街衢の戦死者
──中村魁車を誄す──
折口信夫
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戦災死と言ふ語は、侘しい語である。積る思ひを遂げることなく過ぎ行く、といふ義が伴ふとすれば、此ほどやる瀬ないことはない。だが、国難に殉じたと言ふ、一部聯想の悲痛なものがあつて、その側からは、我が傷ましい街衢の戦死者を、纔かに弔ふに足る思ひがある。中村魁車を憶ふ場合、殊にこの語があつて、吾々の傷む心が、幾分でも軽くなるのはせめてもの気がする。
大阪に第一次戦災のある日までは、夢にも思はなんだ彼の最期である。それほど、役者の生涯といふものは、浮世の中にも、浮世と言ふに、最ふさはしいものであつた。而も、私如きが之を誄することは、まことに身にそぐはぬ、をこがましさであるが、彼役者の才伎の為には、こんな文章の一つ位も、書いておいてやりたい気がする。尠くとも、彼の舞台に唆られた覚えのある同年輩の浪花びとの中には、この心を知つて嗤はぬ者もあるだらう。
大阪南地宗右衛門町置屋「桂屋」の浜の防空壕の煙の中で、花の如き女形が、絶息してゐた。──さう言ふ上ついた噂をひろげる時勢ではなし、第一其よりも、あの荒涼たる灰燼の中に、美しい木乃伊を横へた幻影を人に持たせるには、清く美しかつた魁車も、既に三十年は生き過ぎて居た。
それにしても無慚なのは、孫を固く抱いたまゝ黒くなつて居たと言ふ──その、人をせつながらせる姿が、思ひがけなく、吾々の魁車像に割りこんで来てしまうたことである。三千歳姫や、三浦助の舞台顔のまゝで残つた彼の先輩たち──雀右衛門・鴈治郎──は、何たる幸ひ人であつたらう。
かつら巻をかけた優な面ざしでも、さすがに「勘当場」の延寿のつくりで仆れた梅幸は、一代濃艶の印象を、一挙に寂しくしたと惜しまれたものだのに、この女形の不運は、歌舞妓役者だけに、一しほ侘しい。引窓のお早も、河庄の小春も、鏡山のお初も、菊畑の皆鶴姫も、一等近くに見た道行の静御前も、皆遠く、雲煙に隔てられたやうになつて了うた。さうして樽屋伊助や、椀久の番頭や、「つゞら折り」の何とか言つた手代や、凡わびしい役の方が、彼を思ふにふさはしくなつて、長い美しい印象と入れかはつてしまつた。
その際、思ひの外に、死者の数へる程よりなかつたことは、大阪の町にとつて、何と喜んでよいか知れぬ位、不幸中のしあはせであつた。併し、その幸に洩れた僅かの不しあはせな人の中に、魁車のはひつて居たことは、忍び難いあはれである。
中村鴈治郎過ぎて後の川竹──道頓堀の芝居町の通称──を背負つて立つ三人のたて者の中、何と言つても、見るから世間人としての聡明と、更に、人間としての明敏とを持つて居たのは、彼だつたやうである。だが健康の段になると、三人の中まめ〳〵しげで居乍ら一番弱げに見えたのも、彼であつた。
明治四十年頃に、一度廃業を思ひ立つたことがあり、事実また稍長く、彼の舞台を見ることが出来なかつた。其が、彼の芸に脂がのり出し、彼の芸に滋みの満ちて来た盛りであつた。彼の容姿も其頃が一番美しかつたかと思ふ。
容姿うるはしく、輪廓の整ふのは、歌舞妓役者には、通例既に深く頽齢に踏み入つた五十歳頃からのことである。此事は、舞台よりも現実の真を示す写真像の上にすら明らかに現れる事実なのである。殊に女形にとつては、頂上に達すると同時に、凋落が来るものである。桜の真盛りのやうな、なごり惜しさの深いものがある。六十歳に近づくと、どんなに美しく、豊満な輪廓を持つた女形でも、まづ眶が落ち皺み、次いで頬が歪み、どうしても若女形の役どころなどには、適はぬやうになつて来る。だから女形の容色の真盛りはまことに、瞬時に過ぎてしまふのである。美しさの久しかつた歌右衛門や、梅幸ですら、若くから成ほど綺麗ではあつたが、四十代の舞台顔には、その後十年の完成した、かつきりした輪廓は出て居なかつたものである。而も、六十の声を聞くと、下唇が色気なく残り、頬が木の実をほゝばつたやうな印象を残した。梅幸・歌右衛門ですら、さうであつた。
立役は六十に入つても、尚舞台顔に凋落の現れぬのが、普通である。女形ほど輪廓が、問題にならぬからであらう。たとへば、中車などは顴骨の高さが煩ひして、早く輪廓の衰へは兆して居たが、その彼の白粉の著きのわるい粉つぽく見える肌は目についても、馴れては却て、彼らしさを目立たせた。逆に加役のふけの女形などに、よい容色らしいものを見たのも、立役に対する、我らの持つ寛容から来たのであらう。六十を越しても尚、舞台顔に安定感を持ち続けることの出来るのは、立役の持つ幸福である。一代晴れの鴈治郎すらも、七十を聞いては、もうさすがにいけぬ。晩年によつた十年足らずの程は、目かどにとげが見えてもうよほど、険相が出て来た。紙治などは、見馴れた要処々々の顔つきまで覚えてゐる人々が多かつた。舞台面に対して、その表情の後づけし乍ら見て行くのが、彼の見物であつた。記憶にあるよい表情に、はつとすると、きつぱりはまらずに逸れて行き〳〵した。晩年によつての重なものは、忠兵衛でも、八百屋や、稲野谷の半兵衛でも、──其でも人は、みづ〳〵しいとほめたものだが、──浮き立たうとする感興、其をふつと思ひ直して立ち止ると謂つた、鴈治郎自身の舞台の寂しさが、移つて来ずには居なかつた。でも羽左衛門同様、あの程度の豊かさでおし通したのは、古来稀な容色といふことが出来るだらう。
源之助なども死ぬる直前まで、何年間か、本役はさせられなくなつて居ては、端役には惜しい──髀肉の歎に堪へぬと謂つた感じを持たせた──おしだしと器量で、薄闇にぽつかり夕顔の咲いたやうな感動を誘うたものだつた。実際、所謂じわが来ると言ふか、驚歎で声が出ないと言ふのか、もうあんな実感は、後人に説明することが出来なくなるだらう。護摩木山の世話だんまりに出る水島左門などは、洲崎政五郎・清滝佐吉を、どんな立て者がしても、目につかなくせられてしまふだらう。田舎源氏に立ち身の容色の完璧だつたこと──度々して一つの定型の感じすらあつた羽左衛門の光氏すら、彼のと見比べると、顔の中から鋭角的なものが飛び出して来て、変に心に触れて、安らかでなかつたものだつた。其に、「水際立つ」と言ふ語が源之助の為に用意せられた気のしたのは、大名役だつた。評定所の板倉、堀端の伊豆守、出来るだけ大きくして更にそれからすつかり個性を抜き去つたと謂ふべき生人形の観のある場合──金襖を背負つて立つた時などの美しさ──優美でもなく、凛々しいと言ふのでもなく、全く其以外の、芸などは問題にならぬよさである。古代短歌における枕詞のよさと同じ、心に沁む味ひ。立役中の立役とも言ふべきさばき役──更にその性根をつきつめて行つた決断役とも言ふべき役柄の持つ大様さと、颯爽とした処。将軍を将軍として演ずることの許されなかつた時代を通じて成長して来た歌舞妓芝居だけに、一段も二段も低くで居乍ら将軍らしさを浮べさせるのが、此種の役の本色だつた。源之助はさう言ふ輪廓の、後代へ向けての久しい保持者だといふことが出来よう。草履を枷に、尾上と上下に静止つた岩藤、此だけの器量と押し出しが、武道敵とも言ふべき女役の此役に必要不必要などの、問題は飛び越し、其より更に、細部の芸などは通り過ぎて、唯燦として輝いた静止であつた。「親のまんそく(完全)に生みつけた此顔に」と、「まうし、三婦さん」ときほつた後で反省風になるお辰──これなども幾度もくり返し乍ら──その表情、五十を過ぎて殆無欠なものになつて来た。併し其すら、もう頬に歪みが見え出して数年後であつた。かう言ふ輪廓をふんだんに見物の鑑賞に供給することの出来なかつたのは、松竹会社の方針の一つの誤りだつた。よそでは、通らぬ論理か知らぬが、其道で苦労し抜いて育つた大谷・白井両氏のことだ。此点の愛執に対する理会は深からう。いはやこぶを噛みしめ乍ら、美しい歌舞妓の世界の実現を相誓つた両氏には、確かに訣る。此ほど痛切に、人物経済といふことを忽せにした例は、さうあるものではないと言ふことだ。
