ある恋の話
菊池寛
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私の妻の祖母は──と云って、もう三四年前に死んだ人ですが──蔵前の札差で、名字帯刀御免で可なり幅を利かせた山長──略さないで云えば、山城屋長兵衛の一人娘でした。何しろ蔵前の札差で山長と云えば、今で云うと、政府の御用商人で二三百万円の財産を擁しておろうと云う、錚々たる実業家に当る位置ですから、その一人娘の──尤も男の子は二人あったそうです。──祖母が、小さい時からお乳母日傘で大きくなったのは申すまでもありません、祖母の小さい時の、記憶の一つだと云う事ですが、お正月か何かの宮参りに履いた木履は、朱塗の金蒔絵模様に金の鈴の付いたものでしたが、おまけにその木履の胴が刳貫になっていて、祖母が駕籠から下りて木履を履く時には、ちゃんとその中に湯を通して置くと云う、贅沢な仕掛になっているそうであります。
祖母は、やっと娘になったかならないかの十四五の時から、蔵前小町と云うかまびすしい評判を立てられたほどあって、それはそれは美しい娘であったそうです。が、結婚は頗る不幸な結婚でありました。十七の歳に深川木場の前島宗兵衛と云う、天保頃の江戸の分限者の番附では、西の大関に据えられている、千万長者の家へ貰われて行ったのですが、それは今で云う政略結婚で、その頃段々と家運の傾きかけた祖母の家では前宗(前島宗兵衛)に、十万両と云う途方もない借財を拵えていましたが、前宗と云う男が、聞えた因業屋で、厳しい督促が続いたものですから、祖母の父はその督促除けと云ったような形で、又別の意味では借金の穴埋と云ったような形で、前島宗兵衛が後妻を探しているのを幸いに、大事な可愛い一人娘を、犠牲にしてしまったのです。
何でも祖母が結婚した時、相手の宗兵衛は四十七だったと云うのですから、祖母とは三十違いです。それに、先妻の子が男女取り交ぜて、四人もあったのですから、祖母の結婚生活が幸福でなかったのは勿論であります。その上、宗兵衛と云う男が、大分限者の癖に、利慾一点張の男だったらしいから、本当の愛情を祖母に注がなかったのも、尤もであります。その上、借金の抵当と云ったような形ですから、金で自由にしたのだと云う肚がありますから、美しい玩具か何かのように愛する代りに弄び苛んだのに過ぎませんでした。その頃まだ十七の真珠のように、清浄な祖母の胸に、異性の柔しい愛情の代りに、異性の醜い圧迫や怖しい慾情などが、マザマザと、刻み付けられた訳でした。が、幸か不幸か、結婚した翌年宗兵衛は安政五年のコロリ大流行(今で云う虎列剌)で、不意に死んでしまいました。
その時、祖母は私の妻の母を懐胎していたのです。何しろ、先妻の子は四人──然もその長男は二十五にもなっていたそうです──もある所に、宗兵衛の死後、祖母が止まっていると云うことは、まだ年の若い祖母の為にも、先方の為にも思わしくないと云うので、祖母が身が二つになると同時に、生れた子供を連れて離縁になることになりました。宗兵衛の後嗣と云うのが、非常に物の判った人と見え、子供の養育料として一万両と云う可なりな金額を頒けてくれたそうです。祖母は、その金を貰って子供を連れて、一旦里に帰って来ましたが、子供を預けて再縁をせよと云う親の勧めや又外から降るように来る縁談を斥けて、娘を連れたまま、向島へ別居することになりました。そして、心置きのない夫婦者の召使いを相手にして、それ以来、ズーッと独身で暮して来ました。恐らく最初の結婚で、男と云うものの醜くさを散々味わされた為、それが又純真な傷き易い娘時代で一段と堪えたと見え、癒しがたい男嫌いになってしまったのでしょう。祖母は向島の小さい穏かな住居で、維新の革命も彰義隊の戦争も、凡て対岸の火事として安穏に過して来ました。そして明治十二三年頃に、その一人娘をその頃羽振の好かった太政官の役人の一人である、私の妻の父に嫁がせたのです。祖母の結婚が不幸であったのと反対に、その娘の結婚は可なり祝福されたものでした。祖母は、間もなくその娘の家に、引き取られて其処で幸福な晩年を送りました。孫達を心から愛しながら、又孫達に心から愛されながら。
