葉櫻日記
堀辰雄
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──私は、中野重治の譯したハイネの手紙の寫しが以前から私の手許にあるので、それを私の雜誌に載せたいと思つてゐるが、二三個處意味不明のところがある。が、いま、中野には會ふことが出來ない。そこでその原文を一度見たく思つたが、それを所持してゐさうな友人がちよつと頭に浮ばない。やつと竹山道雄のことを思ひ出し、彼がいま其處でドイツ語を教へてゐる第一高等學校に、彼が所持してゐなくとも、或は學校の圖書館にあるかと思ひ、彼を訪ねて行つた。
學校はずつと前から普請中であつた。私は最近も、屡〻その學校の前は通つたが、その中にはひつて行つたのは、實に數年ぶりであつた。教官室があると教へられた新築の校舍の中へ、私は全く始めて來た場所かなんぞのやうに、幾分まごまごしながら、はひつて行つた。──が、合憎、いま授業中なので、まだ三四十分してからでないと竹山君には會へないのであつた。
そこで私は、その間ぶらぶらそこいらを散歩でもしてゐようと思つて、何だかまだ見覺えのある、汚いバラック教室の殘つてゐさうな方へ、歩いて行つて見た。果して其處には、金網を張つた化學實驗室だの、物理實驗室だの、その向うに擴がつてゐるグラウンドなどが、そつくり昔ながらの姿を保つてゐた。そしてそのグラウンドの彼方の、葉櫻の下で、一組の生徒たちが體操をしてゐるのが小さく見えた。──私はそれから、午前の授業中のこととて、ひつそりとしてゐる南寮の傍を通り拔けながら、運動場の方へ行つて見た。よくそこの芝生の斜面に寢ころんで、詩集などに讀みふけつたことのある私は、その芝生の上に、昔と同じやうな恰好をわざとしながら横になつて見た。その頃、同級の者たちが「ジャン・クリストフ」だとか、べエトオヴェンだのばかりに夢中になつてゐるのにいささか反感を覺えながら、私の好んでゐたのはサマンやレニエなどの詩集であり、又、ショパンの音樂であつた。……
そんなことをあれやこれやと思ひながら、しばらく何か氣の遠くなるやうな氣持でゐたが、それから私は立ち上り、今度は朶寮の前の廣場を通り拔けていつた。そこでもまた葉櫻の下で、數名の生徒たちがキャッチ・ボオルをしてゐた。私たちも、此處で、よく授業を怠けては、こんな風にキャッチ・ボオルなどをしてゐたことを思ひ出した。
このままもつとこのあたりをぶらぶらしてゐたら何か貴重なことが思ひ出せさうで、それがついそこまで出かかつてゐるやうで、ちよつと其處を立ち去るのが惜しいやうな氣さへし出してゐたが、そろそろ授業の終る時間が近づいて來たので、その寄宿舍の傍をやつと離れて行つた。そしてさつきの新校舍の方へ行く途中、もう早目に授業が終つたと見えて、向うから一塊りになつてぞろぞろやつてくる、てんでにノオトやインク壺などをぶらさげた生徒たちと、私はすれちがつた。そのとき、彼等の一番後になつて、四五人、運動部の選手か何からしい、體の頑強さうな、大柄な生徒が聲高に話しながらやつて來たが、それにすれちがつた瞬間、私は異樣な心の動搖を經驗した。──私は彼等を目のあたりにしながら、急に自分が小さくなつてしまつたやうな氣がした。彼等が私よりも(私はもう三十だつたのに!)ずつと年上のやうな氣がされ、そして私はあたかも内氣な少年のやうに、彼等から何の理由もなしに輕蔑するやうな樣子をされはしないかと恐れながら、つとめて無關心さを裝ふべく、一所懸命に努力さへし出してゐた。──いましがたまで私の耽つてゐた追憶が、知らず識らず私にかかる影響を與へてゐたのであらうか?
そしてそれは、數分後、新校舍のうす暗い廊下に五六人の生徒に取り圍まれて、一人の若い教授が、何か話しながら立つてゐるのを目に入れた瞬間、それが私に誰かを思ひ出せさうでゐて、すぐにそれが私の搜してゐた當の竹山道雄とは氣がつかない位であつた。
底本:「堀辰雄作品集第四卷」筑摩書房
1982(昭和57)年8月30日初版第1刷発行
初出:「橄欖樹 一高文藝部編」第一高等学校校友会
1935(昭和10)年2月1日
入力:tatsuki
校正:染川隆俊
2013年5月12日作成
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