魁車の容姿と、役柄との関係を、こんな辺りから考へて見たかつたのである。舞台顔の話に身が入り過ぎた気がする。が、物心ついてからの事をふりかへつて見ると、私は上方芝居に、真女形で、女武道を本役とする人を見た覚えがない。と言つてはわるいかも知れぬ。明治の璃寛などは、正に其人であり、先代梅玉も、橘三郎も、正に其に当る点が多かつたし、魁車の一足前を歩いて居た多見之助後多見蔵なども、其役々を正確に演じてゐる。併し、皆これ「兼ね」ての役である。
魁車自身が其に当るものだが──、唯一番近い実川正朝の位置の珍しさが目につく。正朝は、斎入右団治の引き立てで立女形になつた。本格的な立女形になつた人で扇女──尤、私は此人を知らぬ──三右衛門につゞいて出た真女形らしい女形である。それで常に、右団治の女房役であつた。其顔はいつまでも瑞々して居たが、大兵肥満であつた。遥か後に東京から来た莚女を思はせる人だつたが、もつと美しく、行儀も、芸も、遥かに上であつた。けれども、片はづし物以外に向かぬ輪廓であつた。でも私は、彼のした筈の政岡も見て居ない。重の井も見た覚えがない。右団治一座に居すわるやうになつてからは、殆、出し物もせなかつたやうに思ふ。若菜姫をし、女清玄・松月尼をし、「万長」の狂女をし、お光をする右団治だつた。さう言ふ時でも、秋篠や、浅香──横山太郎の乳母──は正朝に廻つて来なかつた。無理に桜姫や、照手姫に納められても、はまらぬ事は、頭から知れて居た。野崎村が出れば、きまつて後家に廻る彼であつた。稀にお染のやうな娘役を見る事もあつた。泉倉人形のやうな美しさはあつたが、あんな肥えた娘はないといふ印象が残つてゐる。大西──浪花座・弁天座、殊に朝日座は、中芝居・角芝居と比べて、位置が低いのだが、そこはそこで、巌笑や、玉七・卯三郎・璃珏、それに歌六の時蔵又、女形畠の源之助、其に多見蔵になつた多見之助などが、多く加役の女形として、片はづしものや、女だての役を演じて、主役に据ることが多かつた。だからどうかすると、今におき器量のよくない玉七や、多見之助が、真女形らしい印象を残してゐる程、立て続けに立役離れのした芸をしてゐた。此等の人が此等のやぐらで女武道を演じるやうに、もつと位置の高い福助──二代梅玉・橘三郎などはやはり、加役で、常に立女形らしい為事をした。女武道は、だから常に綺麗気のない顔ばかりであつた。板額でも、篠原でも、如何にも女武道々々々した顔ばかりであつた。まだしもすべ〳〵した下ぶくれで、目尻の鍵の手に釣つた愛敬のある福助──二代梅玉の女形が、最美しく感じられた位であつた。
おなじ女武道の範囲にあるものでも、萩の方や、定高は、ずんと格の高いものである。近代の上方では恐らく、真女形から出る役どころではなくなつて居たらうと思はれる。東京でだつて、歌右衛門・梅幸出世前の役のふりあてを見れば、かうした役の性根のありどころは、凡は察せられる。立役腹になつて来、座頭格のものゝする芸となつた。真女形から出て、かう言ふ役どころに失敗するのは、不思議でなくなつた。だから女形が、萩の方や定高は、役自体は「兼ねる」役柄であつても、立役腹でゆかねば出来ぬものであつたのだ。たとへば、魁車近年の所演の中、萩の方は相応に高く受けとられた役であつたが、私は失望を感じた。魁車は魁車流の賢しく、凛然とした真女形でいつて居たからである。もつと男々した腹を持つてかゝるべき筈だ、と其時私は考へた。
上方は、可なり前からさうだつたのではないかと思ふ。が、明治初年頃からの歌舞妓芝居の著しい傾向として、東京・大阪の芝居の世界に共通した事実のやうに思はれる。東京にしても、幕末以来、立役の女武道進出が、頗、目につくやうになつてゐる。併しかう言ふ真女形畠の役ばかりでなく、立役の領分として、敵役にも、和事にも著しく手を拡げて来てゐる。明治三十年代までは、真の意味の立女形を亡失した時期と謂ふ見方をして、さし支へないのでないかと思ふ。大阪で謂つても、嵐三右衛門等の立女形の後を受けたと見える実川正朝は、今謂つたやうな有様である。東京では、岩井・瀬川衰滅の後、大いに我慢を発揮して、東西の立て物を苦しめた田之助の突出も、此真女形消滅に瀕した時勢に対する反抗と見るべきであらう。彼の対抗力は、辛抱立役中の辛抱役春藤次郎右衛門を出すまでに、つゝぱつて来たのである。上方から女形と、女形芸の輸入を続けて来た江戸劇壇も、江戸末期には、其も飽和状態になつた。だが、発音や語気に到るまで、女形はわけて上方の言語表情を忘れまいと努めた。江戸式の演出が、すべてに完備して後までも、言語だけは、訛りを恐れたのである。併し江戸生世話の発達は、徐々にさうした江戸女形を独立させて来た。その後「兼ねる」役者が輩出し、更に立役の真女形の真骨髄への侵出が盛んになつた。私は之を一面踊りから来たものと見てゐるが、──此は別に、「兼ねる」方面を開いたのだ。──踊りの劣つて居た上方が、特に著しく此風を示してゐるのは、どうであらう。ことによれば、踊りに優れた梅玉歌右衛門まで溯つて、見直す必要があるのであらう。少くとも、女武道系統の、烈女・貞婦・女侠・毒婦、其から歴史を別にしてゐるはずの遊女──花魁──かう言ふものゝ中、時代物としての感覚に統べられて立つ世界の立て物なる女は、立役の領分に引き直されて行つた。歌舞妓では、王代物であつても、前太平記の世界であつても、女形はたゞの時代物のいきで終始してゐる。お家物は「武家階級の世話物」であるが、真女形はやはり、時代物のいきではたらき、時代の気分を表現する。さう言ふ立女形の役柄のものを摘出して、立役の領域に移したのである。「兼ねる」立役の成立に次いで、女武道併合の風が、まづ上方に起り、其が江戸東京を風靡したのは、間もないことであつた。此が、維新前後の話と見てよい。
当人が死んで、桂屋の陸側も、富田屋の水辺も、もう復興せられさうな時の転変を経てゐるのに、私はまだ故人の立役・非立役所属を論じてゐる。つく〴〵腐儒の迂遠なることを自証するものと思はずには居られぬ。だが茲の話は、死者の為ばかりにするのではない。近代歌舞妓役者の芸格と、大いに関聯する所があつて、見過されぬのである。
魁車は女形であり、真女形であり、疑ひなき師匠鴈治郎の女房役として世間一般が見てゐた。誰よりも、仕打ち白井氏以下がさう見て──此は役者にとつて大事な事実──ゐた。だが師匠鴈治郎は、必しもさう見てゐたとも極らぬ。第一、魁車自身、さう決意して居たとは思はれぬのである。我々が、役者の身分を立役・敵役・女形・道化などゝきめて来てゐるが、役者自身、其きめを何処まで、心に持つて居たかゞ問題である。なる程、帽子や、振り袖や、髪の形で、女形なることの自覚は、はつきりして居たであらうが、逆に立役の方になると、限界を何処において居たか、年がいつてこそ役柄ははつきりするが、過渡期の若役者──娘形・若衆形時代──を考へると、さう截然たる区劃が感ぜられた様にも、吾々には思はれぬ。其上、兼ねる風が行はれて来、然る後、更に、女武道併合が盛んになり、引き続いて、明治四年八月の断髪令となる。立役・女形の境までも、此が及した影響は考へられる。いやそんな外的な事だけでなく、もつと内的な原因もあつた。
かうした芸格破壊の気運の熟しきつた明治十四年、鴈治郎に入門してから、役者社会の道を見とほして来た。溝の側に近い鴈治郎横町に住んだ美しい役者が、花札を弄んで、ひつぱられて行つたと言ふ縫物屋・稽古屋の娘世界をひつくり返すやうな騒ぎも、最身近く、此には駭き見て居たであらう。先輩役者の舞台も毎日見て、身ぶり・声色をまね暮したらうが、まだ心まで沁みてとり込む筈もない子役の中に通り過ぎた延若・宗十郎の舞台は、本領外の女形に手を出す事が少かつた。何しろ、彼等の先輩として、兼ねる多見蔵が久しく控へてゐたのである。でも却て、宗十郎の方は武道畠の女形に、屡手をつけてゐる。末広屋の行状は、魁車成長の途中、聞く所多く、優人生活の裏打ちとして、影響した所が多からうが、芸の上の印象は、直接殆とり入れて居る筈はない。其傾向のあるのは、末広屋の後継者霞仙から来てゐるものである。さう言ふ迂路は通り乍ら、此は却て可なり深かつたらしい。考へ方によれば、素質が通じてゐる霞仙が彼の内に、とりこまれて居ること、鴈治郎よりも多いかも知れぬ。璃珏をあれほど讃美する喜多村緑郎が、霞仙を見てゐたらどれほど鴈治郎の対照において褒めるか、察せられる。宗十郎の家は、彼の継いだ叔母おぢゆうの家なる桂屋に近かつたのだし、第一、末広屋は堅気の呉服屋として、生活の基礎を、役者渡世以外に持たうとした。何処か律気であり、何時川竹暮しを投げ出してもよいと謂つた強みを持つた点も似てゐる。此が、魁車から役者らしい愛敬を、幾分殺いだ理由でもあつた。
