CARTE POSTALE
堀辰雄



 夕暮である。僕はフランス波止場をぶらりぶらりと歩いてゐる。しやれた煉瓦建てがある。何だらうと思つて、近づいて見ると、中にはほとんど人氣がない。入口のところにも、何も書いてない。そしてただ NOといふ番號が、何かを暗示するやうに、出てゐるきりだ。そんな建物と建物との間に、大きな空地があつたりする。生ひ茂つた雜草が FOR SALE といふ立札をほとんど見えなくさせてゐる。中には「コノヘンニ狂犬アリオ氣ヲツケナサイ」と書いた奴までが、すつかり隱れてしまつてゐる。そんなところなんかは、發育ざかりの雜草が鋪道にまではみ出してゐる。やつと人ひとり通れるか通れないかぐらゐの鋪石を殘して。どうかすると、小綺麗なコンクリイトの建物の前まで、鋪石と鋪石との隙間から、ペンペン草が生えてゐる。片手にステッキと流行雜誌をかかへた一人の外人紳士が、パイプを口に啣へながら、道ばたの芝生の上に、かれの靴の裏をしきりにこすりつけてゐる。犬の糞でもふんづけたのかしらん? 何處かの領事館らしい洋館の前で僕はこんどは一人のかはいらしい日本人の少女とすれちがふ。その少女が何やら上の方を見あげながらこちらにやつてくるので、僕もその方へ目をあげたら、二階の開かれた窓のところに、シクラメンの鉢が置いてあつた。そしてそれを前にして、爪を磨きながら、一人のモウヴ色の服をきた少女が、薄くらがりの中からぼうつと浮び出てゐた。それから僕たちはすれちがひながら、目と目でこんな會話をする。「あたしと同じくらゐだわね?」「え? 年齡がかい? ……さう、しかし、それより僕には同じくらゐに綺麗に見えますよ。では、さやうなら。」(さつきの紳士のやうに、犬の糞でもふんづけるといけませんよ。お氣をつけなさい。それから狂犬もゐるさうですからね。)──それからすこし先きに行くと、大きな眞白なホテルのちよつと手前に、これは又何といふ小さな建物だらう。が、小さいなりに、まるで外國の郵便切手のやうにしやれた建物だ。何とか書いてあるぞ。MESSAGERIES MARITIMES──ははあ、これはフランスの郵船會社か。入口の戸に、何やら掲示板がぶらさがつてゐる。ちよつと斜にぶらさがつてゐる恰好が、いかにもメランコリックだ。生れ故郷のことを思ひ出してでもゐるといつた風に。その影響でか、となりの大きなホテルの石段の上にも、青い服をきた、一人の取次ボオイがちよつと帽子を斜にかぶつて、直立不動の姿勢で、夢みるやうに立つてゐる。あそこの上まで石段を登つたら、何が見えるのかしらん?


          


 しかし、この公園からの海景色は、繪はがきのやうにつまらない。數艘の、大きな郵便船のまはりで、小さな短艇が山羊のやうに戲れてゐるばかりだ。私の坐つてゐるベンチのとなりには、年とつた外人夫婦が竝んで坐つてゐる。おぢいさんの口髭はもう黄いろくなつてゐる。そして肩から雙眼鏡をぶらさげてゐる。それをときどき二人で代るがはる覗きながら、何やら會話を取り換はす。もつとも喋舌るのは大抵細君の方で、その聲にはまだ何處かしら若々しいところがある。それに反して、おぢいさんの方は、いつも皺枯れた聲で、二言三言答へるばかりである。しかし、一ぺんも細君の問に答へぬやうなことはしない。かれ等は何を見てゐるのだらうな? ……そこで僕はベンチから立ち上つて、海岸の欄干のところまで出て見る。ぷんと海草がにほふ。漂流物がにほふ。鳥の死骸が、だらりと翼をひろげて、あふむけに浮んでゐる。鴎らしいな。ああ、いつも見せられる繪はがきの現實はこんなもんだ。──僕はぶつぶついひながら、さつきのベンチに引つ返す。自轉車乘りが、僕のとなりの老外人夫婦の上に、それから見知らぬ僕の上にまで「またゐやあがる」といつた目つきを投げてゆく。──僕たちの背後には、噴水がある。夾竹桃がいまを盛りに咲いてゐる。向うのユウカリプスの蔭には、眞白い夏服をきた黒ん坊が三人、何か高い聲で議論をしてゐる。その向うには、交番があつて、ヘルメット帽の巡査が立つてゐる。さらにその向うは、木立にさへぎられてよく見えないが、さつき僕のぶらついてゐたホテルや領事館のある通りになつてゐる。──ああさういへば、あのひつそりとした通りはまるで外國から來た繪はがきの裏みたいだな。それもその片隅にちよつと斜に貼つてある郵便切手が何よりも一番うれしい奴。……

底本:「堀辰雄作品集第四卷」筑摩書房

   1982(昭和57)年830日初版第1刷発行

入力:tatsuki

校正:染川隆俊

2010年529日作成

2011年523日修正

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