好色破邪顕正
小酒井不木
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戸針康雄は、訪問者が丑村という刑事であることを知るなり、ぎくりとして、思わずも手にして居た新聞紙を取り落した。不吉な予感が、彼の手を麻痺せしめたからである。
刑事は、す早く身を屈めて、康雄の落した新聞紙を拾い上げ、
「おお、やっぱり、ゆうべの殺人事件の記事を御読みでしたか。実は、私が御たずねしたのも、この事件に就てで御座います」
康雄は更にはッとして顔色を変えた。が、つとめて平静を装って、
「と仰しゃると?」
と、無理に怪訝そうな眼つきをした。
その眼付を刑事はじっと見つめて、
「新聞に書いてありますとおり、殺されたのは、メトロ生命保険会社社員大平八蔵氏ですが、その宅は、富倉町三十二番地です」
「それがどうしたというのですか」と、康雄はいらいらしながら、憤慨の語調をまじえて言った。
刑事は、あたりを見まわし、声をひくめて、
「こうした話はなるべく他人に聞かれたくありませんから、若し御差支なくば……」
「こちらへ御はいり下さい」
と、康雄は刑事を請じ入れ、やがて二人は応接室で対坐した。夕暮に近づいたせいか、室内は薄暗くなりかけたが、康雄は面はゆい気がしたので、電灯をつけようとしなかった。刑事はやさしい口調でたずねはじめた。
「昨晩あなたは、殺人事件のあった富倉町を御通りにはなりませんでしたか」
康雄は、ぐさと、短刀で胸をさされる思いをした。
「私は富倉町が何処だか知りません」
取り敢えずこう答えて、丑村刑事はどうしてそのことを知ったであろうかと考えると、康雄ははたと思いあたることがあった。刑事は言葉を続けた。
「あなたは昨晩珍しい古本を御買いになりましたでしょう」
果して、と康雄は思った。
「好色破邪顕正という書籍、その新聞紙の包みが、ちょうど、殺人事件のあった大平氏宅の前に落ちて居たのです。今朝拾得の届出があったものですから、すぐさま手分けして市内の古本屋を調べさせると、袋町の古泉堂で、昨夜あなたが御求めになったのだとわかりました」
康雄はもう隠しても駄目だと思った。けれども、あの美しい疑問の女については語ってはならぬと思った。いわば自分の初恋の女を恐ろしい殺人事件の渦中に引き入れたくなかった。珍本の出現によって得られた安心は、恋人にふりかかって居る運命を危惧するの念に置き換えられて行った。
「私の通った町が富倉町であるかどうかは知りませんが、丸太町の辺を通って来たことは事実です」
「それは何時頃だったでしょうか」
「はっきり覚えて居りません」
「あなたは古泉堂から、すぐさま御宅へ御帰りになりましたか」
「いいえ、途中、新栄町の芳香亭へ立寄って帰りました」
「芳香亭を御立ちになったのは何時でしたか」
「よく覚えて居ませんが十一時過ぎではなかったかと思います」
覚えて居ないどころか、はっきり覚えて居たに拘わらず、彼はこう答えざるを得なかった。
「そうすると、ちょうど、富倉町を十二時頃御通りになった訳ですね。あなたが御通りになったとき、ある家の中から女の悲鳴のような声は聞えませんでしたか」
康雄は何となく、気味が悪くなって来た。
「いいえ」
と答えた声には、ひどく力が無かった。
刑事はさぐるように康雄の顔を見つめて居たが、
「若しや、あなたが御通りになったとき、家の中から、一人の若い女が飛び出しては来ませんでしたか」
「知りません。知りません」
康雄の声は顫えて居た。
「そうですか」と、刑事は疑うような調子で言った。「実は、古本の新聞紙の包のすぐそばに、セルロイドのヘーヤピンが一本落ちて居たのです。地面には別に足跡が見られませんけれども、何となく、中から飛び出して来た女が、通りがかりのあなたにすがりついたように思われるのです。古泉堂できくとあの古本は五百円もするとの事で、それほど貴重なものを落されるには、どうも、そう考えるより外はありませんから」
丑村刑事の推理に驚くと同時に、康雄はだんだん気味の悪い思いをしはじめた。彼は何と答えてよいかに迷った。あの女については決して語るまいとした覚悟が、見る見るうちに刑事の舌で崩されて行くように思った。彼はもう沈黙を守るのが一ばん無事であると決心した。
「御迷惑にならなければ、御話を願いたいものです」と、刑事は慇懃な態度で言った。「何しろ、殺人という大事件で御座いますから。どうか、私たちの捜査を助けて頂きたいものです。実は」
と、急に調子をあらためた。康雄は、刑事の、「実は」をきくごとにぎくりとさせられたので、こんどは何を言い出すのかと、息を凝した。
「今朝四時少し前のことです。一人の年若い女が御器所の方から跣足で歩いて来るのを、巡邏中の警官が見つけて、ひそかにあとをつけて行くと、女は中央線の高架線路の小針の踏切りを上りかけたそうです。これは怪しいと思って、土手の陰に身をひそめて様子をうかがって居ると、折しも汽車の音がごーっと聞えて来たので、間違いがあってはならぬと、駈け上って、有無を言わさず取り押え、事情をきいても、固く口を噤んで何とも言わなかったそうです。住所をも言わなければ、また、何処から出て、何をしに行くのかも語らなかったが、何しろ、はだしではあるし、髪も乱れて居るし、深い事情があるにちがいないから、一先ず××署へ連れて来て保護をすることになったのです。署へ来てからも、何をきいても返事を致しません。
ところで、富倉町の殺人事件が報告され、同時に、好色破邪顕正とヘーヤピンの届出があったので、私は若しやと思って早速そのヘーヤピンと、女の現にさして居るのとを比較して見ましたら、ぴったり一致したのです。然し、世の中には同じヘーヤピンをさして居る女は沢山ありますから、確実な証拠とは言えません」
ここで丑村刑事は言葉をきって、康雄の顔色を熟視した。康雄は恐ろしいというよりも、むしろ恥かしさを感じた。とても知れそうにはあるまいと思った女の行方が、意外にも早くわかって、兎にも角にも、逢おうと思えばいつでも逢える事情になったかと思うと、一種の興奮のために、胸の動悸が昂まった。もうこうなった以上は、すべてのことを打開けて、彼女のために一臂の力を致そうかとも思いはじめた。事情を打あけることは、彼女に対する疑いを濃厚にして、彼女を悲境に沈めるであろうけれど、彼女が無罪であることを、康雄は固く信じて疑わなかった。