先代璃寛は、此宗・延両人よりも、十年近く生き延びた。彼にとつては、声変りの期間も過ぎ、芸に欲も出、最近お早を勤めようと言ふ頃まで居た人だから、同座した節だけも、目に留めて見ては居たであらう。唯質や品、第一体質から違ふ彼、幾ら成熟せぬ年頃でも、既に特殊なものを持つた筈の彼である。璃寛の影響が、彼の中核を作つたとは言へぬ。私にしても、芝居を見はじめたらしいのは、葉村屋璃寛の死ぬる年だつたから、記録に拠る外、此点言ふことがない。璃寛の芸境が、誰よりも魁車に近い。さうして、此後長い彼の一生の芸目は、どうして此まで璃寛的であるかと思はれるほどである。
大体芸質・芸格に通じる所が尠くて、こんなにまで芸目が一致するのは、芸境の近いことを意味してゐる。芸境は、体質や、容姿の、外的条件に関係するだらうが、此二人の場合は、そんな点では、可なり懸け離れてゐる。だから其外にも、芸境近接の理由はあるのである。つまり此人々は、女武道を可なり強く本領としてゐる。さうして、此と相応に関係の薄い方へ薄い方へと、役柄を選択した。つまりは、女形に見られる芸境に留りたくなかつたのである。だが女武道を中心として、規矩を廻すと、其範囲は、大抵一致する筈なのである。畢竟、かう言ふ役柄に対する趣味選択が、凡似てゐたといふことになるのである。
何しろ、思ふ存分に役を選ぶことの出来た璃寛である。彼の芸目を見ると、魁車のしたかつたらうと思ふ役が多い。此優れた後輩が演ずれば新しい境地を開いて行きさうな役がうんとある。元々、立役も立役、書き出しで通した璃寛だが、立女形の格も、芝居社会で認められ許されて居た。だから芸目でも、葛の葉を筆頭に、お初・岸姫松のおそよ・金比羅利生記のお辻・お三輪・玉手御前・毛谷村のお園・皿屋敷のお菊・三荘太夫の鶏娘・白石噺の信夫・紅皿欠皿の欠皿・月笠森のおきつ。ちよつと挙げて見ても、魁車の持ち役でもあり、彼にあてはめて想像して見るだけでも、どんなに適切だらうといふ感じのする芸目である。
而も同時に璃寛は、早瀬伊織・桜丸・梅王・神谷転・放駒長吉・木鼠忠五郎など、魁車の役どころでもあり、亦彼の将来をも示してもゐる様な芸境を見せた。ところが、其点では魁車は不幸だつた。立役方面では殊に、脇役或はもつと閑地に置かれつけて居たので、奴林平・入平、重くも平右衛門など言ふ風に、腕利きと印象を与へる奴役は随分して来たものである。此が中年以後の脇役としての性格を示すやうである。併し今考へると、彼が此方面に向つたのは、寧その消極性のあきらめがさうさせたので、もつと積極的に大きく、立敵などに出て行くべきであつたのだらう。併し勿論、座頭鴈治郎は、立敵を要する様な狂言を択ばなかつた。璃寛のした石川五右衛門・元右衛門・団九郎風の実敵や、端敵出の大役などは、魁車は、十分に為こなした筈だ。元右衛門は、彼の奴何種かの成績から推すと、十分の成算が立つ。其に、三枚目らしい軽味の出せる彼だから、疑ひなく成功する。其に、おなじ天下茶屋の弥助は、彼の芸格にはまつてゐるし、伊織は手濡さずの本役である。其に染の井も、魁車にとつては楽すぎる打つてつけの役であり、現に其には扮した経験もあつた。第一、辛抱立役の人形屋幸右衛門などは、正に彼が開拓して行くべきものであつた。立敵の東間は、恐らく意外の好評を博しさうな気がする。阪田庄三郎なども彼には仁にある役である。吉右衛門を間において考へれば、幸右衛門は、言ふまでもなく、東間も、阪田も、骨細は骨細ながら、当りを取るに相違ない。此で「天下茶屋聚」の役と言ふ役は、彼の手の中の物ばかりの気がする。かうして見ると、彼の芸境は頗広い。彼が色々な役に手を出すことを批難した評者は、考へが足らぬと言へる。弥助と、伊織の適切な彼は、亀山噺の石井兵助に、もつと辛抱立役らしい芸格を発揮したゞらう。水右衛門なども、させて見たかつた一つである。だが、同じ敵討物でも、京極内匠など、彼に見たくもなし、六助は、お園ほどに成功するか、疑はれぬでもない。あゝ言ふ役の、活殺自由な点は、延若といふはまり役を越えることはむつかしからう。大晏寺堤になると、師匠や、仁左衛門の代表作のあるだけに、其以上の成績があがるか問題である。第一押し出しにおいて、二人に圧倒せられさうな気がする。が、表現がすべてを解決する。させて見ないでは、春藤の生活が、彼の内において、どんな展開をして行くか、一口には言はれぬ。彼の伊右衛門は、傑作であつた。色敵に領分を開いて行く人だつたのであらう。さう言ふ芸品を持つて居た。唯彼の持つた道徳性と、聡明な容貌が、延若のやうに無反省に、芸に遊ぶ楽しさを感じさせなからう。
璃寛には亦、覚寿その外の婆役があつた。此も、彼は完成せずじまひになつた。が、近年初演の伊勢物語の小よしが良かつたと言ふから、此方面も有望だつたのだ。恐らく今、最乏しい花車形の中、殊に品位を要する覚寿や微妙は、魁車のものになつて行くのではなかつたかと思ふ。小よしは難役だが、技巧栄えのする気のよいものである。気のわるい処のある、二十四孝の勘助母よりは、輝虎配膳の越路の方で、成功しさうな魁車である。あの気づよ過ぎる処は、品とうれひで、十分救うて行くことであらう。楠昔噺の爺婆を、憐に演じ了せるやうになれば、延若も彼も共に達人の境に達したと謂ふものである。だが、今は其も望まれなくなつた。
大阪役者の立て物の中では、最世間を知り、又最聡明だと噂せられてゐた魁車自身も、東京の先輩成駒屋・音羽屋に学んで、女形中心時代を作らうなど言ふ夢を描いたことなどは、なかつたに違ひない。又寧、彼の賢明からすれば、さうした考へ方は、空想に過ぎないものとしたことだらう。彼だとて持つた将来の夢の為には、立役畠に深くきりこむことも考へられた。これに関しては、外にもつと大きに考へねばならぬ。
立役方面でなくとも、定高や萩の方や、政岡や、重の井や、篠原、又、時姫・八重垣姫などが、始終恣に、自分の持ち役として実現させることの出来る位置にゐる彼だつたら、歌舞伎座・帝国劇場の技芸委員長の持つたやうな自覚に住し得たかも知れぬ。が、彼の門地は、相当に低く、又師匠の脇役・女房役以外に、出し物や立て物らしい役の選択が、自由に出来る訣がなかつた。立女形としての位置が強固でなかつた彼及び、彼よりも更に立女形らしかつた雀右衛門・梅玉すら、──彼もさうだつたが──延若と組んでこそ初めて立女形らしくふるまひ、出し物もした。
其に、競争者の問題があつた。徳三郎の璃寛は、先輩として、門地も、容貌も、優なるものであつたが、あまり無邪気な役者気質や、後立てが手をひいたり、又無力だつたりした為に、魁車の為には、目の上の瘤ともならず消えてしまつた。今の仁左衛門元の我童は、徳三郎璃寛と立ち場から、行き方まで似てゐる。親類とて、争へぬ気がする。東京へ去らねばならなんだ、先代我当仁左衛門の薄い影ばかりもたよつて居られなかつた。正義派であり、気持ちの自由自在に変化する我当仁左衛門は、実の甥だからと言つて、溺愛を続けることもなかつたし、又未鍛煉の技芸に目をつぶつて相手役ばかりをさせてくれる人柄でもなかつた。
