眠れる人
堀辰雄
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その女が僕を見てあんまり親しげに微笑したので、僕はその女について行かずにゐられなかつた。もうすべてのものは眠つてゐた。ただ風だけが眼ざめてゐた。が、それとても、町中に散らばつてゐる紙屑をすら動かすほどのものではなかつた。それはむしろ空氣の流れと云つた方がいい。それが僕をうしろから押すのである。眼を閉ぢてそれに押されるままになりながら、僕ははげしい疲勞を感じてゐる。女は僕から十歩ばかり先に歩いて行くが、かの女もまた僕のやうに疲勞してゐるのだらうか、そしてやはり眼を閉ぢて空氣の流れに身をまかせてゐるのだらうか。かの女と僕とは夜よりも暗い町の中をいくつとなく通り過ぎる。僕はもう僕が何處を歩いてゐるのだか知ることが出來ない。そしてただこの夜の空氣の流れが僕たちに一つの方向を與へてゐるやうに思はれる。家々はすつかり閉されてゐる。たまに窓にあかりが點いてゐても、僕たちがそれに近づくと、あたかも僕たちを恐れるかのやうにそれは消されてしまふ。そのやうに二人きりで歩いてはゐたが、しかし女は僕があとからついて行くのを知つてゐるのかどうか一寸も解らない。それほど女はすべてのものに無頓着にゆつくりと歩いてゐる。そればかりではなく、僕までが自分のつけてゐるその女の事を忘れてしまふ瞬間がある。眠りがときどき僕たちの中を通り過ぎるのである。その度毎に僕は歩きながら眠る。しかし眠りが非常に靜かに僕の中を通り過ぎるので殆どそれに氣づかない位である。僕たちはある廣場に出る。突然、一臺の自動車が僕たちを追い越すためにサイレンを鳴らす。それが僕を眼ざめさせる。すると僕は、その瞬間まで殆ど感じてゐなかつた眠たさを急に感じだすのである。眠りは僕の手や足にうるさくからみつく。そしてまたいつのまにか僕の眼は閉ぢてゆく。こんどは冷たくなつた空氣がそれを開かせる。僕たちは長い橋の上を渡つてゐるのである。橋の下の水はまつたく動いてゐない。死んでゐる波、手足の硬直してゐる波、波の木乃伊、川岸の竝木は僕たちよりもずつと大きな影を持つてゐる。僕たちの影はときどきその中にはひつて消される。一つの弱々しい言葉が僕の口から逃げ去る。僕たちは何處へ行くのか? しかし僕には僕のはげしい疲勞にもかかはらず、もつと空氣が、もつと歩行が必要のやうに思はれる。僕は女のあとから再び夜よりも暗い町の中へ入つて行く。と突然、ある町の隅から一匹の白い犬が飛び出してくる。それはかの女を見知つてゐるのであらう。それはかの女を嗅ぎながらかの女のまはりをうれしさうに走り𢌞る。かの女はそれに自分の着物の裾を勝手に噛ませながらなほ進んで行く。それからかの女は不意に一軒の小さなみすぼらしい家の前に立ち止まる。そしてそこに犬を殘したまま、一寸もうしろをふり向かうとはせずに、小さな家の中へ入つてしまふ。するとその犬はおとなしくその家の不氣味な恰好をした影の中にうづくまる。あたかもかの女がまたすぐ出てくるのを信ずるやうに。その樣子が、再び方向を失はうとしてゐた僕に、一つの希望を與へる。僕もその場に、その小さな家からすこし離れたところに立ち止まる。そしてかの女の出てくるのを待つことにする。その時その犬ははじめて僕を認めたらしくおそるおそる僕に近づいてくる。そして僕を嗅ぐ。僕はその犬と顏を見つめあひながら溜息をつく。そのうちに急に犬の方でも僕に慣れ慣れしくなつて僕の足もとに横はる。そしてもうそこを離れようとしない。僕はと云へば、僕はもう自分一人だけの力ではとても歩き續けられないやうな氣がするのである。それにいまし方まで僕のうしろから押すやうにしてゐた空氣の流れも何だか止まつてしまつたやうである。僕はあらたな疲勞を感じる。僕は非常に眠たい。僕はときどきそこに立つたまま眠る。僕は夢を見る。その夢はしかしすぐ僕の短い眠りからはみ出る。そして小石につまづくやうに現實にぶつかる。しかしそれがどんな短い夢であつても、僕には長い夢のやうにしか思はれない。僕は一日中のあらゆる時間を夢みる。現在をすら夢みる。そしてそこに夢と現實とが重なり合ふ。僕には何處から何處までが夢であり、そして現實であるのか區別することが出來ない。僕はときどき何處かで小鳥が鳴くのを、そしてまた僕の心臟が鼓動するのを聞く。
