探偵小説の世界的流行
平林初之輔
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名前は忘れたが、どこかの国の総理大臣で、毎日一時間ずつ探偵小説を読むことを習慣にしていた人があるそうだ。アメリカの前大統頷ローズベルトは、探偵小説の愛読者であることを公然と告白したことがある。
日本でも貴族院議員に『新青年』の愛読者があったり、思いもよらない学者、政治家や、教育家の間にすらも探偵小説の愛読者は無数にある。
一般に探偵小説の愛読者は、他の軟文学の読者よりも遥かに広い範囲にわたっており、しかもその中にはより多くの教養ある階級の人々を包含している。男女の学生の愛読書のリストの中にも、最近著しく探偵小説が増加してきたことは事実である。
欧米の読書界ではこの傾向は世界大戦後急に顕著になってきたということであり、アメリカのある文学入門書にも、探偵小説は凡庸な作者には書けないが、今後、最も見込みのある小説は探偵小説であろうと書かれている。
この理由は色々あるであろうが、探偵小説が現代人の生活の要求に答える何物かをもっているからであることはいうまでもない。
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第一に探偵小説は強烈な刺激を読者に与える。現代人の生活のテンポは世界大戦前の人の生活と較べると非常に速くなった。エレベーター、タクシー、無線、飛行機、その他これに類似する機械文明を構成するエレメントは、現代人の生活の中へ、しっかりと織り込まれてしまった。筋の進行の緩慢な従来のロマンスや、わかりきったモラルを説く教訓小説や、特に汽車も電話もなかったころの事件に題材をとった歴史小説は、もはや現代人の生活から分離してしまい、それらのものは現代人に刺激を与えるに足りなくなった。探偵小説はこの点において、現代人の嗜好に最もよく投じている。
次に探偵小説は他の小説に比して著しく知的である。筋の構成が複雑で緻密であるから、読者は漫然とそれを読んでゆくことはできない。一つ一つの挿話に一頁一頁に、一行一行に、読者に、作中の人物とともに思考し、推理してゆかねばならない。だから探偵小説の読者には一般に知的教養の高い人が多いのであり、また探偵小説の要求が民衆の間に起こってくるのは、民衆の知的水準がある程度まで高まっていることが必要とされるわけである。日本の読書界に探偵小説の流行が欧米諸国よりも、少なくも十年ないし二十年後れて起こってきたこともこの事実を説明する。
最後に探偵小説は、権威に対して著しく非妥協的である。事大主義と、中庸主義とを全く無視する。そこには退屈なお談議もなければ、平凡な生活や心理や出来ごとのくどくどしい描写もない。すべてが異常であり、非教訓的であり、冒険的であり、反抗的である。探偵小説は凡俗主義に対する一つの挑戦であるといえる。
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これらの諸条件が相俟って、日本の読書界にも来るべき探偵小説全盛時代が準備され、実現されんとしているのではないかと思われる。まだ発表にならぬから、詳しいことはいえないが、東京の一流の出版者たちが、いま探偵小説の種々のシリーズを市場に送り出そうと計画していることは事実であるし、恐らくそれは最もタイムリーな計画であろうと思われる。とにかく、好むと好まざるとにかかわらず、日本の大衆的読みものは、従来の時代物から探偵小説およびその姉妹小説へ転向してくるであろうことは、正確に私は予言してよいと思う。
底本:「平林初之輔探偵小説選2〔論創ミステリ叢書2〕」論創社
2003(平成15)年11月10日初版第1刷発行
初出:「大阪朝日新聞」
1929(昭和4)年5月17日
入力:川山隆
校正:門田裕志
2010年12月8日作成
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