二人の友
堀辰雄



一、中野重治


 それからもう數年になるのである。

 ある日のこと、僕が田端の室生さんのところへ行つたら、室生さんは「昨日は面白い男がきたよ」と云つた。その男は自分は五十位になつたらいい抒情詩が書けさうだと云つてゐたさうだ。そして大へん酒が好きで、そのためかどうか知らないが、動坂の酒屋に間借してゐた。そして近くその酒屋が深川の方に引越すといふのでたぶんその男も一しよについて行くだらうといふ話であつた。いかにも室生さん好みの男らしかつた。そしてあとで分かつたが、その男が中野重治だつた。

 ところが、中野はそれから間もなく、自分が五十になるのを待たないで、詩をどんどん書き出した。それらはすばらしい抒情詩だつた。ことに「波」とか「豪傑」などの諸篇は、僕等の愛誦措くあたはざるものだつた。丁度その時分彼の好きだつた女のひとがアメリカに行つてゐて、そのひとについて彼は「私とお前とは逆樣に立つてゐるのだ」などと書いたりしてゐたものだ。

 名前は忘れたが、何とかいふ小さな同人雜誌に發表されてゐたそれらの詩を、僕はほとんど缺かさずに讀んでゐて、室生さんたちとよく噂をし合つてゐたが、僕はまだ中野に會つたことがなかつた。

 僕が中野と始めて會つたのは、こんど僕等で同人雜誌をやらうといふので、その頃田端の或る二階に間借してゐた宮木喜久雄のところへ、みんなで落ち合つた時だつた。なんでもみんな五十錢づつ出し合ひ、鳥の臟物を買つてきて、それを鍋にして、取り卷きながら、雜誌のことを話し合つた。酒は室生さんの家からとどけられた。──みんなといふのは、主人役の宮木喜久雄を始め、窪川鶴次郎、西澤隆二、それに僕だつた。──その時、中野はすこし遲れてやつてきた。どこで飮んできたのか、もうすこしいい氣持さうだつた。中野と僕とは初對面だつたが、中野は僕を見て「やア、堀君かね」といつてその柔らかさうな髮毛のモジャモジャした頭をちよつと下げたきりだつた。そしてそれからといふもの、彼はほとんど一人でのべつ幕なしに喋舌り立てた。酒もよく飮んだ。そして鍋のなかから、獨得な手つきで、何かしきりに探し出してそれを口に入れては「うまい、うまい」と云つてゐた。それは慈姑くわゐだつた。

 慈姑とは、いかにも彼の好きさうなものだと思つて、僕は感心した。さて、話が雜誌の題名のことになつた。すると中野は「シヤリン」といふのはどうかねと云つた。「シヤリン?」何のことかみんなには分からなかつた。そしたら彼は「車の輪の車輪だ」と説明した。そして一人でそれがひどく氣に入つてゐるらしかつた。誰かが、それは字面はいいが、言葉では何のことやら解らないから駄目だと反對した。それでは「赤繩」といふのはどうだいと彼は再び云つた。それはまた誰かにそれはあんまり君だけの好みであり過ぎる、といつて反對された。その時分、もうすでに、僕等の仲間で中野一人だけが「プロレタリア詩人」になつてゐたのであつた。

 雜誌の題は、とうとう「驢馬」といふのに決つた。これは僕がフランシス・ジャムの詩から思ひついた名だつた。僕が最初それを云ひ出した時は「何? 驢馬か? はツはツは」と中野が眞先になつて笑つたが、みんなはいつかこの名前に愛着を持つやうになつた。そして最後にこれにしようかと云ふことに決まりかけた時、中野は最もそれに贊成した一人だつた。それは、その頃(もちろん今でも變りはないが)みんなはひどく貧乏してゐたし、それにみんな揃つてあの不幸な動物を歌つたジャムの詩が好きだつたりしてゐたからであつたらう。

 それから一二年するうちに、「驢馬」の同人はみんな思想的に變つてプロレタリアの詩人になつて行つた。その中でもつて、僕だけが一人とり殘された。僕はさういふ自分をひどく悲しみはしたが、それでもとうとう自分の立場を守り通した。

