花を持てる女
堀辰雄
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私はその日はじめて妻をつれて亡き母の墓まいりに往った。
円通寺というその古い寺のある請地町は、向島の私たちのうちからそう離れてもいないし、それにそこいらの場末の町々は私の小さい時からいろいろと馴染のあるところなので、一度ぐらいはそういうところも妻に見せておこうと思って、寺まで曳舟通りを歩いていってみることにした。私たちのうちを出て、源森川に添ってしばらく往くと、やがて曳舟通りに出る。それからその掘割に添いながら、北に向うと、庚申塚橋とか、小梅橋とか、七本松橋とか、そういうなつかしい名まえをもった木の橋がいくつも私たちの目のまえに現れては消える。ここいらも震災後、まるっきり変ってしまったけれども、またいつのまにか以前のように、右岸には大きな工場が立ち並び、左岸には低い汚い小家がぎっしりと詰まって、相対しながら掘割を挾んでいるのだった。くさい、濁った水のいろも、昔のままといえば昔のままだった。
地蔵橋という古い木の橋を私たちは渡って、向う側の狭い横町へはいって往った。すぐもうそこには左がわに飛木稲荷の枯れて葉を失った銀杏の古木が空にそびえ立っている。円通寺はその裏になっていて、墓地だけがその古い銀杏と道をへだてて右がわにある。黒いトタン塀の割れ目から大小さまざまな墓石を通行人の目に触れるがままに任せて。……
もうすこしゆくと請地の踏切に出るのだが、ここいらはことのほか、いかにもごみごみした、汚い、場末じみた光景を残している。乾物屋と油屋の間に挾まれた、花屋というのも名ばかりのような店先で、花を少しばかり買い、それから寺に立ち寄って寺男に声をかけ、私たちだけで先きに墓地のほうへ往った。
墓地は、道路よりも低くなっているので、気味わるく湿め湿めしていて、無縁らしい古い墓のまわりの水たまりになっているのさえ二三見られる位だった。
「ずいぶん汚い寺で驚いたか。」私は妻のほうへふり返って言った。
「元禄八年なんて書いてあるわ……」妻はそれにはすぐ返事をしずに、立ち止って自分のかたわらにある古い墓の一つに目をやっていた。それから何んとなく独言のようにいった。「ずいぶん古いお寺なのね。」
私の母の墓は、その二百坪ほどある墓地の東北隅に東に面して立っている。私はその墓のまえにはじめて妻と二人して立った。その柵のなかには黄楊と櫁の木とが植えられて、それがともどもに花をつけていた。しかしそれは母の墓といっても、母ひとりのための墓ではない。父方の上条家の代々の墓なのである。上野の寺侍だったという祖父、やはり若いうち宮仕えをしていたという祖母、明治のころ江戸派の彫金師として一家を成していたという伯父などと、私の見たことさえもないような人たちの間になって、震災で五十一の年に亡くなった私の母は、そこに骨を埋めているのである。
私と妻とは、その墓を前にして、寺男のくるのをしばらくぼんやりと待っていた。
「あのそばにある小さなお墓は誰れのですか。」
「さあ、誰れんだか……」私はそういわれて、母たちの墓のそばに黄楊の木の下になってちょこんと立っている、ごく小さな墓石へ目をやった。そういう墓石のあったことさえ、いままで私は殆んど気づかなかった。気づくことはあっても、それを気にしないで見すごしていた。「なんだか子供のお墓のようだけれど、一度もきいたことがないなあ。」
妻も別にそれ以上それを知ろうとしなかったし、私もそのときちょっと不審におもったきりでしまった。
寺男が閼伽桶と線香とをもってきて、墓の苔を掃っている間、私たちは墓から数歩退いて、あらためて墓地全体をみやった。
四囲には錆びたトタン塀をめぐらしているきりで、一本も茂った樹木なんぞがなくて、いかにもあらわなような感じで、沢山の墓石がそこには、それぞれに半ば朽ちはてた卒塔婆を背負いながら、ぎっしりと入りまじっているばかり。──そしてそれらの高低さまざまな墓石のむらがりの上には、四月末の正午ちかい空がひろがって、近所の製造場の物音が何やら遠くなったり近くなったりしながら絶え絶えに聞えてくるのである。
私はこんな場末の汚い墓地に眠っている母を何かいかにも自分の母らしいようになつかしく思いながら、その一方、また、自分のそばに立ってはじめてこれからその母と対面しようとして心もち声も顔もはればれとしているような妻をふいとこんな陰鬱な周囲の光景には少し調和しないように感じ、そしてそれもまたいいと思った。いわば、私は一つの心のなかに、過去から落ちてくる一種の翳りと、同時に自分の行く末から差し込んでくる仄あかりとの、そこに入りまじった光と影との工合を、何となしに夢うつつに見出していた。
寺男が苔を掃って香華を供えたのち、ついでに隣りの小さな墓の苔も一しょに掃っているのを見て、私はもう一度それに注目した。よほどそれは誰れの墓かと聞いてみようとしかけたが、何もいま聞くこともあるまいと思い返して、私はそのまま妻に目で合図をして、二人いっしょに母の墓のまえに歩みよって、ともどもに焼香した。
「これでいい……」私は何んとはつかずにそんなことを考えた。
私たちがひと先ず落ちついたさきは、信州の山んなかだった。
そこで十日ばかりが、なんということもなしに、過ぎた。何もかもこれから、──といったすっきりした気もちだった。
と、或あけがた、私たちはまだ寝ているうちに電報をうけとった。父の危篤を知らせて来たものだった。何んの前ぶれもなかったので、私たちは慌てて支度をし、そのまま山の家を鎖して、上京した。
