漱石氏と私
高浜虚子



  序


 漱石氏と私との交遊はうときがごとくして親しく、親しきが如くして疎きものありたり。その辺を十分に描けば面白かるべきも、本篇は氏の書簡を主なる材料としてただ追憶の一端をしるしたるのみ。氏が文壇に出づるに至れる当時の事情は、ほぼ此の書によりて想察し得可うべし。

  大正七年正月七日

ほととぎす発行所にて
高浜虚子


   漱石氏と私


    一


 今私は自分の座右に漱石氏の数十本の手紙を置いて居る。近年はあまり人の手紙は保存することをしないけれども、十年前頃までは先輩の手紙の大方保存しておいた。それは一纏ひとまとめになって古い行李こうりの中に納められてある。今度漱石氏が亡くなったのに就いて家人の手によって選り出されたものが即ち座右にあるところの数十通の手紙である。まだ年月の順序でそれを排列することもしないでいるのであるが、ちょっと手にとってみたところでは大方漱石氏が「猫」を書くようになってから以来一両年間の手紙で、それ以前の手紙は極めて少いようである。そうして漱石氏が朝日新聞に入社してその紙上以外に筆を執らぬようになってから後はまた著しくその数を減じている。

 私が漱石氏に就いての一番古い記憶はその大学の帽子をかぶっている姿である。時は明治二十四、五年の頃で、場所は松山の中の川に沿うた古いうちの一室である。それは或る年の春休みか夏休みかに子規居士こじが帰省していた時のことで、その席上には和服姿の居士と大学の制服の膝をキチンと折って坐った若い人と、居士の母堂と私とがあった。母堂の手によって、松山鮓まつやまずしとよばれているところの五目鮓がこしらえられてその大学生と居士と私との三人はそれを食いつつあった。他の二人の目から見たらその頃まだ中学生であった私はほんの子供であったであろう。また十七、八の私の目から見た二人の大学生ははるかに大人びた文学者としてながめられた。その頃漱石氏はどうして松山に来たのであったろうか。それはそののちしばしば氏に会しながらもついに尋ねてみる機会がなかった。やはり休みを利用しこの地方へ来たついでに帰省中の居士を訪ねて来たものであったろうか。その席上ではどんな話があったか、全く私の記憶には残っておらぬ。ただ何事も放胆的であるように見えた子規居士と反対に、極めてつつましやかに紳士的な態度をとっていた漱石氏の模様が昨日の出来事の如くはっきりと眼に残っている。漱石氏は洋服の膝を正しく折って静座して、松山鮓の皿を取上げて一粒もこぼさぬように行儀正しくそれを食べるのであった。そうして子規居士はと見ると、和服姿にあぐらをかいてぞんざいな様子ではしをとるのであった。それから両君はどういうようにして、どういう風に別れたか、それも全く記憶にない。ただその時私は一本の傘を居士の家に忘れて帰って来たことと、その次ぎ居士を訪問してみると赤や緑や黄や青やの詩箋しせんに二十句ばかりの俳句が記されてあった、それを居士が私に見せて、「これがこの間来た夏目の俳句じゃ。」と言ったことを覚えて居る。どんな句があったか記憶しないが何でも一番最初に書いてあった句がうぐいすの句であったことだけは記憶して居る。

 その後も子規居士の口から漱石氏に就いての話はしばしば聞いた。極く真面目に勉強する人で学校の成績が常にいいということや、学資を得るために早稲田の専門学校に教えに行っているということや、その他今記憶に残ってはいないけれどもいろいろの話を聞いた。居士がその親友として私に話した人の名前はあまり沢山なく、菊池謙二郎、秋山真之さねゆき、その他二、三の人であったが、同じ文学に携わる者としては夏目という名前がしばしば繰返された。

 それから三、四年経って明治二十八年に私は松山に帰省した。私は明治二十五年に松山を出て京都に遊学し、それから仙台、東京と処を替えたのであったが、この明治二十八年に帰省した時に、漱石氏は大学を出て松山の中学校の教師になっていたので、それを訪問してみることを子規居士から勧められた。三、四年前一度居士の宅でった大学生が夏目氏その人であることは承知していたが、その時は全くの子供として子規居士の蔭に小さく坐ったままでろくに談話も交えなかった人のことであるから、私は初対面の心持で氏の寓居ぐうきょを訪ねた。氏の寓居というのは一番町の裁判所の裏手になって居る、城山のふもとの少し高みのところであった。その頃そこは或る古道具屋が住まっていて、その座敷を間借りして漱石氏はまだ妻帯もしない書生上りの下宿生活をして居ったのであった。そこはもとかんという家老の屋敷であって、その家老時代の建物は取除けられてしまって、小さい一棟の二階建の家が広い敷地の中にぽつんと立っているばかりであったが、その広い敷地の中には蓮の生えている池もあれば、城山の緑につづいている松の林もあった。裁判所の横手を一丁ばかりも這入はいって行くと、そこに木の門があってそれを這入ると不規則な何十級かの石段があって、その石段を登りつめたところに、その古道具屋の住まっている四間か五間の二階建の家があった。私はそこでどんな風に案内を乞うたか、それは記憶に残って居らん。多分古道具屋のかみさんが、

「夏目さんは裏にいらっしゃるから、裏の方に行って御覧なさい。」とでも言ったものであろう、私はその家の裏庭の方に出たのであった。今言った蓮池や松林がそこにあって、その蓮池の手前の空地の所に射垜あずちがあって、そこに漱石氏は立っていた。それは夏であったのであろう、漱石氏の着ている衣物きものは白地の単衣ひとえであったように思う。その単衣の片肌を脱いで、その下には薄いシャツを着ていた。そうしてその左の手には弓を握っていた。漱石氏は振返って私を見たので近づいて来意を通ずると、

「ああそうですか、ちょっと待ってください、今一本矢が残っているから。」とか何とか言ってその右の手にあった矢を弓につがえて五、六間先にある的をねらって発矢はっしと放った。その時の姿勢から矢の当り具合などが、美しく巧みなように私の眼に映った。それから漱石氏はあまり厭味いやみのない気取った態度で駈足かけあしをしてその的のほとりに落ち散っている矢を拾いに行って、それを拾ってもどってから肌を入れて、

「失敬しました。」と言って私をその居間に導いた。私はその時どんな話をしたか記憶には残って居らぬ。ただ艶々つやつやしく丸髷まるまげった年増としまかみさんが出て来て茶を入れたことだけは記憶して居る。

 この古道具屋の居たという家は私にも縁のある家で、それから何年か後にその家や地面が久松家の所有になり、久松家の用人をしていた私の長兄が留守番旁々かたがた其所そこに住まうようになって、私は帰省するたびにいつもそこに寐泊りをした。即ち漱石氏の仮寓していた二階に私はいつも寐泊りしたのであった。それから私の兄が久松家の用人をやめて自分の家に戻って後、そこには藤野古白こはくの老父君であった藤野すすむ翁が久松家の用人として住まっていた。大正三年の五月に私は宝生新ほうしょうしん氏(漱石氏の謡の師匠)や、河東碧梧桐かわひがしへきごとう君や、次兄池内信嘉いけのうちのぶよしやなどと共に松山に帰省したことがあった。それは池内のくわだてで松山で能を催すことになって一同打連れだって帰省したのであったが、その時宝生氏を始め一同は藤野氏の所に集って申合わせをした。もっともそれは例の二階建の小さい家の方ではなくって、久松家の所有になってから直ぐその家に隣ってやや広い座敷が二間ばかりある時々の集会などに用うる一棟の別座敷が作られた、その方に集って申合せをしたのであった。その申合せをして居る時に、藤野氏の家人の声がして、

「今一人の書生さんが見えて、夏目さんがどうとか仰しゃるのですが……」とその意味を解しかねたように言った。藤野翁はそれに答えて、

「それは何か間違であろう、河東さんや高浜さんはおいでになって居るが、夏目さんはおいでになっていない、とそう返事をおし。」と言った。一座の人は皆黙々として思いもよらぬその話にあまり意をとめなかったようであったが、私は二十年前のことがたちまち頭にひらめいて、

「それは夏目君が以前この家に居たことがあった、ということに就いて何かきに来たのであろう。」と言った。

「夏目君がここにいたとは?」と藤野翁は私の顔をいぶかしそうに見た。その他の人も皆不思議そうに私の顔を見た。そこで私は、

「とにかくその書生さんに会って見ましょう。」と藤野氏の家人に言って、下駄を突っかけて表に出て見た。そこには大学の制帽を被った一人の書生さんが突っ立っていた。

「どういう御用ですか。」といてみたら、

「私は夏目先生の著作を愛読しているものですが、神経衰弱にかかって一年ばかり学校を休んでいる間に所々を旅行して今度この地に来たのです。先生のお書きになった何かの記事のうちにに下宿していられたということがあったように記憶していたのでどんな所かその跡が見たくて来たのです。」ということであった。そこで私はその書生さんを案内して、まだ形の残っている射垜の辺から例の大きくない二階建などを見せた。その書生さんはあまり多く語りもせずに帰って行った。その時名刺を貰ったけどもその名前は格別記憶にも残っていなかった。が、その翌年発行所の電話のベルが鳴って、

「私は渡辺と言っていつか松山でかくかくのことをしてもらった者であるが、一度夏目先生にお目にかかりたいと思う。お紹介が願えないでしょうか。」ということであった。私は承知の旨を答えた。私の書いた紹介状を渡辺自身が取りに来たのはその日かその翌日かのことであった。その後渡辺君のことはまた考える機会もなかったのであるが漱石氏の葬式の時、青山の斎場に丁度私の傍に立っていた一人の青年がその渡辺君であって久し振りに挨拶をした。それから最近一月十日の日附の郵便が鎌倉の私の案頭あんとうに落ちた。それはこういう手紙であった。


拝呈

 私は大正三年の春先生に松山で御目にかかり、四年の十二月に夏目先生に紹介していただいたものでございます。先生の御蔭で夏目先生に御目にかかる事が出来て大変悦んで居りました処、夏目先生は死なれましてまた寂寞せきばくを感ずるようになりました。遠慮であったのと御邪魔してはならぬという考えから度々たびたびは参りませんでしたが、比較的に親しく御話を承り少しは串戯じょうだんも申しましたが、死なれて急に何となく物足らないような心地になり、東京に居ってもつまらないような心になりました。それと同時に、今まで運命とかいうような事は全く考えた事もなかったのですが少しは運命という事を考えるようになりました。私が松山へ行ったのは数年前『ぼっちゃん』を読んだ事がありましたため、その跡を尋ねに松山へ行きたいという心が自然にその年の春浮んで来たのです。同時に先生が御郷里の松山へ帰って御出おいでだとは思いもそめなかった事であります。それに夏目先生の下宿の跡を尋ねて廻って居った時先生に御目にかかるを得たのは如何に考えても不思議な運命だと思われます。それのみならず紹介していただいて一ヶ年の後夏目先生が死なれたという事がまた奇しく思われます。昨年十二月九日に死なれるのが天命であったとすれば、御生前に御目にかゝるために松山へ行きたいという心が三年の春に浮んだのであるかも知れぬと思います。考えれば如何にも妙です。どんな力が働いてこんな事が出来るのかちょっとも知れませぬ。しかし何はともあれ先生に紹介していただいた事は常に深く感謝しております。この冬休暇に帰って猟をして居るうち今日山鳥が一羽とれましたから御礼の印に御送り致します。ツグミではないから安心して食って下さいませ。

   一月十日

義雄

     高浜先生


 私から言っても丁度松山に帰っていて、しかも以前漱石氏の寓居であった所に行っていた時に、渡辺君が漱石氏の寓居の跡を訪ねて来たということは奇縁といわねばならぬ。山鳥は早速調理して食った。うまかった。ツグミ云々うんぬんとあるのは漱石氏が胃潰癰いかいようを再発して死を早めたのはツグミの焼鳥を食ったためだとかいう話があったのによるのであろう。


    二


 明治二十九年の夏に子規居士が従軍中咯血かっけつをして神戸、須磨と転々療養をした揚句あげく松山に帰省したのはその年の秋であった。その叔父君にあたる大原氏のうちに泊ったのは一、二日のことで直ぐ二番町の横町にある漱石氏の寓居に引き移った。これより前、漱石氏は一番町の裁判所裏の古道具屋を引き払って、この二番町の横町に新らしい家を見出したのであった。そこは上野という人の持家であって、その頃四十位の一人の未亡人が若い娘さんと共に裏座敷を人に貸して素人下宿を営んでいるのであった。裏座敷というのは六畳か八畳かの座敷が二階と下に一間ずつある位の家であって漱石氏はその二間を一人で占領していたのであるが、子規居士が来ると決まってから自分は二階の方に引き移り、下は子規居士に明け渡したのであった。

 私はその当時の実境を目撃したわけではないが、以前子規居士から聞いた話や、最近国へ帰って極堂きょくどう霽月せいげつらの諸君から聞いた話やを綜合して見ると、大体その時の模様の想像はつくのである。子規居士は須磨の保養院などにいた時と同じく蒲団ふとんは畳の上に敷き流しにしておいてくたびれるとその上によこたわり、気持がいいと蒲団の上に起き上ったり、縁ばな位までは出たりなどして健康の回復を待ちつつあったのであろう。それから須磨の保養院に居る頃から筆を執りつつあった「俳人蕪村」の稿を継ぎ、更に「俳諧大要」の稿を起すようになったのであった。子規居士が帰ったと聞いてから、折節帰省中であった下村為山いざん君を中心として俳句の研究をしつつあった中村愛松あいしょう、野間叟柳そうりゅう伴狸伴ばんりはん、大島梅屋ばいおくらの小学教員団体が早速居士の病床につめかけて俳句の話を聞くことになった。居士は従軍の結果が一層健康を損じ、最早もはや一図に俳句にたずさわるよりほか、仕方がないとあきらめをつけ、そうでなくっても根柢からこの短い詩の研究に深い注意を払っていたのが、更に勇猛心を振い興して斯道しどうに力を尽そうと考えていた矢先であったので、それらの教員団体、並びに旧友であるところの柳原極堂、村上霽月、御手洗不迷みたらいふめいらの諸君を病床に引きつけて、殆んど休む間もなしに句作をしたり批評をしたりしたものらしい。その間漱石氏は主として二階にあって、朝起きると洋服をつけて学校に出かけ、帰って来ると洋服を脱いで翌日の講義の下調べをして、二階から下りて来ることは少なかったが、それでも時々は下りて来てそれらの俳人諸君の間に交って一緒に句作することもあった。子規居士はやはり他の諸君の句の上に○をつけるのと同じように漱石氏の句の上にも○をつけた。ただ他の人は「お前」とか「あし」とか松山言葉を使って呼び合っている中に、漱石氏と居士との間だけには君とか僕とかいう言葉を用いていた位の相違であった。漱石氏はこれらの松山言葉を聞くことや、足を投げ出したり頬杖をついたりして無作法な様子をして句作にふけっている一座の様子を流し目に見てあまりいい心持もしなかったろうが、その病友の病を忘れているかの如き奮闘的な態度には敬意を払っていたに相違ない。殊に漱石氏は子規居士が親分らしい態度をして無造作に人々の句の上に○をつけたり批評を加えたりするのを、感服と驚きと可笑味おかしみとを混ぜたような眼つきをして見ていたに相違ない。ことにまた自分の句の上に無造作に○がついたりちょくが這入ったりするのを一層不思議そうな眼でながめていたに相違ない。

