花の前花のあと
折口信夫



歌舞妓にからんだ問題は、これをまじめにあつかふと、人が笑ふくらゐになつてゐる。と言ふと誰でも、それは誇張だと思ふだらう。けれども、さう言ふ下から、誰でもまじめには考へてゐない。うつちやつておいたつて、どうなとなるだらうし、惜しいやうでもあるが、法隆寺だつて焼亡する世の中だから、それに比べては、大した悲しみでもない、と言はず語らぬ、さう言ふ簡単な見通しめいた気持ちが、誰の頭にもあるのではないか。事実我々のやうに、さう深く訣らないが、替り目には、なるべく都合して観に行く習慣のついてゐる者には、さう言ふことを考へると、何だか、門松のない正月や雛を飾らぬ節供をする様な、そんな寂しさうな、取り越し苦労が感じられる。法隆寺より、問題は小さかつたが、今年金閣が炎上した時には、其自身の問題のほかに、歌舞妓の亡びるのが、象徴せられてゐるやうな気がして、妙にめいりこむやうな気のしたものである。これには一種芳しくない知識がまじつてゐるので、水を注されたやうな反省が起つたのであつた。それは、故人松本幸四郎が近年演じた金閣寺の松永大膳の、背継ぎ台に昇つて、薙刀を頭上に横へて、所謂大入の見得をした姿である。その時思つた事は、もうこの「祇園祭礼信仰記」は、この優人と共に消えてゆくのだらう。論より証拠、それに対立してゐる吉右衛門の寂しく見えること──たとひ吉右衛門が残つても、これでは事実、もう金閣寺の舞台は見られなくなる。さう言ふ諦めと言ふでもない、変にさば〳〵した気持ちを感じたものである。さうした後で私が、芸能に対して起し易い一種の利己主義に、いさゝか愛想のつきる思ひがした。そんな事のあつた暫らく後、実際の金閣が亡びたのだから、あの真白く塗つた顔に、親王鬘をかぶつた国くづしの立敵の姿を、灰燼になつた金閣の幻想の上に見たのも、私だけには理由がある。だが、かう言ふ錯覚は、歴史も時代もとび越えた空想で、一挙に江戸末期の無教養の民と選ぶところのなくなる、私の知識の浅さを、自分で嘲笑ふ気がした。

金閣寺の舞台は、大膳ばかりで出来るものではない。無論、東吉真柴久吉は居なくてはならぬし、東吉の碁の相手になる、何とか言ふ鬼若衆もなくてはならない。舞台を上手から出て、花道へ通過するだけの狩野直信など言ふ不得要領な役も、之を除けば、この芝居の重要な楔が抜けるやうな気がするだらう。第一、雪姫と言ふ中心になる女形の役があつて、舞台の意趣は深くなる。併し何よりも重要な大膳が出なくなつては、この狂言は成り立たない。敵役・立役・女形・若衆形・道化役その他これ等の系統がいろ〳〵分化した役形のうちで一二に位する重要な立敵役が、先代幸四郎の死亡と共に、歌舞妓芝居から消え去つたのである。尤、その後瞬くうちに、新しい幸四郎を名乗つて、以前の染五郎と言つて、芝居道に珍しい堅気の仁を思はせる人が、後を継いで、かの立敵系統の芸にも努力し出してゐるのは感謝すべきことだが、さういふことをさせるのが本道か、何かそこに誤算があるか、其点私どもの様に、考への両端に働く人間にとつて、容易に判断の出来る問題ではない。それと同じ様なことで、もつと今では重要なと思はれる役柄が、女形である。たとへば大正の市川松蔦のやうな前型のない娘形が出て、その模倣者の出ようとするのに対して、芝居観賞家は苦い顔を向けた。其後、故菊五郎が、柄になかつた女形を特殊な方法で完成するやうに見えた。その系統の女形が、菊之助梅幸であつて、ある種の特殊な女性を作り出しさうである。

