、私がそれまで昔の恋人に対する一種の顧慮から、その物語の裏側から、そして唯、それによってその淡々とした物語に或る物悲しい陰影を与えるばかりで満足しようとしていた、この村での数年前の彼女たちとの花やかな交際の思い出、ことにこの村での彼女たちとの最初の歓ばしい出会いを、とある日、道ばたに咲き揃っている野薔薇の花がまざまざと私のうちに蘇らせ、それが遂に思いがけぬ出口を見つけた地下水のように、その物語の静かな表面に滾々と湧きあがってくるところを書き終えたばかりのところだった。そうしてそういう昔のさまざまな歓ばしい出会いの追憶に耽っている暇もなく、すでに私から巣立っていったそれらの少女たち、ことにそのうちの一人との気まずい再会を恐れて、季節に先立ってこの村を立ち去ろうとする、そんな私の悲しい決心を、その物語の結尾として、私はこれから書こうとしているところだった。
私の新しい部屋は、別館の二階の奥まったところで、南向きの窓があり、そしてその窓からは数本の大きな桜の幹ごしに向うの小高い水車の道に面しているいくつかのヴィラの裏側がちらちらと見えていた。そしてその窓のすぐ下を、私がそれらの少女たちと初めて出会ったところの、例の抜け道が、小さな坂になりながら、灌木のなかに細々と通っているのだった。……私は私のやりかけている仕事から気持をそらすまいとして、私とたった二人きりでその別館の中に暮らしだしているその未知の少女とは、わざと背中を向き合わせてばかりいた。その癖、私は私の窓のすぐ下を通っているその坂道を、毎朝、一定の時刻に、絵具箱をぶらさげながら、その少女が水車の道の方へと昇ってゆくのを見逃したことはなかった。丁度、午前中のその時刻の光線の具合で、木洩れ日がまるで地肌を豹の皮のように美しくしている、その小さな坂を、ややもすると滑りそうな足つきで昇ってゆくその背の高い、痩せぎすな後姿を見送りながら、その上の水車の道に出て、さて、それから彼女はどの小径をどう通って、どんな場所へ絵を描きに行くのだろうかと、そこいらの林のなかの小径が実にややこしく、私自身も初めてこの村へ来た当時は、何度も道に迷ってしまった位ではあったし、それにまたそんなことからして一人の少女と私との奇妙な近づきが始まったりしたので、私は、絵を描く場所を捜しながらそんな見知らぬ小径をさまよっているらしい彼女のことを、何となく気づかわしく思っていた。
⁂
しかし私は最初のうちはその少女を、唯、そんな風に私の窓からだの、或いは廊下などでひょっくり擦れちがいざま、目と目とを合わせないようにして、そっと偸み見ていたきりであった。そんな具合で、私は彼女の顔を、まだ一度も、まともに眺めたことがなく、それに私の見たときは、いつも静止していないで、しかもそれぞれに異った角度から光線を受けていたせいか、見る度毎に、その顔は変化していた。或る時は、そのやや真深かにかぶった黄いろい麦藁帽子の下から、その半陰影のなかにそれだけが顔の他の部分と一しょに溶け込もうとしないで、大きく見ひらかれた眼が、きらきらと輝いていた。またそんな帽子をかぶらずに、庭園の中などで顔いっぱいに強い光線を浴びながら、まぶしそうにその眼を半分閉ざしているおかげで、平生の特徴を半分失いながら、そしてその代りにその瞬間までちっとも目立たないでいた脣だけが苺のように鮮かに光りながら、ほとんど前のとは別の顔に変ってしまうこともあった。
そのうちに私たちがやっと短い会話を取り交わすようになり、それと共に、屡しば、私は彼女の顔をまともから眺めるようになったのにも拘らず、彼女の顔がなおも絶えず変化しているのに愕いた。或る時は、その顔はあんまり血色がよく、すべすべしているので、私のためらいがちな視線はいくどもその上で空滑りをしそうになった。また他の時はすこし疲れを帯びたように沈んで、不透明で、その皮膚の底の方にはなんだか菫色のようなものが漂っているように見えた。そうかと思うと、その皮膚がすっかり透明になり、ぽうっと内側から薔薇色を帯びているようなこともあった。ときどき以前に見たのと何処か似たような顔をしていることもあった。が、その顔は決して二度と同じものであることはなかった。
或る日のこと、私は自分の「美しい村」のノオトとして悪戯半分に色鉛筆でもって丹念に描いた、その村の手製の地図を、彼女の前に拡げながら、その地図の上に万年筆で、まるで瑞西あたりの田舎にでもありそうな、小さな橋だの、ヴィラだの、落葉松の林だのを印しつけながら、彼女のために、私の知っているだけの、絵になりそうな場所を教えた。その時、私のそんな怪しげな地図の上に熱心に覗き込んでいる彼女の横顔をしげしげと見ながら、私は一つの黒子がその耳のつけ根のあたりに浮んでいるのを認めた。その時までちっともそれに気がつかないでいた私には、何んだかそれはいま知らぬ間に私の万年筆からはねたインクの汚点かなんかで、拭いたらすぐとれてしまいそうに思えたほどだった。