「子規という男は何でも自分が先生のような積りで居る男であった。俳句を見せると直ぐそれを直したり圏点をつけたりする。それはいいにしたところで僕が漢詩を作って見せたところが、直ぐまた筆をとってそれを直したり、圏点をつけたりして返した。それで今度は英文を綴って見せたところが、奴さんこれだけは仕方がないものだから Very good と書いて返した。」と言ってその後よく人に話して笑っていた。

 後年になって漱石氏の鋭い方面はその鋒先ほこさきをだんだんとふくろの外に表わし始めたが、その頃の──殊に若年であった私の目に映じた──漱石氏は非常に温厚な紳士的態度の長者らしい風格の人のように思われた。自然子規居士の親分気質な動作に対しても別に反抗するような態度もなく、俳句の如きは愛松、極堂、霽月らの諸君にして子規居士の傘下さんかに集まった一人として別に意に介する所もなかったのであろう。のみならず、この病友をいつくしみ憐れむような友情と、その親分然たる態度に七分の同感と三分の滑稽こっけい味を見出す興味とで、格別いやな心持もしないでその階下に湧き出した一箇の世界を眺めていたものであろう。そうして朝暮出入している愛松、極堂らの諸君とは軌道をことにして、多くの時間は二階に閉籠とじこもって学校の先生としての忠実なる準備と英文学者としての真面目な修養とに力を注いでいたのである。後年『坊っちゃん』の一篇が出るようになってから、この松山中学時代の漱石氏の不平はにわかに明るみに取り出された傾きがあるが、当時の氏にはたといそれらの不愉快な心持が内心にあったとしても、それらの不愉快には打勝ちつつ、どこまでも真面目に、学者として教師として進んで行く考であったことは間違いない。大学を中途で退学して新聞社に這入って不治の病気になって居た子規居士と、真直に大学を出て中学校の先生としていそしみつつあった漱石氏とは、よほど色彩の変った世界を、階子段一つ隔てた上と下とに現出せしめて居った訳である。しかしそれがまた後年になってある点までにかよった境界に身を置いて共に明治大正の文壇の一人者として立つようになったことも興味あることである。

 子規居士がこの家に居ったのはおよそ一ヶ月位のことであったかと思う。これは最近帰省した時に極堂、霽月らの諸君に聞いた話であるが、その一ヶ月ほどの滞在の半ば以上過ぎた頃のことであったろう、ふと俳句の話が写生ということに移って、ぜひとも写生をしなければ新しい俳句は出来ないという居士の主張を明日は実行して見ようということになって、その翌日天気の好いのを幸に居士は極堂その他の諸君と共に珍らしく戸外に出て、稲の花の咲いて居る東郊を漫歩して石手寺の辺まで歩いて行き、それからまた同じ道を引き返して帰って来た。居士の、

南無大師石手の寺や稲の花

などという句はこの時に出来た句であるそうな。今から見ると写生写生といいながらなおその手法は殻を脱しない幼稚なものであるが、とにかく写生ということに着眼して、それを奨励皷舞したことはこの時代に始まっているのである。それから無事に宿まで帰って来て極堂君らも皆自分の家に帰ったのであるが、極堂君は晩餐ばんさんをすましてから昼間の尽きなかった興をたどりつつ、また居士の寓居に出掛けて行ったところが、居士は病床に寝たままで枕元の痰吐きに沢山咯血をしていた。枕頭についているものは上野の未亡人ばかりであった。居士が低い声で手招ぎするので極堂君が傍に行って見ると、それは氷嚢ひょうのうと氷を買って来てくれというのであった。そこで極堂君は取るものも取り敢えず氷嚢と氷を買って来たのであったが、その留守中に大原の叔母君と医者とが来て居った。その咯血は長くはつづかなくって、それから間もなく東京に帰るようになったのであった、ということであった。

 漱石氏がよくまた話して居ったことにこういう話がある。

「子規という奴は乱暴な奴だ。僕ところに居る間毎日何を食うかというとうなぎを食おうという。それで殆んど毎日のように鰻を食ったのであるが、帰る時になって、万事頼むよ、とか何とか言った切りでってしまった。その鰻代も僕に払わせて知らん顔をしていた。」こういう話であった。極堂君の話に、漱石氏は月給を貰って来た日など、小遣をやろうかと言って居士の布団の下に若干の紙幣を敷き込んだことなどもあったそうだ。もっとも東京の新聞社でわずかに三、四十円の給料を貰っていた居士に比べたら、田舎の中学校に居て百円近い給料を貰っていた漱石氏はよほど懐ろ都合の潤沢なものであったろう。

 私は明治三十年の春に帰省した。その時漱石氏をその二番町の寓居に訪問した。その時私の眼には漱石氏よりも寧ろ髪を切っている上野未亡人の方が強く印象された。今から考えてみてその頃は四十前後であったろうかと思われるが、白粉おしろいをつけていたのか、それとも地色が白かったのか、とにかく私の目には白い顔が映った。漱石氏のところで午飯の御馳走になった時に、この色の白い髪を切った未亡人は給仕してくれた。最近私が松山に帰っている時に次のような手紙が案頭に落ちた。


 博多には珍しい雪がお正月からふり続いております。きのうからそのために電話も電燈もだめ、電車は一時とまるという騒ぎです。松山は如何ですか。けさちょっと新聞で下関までおいでの事を承知いたしましたので急に手紙がさし上げたくなりました。それに二月号の『ホトトギス』を昨日拝見したものですから。その上一月号の時も申上げたかった事をうっちゃっていますから。

 一月号の「けい」では私上野の祖父おじを思い出して一生懸命に拝見いたしました。祖父は以前は何もかも祖母任せの鷹揚おうような人だったと思いますが、祖母を先だて総領息子を亡くして、その上あの伯母に家出をされ、従姉に(あなたが私と一しょに考えていらっしった)学資を送るようになってからは、実に細かく暮していたようです。そして自分はしんの出た帯などをしめても月々の学資はちゃんちゃんと送っていましたが、その従姉は祖父のしにめにもあわないで、そしてあとになって少しばかりの(祖父がそんなにまでして手をつけなかった)財産をほかの親類と争うたりしました。ようやく裁判にだけはならずにすんだようでしたが、そのお金もすぐ使い果して今伯母も従姉も行方不明です。

 おはずかしい事を申上げました。いつもお作を拝見しては親類中の御親しみ深い御様子を心から羨しく思っていたものですから、ついついぐちがこぼれました。おゆるし下さいまし。

 あの一番町から上って行くおうちに夏目先生がいらっしゃった事は私にとってはつ耳です。私は上野のはなれにいつから御移りになったのかなんにも覚えておりません。ただ文学士というえらい肩書の中学校の先生が離れにいらっしゃるという事を子供心に自慢に思っていただけです。先生はたしか一年近くあの離れに御住居なすったのですのに、どういう訳か私のあたまには夏から秋まで同居なすった正岡先生の方がはっきりうつっています。──松山のかただという親しみもしらずしらずあったのでしょうが──夏目先生の事はただかあいがっていただいたようだ位しきゃ思い出せません。照葉てりは狂言にも度々たびたびおともしましたが、それもやっぱり正岡先生の方はおめし物から帽子まで覚えていますのに(うす色のネルに白縮緬ちりめんのへこ帯、ヘルメット帽)夏目先生の方ははっきりしないんです。ただ一度伯母があわせと羽織を見たててさし上げたのは覚えています。それと一度夜二階へお邪魔をしていて、眠くなって母家へ帰ろうとしますと、廊下におばけが出るよとおどかされた事とです。それからも一つはお嫁さん探しを覚えています。先生はたぶん戯談じょうだんでおっしゃったのでしょうが祖母や伯母は一生懸命になって探していたようです。そのうち東京でおきまりになったのが今の奥様なんでしょう。私は伯母がそっと見せてくれた高島田にお振袖ふりそでのお見合のお写真をはじめて千駄木のお邸で奥様におめにかかった時思い出しました。

 実は千駄木へはじめて御伺いした時は玄関払いを覚悟していたのです。十年も前に松山で、というような口上でおめにかかれるかどうかとおずおずしていたのですが、すぐあって下すって大きくなったねといって下すった時は嬉しくてたまりませんでした。そして私の姓が変った事をおききになって、まあよかった、美術家でなくっても文学趣味のあるお医者さんだからとおっしゃったのにはびっくりいたしました。先生は私が子供の時学校で志望をきかれた時の返事を伯母が笑い話にでもしたのをちゃんと覚えていらっしったものと見えます。松山を御出立の前夜湊町の向井へおともして買っていただいた呉春ごしゅん応挙おうきょ常信つねのぶの画譜は今でも持っておりますが、あのお離れではじめて知った雑誌の名が『帝国文学』で、貸していただいて読んだ本が『保元平治物語』と『お伽草紙とぎぞうし』です。

 興にのって大変ながく書きました。おいそがしい所へすみません。あの二番町の家は今どうなったことでしょう。長塚さんもいつかこちらへお帰りに前を通ってみたとおっしゃっていました。あの離れはたしか私たちがひっこしてから、祖父の隠居所にといって建てたもののようです。ふすまのたて合せのまんなかの木ぎれをもらっておひな様のこしかけにしたのを覚えています。

 ほんとにくだらない事ばかりおゆるしを願います。松山にはどれ位御逗留かも存じません。この手紙どこでごらん下さるでしょう。

 寒さの折からおからだをお大切に願います。

よりえ


 この手紙をよこした人は本誌の読者が近づきであるところの「なかかわ」「よめぬすみ」の作者である久保よりえ夫人である。この夫人はこの上野未亡人の姪に当る人である。ある時早稲田南町の漱石氏の宅を訪問した時に席上にある一婦人は久保猪之吉博士の令閨れいけいとして紹介された。そうしてそれが当年漱石氏の下宿していた上野未亡人の姪に当る人だと説明された時に、私は未亡人の膝元にちらついていた新蝶々の娘さんを思い出してその人かと思ったのであったがそれは違っていた。文中に在る従姉とあるのがその人であった。このよりえ夫人の手紙は未亡人のその後をよく物語っている。あの家は今は上野氏の手を離れて他人の有となっているという事である。

 この三十年の帰省の時、私はしばしば漱石氏を訪問して一緒に道後の温泉に行ったり、俳句を作ったりした。その頃道後の鮒屋ふなやで初めて西洋料理を食わすようになったというので、漱石氏はその頃学校の同僚で漱石氏のもとにあって英語を教えている何とかいう一人の人と私とを伴って鮒屋へ行った。白い皿の上に載せられて出て来た西洋料理は黒い堅い肉であった。私はまずいと思って漸く一きれか二きれかを食ったが、漱石氏は忠実にそれをみこなして大概嚥下えんかしてしまった。今一人の英語の先生は関羽のような長いひげを蓄えていたが、それもその髯を動かしながら大方食ってしまった。この先生は金沢の高等学校を卒業したきりの人であるという話であったが、妙に気取ったように物を言う滑稽味のある人であった。この人はよく漱石氏の家へ出入しているようであった。この鮒屋の西洋料理を食った時に、三人はやはり道後の温泉にも這入った。着物を脱ぐ時に「赤シャツ」という言葉が漱石氏の口から漏れて両君は笑った。それはこの先生が赤いシャツを着て居ったからであったかどうであったか、はっきり記憶に残って居らん。ただ私が裸になった時に私の猿股にも赤い筋が這入っていたので漱石氏は驚いたような興味のあるような眼をして、

「君のも赤いのか。」と言ったことだけは、はっきりと覚えている。後年『坊っちゃん』の中に赤シャツという言葉の出て来た時にこの時のことを思い合わせた。

 ある日漱石氏は一人で私のうちの前まで来て、私の机を置いている二階の下に立って、

「高浜君。」と呼んだ。その頃私の家は玉川町の東端にあったので、小さい二階は表ての青田も東の山も見えるように往来に面して建っていた。私は障子をあけて下をのぞくとそこに西洋手拭てぬぐいをさげている漱石氏が立っていて、また道後の温泉に行かんかと言った。そこで一緒に出かけてゆっくり温泉にひたって二人は手拭を提げて野道を松山に帰ったのであったが、その帰り道に二人は神仙体の俳句を作ろうなどと言って彼れ一句、これ一句、春風駘蕩たいとうたる野道をとぼとぼと歩きながら句を拾うのであった。この神仙体の句はその後村上霽月君にも勧めて、出来上った三人の句を雑誌『めざましぐさ』に出したことなどがあった。