正午ちかく向島のうちに着いてみると、そのあけがた脳溢血で倒れたきり、父はずっと昏睡したままで、私たちの帰ったのをも知らなかった。そういう昏睡状態はまだ二三日つづいていた。
そのあいだに、私たちはいろいろな人たちの見舞をうけた。父方の、四つ木や立石の親戚の人々もきた。私の小さい時からうちの弟子だったもの、下職だったものたちも入れかわり立ちかわり来た。それから母方の、田端のおばさんたちも来た。いとこたちも来た。それからまだ麻布のおばさん──私が跡目をついでいる堀家のほうのたった一人の身うち──までも来てくれた。
私はまだ自分が結婚したことをそういう人たちには誰れにも知らせていなかった。それで、はじめのうちは来る人ごとに妻をひきあわせていたけれど、
「そうだ、父は死ぬかも知れないのだ」と思うと、すこしでも父のそばにいた方がいいような気がした。
それからは私は妻のほうのことは田端のおばさんに一任して、自分はなるたけ父の枕もとにいるようにしていた。云ってみれば、父がそうやっている私のことをなんにも知らずにいる、──それが私にそういうことを少しも羞かまずにさせていてくれた。
向うの間で、いま妻はどうしているだろうかと私はときおり気にかけた。すると、その妻が知らないいろいろな人たちの間でまごまごしながら茶など運んでいるもの馴れない姿が目に見えるようで、私はそれに何か可憐なものを感じることが出来た。いきづまるような私の心もちが、それによって不意とわずかに緩和せられることもあった。
父は四日目ぐらいから漸く意識をとりかえしてきた。しかし、もうそのときは口は利けず、右半身が殆んど不随になっていた。いかにも変り果てた姿になってしまっていた。
が、それなりに、父は日にまし快方に向った。
「この分でゆけば安心だ。」皆がそういい出した。
私たちが漸っと信州の山の家にかえっていったのは、それから半月ほどしてからだった。父のほうがそうやってどうにか落ちついたとき、今度は私が工合を悪くした。それで、父のほうは親身に世話をしてくれる人々に托すことが出来たので、私たちは思いきって山の家にかえることにした。
それに私は一日も早く仕事をしはじめなければならなくなっていた。自分たちの暮らしのためばかりでなく、こんどは病人のほうにも幾分なりと仕送りしなければならないので、私はどうしていいか、しばらくは見当のつかないほどだった。
丁度そのとき或先輩が雑誌を世話してくれ、そこへ私は生れてはじめて続きものの小説を書くことになった。そのとき私はいまの自分の気もちに一番書きよさそうなものとして、自分の幼時に題材を求めた。一度は自分の小さいときの経験をも書いてみようと思っていたし、すこしまえにハンス・カロッサの「幼年時代」を読み、彼がそれをただ幼時のなつかしい想起としてでなしに、そこに何か人生の本質的なものを求めようとしている創作の動機に非常に共鳴していたので、こんどの仕事にはそう期待はかけられなかったが、とにかくそういうものへの試みの一つとしてやれるだけのことはやってみようと考えたのだった。
「幼年時代」はそうして書きはじめたものなのである。
夏が過ぎ、秋になっても、私たちはまだ山で暮らしていた。冬が近づいて来る頃になって、私たちは慌てて山を引きあげ、逗子にある或友人の小さな別荘にしばらく落ちつくことになった。そんな仮住みから仮住みへと、私は他の仕事と一しょにいつも「幼年時代」を持ち歩いていた。
父のほうは、秋になってよくなり出すと、ずんずん快くなった。小春日和の日などには、看護の人に手をひいて貰って、吾妻橋まで歩いていったという便りなどが来た。それほど快くなりかけていた父が、二度目の発作を起したのは十二月のなかばだった。電報をみて、私たちが逗子から駈けつけてきたときはもう夜中だった。父は深く昏睡したまま、まだ息はあったけれど、今度は私たちもあきらめなければならなかった。……
父の死後、私ははじめて自分の実父がほかにあって、まだ私の小さいときに亡くなったのだということを聞かされた。それを私に聞かせてくれたのは、田端のおばさん、すなわち私の母のいもうとの一人で、震災まえまでは私たちのうちのすぐ隣りに住みついていたおばさんである。──
実は父の百カ日のすんだ折、寺でそのおばからちょっとお前の耳にだけ入れておきたいことがあるから、そのうちひとりのときに寄っておくれな、といわれていた。
まだ逗子に蟄居していた時分で、それに何かと病気がちの折だったので、私はおばにいわれていた事がときどき気になりながらも、なかなかひとりで東京に出て往けなかった。が、そのうち何処からか、去年の暮れごろから目を患っていたおじさんが急に失明しかけているというような噂を耳にして、私はこれは早く往ってあげなければと思い、或日丁度自分の実家に用事があって往くことになっていた妻と連れだって東京に出て、私だけ手みやげを持って、震災後ずっと田端の坂の下の小家におじとおばと二人きりで佗住いをしている方へまわった。それはもう六月になっていた。
おじさんのうちでは、もうすっかり障子があけ放してあって、八つ手などがほんの申訣けのように植わっている三坪ばかりの小庭には、縁先きから雪の下がいちめんに生い拡がって、それがものの見事に咲いていた。
「雪の下がきれいに咲いたものですね、こんなのもめずらしい。……」私はその縁先きちかくに坐りながら、気やすげにそう言ってしまってから思わずはっとした。