其は其として、どうしても女形だけは、なほしばらく、もとの変成男子型のものか、こゝでもつとかつきりしなくては、歌舞妓芝居は中心からくづれ出してくる。と思ふうちに、思ひがけなく、古い型のまゝにのし上つて来たのが、今の芝翫である。この人の行き方では、歌舞妓は飛躍はしないだらうが、しばらく、歌舞妓の旧い池水は静かな水面を湛へてゐるであらう。梅幸式にゆくか、芝翫型に止るか、これが歌舞妓の狭い世界では、本たうに実際問題なのである。私などは、芝翫の努力の方が、梅幸の為事よりも実際的で、又、歌舞妓の宿命に従つた、動きとなるのだらうと思つてゐる。

えつせいの様なこの文章も、歌舞妓役者を語るつもりではないのだが、なほ一両人を話の舞台に登せてもよろしいだらう。

今のところ、まだ大きな未知数として、歌舞妓の世間では、海老蔵と言ふ人に、問題をかけてゐる。情熱の深い人だが、それが歌舞妓風な動作やあくせんとでは自由に流動して来ないやうな所が残つてゐて、そこに異質の芸風が保留せられてゐるのではないかと言ふ気を持たせる。教養はあるが、その教養は、むしろ今では常識に過ぎないので、それほど深い芸術に対する理会を説明することにならない。だが、なまじひに甘い近代感などに動かないのが、此役者の大きな天分に任じてゐることを見せてゐる。

今のところ、若い歌舞妓役者に、新劇を見せたり、研究させたりすることは、百害あつて一利もない。それほど、彼等は(近代を)簡単に学び取らうとするのである。それと、も一つ今の世の経済生活に対して、計数的な理会が無ければ、近代を戯曲し、演劇する事が出来ないといふなまな生活観がある様である。其為に未完成ながら有望な若い優人たちが、単なる技術者になつてゆくことに気がつかない。美術家・音楽者が、芸術の饗宴に有頂天になつてゐても、それで芸の近代質が喪失するものでないことを、彼らは知らない。近代は理智によつてのみ学び取れるといふ風に考へてゐる。

こんな点において、俳優が芸術と思想と、二元的に生きてゆくことを認めてゐる、共産系の人々は、大きに反省しなければならない。むしろその程度の近代の理会ならば、皆無であつた方が芸術の障りとならないであらう。彼等の生きてゐるのが近代であり、彼等の食餌が亦近代であることに信頼してかゝつてよいからである。だから私どもの好意を持つ若い役者達の誤つた歩みを深めてゐる人達の、桝をもつて酒の如何に人を酔はすかを量らうとするやうな、誤つた考へだけは、卒業させたいものである。

だから芝翫のやうに、まるで近代に呼吸してゐないやうに見える役者や、勘三郎の如く、芸術そのものさへも歓楽化する以外に意味を認めないと言つた顔をしてゐる人たちに、むしろ新しい芸の期待さへかけてゐるのである。さう言ふ方面において、最歌舞妓質を持つた生活をし、又今現れかけてゐる転機が熟して来た時に、大きな望みをかけてよいのが、この海老蔵である。

新劇は最近に又一頓挫を来した。けれどもそれはある意味において明るい希望をもつてゐる。此が今までの誤算を清算する機会になりさうだからである。新劇人の近代に対する理会を、私は軽蔑しない。けれども彼等が長い労苦の割合に得るものが少かつた。それは芸術よりも先に、観客においてすら、どれ程多くち得る所があつたか。さうして我々の知つた数人の、もう一流級に数へてよい人々の芸力ですら、我々を満足させない。併し、なほ望みを将来にかけなければならぬ新劇を、中途で手折り捨てるやうな発言は、謹しまなければならぬと思ふ。それよりも私は歌舞妓芝居が、如何に新劇を学び取ればよいかと言ふことを、忘れようとしてゐる。