    三


 漱石氏から私に来た手紙の、今手許てもとに残っている一番古いのは明治二十九年十二月五日附で熊本から寄越したものである。まずその全文を掲げることにしよう。


来熊らいゆう以来はすこぶる枯淡の生涯を送り居り候。道後の温泉にて神仙体を草したること、宮島にて紅葉もみじに宿したることなど、皆過去の記念として今も愉快なる印象を脳裡にとどめ居り候。今日『日本人』三十一号を読みて君が書牘体しょとくたいの一文を拝見致し甚だ感心いたし候。立論も面白く行文はでて美しく見受申候。この道に従って御進みあらば君は明治の文章家なるべし。ますます御奮励のほど奉希望候。先日『世界の日本』に出でたる「音たてて春の潮の流れけり」と申す御句甚だ珍重に存じ候。子規子が物したる君の俳評一読これまた面白く存じ候。人事的時間的の句中甚だ新にして美なるもの有之これあり候様に被存ぞんぜられ候。然し大兄の御近什中ごきんじゅうちゅうには甚だ難渋にして詩調にあらざるやの疑を起し候ものも有之様存候。(心安き間柄失礼は御海恕可被下くださるべく候)所謂いわゆるべくづくしなどは小生の尤も耳障に存候処に御座候。然し「われに酔ふべく頭痛あり」、また「豊年もぼくすべく、新酒もかもすべく」などは至極結構と存じ候。凡て近来の俳句一般に上達、巧者に相成候様子に存じ候。『読売』などに時々出るのは不相変あいかわらずまずきよう覚え候。まずしといえば小生先頃自身の旧作を検査いたし、そのまずきことに一驚を喫し候。作りし当時は誰しも多少の己惚うのぼれはまぬかるべからざることながら、小生の如きは全く俳道に未熟のいたすところ実に面目なき次第に候。過日子規より俳書十数巻寄贈し来り候。大抵は読みつくし申候。過日願上候『七部集』及『故人五百題』(活字本)は御面倒ながら御序おついでの節御送り願上候。子規子近来の模様如何。此方より手紙を出しても一向返事も寄越さず、多忙か病気か無性ぶしょうか、或は三者の合併かと存候。小生僻地に罷在まかりあり、楽しみとするところは東京俳友の消息に有之、何卒なにとぞ爾後じごは時々景気御報知被下度くだされたく候。近什少々御目にかけ候。御暇の節御正ごせい願上候。小生蔵書印を近刻いたし候。これまた御覧に入れ候。頓首。

   十二月五日

漱石

     虚子様


 その奥には漾虚碧堂蔵書という隷書れいしょの印がしてある。さてこの手紙を読むにつけていろいろ思い出すことがある。神仙体云々のことは既に前文に書いた通り、漱石氏と道後の温泉に入浴してその帰り道などに春光に蒸されながら二人で神仙体の俳句を作ったのであった。それから次ぎに宮島にて紅葉に宿したることなど云々とあるのはまた別の思出がある。私は春から秋までかけて松山におったのではなかったように思う。私のところに残って居る漱石氏のただ一枚の短冊にこういう句が書いてある。それは「送別」としてあってその下に、

永き日や欠伸あくびうつして別れ行く  愚陀

と書いてある。愚陀ぐだというのはその頃漱石氏は別号を愚陀仏といっていたのであった。この俳句から推して考えると、私は春に一度東京へ帰ってそれからまた何かの用事で再び松山に帰ったものと思われる。この短冊から更に聯想するのであるが、その頃漱石氏はしきりに短冊に句を書くことを試みていた。こう考えているうちに、だんだん記憶がはっきりして来るように覚えるのであるが、確か漱石氏は高浜という松山から二里ばかりある海岸の船着場まで私を送って来てくれて、そこで船の来るのを待つ間、

「君も書いて見給え。」などと私にも短冊を突きつけ、自分でもいろいろ短冊を書いたりなどしたように思う。それがこの春の分袂ふんべいの時であったかと思う。それから秋になってまた帰省した時に、私と漱石氏とは一緒に松山を出発したのであった。私は広島から東に向い、漱石氏はそこから西に向って熊本に行くのであったが、広島まで一緒に行こうというので同時に松山を出で高浜から乗船したのであった。──確かその頃もう高浜の港は出来て居ったように思うのであるが、あるいは三津ヶ浜から乗ったのであったかもしれぬ。三津ヶ浜というのは松山藩時代の唯一の乗船場で、私たちが初めてきゅうを負うて京都に遊学した頃はまだこの三津ヶ浜から乗船したものであった。そこは港が浅くってその上西風が吹く時分は波が高いのでその後高浜という漁村に新しく港を築いて、桟橋に直ぐ船を横づけにすることが出来るようにしたのである。確か明治二十九年頃には、もうその港が出来ておったように思う。高浜といったところでその地名と私の姓とは何の関係もある訳ではない。──さてその広島に渡る時に漱石氏はまだ宮島を見たことがないから、そこに立寄って見たいと思う、私にも一緒に行って見ぬか、とのことであったので私も同行して宮島に一泊することになったのであった。その時船中で二人がベッドに寐る時の光景ありさまをはっきりと記憶している。宮島までは四、五時間の航路であると思うが、二人はその間を一等の切符を買って乗ったものである。それは昼間であったか夜であったか忘れたが多分夜であったのであろう。一等客は漱石氏と私との二人きりであった。漱石氏は棚になっている上の寐台ねだいね、私は下の方の寐台にた。私はその寐台に這入る前にどちらの寐台に寐る方がえらいのかしらんと考えているうちに、漱石氏は、

「僕は失敬だがこちらに寐ますよ。」と言って棚の方の寐台に上った。そうすると上の方にあるのだからその棚の方の寐台がえらいのかなと思いながら私は下の方の寐台に這い込んだ。上であろうが下であろうがこんな寐台のようなものの中で寐たのは初めてであったので、私はその雪白のきれが私の身体を包むのを見るにつけおおいに愉快だと思った。そこで下から声をかけて、

「愉快ですねえ。」と言った。漱石氏も上から、

「フフフフ愉快ですねえ。」と答えた。私はまた下から、

「洋行でもしているようですねえ。」と言った。漱石氏はまた上から、

「そうですねえ。」と答えた。二人はよほど得意であったのである。その短い間のことが頭に牢記されているだけで、その他のことは一向記憶に残って居らん。宮島には私はその前にも一、二度行ったことがあるために、かえってその漱石氏と一緒に行った時のことは一向特別に記憶に残って居らん。それからいよいよ宮島か広島かで氏とたもとを分ったはずであるがその時のことも記憶にない。

 その時漱石氏は松山の中学校を去って新しく熊本の第五高等中学校の教師となって赴任したのであった。私はそれから東京の下宿に帰り、漱石氏は熊本の高等学校に教鞭をとって、互にしばらく無沙汰をして居ったものであろう。此の手紙のうちで漱石氏がめてくれた書牘体の一文云々というのは、その頃雑誌『日本人』に連載して居った俳話の一章でその後民友社から出版した我ら仲間の最初の俳句集『新俳句』の序文にしたものがそれである。それから『世界の日本』云々とあるのはその頃竹越三叉たけこしさんさ氏が『世界の日本』という雑誌を出して居って、その文芸欄に我ら仲間の俳句が出たり、子規居士が我ら仲間の三、四人を批評する文章を載せたりしていた。それを言ったものである。その我ら仲間の批評というのは今俳書堂から出版している『俳句界四年間』のうちに収録してあるはずである。私の句が難渋云々とあるのはその頃私はいわゆる極端な新傾向であって、調子も五七五では満足せず、盛にべくという字などを使用したものであった。当時碧梧桐君の文章のうちにも、

「乱調は虚子これをはじめ云々」などと言って居る。今から考えると可笑おかしいようである。漱石氏はその乱調を批難しているのである。それからこの手紙の末段を読むに到って、漱石氏がその頃案外俳句に熱心であったことに一驚を喫するのである。実はその頃の私たちは俳句に於ては漱石氏などは眼中になかったといっては失礼な申分ではあるが、それほど重きに置いていなかったので、先輩としては十分に尊敬は払いながらも、漱石氏から送った俳句には朱筆を執って○やをつけて返したものであった。そこで漱石氏の乱調に対する批難もそれほど重きを置かず、漱石氏が東京俳友の消息に憧れているということに就いてもそれほど意をとめなかったのであった。果して氏の要求通り私は東京俳友の消息を氏に知らすことをしたかどうか。いわゆる東京の俳友の消息なるものが私にとってそれほど興味あることでなかったがために、それらの通信も怠り勝ちではなかったろうかとも思う。後年は文壇の権威をもって自任した漱石氏も、その頃は僅かに東京俳友の消息を聞いて、それを唯一の慰藉とする程度にあったのだと思うと面白い。なおこの時の漱石氏の寓居は熊本合羽町二百三十七番地であった。

 次ぎに私の手にある漱石氏の手紙は明治三十一年一月六日の日附のものである。それはこういう文句のものである。この間にも若干の手紙を受取ったのであろうけれども今は手許に見当らぬ。


 其後不本意ながら俳界に遠ざかり候結果として貴君へも存外の御無沙汰申訳なく候。

 承れば近頃御妻帯の由、何よりの吉報に接し候心地千秋万歳の寿をなさんがため一句呈上いたし候。

初鴉はつからす東の方を新枕にひまくら

 小生旧冬より肥後小天(?)と申す温泉に入浴、同所にて越年おつねんいたし候。

かんてらや師走の宿に寐つかれず

酒を呼んで酔はず明けゝり今朝の春

甘からぬ屠蘇とそや旅なる酔心地ゑひごゝち

うき除夜を壁に向へば影法師

 御大喪中とある故

此春を御慶も言はで雪多し

 一年の計は元日にありと申せば随分正月より御出精、明治三十一年の文壇に虚子あることを天下に御吹聴被下度くだされたく希望の到りに不堪候以上。

   正月五日夜

漱石

     虚子君

  乍末筆御令閨へよろしく御鳳声願上候。


 不本意ながら俳句界に遠ざかったとあるのはどういう原因であったのであろう。私は氏の熊本時代の生活をつまびらかにしないから分らない。この手紙の中にある俳句はどれも皆面白くない、当年の氏の俳句は決してこんなにつまらぬものではなかったと記憶する。二十九年から三十年頃私の手許に受取った句は私から子規居士に転送したり、そうでなければ当時私の受持って居った『国民新聞』の俳句欄に載せたりなどしてその結果『春夏秋冬』のうちに収めたものが多いように記憶している。今生憎あいにく手許に『春夏秋冬』がないが、

累々るゐ〳〵として徳孤ならずの蜜柑みかん

という句の如きはその一例であったように記憶する。右の手紙は熊本県飽託郡大仁村四百一番地とある。

 次に受取った手紙は同じく三十一年の三月二十一日の日附のものである。


 その後は存外の御無沙汰、平に御海恕可被下くださるべく候。御恵贈の『新俳句』一巻今日学校にて落手、御厚意の段難有奉拝謝候。小生爾来俳境日々退歩、昨今は現に一句も無之これなく候。この分にてはやがて鳴雪めいせつ老人の跡釜を引き受くることならんと少々寒心の体に有之候。

 子規子病気は如何に御座候や、その後これも久しく消息を絶し居り候こととて、とんと様子もわからず候えども、近頃は歌壇にての大気焔に候えばまずまず悪しき方にてはなかるまじと安心いたし居り候。先は右御礼のみ、草々如斯に御座候。頓首。

   三月二十一日

愚陀仏

     虚子様榻下

梅散つてそゞろなつかしむ新俳句


 前にも言った通り『新俳句』は我ら仲間の一番最初の句集で、民友社から出版されたものであった。鳴雪老人の跡釜云々とあるのは、この頃鳴雪翁は暫く俳句界に遠ざかるといって、句作はもとより、俳句界との交際も絶っていられた。それを言ったものである。

 前の手紙やこの手紙から推して、この頃の漱石氏はどこまでも俳句界の仲間であると自ら考えて、句作に怠りながらもなお全然それから遠ざかってしまう考のなかったことは明白である。この手紙も前の大仁村四百一番地から出て居る。


    四


 熊本に居る頃の漱石氏は何度上京したか私はそれを知悉ちしつしない。ただ今も記憶に残っている一つの光景がある。それは漱石氏が何日の何時の汽車で新橋から帰任するということを知らせて来たので私は新橋へ見送りに行った。そうして待合室に立っている洋服姿の漱石氏を見出したので汽車の出るまで雑談をしていた。いよいよ汽車が出る場合になって私は改札口まで漱石氏を見送って行った。私の外に漱石氏を見送る人は一人もない様子であったのだが、その改札口を出る時に氏は自分の切符の外に二枚の切符を持っていてそれを氏の傍に近づいて来た二人の婦人に手渡しした。そうして私と別離を叙して後に氏はその二人の婦人を随えて改札口を奥へ這入って行った。一人の婦人は二十はたち格好の年の若い人であった。他の一人の婦人は五十格好のやや老いた人であった。私は漱石氏の後ろ姿を見送ると同時にこの二人の婦人の後ろ姿をも見送って暫く突っ立っていた。そうしてこの二婦人が漱石氏とどういう関係の人であろうかということを考えるともなく考えた。その時の漱石氏と若い婦人の面に表われた色から推して、

「奥さんを貰ったのかな。」と考えた。奥さんを貰うというような話は今まで一ごんも聞かなかったのである。しかしながらどうもこれはそう判断するより外に考えのつけようがなかった。後になってこの想像は正しい想像であって、その若い婦人が今日の夏目未亡人、老婦人のかたが未亡人の母堂であることを明かにした。

 右の光景ありさまを記憶して居るところから言っても、漱石氏が新妻迎えのため熊本から一度上京したことだけは疑いのない事柄であるが、その他にも上京したことがあったかどうか、それは私には分らない。