我童は音楽家としての天分は相応にあつても演劇に不向きな芸術家であつた。不幸にして、舞台は、彼自身を興奮させなかつた。俳優としては、常に気のり薄い舞台であり、昔から相当な努力家であつたに繋らず、其効果は散文式なものしかあがらなかつた。謂はゞ九文払つて九文しか収めることが出来ない人であつた。本領の演劇にはまことに不幸な素質を持つて生れた人であつた。おなじ芸能でも、演劇に近いもの程彼の巧者な芸術境から遠のいて行く。声楽・音曲には、其方の技芸者に転向することの出来る腕を示して居乍ら、舞踊になると、其程ではない。だが、其なら、延若・梅玉が音曲・舞踊において、彼だけの伎倆があるかといふと、彼の得意とせぬ舞踊だけでも、延若・梅玉にはむつかしい。魁車が、皆より一日の長を持つてゐたばかりである。魁車は仕舞を修練したと言はれる点において、其舞踊に根柢がある訣である。富岡鉄斎翁に愛せられたのは、此方面の才能が認められたのだと聞いた。我童がかうして彼等の列から落伍したやうに見えた。ところが思ひがけなく、外国の航空機が著陸した様に、彼らの直前に姿を顕したのは、芝雀雀右衛門の返り咲きであつた。どうと言ふ原因もないのに、明治四十年頃における、雀右衛門の人気失墜は、ひどいものであつた。娘形以外には、もう伸びぬ役者として、甘く見られ出してゐた。尤、大抵の女形は、壮年期から初老期にかけて、此苦しみは通るのであつた。人気があればあるだけに、その人気のよつて来る役柄を突破して、新境地を開くことが出来るかどうかゞ問題とせられる。若衆形では、さう言ふ問題は自然に解消するが、若女形は常に、そこに苦しみがある。現に魁車の東京時代における先行者であつた市川米蔵の如きは、外に隠れた事情の為に退いたと言はれるが、当時は技芸の将来を悲観して、娘形ばかりの舞台を退いて、振付師になつたものと謂はれた。最近の松蔦なども、やつと娘形を突破出来さうだといふ処まで来て、不治の病ひで、起たなかつた。其雀右衛門が偶然東上して、謂はゞ最癖の多い、上方の特殊性を感じさせるやうなこうせきや顔・動作でおし通して一作は一作毎に隆々と評判をあげた。東京の当時の劇通の未知の領分にどし〳〵入り込んで、驚かしたといふ所に理由があるのだらう。さうして、「千鳥」の珍しさや、娘形本領を一挙に揚棄した「玉手御前」の成功、新開拓などの出来ぬと思はれてゐたのに、「お種」──堀川波の鼓──を而も内面的に描破した実力、瓢箪棚のお園で満悦させ、色々の赤姫で、品格や器量以上に、芸で開く領域を認めさせた。何と謂つても、珍しい出し物と、珍しい演出と、其に会うたり叶うたりの芸質・体質、かう言ふものが、鑑賞の熟しきつた東京の批評家に、一々発見せられて行つた為であつた。当時の批評家の腹を割つて言へば、彼の技巧力は、歌右衛門の気分、梅幸の新表現主義と対立すべきものと認めてゐた様である。歌舞妓芝居が、さうした技術を第一義とするものとすれば、雀右衛門が、女形技芸の古典における第一等と言ふに傾いてゐたと謂つてよい。
容色がうら枯れて益成熟を感じさせる宗十郎の娘方を、比較にとつてもわかる。正しい骨法を伝へてはゐるが、其は正しい輪廓描写で、白抜きの法帖である。だからきめの細やかさを得ることは出来ぬ。やつぱり雀右衛門の真女形ぶりのよさが、懐しく思ひ出される。
雀右衛門の前型としては、鴈治郎が、上京する毎に、大阪の団十郎と囃され、人気の嵐を背負つては還つて来る。一度は二度、二度は三度と、鴈治郎に対する郷土の尊敬は高まつた。彼の死ぬる日までの位置は、其できまつて行つたのである。雀右衛門は、其より小型であつたが、大阪人は愕然として、雀右衛門を見直した。近年思ひ棄てた此優人の技芸を、又その顔を、その声を……。中には正当な評価によつて棄てた欠点迄も、新しく玩味し出した。魁車や、梅玉のやうに、更に幾拍子か揃うた真女形も、芝雀の負うて帰つた此評判の為には、圧倒せられずには居られなくなつた。だから福助は、鴈治郎が女房役として引き立てなかつたら、此為に相当みじめな地位に立ち、出世ももつと遅れたことだらう。が、父梅玉との長い提携の手前もあり、又元々其間には、裕福な梅玉に深い義理を負ひ、その義理を忘れなかつた松竹会社双子の両仕打ち──此両人の後年の大きな成功も、此水商売の水商売たる興行師には、珍しいこの人情を体面としたところにあつた──のとりなしが与つて力もあらうし、鴈治郎にとつては、舞台上の最高顧問格に、先輩梅玉を持ち続ける為には、この高砂屋の息子をひき立てる必要はあつた。随つて、上方芝居には珍しい程、仁も、芸も、性格も、素直で、器量の飛び抜けて整つた──、さうして常に、先輩には一目さがりの礼譲を持し続けてあせらず、人を凌がうとせぬ政治郎福助を、女房役として為立てゝ行くことは、最気楽であつたらう。此福助其に、弟子乍ら油断出来ぬ伎倆を持ち、二十歳になるかならぬに、引窓のお早に成功し、力量を抽んでゝ来、数年膝元を離れて、東京の左団次一座に修業に上つたり、時には、思うても胸くその悪い我当仁左衛門に引き立てられたりして、とかく鴈治郎の目には、慢心者らしく見える弟子成太郎、此二人が、肩を並べてゐる。そこへ更に、雀右衛門がわりこんで来た訣である。三人──今一人立役延若を加へて四人とする方が、もつと当つてゐた──の中の一人づゝが、東京役者になりきるか、或は亡くなるか、又は鴈治郎その人が老死するかより、解決の場合が考へられなくなつて居た。だが、此は松竹会社が東西に羽翼を伸すやうになつてから、彼等の前に現れて来た、大阪優人立て物のみじめさであつた。
其前には、まだ鴈治郎独り天下の形が、こんなにはつきりして居なかつた。其に魁車等も若かつた。鴈治郎の晩年には、雀右衛門先んじて亡せたが、二人の女形は健在である。其に、延若が居る。さうなると愈、三人の中、東京に居著いて、帝都の劇通に認められたものが勝利者となるのだといふことは、三人ながら訣つて居たに違ひない。見す〳〵さうした有様なのに、三人が三人とも、東上はしても一年と居著かずに下阪する。此は、鴈治郎の後の天下は、大阪に居残つてゐる者の手に落ちるといふ気が離れなかつたからでもあり、又ひいき連衆や、関係者が執こくさう言ふ立て前から、袖を捉へてゐたからであつた。併し鴈治郎が死んでも、三人の中誰が、秀吉になつた訣でもなかつた。魁車が門地がさせる関係上、稍さがつて居るかに見えるのは、気の毒であり、何と言つても鴈治郎の誤算であつた。道頓堀の櫓々にはまだ、数人の仕打ちががん張つてゐて、三栄・大清の対抗時代は過ぎても尼野・高木・尾張屋等の競争が、五つの櫓を、ともかくも空ける事なく、多くの役者をとり捌いてゐた時代はよかつた。役者の動きも、松竹時代の様に萎微した姿は見せなかつた。仕打ちや目上に不平があれば、めい〳〵思ふまゝに身を処理した。
明治三十二年九月、東上して、先代左団次一座に入つた彼は、明治座々附として、「後の庵」に据つた。「前の庵」は源之助である。大阪上りの若手花形として迎へられたのである。此時ちようど新史劇「悪源太」──松居松葉作──が、中幕に出た。左団次一座のかうした気組みは、若い彼に影響せぬ訣もなし、又其を望んで東上したはやり気の彼であつてみれば、有頂天になる程緊張したその舞台生活は察しることが出来る。既に其五月興行の東京座には、上方若手芝居として、京都に根拠を持つた延二郎──延若──一座がかゝつた。雀三郎──吉三郎──も加入して、大体翌年十一月まで打ち続けた。
魁車の方は翌年六月には、本蔵左団次、小浪米蔵、戸無瀬升若、力弥小団次、由良助権十郎の九段目に、おいしを勤めてゐるが、二番目の「夏祭」には、琴浦を持ち役としてゐる。さう言ふ役割りに統一のないのを見ても、大体の待遇が察せられる。だがおいしを受けとつたのは、彼の役どころの、既に東京でも認められてゐたことが訣る。卅四年四月には、小団次の横山太郎に浅香をした。当時の彼には大役乍ら、恰好の役である。さのみ評判に上らなかつたのは、不思議な気がする。翌卅五年一月には、左団次の知盛に、碇担ぎに出る重忠を勤めてゐる。五月の「扇屋熊谷」には桂子である。小萩は米蔵。時々儲け役を受け取つてゐるが、其役きりで、他は端役であることが多かつた。だから、彼の身分は、何時までも定まらなかつた。その間に、真砂座・宮戸座にも出ることがあつたが、結局五年辛抱して、三十六年四月興行の大塩騒動に与力八田又兵衛を勤めて後、其年一ぱいに大阪へ還つたやうである。若し、明治座の座運が栄えて居り、座主左団次の事業と健康とが続いたら、彼も、もつと東京に踏み止つたらうし、従つて、彼の進みは想像以上だつたらう。
