「陰獣」その他
平林初之輔



一 陰獣評


 江戸川乱歩氏の「陰獣」は、同氏の久し振りに発表した作であったのと、同氏独特の念入りな、手のこんだ、寸分のゆるみもない作品であったとのために、探偵小説の作者仲間では、異口同音に近い好評を博したようである。私も増刊〔『新青年』〕の分を読んで、九月号は雑誌が着くとすぐに旅に出たので、旅先で買って読み、十月号の分も雑誌が着くと真っ先に読んだ。その点で「陰獣」は完全に成功している。ことに九月号の作者の付言は、次号に対する期待をいっそう深からしめる、広告的効果を多分にもっていた。乱歩氏ほどの作者に、あれだけの自信があるのだから、結末は定めし、読者をあっと言わせるに相違ないと誰しも期待したに相違ない。

 読者の期待は裏切られはしなかった。読者のうちには小山田の細君が犯人であろうと推定した人は少なくなかったに相違ない。しかしそれは論理学でいうロー・オブ・エリミネーション〔消去法〕によって疑わしくない人間をだんだん除去してゆくと、あとに小山田の細君が残るというだけのことで、それ以上にたち入って犯人推定の根拠を示すことは恐らく大抵の人にはできなかったであろうと思う。読者の予想を完全に突破した点において、この作品はたしかに探偵小説としての最も必要な条件を十分にそなえていたと言ってよい。

 しかし私はこの作を探偵小説として非常な傑作だとは思わない。ビーストンのある作品や、最近『夜鳥』におさめられているルヴェルの作品などに比べて、また江戸川氏の旧作のあるものに比べても優っているとはどうしても思われない。一口に言えばこれらの作品に比べて「陰獣」は混濁している。こういえば早合点する読者は、そこが江戸川乱歩の作の特異点だと言うかもしれない。しかし私が混濁していると言うのは、この作の内容や、作者のスタイルそのものについて言うのではなくて、作者があまりに技巧にこりすぎ、あまりに手を加えすぎたために、ちょうど、女が化粧の度を過ごして醜くなったのと同じような感じを与えるということを指すのである。

 ことに私は最後の「予期せざる結末」へ導いてゆく、いわばこの一編のクライマックスの部分においてその感を深くするのである。作者は小山田六郎の夫人静子に対する脅迫および小山田六郎の殺人の犯人について、大江春泥から、小山田六郎へ、小山田六郎から静子へと鮮やかに、読者の嫌疑を転向させていった。そしてついに静子に自殺をさせた。私は静子が自殺をするのすら既に悪どいと思う。ところが作者はさらにそれだけではあきたらないで、もう一度静子が犯人であるということに疑いをはさみ、いちど抹殺して架空の人物としてしまった大江春泥をひっぱり出してこれに濃厚な嫌疑を向けている。これは読者にとって非常に迷惑である。積極的に言えば不快ですらある。せっかく、果物を食って珈琲コーヒーをのんでしまった読者の舌の上へ、しつこい豚料理か何かを出して、後味をのこさせるようなものである。

 私は特に、この作だけについて言うのではない。この作だけがそうであるなら、特殊な場合として面白い趣向だと思う。だが、江戸川氏の近年の作品には、すべてに、これと同一の趣向が共通していると思う。それは飽くまで読者の想像力を屈服せしめて作者が凱歌をあげてはやまぬというしつこさ、用心深さのためではないかと私は思う。絶対に読者の追随を許すまいとする作者の頑強な自負心のあらわれではないかと思う。だが、飽くまでもこういう意図をもって探偵小説が構成されるなら、探偵小説はついに成立しないかもしれぬ。ただ一枚の切り札以外の札はすっかり次々に開放していって、読者とともに、事件を探索してゆくのが、探偵小説として余裕のある構成法ではあるまいか。最後の一点は、読者のウイットと推理力とだけで、読者に見当のつきうる程度まで持ち札を見せてしまうのが本当ではあるまいか。

 ところが陰獣では作者がひとりで角力すもうをとりすぎるのである。複雑な骨組をこしらえて、読者がまだ考えをまとめないうちに、作者がその骨組を根底からくつがえして、がらりと一変してしまうのである。そして最後が、無解決である。無解決ということは作者にとっては楽な方法であるが、読者にとっては不快な状態である。しかも二度も三度もでんどう返しを食ったあとの無解決はなおさらしゃくにさわるものである。私は、こういう話を聞いた。あるところでその頃江戸川氏が『東京朝日』に連載していた「一寸法師」の話が毎晩あるグループの話題に出て、興味をもって事件の成り行きを注視していたそうだ。ところが、最後に近くなって作者の眼にもとまらぬ軽業師的な変化を見せられて、みな怒りだしたということを。私は「一寸法師」は読まなかったから、その結末がどんな風であったかは知らぬ。また小説というものは一部の読者を怒らせてはならぬものだとも思わない。しかしもし「一寸法師」の結末が「陰獣」の結末と同巧異曲のものであったとしたら、読者が「怒り出した」という気持ちはわかる。