「然し」と、刑事は語を続けて、康雄の思考を破った。「新聞で御承知でもありましょうが、昨夜十二時頃被害者の家で女の悲鳴らしいものが聞えたそうです。ゆうべ、雇いの老婆は自宅へ帰って居たということですから、別の女が居たと推定されます。その推定は被害者の家で発見された女の下駄によって確かめられました。そこで、その下駄を、謎の女に見せますと、一瞬間顔色が変りましたが、やはり否定してしまいました。やむを得ないから今度は、雇いの老婆を呼んで、その女が大平家へ出入りしたことがあるかどうかをたしかめようと、ひそかに見てもらいましたが、老婆よねは、今迄一度も見たことがないと申しました。何か生前殺された主人がその女のことに就いて言わなかったか、或は平素女の客がよくたずねて来たかどうかをたずねましても、よねの答えるところによると、主人は自分の内情に就いては一切語らず、別に女客が訪問するようなことはなかったと言いました。
そういう訳で、どうにも女の身許を知ることが出来ないのです。ところが、好色破邪顕正の落し主があなたであるとわかったので、若しや、あなたが、その女の走り出て来るところに出逢われたのでないか、若し、そうとすればあなたの口から女の身許がわかるかも知れぬと、取りあえず、御たずね致した次第です」
この条理を尽した言葉に、康雄はもう沈黙して居ることの不可能を悟った。
そこで彼は、昨夜の冒険について、逐一物語ったのである。新栄町の芳香亭を出てぶらぶら歩いて来ると、突然、ある街で女の悲鳴が聞えたこと、その街の名が富倉町であることを彼は知らなかったこと、悲鳴をきいて立ちどまると、間もなく一人の女が、あわただしく駈け出して来て、彼にすがりついた事、彼は女を半ば引摺りながら、丸太町通りまで引き返して、道ばたで介抱して居ると、ちょうど一台の空自動車が来たので、呼びとめて、わが家へ連れて来た事、とりあえず寝台に横たわらせて、冷水を与えると、女ははっきり意識を恢復したが、いたく疲労して見えたので、あくる日事情をきこうと思って、そのまま寝かせて、自分も隣室へ退いて眠った事、今朝十時頃に眼をさまして見ると、女の姿が見えなかったこと、寝室へはいってよく探すと床頭台の上に、鉛筆で走り書きをした置手紙がしてあったこと、等を順序正しく語って、最後に女の残して行った手紙を刑事に示した。もうその時は、室内はだいぶ闇くなって居たので、康雄は立ち上って、スイッチを捻った。
刑事は熱心に手紙を読んだ。康雄は言った。
「そういう訳ですから、私も女の身許はさらに知らないのです。先刻の御話によると、女は、鉄道線路の踏切を上ったというお話で、自殺を恐れて、警官は捕えなさったということですが、その文面から察すると、どうも、自殺する意志はないように思います。警察でそれほど頑強に口を噤んで居るのは、何か特別な理由があるのでしょう」
丑村刑事はうなずいたが、やがてたずねた。
「その女が走り出して来たとき、手に短刀でも持っては居ませんでしたか」
康雄は、予期した質問ではありながら、腹立たしい思いをした。
「短刀など持って居ないばかりか、衣服にも血などは附いて居りませんでした。あの人は決して犯人ではありません。あの人に人殺しなど出来よう筈がありません。私はそれをかたく信じます。そういう疑いをかけるさえ無礼なことだと思います」
刑事の眼が、異常に興奮した自分の顔をじっと見つめて居たので、康雄ははッとして赤面した。
「私も、あの女を犯人と認める訳ではありません。ここへ伺うまでは、あの女がこの事件に関係があるかどうかさえ、はっきりわからなかったのです」
「それで、大平氏を殺した犯人はまだわからぬのですか」
と、康雄は徐々に探偵的興味を湧かせてたずねた。
「わからぬのです。老婆よねが昨夜に限って不在であったことは怪しいと思って、最初の容疑者として拘引したのですが、よく調べて見ると、昨夜はたしかに自宅に帰り、而も朝まで其処に居たことが証明されましたから、一先ずよねは帰らせることになりました」
「現場の捜査からは、何か手がかりが見つからなかったですか」
「今のところ、これという手がかりを得ません」
「死体解剖の結果はどうです」
「鋭利な短刀で背後から右側の腎臓部を刺されたという外、特に注意すべき発見もなかったのです」
「それで一たいこれからどうなさろうとしますか」
刑事は暫らく考えて居たが、
「別にどうするという方針も差し当り立ちませんが、留置場の女が大平氏の家から飛び出したのだとわかった以上、女を訊問して、事情を明かにするより外はないと思います」
康雄は炎症の局部に触わられたような気がした。あの可憐の恋人が、又々警察官のために質問攻めに逢うかと思うと、堪えられぬ心地がした。彼は先刻から、いつの間にか空腹も忘れてしまったくらい興奮して居たが、この時一層胸を時めかして、
「いっそ、私にその訊問をさせて下さいませんか」
「え?」と、刑事は怪訝な顔をした。
「御不審は尤もですが、私の考えるところでは、たとい警察の御方がどんなにして訊問なすっても、彼女は決して返答はすまいと思います。そこで、私にあなたがたの代りをさせて頂きたいのです。きっと彼女に事情を語らせて見せます」
こういった康雄の額には、汗が沁んで居た。刑事は暫らく考えて居たが、すぐには返答しかねる様子であった。
「私は決して、彼女に逢って、彼女に入れ智慧する訳ではありません。私は彼女の無罪を信じて居るので、それを証明したいと思うのです。これまで読んだ探偵小説の知識を実際に応用して見たくなったのです。若し出来ることなら、私に現場の捜査をもさせて頂きたいのです。いわば臨時の素人探偵として、この事件だけ、警察の御手伝いがして見たいのです」
康雄の熱心な語調に丑村刑事は動かされたらしい様子であった。恐らく刑事は康雄の本心をも洞察したのであろう。そうして、康雄の力で、彼女の口をあかせるのが、最上の方法だと考えたのであろう。やがて、決心したような態度で、微笑をうかべて言った。
「探偵小説と実際とは決して同じものではありませんが、あなたの熱心はよくわかりましたから、署長に願って見ることに致しましょう。素人を捜査に加えるということは異例ですが、如何なる手段を講じてでも、早く犯人さえわかればよいのですから、署長もあなたの願いをきくだろうと思います」
こう言って刑事は立ち上った。
「どうぞ、よろしく願います。これから私は食事をすまして、後刻警察署へ出頭致します」
それから二時間の後、戸針康雄は、××署の一室で、彼の初恋の女と話して居た。
丑村刑事の尽力と署長の好意によって、彼は彼女との対面を許されたばかりでなく、警察の妨害をしない限り現場捜査に携ってもよいという内諾を得た。