歌舞妓芝居の何をおいても、あらゆる他の日本の演劇にすぐれてゐる点は、感覚的な美が、到る所に見出されることである。──たゞ極端な世話物においては、それを喪失してゐることが間々ある。はじめて木戸を潜つた見物にも、又予備知識において其人々と選ぶ所のない外客すらも、歌舞妓の持つ或種の美を享け取ることが出来る。殊に江戸歌舞妓に発達した舞踊が、その外面に添つて極度に延びて来てゐる。たとへば、吉野山道行は、近頃の背景では如意輪堂をのぞんだり、一目千本を眺めた形になつてゐる。併し浄瑠璃を聞いてゐると、多くは京を出て吉野に入るまでの道行、即山城・大和の平野と、農村と山川の入りまじつた間を進行する旅の場面である。併し踊りの経歴を積んだ少い見物の外、これをさう受け取つてゐる人があらうか。必しも此静・忠信の旅行のぱのらまばかりでなく、およそ道行は、さういふ精神で演じられてゐるのである。それを多くの見物は一ヶ所において行はれてゐるものゝやうに考へて見てゐる。併し歌舞妓の与へようとする官能的な美は、それで十分に、効果を果してゐるのである。滅亡論の題目は繰り返されても、歌舞妓そのものは平然としてゐる。真言秘密はこゝにあるのである。存外簡単な所に、歌舞妓の生命はかゝつてゐる。だから歌舞妓が内的に崩壊して来ない限りは、常に新しい見物が見てよろこぶだけの、用意は出来てゐるのである。歌舞妓芝居の精神は、大きな国境を、世界の劇との間に横へてゐるが、所謂歌舞妓美は、国境を超えて人を喜ばすしようとしての価値は、十分にもつてゐるのである。あらゆる点にある弱点を外にして、その直に酌み取る事の出来る安易な美は、人の考へるやうに簡単に、歌舞妓を亡びさせないのである。だけれども、事ある毎に、滅亡が迫つて来たやうに騒がないでゐられぬのは、それだけでは償ひ切れぬ弱点を多く人々が感じるからである。それなら何が歌舞妓芝居に欠けてゐるのであらう。これほど訣りきつた事はないと思はれる事にも一往は探りを入れてみる必要がある。

それと今一つ、歌舞妓には象徴劇風な特殊な質が十分にあつて、これが存外歌舞妓を救うて来てゐる事に気のついた人もあるであらう。はうぷとまんなどの流儀を取り入れる先に、これが可なり素質的に歌舞妓に合ふものがあつて、どうかすれば、却て煩ひになりさうな点すらも感じられるのである。一体象徴といふことは、自らにして成つてゐなければならないもので、象徴的な効果を出さうとする努力は、根本に誤りがあるのである。歌舞妓はその所謂自ら得た、理論のない象徴主義を、かなり深く持つてゐて、それに救はれてゐる事も多いのである。一体象徴は、我々の従つてゐる現実について進むうちに、これに平行して来る連想と、並び進んで、どうかするとその想像が現実を超えさうな所に達する。さう言ふ場合に象徴感が起つて来るのである。譬喩とは区別のあるものだが、安価な象徴主義は譬喩に止つてゐることが多い。理論から行かうとする程、どうかすると益、譬喩表現に陥るのである。歌舞妓は理論がないだけ、却て象徴劇として問題が少いといふ点もある。だが理論が裏打ちになつてゐないだけ、何としても、弱体的な感じがつき纏つて為方がない。それに何としても、象徴劇は劇の正道ではない。救ひではあるが、常に行はるべきものではない。だから、相当しつかりした障壁ではあるが、ともすれば危い歌舞妓の理論を支へるだけの力を発揮することがない。

一体劇にはいろ〳〵な方向はあるが、要するに、戯曲の遂行を目的としてゐるものと見るのが一番堅実な考へ方であらう。そして、それによつて、更に劇の方向を開いてゆくより外はない。勿論戯曲を離れた劇と言ふやうな考へ方によつては、不思議なものが、現実には屡あつて、必しも歌舞妓芝居だけがその棘を背負はなければならぬ訣はないが、何でも弱点を代表してゐるやうな、不思議な敗北感を持つてゐる。其点をまづ、歌舞妓は脱却する必要がある。戯曲のない劇は西洋にも沢山あつて、殊に喜劇が、この方面の弱点を持ちやすい原因がある。つまり即興劇の陥ちこむ弱味である。併し、その点でも歌舞妓は相当なもので、必しも能狂言でなくても、近世のものにすらこれを発見することが容易である。劇もいろんな方面を理論的に探求して、理論をもつていずむ化する事は勝手であるが、其為に、安易なものをとんでもなく重々しく考へないやうにしなければならぬ。絵や、音楽や、詩の上の、いろんな芸術主義が、どれだけ意味のない事をして来たか、考へる必要がある。喜劇は、必しも安易なものではないが、どうかすれば、低級なものになり易い歴史をもつてゐる。