 もし作者が、「静子」が犯人であることに疑いをはさむなら、そして大江春泥に対して疑いをもつ理由が十分にあるのなら、もう一度、大江春泥を俎上にのせて事件の再分析をして見るべきである。それをする代わりに「私」という人間の道徳的自責などをしまいに書いたのでは、せっかく興奮し緊張していた読者の心は、すっかり、冷却し、弛緩しかんしてしまう。

 私は、探偵小説は、どんな濃厚なものでも(どちらかというと私自身は少し濃厚なものが好きであり、したがって日本の作家では江戸川乱歩を最も好むが)、最後には、何らかの意味ですっきりした爽快味の感ぜられるものが上乗であると思うのだ。


二 探偵小説の批評について


 探偵小説は、プロレタリア文学と同じように、日本に生まれてからまだ新しいために、仲間の間で、これまで余りに御座おざなりなめあいが多すぎたように思う。そのためにかえって、一般の文壇からは特殊扱いをされて一向注意されなかった。たとえば江戸川君のごとき一般に作家として優れた天分をもっていながら、やはり仲間の間でしかあまり問題にされていない。国家でもある産業の発達の当初には保護をするのだから、文芸の場合にも、保護がわるいとは言わぬが、いつまでも保護関税の温室内で探偵小説を育て上げておくのはよくない。私が、江戸川氏の作品に対して多分に見当違いでもあろう苦言を呈したことについては、怒る人があるかもしれないが、今日、文壇のどの一角にだって、探偵小説のグループにおける江戸川乱歩氏のように偶像視されている作家はありはしない。そして従来の作品だけで江戸川氏を偶像視するのは、する方はもちろんよくないがされる方だって迷惑であろうと思う。

 この問題については、私のような門外漢が探偵小説の、「温室」を荒らす前に、グループの内部において、もっと自己批判が峻烈に行われているべきであったのだ。たとえば江戸川氏や氏と作風を対蹠的に異にする甲賀三郎氏のごときは、互いにもっと不遠慮に自己の主張を主張しあって、作品においてのみならず、理論においても、外国の作品に対する批評評価においても十分に意見を戦わすべきである。探偵小説作家のように物凄い材料を作品の上では取り扱いながら、批評の上では、御座なりな、少年雑誌の投書家のようなほめ言葉を交換しあっているということは、お上品でよいのかもしれないが、もし、率直で、辛辣な批評が、ここで排斥されるとするなら、探偵小説は、ついに温室の中で枯死するより他はないであろう。

 探偵小説が日本に、その本来の意味で存在を確立してからもう数年になる。もはや一人前に取り扱われてもしかるべき時期である。あえて、「花園」を荒らして、不遠慮に物を言うゆえんである。


三 探偵小説は芸術


 探偵小説は芸術かという問いをいつか『探偵趣味』か何かで往復葉書で集めたことがあり、その時私は「むろん芸術だ」と答えたとおぼえておるし、その他の場合にも、それと同じ意味のことを言った記憶がある。ところが、江戸川乱歩氏(どうも乱歩氏ばかりひきあいに出すのであるが)は探偵小説が芸術であることについての疑いをもっていたようであった。たしかずっと以前に、同氏から貰った私信のうちにもそういう意見が述べてあって、それは実に名論であったと記憶するが、もう世にないので遺憾である(ことによると屑屋くずやの手から製紙会社にわたって、この原稿紙か、新青年のこのページあたりにそれが使われているかもしれぬが)。

 私は近頃、探偵小説は芸術には相違ないが普通の小説とは別のカテゴリーに属するものではないかという疑いをもつようになった。ちょうど映画劇が芸術であるのは無論であっても、舞台劇とは別の、独立した芸術を形造っているのと同じ関係である。もしそうであるとすると、探偵小説は、普通の小説と別のテクニックを必要とするのであって普通の小説をはかるものさしで探偵小説を評価するのは間違っているということになる。まず第一に、探偵小説には芸術至上主義ないしは、表現万能主義は全く成立する余地がない。普通の小説においても、こんなリズムは成立しないことを私は信ずるのであるが、特に探偵小説にはそれが一目瞭然とわかっていて議論の余地をなからしめる。

 どんなに表現がうまくても、種が、テーマが凡庸であっては、探偵小説は成り立たない。平凡な人間の平凡な生活をどれだけ迫真の筆で描いたって、努力は徒労に終わってしまう。人生の真を描くというモットーも探偵小説にはあてはまらない。少なくもそれらのことは第二義的なものとして後方へおしやられる。ちょうど映画において、シナリオの文学的価値が第二義的なものとなるのと同じである。

 探偵小説は読者に驚異を与える、恐怖を与える、何らかの強烈なエキサイトメントを与えるということを第一の主眼としなければならぬ。したがってそれを与えることに成功すれば、探偵小説として第一義的なものに成功したことになる。その上で、普通の小説がねらっているのと同じ効果をねらうのはよいことであるが、この順序を倒逆することは許されない。

 探偵小説を普通の小説の尺度で評価し普通の小説に要求すべきことをまず第一に要求するのは、古い芸術観に囚われたものではあるまいか。

底本:「平林初之輔探偵小説選2〔論創ミステリ叢書2〕」論創社

   2003(平成15)年1110日初版第1刷発行

初出:「新青年 第九巻第一三号」

   1928(昭和3)年11月号

入力:川山隆

校正:門田裕志

2010年1028日作成

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