曠野
堀辰雄



忘れぬる君はなかなかつらからで

いままで生ける身をぞ恨むる

               拾遺集



 そのころ西の京の六条のほとりに中務大輔なかつかさのたいふなにがしという人が住まっていた。昔気質むかしかたぎの人で、世の中からは忘れられてしまったように、親譲りの、松の木のおおい、大きな屋形の、住み古した西にしたいに、老妻と一しょに、一人の娘を鍾愛いつくしみながら、もの静かな朝夕を過ごしていた。

 ようやくその一人娘がおとなびて来ると、ふた親は自分等の生先おいさきの少ないことを考えて、自分等のほかには頼りにするもののない娘の行末を案じ、種々いろいろいい寄って来るもののうちから、或兵衛佐ひょうえのすけを選んでそれに娘をめあわせた。ふた親の心にかなったその若者は、何もかもよく出来た人柄だった上、その娘の美しさに夢中になってしまっていることは、はた目にもあきらかだった。そうしてそれからの二三年がほどというものは、誰にとっても、何もいうところのない月日だった。

 が、そうやって世の中から殆ど隔絶しているうちに、その中務大輔のところでは暮らし向きの悪くなってゆく一方であることは、毎日女のもとに通って来るむこにも漸くはっきりと分かるようになった。そのなかでは、男だけは以前と変らずに手厚いもてなしを受けてはいた。それはかえって男には心苦しかった。が、女との語らいは深まる一方だったので、男はその女のもとをばもはや離れがたく思うようになっていた。

 ところが、或年の冬、中務大輔はにわかに煩いついて亡き人の数に入った。それから引きつづいて女の母もそのあとを追った。女は悲歎なげきのなかに一人きりに取り残されて、全く途方に暮れずにはいられなかった。勿論、男は相変らず夜毎に来て、そういう女をいたわり尽してはくれた。だが、世の中を知らない二人だけでは、すべてのことがいよいよ思うにまかせなくなって来ることは為方しかたがなかった。毎日宮仕に出てゆく男のためにもそれまでのように支度を調えることも出来できにくかった。それがことに女には苦しかったけれども、どうすることもその力には及ばなかった。

 再び春の立ち返った或夕方、女は端近くにいた夫を前にして、この日頃思いつめていたことを口にする決心がっとそのときついたように、こんなことを言い出した。

「わたくし達もこのままこうして暮らして居りましては、あなた様のおためではないのが漸っとはっきりと分って参りました。父母のおりました間は、それでもまだ何かとお支度などもお調えしてさし上げられておりました。けれども、こう何かと不如意になって来ましては、それも思うにまかせなくなり、お出仕の折などにさぞ見苦しいお思いもなされることがおありでございましょう。ほんとうに私のことなどは構いませぬから、どうぞあなた様のお為めになるようになすって下さいませ。」

 男はじっと黙って聞いていた。それから急に女を遮った。「ではこのおれにどうせよといわれるのか。」

「ときどきわたくしのことが可哀そうにお思いになりましたなら──」女は切なげに返事をした。「余所よそへいらしっていても、その折にはどうぞいつでも入らっして下さいませ。どうしていまの儘では、見苦しい思いをなさらずに宮仕などがお出来になれましょう。」

 男はしばらく目をつぶって聞いていた。それから急に男は女のほうへ目を上げ、素気ないほどきっぱりと言った。

「この己にこの儘おまえを置きざりにして往かれると思うのか。」

 それきりで、男はわざと冷やかそうに顔をそむけ、破れた築土ついじのうえにむぐらがやさしい若葉を生やしかけているのを、そのときはじめて気がついたように見やっていた。

 やがて女の漸っとこらえていたような忍び泣きが急にはげしい嗚咽おえつに変っていった。……


 男は、そうやって女のほうから別れ話をもち出されてからも、一日も欠かさず女のもとに来ながら、以前とはすこしも変らないように女と暮らしていた。しかしだんだん女の家から召使いの男女の数も乏しくなり、築土なども破れがちになって来、家に伝わった立派な調度などもいつか一つずつ失われてゆき出しているのが、男の目にもいつまでも分らないはずはなかった。男の様子が昔から見るとよほど変ってきて、以前よりか一層寡黙むくちになりだしたように見えたのは、それから程経てのことだった。しかし男はその様子がそう少し変っただけで、女をいよいよいたわり尽すようにしていた。それが逢う毎に女にはたまらなく思われて、どうしたらいいのか、ただもうあぐね果てるばかりだった。