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私が妻の祖母を知ったのは、無論妻と結婚してからであります。その時は、祖母は七十を越えていましたが、後室様と云っても、恥しくないような品位と挙動とを持った人でした。私の妻が彼女の一番末の孫に当っていましたから、彼女の愛情は、当時私の妻が独占していると云う形がありました。従って、三日にあげず、私達の新家庭を尋ねて来ました。美しい容貌を持ちながら十八の年から後家を通した人だけあって、気の勝った男のように、ハキハキ物を云う人でありました。
何時も、車の音が門の前にしたかと思うと、彼女の華やかな、年齢よりは三四十も若いような声がしまして、
「又年寄がお邪魔に来ましたよ。若い者同志だと、時々喧嘩などを始めるものだから」などと、その年齢には丸きり似合わないような、気さくな、年寄にしては蓮葉な挨拶をしながら、どしどし上って来るのでありました。私は、祖母を人格的にも好きだった上に、江戸時代、殊に文化文政以後の頽廃し始めた江戸文明の研究が、大好きで、その時代を背景として、いい歴史小説を書こうと思っていた私は、その時代を眼で見身体で暮して来た祖母の口から、その時代の人情や風俗や、色々な階級の、色々な生活の話を聞くことも、非常な興味を持ちました。祖母もまた、自分の昔話をそれほど熱心に聞く者があるので、自分も話すことに興味を覚えたとみえて、色々面白い昔話をしてくれました。江戸の十八大通の話だとか、天保年度の水野越前守の改革だとか、浅草の猿若町の芝居の話だとか、昔の浅草観音の繁昌だとか、両国の広小路に出た奇抜な見世物の話だとか、町人の家庭の年中行事だとか、色々物の本などでは、とても見付かりそうもない精細な話が、可なりハキハキした口調で、祖母の口から話されました。私が熱心に聞く上に、時々はノートに取ったりしたものですから、祖母は大変私を信頼し、私に好意を持つようになりました。妻の姉妹は三人もあって、銘々東京で家庭を持っているのですが、彼等の共通の祖母が、私の家へばかり足繁く来るものですからおしまいには、
『貴方の家だけで、お祖母さんを独占してはいやよ。お祖母さんもお祖母さんだ、青山の家へばかり行って』などと、妻の姉妹が、不平を滾すほどでありました。
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もう、その頃は、祖母の話も、段々種が尽きかけて来た頃でありました。ある日私が、
「何か面白いお話はありませんでしょうか。何か少し変った、お祖母さん御自身がお会いなさったような出来ごとで」と、少し手を換えて話をねだりますと、祖母は少し考えていましたが、「そうだね。私は、私自身の事で誰にも話さないことがただ一つあるんだよ。一生涯誰にも云うまいと思っていたことだが……」と、祖母は、一寸そのいかにも均斉の取れた顔を赤めましたが、「そうだね、懺悔の積りでそっと話そうかね。綾さん(私の妻の名です)なんかの前では一寸話されない話だが丁度貴君一人だから」と、云いながら、祖母は次のような話を始めました。私は、その話を次ぎに書こうと思いますが、四五年前の話ですから、祖母の用いた口調までを、ソックリ伝える訳には行きません。そのお積りで聞いて下さい。
「私は、綾さん達のお祖父さん(それは彼女の夫の前島宗兵衛です)に懲り懲りしたので、もう一生男は持つまいと決心したのです。そして、その決心をやっと押し通して来たが、ただ一度だけ危くその覚悟を破りかけたことがあるのです。恥を云わねば分らないが……」と祖母は一寸云い憎くそうにしましたが、
「自慢じゃないけれど私は、子供を連れた出戻りであったけれども、お嫁さんの口は後から後から断りきれないほどあったのですよ。三千石取の旗本の若様で、再婚でも苦しくない、子供も邸に引取っても、差支えがないと云うような執心な方もあったけれど、私の覚悟はビクとも動かなかったのです。娘が、大きくなるまでは、世間とも余り交際しない積りで、向島へ若隠居をしてしまったのです。その話は幾度もしたけれど──向島へ行って何年目だろう、私が何でも二十四五になった頃だろう。御維新になろうと云う直ぐ前でしたろうか。私は、自分の暮しが、何となく味気ないような淋しいように思い始めて来たのです。それで、やっぱり家にばかり、引込んでいるから、退屈をするのだろうと思って、その頃五ツか六ツになった娘を連れて、よく物見遊山に出かけるようになったのです。今までは世間からなるべく離れよう離れようとした私が、反対に世間が何となく懐しく思われて来たのです。