すべてはかうである。
夢が變化するのは偶然によるのではない。それは眠つてゐる者のする姿勢につれて變化して行くのである。そのやうに、これらすべてのものは變化して行つたのであらうか。すべては晝間も眼をあけて立つたまま眠つてゐる僕のためであらうか。
すべては……
それは野球場であつた。ここにはあらゆる種顆の人達が見られるのである。手を拍つて喜んでゐる人達、顏を眞赤にして罵つてゐる人達、絶望したやうに默つてゐる人達、それらを見ながら絶えず微笑してゐる女達、そしてそれからさういふ人達のまん中に、背中に一杯日を浴びながら居眠りをしてゐる僕自身がゐるのである。突然新しい喧騷がその前の喧騷と入れかはる。それが僕を眼ざめさせる。バツトの音、飛んでゆくボオル、それを追つかけてゆく選手等、青い空、太陽。それからまた僕は何の感動もなしに眼を閉ぢる。僕のまはりの騷がしさも僕の夢見心地を快くゆすぶるばかりだ。誰かが僕の名を呼んでゐるやうである。僕は眼を半分開けてその聲のする方をふり向く。それは茉莉である。かの女は僕の傍で僕に聞きとれない言葉をいつまでも喋舌つてゐる。それからかの女は急に僕に顏を近よせて何でもいいからあと三時間したらカフエ・リツツに來いと云ふのである。僕は腕時計を見る。三時十五分。僕はかの女が時間の正確に病的な興味を持つてゐるのを知つてゐる。「六時十五分にだね?」僕がさうかの女に聞きかへす暇もない位かの女は素早く僕の傍を離れる、まるで僕に怒つたやうに。僕はかの女の後姿をすこし見送る。それから僕は自分のやうにかの女の後姿を見送つてゐる多くの男達を見まはしていまさら驚く。何と多くの男達がかの女の姿を見ることによつて一つの共通な感動に捉へられてゐることか。僕は人々がかの女に就いて僕に云つたことを一つ一つ數へあげる。かの女は蠱惑的だ。かの女は金持だ。かの女は愉快な會話をする。かの女は決して不機嫌な顏をした事がない。かの女は運動好きだ。かの女は上手に水泳する。ただしかしかの女には男を愛する事が出來ないと。最後にはかならず人々によつて附け加へられるところの一つの言葉。それは眞實であらうか? それともそれは單なる人々の中傷に過ぎないのであらうか? ともするといまの僕はそれを眞實であらうと思はずにゐられなくなるのである。それはさつきから北のことが僕の頭の中に浮んでゐるからである。それは昨夜のことである。北は僕の家まで送ると云つて僕についてきた。彼は一人になることを非常に恐れてゐるやうだつた。そしていよいよ別れようとした時、彼は遂に彼の「黒い思想」を僕に打明けたのである。「だつて茉莉が君を愛してゐるぢやないか」僕が云つた。「あの女は僕のことなんか何とも思つてやしない、僕が死んだつて」彼がさう絶望したやうに云ふのを聞きながら僕は僕の一年前の危機を思ひ起した。──心の中の手のつけやうのない混亂が一時的に青年を全く無氣力にするのである。彼は自殺を決心する。しかし藥品を飮む前に彼は彼がそれから離れられないために苦しんでゐた寫眞や手紙等を燒きすてる。それと同時に彼は自分の中の混雜が急に整頓されだしたのに氣づく。そして彼にはだんだん自殺の必要がないやうに思はれだす。彼は再び生きようとする。──そこに僕の周圍の數人の青年等が居た。僕が居た。そしてそこにいま僕の前にすつかり絶望し切つてゐるやうに見える北がゐるのである。だから僕は彼のこの瞬間の絶望した顏つきから無駄な心配を感じないやうに彼から眼をそらしながら、「失敬する」と簡單に云つたばかりであつた。それはまだ昨夜のことでしかないのである。が、彼はいまどうしてゐるだらうか? それにしても茉莉、人でなしの茉莉よ! かの女に就いて人々の云ふことは眞實なのだらうか? ……僕は遠くの方にかの女を眺める。僕のところからはかの女の眼も口も鼻も見わけることが出來ない。それらはみんな一しよに炎のやうになつて燃えてゐるのである。
