文芸は進化するか、その他
平林初之輔
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阿部知二氏は『読売新聞』文芸欄(昭和五年五月六日)で、小林秀雄氏を評して次のように言う。
「このことは、彼が流行というものをあまり無視していることになりはしないか。……われわれは、文学においては、一歩積極的に──進化という観念を持ち得るところまで到達していない。それゆえに、流行で我慢しなければならない。さて、この流行なる観念なくして、いわゆる今日の新文学──それはプロレタリアのでも新芸術派のでもいい──を正当に解釈することができるだろうか」
そして氏は、過去のすぐれた文学作品があるのに、現代の私たちが、文学作品を制作する権利は「この流行──社会とその文明の推移によって生ずるところの観点の差異に着目し、この角度から制作することによってのみ」得られるのであると主張する。
これは実に古めかしい問題の、しかもたどたどしい暖昧なとらえ方である。ところで氏が、こういう問題をもち出したのは小林氏が四月の創作のうちで、谷崎潤一郎氏と久保田万太郎氏との作品を最もすぐれた作品としてあげていたからなのだ。
私はある意味で阿部氏とともに「小林秀雄氏ほど厳粛で純粋な批評家はあまり見当たらないといっていい」ことを認める。氏はいわゆる「新芸術派」の中で唯一の批評家らしい批評家であるといっていい。雅川滉氏や久野豊彦氏らが、いかにも芸術派らしくない、がさがさした芸術派であるのに比べて、小林氏は、いくぶん古めかしくて、彼らのうちのある人たちのいうように「マルクス主義を通過して」いない芸術派かもしれないが、とにかくすっきりして、純粋である。その意味で、氏が谷崎氏と久保田氏とを推賞しそうな理由は認められる。だが、私がここで問題とするのは谷崎氏と新芸術派との優劣論ではない。
問題は、文学の変化が進化か流行かという抽象的な一点である。
その前にちょっと指摘しておきたいことは、氏が「時代の流れに従って、文学に盛られた感性の角度と技術の方法と素材の取捨と表現の形態」との変化を流行であるとし、しかも、この流行を無視してはならないことを強調するとき、氏は、芸術至上主義のバリケードをすてて、はるか後方に退却したことを認めなければならぬということだ。
だが、阿部氏が指摘したような文学の変化は果たして流行にすぎんのだろうか? もし氏が、社会の歴史は進化ではなくてただ気紛れな変化の連続であるというのなら、文学の進化の否定はその当然の論理的帰結である。しかし社会現象が他の部門には進化があるが、文学にはただ流行があるだけだというなら、氏の認識が正しくないか氏の論理が迷走しているかだ。
デュルケームは、『社会学方法論』の中で次のような意味の例をひいている。
私たちは昭和五年の今日、元禄時代の服装をして銀座の真ん中を歩くことはできない。私たちはでそれを法律で禁じられているのではなくて、個人々々はそうしたければしてもよい自由をもっているのだが、そうするわけにはゆかない。これが社会の強制力である。
もっと極端な例をひくなら、私たちは今日穴居民族の姿をして生活するわけにはゆかない。何も穴の中に住んで、毛皮の着物を着ておれば刑法に触れるというわけではないのに、そうすることができない。
それはなぜだろうか。なぜ社会にそんな強制力があるのか。それは、社会の各部門が、密接な連係をもってある程度まで進化してきたので、そのうちの一部門だけを逆行させることはできなくなっているからである。だから、現在の建築技術は穴の棲居を不可能ならしめ、現在の繊維工業の発達は、毛皮の着物を、常人の手のとどかないところまで駆逐してしまったのである。
この変化は必然的である。そして必然的な変化を私たちは進化と呼ぶのだ。文学においても事情は同じである。もっとも文字の芸術たる文学には、その技術的な進化に一定の限界があるのかもしれないけれども、それにしても、過去において私たちの先祖が獲得した文字の技術は、ことごとく次の時代にストックとして譲り渡される。人類の創造力が涸渇しつくさない限り、新しい文学は、豊富な表現技術をもつということになり、この変化はじゅうぶん進化と見なすことができる。それに作品の中に盛られる内容は、社会生活の進化によりて完全に規定されるのであるから、この方面には疑うべからざる進化がある。
で阿部氏は、流行という言葉によって(私たちは進化とあえて言うのだが)文学の可変的な要素(実はこの要素は百パーセントなのだが)重要さを強調するとき、芸術派の陣営から事実上脱走してしまったのだ。
もっともそうは言ったもののまた思いかえして、氏は、「流行に追随せよというのではないが、流行を克服するために流行を重要視しなければならぬのだ」と言いなおされるので、結局、この問題で氏が何を主張したのかわからないことになる。最近の芸術派の混乱はそこにある。一貫した主張をもたないで、自分の主張を自分で反駁するというような結果にしょっちゅう陥っている。