明治座は、六月養育院寄附興行に、川上一座の「江戸城明渡」「まあちやんと・おぶ・ぶゑにす」で開けた後、座主左団次は、東京座へ出勤して、年内、明治座は休業した。座主名義者との入りこんだ経済関係による。此為、成太郎も此まで掛け持ちして居た宮戸座・真砂座に出て、十一月に到つてゐる。五年の在京も、錦を着て故郷入りをするといふまでの成績をあげなかつたことは、魁車一代の運を定めたやうでもある。だが優人として、色々な経験を得たことは、座が、左団次の改革興行直前の明治座であり、又二代目左団次の旗揚げを鼻先に控へた時期だけに、後々の彼の内界に印象する所が深かつたことは察せられる。併し、何よりも、彼の得た所として、躊躇なく挙げることの出来るのは、新しい劇に対する理会と新戯曲・新演出の情熱であつた。
若い成太郎が帰意稍動いたと思はれる前後、大小二様の事件が、彼の心を衝撃した。一つは、五月に高砂屋福助父子上京の事があつた。福助──後、梅玉──主役の日蓮記、双蝶々のおせきに、廿四孝狐火の人形遣ひ、政治郎──現在梅玉──の日朗・八重垣姫で、市村座を開場した。興行成績は思はしくなかつたさうだが、当時殆水の出端と言ふべき盛りの政治郎の、八重垣姫の美しかつたことは、伝説のやうに言はれてゐる。六月の鏡山・伊勢物語などに、政治郎は色奴・井筒姫・信夫、福助はお初・文字摺り小よし等である。子役時代から肩を並べて来た政治郎の花やかな舞台に対して、成太郎の胸の中を想像すると、かきむしられる様なものがあつたに違ひない。この父子が此後何年か滞京するといふ、ふれこみであつた。彼は、どうしても還らねばならなかつた。
それに今一つ、大きな事件が来た。此年二月、菊五郎が亡くなり、九月には又団十郎が死んだ。独り舞台になつたと謂はれた左団次も、やがて死ぬべき影の薄さを見せはじめた頃である。十月の歌舞伎座興行は、新しい顔揃へで、芝翫・梅幸・羽左衛門・八百蔵等の上置きに、我当を迎へた。成太郎は此興行に、役名一つを列ねてゐる。表面ある事を唯あるまゝに送り迎へたやうに見える芝居の世界にも、去就に迷うてゐる一青年俳優の身とすれ〳〵に、驚くべき移り変りが過ぎた。前年来勢猛に東京の各座に進出して来た新派は、益旧派の本城に迫つて来たやうに見える。川上音二郎等と歌舞妓役者との接触が、色々な意味において、目立つて来た。成太郎は、かう言ふ東京の劇界の動揺を見て、大阪へ戻つたのである。
大阪は大阪で、角の芝居から移つて、朝日座を根城とした新派の「成美団」が、そろ〳〵日本中の壮士役者へ指令する様な勢を見せてゐた。斎入右団治が角芝居に、鴈治郎が中芝居にと謂つた風に、当時道頓堀の櫓々は、梵天幣を立て列ねて、盛つてゐた。が、新派の煽りを受けることが多かつた。前年鴈治郎・我当共に新派風の芝居を演じもしたし、此から後も其をくり返さねばならぬ時勢になつてゐた。不如帰の時代化した書き物や、新派の台本そのまゝの乳姉妹に、この近い二人の巨頭が、骨を折らねばならぬ時だつたのである。成太郎は、単身加入をして、初枝(月魄)に成功して、一挙に新しい役者の評判を得た。歌舞妓役者が新派芝居を演じることは、存外やさしいことだつたのである。今日になつて見れば、新派芝居も、歌舞妓の一分脈だつたと言ふことが知れたが、当時はなか〳〵其見とほしがつかず、別殊の演劇のやうで、旧俳優にとつては、手の出かねる所もあつたが、一度手をつけて見ると、明治初期のざんぎり芝居と、性根において大体かはらぬことが、はつきりして来たのである。大阪では延若、東京では稍遅れて勘弥、この二人が、とりわけ新派狂言では、新派役者以上の腕を示したこともあつた。女形では、成太郎一番、東京で之に次ぐもの、先代秀調。
魁車・梅玉、両人ながら後年に至るまで、娘形が得意でなかつたのは、不思議だが、これは事実である。娘形から女房形に出抜けるか出抜けぬかゞ、女形の運定めである。其を二人乍ら、初めから超越してゐた。娘形の中、生娘とでもいふべき役になると、福助は昔から、ものごし・背恰好や、顔や声が邪魔になり、魁車は外的条件は十分だつたが、内的なものが、うぶな処女を表す煩ひとなつた。
唯はたち未満にして町女房が完全につとまり、人を承服させた稟質は、まことに此には痛し痒しであつた。五十過ぎてから、寺家の悟りのやうに胸の蓮華が闊然と思ひ開けて、十五・二八の娘の性根を体得する事になつた。福助の与兵衛にお亀で卯月の紅葉を出した。此頃から魁車の聡明に、天稟の美質が誘ひ出されて来たのではないか。つまりあきらめと言へば其までだが、争はずして自ら至る境地である。勿論高砂屋の息子の持つて生れたよさが、彼にさう譲らせたのだらうが、福助の上へ出ようといふきほひは見せなくなつた。かう言ふ心に住しはじめた彼は、芝居の世界に曾てなかつた驚くべきおぼこ娘を表現することが出来るやうになつた。此きつかけは、ほんの偶然でないかと思ふ。此が彼の五十過ぎての創作である。年表が出来てないから確かなことは言へぬが、引き続いて、さうした嫁入り前の娘を表現し出した。新作の伊左衛門の妹、恋の湖の半兵衛いひなづけ娘など、どうかすると、あまりおぼこ過ぎはせぬかとまで思はれる娘を創造した。
芝居休みに手のすいて居た鴈治郎が、魁車・福助のお亀与兵衛の見物に来て、歎息した。「うちの成太郎も、今まで、なんでこの娘形になる気がつかなんだのやろ。もつと早う気がついてくれてたらなあ──。とにかくえらいことやりよつた」。あの所謂「八方」であり乍ら、又容易に人をゆるさぬ男が、弟子に対してはよく〳〵まことある此語を吐いた。思へば当時幼稚な三十代の我々見物も、こんな娘は、歌舞妓芝居では初めて見ると言ふ気がした。其ほど真実、娘形の創造であつた。巫子町の黒格子を出て来たお亀の姿が、三十年過ぎた今も目にちらつく。巫子屋敷で、世間馴れた箱登羅の巫子を相手に、十分世間知らずの娘を描いた直後である。むつかしくても、巫子の口の場は、腕で行ける。黒格子を出て、其処に立つた与兵衛の姿を認める前の、為事のないほんの瞬間である。彼の始終憑んで来た芸、其によらぬ力が漲り出たのである。其が、娘の魂の形で、見物の前にはじめて突出したのであつた。あの時の驚き……。鴈治郎の歎賞したのも、なる程と思ふ。師匠にとつては、弟子の持つ芸の上の「我」といふものほど辛抱ならぬものはない。鴈・成両人の間には、此気にかゝつて為方のないものが、年長く横つてゐたのである。其は師匠側のねぢけ──後進に対する嫉みに似たものであることもあらうし、又弟子の自惚に過ぎなくて容れ難いものであることもあらう。鴈の場合は、其がもつと複雑で、どうほぐしやうもないものだつたかも知れぬ。だが、役者は単純である。芸の力が万事を解決するものと、互に考へてゐた。だからいつも、鴈治郎は圧倒的な正義を持つて居た。一廉の道理を説きわける力を持つた桂屋の御亭も、その力には圧服せられぬ訣にはゆかなかつた。菊五郎のやうな理を積んで考へ、物をする人間は、此世界にはざらにはなかつた。ことさら理くつ嫌ひの、表情だけで用を足すと謂つた此大立物は、もう弟子と言つても、立女形にもなる者を論理で承服させることは出来なかつたに違ひない。福助の、個性のないやうに見える玉のやうな質、楽屋では可なりゑぐいことをあてこすつても、舞台に出ると、愛敬だけになつてしまふ様な雀右衛門、其に比べると、自家の成太郎のかづいてゐる殻の堅さ、理くつのない男には気になつて為方がなかつた。此一口状もふた口状も言ふ男に対して、積年師匠をかさに著て重ねて来たあと口のわるい自分のしむけ、其が何時も魁車の聡明な顔の裏づけになつて、彼をひいやりとさせた。さう言ふことがあつたと思ふ。其も此も、卯月の紅葉を見て思ひあたり、同時にさらりと愉快に解決した。要するに、おぼこ娘の出来ぬ──無邪気な芸質の乏しかつたといふ点──其がすべてを説明するやうに思はれたのであらう。さう思うた瞬間、目前の成太郎の芸は、おぼこもおぼこ、長い舞台の上に見、つきあうて来た若女形の誰かれの娘形──歌舞妓芝居の約束による娘形、其をふみ越えた、此は世間の娘にもつと近よつて、更に芸の上に浮び出た処女になつてゐる。町女房を演ずれば、茶屋女房か、女郎の様になるのが、芝居や人形の女であり、娘と言へば、男を知つた、色町風の娘になるのが、歌舞妓・てすりを通じての娘であつた。姫君・屋敷ものから、町娘に至るまで、男知らぬ筈に書かれた娘でも、皆男臭く、女臭い。女臭くない娘といふのが、歌舞妓の女性の範疇になかつたのである。
