歌舞伎とをどり
折口信夫
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東京と上方とでは舞踊家の態度が異つてゐる。東京の踊りは歌舞妓の歴史に関りを持つてゐるが、上方の舞ひは能から出てゐると言はれてるだけに、上方のは、そんなに踊りは芝居と密接な関係に捉はれてゐないのだ。
東京だつて、歴史は歴史として、もつと役者の舞踊から自由になれないと言ふ謂はれはない。役者は専門を持つてゐる。舞踊家が極端に役者の踊りに随ふと言ふことは、舞踊家自ら源を涸らすことになる。
我々からすれば、能がゝりだとか、芝居がゝりでない方が踊りらしい気がする。だから、これでも踊りかと言ふ気のするものが多くて、踊り自身すら早くから不純なものになつてゐたのではないだらうか。
何と言つても現実がかうあるのだ。だから其から出発しての議論でなくては、と言ふ論法で、歌舞妓所作事を踊りの正道なものとするのなら、話は別である。事実、今のやうな組み合せで、芝居をくり返してゐるなら、歌舞妓芝居そのものをも滅することになりはすまいか。
今で言へば、東京に、舞ひの名手が役者に多い。菊五郎などはあれだけを歌舞妓に専念したら、どんな役者になつたらうか。あの人気の源になつてゐる踊りは、あの人の芸を蝕んでゐるものだと言ふことに気がつかない筈はないと思ふのだが。
又三津五郎に踊りが出来なかつたら、あの特殊な顔を以つて、もつと役者としての大をなしてゐるだらうに。踊りのために、実に其だけの役者と謂つた形になつて終つてゐる。此ほどあの人にとつて、気の毒なことはない。
歌舞妓と言ふものが、ひと頃問題を湧き立たせてゐたが、それは問題ではない。
当然歌舞妓自身で刈り取るべきであらう。歌舞妓が、歌舞妓発生時代から劇的要素を自由に伸ばさないやうにさした踊りと、平行してゐるのがいけないのだ。
そして歌舞妓芝居の景気の悪い時は、踊りでつなぐと言ふことが、いつも行はれるが、これは歌舞妓そのものから言つて悲しむべきことであるし、又踊りから言つても喜ぶべきことでない。歌舞妓と踊りは別個のものとして進んで行かなくては、どうしてもいけないだらう。
高級な芸術はさておいて──しかし踊りそのものもある点高級ではあるが──全体として民俗芸術と言ふものは、出たとこ勝負のものが積み重なつて大成してゐる。
新舞踊などについても彼此言ふだけの力はないが、これからのものはそんなのでなく、成算もなければいけないし、理想もなければいけないのだから、そこに周到な心がまへが望ましくなつてくる訣である。ほんの其場きりの鼻先思案見た様なものでは、どうにも間に合はないのだ。民俗芸術と新舞踊とは違ふのだから。
新舞踊と言ふものに打たれたと言ふ感じがしないのは、深い内容がなく、単なる思ひ付きから出来たものが多いからではあるまいか。
我々は屡、古典舞踊の復興と言ふものを見せられるが、今に何の型も残つてゐないものを、復活してみせられたところで、其に信頼してゐる気がしない。疑ひばかりが起つて来て、少しも楽しめないのである。試演は大事だけれども、完成した芸の維持といふ事が更に大切である。
出来れば型も残つてゐて、廃曲にならうとするものを採集して整理してみせて頂きたいものだ。何でも努力はよい事だ。
だが、舞踊の廃曲を興すにも、文芸復興の情熱と方法が備つて居なくてはならぬと思ふ。民俗舞踊に於いての採集の態度で、舞踊家もすゝんでくれてこそ、古典の復活も意義を生じてくる。
座談に過ぎないから、深く考へても居ないし、元々舞踊については、からきしの素人なのだから大目に見て通つて頂く。
底本:「折口信夫全集 22」中央公論社
1996(平成8)年12月10日初版発行
初出:「舞踊芸術 第五巻第六号」
1939(昭和14)年6月
※底本の題名の下に書かれている「昭和十四年六月「舞踊芸術」第五巻第六号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:沼尻利通
2013年4月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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