その頃です。私はある男を──この頃の若い人達の言葉で云えば──恋するようになったのです。笑っちゃいけませんよ。お祖母さんは懺悔の積りで話しているのですから。その男と云うのは役者なのです。後家さんの役者狂いと云えば、世間に有りふれた事で、お前さん達も苦々しく思うでしょうが、私のは少し違っていたのです。私が恋したその役者と云うのは、浅草の猿若町の守田座──これは御維新になってから、築地に移って今の新富座になったのですが、役者に出ていた染之助と云う役者なのです。若衆形でしたが、人気の立たない家柄もない役者でしたが、何故かこの役者が舞台に出ると、私はもう凡ての事を忘れて、魂を抜かれたような、夢を見ているような、心持になってしまうのです。何でもこの役者は、大谷友右衛門と云う上方の千両役者、今で云えば鴈治郎と云ったような役者の一座で、江戸に下ったのだが、初めは、江戸の水に合わなかったと見えて、舞台へ出てもちっとも見物受がしないのです。どんなに笑っても、きっと顔の何処かに憂の影が、消え残っていると云ったような淋しい顔立が、見物には受けなかったと見えるのです。また、この役者の動作が、何処までも質素なのです。当り前の旧劇の役者が、怒る時は目を剥いたり、泣く時は大声で喚めいたり、笑う時には小屋を揺がせるような、高声を出す代りに、この役者は泣く時も笑う時も怒る時も質素で、心から泣いたり怒ったり笑うたりする有様が、普通の人が泣いたり笑うたりするのと少しも違わないんですよ。其処が、私の胸にピッタリ響いて来たのです。其処がその頃の見物には、少しも受けなかったところだったのですが」
「今じゃ、そう云う演り方を、写実主義と云うのです。そう云う役者を見出したお祖母さんは、さすがにお目が高かったですね」と、私は心から感心して云った。「貴君のように冷かしてくれては、困るが、何しろ、この役者が見物に受けなければ受けないほど、私はこの役者に同情するようになったのです。この役者の芸を見てやるのは、私一人だと云う気になってね。何でも、この役者を初めて見たのは、鎌倉三代記の三浦之介をしていた時だったが、私の傍に居る見物は、皆口々に悪口を云っていたのですよ。『上方役者はてんで型を知らねえ。あすこで、時姫の肩へ手をやるって法はねえ』とか『音羽屋(その頃は三代目菊五郎だったが)の三浦之介とはお月様と泥鼈だ。第一顔の作り方一つ知らねえ』とかそれはそれはひどい悪口ばかり云っていました。が、私は型に適っているかどうかは、知らなかったが、染之助の三浦之介は、如何にも傷ついた若い勇士が、可愛い妻と、君への義理との板ばさみになっている、苦しい胸の中を、マザマザと舞台に現しているようで、遠い昔の勇士が私の兄か何かのように懐しく思われたのでした。それ以来、私は毎日のように守田座へ行きたくなったのです。それで浅草へお参りに行くと云っては、何も知らない頑是のない綾ちゃん達のお母さんを、連れて守田座へ行ったものです。それも一日通しては見ていられないから、八つ刻から──そう今の二時頃ですが、染之助の出る一幕二幕かを見に行ったのです。終には子供を召使いに預けて、自分一人で毎日のように出かけて行くようになりました。そうなって来ると、今までは何とも思わなかった自分の美しいと云う評判が、嬉しく思われて来たのです。何だか容貌自慢のようですが」と、祖母は、一寸言葉を澱ませました。私はそう云う祖母の顔を見ながら、二十四五の女盛りの祖母を想像してみました。すると、私の眼の前の老女の姿は、忽ちに消えてしまって、清長の美人画から抜け出して来たような、水もたるるような妖艶な、町女房の姿が頭の中に歴々と浮びました。
「その頃まで、自分が美しいと云う噂を聞いても、少しも嬉しいとは思わなかったが、その頃から、自分が美しく生れたことを欣ぶような心になって来たのです。まあ、染之助に近づく唯一つの望みは、自分の容貌だと思ったものですからね」