其癖、世間で想定してゐた娘盛りは遥かにさう言ふ領域を飛び超えて若かつた。お半も、お七も十四か十五かの少・成女の年境が問題になる娘であつた。文学・非文学に現れる娘の標準年齢は二八であり、稍長じた所で、お十七お十八は、民謡の上の盛り年であつた。つゞやはたちと謂はれるのは、嫁盛りの年頃を表す語であつた。此等は、多少文学と民俗との間を行く娘の年齢であつて、実際はまだ十五や十六では、娘の花時ではなかつた。だが、民間文芸の畠を行く芝居の娘は、どうしても十五六七の娘の感覚を表現すべきであつた。だが文学の娘も、演劇の娘も、表現は、実際年齢より遥かに長けてゐた。さうして、唯数へ年を十五─十七といふばかりであつた。だから二十女、時としては三十女に近い、女臭い女が舞台上の娘であることが多かつた。此は、女形の扮する娘の特徴でもあつた。而も幾つになつても、未婚の娘形については、浄瑠璃では、いつも死ねば賽の磧で塔を積むとくどきにのつてかたつて居る。一口に芝居や人形の娘と謂つても、かう言ふ重ね写真で出来てゐる娘なのである。其に、男優人が演じる約束の上から、又いろ〳〵の条件が加つて来た。お半は、色気が彼女の悲劇の源なのだが、之を封じるが為に子どもになり勝ちだし、信夫──御所桜──は、色気ぬきなるが為に、大どころの女形の役にはならぬ。今一つの信夫──白石噺──は、肝腎のしどころは、悲劇の娘と言ふ種子が、道化の花に匿されてしまふ。余は推して知るべしといふのが、芝居道の娘である。色気が出すぎ而も売人の色気になるのが宿命的な歌舞妓の処女なのであつた。其点において町女房にして亦色町女のやうに、文五郎の人形に表現せられるのである。彼のお亀の色気は、確かに在来の歌舞妓の娘の媚態ではなかつた。ともかく娼婦の情感を全然ぬいてゐた。かう書くよりも、舞台を見せたい気がする。性格の発見と謂はうか、個性の創造と謂はうか、一つの類型を初めて立てたと言うてよい娘を「卯月の紅葉」のお亀において、彼は描いた。近松の原作で見ても、もつと女臭い、娘らしくないお亀に出来てゐる。その後、此種の幾つかの彼の娘形を見て、お半を魁車で見たいといふ気もした。彼ならば、梅暦の言ひなづけ娘お蝶も、立派に立て物の娘らしくしようし、又特殊な性根も発見したらう。「岸姫松」のおそよや、「伊勢物語」の信夫なども、もつと純な娘として新しい領域にとりあげて来ることが出来たらうと思ふ。
ともかく彼の顔、からだ、爪さきから爪さきに行きわたつてゐる敏感と賢しさが、明るい細やかな立像に、飜刻せられて来るのであつた。その賢しさは、朗らかに善良で、賢しさの故に美しく、素直で、物疑ひのないと謂つた、隅から隅までのよさに化してしまふのであつた。
自然描写無視を本領とする様にすら見える型物の世界──当時鴈治郎一座は殊に古典に泥んでゐた──へ戻つて来た浦島の様な彼、東京演劇界の変動に呆として、静かな大阪芝居に来て耳鳴りがやまなかつた彼に対して、意地くねわるい芝居者の社会では、響きの応じる様に、成太郎の一挙一動を、新しがり、破壊者として伝へたであらう。其が、相応に長く、師匠の心までも衝撃した。新しい劇・新しい脚本、それに新しい性根を持つた役、見て還つたばかりの明治座の胎内に、既に莚升の新運動が芽生えはじめ、其に先だつて親左団次の改革案も、発表せられようとしてゐる際であつた。いくら平静に返つてゐても、関の扉の小町や、酒井の太鼓の家康はまだしも、師匠の児雷也につきあうて、月影深雪之助をするなどは、如何に芝居の世界でも、あまりの転変であつた。
京の顔見世で、日露戦争第一年は暮れた。此興行にも出た「召集令」と言ふ狂言は、その四月大阪中芝居へ書き卸したものである。際物や、新派芝居は、彼の芸道良心を幾分慰安してくれたでもあらう。元々高い教養を持つた彼でないから、表は其でよかつたらうが、内界では、さすがに芸術家である。まやかし物と、真物とを鋭く、識別したに違ひない。だから、新作へ新作へと、彼ほど渇望を露はに示したものは、当時なかつた訣である。其間に時がたつて、史劇・文学物の書き直し、さうした物が、見物の好みと知識を探り〳〵出て来た。「玩辞楼十二曲」選定前後から、鴈治郎の興味が、新作や、書き直し物に深く傾いて行つた。固定した倫理観を寓するによい戯曲を物色し初めた。根がこの弟子よりも、更に教養低く、殆道義感覚を欠いてゐるかに見えた師匠が、碧瑠璃園──渡辺霞亭──と提携して後、低いは低いながら、其処を立ち場として、人生の表現を深めて行つた。徳目に対する考へ方は浅くとも、実践すること、又其を芸術的に表現することは、如何やうにも深くなるものである。果ては其を意識して標榜するやうになつたが、舞台では、倫理観から自由に生活してゐた。かうして段々新作に手を染めるやうになり、古人の名作は名作として、其精神を為活す様になるし、今人の凡作にも、人物の性根を優人の敏感を以て、思ふまゝに解釈を加へ、又勝手ながら表現によつて深めて行く。さうした事の為には、妥協の望まれる作者が迎へられた。個性の強い優人ほど、此傾向が激しい。たとへば現在菊五郎の如き、概論的には誤つた態度だが、芸術や、人生から謂へば、畢竟演劇を活す道程は、戯曲きりに完了するものではないから、一等責任を負ふべき為手なる俳優が、情熱を以てする変造は、絶対に拒否すべきものとも言はれぬ。つまりは、芸術家同士の個性の問題であり、芸覚感受度の問題である。
師匠が、次第に二番目物・中幕物とも言ふべき短篇に書き物を欲するやうになつてからは、彼の久しい望みも稍達せられた形をとつたが、同時に、彼も年少気鋭の時期を、いつか経過して居た。もつと鋭い物を求めて居た筈だつたが、何と理論的にとり止めたものでもない。唯「勘」を以てした役者らしい新時代に対する渇望が夢の様に過ぎて、存外平凡な形におちついてしまふ事も、思へば、不思議はないのであつた。伝統の歌舞妓と橋渡しの杜絶した近代劇をつるべ打ちに興行した二代目左団次は、彼の手本と謂へば謂ふべき人である。彼は、左団次よりは、此頃既に芸格は進んでゐたし、其質も高かつたのだから、もつと違うたものを感じ望んでゐたかも知れぬが、其は、彼の認識に上つて来る筈のない境地であつた。左団次が松蔦を女房役とする事半に止めて、縁故ある魁車を迎へなかつたのは、事情はあつたかも知れぬが、左団次一座の芸の進歩の上に、大きな物を逸した気がする。鴎外準門下の人々の史劇並びに近代作物中に新主題を求めて書き直したと謂つた作物は、自然、下手から迎へに出た形を持つ綺堂らの、新歌舞妓とは合致し易かつた。左団次にはなまじひ若干の理論があつた為、彼の劇中の人生は、彼の理会の範囲に止つた。彼自身の識らぬ深さに活きることを喰ひとめた嫌ひが多い。之を此人の為にいとほしく思ふ。唯、芸あつて理くつも我もない鴈治郎は、わりあひよくない書き物から、人生を可なり深く摘出した。道義観の中に動いてゐる間は、彼の人物は自在なのだが──安堵感の上において──倫理感に危まれる様な部分になると、彼の芸は、俄かに自信を失ふ。つまり、さうした人生の自由な空間には、彼の解釈は及んでゐなかつた。たとへば碁盤太平記の由良之介でも、茜染の半七でも、深い家族的道義に逸れた部分になると、俄かに平凡な演出になつて了うた。魁車はかう言ふ場合、著しく違つた理会を示してゐる。義理以外に生きる所を芸術的に主張して来る日本戯曲の女だからであらうが、確かに義理の世界を超越した女を表すことが出来た。「義理も法も聞く耳持たぬ」と謂つた情熱の女を表現するといふ意味ではない。さうした地の生活を持つて生きて行く女となつて居たといふことである。あかね染のお園は三勝に義理を立て抜いてはゐるが、三勝の存在を超えて夫を愛慕するのである。而も、自我よりも生に深い女になるのが日本のお園なのだ。酒屋の旧お園だつて、此解釈を以て見るべきである。おさんは「子どもの乳母か飯たきか、真実の……」と言つてゐるが、小春への義理でするのではない。寧小春と関聯せぬ所に、彼女自身の為の余地を欲してゐる。さうした無理も、自分なら容易に実現して見せるといふ自信を、持つことの出来る女を、啓蒙的な脚本から、魁車は創造して来たのである。現在梅玉の持ち役のやうになつて了うた炬燵の場のおさんは、元々彼の物であつたし、又さうあるべき筈である。此おさんは、梅玉では、外的条件は十分だが、こゝが単なるくどきに聞える。さはりを身ぶりに移したやうに見える。ちつとも見物に安心を与へぬ。安心出来ぬところに悲劇らしい悲しみがあるとも言へるが、ならうことなら、魁車のやうに、どうなつても、夫に仕へ得る自分を信じてゐるといふ所の出るのが、本道なのである。気の強さうに見える彼のおさんが、折れ合ひのよさ相に見える梅玉のおさんよりも、将来の安堵を、客の心の内に置くことが出来たのは、此優れた表現と、表現と相俟つ所の役の正しい理会とから来るのである。自我の強い筈の彼が、極度に自我を没却する女になりきることが出来たのは不思議である。歌右衛門の烈女系統の芸は、何処までも自我の女である。おさんをしても、おきぬをしても、没却した個性の輝きは、歌右衛門には出て来ない。近松のおさんは、愈その場に臨めば、小春と悶著をくり返しさうな女であり、近松自身の価値は、又そこにあるのだが、見物は、其をゆるめて見てゐる所に、作者と読者との、持ちつ持たれつの境地がある訣なのだ。