文学作品が今日完全に商品化していることは事実だ。しかしそうだからといって、個々の作者が、ことごとく商人の意識をもって創作をしているとは限らない。なぜかというと、作者が、そういう意識をもたないで、純真な芸術的衝動によって制作した作品の方が、かえって商品として優良な価値をもつ場合があることを、出版資本家およびそのエージェントとしてのジャーナリストはよく知っているからである。
しかし作家の意識的商人化はまだ十分でないとしても、出版者もしくは出版資本家はもともと商人である。彼のビジネスは商業取引である。たといその資本家が、一面においてすぐれた芸術家であっても、彼が資本家としての機能を営むかぎりにおいては、彼は純然たる商人であり、その行為はいっさい商人としての見地からなされる。そこで、出版者にとっては、出版された書物が売れるということがヴァイタル〔不可欠な〕であって、その書物が道徳上、芸術上、学問上立派なものであるということは、それが売れるという予想の上にしか尊重されない。
プロレタリア作品も芸術派の作品も出版資本家にとっては、同じ角度から眺められる。このことに対していまさらセンチメンタルな嘆声を発するのはおかしい。最近ある雑誌で、新潮社の新興芸術派叢書の広告文について、いちいち念入りな批評をして、結局新潮社は反動的だと主張している文章を見たが、こうした広告文に対してむきになるということは児戯に類する。新潮社にしろ、改造社にしろ、日本評論社にしろ、それが出版資本家としての機能を営んでいる限りでは、イデオロギーのために仕事をしているのではなくて、営利として仕事をしているのである。したがって社会主義の書物に対しては、出版者がどんな反動主義者だって社会主義に有利な広告をするし、反社会主義の書物に対しては、出版者が実際は社会主義に共鳴していても、その書物が何の価値もない書物だなんて広告するはずがない。出版者は自己の出版物が大衆に対して最も効果的な印象を与え、大衆の購買力をそそるような風に広告するのである。したがって、広告において、プロレタリア作品よりも芸術派の作品がすぐれていると書いたからといってむきになって、新潮社は反動だなどと叫ぶのは、現代の商業戦の実際を全く知らないことを告白するようなものである。プロレタリア作家には、広告を相手に鬱憤を洩らすよりも、もっと重大な仕事があるのではなかろうか。
たとえば『文芸戦線』で、小堀甚二氏が、課題小説について論じているが、ジャーナリストが、一定の課題を作者に指定して創作を注文するということは、今にはじまったことでもなく、今日特にそのことが流行しだしたというわけでもなく、ただ雑誌『経済往来』が最近そういう試みをして、しかもその課題が、比較的政治経済のカレント・トピックに触れているということのために、氏はこれを問題として取りあげたのだろうと思う。
小堀氏のこのことの是非については、非常にはっきりした断定を避けておられるようだが、私はこんなことは大した問題ではないと考えている。
なぜかといえば、第一に課題小説というようなものが一般化する気遣いはないからである。それは作者の創作活動を外部から制限して、これをにぶらすものだから、一時好奇心に投じても、次第に倦きられて、やがて、その作品の商品としての価値をも低下させることはきまっているからである。
第二に、小説でこそジャーナリストが課題を与えるということは比較的珍しかったが、ジャーナリズムの他の分野でではそれはずいぶん広い範囲にわたって行われていたことで、中には故小酒井不木氏のように、何か課題を与えてもらった方がずっと物が書きよいというような傾向をさえ与えていたものである。
最後に、具体的な課題を与えているわけではないが、現在の検閲制度は、官憲が、一般の文筆家、芸術家に対して、一つの大きな課題を与えているようなもので、芸術家や作者の芸術活動は、そのためにひどく制限され、拘束されていると見なさねばならぬ。だから、ある雑誌が、作家に課題を与えて執筆させたということは、特に問題にするほどの大事件ではない。
だが、これはジャーナリズムの文学に対する一歩前進であり、その支配権の確立の証左である。これまで事実上には行われていながら、多くの人にはぼんやりとしか気づかれていなかったことを、白日の下に立証したという意味において、課題小説は消極的な問題を提出したということができる。私たちは、この現象に対しても今さら狼狽する必要はない。そういうことに対しては、ずっと前から用意ができていたはずだからである。
すべてのものには起源があると同様に終末がある。小説が文学の一品種として誕生したのは十八世紀の後半において、この文学の品種は絶頂に達したかの感がある。現在でも小説はなお文学の王座を占めており、特に日本では、文学即小説といってもよい程の現象を呈している。だが、文学における小説の覇権はいつまでつづくだろうか?