「ところがね」と、祖母は急に快活らしい声に変ったかと思うと、「染之助の素顔を、一度でもいいから見たい見たいと思っていた願が叶って、外ながら染之助の素顔を見たのですよ。ところが、その素顔を一目見ると、私の三月位続いた恋が、急に醒めてしまったから可笑しいのですよ。その日も、私はたった一人、娘も連れずに守田座へ行った帰り少し遅くなったので、あの馬道の通りを、急いで帰って来たのですよ、すると、擦れ違った町娘が『あら染之助が来るよ』と、云うじゃないか。私は、その声を聞くと、もう胸がどきどきして、自分の足が地を踏んでいるのさえ分らない程に、逆上せてしまったのですよ。それでも、こんな機を外しては、又見る時はないと思ったから、一生懸命な心持で、振返って見ましたよ。ところが、私の直ぐ後に、色の蒼ざめたと云っても、少しどす黒い頬のすぼんだ、皮膚のカラカラした小男が歩いて来るじゃないか、私はこんな男が、あの美しいおっとりとした染之助ではよもあるまいと思って、その男の周囲を探して見たけれども、その男の外には、樽拾いのような小僧と、十七八の娘風の女とが、歩いて来るばかりで、染之助らしい年配の男は、眼に付かないのですよ。私は、染之助の事ばかりを考えていたので、娘の言葉を聞き違えたのであろうと、内心恥しくなったけれど、念のためだと思ったから、その色の蒼い小男の後をついて行ったのですよ。すると、その男は観音様の境内へ入って、今仲見世のある辺にあった、水茶屋へ入るじゃないか。私も何気ない風をして、その男の前に、三尺ばかり間を隔いて腰をかけたのです。男は八丈の棒縞の着物に、結城紬の羽織を着ていたが、役者らしい伊達なところは少しもないのですよ。私はきっと、人違いだと思いながら、何気なく見ていると、物の云い方から身の扱し方まで、舞台の上の染之助とは、似ても似つかぬほど、卑しくて下品で、見ていられないのですよ。こんな男が、染之助であっては堪らないと思っていると、丁度其処へ三尺帯をしめた遊人らしい男が、二人連で入って来て、染之助を見ると、
『やあ! 染之助さん、芝居の方はもう閉場ましたかい』と、云うじゃないか。私は身も世もないように失望してしまいました。染之助の美しさは、舞台の上だけのまぼろしで、本当の人間はこんなに醜いのかと思うと、私は身を切るように落胆したものですよ。すると、その遊び人のような男が、
『どうです、親方。花川戸の辰親分の内で、いい賭場が開いていますぜ』と云うじゃありませんか。これで見ると、染之助という男は、こんな男を相手に賭博を打つような身持の悪い男だと分りました。私は、悪夢が醒めたような心持で、怖しいもの汚らわしいものから、逃れるように逃げ帰ったのです」
「まあ、それでよかった。もし、お祖母さんが、そんな役者に騙されでもしたら、綾子なんかはどうなっていたかも分らない」と、私はホッとしたように云いました。
「ところが、まだ後日譚があるのですよ。……その日、私は家へ帰ってから、つくづく考えたのです。私が恋しいと思っていたのは、染之助と云うような役者ではなく、染之助が扮している三浦之介とか勝頼とか、重次郎とか、維盛とか、ああした今の世には生きていない、美しい凛々しい人達ではなかったかと、そう思うと、我ながら合点が行ったように思うのでした。お祖父さんに、散々苛められて世の中の男が、嫌になった私は、そう云う舞台の上に出て来る、昔の美しい男達を恋していたのかも分らなかったのよ。私は、そう思うと、素顔の染之助の姿が堪らない程嫌になって、日参のように守田座へ行ったのが、気恥しくなり、それきり守田座へは足踏みしなくなったのです」と、祖母は話を終りそうにしました。
「それぎりですか。それでもう、染之助とか云う人にはお逢いになりませんでしたか」と、私が後を話させるように質問しますと、
「だから、後日譚があると云ったじゃありませんか。半年ばかりは、守田座へ足踏みしなかったのですが、ある日の事娘が、
『お母さん、この頃はちっとも、お芝居に行かないのね。昨日、お師匠様の所で聞いたのよ。今度の守田座はそれはそれは大変な評判ですってね』と、云うじゃありませんか。娘を踊りのお稽古にやってあったのですが、そこで芝居の噂を聞いて来たらしいのです。素顔の染之助を見た時に感じた不愉快さが、段々醒めかかっていた頃ですから、私は芝居だけ見る分には、差支えはあるまいと思って、娘を連れて、守田座へ行って見たのです。芸題は忠臣蔵の通しで、染之助は勘平をやっているじゃありませんか。私はあの五段目の山崎街道のところで、勘平が──本当は染之助が、鉄砲と火繩とを持って花道から息せき切って駆けつけるのを見た時に、アッとばかりに感歎してしまったのです。あの馬道の通りで見た、色の蒼黒い、頬のすぼんだみすぼらしい男の代りに、如何にも零落れた武士にあるような、やさしみと品位とを持った男が一生懸命な心持で、駆け付けて来たありさまが、何とも云えず、美しく勇しく私の胸に映ったのです。