 いつか窪川鶴次郎が僕にこんなことを言つたことがある。「君の髮毛が曲者だよ」と。なるほど、さう云はれて見ると僕は自分でさへどうすることも出來ないくらゐ、硬い髮毛を持つてゐるのだ。窪川はそれでもつて、僕がうはべは柔和さうに見えるが、その實なかなかの剛情ぱりだと云はうとしたらしい。その窪川の言葉は僕に中野の髮毛を想ひ出させる。それは、いつもモジャモジャしてはゐるが、實にしなやかで、柔らかな髮毛なのだ。すこぶる奔放なやうで、その實なかなか細かい神經の行きとどいてゐる彼のすべての作品の祕密は、恐らくそこにあるだらう。

 中野はかつて書いた。


お前は歌ふな

お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌ふな


 この一行がふしぎに僕等の心をとらへるのは、この中で彼が赤ままの花やとんぼの羽根を歌ふことをしなかつたからではなく、むしろ赤ままの花やとんぼの羽根を彼らしく歌つてゐるからではないか。これはほんの一例にすぎないが、僕はさういふところに中野の詩人としての惱みがあるのだらうと思つてゐる。



二、窪川稻子


 窪川稻子さんは、一時、僕のいつてゐた向島の小學校に行かれてゐたことがあるさうです。僕たちは同じ年ですから、それも同級だつた訣です。さう言へば、なんだか稻子さんのやうな人がゐたやうな氣もしますし、稻子さんの方でもなんだか僕のやうな腕白者がゐたやうな氣がしてゐるかも知れません。しかし、その頃のお互のことは何もはつきりしたことは覺えてゐません。

 それから僕は一高にはひつてから友人と一しよに丸善へよく本を見にゆきましたが、丁度その頃、稻子さんは丸善へ勤めていらつしやつたさうです。その頃、僕と同じ町内から、やはり僕と同じ小學校にいつてゐた一人の娘さんが、丸善に勤めてゐましたが、あとで聞くと、稻子さんとその人とは、偶然丸善で一しよになつて大へん仲好しだつたさうであります。その娘さんはたしか震災で死にました。洋書部にゐたので、その人の方はよく知つてゐましたが、稻子さんの方は化粧品部とかにゐられたさうで、その時分の稻子さんもすこしも覺えてゐません。どうも僕たちは縁がうすかつたやうであります。

 はじめて知りあひになつたのは、室生さんがまだ田端にゐられた頃で、或る夏のこと、女中さんまでが輕井澤に行かれることになり、宮木喜久雄と僕とで留守居をしてゐたその折のことでした。毎日のやうに、中野重治や窪川鶴次郎や西澤隆二などが遊びにきました。丁度、みんなで「驢馬」といふ詩の雜誌をやつてゐた頃で、みんな元氣でした。中野などは夜の二時頃やつてきて、まだ晩飯を食はぬから食はしてくれといふので、炊事がかりの宮木喜久雄が飯をたき味噌汁をこしらへてゐる間、僕と中野とは室生さんの書齋で花などをやつてゐました。やつと飯がたけ、それから三人で膳に向ひましたら、夜がもうそろそろ白みかけ、どこかで鷄が鳴いてゐました。あのときくらゐ僕は茄子の味噌汁といふものをうまいと思つたことはありません。

 稻子さんもときどき、鶴次郎に連れられて遊びにきました。僕たちは初對面とも舊知ともつかぬ挨拶をしました。稻子さんが一度、大きなおいしい西瓜を持つてきてくれたのを、みんなで何だとかかんだとかその西瓜の惡口を言ひながら食べたことを覺えてゐます。

 中野重治が、稻子さんのひたひがとてもいいと讃めてゐました。たしか edel Stirn だとか何んとか得意のドイツ語をふりまはしてゐました。

 その後、稻子さんがぽつぽつ書き出された詩や小説を讀む毎に、僕はいつもその稻子さんの秀でたひたひを思ひ出すやうになりました。

 この頃、お身體がお惡いさうだけれど、どうしていらつしやるかしら?

底本:「堀辰雄作品集第四卷」筑摩書房

   1982(昭和57)年830日初版第1刷発行

初出:「詩神 第六巻第七号」

   1930(昭和5)年7月号

   「文學界 第一巻第四号」

   1934(昭和9)年9月号

入力:tatsuki

校正:染川隆俊

2010年529日作成

2011年523日修正

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