 とうとうまた、或夕方、女はこらえかねたように言った。

「いつまでもこうしてわたくしと一緒にいて下さるのは、わたくしは嬉しがらなくてはならないのですが、どうもそれ以上に心苦しくてなりませぬ。わたくしはこうしてあなたのお傍に居りましても、あなたのそのおやつれになったお姿を見ることが出来ませぬ。のみならず、この頃あなた様はわたくしに隠して、何かお考えになっていらっしゃるのでしょう。なぜそれをわたくしに言っては下さらぬのです。」

 男は物を言わずに、女をしばらく見ていた。

「己がおまえに隠して考えごとなどをしているものか」と男は何か言いにくそうに口をきいた。「おまえが自分のことに構わずに、己のことばかり構おうとしているのが己には窮屈でならないのだ。己だって、もう少ししたら、どうにかなるだろう。そうすれば、おまえ一人位はどうにでもしてやれるのだ。それまで、いま少し、辛抱していてくれ。」

 男はそう言ながら、ひと時、いかにもいたいたしそうな目つきで女を見た。しかし女はいつかそこに袖を顔にして泣き伏していた。男はしげしげと女の波うっている黒髪を見ていた。それから自分も急に目をそらせて、ふいと袖を顔にもっていった。

 男がその女の家に姿を見せなくなったのは、それから何日もたたないうちだった。



 男が黙ってふいに立ち去ってから、それでも女はなお男を心待ちにしながら、幾人かの召使いを相手に、さびしい、便りない暮らしを続けていた。が、それきり男からは絶えて消息さえもなかった。女にとっては、それは自分から望んだこととはいえ、たまらなく不安だった。待つことの苦しみ、──何物も、それをまぎらせてはくれなかった。それでも女はまだしもそのなかに一種の満足を見いだし得た。──だが、いつまで立っても、男のかえって来るあてのないことが分かって来ると、わずかに残っていた召使いも誰からともなく暇をとり出し、みな散り散りに立ち去って往つた。

 一年ばかりのあとには、女のもとにはもう幼いわらわが一人しか残っていなかった。その間に、寝殿しんでんは跡方もなくなり、庭の奥に植わっていた古い松の木もいつかられ、草ばかり生い茂って、いつのまにかむぐらのからみついた門などはもう開らかなくなっていた。そうして築土ついじのくずれがいよいよひどくなり、ときおり何かの花などを手にした裸か足の童がいまは其処から勝手に出はいりしている様子だった。

 なかば傾いた西にしたいの端に、わずかに雨露をしのぎながら、女はそれでもじっと何物かを待ち続けていた。

 最後まで残っていた幼い童もとうとう何処かに去ってしまった跡には、もう一方の崩れ残りの東の対の一角に、この頃田舎から上ってきた年老いた尼が一人、ほかに往くところもないらしく、みついていた。それは昔この屋形で使われていた召使いの縁者だった。そうしてその尼は此の女をかわいそうに思って、ときどき余所よそから貰ってくる菓子や食物などを持って来てくれた。しかしこの頃はもう女にはその日のことにも事を欠くことが多くなり出していた。──それでもなお女はそこを離れずに、何物かを待ち続けているのを止めなかった。

「あの方さえお為合しあわせになっていて下されば、わたくしは此のままちてもいい。」

 そう思うことの出来た女は、かならずしも、まだ不為合せではなかった。


 男にとっては、その一二年の月日はまたたく間に過ぎた。

 しかしその間、男は一日も前の妻のことを忘れたことはなかった。が、何かと宮仕が忙しかった上、あらたに通い出していた伊予いよかみの女の家で、懇ろに世話をせられていると、心のまめやかな男だっただけ、彼等を裏切らないためにも、男はつとめて前の妻のところからは遠ざかり、胸のうちでは気にかけながらも、音信さえ絶やしていた。

 最初のうちは、それでも男は幾たびか、人目に立たないようにわざと日の暮を選んで、前の女のいる西の京の方へ往きかけた。が、朝夕通いなれた小路に近づいて来ると、急に何物かにこばまれるような心もちで、男はその儘引っ返して来た。男はこんなことで、心にもなく女とも別れなければならなくなる運命を考えた。