馬道で見た染之助の素顔のみにくさなどは、何処かに消えてしまいました。私は染之助の勘平を一目見ると、忽ち昔と同じような有頂天な、心持になってしまったのです。それからと云うものは、又毎日のように染之助を見に行きました。今度は染之助に惚れているのではない、染之助の扮している芝居の役々に惚れているのだと、自分でもよく判っていましたから、私は守田座へ毎日のように通うのが、少しも恥しいと思われませんでした。前よりも、おっぴらに、誰に遠慮も入らないと思いましたから、平土間の成るべく舞台に近い、よい場所を買切って毎日のように通いました。三度に一度は、娘を連れて行きましたが、しまいには娘の方で、飽きてしまってついて来ないのを、結句仕合せに思いました。そんなに毎日通う上に、染之助が舞台に出る時間に定まって這入って行き、染之助の出る幕が済んでしまうと、サッサと帰って来るのですから、到頭芝居の中でも、評判になってしまったのです。あの女客は、成駒屋(それは染之助の屋号です)に気があるのだと、評判しているらしいのです。そう云う噂が立つに従って、舞台の上の染之助がじっと私の方を見詰め始めたのです。私は舞台の染之助から見詰められる事は、三浦之介なり、勝頼なり、勘平なり、義経なり、昔の美しい人達から、見詰められるような気がして、少しも悪い気持はしないのです。その中に段々染之助の見詰め方が烈しくなるのです。ただ、あの女は『俺のひいき客だから、見てやれ』と云う位ではなさそうなのです。日が経つにつれて、染之助の私を見詰めている眼付が、火のように燃えて来るのです。私は意外に思わずにはいられませんでした。そうして、私と染之助とは、舞台の上と下とで、始終じっと見詰め合いました。両方で見詰め合いました。私の見詰めているのは、染之助ではなくて、三浦之介とか重次郎などと云う昔のまぼろしの人間だったのですが、染之助はそうは思わなかったらしいのです。
ある日の事、私が何気なく見物していますと、一人の出方が、それはそれは見事なお菓子、今のような餅菓子ではなく、手の入った干菓子の折に入ったのを持って来て、
『これは、染之助親方からのお届物です』と云うのです。私はそれを聞いた時、舞台の上の美しい斎世宮──その時は、菅原伝授手習鑑が芸題で、染之助は斎世宮になっていたのです──のまぼろしが消えてしまってその代りにあの馬道で逢った蒼黒い、頬のすぼんだ小男の面影が、アリアリと頭の中に浮んだのです。その瞬間、私は居たたまらないような不快を感じて、幕が閉ると、逃げるように小屋を出ました。無論、その干菓子などには、見向きもしませんでしたよ。
そんな事があってから、半月ばかりの間は守田座の木戸を潜らなかったよ、又その中に何となく染之助の舞台姿が恋しくなって来るのですよ。何でもその年の盆興業でした。馬琴の八犬伝を守田座の座附作者が脚色したのが大変な評判で、染之助の犬塚信乃の芳流閣の立ち廻りが、大変よいと云う人の噂でありましたので、私はまた堪らないような懐しさに責められて、守田座の木戸を潜ったのでしたよ。平土間のいつもの場所に坐っていると信乃になった染之助が、直ぐ私を見付けてしまいました。それは、長い間母に別れていた幼児が、久し振りに恋しい母を見付けたような、物狂わしいような、それかと云って、直ぐにも涙が、ほとびそうな不思議な眼付でありました。私は半月も来なかったことが、染之助に対して、何となく済まないように思った位でした。染之助の信乃は、相手の犬飼現八と、烈しい立ち廻りをしながら、隙のあるごとに私の方へ、燃ゆるような流瞥を送っているのですよ。実際の染之助から、こんなに度々、見詰められては、一分も座に居られなかったに違いない私も染之助が信乃になっているばっかりに、何だか信乃の恋人の浜路にでもなったように、信乃から見詰められる事が胸がわくわくする程嬉しかったのですよ。私も、信乃から見詰められる度に、じっと見返したり、時にはニッコリと笑って見せたり、恋人から見詰められたと同じように、うっとりとなっていたのです。
やがて、幕が下ってから、手水を使いに廊下へ出ると、気の付かない間に、私を追いかけて来たらしく私の用をしていた出方が、
