菊五郎の科学性
折口信夫
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ことしの盂蘭盆には、思ひがけなく、ぎり〳〵と言ふところで、菊五郎が新仏となつた。こんな事を考へたところで、意味のないことだけれど、舞台の鼻まで踊りこんで来て、かつきりと踏み残すと言つた、鮮やかな彼の芸格に似たものが、こんなところにも現れてゐるやうで、寂しいが、ふつと笑ひに似たものが催して来た。
このかつきりした芸格は、同時代の役者の誰々の上にも見ることの出来なかつたものと言へる。此を、彼の芸が持つ科学性と言つても、ちつともをかしくない。左団次なども聡明と言ふ側から、同質の特徴を持つた人のやうに考へる人があるかも知れぬが、其は時流性とでも言ふべきもので、時代の受け容れ方が、どう言ふ傾向に向いて居るかを、よく弁へて居た人であつたのだ。歌右衛門なども、何か、かうかつきりした所の、目についた人だが、此常識が、珍しい程度に発達して居て、判断が正確だつたと言ふ側の人であつた。単純化と言つた才能はあつたが、芸の正確と言ふ点には疑問がある。
劇作家の如く綿密な企劃を以て、彼のからだの戯曲を舞台の上に書いて行つた。だから役者であるよりも、演出者としての、優秀な技能を持つてゐるのではないかと思はれた位だ。この点では、今後も暫らく、此人に似た者の出て来る期待は、持てさうもない。
歳が長じると共に、彼の芸の上に目立つて来たことは、芸量が深くなつたことでもない。芸域の広くなつたことでもない。この計算どほり表現しようとする彼の科学性が、益発揮したことであり、其よりも更に我々を驚かしたのは、其指物師の様な細緻な計数を土台として、其を超える芸の自在性が溢れて来たことであつた。市村座時代の此人には、実はまだ、あまりさう言ふ芸術味の氾濫を見せなかつた。だが、勘弥去り、吉右衛門去り、友右衛門──当時、東蔵──去り、彦三郎・三津五郎去りした結果、おのれの性格の欠陥を自覚すると共に、人にあきらめを置くことが出来るやうになり、一種の寛容に似た風格が生じて来た。彼の技芸の伸びて来たのも、其からである。彼の相手に廻つた女形は、此は叛くと言ふ形でなく、一人々々彼から去つて行つた。菊次郎・国太郎から、米升・栄三郎まで死んでしまつた。ちようど其頃、彼の芸が、俄かに光り出した。菊五郎が死ぬのではないかと思はれたのは、その頃であつた。世間に物色して、やつと秀調──先代──を覓め得た時の、常磐津のお園六三の、六三郎のよさは、まだ覚えてゐる。舞台の自在性は、彼の生命の発光だと思はれた位である。彼の二枚目が特殊性を発揮したのは、此時からである。
何と言つても、役者よりは、文学者の方がまだ幸福であつた。一流作家よりも、先行する批評家などは容易に望まれないが、其でも作家が知的に進んでゐるだけに、評論家も全く油断はして居ない。ところが、劇評家と言はれた昔のじやあなりすとたちに、一流の役者を凌ぐだけの別の教養を持つた人はなかつた。彼ほどになると、批評家がやつと追随出来るかどうかといふ程度であつた。だから彼が、劇評家を無視するやうに見えることが、幾度かあつた。
又戯曲の作家だつて、新作家には、彼だけの経験も素質も持つたものはなかつた。彼の蒙を啓いてやると言つた、人生の深さに触れた人はなかつた。彼の言ふ事に直に同感する程度の作家が、常にあつて、彼のうまらない気持ちを、幾分か軽くしてゐたと言ふほどのものである。此では、人によつて進められると言ふことがなくなる訣である。
最近になつて、不思議なほど団十郎の与へた指導力の強さと、其正確さを人に説くやうになつた。実は其ほど、長くも深くも、手にかゝつたと言ふ訣ではなかつた。だがしみ〴〵と、自分ほど伝統正しく伝承審らかに存してゐるものがないと言ふことに、気がついたのであらう。まづ第一に演劇と舞踊とが、彼において正しく結合してゐる。此事実は、団十郎において既にさうだつたのを見ることが出来ると、彼は思うたのである。五十歳頃までは、彼は父五代目菊五郎の芸の正統を襲ぐものと考へて、満足してゐたであらう。其後、父の芸を嗣ぐもの必しも彼のみでないことを知つた。市村羽左衛門の方が、体躯的に彼よりも、五代目を髣髴させるものを持つてゐた。楠山正雄さんは、羽左衛門は五代目菊五郎に似てゐると言ふよりも、やはりその父家橘に承ける所が多いことを言はれた。此は今も記憶して忘れない名言だが、此甥と子とを比べると、甥の方が何としても、五代目に芸質が近かつた。彼が羽左衛門の芸質を論じて、きびしかつたのも、実は此に繋る所が多かつたのである。市村の如きは時代世話であつて、生世話でないと言つて、その白廻しから、芸質を評したのも、父菊五郎を生世話の優人としてゐたからである。晩年になつて、彼はそんな問題に拘泥する必要を感じなくなつて行つた。
