明治時代の湯屋
岡本綺堂
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明治時代の湯屋について少しく調べたいことがあったので旧い雑記帳を引っくり返したり、旧い記憶を呼び起したりした。その時代の銭湯と今日のいわゆる浴場とは多少の相違があるので、何かの参考までにその一部をここに抄録することにした。勿論、一口に明治といっても、その年代によって又相当の変遷が見出されるのであるが、ここにいう「明治時代」は二十七八年頃から三十七八年、即ち日清戦争の頃から日露戦争の頃に至る十年間ぐらいを中心にして、その前後を語るものと思って貰いたい。
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日清戦争の頃から湯屋を風呂屋という人がだんだんに殖えて来たのを見ても、東京の湯屋の変遷が窺い知られる。もちろん遠い昔には丹前風呂などの名があって、江戸でも風呂屋と呼んでいたらしいが、風呂屋の名はいつか廃れて、わずかに三馬の「浮世風呂」にその名残りを留めているに過ぎず、江戸の人は一般に湯屋とか銭湯と呼び慣わしていた。それが東京に伝わって、東京の人もやはり湯屋とか銭湯とか呼ぶを普通とし、たまに風呂屋などという人があれば、田舎者として笑われたのであるが、この頃は風呂屋という人がなかなか多くなった。やがては髪結床を床屋、湯屋を風呂屋と呼ぶのが普通になるであろうと云っていると、果してその通りになった。
東京の湯屋は白湯を主としていたのであるが、明治二十年頃から温泉、鉱泉、薬湯、蒸風呂などの種類が殖えた。そのほかに江戸以来の干葉湯というのもあった。大体の構造は今も昔も変らないが、浴槽も流し場もすべて木造で、人造石やタイル張りのたぐいは殆ど見出されなかった。併し警視庁の命令によって、釜前は石造または煉瓦作りとなったので、出火の憂いは頗る減少した。江戸時代には湯屋から出火した例が甚だ多く、大風の日には臨時休業の札をかけたそうであるが幸いにそんな事はなくなった。
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浴槽は高く作られて、踏み板を越えて這入るのが習で、その前には柘榴口というものが立っているから、浴客は柘榴口をくぐり、更に踏み板を越えて浴槽に入るのである。柘榴口には山水、花鳥、人物など、思い思いの彩色画が描いてあって、子供たちを喜ばせたものであるが、何分にもこの柘榴口が邪魔をするので、浴槽の内は昼でも薄暗く、殊に夜間などは燈光の不十分と湯気との為に、隣の人の顔さえもよくは見え分からず、うっかりと他人の蔭口などを利いていて、案外にもその噂の主がうしろに聴いていたと云うような滑稽を演ずることもあったが、明治二十一二年頃から今日のように浴槽を低く作ることが行われ、最初は温泉風呂などと呼んでいた。この流行は先ず下町から始まって山の手に及び、それに連れて無用の柘榴石も自然に取払われた。
湯銭は八厘から一銭、一銭五厘、二銭と、だんだんに騰貴して、日露戦争頃までは二銭五厘に踏み留まっていたが、場末には矢張り二銭というのもあった。ほかに「留め湯」とか「月留め」とかいう制度があって、毎日かならず入浴する人に対しては割引をする。それも最初は一ヶ月前金十銭ぐらいであったが、湯銭騰貴に伴って、二十銭、二十五銭、三十銭となり、湯銭二銭五厘の当時には五十銭となった。又、朝夕二回入浴する人に限って、朝湯は一ヶ月十銭ぐらいに割引するのが普通であったから、職人などは勿論、入浴好きの人々は朝と夕とに二回の入浴をするのが多かった。
朝湯は大抵午前七時頃から開くのであるが、場所によっては午前五時半か六時頃から始めるのもあった。それを待ちかねて、楊枝をくわえながら湯屋の前にたたずみ、格子の明くのを待っている人もある。男湯に比べると女湯は遅く、午前九時か十時でなければ格子を明けなかった。その朝湯を廃止することになったのは大正八年の十月で、燃料騰貴のために朝から湯を焚いては経済が取れないと、浴場組合一同が申合せて朝湯を廃止したのである。それが此頃は復活して、午前六時頃から開業の湯屋を見受けるようになったが、大体に於ては午後開業に一定してしまった。