やつと夕暮になる。そして試合が終る。人々は立上つて歩き出す。僕はグラウンドがすつかりからつぽになるのを待つて一番最後に立上る。その間に僕は茉莉を見失ふ。僕は疲れ切つて頭を垂れながら人々のあとについて行く。しかし僕には僕の前の人々も彼等が何處へ行かうとしてゐるのか彼等自身さへそれを知つてゐないかのやうに思はれる。それなのに僕は彼等について行く。他に仕方がないからである。僕のすべきことはただゆつくり夜を待つてゐるといふ事だけだからである。そしてやつとその夜が來た時、僕は僕のまはりの人々が、埃りが夜の中へ入つて見えなくなるやうに、一人一人夜の中へ入つて見えなくなつたのを發見する。六時十五分。僕はある小さなレストランの中へ入つて行く。僕のすぐあとから、茉莉も入つてくる。食事をする。「あたしお腹がすいてるの」さう云ひながらかの女は音を立ててスウプを吸ふ。かの女はフオオクとナイフを亂暴にぶつける。そしてかの女はせはしさうに齒を動かす。かの女は僕に退屈させまいとして話をするためにしか咀嚼するのを止めない。僕はたえずかの女を見たり聞いたりしながら他愛なく笑つてゐるのである。そのうちに一人のボオイがかの女の食ひ散らした皿を持ち去らうとすると、かの女はそのボオイに何か云つてからかふ。するとそのボオイはにやにや笑ひながらいやな眼つきでかの女を見かへす。それを見ながら僕は一寸不愉快になる。いつか僕の友人の一人がかの女を不正に中傷した言葉を思ひ出した位に。その友人は云ふのである。かの女は浮氣者だ。かの女は馬鹿だ。かの女は下等な會話しか出來ない。かの女は誰とでも一しよに寢る。かの女と一しよに寢ないのは恐らく君と僕だけだらうと。僕はそのボオイの立去るのを待つて、すこし眞面目な顏をして問ふ。
「あれから北に會つたかい?」
「いいえ、會はないわ」
「…………」
「…………」
その會話はそのまま僕たちから煙りのやうに立ちのぼつて逃げ去らうとする。それを逃がしてはならない。
「あいつはひどく君の惡口を云つてゐたぜ」
「さうですの」
「君が……」
「そんなことは云はなくてもいいわよ。あたし知つてゐるの。あの方かう云つたんでせう。あたしが生意氣だつて。さうしてあの方を輕蔑してるつて。だけど、あの方だけではないの。みんなさう云ふの。あたしはそんなことを人に云はれる自分を自分で嘲つてゐるの」
喋舌つてゐるかの女の中には何か見知らないものがある。それからかの女は默る。さうしてもう食事の終るまでものを云はうとしない。ときどき女達の中には何か見知らないものがある。それが僕を魅するのである。しかしそれは僕の欲するほど長くは續かない。すべてのものはすぐ明瞭になる。そして蟲眼鏡の中でのやうに僕は女達の心をはつきり見ることが出來るのである。茉莉はハンドバツグの中から小さな鏡をとり出してそれを見つめ出す。僕は知つてゐる、それは化粧を直すためでなく、時間を知るためであるのを。かの女は自分の顏でもつて時計でのやうに經過した時間を知ることが出來るのである。僕たちはレストランを出る。すると茉莉は急にはしやぎ出す。しかし僕にはかの女がどんな顏をしてゐるのか竝んで歩き出したのでよく見ることが出來ない。かの女は云ふ。
「あたし今夜旅行に行くの」
「ふん」
「一人で行くのよ」
「ふん」
「何處へ行くかまだ決めてないの。だけど、まつさきに神戸へ行つて見るわ。あの町でぶらぶらしながら何處へ行くか考へるんだ」
「そんなことは默つてゐた方がいいよ。僕があとから行くかも知れないぢやないか」
「よかつたら、來てもいいわ」
かの女は最後の言葉を云つたかと思ふと、素早く自動車を呼び止めて、その中へ飛びこむ。そしてぴしやりとそのドアをしめる。僕があとからそれへ乘るのを恐れるかのやうに。それからかの女は硝子の向うから僕にさよならをする。微笑をしてゐるが、その微笑は僕にはなんだか意地がわるいやうにも、また非常におづおづしてゐるやうにも見えるのである。
茉莉、お前、一人の見知らない女!