康雄が留置場の扉をあけたとき、何気なく康雄の方を振り向いた彼女の蒼白の頬は、ぱッと紅をさした。殺風景な、あかるくない電灯に照された留置場で、彼女の姿は掃溜に咲いた大輪の花にも譬うべきであろうか。康雄にとっては、まことに、いじらしさの限りであった。
康雄は、元気よくはいったものの、彼女と二人きりになると、急に物を言うことが出来なかった。
「昨晩は……」
と、細い声で言ったきり、おずおずしながら、彼女の傍に腰かけた。
女は軽くうなずいて、彼の視線を避けるように、手巾で口元を蔽いながら俯向いた。警察で与えられた汚ない履物をはいて居るほか、昨夜のままの姿であったが、髪は一層乱れて疲労の色が頸筋にまで見られた。
「一たいどうなさったというのです」と、康雄は心を強いて落つけながら言った。「今朝あなたの置手紙を見て、私は本当に悲観しました。実際私は一時、あなたの心を恨んだくらいですよ」
女は相変らず顔を上げなかったが、深い呼吸を一つして、
「相済みません」
と、かすかに言った。
康雄はこれをきいて、大に力づいた。一言も発しないかも知れぬという危惧の念が、これで完全に取り去られたからである。
「済むも済まないもありません。ただ私はあなたの身の上を案じたのです。あなたが、大平家から、ただならぬ様子で駈け出して来られたのは、何かそこに深い事情がなくてはなりません。その事情を今朝ゆっくり承ろうと思ったのに、あなたの姿が見えなかったので、全く失望してしまったのです。それと同時に、あなたの身の上を案じたのです。すると夕方になって、更に心配を増したのは、大平さんが昨夜、何ものかに殺されなさったことです。夕刊で読んで、本当にびっくりしました。すると其処へ、丑村刑事がたずねて来られて、色々の証拠から、あなたが昨夜、私に出逢ったであろうと推定して、あなたの身許をききに、来られたのです。ところが私も、もとより存じません。然し、あなたが、大平家から昨夜走り出して来られたことがわかった以上、警察はあなたに疑いをかけて、なおも執拗に訊問するにちがいありません。それを私は堪えられなく思いましたから、あなたのことは私にまかせてくれと願って、ここへ御伺いしたのです」
康雄はこれだけのことをすらすらと言って退けた。彼は女の姿を見れば見るほど、いじらしさが増して、恋の心が募って行った。
「御心配をかけてすみません」と、女は又もや深い呼吸を一つして言った。「けれども、私の身の上だけは、どうぞ御たずねにならないで下さいまし」
「身の上は別に御聞きするには及びません。けれども、あなたは殺人という重大な事件の渦にまきこまれなさったのです。死んだ人のことを思うと、一刻も早く犯人を見つけてあげたい気がします。あなたが、犯人でないことは、私は飽くまでも信じて居ます。ですから、少なくとも、あなたの口から犯人でないというあかしを立ててほしいのです。さもなくんば、いつまでも警察は五里霧中にさまよわねばなりません」
けれども女は返事をしなかった。
「私はまだ、あなたのお名前をさえきいては居りません。然し、強いて御聞きしなくてもよいのです。ただ、私はあなたのためにどこまでも忠実な助力者でありたいのです。何とかして、真犯人を見つけて、あなたに覆いかぶさろうとする疑雲を散らしたいと思うのです。あなたが何の用事で、又、如何なる事情のもとに大平家をたずねなさったかをたずねる必要はありません。ただ、あなたが悲鳴をあげなすって……私はただ直感的に悲鳴をあげたのはあなただと思うのですが、それから戸外に走り出されるまでの事情だけをきかせて頂けばよいのです」
気がつくと女は、しきりに手巾で涙を拭って居た。康雄はいささか狼狽した。
「これは申し訳ないことをしました。何も私は、あなたを苦しめるつもりはなかったです。許して下さい」
「いいえ」と言った女の声は、はっきりして居た。「そうではありません。御親切を思って、つい……」
「それでは私の願いをきいて下さいますか」
女はじっと考えて居た。
「お話しになりにくいかも知れませんから、私から一つ一つ事情を推定して御たずねしましょう。大平さんは、昨夜、何かあなたを苦しめるようなことをしたのですか」
女の顔はその時たしかに紅みを加えた。それは或は憤怒の思い出であるかも知れない。
彼女はだまってうなずいた。
「その時、あなたは救いを求めるための悲鳴をお上げになったでしょう」
女はうなずいた。
「すると、それと同時に、大平さんは、背後から、何ものかのために短刀で刺されて、血まみれになってたおれなさったのでしょう。で、あなたは、その思いがけない惨状にびっくりして、家の中から走り出されたのでしょう」
女は軽く頭を横にふった。
「では、あなたは、大平さんを刺した人を御覧になって、それで、驚いて逃げて来なさったのですか」
「ちがいます」と、彼女は、漸く口を開いた。「私はあの人に襲われて、驚きのあまり一声叫んで、そのまま気を失いました。暫くの後気がついたときには、あの人は血まみれになって私のそばに倒れて居りました。そこで怖ろしさのあまり、夢中に飛び出したので御座います」
康雄は、ほッとした。目的を達した安心と、彼女が無罪であることを知った安心とは、彼の胸の中から重荷を取り除いた。
「そうでしたか、よく仰しゃって下さいました。もう、それだけ伺えば沢山ですが、然し、あなたには、あなたのことを御心配になって居る御両親や、御姉弟は御ありでしょう。その人たちのために、あなたは一刻も早くここを出なければなりません。それには……」
「私には、両親も姉弟も何も御座いません」
「え?」と、康雄は、思わずも、彼女の横顔に眼を注いだ。彼女の置手紙の中にあった、「不幸な女より」の文句が、彼の心に浮んだ。
「有難う御座いました。もう、これ以上は、あなたを苦しめますまい。然し、もう一度だけ、お心をきかせて下さい。あなたは昨夜、私の家を御出になって、中央線の踏切に御あがりになったそうですが、まさか、自殺なさるつもりはありませんでしたでしょう?」
女は強くうなずいた。「そんな気は少しもありませんでした」
「ああそれで安心しました。最後に御願いして置きたいのは、ここを放免されなすっても必ず、行先を私に知らせて頂きたいことです。尤も、この事件が片づくまでは、多分あなたは、不自由な目をなさらねばならぬだろうと思いますから、一刻も早く片附くよう私は及ぶかぎりのことを致します」
翌朝、わが素人探偵戸針康雄は、大平氏宅に赴いて殺人現場の捜査を行った。といっても、別に系統的な捜査を行うのではない。恋人の身を思うあまり、恥を忘れて、いわば無鉄砲に乗りこんで来た訳である。