目を患っているおじさんにはもうそれさえよく見えないでいるらしかった。しかし、おじさんは、花林の卓のまえに向ったまま、思いのほか、上機嫌そうに答えた。
「うん、雪の下もそうなるときれいだろう。」
「……」私は黙っておじさんの顔のうえから再び雪の下のほうへ目をやっていた。
そのときおばさんがお茶を淹れて持ってきた。そしてあらためて私に無沙汰の詫びやら、手みやげのお礼などいい出した。無口なおじさんも急にいずまいを改めた。そこで私もあらためて、はじめておじさんのこの頃の容態を、むしろそのおばさんの方に向って問うのだった。
私が自分の生い立ちの一伍一什をこと細かに聞いたのは、それからずっと夕方になるまでで、雪の下の咲いたやつがその間じゅう私の目さきにちらちらしていた。おばさんが殆んどひとりで話し手になっていたが、無口なおじさんもときどきそれへ短い言葉を揷さんだ。……
私はそれまで、誰れにもはっきりそうと聞かせられていたわけではなかったが、いつからともなく自分勝手に、自分が上条のうちの一人息子だのに小さいときから堀の跡目をついでいるのは、何か私の生れたころの事情でそうされたのだろう位にしか考えていなかった。十七八の頃になってからは、それまでひとりでに自分の耳にはいっていたいろんな事から推測して、自分の生れた頃、父が一時母と分かれて横浜かなんぞにいて他の女と同棲していたような小さなドラマがあって、そのとき隣りに住んでいた老夫婦がたいへん母に同情し、丁度自分たちのところに跡とりがなかったので私を生れるとすぐその跡とりにした、──その位の小さいドラマはそこにあったのにちがいないと段々考えるようになっていた。そんな事のあったあとで、父は再び東京に戻ってきて、向島のはずれの、無花果の木のある家に母と幼い私とをむかえたのではあるまいか。ともかくも、その小梅の父なる人は、幼い私のまえに、最初からいた人ではなくって、どうも途中からひょっくり、私のまえに立ち現れてきたような気のする人なのである。
しかし、その突然自分のまえに現れた小梅の父が、自分の本当の父でないかも知れないなんぞというようなことは、私はずっと大きくなって、ことによると自分の生い立ちには、何かの秘密が匿されていそうだ位のことは気のつきそうな年頃になっても、私はいっこう疑わなかった。そして先きに母だけが死んで、父と二人きりで暮らさなければならなくなってからも、私はそれをすこしも疑うことをしなかった。
私が去年結婚して信州に出立した後、おばさんが或日向島の家にたずねてゆくと、父はたいへん上機嫌で、二人の間にはいろいろ私の小さいときからの話などがとりかわされたそうであるが、その折にも、真実の父がほかにあることをこの年になるまで知らずにいる私のことを、「あいつもかわいそうといえば、かわいそうだが、まあ自分にはこんなにうれしいことはない。……」といって、それから「どうか自分の死ぬまで何んにも知らせないでおいて下さい。」と何度もおばさんに頼んだそうだった。父の病に仆れたのは、それから数日立つか立たないうちだったのである。……
私がそれまで名義上の父だとばかりおもっていた、堀浜之助というのが、私の生みの親だったのである。
広島藩の士族で、小さいときには殿様の近習小姓をも勤めていたことのある人だそうである。維新後、上京して、裁判所に出ていた。書記の監督のようなことをしていたらしい。浜之助には、国もとから連れてきた妻があった。しかし、その妻は病身で、二人の間には子もなくて、淋しい夫婦なかだった。
そういう年も身分もちがうその浜之助という人に、江戸の落ちぶれた町家の娘であった私の母がどうして知られるようになり、そしてそこにどういう縁が結ばれて私というものが生れるようになったか、そういう点はまだ私はなんにも知らないのである。──ともかくも、私は生れるとすぐ堀の跡とりにさせられた。その頃、堀の家は麹町平河町にあった。そして私はその家で堀夫婦の手によって育てられることになり、私が母の懐を離れられるようになるまで、母も一しょにその家に同居していた。しかし、私がだんだん母の懐を離れられるようになって来てからも、母はどうしても私を手放す気にはなれなかった。それかといって、いつまでも母子してその家にいることはなおさら出来にくかった。
とうとう母はひとり意を決して、誰にも知らさずに、私をつれてその家を飛び出した。私が三つのときのことである。丁度その頃堀の家には親類の娘で薫さんという人が世話になっていた。その薫さんが私の母贔屓で、すべての事情を知っていて、そのときも母の荷物をもって一しょについて来てくれた。麹町の家を出、母が幼い私をかかえて、ひと先ず頼っていったのは、向島の、小梅の尼寺の近所に家を持っていたいもうと夫婦──それがいまの田端のおじさんとおばさんで──のところだった。漸っとその家に落ちついて、まあこれでいいと思っていると、突然薫さんが癪をおこして苦しみだした。それがなかなか快くならず、いつ一人で帰れるようになるか分からなかったので、とうとう役所に電話をしてすべてを浜之助に告げた。浜之助はすぐ役所から飛んできた。それが小梅のおばさんの家に浜之助のきた最初であり、また最後であった。夕方、ようやく薫さんの癪もおさまり、浜之助が連れもどることになって、皆して水戸さまの前まで送っていった。そして土手のうえで、母と私とは、薫さんを伴った父と分かれた。
