二つの文学論
平林初之輔
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ごく最近に私は二つの文学論を読んだ。一つはドイツのマルクス主義者フランツ・メーリングの文学論を川口浩氏が編訳した「世界文学と無産階級」という書物で、いま一つは、イギリスでショーと並び称せられた特色ある批評家チェスタトンの「探偵小説擁護論」(『新青年』所載)である。
前者の巻頭の「芸術とプロレタリアート」という論文の一節に「現代芸術が非常に悲観的な特徴をもっているのに反し、近代のプロレタリアートは非常に楽観的な特徴をもっている」という一句がある。現代の芸術が悲観的であるのは、彼によれば、例えばそれが「好んで描く貧困からの出道を知らない。現代芸術にぜんぜん欠如しているところのものは階級意識ある労働者にとって生命中の生命である、かの喜ばしき闘争要素である」
この間題はかつてプロレタリア文学における明るさの問題として、日本でも論じられたはずであるし、現在でも、悲観派と楽観派、暗黒派と光明派、現実派と理想派との対立となって存続している。そして最近には、生田長江氏の左翼の諸作品に対して加えた批評とそれに対する片岡鉄兵氏の駁論(ともに『読売新聞』所載)および川端康成氏の『文藝春秋』二月号の時評等の対立によりてこの同じ問題が再燃しようとしている。
私自身はプロレタリア文学は、暗かるべしとする現実派の主張、現実を現実として描くことに重きを置く主張は、ややもすれば「貧困の中にただ貧困をのみ見る」態度に堕する危険性を十分もっていると同時に、あまりに明るすぎる、「ピクニック」小説にもやはりそれ自身の危険があるので、生田長江氏の批評は、一般論としてでなく、特定の二三の作品について加えられた批評としての限りにおいては正しいものをもっていたと考えている。
また同じ書物の中のエミール・ゾラを評した章の中に、「詩的創造の二元性」に関する議論がある。そしてその中で「闘争者のみであるような詩人は正にそのゆえにこそ、もはや詩人ではなくなるであろう。……個々の芸術家を取って考える場合には、これら二つの要素(闘争者と芸術家)が彼らの天びんや、彼らが生活した歴史的環境の異なるに従って、種々様々な組み合わせをとるのであるから、したがって、ある時には闘争者としての性質が表面に浮かんで芸術家がその姿を没し、ある時には芸術家としての性質が表面に浮かんで競争者がその姿を没する」という一節が見出だされる。
かつて、ルナチャルスキーのマルクス主義批評家に関するテーゼの解釈について、蔵原惟人、勝本清一郎氏らのとった一元的解釈に対してメーリングのこの見解はある意味で対立する。そして、彼の見解は、私の政治と芸術との二元的解釈に接近しているように思われる。いずれにしても本書は、理論的問題に興味をもつ人には一読の価値をもつ近頃有益な刊行物の一つである。
チェスタトンは、探偵小説の本質的な価値を「モダン・ライフにおける詩の観念を表現する大衆文学中、最初にしてしかも唯一の形式だという点に存する」と定義している。彼によれば、近代生活は大都会の生活に代表されている。この大都会に詩を認めた点において「探偵小説はたしかにイリヤード〔叙事詩、長編詩〕というべきである」と彼は主張する。
「実際ロンドンのもっている詩を認識することは並々ならぬことである。いってみれば都会は田舎よりもさらに詩的だということができる。なぜなら、自然は無意識な力の混沌であるが、都会は意識せる力の混沌なのだ」……じっさい私たちの美の観念はいま急激に変革の過程をたどりつつある。科学、工業、機械、都市……そういったものが、私たちにとって、自然以上の美を、魅力をもちはじめつつある。大都会においてブルジョア文明の退廃のみを見ることを強要する人たちはあやまっている。そこには次の文明の骨組みが見られる。探偵小説のあるものが、他の文学形式に先だってそこに美を認識しはじめたことは事実であろう。そしてこの意味で探偵小説も次の芸術への一つの貢献をもっているわけだ。
底本:「平林初之輔探偵小説選2〔論創ミステリ叢書2〕」論創社
2003(平成15)年11月10日初版第1刷発行
初出:「東京朝日新聞」
1929(昭和4)年1月30日
入力:川山隆
校正:門田裕志
2010年10月28日作成
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