歌舞妓のれぱあとりいの中には、思ひがけない立派な喜劇もあるにはあるが、それは、凡、偶然さうしたものが出来たとしか言へないことが多いので、戯曲のない劇が、あれこれとしてゐるうちに、偶然ある超脱味を持つたものに到達したと言ふだけのことなのが多い。勿論劇と戯曲との関係は、言はゞそれ〴〵の過程にあるもので、劇が即戯曲でないことは、──私らこそ極めてはつきり言つて置く衝動にかられるが、単なる文学の一形式である戯曲でない限りは、劇に実行を持たない戯曲など、凡、意味がないと言はなければならぬ。それで、理論的には弊害がありさうだが、実際には一層正しいものとして、戯曲の遂行を劇の正しい方向と考へるのである。勿論、劇には戯曲的方面以外にもいろんな側があつて、すべてがすべて、戯曲の犠牲になつてもよいと、言つてしまへないが、結局それらが集つて、戯曲を完全に遂行する事が出来れば、我々の劇に対してもつと完全に収まるものと見てよい。だから、歌舞妓芝居の場合でも何よりも正しい救ひの手は、戯曲の遂行にあるので、歌舞妓の改造などの事は考へても意味のない事になる。時としては完全な戯曲が与へられてゐないにかゝはらず、劇がある点まで、観賞に耐へる事がある。心寂しい例だが、明治二・三十年代の所謂「活歴」などいふ芝居は、極めて空疎な戯曲を遂行することに、不世出の名優が、骨を削るやうな苦しみをしたので、それで何とか言はれながらも、団十郎のゐる間は、支へて行く事が出来たし、又、団十郎の演技を正統的に伝へた後進の為方を見てもある点まで、今の識者たちの言ふやうにつまらぬものでない事は私も思ふ。現に最近なくなられた楠山正雄さんの様な、聡明な知識人の支持してゐられる所からも言へる。併し何と言つてもかういふ劇は、正しい戯曲の上に立つてゐるのではないから、幸福なものではない。団十郎などは、明治の文化が当然持つべきもの、遂行すべき戯曲、信頼するに足る脚本として選んだに違ひなく、又そのために大きな努力もしたのだが、かういふ戯曲をあたへねばならぬほど、明治の演劇文化の質がよくなかつたのである。

私は、活歴にあつた大きな救ひはえろきゆうしよんの異常な発達にあつたと思ふ。団十郎に従つて盲目的に活歴を尊信した団十郎配下の優人、この代表者に歌右衛門を立てゝもよい。彼も結局、朗読を身上とした俳優であつた。先代羽左衛門の閲歴を見ても、あれほど若い間大根役者呼はりをせられた人もなかつた。そのうち、俄かに大きな領域を開いて来たのは、茶臼山の血判取りの木村重成、ならびにその類型を以つてする事の出来た桐一葉の重成であつた。この二つは、朗読に殆すべての価値がかゝつてゐるので、又さうでなかつた点までも、羽左衛門自身がさういふ風に整頓したものと言ふ事が出来る。同じ様に、可なり不器用な役者といふ考へは改められないでゐながら、あれだけに市川左団次が人気をよんだ理由は、やはり彼一流の朗読法であつた。而も不思議な散文式な読み方で、戯曲の対話的な感情をほかのものに置きかへた。そのえろきゆうしよんがあれだけ世間の声援を呼んだのである。併し、これは必しも、この数人の優人に限つたことでなく、歌舞妓芝居には、この傾向が著しくあつたので、歴史的な意味を持つ技術の特徴と言つてもよいかも知れない。一体さういふ朗読風なせりふ廻しを喜ぶやうになつたのは、役者の発声法の上に通有の欠陥があつたから来てゐると言つてさしつかへない。これだけは恐らく、歌舞妓芝居に限つた欠点として、反省してよい事だと思ふが、歌舞妓ほど悪声の俳優を非議せない演劇は珍しい。調子がよいと言ふ批評は声がよいといふ事を意味する筈だのに、歌舞妓俳優の調子のよいと言はれてゐる優人には、かなりの悪声の人がゐた。抑揚頓挫が、正しく旧来の発声の型に入つてゐるものを、ほめていふ場合に言はれることもある。さうでなくても、歌舞妓ほど聞きづらい声の役者を、名優の中にもつてゐたものはないであらう。最近に亡くなつた宗十郎、其に先代沢村源之助・先代中村鴈治郎・先代尾上梅幸の如きも、あまりの悪声が、却て鑑賞のめどゝなつた位である。殊に源之助のやうなのは、あれ程悪声でありながら、調子のいゝと言はれた、代表的の役者で、なるほど声の質は悪いが、歌舞妓の近世の伝統を思はせるいろんな名優の発声法を備へてゐたものである。単に発声法であるけれど、これが劇の死命を制する場合が、多いのである。