吉江喬松氏は、『朝日新聞』で、歌の復活を説き、大叙事詩時代の到来を予想しておられる。小説が次第に解体して進歩らしい進歩を停止してからもう余程になるので、この主張には、少なくも非常な魅力があることは争われない。しかし小説の解体が、従来のような意味における詩の復活の方へ向かうかどうかという問題は、まだまだ考慮の余地があるだろう。
イギリスの批評家ハイレア・ベロックは小説の近い将来における滅亡を主張している。それは、小説という文学の品種は、最近著しく、機械化し、速度化し、能率化してきた現代人の生活と不調和な存在になってきたからだというのである。彼によると現代人の生活には、まとまった暇がない。小説を書いたり、それを読んで鑑賞したりするような余裕が、現代人の生活からは急激に奪われつつあるというのである。そして機械の普遍化のために、従来の小説の中の芸術的要素として重んじられたものが、今日では漸次無用の長物となりつつあるというのだ。
ともあれ、世界的な視野において見渡すとき、小説という文学は十九世紀末以来、少しも進歩しないで、かえって退歩したかのような感じを与える。そして、私はあえて断言するが、近い将来に観念芸術の王座を占めるものは、機械と最も密接に結びついた芸術──さしずめ第八芸術としての映画だろうと思う。映画はあらゆる点から小説にとって代わり得る資格を備えているように私には思われる。映画ははじめから機械の芸術として生まれ、はじめから工業的に生産された。小説が普遍化されたのも、印刷術の発明を度外視しては説明されない。映画がセルロイド工業と密接な関係において呱々の声を上げたということは、この芸術の将来の無限の発展性を約束しているように思われる。文学は映画から学ぶ多くのものをもっているが、映画は文学から学ぶべき何物ももたぬとは形式主義者シクロフスキーの言である。この言葉は少し誇張ではあるが、映画のテクニックの独立性、それの現代生活との密接な連関を考えるとき、この言葉には重要な意味がある。いずれにしても小説が技術的に危機にたっていることは争われない事実だろう。
アメリカの探偵小説家ヴァン・ダインが『新青年』に探偵小説家の心得とも言うべき文章を寄稿している。これはなかなか興味のある文字である。私たちは、その中で、探偵小説にのみ特有のテクニックが正確に指摘され、しかもそのテクニックは、他の小説には通用できないもので、他の小説に適用すると、かえってその作品の芸術性を損なうようなものであることを見るのである。
その中で最も風変わりなものを拾ってみると、こんなことを言う。
「恋愛的興味をもち出してはならぬ。我々の仕事は犯人を正義の法廷へ運ぶのであって、失恋の男女を結婚の聖壇へ送り込むのではない」
「犯人をきめるのは論理的帰納法によらねばならぬ。偶然とか単純な一致とか何の動機もない自白などで決めてはならぬ。そんな手で犯罪を解決しようとするのは、ちょうど読者をわざわざ鉄砲も持たせずに猟にやって、あとで実はここにかくしてあったのだというようなものだ」
「犯罪はしからず自然主義的な方法で解かれなければならない。石盤書記、神秘台、読心術、交霊術、結晶凝視等々の降神会式魔術で真実を知ろうとするようなことはタブーだ。読者のチャンスは自己の機知を合理的な探偵と競うところにある。しかるに、もしも心霊界を相手にするとか、形而上学四次元の世界をかけまわらなければならないとすると、読者はもう最初から負けていることになるのである」
その他、彼は二十箇条にわたって探偵作家の心得を書いているが、それは探偵作家の心得として興味があるばかりでなく、探偵小説というものが一般の小説のカテゴリーを逸脱して、別種のカテゴリーをつくろうとしていることを指示している意味で興味津々たるものがある。すべての小説の本質的興味とされていた恋愛的興味が、ここで拒否されているということは、とりわけ面白い。さらに進んで彼は「探偵小説にあってならぬものは長ったらしい説明、余計なことについての芸術描写、巧みにつくり上げられた性格解剖、雰囲気的先入見。こんなものは犯罪と帰納との記録に何の生命をも与えはしない」と言っている。少なくも探偵小説が、従来の小説の概念に革命を齎らしつつあるということを私たちは注意しなければならぬ。それは、能率的、経済的、目的意識的、そして興味の中心を感情の浸透におかないで論理の過程におくという点で、少なくも尖端的な、現代的な小説の一タイプである。と言ったからとて私は、探偵小説を最もすぐれた小説だというのではない。ただすべての小説に一律な概念的規定を与えて、同一角度からそれを見ようとすることは今や困難になってきたということを指摘するのみだ。芸術派の芸術絶対論はここにも難点をもつように思われる。
文壇における新陳代謝は、連続的ではなくて飛躍的であり、この飛躍にはほぼ周期がある。自然主義勃興時代、自然主義解体時代すなわち新理想主義勃興時代、そして現代のプロレタリア文学およびモダニズム文学勃興時代等が、この周期に相当する。つい二三年前まで、いわゆる同人雑誌全盛時代があった。ところが、昨年から今年へかけて同人雑誌で巣立った作家が嵐のように文壇へ送り出され、それに比例して古い作家が申し合わせたように文壇(文学作品市場)から駆逐された。このチャンスをよく捉えたものは少なくも若干期間文壇というところで生命をもつことになり、これをつかみそこねたものは、たとい技量をもっていても、若干期間下積みになっていなければなるまい。世の中のことはすべて何程かの程度においてチャンスに支配されるものだ。そうとう作家としてすぐれた手腕を持っていながら、いつまでも文壇の表面に出ない作家がしぜん生ずることになるのだが、こういう作家の存在を発見することも、批評家の一つの任務ではあるまいか。
底本:「平林初之輔探偵小説選2〔論創ミステリ叢書2〕」論創社
2003(平成15)年11月10日初版第1刷発行
初出:「新潮 第二七年第六号」
1930(昭和5)年6月号
入力:川山隆
校正:門田裕志
2010年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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