『もし奥様、ちょっと』と云うじゃありませんか。元来私は後家暮しはしていたものの、髪を切らないばかりでなく、勝山に結ったり文金の高島田に結ったりしている上、それで芝居に出這入するようになってからは、随分意気な身装をしていたから町家の奥様とも見えれば、旗本のお妾さんのようにも見えたのでしょうよ。私が、
『何か用かい』と立ち止って聞くと、出方は声を低めながら、
『あの染之助さんが、是非一寸奥さんにお目にかかりたいと云うのですが、……』と、モジモジ揉手をしながら云うのでした。もし、その時、出方が『あの犬塚信乃さんが』とでも云ったら、私は二つ返事で会いに行ったかも、知れなかったのだけれど、染之助と云うと、直ぐ馬道であった色の蒼黒い小男の顔が、アリアリと眼の前に浮んで来て、逢う気はしなかったのですよ。私は、可なり冷淡に、
『何の御用か知りませんが、御免を蒙りたいと云っておくれでないか』と、云いました、舞台姿はあんなに私の心を囚えていながら、役者その人は恋しいとも何ともないのでした。出方は、私の顔を見て呆気に取られていたようですが、そのままスゴスゴと行ってしまいました。
それからも、私は狂言の変り目毎に、三四度は欠かさずに、見物していました。見物する毎に、染之助が、私を見詰める瞳が益々熱して来るのに気が付きました。余り染之助が私を見るので、私の傍に坐っている女客達が私に可なり烈しい嫉妬を、見せる程になりました。が、私と染之助とは、一度も逢ったことはないのです。染之助の方でも、私が彼の言伝をきっぱりと断ってから、私の心が測りかねたものと見えて、もう少しも手出しをすることはありませんでした。が、私は染之助こそ、嫌っていたが、染之助の扮した芝居の中の若い美しい人達が私を見詰める時には、恋人に見詰められたような嬉しさを感じて、じっと見詰めかえしていたのでした。
丁度私が、二十六の年の十月でした。染之助の居る一座は、十月興行をお名残りに上方へ帰って、十一月の顔見世狂言からは、八代目団十郎の一座が懸ると噂が立ちました。私は、二年近くも、馴染を重ねた染之助の舞台に、別れねばならぬかと思うと、今まで自分の眼の前にあった華やかなまぼろしが、一度に奪い去られるような淋しさを感じました。が、その噂は、時が経つに連れて本当だと云うことが分りました。
私は、お名残だと思ったものですから、その興行は、二日隔き位に足繁く通いました。その時の狂言は、義経千本桜で、染之助はすし屋の場で、弥助──実は平維盛卿になっていました。私は、あの召使に身を窶しながらも、溢れるような品位を持った維盛卿の姿を、どれほど懐しく見守ったことでしょう。私は、維盛卿に恋をするすし屋の娘をどれほど、羨しく思ったでしょう。しかも、私はこの維盛卿が、私の眼に写る染之助の最後の姿だと思うと、更に懐しさが胸に一杯になるのでした。
ところが、この狂言が段々千秋楽に近づく頃でした。染之助の舞台姿に別れる私の悲しさが、段々私の小さい胸に、ひしひしと堪えて来る頃でした。私がある日、すし屋の幕が終ると、支度もそこそこに帰りかけると少しも顔馴染のない役者の男衆らしい男が、私を追っかけて来て、
『染之助親方が、これは御ひいきに預りましたお礼のしるしに、差上げる寸志でございますから、まげてお受納下さいますようと申しておりました』と、云いながら、紫縮緬の小さい袱紗包を出すのでした。染之助と云う役者には、少しも興味のない筈の私も、やっぱり染之助の舞台に、名残が深く惜しまれたためでしょう。無言で黙礼しながら、その袱紗包を貰いました。何か染之助の紋の入った配り物だろう位に、思っていたものです。が、家へ帰って来て、開けますと、中から出たのは、思いがけなく一通の手紙でした。それには、役者とは思われない程の達筆でこまごまとかいた長い文句がありました。もうたしかな事は忘れてしまったが、何でもこのような意味の事が書いてあったのでした。
