蟹満寺縁起
岡本綺堂
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登場人物
漆間の翁
嫗
娘
里の青年 (坂東三吉)
蟹
蛇
蛙
里のわらべなど
(一)
時代は昔、時候は夏、場所は山城国。久世郡のさびしき村里。舞台の後方はすべて蓮池にて、花もひらき、葉も重なれり。池のほとりには柳の立木あり。
(男女の童三は唄い連れていず。)
唄〽蛙釣ろうか、蟹釣ろか、蓮をかぶった蛙を釣ろか、はさみを持った蟹釣ろか。
(三人は池にむかって手をたたきながら、一と調子はりあげて又唄う。)
唄〽蛙釣ろか、蟹釣ろか。水にとび込む蛙を釣ろか、穴にかくれた蟹釣ろか。
(わらべ等は唄い終りて、更にはじめの唄をくり返しつつあゆみ去る。水の音しずかにきこゆ。蓮の葉をかき分けて、小さき蛙は頭に大いなる蓮の葉をかぶりておどりいず。)
蛙 ええ、さうぞうしい餓鬼共だ。子供というものはなぜああ騒ぎたいのだろう。いや、そう云えば俺だって子供だ。陰ってあたたかい静かな晩などは、なにか一つ唄ってみたいような気がして、精一ぱいの大きな声を出して、あたり構わずにぎゃあぎゃあ呶鳴ることもあるから、あんまり人間の悪口も云えまいよ。いたずらっ児ももう行ってしまったようだ。おれも一番陽気に唄ってやろうか。
(蛙はあたりを見まわして、唄いながら踊る。)
蛙 人を釣ろうか、こどもを釣ろか。死んだ振して子供を釣ろか。……ああ、面白い、面白い。
(蛙は蓮の葉を地にしきて坐す。柳のかげより大いなる赤き蟹いず。蟹は武装して、鋏のごとき刃をつけたる長刀を携えたり。)
蛙 やあ、蟹の叔父さんだね。
蟹 人間の子供もそうぞうしいが、おまえも随分そうぞうしいな。あけても暮れても騒いでいる。蛙の子は蛙とはよく云ったものだ。おれ達を見習ってちっと黙っていろ。
蛙 蟹の叔父さんのように黙っていると、おらあ病気になってしまうよ。こうして時々に陸へあがって来て、唄ったり踊ったりするのが何よりの楽しみなんだ。
蟹 陸には怖いものがいるのを知らないか。
蛙 人間の子供なんか、怖いものか。あいつ等がつかまえに来れば、おらあすぐに水に飛び込んでしまうから大丈夫だ。
蟹 おまえ達には人間よりももっと怖いものがいるぞ。
蛙 なんだろう。(考える。)むむ。蛇か。
蟹 その蛇だ。蛇は人間よりも足がはやい。木のかげや草のあいだに隠れていて、お前たちの姿を見付けると、不意にするすると駈けて来て、あたまから一と呑みに呑んでしまうぞ。蛇はおまえ達に取っては何よりもおそろしい敵だ。蛇にみこまれたが最後、とても逃がれることは出来ないのだから、そのつもりで用心しろ。
蛙 蛇はそんなに強いかねえ。
蟹 おまえ達よりも確かに強い。
蛙 じゃあ、叔父さんだってかなわないだろう。
蟹 いや、おれはこの通り頑丈な甲で身をかためている。おまけにこういう鋭い武器をもっているから、蛇の方で却って怖がるくらいだ。
蛙 なるほど叔父さんは強そうだね。おらあこの通り小さいから弱いのだ。
蟹 それだから早く大きくなれ。大きくなって強いものになれ。お前だって強くなれば、小さな蛇ぐらいはあべこべに呑んでしまうことができるのだ。おれも昔は弱いものであった。敵を見るとすぐ逃げて隠れたものだけれども、今はこんなに大きい強い者になったから、大抵の敵が来たって驚きはしない。こっちから向って行って、鋏でチョン切ってしまうのだ。俺ばかりではない。どこの世界でも強いものが勝つのだ。
蛙 じゃあ、叔父さん、強い叔父さん。もしもここへ蛇が来たら、おまえ後生だから助けてくれないか。