 さて私は明治三十一年の十月に『ホトトギス』を東京で発行するようになり、今までの暢気のんきな書生生活を改めて真面目に仕事をせなければならぬことになって、その事務所を一時神田の錦町に置き、間もなくそれを猿楽町に転じた。この猿楽町には子規居士も来るし飄亭ひょうてい、碧梧桐、露月ろげつ四方太しほうだなどの諸君もさかんに出入するし、その『ホトトギス』が漸く俳句界の一勢力になって来たので、私の仕事も相当に多忙になって来た。初め『ホトトギス』を出すようになってからぜひ漱石氏にも何か寄稿をしてもらいたいという考が私にもあれば子規居士にもあった。それでこの事は私からでなく子規居士から漱石氏に依頼してやったように記憶して居る。漱石氏はそれに対して明治三十二年四月発行の『ホトトギス』第二巻第七号に「英国の文人と新聞雑誌」という表題で一もんを送ってくれた。その一篇の主意は、英国で新聞の出来た初めの頃は大方政治的なものであったが、それがだんだん発達して来るに従って、あらゆる種類の文学が新聞雑誌の厄介になる時代になった。それにつれて文学者と新聞雑誌との関係がだんだん密接になって来て、今日では文学者で新聞か雑誌に関係を持たないものはないようになった。とそういう意味のことを実例を引いて述べたものであった。それから同じ年の八月十日発行の二巻十一号に「小説エイルヰンの批評」という十二、三頁に渉った文章を送ってくれた。それは丁度その頃英国で評判の高い小説にエイルヰンというのがあって、それは出版になってからまだ一年も経たなかったのであるが非常な勢いで流行していた。漱石氏の注文したのは二、三版の頃であったのにそれが日本に到着した頃は十三版のものになっていた。その小説の梗概と批評とを述べたものがこの「小説エイルヰンの批評」の一篇であった。イギリス文学の主な新刊書は必ずこれを購求して読破することを怠らなかったことは漱石氏の生涯を通じて一貫した心掛であったことが此の一事を見ても分る。また漱石氏が新聞雑誌に寄稿したということは恐らく『ホトトギス』に寄せたこれらの篇をもって最初のものとすべきであろう。

 明治三十二年の十二月十一日の日附の手紙が私の手許にある。それは次のような文章である。


 その後は大分御無沙汰御海恕可被下くださるべく候。時下窮陰之候筆硯ひっけんいよいよ御清穆せいぼく奉賀候。さて先般来当熊本人常松迂巷うこうなる人当市『九州日々新聞』と申すに紫溟吟社の俳句を連日掲載するよう尽力致しなお東京諸先俳の俳句も時々掲載致度趣にて大兄へ向け一書呈上候処その後何らの御返事もなきよしにて小生より今一応願いくれるよう申来候。右迂巷と申す人は先般来突然知己に相成候人なるが、非常に新派の俳句に熱心忠実なる人に有之、実は今回の挙なども新派勢力扶植のための計画に候。左すれば『ほととぎす』発行者などは大に声援引き立ててやる義理も有之べきかと存候。かつ九州地方は新派の勢力案外によわくほとんど俳句の何ものたるを解せざる有様に候えば、俳句趣味の普及をはかる点より論ずるも幾分か大兄などは皷吹奨励の責任ありと存候。右の理由故何とか返事でも迂巷宛にて御差出可被下候。また『日々新聞』は同人より大兄宛にて毎日御送致居候よし定めて御閲覧の事と存候。

 乍序ついでながら『ほととぎす』につき一寸愚見申述候間御参考被下度候。

『ほととぎす』が同人間の雑誌ならばいかに期日が後れても差支なけれど、既に俳句雑誌などと天下を相手に呼号する以上は主幹たる人は一日も発行期日を誤らざる事肝要かと存候。それも一日や二日ならとにかく、十日二十日後れるに至っては、殆んど公らが気に向いた時は発行しいやな時はよす慰み半分の雑誌としか受取れぬ次第に候。もっともこれには色々な事情も可有之、また御陳述の如く期日の後れたるため毎号改良の点も可有之とは存じ候えども、門外漢より無遠慮に評し候えば頗る無責任なる雑誌としか思われず候。現今俳熱頗る高き故唯一の雑誌たる『ほととぎす』はかく無責任なるにも不関かかわらず売口よき次第なるべけれど若し有力な競争者出でばこれを圧倒する事もとより難きにあらざるべし。仮令たとい有力なる競争者が出来得ざるにせよ、敵なき故に怠るように見えるは尚更見苦しく存候。

 次に述べたきは『ほととぎす』中にはまま楽屋落の様な事を書かれる事あり。これも同人間の私の雑誌ならとにかくいやしくも天下を相手にする以上は二、三東京の俳友以外には分らず随って興味なき事は削られては如何。加之しかも品格がさがる様な感じ致候。高見如何いかが。虚子、露月が俳人に重ぜらるるは俳道に深きがため、その秋風たると春風たるとに関係なき也。天下の人が虚子、露月を知らんとするは句の上にあり。「頬をかむ」の「顔をなめる」のと愚にもつかぬ事を聞いて何にかせんや。方今は『ほととぎす』派全盛の時代也。然し吾人の生涯中もっとも謹慎すべきは全盛の時代に存す。如何。子規は病んで床上にあり、これに向って理窟を述ぶべからず。大兄と小生とはかかる乱暴な言を申す親みはなきはずに候。苦言を呈せんとして逡巡するもの三たび、遂に決意して卑辞を左右に呈し候。これも雑誌のためよかれかしと願う微意に外ならざれば不悪御推読願上候。以上。

   十二月十一日

漱石

     虚子様

横顔の歌舞伎に似たる火鉢哉

炭団いけて雪隠詰の工夫哉

御家人の安火を抱くや後風土記

追分で引き剥がれたる寒かな

  正


 当時の寓居は熊本市内坪井町七八とある。

 この手紙の初めの方にある紫溟吟社というのは、その頃地方に起った俳句団体の古いものの一つであって、この事に就いては数号前の『ホトトギス』に雪鳥、迂巷の両君が書いたことがある通り、漱石氏を中心にして起った俳句の団体であって、後には『銀杏いちょう』という雑誌まで出して中々盛んなものであった。文に常松迂巷とあるのは池松迂巷うこうの間違いである。私はその当時雑誌発行というような事務に馴れなかった上に健康が十分でなかったので手紙などは怠り勝ちであった。もっともそれは今日になってもなおつきまとっている私の病所であるが、漱石氏などはその頃から決して人の手紙に返事を怠るような人ではなかった。殊に人に物を頼まれたりした場合は必ずその面倒を見ることを怠らなかった。漱石氏が熊本を去って後に紫溟吟社の人々も四散してしまってまた昔時の面影を見ることが出来ないようになったが、それも漱石氏のような、積極的に会の世話をしないまでも、何かと会員の面倒を見てやる中心人物がなくなったということが主な原因であったろう。次に『ホトトギス』の記事に就ての警告は、消息欄に書いた記事についての非難であった。どんな記事であったか今それを調べて見るのも馬鹿馬鹿しいような事柄であるが、消息は主として同人仲間の消息を漏らすのであったので自然楽屋落ちになることは止むを得なかったことである。子規居士は格別それを嫌いもせず、寧ろそれをよろこぶような傾きがないでもなかった。

「あまり甚だしい楽屋落は困るけれども、少し位はかえって読者にとって興味があるかもしれない。」などと言って居た。子規居士はじめわれらの仲間のものに較べて遥かに後輩である読者などは、先輩としての子規居士やその他同人らの消息を知ることは多少の興味であったに相違ないが、子規居士の同輩である漱石氏などから見たらば、定めししゃくに障る記事が多かったろうと思う。殊にその頃のわれらは未だ二十はたち台の若さであったので、大した分別もなく下らぬことを言い合ってよろこんでいたものであった。そんなことが記事になって出るのを見ると漱石氏などは定めて歯の浮くような感じがしたことであったろう。

 それから漱石氏が文部省から二年間英国留学を命ぜられて洋行するようになったのは明治三十三年の九月のことであった。それに就いて漱石氏は何時上京したのか、それらのことも今ははっきりと記憶に残って居らぬ。ただある日漱石氏は猿楽町の私の家を訪問してくれて、「どこかへ一緒に散歩に出かけよう。」と言った。それから二人はどこかを暫く散歩した。そうして或る路傍の一軒の西洋料理屋に上って西洋料理を食った。これは漱石氏が留別りゅうべつの意味でしてくれた御馳走であった。その帰り道私は氏の誘うがままに連立ってその仮寓に行った。そうして謡を謡った。席上にはその頃まだ大学の生徒であった今の博士寺田寅彦君もいた。謡ったのは確か「蝉丸せみまる」であった。漱石氏は熊本で加賀宝生を謡う人に何番か稽古したということであった。廻し節の沢山あるクリのところへ来て私と漱石氏とは調子が合わなくなったので私は終に噴き出してしまった。けれども漱石氏は笑わずに謡いつづけた。寺田君は熊本の高等学校にいる頃から漱石氏のもとに出入していて『ホトトギス』にも俳句をよせたり裏絵をよせたりしていた。それが悉く異彩を放っていたので、子規居士などもその天才を推賞していた。そこで寺田寅彦君という名前は私にとって親しい名前ではあったのだが、親しく出合ったのは確かこの時がはじめてであった。近時は一体に文学者が雅号を用いぬことが流行するが、寺田君はその頃から寅彦で押し通していた。坂本君は本名の四方太よもた四方太しほうだと読ませていたが、寅彦君は本名そのまま寅彦で押し通したのであった。その日寅彦君は初めから終いまで黙って私たちの謡を聞いていたが、済んでから、先生の謡はどうかしたところが大変まずいなどと漱石氏の謡に冷評を加えたりした。そうすると漱石氏は、拙くない、それは寅彦に耳がないのだ、などと負けず我慢を言ったりなどした。

「僕も洋行することになるのだったから、謡なんか稽古せずに仏蘭西フランス語でも習っておいたらよかった。」と漱石氏は言った。私は謡と仏蘭西語とを同格に取り扱うような氏の口吻こうふんをその時不思議に思ってこの一語を今も牢記している。その時氏はまた美しいペーパーの張ってある小さい鑵の中から白い粉を取り出して、それをてのひらにこすりつけて両手を擦り合わした。そうするとその白い粉がやや黒味を帯びた固まった粉になって下に敷いてある紙の上にこぼれ落ちた。

「それは何ですか。」と私は不思議そうにながめ入った。

「これは手のあぶらをとるのですよ。僕は膏手だから。」と漱石氏は応えた。

「西洋に行くとそんなものが必要なのですか。」

「貴婦人と握手などする時には膏手では困りますからね。」

 そんな会話をしたことを私は覚えている。またこの日私は西洋料理を食った時に、氏が指で鶏の骨をつまんで、それにしゃぶりつくのを見て、

「鶏はそんな風にして食っていいのですか。」と聞いたら、氏は、

「鶏は手で食っていいことになっていますよ。君のようにそうナイフやフォークでかちゃかちゃやったところで鶏の肉は容易に骨から離れやしない。」と言った。そこでこの日私は始めて、鶏を食うには指でつまんでいいことと、手の膏をとるのには白い粉をこすりつけることとを明かにして、この新洋行者の知識に敬意を表した。

 それから氏は間もなく洋行をした。


    五


 漱石氏は香港から手紙を寄越した。それは明治三十三年九月のホトトギスに載って居る。


 航海は無事にまで参り候えども下痢と船酔にて大閉口に候。昨今は大いに元気恢復。唐人と洋食と西洋の風呂と西洋の便所にて窮屈千万、一向面白からず、早く茶漬と蕎麦そばが食いたく候。(中略)熱くて閉口。二百十日には上海辺にて出逢い申候。

阿呆鳥熱き国にぞ参りたる

稲妻の砕けて青し海の上


 明治三十四年四月発行の『ホトトギス』誌上に、また氏の手紙が載って居る。


 女皇の葬式は「ハイド」公園にて見物致候。立派なものに候。

白金に黄金にひつぎ寒からず

 屋根の上などに見物人が沢山居候。妙ですな。

こがらしの下にゐろとも吹かぬなり

 棺の来る時は流石さすが静粛せいしゅくなり。

凩や吹き静まつて喪の車

 熊の皮の帽を戴くは何という兵隊にや。

熊の皮の頭布づきんゆゝしき警護かな

 もう英国もいやになり候。

吾妹子わぎもこを夢みる春の夜となりぬ

 当地の芝居は中々立派に候。

満堂の閻浮檀金えんぶだごんや宵の春

 或詩人の作を読で非常に嬉しかりし時。

見付たるすみれの花や夕明り


 それから明治三十四年五月、六月と引き続いて『ホトトギス』紙上には「倫敦消息ろんどんしょうそく」と題した長文の手紙が載って居る。これは三度に渉って氏から寄越した手紙であって、病床の子規居士を慰問の意味で、倫敦に於ける氏の生活状態を詳細に記述して来たものであった。洋行がして見たいという希望は当時の若い人の頭には一般にあった。この頃のように洋行ということが容易でなかったことと、今一つは日本の文化に現在ほど自信がなかったので、どうかして一度は洋行して西洋の文明に接して来たいという希望は現在の人よりも強かった。殊にそういう熱は常に西洋の書物に親しんでいた漱石氏よりも、かえって病床に在って俳句や和歌に親しんでいた子規居士の方に多かった。漱石氏と前後して浅井黙語もくご、中村不折ふせつ、相島虚吼きょこう、森円月えんげつ、直木燕洋えんようその他の諸君が洋行して送ってくれる一枚の絵葉書をも、居士は深い興味の眼を以て眺め入るのであった。そういう有様であったから漱石氏の倫敦に於ける下宿屋生活の模様を詳細に写生して来たこの「倫敦消息」は居士を悦ばしたことは一通りでなかった。もっともこれは病床の自分を慰めるために何か書いてくれぬかと居士の方から依頼してやったのであった。