翌日、私は彼女が私の貸した地図を手にして、早速私の教えたさまざまな村の道を一とおり見歩いて来たらしいことを知った。それほど私の助言を素直に受入れてくれたことは、私に何んとも言いようのない喜びを与えた。
⁂
そんな村の地図を手にして、彼女がひとりで散歩がてら見つけて来た、或るささやかな渓流のほとりの、蝙蝠傘のように枝を拡げた、一本の樅の木の下に、彼女が画架を据えている間、私はその画架の傍から、数本のアカシアの枝を透しながらくっきりと見えている、程遠くの、真っ白な、小さな橋をはじめて見でもするように見入っていた。それは六月の半ば頃、私が峠から一緒に下りてきた二人の子供たちと別れた、あの印象の深い小さな橋であった。──私は、彼女がしゃがみながら、パレットへ絵具をなすりつけ出すのを見ると、彼女の仕事を妨げることを恐れて、其処に彼女をひとり残したまま、その渓流に沿うた小径をぶらぶら上流の方へと歩いて行った。しかし私は絶えず私の背後に残してきた彼女にばかり気をとられていたので、私の行く手の小径の曲り角の向うに、一つの小さな灌木が、まるで私を待ち伏せてでもいたように隠れていたのに少しも気づかずに、その曲り角を無雑作に曲ろうとした瞬間、私はその灌木の枝に私のジャケツを引っかけて、思わずそこに足を止めた。見ると、それは一本の花を失った野薔薇だった。私はやっとのことで、その鋭い棘から私のジャケツをはずしながら、私はあらためてその花のない野薔薇を眺めだした。それが白い小さな花を一ぱいつけていた頃には、あんなにも私がそれで楽しんでいた癖に、それらの花がひとつ残らず何処かに立ち去ってしまった今は、そんな灌木のあることにすら全然気づこうとしなかった私に対して、それが精一杯の復讐をしようとして、そんな風に私のジャケツを噛み破ったかのようにさえ私には思えた。……そういう花のすっかり無くなった野薔薇をしばらく前にしながら、私はいつか知らず識らずに、それらの白い小さな花のように何処へともなく私から去っていった少女たちのことを思い出していた。……この頃、ともすると、一人の新しい少女のために、そんな昔の少女たちのことを忘れがちであったが、そう言えば、彼女たちがこの村においおいとやって来る時期ももう間ぢかに迫っているのだ。彼女たちが来ないうちに私はこの村をさっと立ち去ってしまった方がいい。そうしなくっちゃいけない。──そう自分で自分に言って聞かせるようにしながら、その一方ではまた、この頃やっと自分の手に這入りかけている新しい幸福を、そうあっさりと見棄てて行けるだろうかどうかと疑っていた。そうして私は自分の気持をそのどちらにも片づけることが出来ずに、自分で自分を持て余しながら、かれこれ一時間近くもその山径をさまよっていた。そうしてその挙句、私がやっと気がついた時には、そんな風に歩きながら自分でも知らずに何度も指で引張っていたものと見えて、私の鼠色のジャケツの肩のところに出来たその小さな綻びは、もう目立つくらいに大きくなっていた。──私はとうとう踵を返して、再び渓流づたいにその山径を下りてきた。そうして私は自分の行く手に、真っ白な、小さな橋と、一本の大きな蝙蝠傘のような樅の木を認めだすと、私はすこし歩みを緩めながら、わざと目をつぶった。その木蔭になって見えずにいるものを、私のすぐ近くに、不意に、思いがけぬもののように見出したかったのだ。……とうとう私は我慢し切れずに私の目を開けてみた。しかし彼女は私からまだ十数歩先きのところにいた。そうしてその木蔭にしゃがみながらそれまでパレットを削っていたらしい彼女が、その時つと立ち上って、私にはすこしも気がつかないように、描きかけのカンバスを画架からとりはずすと、それを道ばたの草の上へいかにも投げやりに、乱暴なくらいにほうり出したところだった。ほうり出された大きなカンバスは、しかしひとりでにふんわりとなりながら、草の上へ倒れて行った。それを見ると、私は彼女のそばへ駈けつけた。
「僕が持っていて上げよう」
「いいわ……いつもひとりでするんですから」
「意地わる!」
「意地わるでしょう」
私は彼女とそんな風に子供らしく言い合いながら、無理にカンバスを引ったくると、それを自分の肩にあてがいながら、彼女と並んで村の街道を宿屋の方へと歩いて行った。ときおり私たちは散歩をしている西洋人や村の子供たちとすれちがった。彼等のもの珍らしそうな視線は私たちを──殊にまだこの村に慣れない彼女を気づまりにさせているらしかった。私は私で、そういう彼女をつとめて気軽にさせようと思って、私の空いている方の手を自分の肩の上へやりながら、
「ほら、こんな穴が出来ちゃった……さっき一人で散歩しているとき野薔薇にひっかかったのさ」