 しかし、その儘女にも逢わずに月日が立つにつれ、もう忘れていてもいいはずのその女のことを何かのはずみに思い出すと、その女の、袖を顔にした、さびしい、俯伏うつぶした姿が前にも増して鮮明に胸に浮んで来てならなかった。そうしてとうとうしまいには、その女のそうしているときの息づかいや、やさしいきぬずれの音までがまざまざとよみがえるようになり出した。

 その春も末にちかい、或日の暮れがた、男はとうとう女恋しさにいてもたってもいられなくなったように、思い切って西の京の方へ出かけて往った。

 其処いらは小路の両側の、築土も崩れがちで、よもぎのはびこった、人の住まっていない破れ家の多いようなところだった。ようやく以前通いなれた女の家のあたりまで来て見ると、倒れかかった門には葎の若葉がしげり、やぶには山吹らしいものがしどろに咲きみだれていた。

「こんなに荒れているようでは、もう誰もここにはいまい。」男は心のなかでそう考えた。

 おそらくその女も他の男に見いだされて余所に引きとられてしまったのだろうとあきらめると、その女恋しさを一層ひとしお切に感じ出しながら、その儘では何か立ち去りがたいように、男はなおあたりを歩いていた。すると、築土のくずれが、一ところ、童でもふみあけたのか、人の通れるほどになっていた。男は何の気なしに其処からはいって見ると、もとは何本もあった大きな松の木は大てい伐り倒されて、いまは草ばかりが生い茂っていた。古池のまわりには、一めんに山吹が咲きみだれてい、そのずっと向うの半ば傾いた西の対の上にちょうど夕月のかかっているのが、男にははじめてそれと認められた。その対の屋の方は真っ暗で、人気はないらしかった。それでも男はそちらに向って女の名を呼んで見た。勿論、なんの返事もなかった。そうなると男は女恋しさをいよいよ切に感じ出し、袖にかかるくもを払いながら、山吹の茂みのなかを掻き分けていった。男はもう一度空しく女の名を呼んだ。男はそのとき思いがけず反対の側にある対の屋からかすかな灯の洩れているのを見つけた。男は胸を刺されるような思いをしながら、そちらの方へさらに草を掻き分けて往って、最後に女の名を呼んだ。返事のないのは前と変りはなかった。男は草の中から其処には一人の尼かなんぞいるらしいけはいを確かめると、頭を垂れた儘、もと来た道をあとへ引っ返した。もう昔の女には逢われないのだと詮め切ると、それまで男の胸を苦しいほど充たしていた女恋しさは、突然、いい知れず昔なつかしいような、殆ど快いもの思いに変りだした。……


 なかば傾いた西の対の、破れかかった妻戸つまどのかげに、その夕べも、女は昼間から空にほのかにかかっていたほそい月をぼんやり眺めているうちに、いつかやみにまぎれながら殆どあるかないかに臥せっていた。

 そのうちに女は不意といぶかしそうに身を起した。何処やらで自分の名が呼ばれたような気がした。女の心はすこしも驚かされなかった。それはこれまでも幾たびか空耳にきいた男の声だった。そうしてそのときもそれは自分の心の迷いだとおもった。が、それからしばらくその儘じっと身を起していると、こんどは空耳とは信ぜられないほどはっきりと同じ声がした。女は急に手足がすくむように覚えた。そうして女は殆どわれを忘れて、いそいで自分の小さな体を色のめた蘇芳すおうの衣のなかに隠したのがっとのことだった。女には自分が見るかげもなくせさらばえて、あさましいような姿になっているのがそのとき初めて気がついたように見えた。たとい気がついていたにせよ、そのときまでは殆ど気にもならなかった、自分のそういうみじめな姿が、そんなになってまだ自分の待っていた男に見られることが急に空怖ろしくなったのだった。そうして女は何も返事をしようとはせず、ただもう息をつめていることしか出来なくなっている自分の運命を、われながらせつなく思うばかりだった。それからまだしばらく池のほとりで草の中を人の歩きまわっている物音が聞えていた。最後に男の声がしたときは、もう女のいる対の屋からは遠のいて、向いの尼のいる対の屋の方へ近づき出しているらしかった。それからもう何んの物音もしなくなった。

 すべては失われてしまったのだ。男は其処にいた。其処にいたことはたしかだ。それを女にたしかめでもするように、男の歩み去った山吹の茂みの上には、まだ蜘の網が破れたままいくすじか垂れさがって夕月に光って見えた。女はその儘あばらな板敷のうえにいつまでも泣き伏していた。……