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五月の節句(四、五の両日)に菖蒲湯を焚き、夏の土用なかばには桃湯を焚き、十二月の冬至には柚湯を焚くのが江戸以来の習であったが、そのなかで桃湯は早く廃れた。暑中に桃の葉を沸した湯に這入ると、虫に喰われないと云うのであるが、客の方が喜ばないのか、湯屋の方が割に合わないのか明治二十年頃から何時か止められて、日清戦争以後には桃湯の名も忘れられて仕舞った。菖蒲湯又は柚湯の日には、湯屋の番台に白木の三宝を据えてあって、客は湯銭を半紙にひねって三宝の上に置いて這入る。それを呼んで「おひねり」という。即ち菖蒲や柚の費用にあてる為に、規定の湯銭よりは一銭でも二銭でも余分の銭を包むのである。花柳界に近い湯屋などは、この「おひねり」の収入がなかなか多かった。芸妓などは奮発して、五銭も十銭も余分に包むからである。しかも明治の末期になると、花柳界附近は格別、他の場所ではその三宝を無視して、当日にも普通の湯銭しか置かない客がおいおい殖えて来たので、湯屋の方でも自然に菖蒲や柚を倹約し、菖蒲湯も柚湯も型ばかりになった。
「浮世風呂」などにも湯屋の二階のことが書いてあるが、三馬時代の湯屋の二階番は男が多かったらしい。江戸末期から若い女を置くようになって、その遺風は東京に及び、明治の初年には大抵の湯屋に二階があって、男湯の入口から昇降が出来るようになっていた。そこには白粉臭い女が一人又は二人ぐらい控えていて、二階にあがった客は新聞や雑誌をよみ将棋をさし、ラムネを飲み、菓子をくい、麦湯を飲んだりしていたのであるが、風紀取締りの上から面白くない実例が往々発見されるので、明治十八年頃から禁止された。矢場や銘酒屋を許可しながら、湯屋の二階だけを禁止するのは不公平だという議論もあったが、湯屋が本業である以上、副業の二階を禁じられても公然の反対は出来なかったので、湯屋の二階はここに亡び、「湯屋の姐さん」という名称も消滅した。
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毎年十月の候になると、流し場の壁や羽目に「例年の通り留桶新調仕候」というビラが掛けられる。これは三助(東京では普通に番頭という)に背中を洗わせる客に限って使用させる小判形の桶を新調するという意味で、単に新調するというのではなく、その桶を新調するに付、幾分の寄附をしてくれと云うのである。留桶を平生使用している客は、それに対して五十銭、一円、或は二三円を寄附するのが習で、湯屋の方では「金何十銭、何某様」と書いた紙を一々貼り出すことになっているから、客は自分の面目上、忌でも相当の寄附をしなければならない。悪い習慣だと批難する人もあるが、留桶を新調するのは番頭の負担で、湯屋の主人は一切関係しない事になっているのであるから、番頭も寄附金を募らなければ遣切れないという理窟にもなる。花柳界に近い場所や、下町の盛り場にある湯屋では、浴客にみな相応の見栄があるから、こういう時には案外の寄附金が集まって、番頭は留桶新調の実費以外に相当の収入があったという。
留桶新調のほかに、留桶を毎日使用している客は、盆暮の二季に幾らかの祝儀を番頭に遣るのが習であった。そんなわけで、辛抱人の番頭は金を溜めることが出来た。まだ其のほかに貰い湯というものがあった。正月と盆の十六日は番頭の貰い湯と称して、焚物の実費だけを主人に支払い、入浴料はすべて自分の所得となるので、当日は番頭自身が番台に坐りやはり白木の三宝を控えて、例の「おひねり」の湯銭を受取るのであった。この日も浴客は普通以上の湯銭を包んで行き番頭も一々丁寧に礼を云った。
菖蒲湯、ゆず湯、盆と正月の貰い湯、留桶新調、それらのほかに正月の三ヶ日間は番台に例の三宝を置いて、おひねりを受取る。これは湯屋の所得である。こういう風に数えて来ると、なんの彼のと名をつけて、普通の入浴料以外のものを随分徴収されたようであるが、一年三百六十五日の長いあいだに、そのくらいの事は仕方がないと覚悟して、別に苦情をいう者もなかった。今日に比べると、その当時の浴客は番台と親しみが深いようであった。番台には今日と同様、湯屋の亭主か女房か又は娘が坐っていたのであるが、顔なじみの客が来れば何とか挨拶して話しかける、客の方でも何か話しているのが多かった。世の中が閑であったせいもあろうが、そんなわけで双方の親しみが深いので、前にいう菖蒲湯その他のおひねりも快く支払われたのであろう。