そう言って、その肩の穴がもっと大きくなるのも構わずに、それをよく彼女に見せようとして、自分のジャケツを引張って見せたりした。そうして私はこんなにまで私と打ち解け合いだしているこの少女を振り棄てて、自分ひとりこの村を立ち去るなんぞということは、到底出来そうもないと考え出していた。
⁂
私の「美しい村」は予定よりだいぶ遅れて、或る日のこと、漸っと脱稿した。すでに七月も半ばを過ぎていた。そうして私はそれを書き上げ次第、この村から出発するつもりであったのに、私はなおも、そういう一人の少女のために、一日一日と私の出発を延ばしながら、私がその物語の背景に使った、季節前の、気味悪いくらいにひっそりした高原の村が、次第次第に夏の季節にはいり、それと同時にこの村にもぽつぽつと避暑客たちが這入り込んでくるのを、私は何んだか胸をしめつけられるような気持で、目のあたりに迎えていた。
私はしばしばその少女と連れ立って、夕食後など、宿の裏の、西洋人の別荘の多い水車の道のあたりを散歩するようになっていた。そんな散歩中、ときおり、一月前までは私と一しょに遊び戯れたりしたことさえある村の子供たちと出会うようなこともあったが、彼等は私たちの傍を素知らぬ顔をして通り抜けていった。もう私を覚えていないのだろうか、それとも私がそんな見知らない少女と二人づれなのを異様に思ってそうするのだろうか? ……しかしそれらの子供たちも、そのうちだんだんに、そんな林の中で最初のうちは私たちのよく見かけたものだった、さまざまな小鳥などと共に、その姿をほとんど見せないようになった。そしてその代り、私たちとすれちがいながら、私たちに好奇的な眼ざしを投げてゆく、散歩中の人々や、自転車に乗った人々などがだんだんに増えて来た。それらの中には私と顔見知りの人たちなども雑っていた。私はいつかこんなところをひょっくり昔の女友達にでも出会いはしないかと一人で気を揉んでいたが、ときどき、そんな散歩の途中に、ふと向うからやってくる人々のうちに遠見がどこかそれらに似たような人があったりすると、私は慌てて、その人たちを避けるために、道もないような草の茂みのなかへ彼女を引っ張りこんで、何んにも知らない彼女を駭かせるようなこともあった。
そんな風に、私は彼女と暮方近い林のなかを歩きながら、まだ私が彼女を知らなかった頃、一人でそこいらをあてもなく散歩をしていたときは、あんなにも私の愛していた瑞西式のバンガロオだの、美しい灌木だの、羊歯だのを、彼女に指して見せながら、私はなんだか不思議な気がした。それ等のものが今ではもう私には魅力もなんにも無くなってしまっていたからだ。そうして私は彼女の手前、それ等のものを今でも愛しているように見せかけるのに一種の努力をさえしなければならなかった。それほど、私自身は私のそばにいる彼女のことで一ぱいになってしまっているのだった。……そうしてそんな薄ぐらい道ばたなどで、私は私の方に身を靠せかけてそれ等のものをよく見ようとしている彼女のしなやかな肩へじっと目を注ぎながら、そっとその肩へ私の手をかけても彼女はそれを決して拒みはしないだろうと思った。そして私は或る時などは、その肩へさりげないように私の手をかけようとして、彼女の方へ私の上半身を傾けかけた。私の心臓は急にどきどきしだした。が、それよりももっとはげしく彼女の心臓が鼓動しているのを、その瞬間、私は耳にした。そしてそれが私に、そういう愛撫を、ほんのそのデッサンだけで終らせた。……私はまだその本物を知らないのだけれど、それが与えるのとちっとも異わないような特異な快さを、そのデッサンだけでもう充分に味ったように思いながら。
⁂
一体、「水車の道」というのは、郵便局やいろんな食料品店などのある本通りの南側を、それと殆んど平行しながら通っているのだが、それらの二つの平行線を斜かいに切っている、いくつかの狭い横町があった。そんな横町の一つに、その村で有名な二軒の花屋があった。二軒とも藁屋根の小さな家だったが、共に、その家の五六倍ぐらいはあるような、大きな立派な花畑に取り囲まれていた。そしてその二つの花畑を区切って、いつも気持のよいせせらぎの音を立てながら流れているのは、数年前まで、そのずっと上流のところでごとごとと古い水車を廻転させていたところの、あの小さな流れであった。そしてその一方の花畑などは、水車の道を越して、更らにその道の向うまで氾濫していた。……つい先頃までは、あんなに何処もかしこも花だらけであったこの村では、この二軒の花屋は、ほとんどその存在さえ人々から忘れられていた位であったが、やがてその季節が過ぎ、それらの野生の花がすっかり散って、それと入れ代りに今度は、これらの畑で人工的に育て上げられた、さまざまな珍らしい花が、一どにどっと咲き出したものだから、その横町を通り抜ける者は誰しもその美しい花畑に眸をみはらないものは無いくらいであった。だが、その二軒並んだ花屋の前を通りすがりに、注意をしてそれらの店の奥に坐っている花屋の主人たちに目を止めた者は、一層の愕きのためにその眸をもっと大きくせずにはいられなかったであろう。