蟹 よし、よし、俺がきっと救ってやるから、安心して遊んでいろ。おれはあの木のかげへ行って、甲羅をほしながら午睡をしているから、なにか怖い者が来たら、すぐに俺をよべ。いいか。
蛙 おまえが加勢してくれれば安心だ。じゃあ、頼むよ。
蟹 よし、よし。
(蟹は再び柳のかげに入る。)
蛙 さあ、蟹の叔父さんが味方をしてくれるから大丈夫だ。もう少しここらで遊んでいようか。や、向うから誰か来るようだぞ。蛇やいたずらっ児とは違って美しい娘だ。俺をひどい目に逢わすようなこともあるまい。平気で唄でも唄っていろ。いや、そうでない。人は見かけに寄らぬものだ。まあ、一旦は隠れてた方が無事かも知れない。
(蛙は池にとび込みて、蓮の葉のかげにかくれる。漆間の翁の娘、衣を洗わんとていず。)
娘 きょうもどうやら陰って来た。降らないうちにこの着物を洗って置こうか。(池をのぞく。)おお、池の水も澄んでいる。
(娘は池のほとりに立寄りて衣を洗う。蛙の声きこゆ。)
娘 おお、蛙が面白そうに唄っている。わたしも負けない気になって唄おうか。いや、いや、どこにどんな人がいまいものでも無い。人に聞かれたら恥かしい。まあ、まあ、黙って洗いましょう。
(蛙はしきりに鳴く。娘は衣を洗いおわる。)
娘 まあ、これでよし。そこの枝にかけて乾して置きましょう。
(娘は柳の樹に衣をかけて去る。蓮の葉をかき分けて、蛙は再びいず。)
蛙 あの娘も遠慮せずに何か唄えばいいのに……。おれ達のは唄うと云っても、唯むやみに呶鳴るのだが、ああいう美しい娘の喉からは、さだめて鈴のような可愛らしい声が出るだろう。どうかして一遍聞きたいものだ。時に蟹の叔父さんはどうしたろうな。相変らず口から泡をふいて高いびきで寝ているのだろうな。(柳の蔭をのぞく。)なるほど、強いものは違ったものだ。こんなところでいい心持そうに寝ているな。一体、きょうは風も吹かず、日も照らず、なんだか薄ら眠いような日和だ。おれもさっきから唄いくたびれたから、ここらで一と寝入りやらかすかな。これを頭にかぶっていれば、誰もちょいと気がつくまいよ。
(蛙は蓮の葉をかぶりて寝る。蛇いず。頭には蛇をいただきて、身には鱗の模様ある衣を被たり。)
蛇 このごろは蛙もなかなか利口になって、遠くからおれの姿を見ると、すぐに水へ飛び込んでしまうから、容易にこっちの口へ入るようなことがない。なんでも油断しているところを不意に飛び付いて、一と息に呑んでしまわなければいけないのだ。(云いつつかの蓮の葉に眼をつける。)や、あの蓮の葉がおかしいぞ。どれ、どれ。
(蛇は進んで蓮の葉のそばへ行き、足にて軽くうごかせば、蛙は葉のあいだより顔を出し、蛇を見るよりはっと縮まる。)
蛇 案の定、こんなところに隠れていた。さあ、もう逃がしはしないぞ。おとなしくしていろ。
(蛙は葉をかぶりしまま逃げんとす。)
蛇 ええ、逃げても駄目だぞ。おれにみこまれたらもう一と足でも動けるものか、はははははは。
(蛙は小さくなりてうずくまる。蛇はしずかにねらい寄る。蛙は這いながら逃げまわる。以前の娘又もや衣をかかえていず。)
娘 どうしても明日は雨らしい。降らないうちにもう一枚洗って置こう。(云いつつ歩み来たりしが、このていを見るより走り寄る。)まあ、待ってください。可哀そうにこんな小さな蛙をどうするのです。
蛇 どうするといって、強いものに出逢った弱い者の運命は大抵きまっているのだ。
娘 でも、あんまり可哀そうで……。まあ、御らんなさい。あんなに小さくなってふるえていますよ。
蛇 今にふるえることも出来なくなるのだろう。