大平氏の死体は別室に安置され、親戚や知己の人たちが、葬儀の準備に忙わしかった。兇行のあった部屋は、襖が立てこめてあって、誰も中に入らぬよう、一人の警官が番をして居た。
康雄が署長の名刺を示すと、警官は襖をあけて中へ入れてくれた。そこは八畳の居間で、床の間の脇は押入れになって居てやはり襖が立ててあったが、その襖の前には、黒赤色の血が、畳の上に物凄い地図を描いて居た。捜査中の事件であるから、現場には少しも手を触れてないのである。
康雄は、女からきいたことを思い浮べて、暫くの間、部屋の中央に立ったまま、あたりを見まわした。そうして、次の結論を得た。
犯人は多分、押入の中にかくれて居て、大平氏が、彼女を襲ったとき、突然、襖をあけて、背部から短刀で刺したのであろう。
彼は押入をあけて見た。中は上下二段に区切られて居て、上の段には、二三の道具が置かれ、下の段には夜具が積み重ねられて居たが、向って右の隅に、ゆうに一人の人間がはいれるだけのすき間があった。彼は、その部分を懇ろに捜したけれども、別にこれという手がかりを発見することが出来なかった。
彼はそれからなるべく血痕を踏まぬように歩いて、座敷の前の縁側に出て、奥庭をながめた。奥庭といっても、大して広くはなく、数本の檜と一二本の梅と、蕾を持った霧島が三本ほど植って居て、飛石づたいに、左手に行くとそのまま、家をめぐって玄関の方へ出られるのであることがわかった。
殺人者は恐らく玄関からしのび込むようなことはすまい。きっとこの奥庭からあがって押入の中にしのび込んだにちがいない。
こう考えたので、彼は、一応、屋敷のぐるりを見て置こうと決心し、幸いに、手洗鉢のそばの沓脱ぎに、庭下駄が一足あったので、それを突っかけて、奥庭の上に出た。
前は、黒板塀で境されて居たが、右隣りと左隣りの境界には、槙の木がまばらに植えられてあるだけで、自由に出入りすることが出来た。家の左隣りに面したところは台所になって居て、物置小屋の中に色々な道具が雑然として置かれてあったが、右隣り即ち街から見て左隣りとの境に当る部分は、別に何の障碍物も置かれてなかったから、若し、人が裏の方へ出入りするならば、この部分を通路とするにちがいないと思われた。で、康雄はその部分の地面を熱心に捜し歩いた。
「おや、戸針の若旦那様ではありませんか」
突然、前方からこう声をかけられたので、驚いて康雄が顔をあげると、槙の木のむこうに一人の五十あまりの女が立って居た。見るとそれは、康雄の両親の健在した頃、本重町の本宅へ二三年雇ったことのある、豊という女なのである。
「おや、お豊さんか、久し振りだなあ、お前、今このお隣りに住んで居るのか」
「いいえ、私は患者さんの附添婦に雇われて居るので御座います。あなた様はまたどうして、こんなところへ御出でになりました?」
「実は少し理由があってね、お前ももうとくに知って居るだろうが、このうちの主人が殺されて犯人がまだわからぬのだよ。それを私は物数寄半分に検べに来て居るんだ」
「まあ、そうで御座いますか。それで、何か手がかりは御座いましたか」
「いやまだ。何か手がかりは見つからぬだろうかと、こうして庭の上をさがしまわって居るんだ」
すると、何思ったか、お豊は小声になり、
「若旦那様ちょっと!」
と言って康雄を手まねきした。
意味ありげな様子に、康雄は好奇心に駆られて、槙の木の間を通りぬけ、隣りの屋敷にはいった。
お豊は、無言のまま先に立って、やがて、とある物陰に康雄をつれて行った。
「何だい?」と、康雄は辛抱し切れなくなってたずねた。
するとお豊は、用心深くあたりを見まわし、
「実は若旦那様、私は昨夜、お隣りの御主人を殺した人を見ました」
「ええっ」と、康雄はびっくりした。
「いえさ、もとより、その場に居合せた訳ではありませんが、犯人ではないかと思われる人を見たので御座います」
「そうか、一通り事情を話しとくれ」
「こうなんで御座います。今私が附添って居る息子さんは、胸の病をわずらって見えますが、夜分はどうもよく御やすみになれないので、たいてい、午前の三時頃までは、私も起きて居るので御座います。今はちょうど、患者さんが眠って見えますので、こうして戸外へ出た訳で御座いますが、昨夜、十二時頃、お隣りで、甲高い女の声がきこえました。それきり静かになりましたので、別に怪しみもしなかったのですが、それから十五分ほど過ぎて、はばかりにまいり、何気なく、窓から、お隣りの裏庭を見ますと、一つの黒い人影が、頻りに庭の上をさがして居るようでありました。もうそのとき月は西にはいって居たらしゅう御座いますが、人影だけは、くっきりわかりました。暫くの間、その人は捜しつづけて居ましたが、とうとうあきらめたと見えて、逃げるように去ってしまいました」
「男か女か」
「年寄った男の人で御座いました」
「え? 本当か」
「たしかに、そうでした。それから朝になると、人殺し騒ぎが始まりましたので、さては私はあの老人が、大平さんを殺したのだろうと思いました」
「それでお前はそのことを警察の人に告げなかったか」
「はい、かかり合いになるのが恐ろしいですから、黙って居りました」
「その老人はどんな風采をして居たかね」
「さあ、それは暗いのでよくわかりませんが、実はその老人が、頻りに捜して居たものを、私が見つけたので御座います」
「ええっ?」
「たしかに、老人は捜し損なって行ったと思いましたから、今朝、まだお隣りの婆やさんが戻って来ない先に、悪いこととは知りながら、そっとお隣りの庭の上をさがしたのです。そうしたら、苔の間に、木片の陰になって落ちて居たのです」
「それは何だったかね」
お豊は暫く躊躇して居たが、
「私が拾ったということさえ、黙って居て下されば御渡し致します」
「黙って居るとも」
「あなた自身で、御拾いになったことにして下さい」
「ああ、そうしよう。で、お前は、その品をここに持って居るのか」
「持って居ます」
お豊は袂に手をやった。康雄は全身の血が好奇心のためにかたまるかと思うほど、興奮しながらお豊の取り出すのを待ちかまえた。やがてお豊は、花紙に包んだ勲章大のものを取り出して、康雄の眼の前で開いた。
中からあらわれたのは──
康雄は一目見るなり、思わず、「あッ」と叫んだ。
「この品を御承知なので御座いますか」
お豊も興奮してたずねた。
「うむ、知って居る!」
こう言って康雄が手に取り上げたのは、一個の眼鏡の玉であった。而もその玉こそは、彼が昨夜、「好色破邪顕正」を求めた古泉堂の変人、紺野小太郎翁が祖先伝来のものとして、常に珍重してかけて居る、草入模様の水晶のレンズであった。