と言うのは、その一方の店の奥にきょとんと坐っている白い碁盤縞のシャツを着た小柄な老人を認めたのち、次の花屋の前にさしかかると、何んとその奥にも、つい今しがたもう一方の奥に見かけたばかりのと寸分も異わない、小柄な老人が、やはり同じような白い碁盤縞のシャツを着て、きょとんと腰をかけ、往来の方を眺めているのに気づくだろうからだ。ただ異うのは、そんな二人のそばに坐っているのが、一方はいつも髪の毛をくしゃくしゃにさせた、肥っちょの女房であったし、もう一方はそれと好対照をしている位に痩せっぽちの、すこし藪睨みらしい女房であることだ。つまり、その二軒の花屋の老いたる主人たちは、ほとんど瓜二つと云っていいほどの、兄弟なのであった。その上、可笑しいことには、この花屋の兄弟はとても仲が悪くて、夏場だけはお互に仲好さそうに口を利き合いながら商売をしているが、さて夏場が過ぎてしまうと、すぐに性懲りもなく喧嘩をし始め、冬の間などは、お互に一言も口を利かずに過ごすようなことさえあると言うことだった。──そんな風変りな二軒の花屋のある横町には、道ばたに数本の小さな樅と楓とが植えられてあったが、その一番手前の小さな楓の木に、ついこの間のこと、「売物モミ二本、カエデ三本」という真新しい木札がぶらさげられた。そしていまや、その横町の両側の花畑には、向日葵だの、ダリヤだの、その他さまざまの珍らしい花が真っさかりであった。……
私はそんな二軒の花屋の物語を彼女に聞かせながら、その私の大好きな横町へ、彼女の注意を向けさせた。
水車の道の上へ大きな枝を拡げている、一本の古い桜の木の根元から、その道から一段低くなっている花畑の向うに、店の名前を羅馬字で真白にくり抜いた、空色の看板が、さまざまな紅だの黄だのの花とすれすれの高さに、しかしそれだけくっきりと浮いて見えている。──そんな角度から見た一軒の花屋の屋根とその花畑を、彼女は或る日から五十号のカンバスに描き出した……。
しかしその水車の道はそのへんの別荘の人たちが割合に往き来するので、彼女のまわりにはすぐ人だかりがして困るらしかったが、私は一遍もその絵を描いている場所へ近づこうとはしないでいた。そんな人目につき易い場所で私が彼女と親しそうにしているのを、私の顔見知りの人々に見られたくなかったからだ。で、私は自分の部屋に閉じこもったきりで、この頃やっと書き上げたばかりの原稿へ最後の手入れをし続けていた。(しかし、その間一番余計に私の考えていたのは、やっぱり彼女のことであった。)──が、私はその花屋を描いているところを遠くからなりと、一度見て置きたいと思って、或る朝、宿屋の裏の坂を上りながら水車の道まで出ていって見た。そうして私は、その道の向うの、大きな桜の木の下に立って、パレットを動かしている彼女と、それから彼女の横からその画布を覗き込みながら、一人のベレ帽をかぶった若い男が、何やら彼女に話しかけているのを認めた。私はそんな男が早く彼女のそばを立ち去ってくれればいいにと、すこしやきもきしながら、待っていた。──
「誰れ? いまの人……」やっとその男が立ち去ったのを見ると、私は急いで彼女の方へ近づいて行きながら、いかにも何気なさそうに訊いた。
「画家さんなんですって……何んだか、あんまり何時までも見ていらっしゃるんで、私、厭になっちゃった……」
彼女はわざとらしく顔をしかめて見せた。それからすこし恐いような眼つきをして花畑の一部を見つめだした。熱心に絵を描こうとしているときの彼女が、こんな男のような、きびしい眼つきになるのを私はよく知っていたものだから、私はそれっきり黙っていた……。
そんな風に、私がちょっとでも彼女から離れている間に、私なしに、彼女がこの村で一人きりで知り出しているすべてのものが、私に漠として不安を与えるのだった。或る日、彼女は、昔は其処に水車場があったと私の教えた場所のほとりで、屡しば、背中から花籠を下ろして、松葉杖に靠れたまま汗を拭いている、跛の花売りを見かけることを私に話した。彼女の話すようなものをついぞ見かけたことのない私には、そんな跛の花売りのようなものと彼女が屡しば出会うことすら、自分でも可笑しいくらい、気になってならなかった。
⁂
或る朝、私は私の窓から彼女が絵具箱をぶらさげて、裏の坂を昇ってゆくのを見送った後、そのまんまぼんやり窓にもたれていると、しばらくしてからその同じ坂を、花籠を背負い、小さな帽子をかぶった男が、ぴょこんぴょこんと跳ねるような恰好をして昇ってゆくのが認められた。よく見ると、その男は松葉杖をついているのだ。ああ、こいつだな、彼女がモデルにして描きたいと言っていた跛の花売りというのは! ……そういう後姿だけではよくわからなかったが、その男は、この村の花売り共が大概よぼよぼの老人ばかりなのに、まだうら若い男らしかった。それが一層片輪の故にそんな花売りなんかしていることを物哀れに感じさせた。──そうして、その悲しげな跛の花売りを、私は自分自身の眼で見知るや否や、彼女がその姿を絵に描いてみたいと言っていただけでもって、その跛の花売りに私の抱いていた、軽い嫉妬のようなものは、跡方もなく消え去った。……