娘 後生ですからその蛙を堪忍してやってくださいな。今わたしがあの着物を洗っていたときに、面白そうに唄っていたのはきっとあの蛙でしたよ。
蛇 そうかも知れない。誰でも運命の手に掴まれるまでは、なんにも知らずにいるものだ。
娘 なんにも知らずにいる者を殺すのはあんまり可哀そうでしょう。無慈悲でしょう。
蛇 可哀そうでも仕方がない。今もいう通り、弱いものは強い者に呑まれるのだ。おれが決めたのではない、神様がそう決めたのだ。
娘 でも、あんまりむごいことを……。
(蛙は救いを求むるがごとくに、娘の袖のかげに隠れる。)
娘 後生だからこの蛙を助けてやって下さいな。わたしが頼みますから……。
蛇 おまえが頼むか。
娘 この通り、拝みますから。
蛇 よし、ゆるしてやろう。
娘 ほんとうですか。まあ、嬉しい。(蛙にむかいて。)さあ、お前、早くお逃げよ。これにこりて、もううっかりと陸へ上がるんじゃないよ。
(蛙は喜びて早々に池へ逃げ去る。)
娘 御覧なさい。あの通り喜んで逃げて行きましたよ。ああ、わたしはほんとうによい功徳をしました。
蛇 お前はほんとうに善いことをした。
娘 こんな嬉しいことはありません。
蛇 それでおれはお前のたのみをきいた。その代りにお前もおれの頼みをきくだろうな。
娘 お前の頼みというのは……。
蛇 おまえの婿になりたい。
娘 え。
蛇 おまえのような美しい女の婿になりたいのだ。
娘 でも、親達が承知しないでは……。
蛇 親達などはどうでもよい。おれはお前と約束したのだ。
(娘は恐れて黙す。)
蛇 おまえの家はちゃんと知っている。今夜、酉の刻の鐘が鳴るのを合図に、おれはお前のところへ婿入りするのだ。いいか、忘れるなよ。
(云い捨てて蛇はしずかに歩み去る。娘はしばらく茫然としている。)
娘 さあ、大変なことになってしまった。あの蛇がわたしのところへ婿に来る……。まあ、どうしたらよかろう。蛇は執念が深いというから、一旦みこまれたが最後、どこまでもわたしに附きまとって来るに相違ない。あの蛇が……。あのおそろしい、いやらしい蛇がわたしのところへ婿に来る……。ええ、かんがえてもぞっとする。わたしがもっと強ければ、蛇なんか幾匹押し掛けてたって、門口から追い払ってしまうのだけれども、わたしは女だ……弱い女だ。おとっさんやおっかさんも年をとっている。わたしの家には強いものは一人もないのだ。こうと知ったらあの蛙を救ってやるのではなかったものを……。ああ、わたしは飛んだことをして、飛んだものにみこまれてしまった。
(雨少しくふりいず。娘は空をあおぐ。)
娘 いつの間にか雨が降って来た。(柳にかけたる衣をはずす。)今夜はきっと雨が降って、暗いものすごい晩に相違ない。おそろしい蛇が……執念ぶかい蛇が……どんな姿をして来るだろう。(身をふるわせる。)ああ、どうしたらよかろう。ここで泣いていても仕様がない。ともかくも早く家へ帰って、おとっさんやおっかさんと相談するよりほかはあるまい。早くそうしましょう。
(娘は二つの衣をかかえ、しおしおとあゆみ去る。柳のかげより蟹いず。)
蟹 いい心持で午睡をしている枕もとで、泣いたり笑ったり、がやがや騒ぐので、すっかり眼がさめてしまった。あの蛙め、早くおれを呼び起せばいいのに、蛇にみこまれてふるえ上がって、もう声も出なくなったのだろう。ほんとうに弱い奴だ。(あざわらう。)しかし又、あの娘さんもあんまり無考えだな。いくら蛙が可哀そうだといって、自分も弱い女の癖に、うっかり差し出るからこんなことになるのだ。
(蛙の声きこゆ。)