奇縁と言おうか、不思議な運命と言おうか、思いもよらぬ発見に、わが素人探偵戸針康雄は、暫らくは一切が夢ではないかと疑わざるを得なかった。これまで探偵小説を読んで、こう言う場面に邂逅して、驚き喜んだことは度々であるが、今、現実の世界にまざまざとその例を見せられては、そう思うのも無理ではなかった。
書肆古泉堂の主人、紺野小太郎老人の、まがう方なき水晶のレンズが、不吉な血をもって彩られた大平氏宅の庭に落されて居たということは、そもそも何を意味するのであろうか。一時的の驚きが消えると、それに代って、この疑問がむくむくと頭をもたげた。そうして、それと同時に、一昨夜、古泉堂を訪ねて、紺野老人と対談した時の光景が、まざまざと眼の前に浮んだ。
康雄が『好色破邪顕正』の値をたずねて、「少し高いな」と言ったとき、紺野老人は、かけて居た眼鏡をはずした。それは老人が気に喰わぬときに行う動作の一つであるが、その時、一方の玉がぱたりと畳の上に落ちた。老人は舌打ちしながら再び金色の枠にはめたが、この事によって、眼鏡の玉が落ち易くなって居たことはたしかである。だから若し、老人が大平氏宅の庭を歩いたとすれば、眼鏡の玉の落ちることは、ちっとも不思議なことでない。
けれど、古泉堂主人は一たい何の用あって大平家を訪ねたのであろうか。こう考えると康雄は、はたと行き詰らざるを得なかった。たとい紺野老人のレンズを発見したとて、必ずしも、紺野老人が大平家を訪ねたとは断言し得ない。これはもっとよく、事情を明かにした上で推理を行わねばならない。……………………
「一たい、それでは、この眼鏡の主は誰で御座いますか」
突然、お豊が質問したので、康雄ははッと我に返った。彼は附添婦のお豊からレンズを渡されて後あまりに意外な発見に、お豊が眼の前に居ることも打ち忘れて、空想に耽って居たのである。
「ああ、それがね」と康雄は慌てて答えた。「まったく思いがけない人なのだ。うっかり喋舌るのはよくないから、名前は預って置くが、それは私のよく知って居る老人なんだ。時にもう一度念を押してきくが、お前が見たのはたしかに老人だったかね?」
「それはもう間違い御座いません。顔はよくわかりませんでしたが、姿恰好が、どうしても年寄った人で御座いました」
「その人が庭を捜して居たのはお隣りで女の悲鳴が聞えてから、十五分ぐらい過ぎてからだと言ったねえ?」
「正確なことはわかりませんが、十五分或はことによると二十分ぐらい過ぎて居たかも知れません」
康雄は腕を組んで考えた。大平氏が殺害されたのは、女の悲鳴の起ったのと殆んど同時でなくてはならぬ。若しその老人を犯人とすると、一たい老人はその間何をして居たのであろうか。悲鳴が起ったとき、自分はちょうど大平氏のおもてに居た。そうしてあの謎の女が走り出して来るまでは誰も大平氏宅へ出入りしたものはなかった。
「いやどうもありがとう」康雄はお豊に謝した。「お前のお蔭で、いわば手柄をたてることが出来たよ。いずれ事件が片づいてから、あらためて一度おたずねする。どうか、患者さんを大切にしてあげてくれ」
こう言って、大切な証拠のレンズを内ポケットに収め、康雄はお豊に別れを告げて槙林の間を抜け大平氏宅の裏庭に戻った。そうして庭石づたいに、座敷に向って歩きながら、一昨夜、疑問の老人(それはやはり紺野老人にちがいないが)が、眼鏡の玉を捜して居た光景を想像した。
再び座敷にかえって血に染った畳を一瞥し、やがて康雄は、いそいそと大平氏宅を出た。
が、街へ出て見ると、さて康雄は、どこへ行ってよいかに迷った。普通の探偵ならば、当然、古泉堂の紺野老人をたずねるのが順序である。けれども若し紺野老人が真犯人であったならば、其処に甚だ気まずい光景が出現する。それに自分は、××署長の好意によって、この事件の捜査に従事することは許されて居ても、犯人を逮捕する権利は与えられて居ない。自分が紺野老人をたずねて、眼鏡の玉を拾った話でも為ようものなら、却って紺野老人を警戒させ、或は紺野老人に逐電させるような結果を惹き起さぬとも限らない。
大平氏宅の前に立ちどまって腕組みをしながら考えて居た康雄は、ふと、一昨夜、其の場で謎の女に抱きつかれたことを思い出した。それと同時に、心は、「彼女」の方に向いてしまった。そうして、この意外な発見は、誰よりも先に彼女に知らせるのが至当であると思った。
彼女は昨夜安眠したであろうか。若しや自分との約束にそむいて留置場を逃げ出すようなことを仕出来しはしなかったか。こう思うと、康雄は何だか不安な心持ちになった。一刻も早く彼女の顔が見たくなった。犯人の手がかりを見つけたことを告げて彼女を安心させたくなった。たとい紺野老人が真犯人でなくても、老人の眼鏡の玉が大平氏宅に落ちて居たことによって、紺野老人と今回の事件とが何等かの関係を持って居ることがわかる。それを話して彼女を慰めたく思ったのである。言うまでもなく真犯人さえわかれば、当然彼女は放免されるからである。
康雄はそこで××署をさして急いだ。早く恋人に逢いたいと思うと、足は宙を走った。
署へ来ると、丑村刑事は留守であったが、署長はニコニコして、この素人探偵を迎えた。康雄は、事件の報告よりも、彼女の安否を気づかって言った。
「あの女はどうしましたか」
さすがに彼は頬のほてるのを覚えた。
「昨夜は安眠が出来たということですよ、今日は大へん機嫌がよいようです。然し相変らず自分の素性については語りませんが、こちらも強いてたずねようとはしません。今日の様子では、あなたが逢われたら、何もかもお話しするかも知れません。が、それはそうと、捜索は進みましたか」
康雄は署長の丁寧な言葉づかいに恐縮しながら、
「どうせ素人のことですから、さっぱり駄目です。然し、いま大平氏の宅へ行って、一寸したことを見つけて来ました」
「それは何ですか」と、署長は康雄の言葉を遮るようにして、畳みかけてたずねた。
康雄はどぎまぎして、
「それはあとでお話しすることにして、それより先に、あの女に逢わせて頂きたいと思います」
署長はちらと康雄の眼をながめたが、そのまま大きくうなずいた。
留置場へはいると、彼女は昨日のままの姿で、つつましやかに腰かけて居た。見れば昨日より遥かに血色もよく、康雄の姿を見るなり、頬笑んで迎えた。その頬笑みは、康雄をして、一瞬間、殺人のことも、捜索のことも、レンズのことも、紺野老人のことも、何もかも忘れしめてしまった。康雄の心の中は、美しい恋人の姿によって占領し尽されたのである。
彼はつかつかと彼女の方に近寄ったが、何といって声をかけてよいかに迷った。とりあえず彼は彼女の傍に腰掛けたが、心臓の鼓動が急に高まって、呼吸が促迫しはじめた。取り乱すまいと思えば思うほど、胸は高鳴りを増すだけであった。