しかし、数日前水車の道で彼女に親しげに話しかけていたところを私の目撃した、あの画家だという、ベレ帽をかぶっていた青年は、その顔なんか明瞭には覚えていなかったが、それだけ一層、その男の漠とした存在は、何かしら私を不安にさせずにはおかなかった。彼女はその画家のことはそれっきり何んにも私に話さなかったが、ひょっとしたら彼女はそれまでに何遍もその画家に出会っており、そして私の知らない間に互に親しくなりだしているのではないかと云うような懸念さえ私は持ちはじめていた。そうして或る日のこと、そういう私の懸念を一そう増させずにはおかないような出会いを私たちはその画家としたのだった。──やっと彼女が花屋の絵を描き上げたので、次の絵を描く場所を捜すために、或る晴れた朝、私は彼女と一緒に、すこし遠いけれど、サナトリウムの方へひさしぶりで出かけてみることにした。私たちが、小さな集りのあるらしい、少人数の西洋人の姿が窓ごしにちらちら見える、教会の前を通りぬけて、その裏の、いつも人気のない橡の林の中へはいろうとした途端、私たちの行く手の、その林のなかの小径をば、一人の男が、帽子もかぶらずに、スケッチ・ブックらしいものを手にしながら、ぶらぶらしているのを私たちは認めた。「いつかの画家さんよ……又、お会いしたわ」──彼女にそう注意をされるまでは、私はその男が、この頃何の理由もなく私を苦しめ出している、そのベレ帽の画家と同じ男であることには気づかなかった位であった。それほど私はその画家については何んにも見覚えがなかったのだ。私は、私たちの方へぶらぶら歩いてくるその男からは、つとめて私の視線をはずしながら、急に早口にとりとめもないことを彼女に話し出した。私は彼女が私の話に気をとられてその男の方へはあんまり注意しないようにと仕掛けたのだ。しかし彼女は私の言うことには何んだか気がなさそうに応えるだけであった。そして彼女は、私がそばにいるのでひどく曖昧にされたような好意に充ちた眼ざしで、その男の方を見つめていた。少くとも私にはそんな気がした。すると、その男の方でも、私の知らないこの前の出会いの際に、彼女と交換した親しげな視線の続きとでも言ったような意味ありげな視線を彼女の方へ投げかけながら、そして思い出し笑いのようなものをふいと浮べながら、軽く会釈をして、私たちのそばを通り抜けて行った。
私はなんだか急に考えごとでもし出したかのように黙り込んだ。私たちはその橡の林を通り抜けて、いつか小さな美しい流れに沿い出していた。しかし私はいま自分の感じていることが何処まで真実であるのか、そんなことはみんな根も葉もないことなんじゃないかと疑ったりしながら、気むずかしそうに沈黙したまま、自分の足許ばかり見て歩いていた。そうして私は、そんな自分の疑いに対するはっきりした答えを恐れるかのように、いつまでも彼女の方を見ようとはしないでいた。が、とうとう私は我慢し切れなくなってそんな沈黙の中からそっと彼女の横顔を見上げた。そして私は思ったよりももっと彼女がその沈黙に苦しんでいるらしいのを見抜いた。そういう彼女の打ち萎れたような様子は私にはたまらないほどいじらしく見えた。突然、後悔のようなもので私の胸は一ぱいになった。……私がほとんど夢中で彼女の腕をつかまえたのは、そんなこんがらがった気持の中でだった。彼女はちょっと私に抵抗しかけたが、とうとうその腕を私の腕のなかに切なそうに任せた。……それから数分経ってから初めて、私はやっと自分の腕の中に彼女がいることに気がついたように、何んともかんとも言えない歓ばしさを感じ出した。
私たちは、少しぎごちなさそうに腕を組んだまま、例の小さな木橋を渡った。それからその流れの反対の側に沿って、サナトリウムへの道に這入って行った。その途中にずっと続いている野薔薇の生墻は、既にその白い小さな花をことごとく失った跡だった。そんな葉ばかりになってしまっている野薔薇の茂みは、それらが花を一ぱいつけていた頃のことを、殆んど強制的に私に思い出させはしたけれど、私はそれがどんなになっていようとも、もうそれには少しも感動できなくなっていた。それほどあの頃からすべてが変っていた。そしてそれが何もかも自分の責任のような気がされて、私はふっと気が鬱いだ。……が、それらの生墻の間からサナトリウムの赤い建物が見えだすと、私は気を取り直して、黄いろいフランス菊がいまを盛りに咲きみだれている中庭のずっと向うにある、その日光室を彼女に指して見せた。