蟹 蛙の奴め。自分の代りにあの美しい娘を人身御供にして置きながら、平気で面白そうに唄っているが、娘の家では今ごろ大騒ぎをしているだろう。可哀そうなものだな。
(二)
おなじ里、漆間の翁の宿。舞台にあらわれたる家の中はすべて土間にて、奥の間には古き簾を垂れたり。上のかたに大いなる土竈ありて、消えかかりたる藁の火とろとろと燃ゆ。土間には坐るべき荒むしろと、腰をかくべき切株などあり。ほかに鋤鍬の農具あり。打ちかけたる藁屑など散乱す。下のかたには丸太を柱ととしたる竹門あり。門の外には大樹あり。樹の間がくれにかの蓮池遠くみゆ。
(白髪の翁と嫗は竈のまえに語る。)
嫗 どうも困ったことが出来したが、お前さんはまあどうするつもりだね。
翁 どうするといって、これも因果とあきらめるよりほかはあるまい。
嫗 あきらめられるお前さんはしあわせだ。わたしにはどうしてもあきらめられない、十七のとしまで大事に育てた、かけがえの無いひとり娘を、おそろしい蛇の人身御供にするのを黙ってあきらめていられるお前さんは、ほんとうに羨ましい。
翁 ええ、もう泣いてくれるな。おれだって人間だものを……。可愛い娘が蛇にみこまれたと思えば、おそろしいやら悲しいやらで、涙が胸一杯にせき上げて来るのを、歯をくいしばってじっと我慢しているのだ。そばでお前に泣かれると、俺ももう我慢ができなくなる。まあ、仕方がない。あきらめろよ。
嫗 どう考え直しても、わたしには我慢もあきらめも付かない。まあ、なんたる情けないことだろう。あんな美しい可愛い娘を……。
翁 もう、もう、止してくれ。後生だから……。無い昔とあきらめてくれ。
嫗 いっそ無い昔なら苦労もなかったろうが、夫婦が四十を越すまで子というものが無いのをかなしんで、弁天様に三七日の願をかけたら、その奇特であんな美しい娘が生まれた。やれ、嬉しやと手塩にかけて生長させ、近いうちに相当の婿を取って、わたし達もまず安心しようと楽しんでいると……。
翁 とんでもない婿が出来た。(つぶやく。)
嫗 ほんとうに、飛んでもない災難が降ってわいて、大事の娘を蛇に取られる。かんがえてもぞっとして身の毛がよだつような。もし、なんとかして娘を助ける工夫は……。ああ、わたしはもう気ちがいになりそうになって来た。
(夫のそばにすり寄る。翁はじっと頭を垂れている。)
翁 まあ、騒いでくれるな。きちがいになるなら、おれの方が先になる筈だ。弁天様にお願い申して出来た子だから、蛇にとり返されるのも自然の約束だろうよ。蛇は弁天様の使わしめだ。
嫗 そう云いながら、お前さんだって泣いているじゃあないか。
翁 さっきから泣くまいと一生懸命にこらえているのに、おまえがそばからいろいろな愚痴を云うので、おれも我慢が出来なくなって来たのだ。
嫗 やせ我慢をしないで、泣きたいだけ泣いた方がいい。子を取られて泣く親のなみだが、神様のお目にとまって、思いもよらぬ御救いがないとも限らないから……。
翁 なんの、神様も仏様もあったものじゃあない。あてにもならないことをあてにしているうちに、時は猶予なくたってゆく。酉の刻にはもう半晌もあるまいよ。
(翁はうつむきて嘆息す。嫗も泣く。奥の簾をかかげて娘いず。)
娘 おふたりともにもう泣いてくださるな。わたしは覚悟をきめています。
嫗 おお、娘……。(走り寄って娘を抱く。)おまえの覚悟は決まっても、わたし達の覚悟は容易にきまるものじゃあない。どうしても怖ろしい婿は来るかねえ。
娘 酉の刻の鐘を合図に、きっと来ると云いました。
翁 その鐘もやがて鳴るであろう。
嫗 お前は一体なぜそんな約束をしたのだ。蛇が蛙を呑むのはあたりまえのことだから、構わずに打っちゃっておけばいいのに……。