だから存外簡単な所に、救ひはあるものと見てよい。だが、事芸術に関する限りは、さう安く考へてかゝるのはよくない。芸術的な動きが、本質的にその劇を正しくするものでなくて、それによつてゐるとすれば、いつか又大きな煩ひとなつて来るに違ひない。吉右衛門は、感傷的な朗読法の上手だが、もうこの人になると、それはそれと認めながら、見物の中に必しもそれを謳歌する者ばかりはなくなつて来てゐる。何にしても実際生活と背反してゐる朗読法が、正当な劇を造る事の出来る訣はない。これを非難する人は少かつたにしても、新しい歌舞妓芝居にかなり重要な価値を占めてゐる調子・せりふ廻しなどに歌舞妓の反省を要する所がやはりあつたのである。

私は、歌舞妓芝居の中に、近代劇精神を或は新劇的生命を生かすには、どう言ふ風にすればよいか、と言ふ相当むつかしい問題を、若い友人から与へられたので、興味を持つて書き出したのだが、それにはまだ、私の考への入口に達した所である。顧みて他を言ふやうで甚心苦しいが、先に述べた今の市川海老蔵が、歌舞妓芝居の希望として、輝く将来をもつてゐるかと言ふ事に触れる点に話をとゞめておきたい。

その親幸四郎は、その死亡と共に、歌舞妓の大きな部分を持ち去つたと思はれる程、立派な立敵の資格をもつた人だが、その外にはのろはれた点の多い人であつた。併し今一つ、彼及び彼の三人の子が、神の恵みに感謝していゝのは、その声である。親幸四郎は、声の質はすぐれてよかつたが、同時に又調子の悪い役者であつた。併し三人の子には、鍛はれてゐないが、美しい声が遺された。三人ながら、極めてよい声の質であるが、各発声法に弱点を見せてゐるやうだ。その中著しく声の整頓せられ出したのは、海老蔵である。何かの機会が到来して、その発声法をふつ切つたら、必、まづ彼はえろきゆうしよんの名優として名をあげるだらう。さうしてそれに伴つて、彼の天稟及び後天的の素質が引き出されて来て、彼は意の向ふまゝに縦横無碍に佳作を発揚する優人となるであらう。これに反して、悪声で調子の良かつた菊五郎もやはり、大根役者から、心の趣くまゝに、彼自身を自由に、芸にうち出す事が出来るやうになつた。さういふ自由な日が彼の前にも輝きはじめてゐるやうな気がする。

底本:「折口信夫全集 22」中央公論社

   1996(平成8)年1210日初版発行

底本の親本:「かぶき讃」創元社

   1953(昭和28)年220

初出:「文学界 第三巻第一号」

   1951(昭和26)年1月発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※平仮名のルビは校訂者による加筆です。

※底本の題名の下に書かれている「昭和二十六年一月「文学界」第三巻第一号」はファイル末の「初出」欄に移しました。

入力:門田裕志

校正:酒井和郎

2019年329日作成

青空文庫作成ファイル:

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