夜は格別、昼間は入浴の客も少く、番台にぼんやり坐っているのも退屈であるので、大抵は小説や雑誌などを読んでいる。その読物を貸してくれる客も多かった。貸してくれるばかりでなく、又それを借りて行く客もある。つまりは番台を仲介所にして、小説や雑誌の回覧を行っている形であった。一々に見物するわけでもあるまいが、番台の人たちは芝居の噂などをよく知っていて、今度の歌舞伎座はどうだとか、新富座はどうだとか云って話した。したがって、湯屋や髪結床の評判が芝居や寄席の人気にも相当の影響をあたえたらしく湯屋の脱衣場や流し場には芝居の辻番附や、近所の寄席のビラが貼られていた。
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日清戦争以後の頃から著るしく目立って来たのは、美服を着て湯屋へゆく人の多くなった事である。女客は格別、男客は不断着のままで入浴に出かけるのが普通で、湯屋へ好い着物をきて行くと盗難の虞れがあるとも云い、十人が十人、木綿物を着て行くのを例としていたが、その風俗が次第に変って、銘仙はおろか、大島紬、一楽織の着物や羽織をぞろりと着込んで、手拭をぶら下げてゆく人も珍しくないようになった。一般の風俗が華美に流れて来たことは、これを見ても知られると、窃に嘆息する老人もあったが、滔々たる大勢を如何ともする事は出来なかった。
それを附目でもあるまいが、湯屋の盗難は多くなった。むかしから「板の間稼ぎ」という専門の名称もあるくらいで、湯屋の盗難は今に始まったことでも無いが、警察から屡々注意するにも拘らず、男湯にも女湯にも板の間かせぎが跋扈する。それを防ぐために、夜間混雑の際には脱衣場に番人を置くことになったが、大抵は形式的に十四五歳の少女を置くに過ぎず、夜が更けると居睡りなどをしているのが多いので、これ等の番人は案山子も同様と心得て、浴客自身が警戒するのほかは無かった。湯屋で盗難に逢った場合には、その被害者に対して営業者が弁償の責を負うと云う事になったが、それも殆ど有名無実で、所詮は被害者の泣寝入りに終った。それでも湯屋へ美服を着てゆくのは止まなかったのである。
昔から名物の湯屋浄瑠璃、湯ぶくれ都々逸のたぐいは、明治以後も絶えなかった。義太夫、清元、常磐津、新内、端唄、都々逸、仮声、落語、浪花節、流行唄、大抵の音曲は皆ここで聴くことが出来たが、上手なのは滅多に無いのも昔からのお定まりであった。それでも柘榴口が取払われて、浴槽内の演芸会はだんだんに衰えた。
女湯には「お世辞湯御断り申候」というビラをかけて置く湯屋があった。さなきだに、女客は湯の使い方が激しい上に自分の知り人が来ると、お世辞に揚り湯を二杯も三杯も汲んで遣る。それが又、あがり湯濫用の弊を生ずるので、湯屋でも「お世辞湯お断り」の警告を発することとなったのである。それでも利き目がないらしく、女湯は男湯よりも三倍以上の水量を要すると云われていた。殊に男客に比べると、女客は入浴時間も非常に長いから、湯屋に取っては余り有難いお客様ではなかった。板の間かせぎの被害も女湯に多かった。
江戸時代には自宅に風呂を設けてある家は少なかった。内風呂は兎かくに火災を起し易いからである。武家でも旗本屋敷は格別、普通の武士は町の湯屋へゆく。殊に下町のような人家稠密の場所では内風呂を禁じられていたので、大家と云われるほどの商家の主人でも、大抵は銭湯へ入浴に行った。明治以後はその禁制も解かれ、且は地方人が多くなった為に一時は内風呂が頗る流行したが、不経済でもあり、不便でもあるというので、明治の中頃からは次第に廃れて、大抵は銭湯へ行くようになった。大正以後、内風呂がまた流行り出して、此頃は大抵の貸家にも風呂場が附いているようになったが、それが又どう変るか判らない。
底本:「文藝別冊[総特集]岡本綺堂」河出書房新社
2004(平成16)年1月30日発行
初出:「江戸と東京」
1938(昭和13)年4月
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年4月15日作成
2008年6月1日修正
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