 この「倫敦消息」は後年の『吾輩わがはいねこである』をどことなく彷彿ほうふつせしめるところのものがある。試みにその一節を載せて見る。


 朋友その朋友と共に我輩が生活を共にする所の朋友姉妹の事に就ては前回に少しく述ぶるところあったが、この外に我輩がもっとも敬服しもっとも辟易へきえきする所の朋友がまだ一人ある。姓はペン渾名あだなは bedge pardon なる聖人の事を少しく報道しないでは何だか気が済まないから、同君の事をちょっと御話して、次回からは方面の変った目撃談観察談を御紹介仕ろう。そもそもこのペン即ち内の下女なるペンに何故なにゆえ我輩がこの渾名を呈したかというと彼は舌が短かすぎるのか長すぎるのか呂律ろれつが少々廻り兼ねる善人なる故に I beg your pardon という代りに、いつでも bedge pardon というからである。ベッヂ、パードンは名の如く如可にもベッヂ、パードンである。然し非常な能弁家で、彼の舌の先から唾液つばを容赦なく我輩の顔面かおに吹きかけて話し立てる時などは滔々滾々とうとうこんこんとして惜い時間を遠慮なく人に潰させてごうも気の毒だと思わぬ位の善人かつ雄弁家である。この善人にして雄弁家なるベッヂパードンは倫敦に生れながら丸で倫敦の事を御存じない。田舎は無論御存じない。また御存じなさりたくもない様子だ。朝から晩まで晩から朝まで働き続けに働いてそれから四階のアッチックへ登って寝る。翌日日が出ると四階から天降ってまた働き始める。息をセッセはずまして──彼は喘息持ぜんそくもちである──はたから見るも気の毒な位だ。さりながら彼は毫も自分に対して気の毒な感じを持って居らぬ。Aの字かBの字か見当のつかぬ彼は少しも不自由らしい様子がない。我輩は朝夕この女聖人に接し敬慕の念に堪えん位の次第であるが、このペンに捕って話しかけられた時は幸か不幸かこれは他人に判断してもらうより仕方がない。日本に居る人は英語なら誰の使う英語でも大概似たもんだと思って居るかも知れないが、やはり日本と同じ事で国々の方言があり身分の高下がありなどしてそれはそれは千差万別である。然し教育ある上等社会の言語は大抵通ずるから差支ないが、この倫敦のコックネーと称する言語に至りては我輩には到底わからない。これは当地の中流以下の用うる語ばで字引にないような発音をするのみならず、前の言ばと後の言ばの句切りが分らない事ほどさように早く饒舌しゃべるのである。我輩はコックネーでは毎度閉口するが、ベッヂパードンのコックネーに至っては閉口を通り過してもう一遍閉口するまで少々草臥くたびれるから開口一番ちょっと休まなければやり切れない位のものだ。我輩がここに下宿したてにはしばしばペンの襲撃を蒙って恐縮したのである。不得已やむをえずこの旨を神さんに届け出ると可愛想にペンは大変御小言を頂戴した。御客様にそんな無仕付なほうがあるものか以後はたしなむが善かろうと極めつけられた。それから従順なるペンは決して我輩に口をきかない。但し口をきかないのは妻君の内に居る時に限るので山の神が外へ出た時には依然としてもとのペンである。故のペンが無言のぎょうをさせられた口惜しまぎれに折を見て元利共取返そうという勢でくるからたまらない。一週間無理に断食をした先生が八日目に御櫃おひつを抱えて奮戦するの慨がある。

 例の如くデンマークヒルを散歩して帰ると我輩のために戸を開いたるペンは直ちに饒舌り出した。果せるかな家内のものは皆新宅へ荷物を方付に行って伽藍堂がらんどううちに残るは我輩とペンばかりである。彼は立板に水を流すが如く十五分間ばかりノベツに何かいっているが毫もわからない。能弁なる彼は我輩に一言の質問をも挟さましめざるほどの速度を以て弁じかけつつある。我輩は仕方がないから話しは分らぬものとあきらめてペンの顔の造作の吟味にとりかかった。温厚なる二重瞼と先が少々逆戻りをして根に近づいている鼻と、あくまで紅いに健全なる顔色と、そして自由自在に運動をほしいままにしている舌と、舌の両脇に流れてくる白き唾とを暫くは無心に見詰めていたが、やがて気の毒なような可愛想のようなまた可笑しいような五目鮨司ごもくずしのような感じが起って来た。我輩はこの感じを現わすために唇を曲げて少しく微笑を洩らした。無邪気なるペンはその辺に気のつくはずはない。自分のはなしに身が入って笑うのだと合点したと見えて赤い頬に笑靨えくぼを拵えてケタケタ笑った。この頓珍漢なる出来事のために我輩はいよいよ変テコな心持になる、ペンはますます乗気になる、始末がつかない。彼のいう所をあそこで一言ここで一句、分った所だけ綜合して見るとこういうのらしい。昨日差配人が談判に来た。内の女連はバツが悪いから留守を使って追い返した。この玄関払の使命をまとうしたのがペンである。自分は嘘をつくのは嫌だ。神さまに済まない。然し主命しゅうめいもだし難しで不得已やむをえず嘘をついた。まず大抵ここら当りだろうと遠くの火事を見るように見当をつけて漸く自分の部屋へ引き下った。


 漱石氏の一年半の英国留学中の消息は、これらの書信以外には私はあまり知らない。しかし他の留学生の多くが酒を飲んだり、球を突いたり、女にふざけたりして時日を空過する中に漱石氏は最も真面目に勉強したことだけは間違いない。漱石氏の帰朝した時にはもう子規居士は亡くなっていた。

 漱石氏の留守中、細君は子供と共に牛込の中根氏──細君の里方である──の邸内の一軒のうちに居たように記憶して居る。私が氏を訪問して行ったのもその家であった。丁度私の訪問して行った時に中根氏が見えていて痩せた長い身体を後ろ手に組んで軒近く縁端に立って居ると漱石氏もその傍に立って何か話をしていた光景ありさまが印象されて残って居る。私も黙って漱石氏の傍に突っ立っていたのである。それから一人の若い男の人が快活に何か物を言いながら這入って来たのに対して、細君が、

「いよいよ夏目が帰って来たから御馳走ごちそうをしますよ……」と打ち晴れた顔をして笑いながら言った時の光景が眼に残って居る。そうして、船が長崎であったか神戸であったかに着いた時に、蕎麦そばを何杯とか食った上にまた鰻飯を食ったので腹を下したそうです、というような事を細君が私に話したことを記憶して居る。

 それから漱石氏は一高の教授に転じ、大学の講師をも兼ねるようになって明治三十七年の九月頃まではその教師としての職責を真面目に尽すという以外あまり文筆には親しまなかった。ただ『ホトトギス』に「自転車日記」というものを一篇書いた。それは面白いものではなかった。私は時々訪問していた。氏はその頃駒込千駄木町に住まっていた。それは太田の池の近所であった。

 ある時訪問して見ると漱石氏は留守であった。この時細君は玄関に出て来て私にこういう意味のことを話した。

「どういうものだかこの頃機嫌が悪くって困るのです。少し表てに出てお友達を訪問でもすれば慰むところもあろうと思うのですけれどもそういうことはちっともしません。それで寺田さんにもお頼みしたのですが、あなたもひまな時にはチトどこかに引張り出してくれませんか。」

とこういう意味の話であった。私はその意味を了承して帰った。そうしてそれから間もなく本郷座の芝居を見に引っ張り出した。氏はすこぶる出渋っていたけれどもついに私の言うことを聞いて出かけた。それは高田、藤沢などの壮士芝居で外題げだいは何であったか忘れたが、とにかく下らないものであった。氏は極めて不愉快そうな顔をしてこの芝居を見ていたが、我慢がし切れなくなって様々の冷評を試みはじめた。しまいには、「君はいつもこんなものを見て面白がっているのですか。」などといって私を攻撃しはじめた。そうして中途で帰ってしまった。

 私は細君に約束した以上一度で止めてしまうわけに行かなくって更に明治座かどこかの歌舞伎芝居に一度と、能に二、三度引っ張り出した。歌舞伎芝居の方は油屋あぶらやこんかなんかであったように記憶して居る。その時も、

「どこが面白いのです。」というような質問を氏は出した。私は、

「あのおいらんが二、三人も並んでいる華やかな光景がいいのです。たまにああいう刺戟を受けに来るのです。」と答えた。それには氏も首肯したようであった。氏は壮士芝居を見て居っても、

「何故あの役者はあんなに不自然な大きな声をして呶鳴どなるのか。」といったり、

「何故あんなにだだっ広い部屋にしたのか、何故あすこの壁があんな厭な色をして居るのか。」などといったりした。まして筋を運ぶ上の不自然な点などは非常にその気持を悪がらせた。歌舞伎の方は内容の愚劣なことは同じであっても、形の上の或る発達した美しさだけに多少の興味を見出し得たようであった。

 中で最も氏をよろこばせたのは能楽であった。

「能は退屈だけれども面白いものだ。」といって氏は能を見ることは決して拒まなかった。かくして私は比較的多く能を見に誘い出した。それで細君との約束を果すことが出来た。

 その頃私は連句を研究していて「連句論」を『ホトトギス』に載せた。明治三十七年の九月に漱石氏を訪問して見ると席上に四方太君も居った。話が連句論になった時に、鳴雪翁や碧梧桐君の連句反対論に対して氏は案外にも連句賛成論者であった。四方太君もまた賛成論者の一人であったので三人はたちまちその席上で連句を試むることになった。氏は連句の規則には不案内であったが、私の言うことを聞いて何ン遍も作りかえているうちに規則に合った句が出来た。その規則に合った句はもとよりのこと、規則に合わなくって捨てた句も、独立した一つの句としては皆ふるったものであった。試にその一、二句を抜載して見れば、

後の月ちんばの馬に打ち乗りて

かな網の中にまします矢大臣

銘を賜はる琵琶の春寒

意地悪き肥後武士ざむらひの酒臭く

 この連句を作ったことがもとになって、私と漱石氏とは俳体詩と名づくるものを作ることになった。これは連句の方は意味の転化を目的とするものであるが、十七字十四字長短二句の連続でありながら、意味の一貫したものを試みて見ようというのが主眼であって、私はそれを漱石氏に話したところが、氏は無造作に承諾した。そうして忽ち「あま」の一篇が出来上った。それは私と漱石氏との両吟であったのだが、漱石氏の句は華やかな、調子の高いもので、殊に私がまごまごして附け兼ねているに氏はグングンと一人で数句を並べたてて行った。それから続いて「ふゆ」「源兵衛げんべえ」なぞの、今度は氏一人で作った俳体詩が出来た。殊に「冬の夜」以下は十七字十四字の長短句の連続でなくて、五五の調子の連続であったり、五七の調子の連続であって、俳体詩という名はありながらも、最早もはや連句の形を離れた自由な一篇の詩であった。

 この頃われら仲間の文章熱は非常に盛んであった。殆ど毎月のように集会して文章会を開いていた。それは子規居士生前からあった会で、「文章には山がなくては駄目だ。」という子規居士の主張に基いて、われらはその文章会を山会と呼んでいた。その山会に出席するものは四方太、鼠骨、碧梧桐、私などが主なものであった。従来芝居見物などに誘い出すびに一向乗り気にならなかった漱石氏が、連句や俳体詩にはよほど油が乗っているらしかったので、私はある時文章も作ってみてはどうかということを勧めてみた。遂に来る十二月の何日に根岸の子規旧廬で山会をやることになっているのだから、それまでに何か書いてみてはどうか、その行きがけにあなたの宅へ立寄るからということを約束した。当日、出来て居るかどうかをあやぶみながら私は出掛けて見た。漱石氏は愉快そうな顔をして私を迎えて、一つ出来たからすぐここで読んで見てくれとのことであった。見ると数十枚の原稿紙に書かれた相当に長い物であったので私はまずその分量に驚かされた。それから氏の要求するままに私はそれを朗読した。氏はそれをかたわらで聞きながら自分の作物に深い興味を見出すものの如くしばしば噴き出して笑ったりなどした。私は今まで山会で見た多くの文章とは全く趣きを異にしたものであったので少し見当がつき兼ねたけれども、とにかく面白かったので大に推賞した。気のついた欠点は言ってくれろとのことであったので、私はところどころ贅文句ぜいもんくと思わるるものを指摘した。氏は大分不平らしかったけれども、未だ文章に就いて確かな自信がなく寧ろ私を以って作文の上には一日の長あるものとしておったので大概私の指摘したところは抹殺したり、書き改めたりした。中には原稿紙二枚ほどの分量を除いたところもあった。それは後といわず直ぐその場で直おしたので大分時間がとれた。私がその原稿を携えて山会に出たのは大分定刻を過ぎていた。

 この「我輩は猫である」──漱石氏は私が行った時には原稿紙の書き出しを三、四行明けたままにしておいて、まだ名はつけていなかった。名前は「猫伝」としようか、それとも書き出しの第一句である「吾輩は猫である」をそのまま用いようかと思って決しかねているとの事であった。私は「吾輩は猫である」の方に賛成した。──は文章会員一同に、

「とにかく変っている。」という点に於て讃辞を呈せしめた。そうして明治三十八年一月発行の『ホトトギス』の巻頭に載せた。この一篇が忽ち漱石氏の名を文壇に嘖々さくさくたらしめた事は世人の記憶に新たなる所である。

 漱石氏の機嫌が悪かったということは学校に対する不平が主なものであったろう。そういう場合に、連句俳体詩などがその創作熱をあおる口火となって、ついに漱石の文学を生むようになったということは不思議の因縁といわねばならぬ。「猫」を書きはじめて後の漱石氏の書斎にはにわかに明るい光りがさし込んで来たような感じがした。漱石氏はいつも愉快な顔をして私を迎えた。

 はじめ「猫」は一回で結末にしてもよく、続きを書こうと思えば書けぬこともないと話していたが、評判が善かったので続いて筆を取ることになった。また「猫」の出た『ホトトギス』は売行うりゆきがよくって、「猫」の出ない『ホトトギス』は売行きが悪かったので、此方こちらからも出来るだけ稿を続けることを希望した。

『帝国文学』や『中央公論』や『新小説』やその他各種の雑誌から氏に寄稿を依頼するようになったので氏は一躍して多忙な作家になった。『帝国文学』の「倫敦塔ろんどんとう」『ホトトギス』壱百号の「幻影まぼろしたて」などを始めとして多数の作が矢つぎ早に出来た。いずれも批評家が筆を揃えて推賞した。明治三十八年中に氏から私に寄越した手紙で残っているものは次の五通である。駒込千駄木町五十七番地に寓居の時である。