が、彼のこの苦境を、彼女は早くも見て取って、それを救うべく声をかけた。
「本当に今回は色々御迷惑をかけてすみません」
その声が、至って晴々しかったので、康雄は急に嬉しくなり、言葉が咽喉から迸るように出た。
「迷惑どころか、私はあなたの為ならどんなことでも為ようと思って居ます。私がこうして素人探偵を志願したのも、いわばあなたの無罪を証拠立てようと思ったからです。ところで、私のこの希望は幸いにも叶いかけました。というのは、先刻、あなたの一昨夜お訪ねになった大平家の捜索に行きましたところ、幸いにも、真犯人を捜る手がかりとなる品を見つけたのですから。一刻も早くこれをあなたにお話しして安心してもらおうと、とりあえずこちらへ駈けつけたのです」
「まあ、何という御親切でしょう。で、その手がかりというのは何で御座いますか」
彼女は今までとは打って変った熱心な態度となった。「手がかり」という言葉が恐らく彼女の好奇心を刺戟したのであろう。
「手がかりと言っても、それが果して私の予期するような大切なものかどうかは知りませんが、恐らくそれによって真犯人を手ぐり出すことが出来ると思います。真犯人さえわかれば、あなたは直ちにこの陰鬱な、殺風景な、不愉快な場所から解放されることが出来るのです」
こう言って康雄は彼女の顔をのぞきこむようにした。と、如何した訳か、彼女の顔には喜色の代りに、一抹の憂色が漂いはじめた。康雄は早くもそれに気附いて、
「どうなさったのです。何か私の言葉が御気に障りましたか」
「いえ、いえ」彼女は慌てて否定した。乱れた髪の毛と、膨れ気味の眼瞼は、一層彼女の美しさを廓大した。彼女は寂しく笑って続けた。「私は、昨日も申し上げましたとおり、身うちのものは誰一人無い寂しい身分で御座います。なまじ世の中へ出るよりも、いっそ、この留置場に居た方が、どれほど気楽か知れません」
彼女の眼には涙がたまった。何といういじらしい姿であろう。康雄は、かたき抱擁のもとに、彼女を慰めてやりたいような衝動に駆られた。
「いけませんよ、そんな心細いことを言っては!」と、康雄は幾分か声を顫わせて言った。「ああ困りましたねえ、私は、こういう際に、何といってよいかを知りません。いっそざっくばらんに言いましょうか」
と、暫く躊躇した後、
「私もあなたと同じく一人ものです。いっそあなたは私と……」
「結婚してくれ」という意味は、たしかに彼女に通じたらしく、思わず彼女は康雄から顔をそむけた。
「おや、私はこんなことを言って、あなたを怒らせたでしょうか」
「いいえ!」彼女の声は強かった。
「本当ですか」と、康雄が彼女の腕にすがると、彼女の首はわずかに縦に動いた。
途端に、隣室の方で、無風流な振鈴の音が、響き渡った。二人ははッと美しい夢からさめた。多分それは、巡査たちを何かの目的で集合せしめる合図ででもあるであろう。ざわざわと人の歩く音が続いて起った。
「いけませんねえ、こういう話をするには、此所は不似合な場所です。時に私たちは何の話をして居たのでしょう、ああ、そうです。あなたに大平氏宅の庭で拾った手がかりを見せる筈でした。これはまだ署長にも誰にも見せてありません」
こう言った康雄はポケットから、例のレンズを取り出して、彼女の前に差し出した。
「これです!」
彼女は、珍らしい昆虫でも見るときのように、こわごわのぞきこんで居たが、
「これがどうして手がかりになりますか」
「私はこの眼鏡の玉の持ち主を知って居るのです」
こう言って康雄は、お豊に逢った顛末を悉く語ってきかせた。
「すると、その眼鏡の玉の持ち主は誰でございますか」
彼女もだんだん乗気になってたずねた。
康雄はあたりを憚かるようにして、声をひくめ、
「市内のある古本屋の主人です」
この言葉をきいた彼女は暫らく考えて居たようであるが、やがてその美しい眼を輝かして、
「若しや古泉堂とかいう古本屋では御座いませぬか」
康雄は驚いた。
「え? え? どうしてあなたはそれを知って居るのですか」
彼女はすぐには返事しなかった。暫らく俯向いて考えて居たが、やがて、決心したもののように顔を上げた。
「もう、何もかもお話し致します」彼女は大きく呼吸した。「今まで口を噤んで居たことはどうぞ御許し下さいませ。私の名は篠田歌代と申します。父はある役所につとめて居まして、四五年前まで両親と私と三人暮しで名古屋に住んで居りましたが、その後父が転任することになって、東京へまいりました。ところが一年たたぬうちに父は病死して、母と二人暮しとなり、差し当り食うには困りませんでしたが、私はタイピストとなって生活の資けと致して居りました。その間至って平和に過しましたが、不幸は重なるもので、先日母に突然死なれて、私はまったく途方に暮れてしまいました。
大平さんは母の遠縁に当る人で、名古屋に居る時分から、よく往来しましたが、先日母の葬式の時は、わざわざ上京して、いろいろ親切にして下さいました。今から考えて見ますれば、その親切には多少の不純な分子が含まれて居たようで御座いますが、たった一人きりになって寂しい私の心には、実に実に嬉しいもので御座いました。その時大平さんの御話に、幸い、自分の会社にタイピストが一人ほしいから、あなたが来る気なら世話をしてあげるがどうかとの事で御座いましたから、私もその方が遥かに心強いような気がして、どうぞよろしく願いますと申上げて置いたので御座います。それから二三日過ぎると大平さんから手紙がまいりまして、愈よ会社であなたを傭うようになったからそちらを片附けて名古屋へおいでなさい。私の家に同居なさってもよいが、それでは世間の口もうるさいから、幸い自分の心当りの家を一軒借りて、婆やを雇うことにしたいということで御座いました。で、一昨日の朝、東京をたって、こちらへ参ったので御座います。名古屋駅へ着くと大平さんが出迎えて下さいまして、途中で夕飯をいただき、自動車で、私のために借りて下さった家にまいったので御座います」
「それは何処でしたか」
「小針の十番地で御座います」
「おお、それでは一昨夜、あなたが私の家を出て、中央線の小針の踏切りを越えようとなさったのはその家へ帰るつもりでしたか」
「左様で御座います」
「それからどうしましたか」
「その家へ着いたのは八時過ぎで御座いましたでしょうか。家は小ぢんまりとして居て、誰か住って居たあとをそのまま借り受けたように思われ、頗る気持のよい住居で御座いました。十番地はその家一軒きりで、隣り近所とは植込みでかけはなれ、ちょっと郊外の家という感じで御座いました。私は大平さんの親切に感謝致しました。
