少年探偵 呉田博士と与一
平林初之輔
|
「お父さん、今日は何か変わったことがあったかい?」
「また、六つになる子供がさらわれちゃったよ。これで去年から三度目だ。お前なんかも用心せんと危ないよ。今日さらわれたのは、お前が行ってる学校の正門の筋向かいの文房具屋の子供なんだよ」
「馬鹿にしていらあ、僕なんかもう中学の三年じゃないか、もう二ヶ月もたったら四年で、来年は高等学校へはいるんじゃないか。だけれど、ほんとうに、あの文房具屋の子供がさらわれちゃったのかい? あの子は録ちゃんといってね、可愛い子だったよ」
「ほんとうだとも、明日の新聞にはまた大きくでるよ。係りの者は今ごろまだてんてこまいで忙しがってる時分だ」
「やっぱり警察じゃまだわからんのだねえ。警官なんてみな木隅の坊ばっかりだね。今度で三度目じゃないか、しかも、同じ町内で同じような事件が三度も起こっているのに、それで目星がつかんなんて。僕もちっと犯罪学の勉強でもして、警察に教えてやりたいな。歯がゆくってしょうがないもの」
「ところが、今度は犯人はわかってるんだよ。まだつかまらないが明日までにはつかまるにきまってるんだ」
「へえ、そりゃえらいね、犯人は誰だっていうの?」
「あの文房具屋から四軒目のところに、そうだ、お前の学校の物理学教室の真ん向かいにあたるところだ、あそこに大きなお邸があるだろう?」
「うん、あるある。あれは呉田博士の家だね。こないだ学校で、お話をきいたことがあるよ。不良少年の話をね。中々えらい先生だよ。いま不良少年を一人養って感化しているんだってねえ?」
「その不良少年がやっぱり、今日行方不明になったっていうんだよ。それで、てっきりそいつが、あの子供を誘拐したんだと警察では目星をつけたわけなんだよ」
「そういえば、今日物理の時間がはじまる前にね、その不良少年らしい男が呉田博士の家から走って出ていったのを見たものがあるんだよ。ほら、いつか家へ遊びにきた志村君ね。あの男がそう言ってたよ」
「え、そりゃ大変なことをきいたね。でその不良少年は文房具屋の子供をつれて出たんかい?」
「ところがそうじゃないんだよ。ひとりで走っていったって志村君は言ってたよ。それに、呉田先生のところの女中さんがうしろから見ていたと言ってたよ」
「何? 博士の家の女中さんが見ていたんだって? そんなはずはない。博士の家から、いつの間にか、その男が家人の眼を盗んで失踪したって届け出があったもんだもの」
「だって、志村君はそう言っていたよ。女中さんがね門のところから半分顔を出してね、その男が見えなくなるまで見送っていたと言っていたよ。それに、その男も二三度うしろを振り向いたが、女中さんは別にとめた様子もなかったと言ったよ。それで、志村君は、何か博士の家でその男を使いにやったのだろうと思ったなんて言ってたよ。僕はよくおぼえているよ」
「妙だな、そりゃ何時頃だい?」
「物理の時間が十一時に始まるんだから十一時少し前だね」
「そりゃそうだ。文房具屋の子供がいなくなったのは九時前だった、あそこのお内儀さん言ってたからね。博士の家の不良少年も、きっとその頃に家出したにちがいないよ。それに第一、文房具屋の子供をつれていなかったってのが変だ。女中が見ていたなんていうのはなおさらあり得ないこった……」
「僕は知らないよ、ただ志村君がそう言ってたと言っただけなんだ」
東京の外濠に添うた通りの見すぼらしい住宅の中で、親子三人が晩の食膳に向かって、こんな話をしていました。父親は××警察署へ勤務している巡査部長です。息子は、△△中学の三年で、級中で図抜けた秀才として注目されている少年であります。母親は、お給仕をしながら父子の話をきいては、ときどき笑っています。
見たところ貧しい、けれど平和な家庭らしく、父子はまるでお友達同士のような親しみをもって、毎晩のようにこんな調子で議論を闘わしては笑っているのでした。
その翌日のちょうど同じ時刻であります。前の晩と同じように、三人の親子は、三方から小さなちゃぶ台をかこんで、豚鍋をつついていました。父親は晩酌の猪口を下において、得意にみちた面もちで言いました。
「ところでな、与一、昨夜の犯人はとうとう昨夜のうちにつかまったぞ。警察もえらいだろ」
「呉田さんところの不良少年かい? そしてすっかり白状したの?」
「もちろん白状したさ」
「で、録ちゃんは帰ってきたの?」
「ところが、あの子供がまだ行方不明なんだ。何でも、飯田橋のところで、洋服を着たおじさんが来てどこかへつれていってしまったというのだ。それでまごまごしているところを署の刑事につかまったのさ」