 それから半年ばかり立った。

 近江の国から、或郡司ぐんじの息子が宿直とのいのために京に上って来て、そのおばにあたる尼のもとに泊ることになったのは、ちょうど秋の末のことだった。

 それから何日かの後、郡司の息子が異様に目をかがやかせながら言った。「きのうの夕方、向うの壊れ残りの寝殿にきものを捜しに往きますと、西の対にちょうど夕日が一ぱいさし込んでいて、破れたすだれごしにまだ若そうな女のひとが一人、いかにも物思わしげに臥せっているのがくっきりと見えましたので、私はおどろいてそのまま帰って来てしまいましたが、あれはどなたなのですか。」

 尼は当惑そうに、しかしもう見つけられてしまっては為方しかたがないように、その女の不為合せな境涯を話してきかせた。郡司ぐんじの息子はさも同情に堪えないように、最後まで熱心に聞いていた。

「そのお方にぜひとも逢わせて下さい。」息子は再び目を異様にかがやかせながら、田舎者らしい率直さで言った。「そのお方のほうでもその気になって下されば、わたしが国へ帰るとき一緒におれして、もうそのようなお心細い目には逢わせませんから。」

 尼は、それを聞くと、まあこんな自分の甥ごときものがと思いながら、それでも彼の言うように女も一そそんな気もちにでもなった方が行末のためにもなるのではないかと考えもした。

 尼はいくぶん躊躇ちゅうちょしながらも、何時かその甥の申出を女に伝えることをうべなわないわけにはいかなかった。


 或野分のわき立った朝、尼はその女のもとに菓子などを持って来ながら、いつものように色のめた衣をかついだ女を前にして、何か慰めるように、

「あなた様もどうして此の儘でいつまでも居られましょう」と言いだした。「こんなことはわたくしとしては申し上げにくいことですけれど、いまわたくしの所に近江からいささか由縁ゆかりのありますものの御子息が上京せられて来ておられますが、そのものがあなた様のお身の上を知って、ぜひとも国へお伴れしたいと熱心にお言いになって居りますけれど、いかがでございましょうか、一そそのもののお言葉に従いましては。此の儘こうして入らっしゃいますよりは、少しはましかと存じますが。」

 女はそれには何にも返事をしないで、空しい目を上げて、ときおり風に乱れている花薄はなすすきの上にちぎれちぎれに漂っている雲のたたずまいを何か気にするように眺めやっていたが、急に「そうだ、わたくしはもうあの方には逢われないのだ」とそんなあらぬ思いを誘われて、突然そこに俯伏うつぶしてしまった。

 夜なかなどに、ときおり郡司の息子が弓などを手にして、女の住んでいるたいのあたりを犬などにえられながら何時までもさまようようになったのは、そんな事があってからのことだった。夜もすがら、木がらしが萩や薄などをさびしい音を立てさせていた。どうかすると、ひとしきり時雨しぐれの過ぎる音がそれに交じって聞えたりした。そうでなければ、郡司の息子が、ときどき自分の怖ろしさをまぎらせようとでもするのか、あちこちと草の中を歩きまわっていた。……

 そんな夜毎に、女は妻戸をしめ切って、ともし火もつけず、身の置きどころもないかのように、色の腿めた衣をかついだまま、奥のほうにじっとうずくまっていた。かくも荒れはてたでは、奥ぶかくなどにじっとしていると、その儘何かの物のけにでも引っ張り込まれていってしまいそうな気がされて、女はおびえ切り、殆どられずに過ごすことが多いのだった。

 或しぐれた夕方、尼は女のところに来ると、いつものように沁々しみじみと話し込んでいた。「ほんとうにいつまで昔のままのお気もちでいらっしゃるのでございましょう。」尼はことさらに歎息するように言った。「それは今のようにでもして居られますうちはまだしも、此のわたくしでもしもの事がございましたら、どうなさるお積りなのですか。しかし、やがてそういうときの来ることは分かっています。」

 女は数日まえのことを思い出した。──数日まえ、尼にその話をはじめて切り出されたとき、突然はっとして「自分はもうあのお方には逢われないのだ」と気づいたときのいまにも胸の裂けそうな思いのしたことを思い出した。あのときから女の心もちは急に弱くなった。それまでのすべての気強さは──畢竟ひっきょう、それはいつかは男に逢えると思っての上での気強さであった。──女はもう以前の女ではなかった。