娘 あんまり可哀そうでしたから、つい助けてやる気になったのですが、今更思えばそれが悪かったのです。わたしもやっぱり蛙と同じように、弱い者であったのでした。
翁 おれも蛇よりは弱いのだ。
嫗 ここの家には蛇より強いものはひとりも居ないのだ。
娘 弱いものを救うには自分が強い者でなければならないということを、今初めてさとりました。自分をまもってゆくほどの力も無い者が、ひとを救おうとしたのはあやまりでした。もう仕方がありません。わたしは覚悟して時刻の来るのを待っていましょう。
嫗 待っていてそれからどうなるだろう。かんがえても怖ろしいことだ。
翁 むかしの稲田姫は八股の大蛇に取られるところを、素盞嗚尊に救われたが、ここにはそんな強い男もあるまいよ。
嫗 それでもこのままに娘は渡されまい。約束の時刻になったなら、蛇がどこからもはいって来られないように、四方の戸をしっかりと閉め切って、夜の明けるまで張番をして居ようかと思うが……。
翁 でも、あしたの晩もまた来るだろう。
嫗 あしたも明後日も、三日も五日も十日も、一と月も二た月も、毎晩強情に防いでいたら、いくら執念深い蛇でもあきらめて、しまいには来なくなるかも知れない。
翁 おまえがあきらめられぬと同じことで、むこうも容易にはあきらめまい。根くらべならやっぱり強い者の方が勝つわ。
(三人は顔を見あわせて嘆息す。里の青年一人、太刀をはき、弓矢をたずさえていず。)
青年 もし、もし。
翁 や、もう来たのか。
(嫗はあわてて娘を我がうしろに隠す。翁はうろうろする中に、青年は進み入りて顔を見合わせる。)
翁 おお、お前さんか。まあ、よかった。
青年 どうも飛んだことが出来したそうですね。
嫗 では、もう知っていなさるのか。
青年 さっき娘御から聞きました。しかし御安心なさるがよろしい。その蛇が来たら私が退治してみせます。
翁 お前さんが退治してくれるか。
嫗 ほんとうに蛇を退治してくださるか。
青年 わたしが素盞嗚尊になりましょう。私にはこの弓と矢があります。
翁 おまえさんは弓が上手かね。
青年 空を飛ぶ鳥でもかならず射落します。蛇が今夜ここへ襲って来たら、まず一の矢でそのひかった眼を射透してみせます。二の矢でその咽喉を射ぬいて見せます。大丈夫だから御安心下さい。
嫗 ありがとうございます。お前さんがその弓と矢で、おそろしい蛇を退治してくだされば、娘も助かります。わたし達夫婦も助かります。娘、もう大丈夫だよ。おまえはきっと助かるから……。
娘 助かるでしょうか。
嫗 この人は強いのだよ。
娘 強いでしょうか。
青年 わたしは自分でも強いものだと信じています。
翁 お前さんはほんとうに強そうだ。やれ、やれ、これでようよう安心した。
嫗 わたしもようよう落付いた。
娘 安心ができましょうか。
翁 そんな心細いことを云うものではない。なんでも気を強くもっていろよ。
(雨の音薄くきこゆ。人々は表を窺う。)
青年 おお、雨がまた降って来た。
翁 もう日が暮れるなあ。
青年 今のうちに弓の弦でも張って置こうか。
(青年は弓の弦を張る。翁は立寄って見る。)
翁 なるほど、太い弦だ。これを強く張って矢を放したら、鉄の鎧でも射透すだろう。
嫗 いくら大きな蛇でも急所を射られてはたまるまい。
(青年はほほえみながら弦打二三度して、弓をかたえの壁に立て、更に太刀をぬきてすかし視る。)
青年 この剣で蛇の頭を切るのです。
翁 おお、なるほど。これもよく切れそうな刀だ。
青年 この通りにとぎ澄ましてあります。