ところが、来る筈になって居た婆やが、どうした訳か姿を見せません。大平さんは頻りに気を揉んで居られましたが、十一時になっても来ませんので、電話をかけて来るからと言って出て行かれました。そうして、程なく帰って来て、今、口入屋にたずねたところ、婆やは明日の朝でないと行けないとの事、一人でこの家に寝るのは物騒だから、今夜だけは私の家に泊って下さい。そのつもりで、序に自動車を雇って来たとの事で御座いました。
大平さんの話によると、大平さんのお宅にも婆やが雇ってあって、今夜は婆やと同じ部屋に寝られたらよいであろうとの事でしたので、全く安心して大平さんにお伴をすることに致したので御座います。
ところが先方に行きますと、居るべき筈の婆やさんが居りません。これはおかしいと思って居りますと、大平さんは私を奥の座敷へ呼んで妙なことを仰しゃりかけたのです。私ははじめ大平さんが、まったくほんの冗談を仰しゃって居るのだと思って居ますと、しまいには、私と結婚してくれというようなことまで言い出されました。あまりのことに私はびっくりしてしまいました。今迄の大平さんの親切はこうした魂胆から出て居たのかと思うと、奈落の底へつき落されたような、言いようのない悲しさが胸に迫りました。私はただもうぼんやりとして、その場に坐って居りますと、やがて大平さんは突然私に躍りかかって来られました。
私は思わずも一声、大声に叫びましたが、そのまま一瞬間気が遠くなりました。それからはッとして気がついて見ると、意外にも大平さんは血に染まって死んで見えました。私の精神はもう滅茶滅茶に掻き乱され、前後の考もなく戸外へ走り出ましたが、そこへ運よくもあなたが通りかかって下さって、私を救って下さったので御座います」
はじめてきく女の素性と一昨夜の出来ごとに、康雄はすっかりその方へ精神を奪われて居たが、この時、我にかえって言った。
「いや、よく話して下さいました。ではこれからは歌代さんと呼ばして下さい。それであなたは古泉堂のことをどうして御承知なのですか」
「それは小針の家で、大平さんが電話をかけに出かけなさった留守中、ふとあたりを見ますと、机の上に和本の古いのが二三冊置かれてありましたので、何気なくそれを手に取って開いて見ますと、中に、紅い短冊形の紙がはさまれ、それに、『古書売買、古泉堂』と書かれてありました。それが、はっきり私の頭にきざみつけられたので御座います」
「それは何という書物でしたか」
「題は忘れましたが、人情本らしい体裁で御座いました」
「不思議ですねえ、こんどの事件は古泉堂の古書とだいぶ因縁を持って居ますねえ。それにしても、どうして古泉堂の古書がそこにあったのでしょうか」
こういって、康雄は考えはじめた。が、それは容易に解決出来る問題ではなかった。
と、その時、留置場の扉があいて、はいって来たのは丑村刑事であった。二人は立ち上って刑事をむかえて挨拶をかわした。
「今、署長にきいたら、あなたは何か発見されたということですねえ」
「一寸した手がかりです」
「それは何ですか」
「では、署長さんの前でお話し致しましょう。それに今、歌代さん、いや、この女の方から御名前や何かを承りましたから、序にそれもお話し申しましょう」
二人は歌代をあとに残して署長の前に来た。
康雄は言った。
「実は一昨夜殺害の行われた時分、大平家をたずねた者のあることがわかったのです」
「それは誰ですか」と、署長と丑村刑事は殆んど同時にたずねた。
「それが全く思いがけない人なのです。私があの、『好色破邪顕正』を買った、古泉堂の主人です」
これをきくなり、刑事は大きく眼をむいて叫んだ。
「や、それは真実ですか、そりゃ大変だ!」
「何が大変かね」と署長。
「その古泉堂の主人は昨夜家を閉めて、どこかへ行ってしまいました‼」
「それでは逃げたんだな?」
と、署長は、畳みこんでたずねた。
「実はこうなんです」と、丑村刑事は興奮して語りつづけた。「今朝早く、私は大平家をたずねて、老婆よねに逢って、この頃中、主人をたずねて来た人をよく思い出してくれと言いましたところ、よねは暫らく考えて居りましたが、四五日前の夜古泉堂という古本屋がたずねて来たと申しました。昨日の朝戸針さんの御買いになった書物についてたずねに行ったとき、どうも少し様子が変だったことを思い出して、とりあえず古泉堂へ行きますと、驚いたことに、戸がしまって居りました。附近の人にきいて見ますと、これまでこうして戸を閉てて古本を仕入れに出かけるのは折々のことで、最近は娘さんが帰って居て、こういうことはなかったが、娘さんがまた何処かへ行ったので、古本仕入れの為に戸をたてて出かけたのだろうと教えてくれました。少し怪しいとは思いましたけれども、家宅捜索の許可は得て行きませぬでしたから、そのまま私は大平さんの勤めて居た会社へ行って色々たずねましたが、これという手がかりは得ませぬでした。今、戸針さんの御話で、一昨夜古泉堂の老人が大平家をたずねたとすると、ことによると逃亡したのかも知れません。それはそうと、戸針さんは一たいどうしてそれを聞き出されたのですか」
そこで康雄は一伍一什を話した。もとよりお豊に約束したとおり、レンズを自分自身が拾ったことにし、隣家をたずねて、附添婦から事情をきいたと告げた。そうしてそれから、いま留置場で歌代からきいたことを残らず語った。
「探偵として、実に珍らしい腕前です」と、署長は賞めて言った。「それでは兎にも角にも、古泉堂老人の行方を捜さねばならぬ。が一たい何処へ行ったのだろう」
こう言って署長は腕を組んだ。
「私は先ず古泉堂へ行って家宅を捜索して来ようと思います。許可証を渡して下さい」
丑村刑事がこう言って署長に願うと、署長は立ち上って奥へ行った。
「それでは私も私の心当りを捜して来ます」
こう言った康雄の声が如何にも自信に満ちて居るようだったので刑事は、
「えっ? お心当りがあるのですか」
「もとよりはっきりしたことはわかりませんから、兎も角盲目滅法に出かけて見ようと思います」
が、その声には、確信がありそうであった。けれども、それ以上、刑事は追求しなかった。
それから三時間の後、丑村刑事は失望の色を浮べて帰って来た。そうして署長に報告した。
「家宅捜索をしましても、別に逃亡したような様子は見られませんでした。やっぱり一時的に留守にしたとしか考えられません。平素隣りの人たちとあまり交際して居ないので、老人の行って居そうなところは誰も知りません。そのほか大平さんと関係のありそうなものは何も見つかりませんでした」