過ぐる二年あまりの年月の間に、貴女様はその美しい二つのお眸で、私を悩み殺しにしようとなさいました。貴女は私を恋していて下さるのでもなければ、それかと云って憎んでおられるのでもない。ただ長い間、私を弄んでおられたとより外には、考えようもありません。初め、愚な私は貴女が私を恋して下さるものだとばかり思って、どれほど自分自身を幸福な人間だと、考えたことでしょう。私は、見物から、余り喝采も受けませんでしたが、貴女の二つのお眸が、私の動作を、じっと見ていて下さるのだと思うと、千人の見物から喝采せられるよりも、どれほど嬉しかったか知れません。その中に、私自身貴女の眸の力が、私の心の奥深く日に増し、貫いて来るのを感じました。私は、役者として長い間、色々な女性にも接して来ましたが、貴女ほどの美しさを持った方に一度も逢ったことがないように、思い始めたのです。何時の間にか、私は貴女をお慕い申すようになっていたのです。私は貴女のお姿が見えない時は、見物席がどんなに一杯であろうとも、芝居をするのに少しも力が入らないのです。又それと反対に、どんなに入りが少い時でも、貴女のお姿が平土間の一隅に見えますと、私は生れ代ったような力と精神とで、私の芸を演じました。そして、私の動作につれて貴女のお眼の色が、輝いて来るのを見て、どんなに幸福を感じたでしょう。私が舞台の上で歎けば、貴女もお歎きになり、私が舞台で笑えば、貴女もお笑いになるのを見て、私はどんなに嬉しく思ったでしょう。私は、貴女が私を愛していて下さることと信じて疑いませんでした。そして、貴女が私に恋を打ち開けられるのを、じっと辛抱して待っていました。が、私の期待は外ずれて、貴女は仲々その堅い蕾を、お開きにならないように、私には思われたのでした。私は、到頭自分自身の方から、切ない恋を打ちあける手段を取りました。ところが意外にも、それは貴女に依って手酷い、少しの同情もない、拒絶にあってしまったのでした。私は、大変な思違いをしたと思いました。私は、貴女が私を愛して下さるものと、そのとき思い詰めていたのでした。貴女が、私を見詰めてて下さると思ったのは、皆自分の迷いで、普通の見物が役者を見詰めるのと同じ意味で、貴女も私を見詰めておられたのだと思うと、私は自分の思違いが、穴にでも入りたいように、恥しく思われたのです。私はその事があって以来、暫く貴女のお姿が、見物席に見えなかったので、愈々私の思い違いを信じ、貴女が私の無礼をお怒りになり、あれきりお姿をお見せにならなくなったのではないかと思うと、私は身も世もないような、深い失望と嗟嘆とに暮れてしまいました。その当座と云うものは、私はよく動作を間違えたり、台詞が誤ったり気の短い座頭から、よく『間抜め! 気を付けろ!』と云ったような烈しい言葉を浴びせかけられたりしました。が、私は急に魂を奪われた人間のように、藻抜けの殻の肉体だけが、舞台の上で操人形のように、周囲の人達の動くのに連れられて、ボンヤリ動いていたのに過ぎませんでした。世間からは、男地獄のように思われている俳優の一人である私は、今までも随分恋もし、女も知っているのではありますが、私の心の底までも動かして、強い一生懸命の恋をしたのは、これが初めてでございます。しかも、私はその懸命必死な恋に、破れた訳でありますから、その当座はかように落胆失望致したのも、無理はございません。ところが、いかがでございましょう。貴女の事を段々思いきり、貴女が私を思って下さると思ったのは、私の飛んでもない心得違いだったと、漸く諦めかけていた時でした。私はふと──左様でございます。あれは確か、私が八犬伝の信乃で舞台へ出た時であります──見物席の方を眺めますと、何時もとは異って、平土間の見物席の辺りが神々しく輝いているように思ったのであります。これは私が大仰に申すのではありません、実際に私はそう感じたのであります。あああの御婦人が来て下さったなと、私は直ぐ感づいてしまいました。私は犬飼現八と立ち廻りをしながら、隙を窃んで、見物席の何時も貴女が、坐っていた辺りを見ますと、私の感じは私をあざむいてはおりませんでした。小石のようにゴタゴタ打ち並んだ客の中に、夜光の球のように貴女のお顔が、辺を圧してとも申しましょうか、白々と神々しく輝いていたではありませんか。しかも、あの二つのお眸が美しい私の身に取っては、懐しさこの上もない光を放って、犬塚信乃になった私の身体を、突き透すほどに鋭く、見詰めておられるではありませんか。それは、明かに恋の瞳です。恋に狂っている女の瞳です。私は貴女から手酷く拒絶せられたのを忘れて、やっぱり貴女は私を思っていて下さるのだと、考えずにはいられませんでした。が、あの日私が又々無躾を申して、貴女様から、手酷く拒絶されたことは申上げますまい。が、その後も貴女様は毎日のようにお見えになりますので、私の無躾な申出が、貴女の気に触ったので、貴女が私を思って下さる事には変りはないのだと、私はホット安堵の胸を撫でずにはいられませんでした。時期を待たねばならぬ。