 啓上 文章会開会の議敬承仕候。小生も今月末までには「猫」のつづきをかく積りに候。会日は九月三十日が土曜につき、同日ひるからとしたら、如何かと存候。就ては会場の儀、今まで小生宅にて催うし候処、細君アカンボ製造中にて随分難儀そうに見受候に就ては、今度はちょっと御免蒙り、どこかほかへ持って行きたしと存候、会員の宅でなくとも貸席など可然しかるべきか。これは御選定にまかせ候。そうなると公然会費を徴集する必要相生じ候。そうなると出るものが少なくなると存じ候。また報知の御手数も大兄を煩わす方がよくなって参り候。以上につき御考如何。ちょっと伺上候。毎日来客無意味に打過候。考えるとおれはこんな事をして死ぬはずではないと思い出し候。元来学校三軒懸持ちの、多数の来客接待の、自由に修学の、文学的述作の、と色々やるのはちと無理の至かと被考候。小生は生涯のうちに自分で満足の出来る作品が二、三篇でも出来ればあとはどうでもよいという寡慾かよくな男に候処、それをやるには牛肉も食わなければならず玉子も飲まなければならずという始末からして、遂々心にもなき商買に本性を忘れるという顛末てんまつに立ち至り候。何とも残念の至に候。(とは滑稽ですかね)とにかくやめたきは教師やりたきは創作。創作さえ出来ればそれだけで天に対しても人に対しても義理は立つと存候。自己に対しては無論の事に候。「一夜」御覧被下候由難有候。御批評には候えどもあれをもっとわかるようにかいてはあれだけの感じは到底出ないと存候。あれは多少分らぬ処が面白い処と存候。あれを三返精読して傑作だというてくれたものが中川芳太郎なかがわよしたろう君であります。それだから昨日中川君と伝四君に御馳走をしました。もっとも伝四君は分らないというて居ます。(三八、九、一七)

   九月十七日

金生

     虚先生

  俳仏の御説教中々面白くかかれ候。

      ○

 御手紙拝見文章会を来月九日にしては如何との御問合せ、別段差支もなさそうなれどそれまでに「猫」が出来るや否やは問題に候。『帝国文学』は十五日までに草稿が入用のよし。実は『帝文』をさきへ書いて然る後「猫」に及ぶ量見の処、此方こちらが未だ腹案がまとまらず、どれをかこうか、あれにしょうか、これにしょうかと迷って居る最中、然もどれもこれもいざとならぬと纏った趣向がないのでまだ手をださずに居る。それ故に此方を三、四日中にかき出してかりに一週間と見れば大丈夫。それから「猫」とするもこれも長くなるかも知れないが一週間あれば安心。すると九日の会ではちとあぶない。その次の土曜ならよかろうと思います。もっとも小生近来は文章を読む事がきたようだから自分に構わず開いて頂戴。「猫」は出来れば此方から上げます。一体文章は朗読するより黙読するものですね。僕は人のよむのを聞いていては到底是非の判断が下しにくい。いずれ僕のうちでも妻君がバカンボーを腹から出したら一大談話会を開いて諸賢を御招待して遊ぶ積りに候。頓首。

   十一月二十四日

     虚子先生

僕は当分のうち創作を本領としておおいにかく積りだが少々いやになった。然しほかに自己を発揮する余地もないからやはり雑誌の御厄介になる事に仕った。この度の「猫」は色々かく事がある。その内で苦沙弥くしゃみ君の裏の中学校の生徒が騒いで乱暴する所をかいて御覧に入ます。(三八、一一、二四)

      ○

 拝復 十四日にしめ切ると仰せあるが十四日には六ずかしいですよ。十七日が日曜だから十七、八日にはなりましょう。そう急いでも詩の神が承知しませんからね(この一句詩人調)。とにかく出来ないですよ。今日から『帝文』をかきかけたが詩神処ではない天神様も見放したと見えて少しもかけない。いやになった。これをこの週中にどうあってもかたづける。それからあとの一週間で「猫」をかたづけるんです。いざとなればいや応なしにやっつけます。何の蚊のと申すのは未だ贅沢をいう余地があるからです。桂月けいげつが「猫」を評して稚気を免かれずなどと申して居る。あたかも自分の方が漱石先生より経験のある老成人のような口調を使います。アハハハハ。桂月ほど稚気のある安物をかく者は天下にないじゃありませんか。困った男だ。ある人いう、漱石は「幻影の盾」や「薤露行かいろこう」になるとよほど苦心をするそうだが「猫」は自由自在に出来るそうだ。それだから漱石は喜劇が性に合って居るのだと。詩を作る方が手紙をかくより手間のかかるのは無論じゃありませんか。虚子君はそう御思いになりませんか。「薤露行」などの一頁は「猫」の五頁位と同じ労力がかかるのは当然です。適不適の論じゃない。二階を建てるのは驚きましたね。明治四十八年には三階を建て五十八年に四階を建てて行くと死ぬまでにはよほど建ちます。新宅開きには呼んで下さい。僕先達せんだって赤坂へ出張して寒月かんげつ君と芸者をあげました。芸者がすきになるにはよほど修業が入る。能よりもむずかしい。今後の文章会はひまがあれば行く。もし草稿が出来んようなら御免を蒙る。以上頓首。(三八、一二、三)

   十二月三日

     虚子先生

      ○

 時間がないのでやむを得ず今日学校をやすんで『帝文』の方をかきあげました。これは六十四枚ばかり。実はもっとかかんといけないが時が出ないからあとを省略しました。それで頭のかった変物が出来ました。明年御批評を願います。「猫」は明日から奮発してかくんですがこうなると苦しくなりますよ。だれか代作が頼みたい位だ。然し十七、八日までにはあげます。君と活版屋に口をあけさしては済まない。(三八、一二、一一)

夏目金之助

     高浜清様

      ○

 啓 先刻の人の話では御嬢さんが肺炎で病院へつめきりだそうですね。少しはいですか。大事になさい。僕のうちバカンボ誕生やはり女です。妻君発熱「猫」はかけないと思うたらすぐ下熱。まずまず大丈夫です。「猫」は一返君によんでもらう積りで電話をかけたのですが失望しました。はじめの方のかき方が少し気取ってる気味がありはせんかと思う。それから終末の所はもっと長く書くはずであったが、どうしても時間がないのであんな風になったんです。この二週間『帝文』と『ホトトギス』でひまさえあればかきつづけ、もう原稿紙を見るのもいやになりました。これでは小説などで飯を食う事は思も寄らない。君何か出来ましたか。病人などの心配があると文章などは出来たものじゃない。今日はがっかりして遊びたいが生憎あいにく誰もこない。行く所もない。まずまず正月に間に合うように注文通り百枚位書いて安心しましたよ。(三八、一二、一八)

   十八日

     虚子様


    六


 漱石氏が創作に筆を執りはじめるようになってから、氏と私との交渉も雑誌発行人と人気のある小説家との関係というようなものがだんだんと重きをなして来た。今までは漱石氏は英文学者として、私の尊敬する先輩として、また俳友として、利害関係の無い交際であったのであって、何か文章を書くように勧めて「猫」の第一回が出来たのも、それを以て『ホトトギス』の紙上を飾ろうとか、雑誌の売れ行きを増そうとか、そういうような考は少しもなく、尊敬する漱石氏が蘊蓄うんちくを傾けて文章を作ってみたらよかろうという位な軽い考であったのであるが、一度び「猫」が紙上に発表されて、それが読書界の人気を得て雑誌の売行うりゆきが増してみると、発行人としての私は勢い『ホトトギス』のために氏の寄稿を要望せねばならぬような破目になって来た。漱石氏もまたはじめの間はその要望を寧ろ幸いとして強いて創作の機会を見出すようにつとめつつあったらしかった。

 そうこうしているうちに氏は一躍して文学界の大立物となってしまった。各種の雑誌は競うて君の作物を掲げ、その待遇も互に他におとらぬようにと競争するようになって来た。『ホトトギス』は従来原稿料というものを殆ど払ったことはなかったのであるが、「猫」には一頁一円の原稿料を払うことにした。そうしてこれはやがて他の作家にも及ぼしてすべての人の作物に同じような原稿料を仕払うことにした。しかしながら一頁一円の原稿料というものは、当時にあっても決して十分の待遇とはいえなかった。他の雑誌はもっと沢山の原稿料を支払って居るものであることが、後になって分った。今まで世間と殆んど没交渉であった『ホトトギス』は、原稿料の相場というようなものは皆目承知しなかった上に、四、五人の社員組織でやっていた窮屈な制度のもとにあっては、にわかに『ホトトギス』を世間体の雑誌に改革して競争場裡に打って出るというようなことは仲々難かしかった。漱石氏はそんなことには頓着なしに、『ホトトギス』は自分の生れ故郷としてこちらが要望するままに暇さえあれば筆を執ることをいつも快諾したのであったが、しかも他の雑誌社からの要求が烈しくなればなるほど自然『ホトトギス』のために筆を執る機会が少くなって来た。それと同時に氏はその門下生ともいうべき人々の作品を『ホトトギス』に紹介して、これを紙上に発表することを要求した。私は大概その要求に従った。中には止むを得ず載せたようなものもあったけれども、中にはまた沢山の傑作もあった。三重吉みえきち君をはじめとして今日文壇に名を成している漱石門下の多くの人が大概処女作を『ホトトギス』に発表するようになったのもそのためであった。

 漱石氏はまた『ホトトギス』を今少し機関の備わった堂々とした雑誌にして発行したらよかろうという考をもっていたのであった。私がその事を快諾さえすれば、氏は十分に力を尽してくれる考があったことと想像するがその頃の『ホトトギス』の事情はその要求をれることが出来なかった。これを詳しく書くのは面倒臭いが、要するに四方太君などは漱石氏の文芸に不服で、それよりも純正の写生文雑誌として世間の人気などに頓着なく押し進みたいという希望を持っていたし、発行人としての私はそんなことをして損ばかりしていてもやり切れないから、少しは世間にらを出して人気のあるものにしたいと、漱石氏の作品などを歓迎する傾きがあった。けれどもまた私としては、漱石氏のような考のもとに全然『ホトトギス』を改革してしまって、四方太君らを排斥してしまうことは出来ないし、また世間の雑誌の如く原稿料を潤沢にして漱石氏はじめ多くの新進作家諸君を優遇するとなると、ただ鳴るが面白いことになってしまって『ホトトギス』の世帯はとてもやり切れない、と考えたところから、いつも四方太君などに不平を抱かせながら、漱石氏らにもまたあきたらぬ思いをさせるような態度で、その日暮ひぐらしに雑誌を出していた。

 明治三十九年以後の漱石氏と私との関係は、今言ったような有様で、ある時は漱石氏から私に対して雑誌編輯の上の督励となったり、後進の推薦となったり、また一般文壇に対する不平や懊悩おうのうを訴えて来るような場合も少くなかったが、今手紙を取り出してみても、最も多いのは私の原稿の依頼に対して何日までに書くとか、何枚書いたとかこうせわしくってはやり切れないとかいう用談の方が多くなって来て居る。今その手紙について一々当時の聯想を書いてみたら面白いのであるが、手紙だけの分量でもかなり多い上にその手紙だけでほぼ当時の状態も想像せられることと思うから左に明治三十九年の手紙で、手元に残って居るもの一切を掲載することにする。

      ○

明治三十九年一月二十六日(封書)

 その後御無沙汰仕候。二月の『ほととぎす』に何か名作が出来ましたか。僕つらつら思うに『ホトトギス』は今のように毎号版で押したような事を十年一日の如くつづけて行っては立ち行かないと思う。俳句に文章にもっと英気を皷舞して刷新をしなければいかないですよ。と申して別に名案もないからただ主人公たる君が大奮発をするより外に仕方がない。『文庫』『新声』など一時景気のよいものが皆駄目になるのは時候おくれだからと思います。『ホトトギス』も売れるうちに色々考えて置かぬとならんでしょう。まず巻頭に毎号世人の注意をひくに足る作物を一つずつのせる事が肝心ですね。それから君は毎号俳話をかいて、四方太は毎号文話でもかいたらどうです。四方太は原稿料が出ない、といってこぼして居るがあの男はいくら原稿料を出しても今の倍以上働くかどうかあやしいものだ。とにかくもっと活気をつけたいですね。小生余計な世話を焼いて失敬だが『ホトトギス』が三、四千出るのは寧ろ異数の観がある、決して常態ではない。油断をしては困る事になると思います。そんなら僕に何かかけと来るかも知れんが僕は取りのけ別問題です。ちょっと手紙をかく序があるからこれを差し上げます。苦い顔をしてはいけません。頓首。

   一月二十六日

     虚子様

      ○

明治三十九年三月二十六日(封書)

 拝啓 新作小説存外長いものになり、事件が段々発展ただ今百〇九枚の所です。もう山を二つ三つかけば千秋楽になります。「趣味の遺伝」で時間がなくて急ぎすぎたから今度はゆるゆるやるつもりです。もしうまく自然に大尾たいびに至れば名作、然らずんば失敗、ここが肝心の急所ですからしばらく待って頂戴。出来次第電話をかけます。松山だか何だか分らない言葉が多いので閉口。どうぞ一読の上御修正を願たいものですが御ひまはないでしょうか。艸々

     虚子先生

      ○

明治三十九年四月一日(封書)

 拝啓 雑誌五十二銭とは驚いた。今まで雑誌で五十二銭のはありませんね。それで五千五百部売れたら日本の経済も大分進歩したものと見てこれから続々五十二銭を出したらよかろうと思います。その代りうれなかったらこれにこりて定価を御下げなさい。『中央公論』は六千刷ったそうだ。『ほととぎす』の五千五百は少ないというて居りました。来月もかけとは恐れ入りましたね。そうは命がつづかない。来月は君の独舞台ひとりぶたいで目ざましい奴を出し給え。雑誌がおくれるのはどう考えても気になる。三十一日の晩位に四方へ廻して一日から売りたかったですな。校正は御骨が折れましたろう多謝々々。その上傑作なら申し分はない位の多謝に候。『中央公論』などは秀英舎へつめ切りで校正しています。君はそんなに勉強はしないのでしょう。雑誌を五十二銭にうる位の決心があるなら編輯者も五十二銭がたの意気込みがないと世間に済みませんよ。いやこれは失敬。

 僕試験しらべで多忙。しかも来客頻繁。どうか春晴に乗じて一日川があって帆懸舟の通る所へ行って遊びたい。それから東京座の二十四孝というものが見たい。今月は『新声』でも『新潮』でも手廻しがいい。みんな三月中に送って来た。これを見ても『ホトトギス』は安閑として居てはいけない。然しそれは漱石の原稿がおくれたからだと在っては仕方がない。恐縮。

 藤村とうそんの『破戒はかい』という小説をかって来ました。今三分一ほどよみかけた。風変りで文句などを飾って居ない所と真面目で脂粉の気がない所が気に入りました。何やら蚊やら以上。