 その晩、尼は郡司の息子をその女のもとへ忍ばせてやった。


 それから夜毎に郡司の息子は女のもとへ通い出した。

 女はもう詮方せんかたきたもののように、そんなものにまですべてをまかせるほかなくなった自分の身が、何だかいとおしくていとおしくてならないような、いかにもやしい思いをしながら、その男に逢いつづけていた。

 ようやく任が果てて、その冬のはじめに近江へ帰らなければならなくなったときには、郡司の息子はもうすっかり此の女にむつんで、どうしてもその儘女を置きざりにして往く気にはなれずにしまった。

 女はそれを強いられる儘に、京を離れるのはいかにもつらかったけれど、しかし自分の余りにもつたなかった来しかたにあがらうような、そうして何か自分の運を試めしてみるような心もちにもなりながら、その郡司の息子について近江に下っていった。



 しかしその郡司の息子には、国元には、二三年前にめとった妻が残してあった。そうして親達の手まえもあり、息子は、その京の女をおもてむきはしためとして伴れ戻らなければならなかった。

「そのうちまた、わたくしは京に上るはずです。」息子は女をなだめるようにして言った。「その折にはきっと妻として伴れて往きますから、それまで辛抱していて下さい。」

 女はそんな事情を知ると、胸が裂けるかと思うほど、泣いて、泣いて、泣き通した。──すべての運命がそこにうちくじかれた。

 が、一月たち二月たちしているうちに、──殆ど誰にも気どられずに婢として仕えているうちに、──こうしている現在の自分がその儘でまるきり自分にも見ず知らずのものでもあるかのような、空虚うつろな気もちのする日々が過ごされた。いままでの不為合せな来しかたが自分にさえ忘れ去られてしまっているような、──そうして、そこには、自分が横切ってきた境涯だけが、野分のあとの、うら枯れた、見どころのない、曠野あらののようにしらじらと残っているばかりであった。「いっそもうこうして婢として誰にも知られずに一生を終えたい」──女はいつかそうも考えるようになった。

 此処に、女は、まったく不為合せなものとなった。

 山一つ隔てただけで、こちらは、梢にひびく木がらしの音も京よりは思いのほかにはげしかった。夜もすがら、みずうみの上をき渡ってゆく雁もまた、女にとっては、夜々をいよいよ寝覚めがちなものとならせた。


 それから数年後の、或年の秋、その近江の国にあたらしい国守が赴任して来て、国中が何かとさわぎ立っていた。

 国内の巡視に出た近江の守の一行が、方々まわって歩いて、その郡司の館のある湖にちかい村にかかったときは、ちょうど冬の初で、比良ひらの山にはもう雪のすこし見え出した頃だった。

 その日の夕ぐれ、丘の上にあるその館では、かみは郡司たちを相手にして酒を酌みかわしていた。

 館のうえには時おり千鳥のよびかう声が鋭く短くきこえた。──すっかり葉の落ち尽した柿の木の向うには、枯蘆かれあしのかなたに、まだほの明るいみずうみの上がひっそりと眺められた。

 かみは、すこし微醺びくんを帯びたまま、郡司ぐんじが雪深いこしに下っている息子の自慢話などをしているのをききながら、折敷おしきや菓子などを運んでくる男女の下衆げすたちのなかに、一人の小がらな女に目をとめて、それへじっと熱心な眼ざしをそそいでいた。他のはしためと同様に、髪は巻きあげ、衣も粗末なのをまとってはいたが、その女は何処やら由緒ありそうに、いかにも哀れげに見えた。その女をはじめて見たときから、守の心はふしぎに動いた。

 宴の果てる頃、守は一人の小舎人童ことねりわらわを近くに呼ぶと、何かこっそりと耳打ちをした。


 その夜遅く、京の女は郡司のもとに招ぜられた。郡司は女に一枚の小袿こうちぎを与えて、髪などもいて、よく化粧してくるようにと言いつけた。女は何んのことか分からなかったが、命ぜられたとおりの事をして、再び郡司の前に出ていった。

 郡司はその女の小袿姿を見ると、傍らの妻をかえりみながら、機嫌好さそうに言った。「さすがは京の女じゃ。化粧させると、見まちがうほど美しゅうなった。」

 それから女は郡司に客舎の方へれて往かれた。女はっと事情が分って来ても、押し黙って、郡司のあとについてゆきながら、何か或強い力に引きずられて往きでもしているような空虚な自分をしか見出せなかった。