貴女が自然に私にお心を、打明けて下さるまで、静に待っているより外はないと私は覚悟を決めて、それ以来は、ただ舞台の上だけからじっと貴女を見詰めていたのです。その時から、もう一年半になります。その間、貴女の私を見詰めて下さるお眸は段々輝いて来るばかりで、今にも今にも貴女のお心の中の思は、張り裂けるだろうと、私は考えずにはいられませんでしたのに、貴女は御熱心に舞台の上の私を見詰めて下さるだけで、一寸も一分も私に近づこうとはなさらないのであります。私はこの頃では、貴女のお眸の謎に苦しめられない日はなくなりました。それは、恋の眸ではないのか、ただ上部だけで私の心を悩し焼きつくしても、その底には少しも温味も慈悲もない偽のまどわしの眸であったのかと、私は思い迷うようになりました。私は、この頃では貴女に見詰められることが段々苦しくなりました。貴女のお眸の謎が、私の心にも身にも、堪えられないほど、重々しくヒシヒシと懸って来るのです。私は一日もこの重さに堪えられなくなりました。ところが、今度思いがけなく一座が、京の方へ上る事になりました。段々、出立の日が近づいて来るのであります。私は江戸に深い執着も持っていませんが、ただ貴女のお眸の謎を──貴女の本当のお心持を──解かないで、江戸を去るのが、如何にも心残りであります。今まで、私の舞台をあれほど、見物して下さったお情に、ただ一度でもよいから逢って下さいまし。そして、貴女のお口から、貴女の本当のお心を話して下さいまし。私は、貴女のお口から、お前を愛していたと、云う言葉だけを聞けば、私はそのお言葉を、何よりの餞別として、江戸を去る積りであります。又、貴女のお口から、お前を愛してはいなかった、と云うお言葉を聞いても私はやっぱり、何よりの餞別として、江戸を去りたいと思うのです。どうか、私の一生の願を聞いてやると思召して、ただ一度で宜しゅうございますから、お目にかかることは出来ませんでしょうか。
まあ、こう云ったような意味が、それはそれは長たらしい文句で書いてあったのです」
「それでお祖母様も、到頭お会いになった訳ですね」と、私が聞きますと、祖母はうっとりと、昔を思い出したような眼附をしながら、
「会ったことは会ったのです。向うも、やっぱり私の心持が、少しは分ったと見え、芝居茶屋の二階へ舞台姿の維盛卿でやって来たのです。私は蒼黒い頬のすぼんだ小男の染之助の代りに、美しい維盛卿と逢ったのだから、先方が神妙に控えている中は好かったけれど、その維盛卿が私の前で手を突いて、何かクドクドと泣いたり口説いたりするのを聞いていると、維盛卿の姿の下から、あの馬道であった、染之助の卑しい姿が覗いているような気がして、真身に相手になってやる気は、どうしても起らないので、私はいい加減に切り上げて帰ったが、先方ではヒドク落胆していたようだったがね」
「それから、どうなりました」私は話の結末を聞こうと思いました。
「それきりでした。京へ行ってからはどうなったか、丸きり消息はありませんでした。尤も御維新のドサクサが直ぐ起ったのですからね」と祖母は昔を想い出したような、懐旧的な情懐に沈んで行ったようでありました。私は、祖母の恋物語を聞いて、ある感銘を受けずにはいられませんでした。役者買とかをする現代の貴婦人と云ったような階級とは違って、祖母が役者の醜い肉体には恋せずして、その舞台上の芸──と云うよりも、その芸に依って活される、芝居の人物に恋していたと云う、ロマンチックな人間離れをした恋を、面白く思わずにはいられませんでした。世の中に生きている、醜い男性に愛想を尽かした祖母は、何時の間にか、こうして夢現の世界の中の美しい男に対する恋を知っていたのです。私は、こうした恋を為し得る、祖母の芸術的な高雅な人柄に、今更のような懐しみを感じて昔の輝くような美貌を偲ばすに足る、均斉の正しい上品な、然し老い凋びた顔を、しみじみと見詰めていました。
底本:「藤十郎の恋・恩讐の彼方に」新潮文庫、新潮社
1970(昭和45)年3月25日初版発行
1990(平成2)年1月15日第34刷
初出:「婦人之友」
1919(大正8)年8月
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年8月9日作成
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