嫗 憎い蛇めをずたずたに切ってやりたいものだ。
(青年は太刀を鞘に収める。雨の音いよいよ烈し。)
翁 雨がだんだんに強くなって来たぞ。
嫗 内も外も暗くなって来た。
娘 風も少し吹き出したとみえて、草や木がざわざわ鳴っています。
青年 怪しい物の出そうな晩ですな。
(人々は顔を見あわせて、ようやく不安の念に襲わる。)
娘 もうやがて鐘がきこえるでしょう。
翁 むむ。
(人々は息をのんで待つ。やがて酉の刻の鐘きこゆ。)
嫗 おお、鐘が鳴った。
青年 鐘が鳴りました。
(鐘の音つづいてきこゆ。娘は思わず母にすがる。嫗は娘を抱きよせて、あたりに眼を配る。翁は入口の門をしかとしめて錠をおろす。)
翁 こうして置けば大丈夫だ。いや、まだ裏口が不安心だ。
(翁はあわてて奥へ走り入る。)
嫗 (声を低める。)蛇はいよいよ来るでしょうか。
青年 来るでしょう。しかし御安心なさい。
嫗 大丈夫でしょうか。
青年 大丈夫です。
(翁は再び奥よりいず。)
翁 もう何処もかしこもすっかり閉めて来たから、大丈夫だ。家には鼠が潜り込むほどの隙間もないぞ。
(雨風の音きこゆ。娘は物におそわれたように叫ぶ。)
娘 あれ、あれ、門に……。
嫗 (怖るおそる門をのぞく。)いや、外は真闇で、雨が降っているばかりだ。誰も来やあしない。
娘 でも、なんだか跫音が……。
嫗 しっかりおしよ。怖くはないよ。
青年 わたしがここにいます。
(しばしの沈黙。やがて一種の音して、青年の張りたる弓の弦は自然に切れる。人々おどろく。)
青年 や、弓の弦が切れた。
翁 あんなに太い弦が自然に切れた。
(人々は顔をみあわせてしばらく黙す。)
青年 どうも不思議なことがあるものだ。(考える。)弓が役に立たなければ、これで防ぎます。
娘 (又もや叫ぶ。)あれ、あれ。
嫗 なんにも来やあしないよ。
青年 わたしはこの剣を持っています。どんな魔物でも名剣の威徳にはかないません。これをじっと見ておいでなさい。自然に気が鎮まります。
(太刀を娘の前に差付けると、太刀は鍔ぎわより自然に折れる。今度は声を出すものなく、人々はただ黙して眼を見あわせ、いよいよ恐怖の念に襲わる。)
翁 ああ、駄目だ、駄目だ。おまえさんもやっぱり駄目だ。
(青年は残念そうに折れたる太刀をながめて立つ。しばしの沈黙。蛇は衣冠を着け、優美なる姿にて奥よりあらわる。)
翁 ああ、婿が来た。
嫗 え。(いよいよ娘を抱きしめる。)
蛇 約束の通り、婿に来たぞ。祝言の用意は出来ているか。
(人々答えず。)
蛇 酒の用意はあるだろうな。
翁 酒は沢山にたくわえてあるから、飲みたいだけ飲んでください。ほかにも欲しいものがあるならば、なんでも上げます。
蛇 それだから娘を貰いに来たのだ。
翁 その娘だけは……。どうぞ堪忍してくださるまいか。
嫗 ほかのことなら何でもききますから、どうぞこればかりは……。この通り、拝みます。
蛇 お前達はなんにも云わぬがよい。娘はとうに承知しているのだ。
青年 いや、その娘も不承知です。
蛇 お前もだまっていろ。今更故障を云うと、お前たちの為になるまい。これ、よく見ろ。おれの大きい眼はみがいた鏡のようにかがやいている。この眼で一度睨めば大抵のものは縮んでしまうぞ。おれの口には赤い舌が火のように燃えている。この口を一度あけば大抵のものは一と息に呑んでしまうぞ。もう一度よく見ろ。おれのからだには鉄のような鱗が一面に生えている。この鱗をさか立てると大抵の矢も刀もとおすことはできないぞ。おれはこれほどの武器をもっているのだ。それを知らずに防ごうとするのは馬鹿な奴だ。