   四月一日

     虚先生

      ○

明治三十九年四月四日(葉書)

「畑打ち」淡々として一種の面白味あり。人は何だこんなものと通り過ぎるかも知れず。僕は笹の雪流な味を愛す。ただ学士の妻になり損なったものが百姓になって畠を打つほど零落するのは普通でない。「小説家」という文はわる達者である。「寮生活」も多少軽薄也。しかも両篇とも僕の文に似て居るから慚愧ざんきの至りだ。これにくらぶれば「素人浄瑠璃しろうとじょうるり」などの方遥かに面白し。

 藤村の『破戒』というのを読んで御覧なさい。あれは明治の小説として後世に伝うるに足る傑作なり。『金色夜叉こんじきやしゃ』などの類にあらず。

 五千五百部はうれましたか。五十二銭が高いと思ったら『明星』も五十二銭だ。随分思い切ったのが居る。その代り『明星』はうれません。

   四月四日

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治三十九年四月十一日(封書)

 拝啓 僕名作を得たり、これを『ホトトギス』へ献上せんとす、随分ながいものなり、作者は文科大学生鈴木三重吉君。ただ今休学郷里広島にあり。僕に見せるために態々わざわざかいたものなり。僕の門下生からこんな面白いものをかく人が出るかと思うと先生は顔色なし。まずは御報知まで 艸々。

   四月十一日

     虚子先生座下

      ○

明治三十九年四月二十八日(葉書)

 拝啓 毎月清国南京へ送って頂いた『ホトトギス』は今月から御やめにして下さい。大将事日本へ帰って参ります。どうか日本の東京の番地へやって頂戴。その番地はただ今ちょっと忘れた。

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治三十九年四月三十日(封書)

  啓

  一金参拾八円五拾銭也

  一金壱百四拾八円也

  計壱百八拾六円五拾銭也

 右は「吾輩は猫である(十)」及び「坊っちゃん」の原稿料として正に領掌仕候也。

   四月三十日

夏目金之助㊞

     俳書堂雑誌部御中

      ○

明治三十九年五月十九日(封書)

 虚子先生行春ゆくはるの感慨御同様惜しきものに候。然る所小生卒業論文にて毎日ギュー。閲読甚だ多忙。随って初袷の好時節も若葉の初鰹はつがつおのと申す贅沢ぜいたくも出来ず閉居の体。しかも眼がわるく胃がわるく散々な体。服薬の御蔭にて昨今は腹の鈍痛だけは直り大に気分快壮の方に候。いつか諸賢を会して惜春の宴でも張らんかと存候えども当分駄目だめ。ちょっと伺いますが碧梧桐君はもう東京へは来らんですぐ行脚にとりかかりますか。

 卒業論文をよんで居ると頭脳が論文的になって仕舞には自分も何か英語で論文でも書いて見たくなります。決して猫や狸の事は考えられません。僕は何でも人の真似がしたくなる男と見える。泥棒と三日居れば必ず泥棒になります。以上。

   五月十九日

     虚子先生

      ○

明治三十九年五月二十一日(封書)

 拝啓 別紙の如き妙なものが参り候。筆者は木村秀雄とて熊本に住む人なれど逢うた事も話をしたこともなければ学生やら紳士やら知らず。ただ今論文校閲中にて熟読のひまも無之これなくただ御高覧のために御廻し致候。『ホトトギス』へのせるともよすともその辺は勿論、御随意に候。以上。

   五月二十一日

     虚子先生

   のせぬ時は御保存を乞う

      ○

明治三十九年五月二十九日(封書)

 若葉の候も大分深く相成候。小生フランネルの単衣を着て得々欣々きんきんとしてしかも服薬を二種使用致し居候。「千鳥」の原稿料御仰せの通にて可然しかるべくかと存候。「柳絮行りゅうじょこう」はつまらぬ由。小生もゆっくりと拝見する勇気今は無之候。『漾虚集』本屋より既に献上仕り候やちょっと伺い候。まだならば早速上げる事に取計わせます。以上。

   五月二十九日

     虚子先生

      ○

明治三十九年六月某日(封書)

 拝啓 小生近来論文のみを読んだ結果頭脳が論文的に相成「猫」などは到底かけそうに無之候えども、若し出来るならば七月分に間に合せ度と存候。然しこれは当人があてにならぬ事故君の方ではなおあてにならぬ事と御承知被下度候。薄暑の候南軒の障子を開いて偶然庭前を眺めて居るのは愉快に候。少々眼がわるくて弱り候。

 碧梧桐「趣味の遺伝」を評して冗長魯鈍ろどんとか何とか申され候。魯鈍には少々応え申候。大将はいつ頃出発致候や。あれは二年間日本中を巡廻する計画の由なれどきっと中途でいやになり候。もしやりとげればそれこそ冗長魯鈍に候。近来一向に御意得ず。たまたま机上清閑毛穎子もうえいしを弄するに堪えたり。因って数言をつらねて寸楮すんちょを置き二階に呈す。艸々。

   六月吉日

     虚子先生

      ○

明治三十九年七月三日(封書)

 啓上 その後御無沙汰。小生漸く点数しらべ結了のうのう致し候。昨日『ホトトギス』を拝見したる所今度の号には「猫」のつづきを依頼したくと存候とかあり候。思わず微笑を催したる次第に候。実は論文的のあたまを回復せんためこの頃は小説をよみ始めました。スルと奇体なものにて十分に三十秒位ずつ何だか漫然と感興が湧いて参り候。ただ漫然と湧くのだからどうせまとまらない。然し十分に三十秒位だから沢山なものに候。この漫然たるものを一々引きのばして長いものに出かす時日と根気があれば日本一の大文豪に候。このうちにて物になるのは百に一つ位に候。草花の種でも千万りゅうのうち一つ位が生育するものに候。然しとにかく妙な気分になり候。小生はこれを称して人工的インスピレーションとなづけ候。小生如きものは天来のインスピレーションは棚の御牡丹と同じ事で当にならないから人工的にインスピレーションを製造するのであります。近頃は器械で卵をかえすインキュベトーというものがあります。文明の今日だから人為的インスピレーションのあるのももっともでしょう。そこでこの七月には何でも四篇ばかりかく積りです。前にいう漫然たる恵比寿えびすぎれのようなものは雲の如くあるがさてまとまったものは一つもない。どれを纏めようか、またどう纏めようかその辺は未だ自分でも考えて居ないのであります。実は来学年の講義を作らなければ大雄篇をかくか大読書をやる積りだが講義という奴は一と苦労です。これは八月に入ってからかき出す積りです。

 伝四は文学士になり候。小生も文学士に候。して見ると伝四と僕とは同輩に候。同輩である以上はこれから御馳走の節は万事割前に致そうかと存候。

 小生は生涯に文章をいくつかけるかそれが楽しみに候。また喧嘩が何年出来るかそれが楽しみに候。人間は自分の力も自分で試して見ないうちは分らぬものに候。握力などは一分でためす事が出来候えども自分の忍耐力や文学上の力や強情の度合やなんかは、やれるだけやって見ないと自分で自分に見当のつかぬものに候。古来の人間は大概自己を充分に発揮する機会がなくてんだろうと思われ候。惜しい事に候。機会は何でも避けないで、そのままに自分の力量を試験するのが一番かと存候。『坊ちゃん』を毎号御広告に相成るのは恐れ入りましたね。しかも『坊ちゃん』が下落して四十銭になるに至ってはいよいよ恐れ入りましたね。まだ大分残っていますか。

「猫」を英訳したものがあります。見てくれというて郵便で百ページばかりよこしました。難有い事であります。然し人間と生れた以上は「猫」などを飜訳するよりも自分のものを一頁でもかいた方が人間と生れた価値があるかと思います。小生は何をしても自分は自分流にするのが自分に対する義務でありかつ天と親とに対する義務だと思います。天と親がコンナ人間を生みつけた以上はコンナ人間で生きて居れという意味より外に解釈しようがない。コンナ人間以上にも以下にもどうする事も出来ないのを、強いてどうかしようと思うのは当然天の責任を自分が脊負って苦労するようなものだと思います。この論法からいうと親と喧嘩をしても充分自己の義務を尽して居るのであります。天に背いても自分の義務を尽して居るのであります。いわんや隣り近所や東京市民や日本人民や乃至ないし世界全体の人の意思に背いても自分には立派に義理が立つ訳であります。これではちと気焔が高過ぎましたね。少々ひまになったから余計な事を書きます。

 昔はコンな事を考えた時期があります。正しい人が汚名をきて罪に処せられるほど悲惨な事はあるまいと。今の考は全く別であります。どうかそんな人になって見たい。世界総体を相手にしてハリツケにでもなってハリツケの上から下を見てこの馬鹿野郎と心のうちで軽蔑して死んで見たい。もっとも僕は臆病だから、本当のハリツケは少々恐れ入る。絞罪位な所でいいなら進んで願いたい。

 四方太先生いよいよ文章論をかき出しましたね。あれを何号もつづけたらよかろう。もっとも文章論と申すほどな筋の通ったものではない、全く文話という位なものですな。鳴雪老人のは例によって読みません。『漾虚集』を御批評下さってありがたい。ことに野菜づくしはありがたい。『中央公論』にね、「大魚に呑まれたる人」という小説がありますよ、伊藤銀月という人のかいたものです。随分妙な事をかきますね、然し中々新しい形容の言葉があって刺戟の強い文章です。序に読んで御覧なさい。

 色々かきましたね。いくらでもかけばいくらでも書けるがまずよしましょう。

 どうです一日どこかで清遊を仕ろうじゃありませんか。頓首。

   七月二日

夏金生

     虚子大人

      ○

明治三十九年七月十七日(葉書)

 拝啓「猫」の大尾をかきました。京都から帰ったらすぐ来て読んで下さい。明日は所労休みだから明日だと都合がいい。

   十七日

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治三十九年七月十九日(ハガキ)

 昨日は失敬。その節御話し致候『ホトトギス』の寄贈所は小石川区久堅町七十四番地五十二号菅虎雄方に候間宜敷様御取計願上候。以上。

   七月十九日

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治三十九年八月三日(端書)

 拝啓 碧梧桐の送別会へはついに出られず失敬致候。文学士森田白楊もりたはくようなるものあり。小生の教えた男なるが今度作文の本を作るとかにて『墨汁一滴』のなかを二、三滴、君の文を一篇、僕の「猫」を一頁ほどもらいたいと申してきたり。どうか承諾してやって下さい。寒月来って今度の「猫」を攻撃し森田白楊これに和す。漱石これに降る。ただ今『新小説』の奴を執筆中あつくてかけまへん。艸々の頓首。

   八月三日

金奴

     虚子庵二階下

      ○

明治三十九年八月十日(葉書)

 先刻はありがとう存じます。その節の馬の鈴と馬子唄の句は、

春風や惟然いねんが耳に馬の鈴

馬子唄や白髪しらがも染めでくるゝ春

と致し候。やはり同程度ですか。

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治三十九年八月十一日(葉書)

 拝啓 昨日の駄句「花嫁の馬で越ゆるや山桜」を、「花の頃を越えてかしこし馬に嫁」と致し候が御賛成下さい。これは几董きとう調です。前のと伯仲の間だと仰せられては落胆します。「御前ごぜんが馬鹿ならわたしも馬鹿だ、馬鹿と馬鹿なら喧嘩だよ。」今朝こういううたを作りました。この人生観を布衍ふえんしていつか小説にかきたい。相手が馬鹿な真似をして切り込んでくると、賢人もやむを得ず馬鹿になって喧嘩をする。そこで社会が堕落する。馬鹿はなるほど社会の有毒分子だという事を人に教えるのが主意です。まず当分はこのうただけうたっています。小説にしたら『ホトトギス』へあげます。

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治三十九年八月三十一日(封書)

 先生驚きましたね。僕の第三女が赤痢の模様で今日大学病院に入院したという訳ですがね、ことによると交通遮断になるかも知れません。小供の病気を見ているのは僕自身の病気よりよほどつらい。しかも死ぬかも知れないとなるとどうも苦痛でたまらない。もしあの子が死んで一年か二年かしたら小説の材料になるかも知れぬが、傑作などは出来なくても小供が丈夫でいてくれる方が遥かによろしい。到底「草枕」の筆法では行きません。「猫」の代正に頂戴難有候。漠然会なるものが出来るよし出られればいいが。

『新小説』は出たが振仮名の妙癡奇林みょうちきりんなのには辟易しました。ふりがなはやはり本人がつけなくては駄目ですね。

 もう九月になる。講義は一頁もかいてない。『中央公論』は何をかいたものやら時間がなさそうだ。これで小供の病気がわるければ僕は何も出来ない。『中央公論』には飛んだ不義理が出来る。

 然し交通遮断はちょっと面白い。あまり人がきすぎて困るからたまには交通遮断をして見たいと思います。

 野間のま先生が「草枕」を評して明治文壇の最大傑作というて来ました。最大傑作は恐れ入ります。寧ろ最珍作と申す方が適当と思います。実際珍という事に於ては珍だろうと思います。

   八月三十一日

     虚子先生

      ○

明治三十九年九月三日(封書)

 拝啓 御手紙ありがたく候。病人は存外よろしく候。この分にては一命だけはたすかる事と存候。ただ今の処交通遮断なれどいい加減に出たり這入ったり致居り候。寅彦、「嵐」と題する短篇を送りこし候。例の如く筆を使わないうちに余情のある作物に候。十月分の『ホトトギス』に御掲載被下べくや。御郵送申上候。今日『中央公論』の末尾に小生らの作を読者に吹聴する所を観て急に『中央公論』へかくのがいやになり候。何ぼほめられるがいいと申してああいわれて一生懸命に十月号に書いてやろうという気にはなれなく候が如何。今度滝田に逢ったらあまり広告が商売的だと申してやろうと存候。以上。

   九月二日夜

     虚子庵

      ○

明治三十九年九月十一日(封書)