なんでも私はたいへん智慧づくのが遅くって、三つぐらいになってもまだ「うま、うま……」ということしか言えなかったのに、その夕方、おばさんの家で父に逢うと、私はとてもよろこんでしまって、そのとき生れてはじめて「お父うちゃん……お父うちゃん……」と言えるようになった。よっぽどそんなところで思いがけず父に逢えたのがうれしかったものと見える。しかし、それが私のその父に逢うことの出来た最後であったそうだ。
それからまもなく、その父浜之助は、脳をわずらって、もう再び世に立たない人となってしまったのである。
私の母は、それまで弟たちのところにいたおばあさんに来てもらって、土手下の、水戸さまの裏に小さなたばこやの店をひらいた。
いままで私たちのいた麹町の堀の家は、立派な門構えの、玄関先きに飛石などの打ってあるような屋敷だった。それだものだから、そうやって土手下なんぞの小さな借家ずまいをするようになってからも、三つ四つの私は母やおばあさんに手をひかれて漸っとよちよちと歩きながら、そのへんなどに、ちょっと飛石でも打ってあるような、門構えの家でも見かけると、急に「あたいのうち……あたいのうち……」といい出して、その中へちょこちょこと駈けこんでいってしまって、みんなをよく困らせたそうだ。
それからもう一つ。──その頃よく町の辻などに仁丹の大きな看板が出ていて、それには白い羽のふさふさとした大礼帽をかぶって、美しい髭を生やした人の胸像が描かれてあった、──それを見つけると、私はきまってそのほうを指して、「お父うちゃん……」といってきかなかった、漸っとそのお父うちゃんというのが言えるようになったばかりの幼い私は。……それはおそらく自分の父がそういう美しい髭を生やした人であったのをよく覚えていたからでもあったろう。それにひょっとしたら私の父が何かの折にそんな文官の礼装でもしていたところを見たことでもあって、それをまだどこかで覚えていたのかも知れない。……
長いこと脳をわずらっていた、父浜之助が遂に亡くなったときは、私ももう七八つになっていたろう。私は三つのとき、母の手にひかれたまま、あの土手の上で父とわかれてからは、ただの一度もその父には逢わなかったらしい。その父の死んだときにも、私にはもう新しい父が出来ていたので、その手前もあったのだろう、何んにも知らされなかった。継母のほうは、私が十二三になるまで存命していたようだが、その死んだのも私は知らないで過ごした。
その継母という人は、全然私には記憶がないが、病身で、いつも青い顔をした、陰気な婦人だったらしい。しかし、不しあわせといえば不しあわせな人だった。晩年は藤森とかいう自分の血すじの甥を近づけていたが、その甥は鉱山かなんかに手を出し、失敗して、それきり失踪してしまったそうである。
私は或る一枚の母の若いころの写真を覚えている。それも震災のとき焼いてしまったが、私は亡くなった母のことをいろいろ考えていると、ときどきそのごく若いころの母の写真を思い浮べることがある。まだどことなく娘々していて、ちっとも私の母らしくないものだが、それだけにかえって私の心をそそるものと見える。
いまから数年ほどまえに、或る雑誌から私の一番美しいと思った女性という題でもって何か書いてくれと乞われるままに、ふとその古い写真のことを思いついて、小さな随筆を一つ書いたことがある。ほんの素描のようなものに過ぎないが、ひと頃の私の母に対する心もちがよく出ていると思うので、此処にそれを揷んでおきたいと思う。
⁂
私がまだ子供の時である。
私はよく手文庫の中から私の家族の写真を取り出しては、これはお父さんの、これはお母さんの、これは押上の伯父さんのなどと、皆の前で一つずつ得意そうに説明をする。そのうち私はいつも一人の見知らぬ若い女の人の写真を手にしてすっかり当惑してしまう。
いくらそれはお前のお母さんの若い時分の写真だよと云われても、私にはどうしてもそれが信じられない。だって私のお母さんはあんなによく肥えているのに、この写真の人はこんなに痩せていて、それにこの人の方が私のお母さんよりずっと綺麗だもの……と、私は不審そうにその写真と私の母とを見くらべる。
其処には、その見知らぬ女の人が生花をしているところが撮られてある。花瓶を膝近く置いて、梅の花かなんか手にしている。私はその女の人が大へん好きだった。私の母などよりもっと余計に。──
それから数年経った。私にもだんだん物事が分かるようになって来た。私の母は前よりも一そう肥えられた。それは一つは、私をどうかして中学の入学試験に合格させたいと、浅草の観音さまへ願掛けをされて、平生嗜まれていた酒と煙草を断たれたためでもあった。そして私の母は、それ等の代りに急に思い立たれて生花を習われ出した。私はときおり、そういう生花を習われている母の姿を見かけるようになった。そんな事から私はまたひょっくり、何時の間にか忘れるともなく忘れていた例の花を持った女の人の写真のことを思い出した。その写真は私の心の中にそっくり元のままみずみずしい美しさで残っていた。私はその頃は頭ではそれが私の母の若い時分の写真であることを充分に認めることは出来ても、まだ心の底ではどうしてもその写真の人と私の母とを一緒にしたくないような気がしていた。