(青年を見てあざ笑う。青年は太刀の柄をすてて、更に弦の切れたる弓を取りしが、容易にかかり得ず、徒らに睨みいるのみ。)
蛇 さあ、娘。こっちへ来い。
(蛇は袖をあげて差し招けば、娘は母の手を放れてふらふらと歩みゆく。蛇は娘の手を取りて奥に入る。翁と嫗とは茫然としてそのあとを見送る。)
青年 残念だが仕方がない。私にはひとを救うほどの力がないのか。
(青年は持ったる弓をなげ捨つ。やがて奥にて凄まじき物音きこゆ。)
翁 や、あの物音は……。
嫗 娘が長い蛇に巻かれて苦しんでいるのではあるまいか。
翁 どうかして助ける工夫は無いかなあ。
(翁と嫗とはうろうろして奥を窺ううちに、奥より蛇は髪をふり乱して走りいず。蟹は赤き甲をつけ、かの長刀を持ちて追い出ず。)
蟹 卑怯者め。逃げるな。
(蟹は長刀を揮ってかかる。蛇は口より火をふきて奮闘。遂に蟹のために切倒さる。)
翁 さすがの蛇も蟹にはかなわないと見えて、長い鋏でずたずたに切られてしまった。やれ、やれ、ありがたい。これでまず安心した。
嫗 それにしても娘はどうしたろう。
(娘は奥よりいず。)
嫗 おお、娘。無事でいてくれたか。
翁 おお、娘……。(走り寄って娘を抱く。)
娘 おっかさん。
嫗 助かったか。
娘 助かりました。おそろしい蛇にまき付かれて、どうなることかと思っていましたら、この強い蟹がどこからかはいって来て、長い鋏で蛇を追いはらってくれました。
蟹 追い払ったばかりでない。二度とわざわいをなさないように、この通り亡ぼしてしまった。
青年 なるほど、お前は強いな。
蟹 おれは強い。強ければこそ弱いものを救ったのだ。弱い者が弱いものを救おうとするのは、泳ぎを知らぬ者が水に溺れたものを救おうとするようなもので、両方ともに沈んでしまうばかりだ。弱いものを救いたければ、自分がまず強いものになれ。おれのような強い者になって、弱いものを救うのが自然の順序だ。弱い奴等ばかりが蛆虫のようにあつまって、口のさきで慈悲の情けのと騒いでいるばかりでは、いつまでたっても際限があるまい。所詮は強い者の世の中だ。みんなも精出して強くなれ。世間に強いものが多くなれば、弱いものは自然に救われるのだ。
青年 判った、わかった。わたしもこれから強くなろう。年寄りや女子供を救うのは若い者の務めだ。
蟹 弱い奴の千人よりも、強い奴の方が頼もしいのだ。しっかり頼むぞ。
青年 よし。私はおまえの見る前で、神に誓おう。
(青年は投げ捨てたる弓を取り、ひざまずきて額にいただく。)
娘 わたしは命を助けられた恩がえしに、蟹のすがたを絵にかかせて、末代までも残るように、近所のお寺へ納めましょう。
翁 おお、いいところへ気がついた。蟹に救われた人間があるということを世間の人に知らせるために、蟹の姿を絵にかかせて、お寺に納めて置くがよかろう。
嫗 やがてそれがお寺の名になって、山城国に古蹟が一つ殖えるかも知れない。
蟹 そんなことはどうでもいい。用が済んだらおれは帰るぞ。
(蟹は長刀をたずさえて悠々と奥に入る。翁と嫗と娘はそのうしろ姿を拝む。青年は腕をくみて考える。)
底本:「伝奇ノ匣2 岡本綺堂妖術伝奇集」学研M文庫、学習研究社
2002(平成14)年3月29日初版発行
初出:「大正演芸」
1913(大正2)年2月号
入力:川山隆
校正:門田裕志
2008年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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