「その不良少年は、それからどうしたの?」
「ひとまず訊問した上で呉田さんのところへ送りとどけたのさ。呉田さんのとこじゃ、すっかり恐縮してお詫びを言ってたよ。あの子も先生にひどく叱られて、びくびくものであやまっていたが、かわいそうな気がしたね」
「おかしいね、あの先生の教育法は、どんな悪いことをしても絶対に叱らんという主義だといっていたが」
「だってお前、よその子供をつれだして見知らぬ人にさらわれてしまったのだもの、文房具屋の親御に対してすまんじゃないか」
「それもそうだけれど………まったく録ちゃんの親達はかわいそうだなあ」
「かわいそうと言えば、去年の秋、やっぱり三つになる赤ん坊をさらわれた市ヶ谷のブリキ屋さんは、とうとうそれがもとで気が変になったということだし、去年の春、誕生を迎えたばかりの赤ん坊をさらわれた肴町の煙草屋さんだって商売もできなくなって店をしまったっていうじゃないか。警察では、今度の犯人も同じ人間だとにらんでいるんだがね」
「飯田橋であの不良少年の手から子供をさらっていった男の人相はわかっているの?」
「それがどうもはっきりしないのだよ。呉田先生のうちにいる子供は、不良少年というよりも低能児といった方がよいかもしれんということだね。背が高かったというかと思うと、よくおぼえていないと言ってみたり、髭をはやしていると言ったり、はやしていなかったと言ってみたり、何が何やらさっぱり要領を得んのだ。だが、そういうことはこれまでに何べんもあったと博士も言っておられるので、いくらといただしてみても無効らしいんだ。ただ、わかっているのは三十八九の洋服を着た男ということだけなんだよ」
「三十八九なんていうのはおかしいね。僕にだって大人の年齢はよく判らないのにあの子供は低能児だっていうじゃないか。低能児に三十八九なんて正確な年齢がわかるのは変だね」
「でもその点は何度繰り返して問うてみてもはっきりと答えるから、まさかでたらめじゃなかろうということなんだ」
「その点だけはっきり答えるからこそ変だと僕なら考えるねえ」
父親はいつの間にか猪口をふせて御飯の箸を動かしています。与一はもう食事をすまして火鉢によりかかり、火箸で灰の中に何やら書いては消しながら話しつづけているのです。
「ねえ。お父さん、僕もきょうはだいぶ勉強したよ。今日は幾何や物理の勉強じゃなくて、お父さんの本を読んでみたよ。先月の法医学雑誌には、呉田博士の論文ものっていたね。『本能と教育』ってね、ずいぶん面白かったよ。僕はあれから、今度の事件について一つ暗示を得たんだがなあ」
「ふん、そんなに面白かったかなあ、お父さんは実はまだ読んでいないんだよ」
「あの中にフラウンホーファー博士の実験だったね、幼い子供を絶対的に放任して、少しも教育を与えず、他人と接触させることすらしないでおいたら、その子供がどうなるかという実験の報告がのってるよ。それによるとね、ある男児は毎日茶碗に飯を容れて、そばに箸をそえておいてやると、生後三年と九ヶ月目に、はじめて、誰も教えないのに、箸をとって茶碗の中の飯をかきこむことをおぼえたと書いてあるよ。そこのところが、特に僕には面白かったね」
「外国には色々な研究をしている人があるね。そこへゆくと日本の学者はだめだ」
「ね、お父さん、今度の事件では、警察がまた思いちがいをしていると僕は思うんだ。今度の事件のみならず、去年から今度でひきつづき三回まで起こった幼児の行方不明事件の真相が僕には大かたわかったような気がするんだがね、僕が探偵してもいいかしら」
「その道の玄人が多勢かかって判らんことがお前などに判ってたまるもんか。まあ危ない仕事には手を出さん方がいいね」
「ところが、ちっとも危ないことなんぞありゃしないんだ。だけど明日もう少し調べてみることがあるから、それをすまして明日の晩までにはきっと犯人を警察へ自首させて見せるよ」
「つまらないことはよした方がいいね」
「まったくだよ。僕はかけをしてもいいね。じゃお父さんこうしよう。もし明日じゅうに僕が犯人を自首さしたら、僕が探偵になることを許してくれると、もし明日じゅうに犯人が自首しなかったら、僕は今後一切その方面には口を出さずにお父さんのすすめるとおり法科の試験を受けると」
父子の間には、この無邪気なかけは成立したようであります。台所では母親が食器を洗う音がきこえます。父親はいつしか肱枕でうたたねした様子であります。夜はしずかにふけてゆきました。
第三の晩、やはり同じ時刻のことであります。
