科学的研究と探偵小説
小酒井不木



 私は幼い時分から探偵小説が好きで、今でも相変わらず読みふけっている。いつ読んでも面白い。ポーや、ドイルや、ガボリオの探偵小説は常に自分の座右に置かれてある。何度繰り返し読んでも面白い。紐育ニューヨークに留学していた時分は週刊の探偵小説雑誌を買って、毎夜とこに入ってから夜更けまで読んだ。

 ある時ハドソン河を隔てたジャーセー市に殺人事件が起こった。犯人は久しい間検挙されなかった。するとある日の紐育タイムス紙の論説欄に、官憲の手ぬるさを罵った傍ら、ポーの探偵小説「マダム・ロージェの怪事件」が引用してあった。すなわち事件の性質が似ているからである。

 この小説は、ポーが費府フィラデルフィアに新聞記者をしている時、紐育の下町で評判の美人が殺されてハドソン河に捨てられてあった事件を、当時の貧弱な新聞記事を基として、仏国巴里パリーに起こった話として書きあげたものである。

 この小説でポーはデュパンという名探偵をして立派に事件の真相を言い当てしめたので、きわめて有名なものである。タイムス紙は、今、ポーが生きていたらあんなに貧乏しないで、名探偵として、摩天閣の一部に立派な事務所を設けたに違いない、なぜ第二のポーが出ないだろうかと結論した。

 私はハドソン河畔を散歩するたびに、死骸の浮いていたのはこの辺だったろうかなどといつもこのポーの小説を思い起こした。さらに英国に渡ってからは、例のシャーロック・ホームズの住んでいたというベーカー街などを散歩して、いい知れぬなつかしい想像にふけったものである。

 一度などは小説中のホームズの住居すまいなる二百十二番地B〔正しくは
二二一B
〕は果たしてあるだろうかと考えて、調べたらもちろん無かった。しかし作者のコナン・ドイルは、あるいは一時この辺に住んだのかもしれないと思ったりした。人間の楽しさは空想に生き得るところにあるとさえ私は考えている。

 探偵小説を読んだおかげでどこへ行っても面白い。それこそスチーブンソンではないが、辻馬車を見ても一種のロマンスを見出だすようなこともある。倫敦ロンドン塔や、セント・ポールス寺院をうたびにエーンズウォースの小説を思い出さずにはいられなかった。

 巴里へ移り住んでからはガボリオの探偵小説に出ている所を散歩して、その時代の巴里の有様を思い浮かべ、名探偵ルコックが活動した様子などをいろいろ胸に描いてみた。もとより、実在の人物ではないが、実在した人や架空の人を取りまぜて想像するところにこの上もない楽しさがある。

 小説なかんずく探偵小説は、私の外国留学中、多大の楽しみを供給してくれたのみでなく、私の専門の科学研究にも多大の力を与えてくれた。科学的研究に最も必要なるは観察力と想像力とである。しかして探偵小説はいかに事物を観察し、いかに想像を働かすべきかを教えてくれた。実際、昔から優れた科学者は観察力と想像力のよく発達した人たちであった。

 たとえばニュートンは林檎が落ちたのを見て、これは地球が引っ張るのではないかと想像してみた。さらに、この引く力はどんな大きさであるかを知らんと欲して、色々考えを巡らした。引力は地球の中心にあるに違いない。それゆえ地表での物体の目方は地球の中心から四千マイル隔たった所における目方である。

 すると次に地球の中心よりもっと隔たった所において物体をはかってみなければならない。それには気球を用いてみたところが、上昇し得る距離は四千マイルに比してあまりに小さい。しからばどうしたらよいか。彼の想像力はまさに月に及んだのである。月は地球から二十四万マイルすなわち地球の半径の六十倍の距離にあるのだ。そこで彼は月の目方をはかってみた。そして月を仮に地表へ持ってきて計った目方の三千六百分の一であることを知った。