かう言ふ点から見れば、彼は解釈力も相当にあり、其に対する表現力も十分に備つてゐた事になる。唯彼の芸格から見て訣ることは、表現力が優れてゐる為に、解釈力が深まつて来たと言ふことである。
一体彼の女形は、どんな型物の女にも、必一種の新演出──と言ふより、新しい工夫を加へずばやまぬと言ふ気風を見せた。寧型を棄てようとする努力のやうにも見えた。此は明治座数年の経験と、新派特別加入の閲歴から来たものと言ふべきものかも知れぬ。おえん──梅川忠兵衛──や、お庄──河庄──のやうな、よく〳〵手の入れ方のない端役めいたものなら知らぬこと、其すら棄てぜりふや、思ひつきのこなしのやうな処に、何か変つた動きをつけて居ねば、気のすまぬと言ふ処が見える。批評家と言ふ目の上の瘤のない世なら、彼はきつと在来の幾種の型を無視して新演出ばかりで行つたに違ひない。其に、師匠鴈治郎のつきあひに註文の出ることがなかつたら、きつとある点まで、よい新建設もし、又驚くべき違算をもしたことゝ思ふ。彼は道頓堀復帰以来、すこし鼻につくほどの新しさを放つてゐたのである。其が、よくもあしくも、久しく後年の指標となつた。而も、其が著しく成功し、すべてから異存なく迎へられたのが、お亀以来の新娘形なのである。役に対する自在な理会と自由な演出とが、型のない役柄にはまりきつて、さうした表現に真に廻りあつた思ひをさせたのである。実に四十年近い舞台上の女性生活の機が、熟したのだと謂へる。
新演出といふよりも、彼の身を以て描いた自己の生活追跡の結果であつた。彼の久しく懐ち胎んでゐた、溌剌たる処女の誕生であつた。いそ〳〵とした、小ぢんまりとした、世間のすべての人から極度に愛せらるべき、賢しさに輝り充ちて、有頂天に世間を信じて──、其等世間娘の美徳の、からだの表情に綜合せられて現れた生娘である。此までの歌舞妓の舞台を注意して見ると、なる程今までも、娘役のはしやぐ場合には、其が出て来ることがあつた、あれである。唯旧来のものは、暗愚な色気を心にして動いてゐるのだが、其をもつと勤しい精神的な美しさに綜合したものだつたのである。
恐らく魁車の身に近く、さう言ふ婦人の現れた時期のあつたことが思はれる。さうして、いつか精神を以て模倣するやうになつた。さう言ふ事になるのでないか。
ところが、お亀以後には、女房役にも、其女性が頻々として現れた。「あかね染」のお園の場合は既に述べた。七段目のお軽などには、平右衛門とのめぐり合ひに、誰よりよい勤しさと、陰影なさの美しさを表した。
美しくて、気さくで、しつかり者と謂つた性根を持つた女が、彼の女形に対する通念になつてゐた。併し此は実は訂正せねばならなかつたのである。批評家は其を怠つてゐた。彼の発見した娘を、うつかり見過したのだつた。さうして、彼の女性を、常にその立ち場から見続けてゐた。私は終に見ることの出来なかつたのを悔むが、双蝶々の米屋の段、長吉姉おせきなら、歴史上の名優──手近い処に先代梅玉の名高いものがある──の繰り返したよい演出を重ねても、彼をうち負す事は出来なかつたであらう。なぜならば、浄瑠璃作者や、役者・人形つかひの合作した性根は、以前の魁車に完備してゐた。其上、新しい柔軟性を発揮する様になつてからの彼には、女丈夫でない町の婚かず後家の描写は、額に手して望むべきであつた。其に彼の女形の強みは、大阪役者の誰よりも、名調子に幸へられてゐたことである。立役としては、凜々としたあの声に少しどすの足らぬ歎きがあつた。女形では、そんな顧慮はいらぬ。出すまゝの声が、彼の「女」を表現した。小ぶりに身を動して、肩と手とに美しく科しながら、下体は飛び立つ様な動作をする。歌舞妓にも、新派にも、人形にも、其他日本の演劇には一度も出て来ないで居て、而も日本にある女性その物であつた。さうした女性の常の挙措であり、全部の表情が、完全に歌舞妓の女に帰一して来ることが、彼の舞台で気づかせられたものである。
吾々の悔ゆることは、魁車の表現によつて、完全に発見具象せられたいそしい日本女性を、もつと考へ深めなかつたことである。「九つ梯子」から「あるぞえ、あるぞえ」の耳打ちの件に到るまで、はしやぐお軽に属する部分に、皆の見外してゐるお軽の自由性と、穢れない処女性、さう言ふものを見た筈なのである。
唯、近年一力のお軽の後半は、極度の写実が、芸格に煩ひを見せた。癪持ちの女を写生したと見えて、まだ〳〵きれいに見える容貌殊にさうなつても、生きいきしたよさに徹した頸筋の動脈なども、美しさは美しい乍らに、写実のいやらしさを感じさせた。此写実精神は、元禄期の優人においては、さいさきのよい日本演劇表現史上の発見ではあつたが、其後如何に久しく、優人の芸の為の手足纏ひとなつたことか。精神病・吃音の写実に努めるのも、胃痙攣時の表情を模倣するのも、もつとよい理会の上にたてられた描写でなくてはならぬ筈である。彼が新しく生きようとする意図が、いつまでも啓蒙的な写実をふり棄てさせなかつた一例である。
彼の芸は、初中期には、悪質な非難者を却けるに十分であつた。此はよい事であつた。芸があるべきまゝの正しい姿に伸びて、良い素質が素質のまゝに発育するからである。だが伸びるに随つて、全然彼の進歩を唆る批評だけと言ふ訣にはいかなくなつた。彼の演劇の成績のあがるに連れて、点が辛くなつたのである。だが一半は、常に、彼の如き表現技巧の自由な優人にあり勝ちな此写実癖が、人をけぶたがらせるのである。おなじ写実主義の人でも、延若の場合は、うかめたり、をこついたり、踊つたりして、写実を空想化する中和手段を、適度に用ゐた。さういふ技術にかけては、彼の河内屋は実に能才である。此は、極端な写実技工に、必伴ふものであつて、殊に上方風の二枚目芸には、其が、特に発達して居た。立役の芸にも勿論其はあるのだが、ともすれば、役柄として、滑稽に見えるのを避けて、どうも写実一方に流れて行つた嫌ひがある。唯型が、多くの場合に救ひになつて居た。女形の場合にも、望むことの出来るのは、型の助力である。写実は実生活への復元であつて、演劇の純なる衝動への復帰にはなり難いことを考へねばならぬ。魁車の場合、あれほど正しい「演劇復帰」の軌道にのり乍ら、又あれほど邪な写実主義を信奉して居たと言ふ矛盾は、併しありさうな事ではある。も少し低い意味において重要だつたことは、彼の「演劇」の発達の為にはもつとよい批評、彼の芸よりも優位にある批評が、彼の為にあつてほしかつたことだ。演劇批評殊に歌舞妓批評は其点から実におもしろい読み物であつても、何の哲学もなく、理想もなく、第一開発するものがなかつた。いずむを喧しく唱へた新劇論者が輩出しても、あれでは寧、影響を受けぬ方がよかつたと思ふ。賢くて人の良かつた彼は豊醇甘美な激励に乗つて、艱難な写実道をのり切ること、娘形の場合におけるが如くであつたらうにと思ふ。批評家の持つ固定した正義観が、どんなに芸術家に煩ひするか、批評家自身考へて見る必要がある。