僕はいまお前から離れれば離れるほどお前のことを考へながら歩いてゐるのだ。夜と街、夜の街。僕とすれちがふ多くの女等。かの女等は誰もかもみんな似てゐる。少くとも僕には同じやうにしか見えない。だがお前だけはみんなと違つてゐる。お前の中には何か見知らないものがあるのだ。お前が僕を魅するのは、まだ行つたことのない地方の植物が旅行家を魅するがやうにだ。彼はそれらしい香りを嗅ぐ。彼は自分の前に幻の植物を認める。彼はそれに手を觸れようとする。するとそれは水平線のやうに遠ざかる。茉莉! お前はなんと僕の近くにゐるのだ。そしてまたなんと僕の遠くにゐるのだ。お前はもう汽車に乘つてゐるだらうか? そして窓硝子に額をくつつけながら僕がお前のことを考へてゐるだらうと思つてゐるだらうか? それとももうお前は寢入つてしまつただらうか? ああ、僕はお前を愛し出してゐるのだらうか? いや、僕は男が女を愛するやうには、そして北がお前を愛するやうには、決してお前を愛してはゐない。お前が僕を魅するのはお前の中に何か見知らないものがあるからだ。僕はそれを知るためにのみお前を欲する。僕は自分をお前の魅力から引離すためにのみお前を欲する。僕はお前の後を追つて旅行に行きたいのか? それとも旅行に行きたいのでお前のことを考へてゐるのか? 僕はそれに答へられない。いつそ僕はもうお前のことは考へない方がいい。僕はお前のことを考へないためにお前のために苦しんでゐる北のことを考へよう。さう云へば、北が何處かで僕を待つてゐるやうな氣がする。僕は北を搜さなければならぬ。さうして何度僕は無駄な期待をもつて町角を曲り、バアの中をのぞいて見たか。
僕はたうとうあるバアの中に數人の友人を見出す。僕は入つてゆく。
「君達は北を知らないか?」
皆は怒つたやうに僕をふり向く。
一人が云ふ。
「君はまだ知らないのか、あいつが死んだのを?」
「死んだ?」
「昨夜自殺したんだ」
僕は化石したやうになつてそこに立つてゐる。僕はもうそこに坐つてゐるのだと信じながら。僕は僕の手から帽子を落す。しかしそれにも氣がつかない。それにもかかはらず、僕は僕が少しも取亂したところのない冷靜な樣子をしてゐるのを不思議に感じる。それからしばらくすると、僕は北の死んだことに妙な苛立たしさを感じはじめる。僕はそれがどういふ感情であるのかはつきり解らない。僕にはそれが恐らく僕のエゴイズムから、──北は死ななくともよかつたのに死んだのであり、そして彼はただ自分の苦痛を彼の周圍の者に(ことに僕に)見せつけたいためにのみ死んだのではないかと考へる僕のエゴイズムから、來てゐるかのやうに思はれたのである。
「君は茉莉に會はなかつたか?」
一人が僕に質問する。僕は率直に答へる。(僕はかういふ場合率直にしか答へられない。)かの女と野球場で會つたことを、それからまたカフエ・リツツで出會つたことを、かの女は今夜旅行に行くと云つてゐたことを、かの女はどうも北の死んだことを知つてゐたらしいが何故かそれを僕に云はなかつたことを。それを云ひながら僕はかの女が急に僕の友人等の好奇心の對象になり出したのを認める。彼等はかの女に非常な興味を持ちはじめたやうである。彼等はかの女に就いて議論をし出す。言葉が飛ぶ。それから急速に落ちる。そしてそれは何處へも到達しない。その間絶えず僕は「茉莉」といふ名がさまざまなアクセントでもつて發音されるのを聞いてゐる。それは或は重々しげに、或は輕やかに、或は悲しげに聞える。彼等にとつて茉莉は一つの神祕的な存在であるのである。時間が僕たちの上を流れる。が、それをいくらか倦怠をもつて感じてゐるのは恐らく僕一人であらう。それは僕にはもう茉莉も一個の女に過ぎなくなり出してゐるからである。人々は驚きをもつて云ふ、かの女は男を愛することが出來ないと。もしさうならば、それは僕の友人を絶望には導いただらう。が、それはまた同時に彼をそこから出て行かせたであらう。彼がそこから出て行くことの出來なかつたのは、かの女が他の女達のやうに誰か一人の男を愛してゐることの確信を持つてゐたからに違ひないのである。それは誰であるか? 