『心理試験』を読む
平林初之輔
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探偵小説の類は、西洋でもいわゆる「軽い読物」として、文学上には大した地位を占めていないのが普通である。戦後に書かれた二三冊のフランス文学史を開いてみても、私はモーリス・ルヴェルの名前すら発見することができなかった。探偵小説の本場である英米においても恐らく同じであろうと思う。ウェルズや、チェスタトンやハガードなどは別として、純粋の探偵小説家で、いわゆる「文壇」に重きをなしている人はほとんどなかろうと思う。
それには色々な理由があるであろうが、作者自身が「肩の凝らぬ読み物」を書くのだということに、一種責任が軽くなったような感じをもって、自分で求めて文学界に特殊の一郭を形づくって満足していたせいもあるであろう。
けれどもすべての文化の進化がそうであるように、文学もますます細かく分化してゆくと同様に、ますます広範な範囲に総合されてゆく。ちょうど、科学界において、細かい発見が年と共に付加されてゆくと同時に、より一般的な原理によりてこれが包括的に説明されてゆくのと同じである。古典時代の文学と二十世紀の文学とを比較してみれば、そのことは一目でわかる。前者においては文学の領域は極めて単純で、ほとんど韻文に限られていたがその韻文がいかに細々しい形式に別れていたことであろう。悲劇、喜劇、史劇、抒情詩、叙事詩、牧歌、悲歌……その他その他が、それぞれ形式的にきちんと区分されていたのである。ところが今日では、百千のイズム、形式が混在していると同時に、文学の全体的総合、さらに進んで音楽も絵画も文学をも包括する総合的境地が開拓されつつあるのである。
小説もますます細かく分科すると同時に、各部門の境界が混融して合体せんとしている。日本の文壇で執拗に信じられている純文学と通俗小説とのような素朴な二元論は今や存在理由を失いつつあるといってよかろう。この意味で私は探偵小説の個性をも認めると同時にその一般性をも認めたいのである。
江戸川乱歩氏の近業『心理試験』は、この意味で興味がある。江戸川乱歩は日本が生んだ最初の探偵小説家であるということは氏の作を読んだ人々の間の定評である。この「定評」を分析して、もっと正確に言うと、江戸川乱歩は、探偵小説を芸術のレベルに引き上げたということになる。何となれば赤本の探偵小説は従来いくらも日本にだって流布していたからである。
小酒井不木氏は『心理試験』の序で、江戸川氏の作品を評して「とうてい外国人では描くことのできぬ東洋的な深みと色彩」とを強調しておられる。じっさい西欧人の作品にばかりなれた私どもには、これらの作品に通ずる「東洋的」色彩をはっきりと感ずることができる。けれども、これまで、日本の探偵小説ばかりよんでいた人を仮定して、その人が『心理試験』から受ける感じは、恐らく「東洋的」ではなくてモダンという色彩であろう。「日本刀のニオイ」の他に、注射針の感覚や麻酔薬のニオイにも打たれるであろう。
というわけは、「日本的」であるにかかわわらず、かなり大胆に「日本的」を脱しているという意味なのである。特に「赤い部屋」などにおける、変質者的刺激追求者の心理の描写には少なくも伝統的な「日本的」と相容れないものがある。奔放に「日本的」の堰を躍りだしているところがある。これほどの奔放さは、江戸川氏自身の私淑する谷崎潤一郎氏をおいて他に類例がない。そして谷崎氏は日本的よりもより多くコスモポリタンである。
犯罪が構成されるには色々な動機や機縁があるであろうが、江戸川氏は、その中で特に、変質とか偶然とかに興味をもっているように思われる。そこで犯罪のための犯罪、刺激のための刺激、探偵のための探偵といってもよいような場合が許されている。しかしそれが程度を越すと必然性を犠牲にしなければならなくなり、事件が人生と遊離してくる危険がある。もちろんウイットを主とするものにまで私は「人生味」を注文しはしない。また事件の進行を主とするものにもあまりにそれを注文しはしない。ただ氏の最も得意とする異常心理の描写物は、蔦のようにしっかりと人生にからみついている必要があると思う。
『心理試験』をよんで感心するのはむらがなく、どれも相当の苦心をもって書かれている点である。どれを読んでもごくつまらんというような感じがしないことである。そして作者の表現力と、豊かな常識と、努力とが三拍子そろっていて、危なっかしい、たどたどしいところが微塵もない点である。
たとえば、暗号などは、それだけ考えるにでも二日や三日はつぶさねばならぬような念のいったものがつかってある。ただし暗号もただ暗号のために暗号をつかったような形跡がないでもない。暗号のつかってある作は、「二銭銅貨」と「黒手組」と「日記帳」と「算盤が恋を語る話」とであるが、暗号がこれらの作品をすべて硬化しているように思われぬでもない。
要するに私は、この集におさめられた作品の全部を近頃にない非常な興味をもって一気に読了した。あっと言わされたり、ほとほとうまさに感心した場合も少なくなかった。けれども、戦慄とか恐怖とか雀躍とかいうような程度の高度の神経細胞の攪乱を与えられたことはなかった。そこに、この作者のみならず、恐らく一般探偵小説の一歩前進を期待してやまない。
一言でこの創作集の価値をあらわすならば小酒井博士の言葉をかりるのが最も便利である。曰く、
「この創作集は日本探偵小説界の一時期を画する尊いモニュメントということができるであろう」
底本:「平林初之輔探偵小説選2〔論創ミステリ叢書2〕」論創社
2003(平成15)年11月10日初版第1刷発行
初出:「新青年 第六巻第一二号」
1925(大正14)年10月号
入力:川山隆
校正:門田裕志
2010年12月8日作成
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