丁度、その日光室の中には快癒期の患者らしい外国人が一人、籐椅子に靠れていたが、それがひょいと上半身を起して、私たちの方をもの憂げな眼ざしで眺め出した。──それから私たちは、なおもその流れに沿って、そこいらへんから次第にアカシアの木立に縁どられだす川沿いの道を、何処までも真直に進んで行った。それらのアカシアの花ざかりだった頃は、その道はあんなにも足触りが軟かで、新鮮な感じがしていたのに、今はもう、あちこちに凸凹ができ、汚らしくなり、何んだかいやな臭いさえしていた。その上、それらのアカシアの木立は、まだみんな小さいので、はげしい日光から私たちを充分に庇うことが出来ないので、その川沿いの道はそれまでの道よりも一層暑いように思えた。私たちは途中からそれらのアカシアの間をくぐり抜けて、丁度サナトリウムの裏手にあたる、一面に葦の這っている、いくぶん荒涼とした感じのする大きな空地へ出た。其処からは、村の峠が、そのまわりの数箇の小山に囲繞されながら、私たちの殆んど真向うに聳えていた。──梅雨期には、その頃の私自身の心の状態のせいだったかも知れないが、その奥には何かしら神秘的なものがあるように思えてならなかった。その峠も、いまは何物をも燃やさずにはおかないような夏の光線を全身に浴びながら、何んだか炎のようにゆらめいているような感じで、私たちに迫っていた。……
彼女は、その燃ゆるような山なみを、サナトリウムの赤い屋根を前景に配置しながら、描いてみたいと言った。そしてそれを適当な角度から描くために、そんなはげしい光線の直射するのにも無頓著のように、その空地のやや小高いところを選ぶと、三脚台を据えて、その上へ腰かけ、斜めにかぶった運動帽の下からときどきまぶしそうな顔を持ち上げながら、その下図をとりだした。……私は彼女の仕事の邪魔にならないように、いつものように彼女を其処に一人きり残しながら、再びさっきの土手に出て、やや大きなアカシアの木蔭を選んで、そこに腰を下ろしていた。そうして私の前の小さな流れの縁を一羽の鶺鴒が寂しそうにあっちこっち飛び歩いているのにぼんやり見入っていると、突然、私の背後のサナトリウムの方からその土手をうんうん言いながら重たそうに荷車を引いてくる者があるので、私は道をあけようとして立ち上った。見ると、それは一台の塵芥車だった。私は、とんでもないものがこんなところを通るんだなあと思いながら、道ばたの灌木の中へすっぽりと身体を入れながら、よそっぽを向いていた。が、その塵芥車がやっと私の背後を通り過ぎたらしいので何気なくちらりとそれへ目をやると、その箱車のなかには、鑵詰の鑵やら、唐もろこしの皮やら、英字新聞の黄ばんだのやら、草花の枯れたのやらが、一種汚らしい美しさで、ぎっしりと詰まっていた。そしてその車の通った跡には、いつまでも腐った果物に似た匂いが漂っていた。……私はこんな塵芥車のようなものにも、いかにもこの外国人の多い村らしい独得な美しさのあるのを面白がって、それをちょっと見送った後、再びさっきのアカシアの木蔭へぼんやり腰を下ろしていると、ものの数分と経たないうちに、私はまたしても私の背後へ近づいてくる車の音でもって、立ち上らなければならなかった。それもまた、前のとそっくり同じような、塵芥車だった。そしてそれから小一時間ばかりの間に、私はこの土手を通りすぎる同じような塵芥車を、ほとんど十台ぐらい数えることが出来た。──何処かこの先きの方にでも、きっとこの村の芥棄て場があるんだなと、それにはじめて気がつくや否や、私は漸っとのことで、このサナトリウムの土手がこんなに凸凹になり、汚らしくなっている原因にも気がつきだした。そうしてそれとほとんど一緒に、もうこんなにこの村には沢山の外国人がはいり込んでいるのかなあと思いながら、私はすこし呆気にとられたように、いましがた私の背後を通り過ぎて行ったばかりの、その最後の塵芥車をいつまでも見送っていた。……
「どっちへ向いて行くんだか、私にはちっとも分らないわ」彼女はいくらか上ずったような声で言った。
「実は僕にも分らなくなっちゃったのさ……」私はそう返事をしながら、彼女の方を見やったが、その白い顔の輪廓がもうほとんど見分けられないくらいの暗さになりだしていた。実際私自身にもこんな風に私たちの歩いている山径の見当がちょっと付きかねていたのだけれど、私はわざとそれを冗談のように言い紛らわせていたのだった。