彼の発見した娘が、結局極めて個性的であつたと言ふことが出来る。写実の到達する境地は、著しく個性的なものである。此は一見普遍要素を欠くものゝ様に見える。が、芸の精髄は、発見者自身の方法により、その表現により、その身体発想によつて、はじめて表出せられるのであるから、個性的であるのが、当然なのである。だから場合によつては、之を普遍化するのに、著しく低級な飜作を行ふことがある。さうなると、其段階に到るまでに、新発見は再、影を没してしまふことすらあるのである。
今一面、彼に新しい平俗性へ逸脱しようとした方面がある。先に述べた三枚目風な役を演ずる時の彼である。謂はゞ樽屋久八型の愚直と、卑賤と、善良との並行する性根である。
此方面は、彼一己にとつては発見ではなかつた。あり来りの解釈で書かれたものを、あり来りに演出するばかりであつた。だが、彼においては、柄を殺し、表出を変へる必要が切実にあつた。併しおなじ類型と言ふでふ、かうした役には、彼は先輩の芸を思ふことが多かつた。卯三郎であり、璃珏であり、又、私の思ひ及ばぬ、何人かの人々であらう。だが三枚目や、其系統に近い、謂はゞ魁車より一目下りの人々の芸品を模するのではなかつた。立者級の人で、常に脇役又は稍低目の脇役を振られ慣けた人々がある。其等の人々は、自ら渋さを覗ふ。名人又は「芸の虫」など呼ばれた人々が、どうかすれば、道化畠に向うて、気随な活路を開く。其路が又、書き出しや、座頭地位にある人に模せられる様にもなる。おなじ滑稽でも、立役畠の道化である。役者自身は、我々素人とは違つて其を明らかに会得して居る。つまり、弥次郎兵衛・北八は、本領道化役にあるとしても、芝居の習慣は、立物の芸に属してゐる。明治代のそゝり芝居で、喜知六・団八の膝栗毛を以て、平日の団十郎・左団次よりは、本役でよかつたと謂はれた話は、頷かれるやうであつて、実は誤りである。三枚目の演ずる滑稽と、立役の道化との区別を考へて居ぬのである。日本演劇・芸能では、どちらかと言へば、喜劇要素に深く進んで来て居ながら、竟に正しい喜劇に到達せなかつた。だが、正喜劇を把握しようとする煩悶が、立者の喜劇式演劇を生んだので、三枚目の演出を模倣したのだと思うてはならぬ。最近い所で、譬へば、吉右衛門を見てもさうである。各種の八百屋お七における弁秀や紅長を演じた経験を持つてゐる。此等は、三枚目の畠を行くべきものでない。又全くさうは演出しなかつた。だが、多少の誤解があつて、三枚目どころの下級役者の為様を多く参考にしたかに見えた。先代訥子の紅長などを見ると、見当違ひの多かつた此人に繋らず、此は本格的な座頭芸の喜劇を見せたものであつた。又譬へば「髪結ひ新三」の家主である。松助の長兵衛を典型とするのが、近来の常識であるが、先代仲蔵の家主は、やはり一目あがりの観が深かつたと言ふ。松助は後こそ、脇役として相当に高く見られたが、元々彼は端敵三枚目どころである。彼の役どころは、脇立役ではなかつた。又現に正確な時代物で、脇役の勤つた人ではなかつた。そこに仲蔵・松助の長兵衛の差異は出て来るのである。似せ聟や、惚れ薬の役々は、三枚目の役どこであるが、若殿や、つゝころばしのやつしは、立役候補の二枚目に限る喜劇である。
卯三郎や璃珏の閑散な役々に、愚直・卑賤・滑稽に傾くものを相応見たが、成程脇役としての大きさと、自由な技巧とが横溢してゐた。まことに拘泥する所のない、生活の放出であつた。魁車の美しい娘形に見る、自由とおなじものがあつた。芸を愛する魁車が、此先輩たちのよさに感じぬ訣もなし、又自分の位置から似た役どころに振り当てられる場合、何としても、準拠は此等の人の、此等の役に求めるのは、然あるべきことである。現に「つゞら折り」の手代は、初演は卯三郎であつた。卯三郎の手代と、自ら違ふ畠のおもしろさを、彼も見せたが、やはり卯三郎のよさには、彼自身まづ囚はれかゝつてゐた。
樽屋伊助も、卯三郎が演じて、後魁車のものになつたと思ふが、卯三郎は立役よりも、少し脇役めいた──おせん役者に対して──心得を以て演じたやうである。立役で演ずる筈の魁車の伊助が、やはり脇役の腹と、悲喜劇らしい性根を以て演じたのは、後方は正しいが、前者は、先輩の芸を尊重し過ぎた為の誤算であらう。璃珏移しは、平右衛門などだと思ふが、舞台はさうは見えなかつた。さすがに個性の尊さである。が、腹は何処までも豊島屋で行つてゐた。彼は突破し、後にふり棄てゝ行かねばならぬ、尊むべき先輩が多かつた。彼の完成の為には、彼の個性をもつと出す為には、断たねばならぬ芸の執著境があつた。いやまだあつた。彼自身あまり、好んで倣うたと見えぬ、多見之助多見蔵の芸などが其だ。器量・そつぽうから芸格も違つてゐるが、境遇上、芸境が近似して来てゐた。役柄が全く、彼と同じであつた。私は、魁車のある期間、心において模倣した役者があつたとすれば、先代中村霞仙であつたと思ふ。師匠鴈治郎よりも、行き方において万事が霞仙的であつた。併し境遇は是非もなかつた。痩せても枯れても座頭格でとほした霞仙の役は、彼に割り当てられることが尠かつた。却て彼のうけとつた役々は、多見之助に試みられた芸目であつた。女形においても立役においても、全く多見之助と一つ道をとつてゐるかに見えた。殊に鎌腹など思ふと、魁車の弥作を目に欲した。あの愚直は、単に素朴の変形なのである。与次郎──堀川──がさうであり、吃又がさうであつた。吃又は性根の据ゑどころに古人稍勘違ひを重ねて来、近来の改訂が、当を得て来た。が、与次郎は、すが〳〵しく演じる先代仁左衛門及び、其系統にある様に見える菊五郎のは、稍腹が違ふやうである。弥作も其である。魁車はどうしても、全面的に、多見之助から身をかはす必要が、知らぬ間に彼に迫つて居たのである。多見之助よりも、璃珏よりも、彼は美しさを持つてゐた。
椀久の幇間は、此等の影響から脱して、魁車独特のものを出し、批評家にも認めさせたものだが、さうした加役が認められる程、批評家から彼の芸才が呪はれ、何でも屋として、彼の将来を杞憂したことであつた。だが彼の既に成熟した人であつたことが忘れられてゐたのである。一つは、彼の女形が、真女形として専門を固めて居るらしく見えたからである。女形として認められ過ぎて居たことを意味するのである。
いつまでも勤しい女性を写してゐる魁車を見て、私どもは油断をしてゐた。彼が既に七十に達してゐたことすら忘れて居たのである。彼のして見たい役は多かつたらう。そんな点から言へば、あの年になつてまだ、吹きゝれずに過ぎ逝かせたことの悔みが多い。明治の璃寛の芸目を数へる時、殊にその思ひが深い。さう言ふ所を、能ふ限り辛苦して、優人の表現によつて新しい性根を拓かせることが、ほんたうの腹の大きな、新しい仕打ちの業蹟になるのではあるまいか。亡き田村成義で見るがよい。菊五郎・吉右衛門をあれだけにし立てた、といふ誇りに酔うてゐるとすれば、彼のあの世の安堵も、存外めでた過ぎるものである。菊五郎・吉右衛門等の芸境を狭く、芸目を少くしたのも、自分だつたのを反省することは、ないであらうか。鴈治郎をあれだけ伸したことはよい。唯魁車その外の秀才が、どれだけあくびをして、一生を過したか。人物経済をすこしは考へて見るがよい。秀才の世に現れることは、真に乏しい機会に過ぎぬ。優人があくびをすると共に、見物も遂には、あくびをするに到らざるを得ない。
君の手の魁車を見給へ。まだ世に出ぬ青い鳥を、抱きすくめたまゝ、あの世へ行つてしまつたのである。
底本:「折口信夫全集 22」中央公論社
1996(平成8)年12月10日初版発行
底本の親本:「かぶき讃」創元社
1953(昭和28)年2月20日
初出:「日本演劇 第三巻第七号」
1945(昭和20)年11月発行
※「歌舞伎」と「歌舞妓」の混在は、底本通りです。
※初出時の署名は「釈迢空」です。
※平仮名のルビは校訂者による加筆です。
※底本の題名の下に書かれている「昭和二十年十一月「日本演劇」第三巻第七号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:酒井和郎
2018年2月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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