 ついにこれが基礎となって、万有引力は距離の二乗に逆比例するという法則が発見されたのである。林檎から月に思いつくこの力こそ、科学的研究に欠くべからざるもので、ニュートンをして探偵たらしめたならば、あるいは立派な名を残したかもしれない。私は自分の実験室から外へ出るたびに研究事項についてあらゆる想像をめぐらしてみる。そして同時に先哲の想像力の使い方を学び、あわせて探偵小説を読むを怠らないのである。

 コナン・ドイルは医者である。そのシャーロック・ホームズはドイルの師の何とかいう内科医をモデルにしたのであることは、その探偵小説「緋色スカーレットの研究」(すなわち初めてシャーロック・ホームズの名を世に出したもの)の序に書いてある。

 この書には、またその師の序文も加えられてある。この人は非常に観察力の優れた人で、患者を一目見て、その職業を言い当てたほど、観察力が優れていた人であった。ドイル自身も、観察力が優れていなければ、あの小説は書けないわけである。立派な医者になるには是非とも探偵小説を学ばねばならぬ。単に医者ばかりではなく、すべての人にも必要である。ビスマルク公がガボリオの探偵小説を熱心に学んだということも故なきにあらずである。

 科学者は誰人だれも探偵小説によりて利益を得ることは言うまでもないが、医者はことに探偵小説と縁の深いものである。なかんずく犯罪の心理を研究する精神病学や犯罪を鑑定する法医学のごときこれである。否、探偵小説はこれらの方面をよく研究しなければならない。

 フリーマンの探偵小説は、ソーンダイク博士という法医学者が中心となっている。この博士は犯罪の検索にいつも必要の際に顕微鏡を応用している。超科学的なことを加味した探偵小説は、私は実は好まないのである。内容はあくまで科学的であってほしい。ル・キューなどの小説には時折いまだ知られてない恐ろしい黴菌ばいきんのことなどが書かれてあるが、黴菌のことを知らない読者は本当にして面白く読むが、かかる小説はどうも興味を減らすおそれがある。いっそ科学の発達しない時代のことならそのつもりで読むから面白い。

 綺堂きどう氏の「半七捕物帳」や「半七聞書帳」などは、私は好きである。現代の小説は、あくまで現代の科学に立脚してほしいのである。私は文芸に関しては門外漢であるが、これが門外漢たる私の探偵小説に対する注文である。少し生物学や化学などを研究したなら、探偵小説の題材となることはいくらでもあるだろうと思われる。探偵小説家もゾラやフローベルが小説を作った態度をとってほしいと思う。そうして探偵小説を高級な読み物としたいのである。

 実際我らが何の気なしにいるところに、探偵のいわゆる有力なる証拠が存在する。もう少し一般の人々が探偵小説に親しんで、平素よく心がけていてくれたら、犯罪の検挙も容易になるかもしれない。私はかつて法医学教室にいたことがあるが、今のところ、法医学の取り扱うのは死体の解剖だけで、必要以外犯罪の現場げんじょうの鑑定は行わないことになっている。

 まったく法医学にあっては、犯罪の全部の鑑定を行っていては際限がないから、かくのごとく限定せられてあるが、法医学的鑑定を求むる真の目的、すなわち犯罪の鑑定という上から言えば、現場の研究こそ最も肝要なものである。しかし多くの場合、人々の無知によりて現場はすっかり変化させられ、荒らされてしまう。

 たとえば殺された死体の額にきずがあるとする。その疵から血が流れ出たと仮定する。その血が額から眼の方向に流れているか、または横の髪の毛の方向に流れているかによって、起きている位置にて作られた疵か、または横たわった位置にて作られた疵かが分かる。この位置が犯罪の事実を研究する有力な手掛かりとなることがある。しかしもし何かのついでにその血がぬぐい去られたならば、何にもならない。こういうことは実際に当たりてしばしばあることらしい。されば探偵小説は何人なんぴとも研究しておくべきものであろう。