──その日、私が私の「美しい村」の物語の中に描いた、二人の老嬢たちのもと住まっていた、あの見棄てられた、古いヴィラの話を彼女にして聞かせると、それをしきりに見たがったので、私自身はもうそんなものは見たくもなかったのだけれど、その荒れ果てたヴェランダから夕暮れの眺めがいかにも美しかったのを思い出して、夕食後、ともかくもそのヴィラまで登って行ってみることにした。恐らくあの家はまだあのまんまになっているだろうと予想しながら。……が、だんだんそのヴィラが近づいてくるにつれ、私は何んだか急にそんな自分の夢の残骸のようなものを見に行くのが厭な気がし出したので、そろそろ日が暮れかけて来たのをいい口実に、まだ山径がこれからなかなか大へんだからと言って、私たちはその途中から引っ返すことにした。──その帰り途、私はその代りに、まだ彼女が知らないというベルヴェデエルの丘の方へ彼女を案内するため、いましがた登ってきたのとは異った山径を選んでいるうちに、どう道を間違えたのか、そのへんからもう下り道になってもよさそうな時分だのに、いつまでもそれが爪先き上りになっていて、私たちはその村の中心からはますます反対の方へ向いつつあるような気がしてきた。まだこの村にこんな私の知らない部分があることを心のうちでは驚きながら、しかし私はそのへんをいかにも知り抜いているように装いながら、さっさと彼女を導いて行った。が、私たちはともすると無言になるのだった。……いつのまにやらもうすっかり日が暮れていた。私たちの歩いている道の両側の落葉松などが伸び切って、すこし立て込んでいたりすると、私はほとんど彼女の着ているワンピイスの薔薇色さえ見さだめがたい位であった。ただときどき彼女の肩が私の肩にぶつかるので、自分の傍に彼女を近ぢかと感じながら歩いていた。そうかと思うと、木立の間からだしぬけにその奥にあるヴィラの灯りが下枝ごしに私たちの肩に落ちて来て、知らず識らずに身をすり寄せていた私たちを思わず離れさせた。──そんなヴィラの数がだんだん増え出して来たらしいことが、いくらか私たちをほっとさせていた。……
突然、私は心臓をしめつけられたように立ち止まった。私はそれらのヴィラに見覚えがあり出すのと同時に、これをこのまま行けば、私がこの日頃そこに近寄るのを努めて避けるようにしていた、私の昔の女友達の別荘の前を通らなければならないことを認めたのだ。そして私は、その一家のものが二三日前からこの村に来ていることを宿の爺やから聞いて知っていたのだ。しかしもうさんざん彼女を引っ張りまわした挙句だったし、私もかなり歩き疲れていたので、この上廻り道をする気にはなれずに、私は心ならずもその別荘の前を通り抜けて行くことにした。……だんだんその別荘が近づいて来るにつれ、私はますます心臓をしめつけられるような息苦しさを覚えたが、さて、いよいよその別荘の真白な柵が私たちの前に現われた瞬間には、その柵の中の灯りの一ぱいに落ちている芝生の向うに、すっかり開け放した窓枠の中から、私の見覚えのある古い円卓子の一部が見え、その上には、人々が食事から立ち去ってからまだ間もないと言ったように、丸められたナプキンだの、果物の皮の残っている皿だの、珈琲茶碗だのが、まだ片づけられずに散らかったまま、まぶしいくらい洋燈の光りを浴びてきらきらと光っているのを、私は自分でも意外なくらいな冷静さをもって認めることが出来た。いい具合に其処には誰も居合わさなかったせいか、それともまたそれは、その瞬間までに、私のなかの不安が、既にその絶頂を通り越してしまっていたせいであったろうか? ともかくも、私はかなり平静に近い気持で、ただちょっと足を早めたきりで、その白い柵の前を通り過ぎることが出来た。……そんな私の心のなかの動揺には気づこう筈がなく、彼女は急に早足になった私のあとから、何んだか怪訝そうについて来ながら、
「まだ、なかなか?」とすこし不安らしく私に声をかけた。
「うん……ますます見当がつかないんだ」
「そんなことばかし言って……」彼女はそんな私の本気とも冗談ともつかないような態度にとうとう腹を立てたように見える。そうしてそんな私を非難するような口吻で、
「早く帰らない?」と言った。
「じゃ、一人でお帰りなさい」と私はいまはもう微笑らしいものさえ浮べながら返事をした。
「意地わる!」
「だって、ほら、其処知っているでしょう?」と私は、私たちの行く手の暗がりの中に小さなせせらぎが音立てているのを指しながら、「水車の道じゃないの?」と快活そうに言った。「まあ、本当に……」と彼女はまだ何んだかそれが信じられないと言った風に自分の周囲を見廻わしていた。私たちはすでに、林のなかを抜け出して、昔、水車場のあった跡に佇ずんでいたのだった。──そこで道が二股に分かれて、一方は「水車の道」、もう一方は「本通り」へと通じていた。どっちからでも、もうすぐ其処の宿屋へは帰れるのだが、水車の道の方からだと例のかなり嶮しい坂道を下りなければならなかったので、私たちは本通りの方から帰ることにした。で、その後者の道をとって、その突きあたりから本通りの方へ曲ろうとした途端に、私は、その本通りの入口の、ちょうど宿屋の前あたりから、ぽうっと薄明るくなりだしている圏の中に、五六人、一かたまりになった人影がこちらを向いて歩いてくるのを認めた。私はどきっとして立ち止まった。どうやらそれが私の昔の女友達どもらしく見えたからだ。