それから更らに数年が経った。私の母は地震のために死んだ。その写真も共に失われた。──そういう今となって、不思議なことには、漸くその二つのものが私の心の中で一つに溶け合いだしている。そしてどういうものか、よく見なれた晩年の母の俤よりも、その写真の中の見なれない若い母の俤の方が、私にはずっと懐しい。私はこの頃では、子供のときその写真の人がどうしても私の母だと信じられなかったのは、その人を自分の母と信ずるにはその人があまりに美し過ぎたからではなかったかと解している。その人がただ美しいと云うばかりでなしに、その容姿に何処ということなく妙になまめいた媚態のあったのを子供心に私は感づいていて、その人を自分の母だと思うことが何んとなく気恥しかったのであろう。そう云えば、その写真のなかで母のつけていた服装は、決して人妻らしいものでもなければ、また素人娘のそれでもなかったようだ。今の私には、それがどうもその頃の芸者の服装だったようにも思われる。そんな事からして私はこの頃では私の母は父のところへ嫁入る前は芸者をしていたのではないかと一人でひそかに空想をしているのである。──私の母の実家が随分貧しかったらしいことや、私の母の妹とか、弟とか云う人達が大抵寄席芸人だの茶屋奉公だのをしていたことや、私の父が昔は相当道楽者だったらしいことなどを考え合せてみれば、そんな私の空想が全然根も葉もないものであるとは断言できないだろう。
私はしかし芸者と云うものを今でも殆んど知っていないと言っていい。ただ少年の頃から鏡花などの小説を愛読しているし、そういう小説の女主人公などに一種の淡い愛着のようなものさえ感じているところから、或はそんなことが私をしてかかる夢を私の亡き母にまで托させているのかも知れぬ。
⁂
私は一枚の母の若いころの写真からそんな小説的空想さえもほしいままにしながら、しかしそれ以上に突込んで、そういう母の若いころのことや、自分自身の生い立ちなどについて、人に訊いてまでも、それを強いて知ろうとはしなかった。私は小さいときからの性分で、ひとりでに自分に分かって来ていることだけでもって十分に満足して、その自分の知っている範囲のなかだけで、自分の幼年時代を好きなように形づくって、それを愉しんでいることが出来たのだった。
おばさんはまた私に母の実家のことを仔細に話してくれた。しかし、そのときも私の期待を裏切って、母の若い頃のことは殆んどなんにも話して貰えなかった。そのうち、何かの折にでも自然に聞き出せるかも知れないから、いまはまあそう無理には聞かないことにする。……
母の実家は西村氏である。父は米次郎といった人で、維新前までは、霊岸島に店を構えて、諸大名がたのお金御用達を勤めていた。市人でも、苗字帯刀を許されていたほどの家がらだったそうである。母は茅野氏で、玉といい、これも神田の古い大きな箪笥屋の娘であった。玉は十六の年から本郷の加賀さまの奥へ仕えていた。そうして十九のときに米次郎のところに嫁いだが、そのときの婚礼はまだ随分はでなものだったらしい。いくつも高張提灯をかかげて、花嫁の一行が神田から霊岸島をさして練ってゆくと、丁度途中にめ組の喧嘩があった。そこで一行は迂回をしなければならぬかとためらっていると、それをどこかの大名の行列かとまちがえて、喧嘩をしていた鳶の者たちが急にさあっと途を開いたので、そのままその前を通ってゆくことが出来た。──そのことを又、皆はたいへん縁起がいいといって喜んだものだった。
だが、新郎新婦の運命はそれほどしあわせなものではなかった。やがて瓦解になった。それはたちまち若い夫婦に決定的な打撃を与えた。諸侯に貸し付けてあった金子も当分は取り立てる見込みもつかず、そこで米次郎は窮余の一策として、麻布の飯倉片町に居を移して、大黒屋という刀屋をひらいた。それがうまく当って、一時は店も繁昌した。私の母しげが長女として生れたのはその飯倉であった。
しかし、その母の生れた明治六年は、また、廃刀令の出た年である。米次郎は再び窮地に立った。丁度そのとき質屋の株を売ろうとするものがあったので、よほど米次郎の心はそちらのほうに動いたが、それには玉がどこまでも反対した。質屋という商売を嫌ったのである。そこで米次郎もやむを得ずに芝の烏森に移って、小さな骨董屋をはじめた。が、それも年々思わしくなくなる一方で、もう米次郎には挽回の策のほどこしようもなく、とうとう愛宕下の裏店に退いて、余生を佗びしく過ごす人になってしまった。
米次郎がその愛宕下の陋居で、脳卒中で亡くなったのは、明治二十八九年ごろだった。……
そのとき私の母は二十四五になっていた。死んだ米次郎と玉との間には、長女である私の母をはじめ、四人の女とまだ小さな二人の弟たちがいた。
それから私の生れるまでの、十年ちかい年月を、私の母はそれらの若い妹や小さな弟をかかえて、気の弱い、内気な人だったらしいおばあさんを扶けながら、どんなにけなげに働いたか、そしてどんなに人に知れぬような苦労をしたか、いま私にはその想像すらも出来ない。私の母を知っていた人達は、母のことを随分しっかりした人で、あんなに負けず嫌いで、勝気な人はなかったと一様に言う。なんでもおじいさんが死んでからまもなく、若い母は夜店などを出して何かをひさいだりしたこともあったという話を、まだ私の小さかったとき母自身の口から何かの折にきいたことのあったのを、私はうっすらと覚えている。
母のいもうとの中には、茶屋奉公に出ていたものもいる。芸者になって、きん朝さんという落語家に嫁いだものもいる。それから一番末の弟はとうとう自分から好きで落語家になってしまった。しかし、それらの人達はみんな早世してしまって、いまは亡い。……
私はそういう母の一家の消長のなかに、江戸の古い町家のあわれな末路の一つを見いだし、何か自分の生い立ちにも一抹の云いしれず暗い翳のかかっているのを感ずるが、しかしそれはそれだけのことである、──もしそういうものが私の心をすこしでも傷ましむるとすれば、それは私の母をなつかしむ情の一つのあらわれに過ぎないであろう。