 フリーマンの小説のあるものには、犯罪の光景を始めに述べて、しかる後探偵が順次に活動してゆくように書いてある。著者自身は、こういう書き方が読者によりて面白いだろうと述べている。しかしこのやり方は私はあまりに科学的であろうと思う。

 小説すなわち芸術的作品である以上、最後に至って全秘密の暴露せられた方が面白い。探偵小説は科学書ではない。一から二、三と順次に十に至るは科学者の行き方で、一から八、八から二というふうに紆余曲折うよきょくせつして十に達した方が、小説として興味が多いように思われる。もっとも真の科学者は科学書を読むに当たりても、探偵小説を読むと同じ興味をもってせねばならないであろう。

 ルブランのものは面白いけれども、犯罪の方が主で、探偵の方が失敗するのだから、気持ちが悪いように思われる。犯罪小説にしろ、探偵小説にしろ、近頃はどしどし刊行されて、人々は新奇なものを先から先へと求め、今どきはもう、ルブランやル・キューのものでもあるまいなどという言葉を聞くけれど、私のような立場のものからいえば、古いものすなわち探偵小説の古典クラシックともいうべきガボリオやポーのものにも依然として面白味はあるので、真面目に研究する気ならば、あながち新しいもののみを求むる必要はないのである。

 事件の内容こそは変わっても、探偵のやり方、すなわち観察力や想像力の働かせ具合には大なる変化はないはずであるからである。

 現今の日本の探偵小説界は何といっても翻訳物の全盛時代である。たまに創作があっても翻案ものが多いようである。なにゆえ日本には名探偵小説家ができないであろうか。日本人は由来独創力の乏しい国民だと称せられる。それも一理由であろう。またいわゆる科学的研究の浅いためでもあろう。しかしその他に日本人の生活状態や社会状態が、探偵小説の内容となるにあまりにも貧弱なるがためでもあろう。

 探偵小説には極端なる、むしろ病的な社会状態の背景を必要とする。もし日本に名探偵小説家が出たら、その小説はたしかに欧米社会のことを書くであろうと思われる。欧米の社会状態の研究はどうしても欧米人に及ばない。したがってやはり翻訳していた方がよいという結論になるのではあるまいか。もちろん天才は従来の形式を破るものであるから、日本にこの種の天才が出たら、あるいは、平凡なる日本を背景にして意表外に出た立派な内容をもって読書子どくしょしをヤンヤと言わせるかもしれない。

 しかし、もしかかる天才が出ても、やはり事物の科学的研究に立脚するに違いないであろう。科学は普遍性を持っているからである。文学において科学万能時代のいわゆる時代派から象徴派(象徴派とても科学を無視はしないが)に移ったように、探偵小説も、神秘的、超人的なものがあるいは喜ばれるようになるかもしれない。けれどかかるお伽噺とぎばなし的のものはどうも私自身にとっては興味の少ないことは事実である。

 私は自分の専門が衛生学である関係から、欧米留学の際、主として大都市に滞在した。すなわち紐育ニューヨーク倫敦ロンドン巴里パリーに行った。そしてこれらの大都市の生活が科学的であるだけ、それだけ犯罪を行うにはいかにも都合がよいと思った。

 ある探偵小説の中に「紐育は世界中で最も安全な隠れ場所である」と書いてあった。倫敦にいると、スチーブンソンの書いた『新アラビア物語』の中の話も無理ではないと思った。これに反して東京あたりではどうも奇怪な、大きな犯罪が事実ありそうにも思えぬし、また東京を背景として小説を書いてもさほど面白くなかろうと思う。

 話はわき道に入ったから、もう一度本題に帰ろう。通常の科学的研究と探偵術との差異は、科学においてはあらゆる現象をことごとく包括して結論を下さねばならぬに反し、探偵にありては、色々多数の現象に遭遇しても、その内から必要ある現象のみを選びださねばならぬ。等しく科学的態度をとるにしても、後者には特別なる技量を要するので、偉大なる科学者といえども、それゆえ必ずしも名探偵となることはできないであろう。