僕はそれが誰であるか知らない。そして知らうともしない。かの女を僕はもう欲してゐないからである。かの女の中にあつた見知らないもの、それはいまの僕にはつきりしてゐる。それは死の影である。そしていまはかの女ではなしに、死そのものが僕を魅するのである。それが注意深く僕に近づいてくる。そして僕の腕をとらへる。それは僕を立上らせる。そして僕をそこから連れ出す。僕はそれのするがままになつてゐる。僕は夜の空氣と一しよに何か空氣ではないものを吸ひこむ。それは水を飮むやうに快よい。しかしそれはだんだん僕に嘔吐を感じ出させるところのものである。僕はそれを「空虚」と名づけることを思ひつく。その時である。一人の女が僕に親しげに微笑をしながら僕とすれちがつて行つたのは。……
僕の足もとにうづくまつてゐた犬が急に立上つて走り出す。それが僕を眼ざめさせる。僕はその犬が例の不氣味な恰好をした家の影の中へ飛び込んで行くのを見る。それから再びその影の中から一人の女と一しよになつて出てくるのを見る。僕にはそれがさつきの女であるかどうかもはや解らない。しかし僕はその女のあとから機械的に歩き出す。犬に見習つて。すると犬は僕のことに氣がついてときどき僕を待つかのやうに僕の方を向いて立ち止つてゐる。しかし僕がそこまで歩いて行くか行かないうちに、急に思ひ出したやうに、前の女に追ひつくために走り出す。さういふやうな犬の動作にもかかはらず、その女は自分の後を追つてゐる僕に少しも氣づかない樣子をしてゐる。かの女は自分が誰にも見えないと信じ切つてゐるかのやうである。だが僕にはかの女が見えるどころではなく、かの女が何か悲しみをふるひ落しながら歩いてゐることをさへ敏感に感じてゐるのである。そのやうに竝んで歩きながら、女と犬とそれから僕はいくつもいくつも町角を曲つて行く。一つの町角を曲る度毎に、僕には僕たちがますます僕の知らない眞暗な町の中へ入り込んで行くやうに思はれる。すべての町角は神祕的である。どの町角の向うにもきつと誰かが待伏せてゐるやうな氣がするのである。それは強盜だらうか、それは死骸だらうか、それともそれは僕自身だらうか? そしてさういふ町角の一つを、他のどれよりも一そう陰慘に見えるところのそれを、僕が僕のあらゆる不安をもつて女と犬の後から曲らうとした時、僕は突然そこに立ちすくんだ。もはやその先きに女と犬とを見ることが出來なかつたからである。その二つのものはその町角を僕より數秒先きに曲ると同時に跡方もなく消えてしまつたからである。僕はそこに立ちすくんだままもはや一歩も先きへ進まうとしない。僕にはそれより先きの暗闇が何かしら底のない穴のやうに思はれるのである。僕はいつまでもそこにぢつとしてゐる。僕は僕がこの都會の如何なる地點にゐるのか知ることは出來ない。しかし僕はただ僕が死の最も近くにゐることだけは解るのである。風がまたいつのまにか吹きはじめてゐる。前よりはいくらか強く。それは煙りのやうに木の枝にひつかかつたり、何處からかいくつも紙屑をころがしてくる。それは薄氣味のわるい音樂を聞いてゐるやうである。それを聞きながら僕は次第に僕の悲哀が滿足して行くのを感じる。僕は僕の死んだ友のために、このやうに一夜を明かしてゐるのだらうか? さうして僕は、自分が疲勞と眠たさから倒れさうなのを感じながら、しかしその場を去らうとはせずに、いつまでも町角の向うの不氣味な暗闇の中をぢつと見つめてゐる。はじめて夜といふものを見てゐるかのやうに。
底本:「堀辰雄作品集第一卷」筑摩書房
1982(昭和57)年5月28日初版第1刷発行
初出:「文學 第一号」第一書房
1929(昭和4)年10月1日
※初出時の表題は「眠つてゐる男」、「堀辰雄作品集第一・聖家族」角川書店(1949(昭和24)年3月5日)収録時「眠れる人」と改題。
入力:tatsuki
校正:大沢たかお
2012年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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