玄関の格子戸をからからと開け、いつになく元気よく帰ってきた父親は、靴の紐を解かないうちに、「与一」と呼びました。つつみきれぬ喜びと驚きとがその顔にあふれています。
「どうしてわかったのだい? あんまり意外で、わしはたまげてしまったよ」
「かけは僕の勝ちだったね。じゃ約束どおり僕を探偵にしてくれるね。お父さん?」
「まあ仕方がないね」
父親は洋服を着物に着かえながら語っています。母親は洋服をたたみながら、二人の話を熱心にきき入っています。
「まあ、ほんとに与一がそんな悪人に自白させたんですか?」
「ほんとうの段じゃないよ、今日からお父さんは、すっかりもう降参だ。とにかくわけを話してくれ」
「わけったって簡単ですよ」と満面につつみきれぬ得意の笑みを浮かべながら与一は語り出しました。
「呉田博士の論文を読んだとき、僕はこれは変だと思ったんだ。フラウンホーファーといえば西洋人にきまっているでしょう。西洋人が、西洋人の子供について実験するのに、御飯だの箸だのはおかしいと思ったんだ。ことによると、これは呉田博士自身の実験じゃないかと僕は考えついたんです。それから、不良少年が家出をした時刻と、録ちゃんが行方不明になった時刻と二時間もちがっていることや、博士の家の女中が、不良少年の出てゆく後ろ姿を見ていたということ、しかも、昨日になって、不良少年の申し立てがあいまいであったこと、特に、洋服を着た三十八九の男に子供をさらわれたということを頑強に申したてている点を十分に疑ってみたんだよ。それに去年の事件もあわせて、三度とも子供が行方不明になったのは、博士邸を中心にして二三町以内の間で起こった出来事なのだから、その点も疑ってみる価値があると思ったの、それでもまだ昨日は確信がなかったから今日は朝早く起きて色々なことを調べてみたよ。まずはじめに、博士の家へ出入りする用ききに色々たずねてみると、色々な食料品があのうちへは、家族の割合に余分にはいっていることがわかったんだよ。ことに昨日から、博士邸へ配達する牛乳が二合増えたことがわかった時は飛び上がる程うれしかったよ。それから出入りの屑屋にきいてみると、博士邸の塵芥箱の中から、いつも玩具のこわれたのが出てくるというんだ。子供のない家に、こわれた玩具があるのは妙じゃないの。それからね、今日学校で、フラウンホーファーという教育家がいるかって先生にきいたらね、先生は、そういう物理学者はあるが、教育家はないとしらべて教えてくれたよ。それで僕はすっかり自信ができたので、学校から帰るとすぐに博士の邸へ行ったんだ」
父親と母親とは、両方から与一の顔をみつめながら、熱心に我が児の口から出る驚くべき物語にきき入っていました。
「博士はすっかり白状してしまいましたよ。博士は、絶対に放任状態におかれたる児童の本能の発達状態を実験的に研究するために、前後三人の幼児を誘拐して、それを防音装置を施した室内に一人ずつ入れて、食物と被服類とその他の必要品だけを与えて、それ以外には絶対不干渉で実験を進めていたのだそうですよ。衛生の方の注意は十分に行き届いていたので三人とも健康に育っていたそうだがね。今日はめいめい警察の手をとおして両親に引き渡すと言っているからもう引き渡しはすんだろうね?」
「みんな喜んで、泣きながら引きとっていったよ」
「ところで今度の文房具屋の録ちゃんは、あまり近所だったものだから、万一あやしまれてはいけないと思って、不良少年に言いふくめてあんな狂言をしたのだそうだがね。それがもとで発覚したものも天罰だね。いくら学問のためだって、他人の愛児を犠牲にするなんて許すべからざるこったからねえ。何でも、あの不良少年に、三十八九の洋服を着た男に子供をさらわれたって答えろと博士から言いつけたんだそうだが、僕は、お父さんからそのことをきいた時からもう博士の家を疑ってたんだ、でもまさか博士自身が犯人だとは思わなかったが、悪いことはできないもんだねえ」両親は我が児の明快な推理にいまさらのように顔を見合わせておどろきました。
* * *
これが近年新聞紙上で、騒がしく宣伝された、少年素人探偵、浅田与一君が、探偵としての最初の巧名話であります。同君は今では立派な事務所をもって、多勢の部下を使って活躍していることは諸君の既にご存じのことであろうと思います。
底本:「平林初之輔探偵小説選2〔論創ミステリ叢書2〕」論創社
2003(平成15)年11月10日初版第1刷発行
入力:川山隆
校正:門田裕志
2010年12月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。