 守の前に出されると、ほのぐらい火影ほかげに背を向けたまま、女は顔に袖を押しつけるようにしてうずくまった。

「おまえは京だそうだな。」守はそこに小さくなっている女のうしろ姿を気の毒そうに見やりながら、いたわるように問うた。

「…………」女はしかし何とも答えなかった。

 そうして女は数年まえのことを思い出した。──数年まえには、田舎上りの見ず知らずの男に身をまかせて京を離れなければならなかった自分が自分でもかわいそうでかわいそうでならなかった。そうしてそのときは相手の男なんぞはいくらでもさげすめられた。が、こんどと云うこんどは、その相手がかえって立派そうなお方であるだけに、そういう相手のいいなりになろうとしている自分が何だか自分でもさげすまずにはいられないような──そうしていくら相手のお方にさげすまれても為方しかたのないような──無性にさびしい気もちがするばかりだった。女にしてみると、こうして見出されるよりは、いままでのように誰にも気づかれずに婢としてはかなく埋もれていた方がどんなにしか知れなかった。……

おれはおまえを何処かで見たようなふしぎな気がしてならない。」男はもの静かに言った。

 女は相変らず袖を顔にしたぎり、何んといわれようとも、ものうげに顔を振っているばかりだった。

 館のそとには、時おりみずうみの波の音が忍びやかにきこえていた。


 そのあくる夜も、女は守のまえに呼ばれると、いよいよ身の置きどころもないように、いかにもかぼそげに、袖を顔にしながら其処にうずくまっていた。女は相変らず一ことも物を言わなかった。

 夜もすがら、木がらしめいた風が裏山をめぐっていた。その風がやむと、みずうみの波の音がゆうべよりかずっとはっきりと聞えてきた。おりおり遠くで千鳥らしい声がそれに交じることもある。守はいたわるように女をかきよせながら、そんなさびしい風の音などをきいているうちに、なぜか、ふと自分がまだ若くて兵衛佐ひょうえのすけだった頃に夜毎に通っていた或女のおもかげを鮮かに胸のうちに浮べた。男は急に胸騒ぎがした。

「いや、己の心の迷いだ。」男はその胸の静まるのを待っていた。

 突然、男の顔から涙がとめどなくながれて女の髪に伝わった。女はそれに気がつくと、いかにも不審に堪えないように、小さな顔をはじめて男のほうへ上げた。

 男は女とおもわず目を合わせると、急に気でも狂ったように、女を抱きすくめた。「矢張りおまえだったのか。」

 女はそれを聞いたとき、何やらかすかに叫んで、男の腕からのがれようとした。力のかぎりのがれようとした。「己だと云うことが分かったか。」男は女をしっかりと抱きしめた儘、声をふるわせて言った。

 女はきぬずれの音を立てながら、なおも必死にのがれようとした。が、急に何か叫んだきり、男に体を預けてしまった。

 男は慌てて女を抱き起した。しかし、女の手に触れると、男は一層慌てずにはいられなかった。

「しっかりしていてくれ。」男は女の背を撫でながら、漸っといま自分に返されたこの女、──この女ほど自分に近しい、これほど貴重だいじなものはいないのだということがはっきりと身にしみて分かった。──そうしてこの不為合せな女、前の夫を行きずりの男だと思い込んで行きずりの男に身をまかせると同じようなあきらめで身をまかせていたこの惨めな女、この女こそこの世で自分のめぐりあうことの出来た唯一の為合せであることをはじめて悟ったのだった。

 しかし女は苦しそうに男に抱かれたまま、一度だけ目を大きく見ひらいて男の顔をいぶかしそうに見つめたぎり、だんだん死顔に変りだしていた。……

底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館

   1988(昭和63)年61日初版第1刷発行

底本の親本:「堀辰雄全集 第二巻」筑摩書房

   1977(昭和52)年830日初版第1刷発行

初出:「改造」

   1941(昭和16)年12月号

初収単行本:「曠野」養徳社

   1944(昭和19)年920

※底本の親本の筑摩全集版は、養徳社版による。初出情報は、「堀辰雄全集 第二巻」筑摩書房、1977(昭和52)年830日、解題による。

入力:kompass

校正:門田裕志

2003年1229日作成

2012年414日修正

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