土手下で小さな煙草店をやっていた私の母が、その店を廃めて、小梅の父のところに片づいたのは、私が四つか五つのときだったらしい。私ははじめのうちはその新しい父のことを、「お父うちゃん」とお云いといくら云われても、いつも「ベルのおじちゃん」と呼んでいた。そうして町なかにある仁丹の看板をみつけては一人でそれを指して「お父うちゃん」と言ってばかりいるので、母たちも随分手古摺ったらしい。……
「ベル」というのは、その時分、尼寺のそばに住んでいたおじさんのところで飼っていた大きな洋犬の名前で、私はその犬と大の仲好しだった。自分よりもずっと大きなその犬を、小さな私はいつも「お前、かわいいね……」といって撫でてやっていたそうである。そうしてその頃私は犬さえ見れば、どんな大きな犬でもこわがらずに近づいていって、「ベル、ベル」と呼んでいた。
或る日、私は新しく自分の父になる人につれられて、何か犬の出てくる外国の活動写真を見にいった。私はそれを最後までたいへん面白がって見ていた。そんな事があってから、私はその新しい父のことを「ベルのおじちゃん」というようになってしまっていたのだった。
が、私は新しい父にもそのうちなついてしまった。そうなると、もうすっかりそれを本当のお父うさんだと思い込んで、その父の死ぬ日まで、そのまま、私は一ぺんもそんな事を疑ったりしたことはなかった。
その小梅の父が母と一しょになった頃は、それまでの放逸な生活を一掃したばかりのあとで、父はひどく窮迫していたらしい。なんでもおばさんの話によると、母がはじめて向島のはずれのその家に訪れてみると、なにひとつ世帯道具らしいものもなくて、まるであばら家のようななかに、父はしょんぼりと鰥暮らしをしていたのだった。……
父は彫金師であった。上条氏で、松吉というのが本名である。その父武次郎は、代々請地に住んでいて、上野輪王寺宮に仕えていた寺侍であったが、維新後は隠居をし、長男虎間太郎を当時江戸派の彫金師として羽ぶりのよかった尾崎一美に入門せしめた。その人が師一美に数ある弟子のうちからその才を認められて、一人娘を与えられ、その跡をつぐことになった。それが惜しくも業なかばにして病歿した上条一寿である。それに弟が三人あって、揃って一寿の門に入っていたが、兄の死後にはそれぞれ戸を構えて彫刻を業とした。その一番下の弟で、寿則といっていたのが、私の父となった人である。
松吉は若いころは家業には身を入れず、仲間のものと遊び歩いてばかりいた。随分いたずらなこともしたらしい。或夏の深夜、友だちと二人で涼をとろうとして吾妻橋の上から大川に飛び込んだところを、丁度巡回中の巡査に心中とまちがわれ、橋の上で人々が大騒ぎをしている間、こっそりと川上に泳ぎついて逃げ去ったという逸話などを残している位である。その頃のことかと思うが、松吉はそういう仲間たちと一しょに瓦町の若い小唄の師匠のところにひやかし半分稽古にかよっていたが、そのうちに松吉はその若い小唄の師匠といい仲になった。
松吉はとうとうそのおようという若い師匠と、向島の片ほとりに家をもった。そして二三年同棲しているうちに、一子を設けたが夭折させた。請地にある上条氏の墓のかたわらに、一基の小さな墓石がある。それがその薄倖な小児の墓なのであった。
松吉もはじめのうちは、為事にも身を入れ、由次郎という内弟子もおいて、自分で横浜のお得意先きなども始終まわっていたが、子を失くしてから、又酒にばかり親しむようになって、つい家もあけがちになった。
弟子の由次郎は、そのあいだにも、ひとりで骨身を惜しまずに働いていた。松吉も、その由次郎に目をかけ、殆んど細工場のほうのことは任せ切りにしていた。ところが、或る夜、泥酔してかえってきた松吉は、其処にふと見るべからざるものを見た。──
松吉はさんざん一人で苦しんだ末、何もいわずに、おようを由次郎に添わせてやる決心をした。二人のために亀戸の近くに小さな家を見つけ、自分のところにあった世帯道具は何から何まで二人に与えて、そうして自分だけがもとの家に裸同様になって残ったのである。……
もとより、私の母はそういう経緯のあったことは知っていたはずである。しかもなお、そういう人のところに、かわいくてかわいくてならない私をつれて再婚したのである。そこにはよほど深い考えもあったのだろうと思われる。
どんな人でもいい、ただ私を大事にさえしてくれる人であれば。──それが母の一番考えていたことであったようである。それには母がいつもその人の前に頭を下げていなければならないようでは困る。その人のほうで母にだけはどうしても一生頭の上がらないように、その人が非常に困っているときに尽くせるだけのことは尽くしておいてやる。そういう不幸な人である方がいい。──そういった母の意にかなった人が、ようやく其処に見いだされた。
勝気でしっかりとした人、私のことだとすぐもう夢中になってしまう人、──誰でもが私の母のことをそう云う。そういう負けず嫌いな母がおようさんのあとにくると、父は急に醒めた人のようになって、為事にも身を入れ出した。そうして小梅の家は以前にもまして、あかるく、人出入りが多くなっていった。
父も母も、江戸っ子肌の、さっぱりした気性の人であったから、そのまま私のことでは一度も悶着したこともないらしく、誰れの目にもほんとうの親子と思われるほどだった。それからまた、おようさんとも以前とかわらずに附き合って、由次郎にもずっとうちの為事をしてもらっていた。