 ちょうど法医学が応用医学であっても、やはり一つの系統にまとめられねばならぬがごとく、探偵の学も、すべての自然科学および精神科学の応用であっても、やはり一つの系統にまとめられねばならぬと思う。すなわち探偵学なるものが建設せられ、研究せらるべきものである。

 従来、特別なる部分についての立派なる書物、たとえば指紋の研究書などは存在するが、探偵学全体にわたってまとめられたるものは、まだ行われておらぬようである。かかる学問は早晩出現するに違いなく、私どもにとってすこぶる興味の多いものであろう。

 シャーロック・ホームズがその友ワトソンに、倫敦ロンドン塵埃じんあいの研究や煙草たばこの灰の研究をしたと語っているが、こういう方面に知識を有する人は、警視庁あたりにあるいはあるであろうが、まだ立派な書物としては著されてないように思う。同じく血痕の鑑定にしても、厳密に言えば法医学的の方法と探偵学的方法とに差異があってしかるべきもので、実地の犯罪捜索に関してとやかく非難するよりも、まずこれらの予備的知識の養成を講じなければならないと思う。しかして当分立派な探偵学者の現れないうちは、探偵小説によりてそのけつを補い得るであろう。

 以上は探偵小説の科学的利用について述べたので、探偵小説の目的が探偵学の普及にありという意味にとっては大間違いである。探偵小説の存在する理由は別に存するであろう。しかしそれは門外漢なる自分の説明すべき範囲ではない。ただ科学者としても探偵小説によりて色々の教訓と利益を得るものであることを述べたので、探偵小説の側からいえば、あるいは一種の侮辱を感ずるかもしれない。

 科学とても、何人なんぴとが携わってもその進歩を促すというわけではない。やはり偉人が出て導いて行くために進歩があるので、探偵学においてもそのとおりである。また探偵学が進歩しても立派な探偵小説が出るわけではなく、否、むしろ、その方面の天才が出て、色々人々の考えていないことを示してくれて、それがため探偵学も進歩するであろうと思う。これ立派なる探偵小説の出現するを望むゆえんである。

 もちろん芸術的作品である以上、知識の普及などは第二の問題で、文学的効果の多少、ないし人生の描写の巧拙いかんによりてその価値は定めらるるものであろう。

 探偵小説も人生のある特殊の方面の描写を目的とする以上、他の高級芸術と少しも優劣の差のあるべきはずはなく、時折用いらるる芸術的探偵小説などという名はすべからく撤廃すべきものであるが、かかる名の付せらるるのは、従来の探偵小説がややもすると低級なものであったがためで、私はひとえに高級芸術として尊ばるる日のきたらんことを望むのである。

 最後に一言付け加えておきたいことは、私は日本の現今の探偵小説雑誌を読んでいないから分からぬが、かかる雑誌において、探偵に関した事項についての考え問題を掲げて、読者に考えてもらうようにしたいことである。紐育ニューヨークの週刊の探偵小説雑誌には毎号この種の興味ある考え問題、たとえば暗号などを掲げて読者を考えさせ、その解答が次号に出るようになっていた。別に懸賞ではなかったが、私は多大の興味をもって考えるを常とした。

 かかるやり方はいかにも科学的であって、探偵小説の傍ら、探偵学を説くことになるのである。また探偵学に興味を持つ読者には、私は是非とも、ポーの書いた「暗号について」という論文を読まれることをすすめたい。これは暗号の説き方を書いたもので、ポーの頭脳にはこういうしっかりした科学的な部分もあったので、あの面白い探偵小説の書けたのはこの科学的な頭脳が大いにあずかり働いたものであろうと思う。

底本:「小酒井不木探偵小説選 〔論創ミステリ叢書8〕」論創社

   2004(平成16)年725日初版第1刷発行

初出:「新青年 三巻三号」

   1922(大正11)年2月号

入力:川山隆

校正:門田裕志

2010年812日作成

2011年430日修正

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