「狂気について」など
原民喜



「狂気について」は昨年三田文学九月号の Essay on Man のために書いて頂いたものだが、それが標題とされ今度一冊の書物となり読み返すことの出来たのは、僕にとつてほんとに嬉しいことだつた。もつと嬉しいのは、この書があの再び聞えてくるかもしれない世紀の暗い不吉な足音に対し、知識人の深い憂悩と祈願を含んでゐることだ。僕は自分のうちに存在する狂気に気づき、それをどう扱ふべきか常に悩んでゐるものだが、(「狂気」なしでは偉大な事業はなしとげられないと申す人も居られます。それはうそであります。「狂気」によつてなされた事業は、必ず荒廃と犠牲を伴ひます。ヒユーマニストは「狂気」を避けねばなりません。冷静が、その行動の準則とならねばならぬわけです)と語る著者の言葉はしつくりと僕の頭脳に沁みてくる。

 僕たちはつい昨日まで戦争といふ「狂気」の壁に取まかれてゐたが、その壁ははたしてほんとに取除かれたのだらうか。(人間が自分の「思ひこみ」を反省できないばかりか、自分の主義主張の機械になり、いつの間にかがら〳〵まはり出す)危機が向側からやつて来ないと断言できるだらうか。だが、さうなれば、(これまでの戦争とは異つた性格を持つた戦争、二つの制度と二つの世界観とに支配された集団の死闘といふ形の新しい戦争、そしてその帰結は、恐らく勝利者も敗北者もないことになり、一種の「世なほし」が行われることになる戦争、しかも新兵器の用ひられる戦争)となるだらうが、こんな「狂気」を僕たちは僕たちの意欲によつて避けることは出来ないのだらうか。(戦争で実害を蒙るのは、大多数の人民である。人民の味方である筈のコミユニスムは、戦争を阻止する為のあらゆる手段をとらねばならぬ)とこの著者は語る一方、(宗教のヒユーマナイゼーシヨンとは「鴉片」的なものを一切自ら棄てて、神すら人間の為にあることを認知し、自らの作つたものの機械となり奴隷となりやすい人間の弱小さに対する反省を教へ)人類の自滅を防ぐことではないかと云ふ。

 戦争と暴力の否定が現代ぐらゐ真剣に考へられねばならぬ時期はないだらう。血みどろな理想は決して理想ではないし、強い人々だけが生き残るための戦争ならなほ更回避されねばならない。なぜなら、(生存競争弱肉強食の法則を是正し、人類文化遺産の継承を行ふのが、人間の根本倫理)だからと語る。これらの言葉は、一切が無であらうかと時に目まひがするほど絶望しがちな僕たちに、静かに一つの方向を教へてくれるやうだ。

底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版

   1983(昭和58)年81日初版第一刷発行

初出:「三田文学」

   1949年7月号

※底本中の二重括弧は、「(」「)」にあらためました。

入力:ジェラスガイ

校正:大野晋

2002年720日作成

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