話して居るところへ、わが素人探偵戸針康雄が帰って来た。彼の顔には、いわば勝利の色が漲って居た。
「どうでした?」と、丑村刑事が言った。
「わかりましたよ」康雄の声は朗らかであった。
「え? 老人の行方がわかったのですか」
「今私は、老人に逢って来ました」
「老人を連れて来ましたか」
「そのまま別れて来ました」
「そりゃ大変だ。逃げられてしまう。老人は何処に居ますか」
「大丈夫逃げは致しません。これから私は紺野老人の居るところへ、あなたと署長さんを案内したいと思います」
自動車が用意されて、三人は乗った。そうして十分たたぬうちに目的地に着いた。それは小針の十番地、即ち歌代が一昨晩、大平氏に最初に連れられて来た家であった。あたりは森閑として、植込には、西に傾いた日が、さびしく照って、四月とはいえ、先日来の気狂い気候で霜枯れのような寂しい感じが漂って居た。
康雄が先に立って中へはいると、紺野老人が悄然として出迎えた。老人は新らしい眼鏡をかけて居たが、その顔には悲しい表情が刻まれて居た。老人は恐縮しながら三人を一間に導いた。
康雄は語りはじめた。
「委しいことは一切私から申し上げます。最初私が大平家の庭で紺野老人のレンズを発見したときは老人を真犯人でないかと疑いましたが、留置場で歌代さんから事情を聞くに及んで、その疑は漸次崩されて行きました。歌代さんからこの家の様子をきいたとき、大平さんの知った人が、最近まで住んで居たにちがいないと思いました。それから大平さんが歌代さんを自宅へ連れて行って手ごめに為ようとしたときいて、私は、大平氏殺害の動機をその情事関係に求むべきであると思いました。犯人はきっと女にちがいない。ヒステリカルな嫉妬深い女にちがいない。その女が大平氏にそむかれて大平氏を殺害したにちがいない。こう考えた時、私はこの家に、大平氏の愛を受けた女が住んで居たにちがいないと推定しました。然らばそれは誰であろう。と考えたとき、私の胸にはたと思いあたったことがありました。この家に古泉堂の人情本のあったこと、殺害の夜、紺野さんが大平家をたずねたこと、それから、一昨夜私が古泉堂をたずねたときに、老人には一人の娘さんがあって、老人は、最近余所から離縁になって帰って来たと語ったこと、私が見たその娘さんはたしかにヒステリカルであったことを思い出したのです。私はその時、あの娘さんが大平氏によってこの家に囲われて居たのだろうと想像しました。そうして最近事情があって別れることになり、それに嫉妬を感じて恐ろしき事件を引き起したのだろうと思いました。
その晩、娘さんは大平氏宅の屋敷の押入れの中にしのびこんで大平氏の帰宅を待って居る。そこへ大平氏が歌代さんを連れて来て、暴行を加えようとする。そこで押入から飛び出して、大平氏の背後に短刀を刺す。そうして一旦、室の隅なり又は庭の隅なりへ姿をかくす。こうしたことが行われたことと私は推定したのであります。そうして、それが、果して、真実であることを知りました」
こう語って康雄は一息ついた。紺野老人は先刻から、神妙にかしこまって、康雄の言葉を肯定するかのようであった。
「それでは、一刻も早くその娘さんを……」
丑村刑事がこう言い出した時、康雄は立ち上って無言のまま隣室との堺にある襖を静かに開いた。
おお! 其処には一人の女が、否、女の死体が敷布団の上にさみしく横わって居た。
「これが私の娘で御座います」と紺野老人は言った。平素他人に向って、ぶっきら棒な挨拶をする老人も、今は丁寧な口調であった。「実はあそこの梁に紐をかけて縊死を遂げて居りましたが、あまりに見にくいので、そのままお届けも致さないで、下して寝かせました。お恥かしい話で御座いますが、娘は大平さんの寵愛を受けて、世間には秘密にこの家に御厄介になって居りました。ところが、先日どうした訳か帰されて来ました。その理由をきいても娘は一こう話しもせず、非常に悲しむと同時に大へん大平さんを恨んで居りました。そのためぶらぶら病を引き起し、寝たり起きたり致して居りましたので、私も気になりますから、この間の晩大平さんの御宅をたずねて理由をきいて見ますと、ある女と正式に結婚することになったからというような御話で御座いました。
一昨夜、戸針さんがおいで下さった時、娘は風呂へ行くと云って出て行きました。ところが一時間過ぎても帰って来ません。そこで私は心配になって風呂屋に行ってきいて見ますと、娘は来なかったとの事、さては変な気でも起しはしないかと、この家をたずねて来ますと、誰も居る様子がありません。彼此するうち十二時近くになりましたが、若しやと思って大平さんの御宅の前まで行くと、入口があいて居るのが見えました。これはおかしいと思って、裏口から座敷へしのび込みますと、大平さんは殺されて見えました。あまりのことにびっくりして逃げ出しましたが、その拍子に眼鏡の玉が落ちたことに気づき、手がかりになっては悪いと思って、さがしましても気が慌てて居るので、遂に見つけることが出来ず家にかえりました。
ところが娘はまだ帰って居りませんでした。私は大平さんを娘が殺したことと思いこみ、もう外出する勇気もなく一夜をあかすと、この御方(丑村刑事)が見えましたので、一時はびっくりしましたが、それは意外にも『好色破邪顕正』に関する御たずねで御座いました。
夜になるのを待ちかねて、虫が知らせたとでもいうのか、どうも娘がこの家に居るような気がしましたので、ひそかにたずねて来ますと、もはや、娘は死んだあとで御座いました。とりあえず死骸を下へおろして御通夜をしましたが、今日になっても、どうしてよいか途方に暮れて居りますと、先程戸針さんがたずねて御いでになったので御座います。ここに娘の書置が御座いますからどうか御覧なすって下さいませ。書いてあることは、ただ今、戸針さんが仰しゃったとおりの事情で御座います」
署長は沈黙のままその遺書を受取ったが、別にそれを読もうとせず、静かに死人のさびしい顔に眼を移すのであった。
幾日かの後、文学士戸針康雄の御器所の住宅は、新たに一人の同棲者を得た。それは言うまでもなく篠田歌代であった。
底本:「怪奇探偵小説名作選1 小酒井不木集 恋愛曲線」ちくま文庫、筑摩書房
2002(平成14)年2月6日第1刷発行
初出:「現代」
1928(昭和3)年6~8月
入力:川山隆
校正:宮城高志
2010年5月20日作成
2011年2月23日修正
青空文庫作成ファイル:
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