小さな私だけはなんにも知らないで、いつかその由次郎にもなついて、来るとかならず肩車に乗せてもらって、用達しにも一しょについていったりしていた。
その五つか六つぐらいの頃の私は、いまの私とはちがって、かなりな道化ものでもあったようだ。父や母につれられて、おばさんの家などに行くと、おばさんにすぐ三味線をじゃかじゃか鳴らして貰って、自分は手拭を頭の上にちょいとのせ、妙な手つきや腰つきをして、「猫じゃ、猫じゃ……」とひとりで唄いながら、皆にひと踊り踊ってみせた。そんな俗踊をいつのまにか見よう見真似で覚えてしまったのである。
私の生父は、裁判所などに出ていても、謹厳一方の人ではなかったらしく、三味線の音色を何よりも好んでいたそうである。その血すじをひいた生父のことはもうすっかり忘れてしまって、私のことをかわいがっていてくれる新しい父や母やそのほかの人々の間で、何も知らず、ただ無心に、おばさんの三味線に合わせながら「猫じゃ、猫じゃ」を踊っていた、小さな道化ものの自分の姿が、いま思いかえしてみると、自分のことながらなかなかにあわれ深く思えてならない。……
雪の下のたいそう美しく咲いていた、田端の、おじさんとおばさんとの家で、私が六月の日の傾くのも知らずに聞いた自分の生い立ちや私の母の話を、以上、そのままにざあっと書いてみた。
いまの私には、父の死の前後から中絶しがちになっていた小説「幼年時代」を再び取り上げて、書きつづける気もちにはどうしてもなれないので、それはそれで打ち切り、こんど改めておばさんたちに聞いた話は、此処にはほんの拾遺のようなものとして附け加えておくに止めた。
私はいまこの稿を終えようとするとき、その田端へ往った数日後、私はまたふいと何かに誘われるような気もちで、東京に出て、ひとりで請地の円通寺を訪れた、六月のうすら曇った日のことを思い出す。
──父母の墓のまわりには、何かが、目に立つほど変っていた。
それはその墓のうしろに亡父の百カ日忌のときの卒塔婆が数本立っているせいばかりではなさそうだった。又、このまえ妻と来たとき、あちらこちらに咲いていた樒の花がもう散ったあとで、隣りの墓の垣の破れかけたのにからみついた昼顔の花がこちらの墓の前まではかなげな色をして這いよっているせいでもなさそうだった。
変化はむしろ私自身のうちにだけ起っていたのであろう。そのとき私はたった一人きりだった。一人きりで私がこの墓の前に立ったのは、これがはじめである。しばらく一人きりでいたかったために、寺にも寄らずに真っすぐに墓のほうに来た。そうして私はただ柵の外から苔のついた墓を向いてじっと目をつぶっていただけである。
「おれはどうしていままでお母さんのお墓まいり位はもっとしておいて上げなかったのだろう」と私は考え続けていた。「……いつも、いくらお母さんのだって、お墓なんぞはといった気もちでいた。そういった気持で、自分がお母さんのために何をしようとしまいと、いってみればお母さんのことなど考えようと考えまいとおんなじだ、といったように、お母さんというものに安心しきっていられたのだ。だが、すべてを知ってみると、なんだかお母さんの事がかわいそうでかわいそうでならなくなる。このころ漸っとおれにはお母さんの事が身にしみて考えられるようになってきたのだ。……」
こんな場末の汚い寺の、こんな苔だらけの墓の中に、おまけに生前に見たこともないような人達と一しょになって、──と云うよりも、その佗びしい墓さえ、いまの私には、いわば、自分にとってかけがえのないものに思われた。
私はその墓を一巡してみた。そしてはじめて母の戒名がどこに刻せられてあるかを捜した。すると、墓の側面の一隅に「微笑院……」とあるのを見つけた。ほんとうを云うと、それを忘れていはすまいかと思ったが、その三字を認めるとすぐそれが思い出せた。その下方に大正十二年九月一日歿と刻せられてあるのが、気のせいか、私には妙に痛ましく感ぜられた。
私はいつか墓を一巡して、再び正面に立った。墓に向って左側に、一本の黄楊の木が植えられているが、いまはその木かげになって半ば隠れてよく見えなくなっている、一基の小さな墓がある。いつか妻と二人して、どうしてその子供らしい墓だけが一つ離れて立っているのだろうといぶかしんだ奴だが、それが私の小梅の父とおようさんとの間にできた子の墓なのであろう。何んと刻せられているかと思って、私は柵の外から黄楊の木の枝をもちあげながら、見てみたが、脆い石質だとみえて石の面が殆んど磨滅していて、わずかに「……童……」という一字だけが残っているきりだった。それが男の子だかも、女の子だかも、もう知るよしもないのである。──
もう誰にもかえりみられることのない、そんな薄倖な幼児の墓を私は何か一種の感動をもって眺めているうちに、ふいと、一瞬くっきりと、自分の知らなかった頃の小梅の父の、その子の父親としての若い姿が泛ぶような気がした。……
そういう若い頃からの、この一市井人のこれまでの長い一生、震災で私の母を失ってからの十何年かの淋しい独居同様の生活、ことに病身で、殆んど転地生活ばかりつづけていた私を相手のたよりない晩年、──かなりな酒好きで、多少の道楽はしたようだが、どこまでもやさしい心の持ち主だった父は、私の母には常に一目置いていたようである。それは母の亡くなったのちも、母のために我儘にせられていた私を前と変らずに大事にし、一たびも疎略にしなかったほどだった。私はその間の事情はすこしも知らなかったけれど、いつも父の愛に信じきってそれに裏切られたことはなかったのだった。