……私は急に、私のそばにいる彼女の腕をとって、向うから苦手の人が来るらしいので捕まると面倒くさいからと早口に言訣しながら、いま来たばかりの水車場の方へ引っ返していった。そうして再びさっきの小川の縁に並んで立ちながら、その人達がそのまま本通りの方から来るか、それとも宿屋の裏の坂を抜けてくるか、どっちから来るだろうと、両方の道へ注意を配っていた。……そしてそっちにばかり注意を奪われていたので、私たちは、私たちの背後の、いましがた其処から私たちの出てきたばかりの林の中から、数人のものが懐中電気を照らしながら、出てくるのには全然気がつかずにいた。突然私たちはその懐中電気のまぶしい光りを浴びせられた。私たちはびっくりしてその小川の縁を離れた。……しかし懐中電気を手にしていた男の方でも、そんなところに思いがけず私たちが突っ立っていたのに、面喰ったらしかったが、その一人が私だと気がつくと、
「××君じゃない?」と私の名前をためらいがちに言った。そう言われて、私が一層驚いて、まぶしそうに顔をしかめながら振り向いて見ると、それは私の学生時代からの友人であった。それと同時に、私はその友人の背後に、若い女たちが二三人、まだ不審そうに闇を透かしながらこちらを見つめているのに気がついた。それはその友人の若い妻君や妹たちであった。私は彼女たちにちょいと会釈をして、それから気まり悪そうに微笑しながら、
「なあんだ、君たちか! ──何時、こっちへ来たの?」
「昨日来た。さっき君んところへ寄ったら留守だと言うんで、それから細木さんのところへ行って見たんだ。あそこの家もみんな出払っているんだ……」
私はその友人の言葉を聞き終えるか終えないうちに、本通りの方の曲り角から一かたまりの人影がこっちへ曲って来だしたのを認めた。
「じゃあ、構わないから、僕んところへ寄って行けよ」
そう言い棄てて、私はさっさと一人で水車の道の方へ歩き出した。そうして私は二三のヴィラの前を通り過ぎてから、その先きの、真っ暗だけれど、私には勝手の知れた、草ぶかい坂道をずんずん一人先きに降りていった。やがて他の連中も、そんな私の後から一塊りになって、一箇の懐中電気を頼りにしながら、きゃっきゃっと言って降りて来た。……
「まあ、こんな道あるの、私、ちっとも知らなかったわ」
坂の中途で、友人の若い妻君がそんなことを誰にともなく言ったらしいのが、もうその時はその小さな坂を降り切ってしまっていた私のところまで、手にとるように聞えて来た。私は丁度、その友人の妻君も確か数年前にその坂道で私の出会った少女たちの中に雑っていたことを思い出すともなく思い出していたところだった。──その出会いは私にはあんなにも印象深いのに、嘗つてのその少女たちの一人であった彼女の方では、(恐らく他の少女たちも同様に)そんな私との出会いのことなどは少しも気に留めていないで、すっかり忘れてしまっているのかなあと思った。が、一方ではまた何んだか、そんなことを言って彼女が私をからかっているのじゃないかしら、とそんな気もされた。ひょいと彼女の口を衝いて出たらしいそんな言葉を私はひとりで気にしながら、いつまでもそっぽを向いて皆の降りてくるのを待っていると、突然、そのうちの誰かが足を滑らして、「あっ!」と小さく叫んで、坂の中途にどさりと倒れたらしい気配がした。見上げると、その坂の中途にまだ転がっているらしいものがまるで花ざかりの灌木のように見えた。そして他のものがみんな立ち止まって、その一番最後に降りてきた少女の方をふり返っているのを、私はただぽかんとして眺めながら、その場を一歩も動こうとしないで突っ立っていた。そうして私は毎朝のようにこの坂を昇り降りしているあの跛の花売りのことをひょっくり思い浮べ、あいつはまた何だってこんなあぶなっかしい坂道をわざわざ選んで通るのだろうかしらと、全然いまの場合とは何んの関係もないようなことを考え出していた。……
底本:「風立ちぬ・美しい村」新潮文庫、新潮社
1951(昭和26)年1月25日発行
1987(昭和62)年5月20日89刷改版
1987(昭和62)年9月10日90刷
初出:序曲「大阪朝日新聞」(「山からの手紙」の表題で。)
1933(昭和8)年6月25日
美しい村「改造」
1933(昭和8)年10月号
夏「文藝春秋」
1933(昭和8)年10月号
暗い道「週刊朝日 第25巻第13号」
1934(昭和9)年3月18日号
初収単行本:「美しい村」野田書房
1934(昭和9)年4月20日
※「二股」と「二叉」」の混在は、底本通りです。
※初出情報は、「堀辰雄全集第1巻」筑摩書房、1977(昭和52)年5月28日、解題による。
入力:kompass
校正:染川隆俊
2004年1月21日作成
2014年8月5日修正
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