父菊五郎自身、生世話と言ふより、やはり時代がゝる科が多かつたやうである。羽左衛門を見送つて後の彼は、一層さば〳〵して、父までも拘泥の外に置くやうになつた。
団十郎・菊五郎の盛りを見た人も、実に両三年前までは、「いくら今の菊五郎がうまいのと言つても、五代目のよさとは、よさが違ひます。土台物さしが違つてるのだから」と言ひ〳〵したものだ。ところが最近は、ぼつ〳〵さうした垂教を後生に与へるをことゝした老劇通たちが、「おやぢをうんと抜きましたよ」とか、「大体五代目と言ふのが、をこついたり、のゝ字を頭で書いたりして、いやなことをやりましたよ」などゝ言ふ声がちらほら聞えて来た。
私は、今の菊五郎は、親不孝だと思つた。自分が褒められるのはよいが、親の名をかち落すやうな評判のとり方は、おもしろくないと考へたのである。元々父をあしざまに言ふ菊五郎でもなからうが、常に先代と比較させるやうな芸風で、先代の型に逆手を試み、時としては反語的な手法すら用ゐた。此では、芝居を知る人たちが、親を貶して、子を揚げるやうになるにきまつてゐる。その考へのなさを、私は歎いたのである。おやぢと見比べてくれと言つてゐると同じことになるからである。私の言ひ方を無理だと考へる人もあるだらう。だが、彼が孝子であつたら、もつと考へてものをしたであらう。其に今一つ、彼の団十郎追慕の念の深まつたことが、一方におのづから彼を高くする結果を導いたのであつた。
彼と団十郎とでは、恐らく類似点を求めることが苦しいであらう。だがさう言ふ私などが、第一に感じた。と言ふのが──、五斗兵衛の出に、空虚の舞台にふつと出て、下座にゐた時、暫らくは、誰とも判断出来ない老優人が、よいかつぷくで、大々として居ると見た。良あつて、其が菊五郎だと知つた。此時ちらと私の目を掠めてとほつたのが、九代目団十郎の幻影であつた。彼と言ひ、吉右衛門と言ひ、あれだけの役者になつて居ながら、舞台における居丈・立ち姿は、近年も尚、市村座時代の如く、小さく見えることに替りがなかつたものである。だが此時ばかりは、菊五郎を菊五郎と認めない程、大きくて、而も新歌舞妓らしさのない、古風な役者に見えたものである。
維新以後の常識とも言ふべき成田屋・音羽屋対立の系譜の上において、彼こそ古法眼の、狩野と土佐とを合一した如く、更に溯つて、藤原俊成が、平安末期の六条流の歌道に俊頼・基俊の風を融合させたやうに、市川・尾上両家の芸風を、一つにする位置に完全に立つてゐることを自覚して、まことに心の清まるのを感じたであらう。すが〳〵しく自分の芸を省み、満悦を覚えることが、愈繁くなつて来たのが、最近の彼であつたのだらう。
ともかく今は一往、あつてないやうな姿になつてゐる市川家風を、認めなければ、認めないで済む筈の尾上の当主が、多少の気負ひはあるとしても、九代目団十郎を師匠と呼ぶことが多くなつたのは、彼にとつて意味の深いことゝ見ねばならぬ。何よりもまづ、彼の内において、「人」が完成して来たことである。
それにしても、その教養が、単に舞台生活の上に止つて、世間に向つては、極めて無知なものゝ如き形をとつたことが、悲しくもあり、亦ほゝ笑ましくもある。「芸術院六代菊五郎居士」と言ふ自撰の法号らしいものは、あらゆる点で、彼の心を解釈することに役に立つだらう。とりわけ芸術院を自分のものゝやうに、幼さを以て考へてゐる所、六代菊五郎居士の如何にも、不手際で、而も「してやつたり」と言はぬばかりのおどけ顔がよい。私は此事によつても、妙好人として、彼を見ることが出来るのをたのしく思ふ。彼はやつぱり、彼だけに豊かな人生を持つてゐたのである。
底本:「折口信夫全集 22」中央公論社
1996(平成8)年12月10日初版発行
底本の親本:「かぶき讃」創元社
1953(昭和28)年2月20日
初出:「幕間 別册第四十五號」和敬書店
1949(昭和24)年8月1日発行
※初出時の表題は「菊五郎論──菊五郎の科学性──」です。
※初出時の署名は「釈迢空」です。
※底本の題名の下に書かれている「昭和二十四年八月「幕間」別冊」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:酒井和郎
2018年6月27日作成
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