その父をも晩年に充分いたわってあげることのできなかった自分を思うと、何んともいいがたい悔恨が私の胸をしめつけて来た。私はしばらくそれを怺えるようにして、父母の墓の前にじっと立ちつくしていた。
そうやって私は二三十分ぐらいその墓のほとりにいてから、漸っとそこを離れて、錆びたトタン塀のほうに寄せて並べられてある無縁らしい古い墓石を一つ一つゆっくり見てゆきながら、とうとうその墓地から立ち出でた。
飛木稲荷の前を東に一二丁ほど往くと、そこが請地の踏切である。私は東武電車で浅草に出ようと思って、その踏切のほうに向っていった。その場末の町らしく、低い汚い小家ばかりの立ち並んでいる間を、私はいかにも他郷のものらしい気もちになって歩いているうちに、こんどは一度、私の殆んど覚えていない生父の墓まいりをしてみるのもいいなと思った。何んでもないようにふらっと出かけていって、お墓まいりだけをして、ふらっと帰ってくる。それだけでいい。だが、その私の殆んど覚えていない生父の墓のある寺は一体何処にあるのかしら。(註一)
なんでも私のごく小さい時分、一度か二度だけ、母にどこか山の手のほうの、遠いお寺に墓まいりに連れられていった記憶がかすかにある。その寺の黒い門だけが妙に自分の記憶の底に残っている。それは或る奥ぶかい路地の突きあたりにあって、大きな樹かなんかがその門の傍に立っていた。幼い私は母につれられたまま、誰れの墓とも知らずに、一しょにそれを拝んで帰ってきた。母は別にそのときも私には何も言いきかせなかった。それがその生父の墓だったのではあるまいか。あのときの、いかにも山の手らしい、木立の多い、小ぢんまりとした寺はどこにあったのやら。──そう、そう、そう云えば、たしか、そのときの往きか帰りの電車の中だったとおもう。小さな私は往きのときも、帰りのときも、その道中があんまり長いので、いつも電車の中でひとっきり睡ってしまっていたが、突然母にゆりおこされた。
「辰雄、辰雄、ほら、あの横町をごらん、あそこにお前の生れた家があったんだよ。……」
そういわれて、私は睡たい目をこすりこすりあけてみた。そうして母が電車の窓から私に指して見せている横町の方へいそいでその目をやった。が、電車はもうその横町をあとにして、お屋敷の多い、並木のある道を走っていた。私はなんだかそれだけではあんまり物足らなかったが、それ以上何もきかないで、そのまま又そのお母さんにもたれながらうつらうつら睡ってしまった。……
いま思うと私の生れたのは麹町平河町だというから、あれはきっと三宅坂と赤坂見附との間ぐらいの見当になるだろう。そうとすると、私の生父の墓は青山か千駄ヶ谷あたりにあるのだろう。誰れにきいたらいいかしらと思って、私はふと麻布で茶の湯の師匠をしていたおばさんがもうかなりのお年でまだ存命していられるらしいのを思い出した。そうだ、あのおばさんだけがいまでは私の生父にゆかりのあるただ一人のかたなのだ。なんでもほんとうの妹ごだとか。私はいままで何んにも知らなかったので、ついそのおばさんにはよそよそしくばかりしていたが、そのうちに是非ともお訪ねしてみたいものだ。……
いかにも場末らしく薄汚い請地駅で、ながいこと浅草行の電車を待ちながら、私はそんなことを一人で考え続けていた。
註一 私の生父の墓のある寺のことは田端のおばさんもよく覚えていなかった。なんでも河内山宗春の墓があるので有名なお寺だとか云うことを知っているだけで、一度も其処には往ったことがないそうだ。その後、私は麻布のおばさんのところにお訪ねしようとときおり思いながら、なかなか往かれないでいるうちに、その年老いたおばさんが突然亡くなられてしまわれた。私は何んとも取りかえしのつかない事をしてしまった。しかし、私の知りたがっていた生父の墓だけは、そのおなじ寺にそのおばさんも葬られることになったので、図らずもそれを知ることが出来た。その寺は高徳寺といって、やはり青山にあった。静かな裏通りの、或る路地のつきあたりに、その黒い門を見いだしたとき、ああ、これだったのかと思った。門のかたわらで樒などをひさいでいる爺は、もう八十を越していそうなほどの老人で、それに聞いてみたら私の生父のことなどもよく覚えていそうな気がした。しかし私はなんにも聞かずに、ただ老爺の方にしばらく目を注いだきりで、そのままその小屋のまえを通り過ぎてしまった。
底本:「幼年時代・晩夏」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年8月5日発行
1970(昭和45)年1月30日16刷改版
1987(昭和62)年9月15日38刷
初出:「文學界」
1942(昭和17)年8月号
初収単行本:「幼年時代」青磁社
1942(昭和17)年8月20日
※初出情報は、「堀辰雄全集第2巻」筑摩書房、1977(昭和52)年8月30日、解題による。
※底本には、複数の作品の註がまとめて掲載してありましたが、ここでは、本作品に対するもののみを、通し番号を付け替えて、ファイル末におきました。
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校正:染川隆俊
2004年1月21日作成
2010年9月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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