 拝啓 来る二十六日の能に御招き被下難有奉深謝候。西洋人も定めてよろこぶ事と存候。もっとも通弁を仕るのは少々閉口に候。あの番組のうちで一つも見たものも読んだものもありません。橋口は兄の方ですか弟の方ですか。小児こども病気は日にまし快方。小生見舞に参り候えどもまだ一度もことばを交せたる事なし。「草枕」の作者の児だけありて非人情極まったもの也。すると今度は妻のおやじが腎臓炎から脳を冒かされたとか何とか申す由。世の中も多忙なものに候。小生も御客の相手で一人を暮らして居る様也。驚いたのは今日女記者の中島氏とか申す人が参られたる事也。この女「猫」を愛読して研究する由。「草枕」でも読んでくれればいいのに。『二六』をすぐ買ってよみました。あの人は面白い考を持って居るがあまり学問のない人と思います。然しよく趣味を解する人であります。今度の『中央公論』に「二百十日」と申す珍物をかきました。よみ直して見たら一向つまらない。二度よみ直したら随分面白かった。どういうものでしょう。君がよんだら何というだろう。またどうぞよんで下さい。さようなら。

   九月十日

     虚子庵梧下

      ○

明治三十九年九月十三日(葉書)

 西洋人にはまだ逢わんから逢って椅子いすが欲しいかどうか聞いて見ましょう。日本ずきだから坐るというかも知れない。三崎座で「猫」をやる由なるほど今朝の新聞を見たら広告があった。寺田も知らせて来ました。然も忠臣蔵のあとだから面白いと書いて来ました。「猫」が芝居になろうとは思わなかった。上下二幕とはどこをする気だろう。僕に相談すれば教えてやるのに。

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治三十九年九月十四?日(葉書)

 今夜三崎座の作者田中霜柳たなかそうりゅうという人が来て「猫」をやるから承知してくれといいました。仕組もききました。二、三助言をしました。苦沙弥が喧嘩をする所がある呵々。

 見に来いというた。どうです。

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治三十九年九月十八日(葉書)

 ぼくの妻の父死んで今週は学校を休む事にした。その外用事如山やまのごとし。三崎座を見たいが行けるかしら。もし行けたら御案内を仕る積りなり。

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治三十九年九月十九日(封書)

 拝啓 先日頂戴仕った能の番組も時間も御手紙を紛失仕って忘れてしまった。どうぞ今一返知らせて下され。実は今週中休むから手紙で西洋人へきき合せてやろうと思った所が時間も何も分らず、それがためまたまた御面倒をかける甚だ相済まん。それで入口では高浜さんの坐とききますかな。もし西洋人がさしつかえたなら誰か連れて行って見ましょうか。それとも君の方にだれかいますか。または御互に知り合のうちを御指名下されば引っ張り出します。以上。

   九月十九日

     虚子庵置二階下

      ○

明治三十九年九月二十二日(封書)

 拝啓 西洋人は大に感謝の意を表し来り候。椅子はらぬ由。何だか日本服をきて出陣する模様なり。これでなくては能などは見られぬ事と存候。十月号には面白いものが出ますか。僕も何か書きたいが当分いそがしくて駄目である。三重吉が来て四方太の文をほめて居た。御互にれたものでしょう。頓首。

   九月二十二日

     虚子先生

      ○

明治三十九年十月一日(葉書)

 拝啓 先日は御能拝見仰せ付られ難有仕合に存じ奉り候。西洋人大喜にて今度ある時も知らせてもらいたいなどと申居候 以上。

 僕の後ろに居た西洋人ハ下等ナ奴ダ。アンナ者ガ能ヲ見ニ来タラ断ワルガイイ。

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治三十九年十月三日(葉書)

 拝啓 『ホトトギス』の予告は驚ろきましたね。小生来客に食傷して木曜の午後三時からを面会日と定め候。妙な連中が落ち合う事と存候。ちと景気を見に御出被下度候。

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治三十九年十月九日(封書)

「二百十日」を御読み下さって御批評被下難有存じます。論旨に同情がないとは困ります。是非同情しなければいけません。もっとも源因が明記してないから同情を強いる訳にゆかない。その代り源因を話さないでグーグー寝てしまう所なぞは面白いじゃありませんか。そこへ同情し給え。ろくさんが最後に降参する所も弁護します。碌さんはあのうちで色々に変化して居る。然し根が呑気のんきの人間だから深く変化するのじゃない。けいさんは呑気にして頑固なるもの。碌さんは陽気にしてどうでも構わないもの。面倒になると降参してしまうので、その降参に愛嬌があるのです。圭さんは鷹揚でしかも堅くとって自説を変じない所が面白い。余裕のあるせまらない慷慨こうがい家です。あんな人間をかくともっと逼った窮屈なものが出来る。また碌さんのようなものをかくともっと軽薄な才子が出来る。所が「二百十日」のはわざとその弊を脱して、しかも活動する人間のように出来てるから愉快なのである。滑稽が多過ぎるとの非難ももっともであるが、ああしないと二人にあれだけの余裕が出来ない。出来ないと普通の小説見たようになる。最後の降参も上等な意味に於ての滑稽である。あの降参が如何にも飄逸ひょういつにして拘泥しない半分以上トボケて居る所が眼目であります。小生はあれが掉尾とうびだと思って自負して居るのである。あれを不自然と思うのはあのうちに滑稽の潜んで居る所を認めないで普通の小説のように正面から見るからである。僕思うに圭さんは現代に必要な人間である。今の青年は皆圭さんを見習うがよろしい。然らずんば碌さんほど悟るがよろしい。今の青年はドッチでもない。カラ駄目だ。生意気なばかりだ。以上。

     虚子先生

 能の事難有存じます。やはり九段であるのですか。いつあるのですか。ちょっと教えて下さい。正月は何かかいて上げたいと思います。然し確然と約束も出来かねます。まあ精々かく方にして置きましょう。

      ○

明治三十九年十月十三日(封書)

 拝啓 昨日は失敬本日学校でモリスに聞いて見た所二十八日の喜多きたの能を見に行くからますを一つ(上等な所。あまり舞台が鼻の先にない所を)とってもらいたいという事であります。どうか願います。それから時間は午前八時頃から五時位までですか、喜多の番地はどこでしたか、ちょっと教えて下さい。今度の木曜にも入らっしゃいな。四方太も来るかも知れない。小生元来呑気屋にて大勢寄って勝手な熱を吹いてるのを聞くのが大好物です。

 森田が「千鳥」をよんで感心して来ました。森田は一頁五十銭で飜訳をして食っている。シャボテン党はこの味を知らないからシャボテン派なんだろうというています。今日も三人来ました。然し玄関の張札を見て早々帰ります。甚だ結構です。以上。

   十月十二日

金生

     虚子先生

      ○

明治三十九年十月十五日(封書)

 喜多の番組難有候。ちょっとこの文壇五名家という奴を御覧なさい。僕の鼻が曲っているから妙だ。鼻の穴の片ッ方が余計に見えている。これで文学者もすさまじいものだ。然し他の四名家も文学者らしくもありませんね。中には泥棒のようなものもいる。草々。

   十月十五日

     高浜先生

      ○

明治三十九年十月十七日(封書)

 拝啓 喜多の番づけを難有う存じます。早速モリスにやりましょう。先達て御話しのあった「二百十日」に関する拙翰を『ホトトギス』へ掲載の義は承知致しましたと申しましたが少し見合せて下さい。近々「現代の青年に告ぐ」という文章をかくかまたはその主意を小説にしたいと思います。するとその前にあの手紙は出してもらわない方がよい。どうでしょう、あの主意をあなたが布衍ふえんして、そうしてあなたの意見も加えてあなたの文章とかきかえて『ホトトギス』へ出して下さっては。あの手紙のうちで困るのは「現代の青年はカラ駄目だ」という事と「普通の小説家なら……」という自讃的の語である。自分が小説をかいて、人の小説を自分のに比べて攻撃するのはいやな心持ちだ、それから「現代の青年に告ぐ」という文章中には大に青年を奮発させる事を書くのだから「カラ駄目」じゃちと矛盾してしまいます。まず用事だけにして置きます。

 森田流の人には当分シャボテン主義は分りません。やはりロシヤ主義で進歩するがよかろうと思います。

   十六日

     高浜様

      ○

明治三十九年十月十八日(封書)

 拝啓手紙は『国民新聞』へ御出しのよし。ちっとも構いません。出したら出したで小説でも論文でも出来ますから、決して御心配には及びません。本当は現代の青年の一部のものにあの手紙を見せてやりたいのですから大に結構であります。今日松根まつねが来ました。今度の日曜に散歩をする約束をしました。『早稲田』から正月という注文が来ましたがこれは延ばす事に仕って『ホトトギス』へ何か書いて見ましょう。もっとも他にも約束もあるがどうかします。もっとも『ホトトギス』へ出来なければ外へも出来ないのですから御勘弁なさい。さようなら。

   十月十六夜

     虚子大人座下

      ○

明治三十九年十一月九日(封書)

 昨日は御出かと思って居たら東洋城の注進で顔がはれたという訳で髪結床も油断のならないものと気がつきました。昨日は大分大勢来ました。しめて十三、四人です。東洋城と三重吉が大に論じていました。紅緑こうろくの「アンカ」を四方太がほめた。森田白楊は散々わるくいうた。あのジジイは僕も嫌だ。通篇西洋臭い。焼直し然としている。然し田舎の趣味がある所が面白いと思います。

 文章談はほんの一口でつまらんものです。正月には人情の反対即ち人情的のものがかきたいが出来るか、出来損うか、または出来上らないか分らない。文債が多くて方々から尻が来て閉口です。『坊ちゃん』は依然として広告されていますね。どうか正月分は(もし出来たら)この醜態を免がれたいと思う。僕今度は新体詩の妙な奴を作ろうと思う。文界は依然として芋をんでいる。そのなかに混って奮闘するのは愉快ですね。皮がむけて肉がただれても愉快だ。僕もし文壇を退けば西都へ行って大学で済まして講義をしています。然し折角生れた甲斐には東京で花々しく打死をしたいですね。

 吉原のとりの市なんか僕も見たかった。二、三日漫然とあるきたい。手紙をかくだけでも随分骨が折れる。以上。

   十一月九日

     虚子先生

      ○

明治三十九年十一月十一日(封書)

 拝啓 昨日ちょっと伺うのを忘れましたがね。小生の原稿は十二月二十日頃まででいいでしょうか。そこの所をちょっと確めて置きたい。実は色々用事があってね早くは出来そうもないです。

 生田長江いくたちょうこうという人が四方太さんの所へ行ったら先生大気焔で漱石も「一夜」をかいているうちはよかったが近頃段々堕落するといったそうだ。四方太先生はこんな元気はない人だと思っていた。えらい事になりました。僕は「秋晴しゅうせい」や「秋曇しゅうどん」をかいて満足していられるようになりたい。その方がどの位個人として幸福か知れない。僕がかくのは冗談にかくんじゃない。まずくても下手でも已を得ずかくのである。冗談なら文章をかかずに教師だけでひまがあれば遊んであるいている。小生今後の傾向はまず以て四方太先生の堕落的傾向であります。甚だ厄介ですな。小生が好んで堕落するんじゃない。世の中が小生を強いて堕落せしむるのであるか。恐惶謹言。

   十一月十一日

     虚子先生

 左千夫の手紙にいっている事は僕にわからない。四方太の駄洒落だじゃれを攻撃している所は小生は駄洒落とは認めない。

 僕はあすこへ応用してもらう積りで文章談をしたのではない。

 あれが駄洒落なら大抵のものは駄洒落だ。然し「秋晴」や「秋曇」は堕落的傾向を帯びないから僕には一向感じがない。何をかいたのか分らない。あのまま白紙を代りにしても同じ事だ。四方太がきいたら定めし怒る事だろう。

      ○

明治三十九年十一月十一日(封書)

 今日は早朝から文学論の原稿を見ています。中川という人に依頼した処先生頗る名文をかくものだから少々降参をして愚痴だらだら読んでいます。今四十枚ばかり見た所へ赤い冬瓜とうがんのようなものが台所の方から来て驚きました。それに長い手紙があるのでいよいよ驚ろきました。赤冬瓜の事は一、二行であとは自我説文学説だからいよいよ以て驚ろきました。御意見は面白く拝見しました。大分御謙遜のようですがあれはいけません。然し文章について、大意見があるとは甚だ面白い。是非伺いたいと思います。「アン火」は感じがわるいですね。仏蘭西あたりのいか様ものを脊負しょい込んだのでしょう。四方太は白紙文学、僕は堕落文学、君はサボテン文学、三重吉はオイラン憂い式、それぞれ勝手にやればいいのです。それで逢えば滅茶に議論をして喧嘩をすればいいと思う。所が四方太先生は議論をしませんよ。だからいやだ。天下が僕の文をまつは甚だ愉快な御愛嬌で難有く待たれて置いて大に驚ろかす積りで奮発してかきましょう。東洋城のオバサンが「二百十日」をほめたそうだから面白い。僕は人の攻撃をいくらでもきくが、大概採用しない事にしました。その代りほめた所は何でも採用するという憲法です。

 何だかムズムズしていけません。学校なんどへ出るのが惜しくってたまらない。やりたい事が多くて困る。僕は十年計画で敵をたおす積りだったが近来これほど短気な事はないと思って百年計画にあらためました。百年計画なら大丈夫誰が出て来ても負けません。木曜に入らっしゃい。ハムは大好物だから大に喜んで食います。二十日までにかきます。

   十一月十一日

夏目金之助

     虚子先生

      ○

明治三十九年十一月十七日(封書)

 もうやめます。陳列すると際限がない。仕舞へ行くほどゾンザイになる。一、二分に一句位宛出来る。このうちでもっとも上等の奴を二つばかりとって頂戴。

 あしたは明治大学がやすみになって嬉しいから、御降おさがりをちょっと作りました。

   十六日夜

     虚子先生

      ○

明治三十九年十一月二十四日(封書)

 拝啓 伝四先生の原稿は先ほど送りました。手を入れると申しても大変ですから大体あれでいいでしょう。校正の時でも気がついた所を直してやって下さい。『ホトトギス』の趣向はないのだが、どうも長くなりそうでそうして頗る複雑な奴が書いて見たい。所がどうも時間が足りないですがね。そこが困ります。もし充分の時日があって趣向が渾然こんぜんとまとまれば日本第一の名作が来年一月の『ホトトギス』へあらわれるのだが惜しい事です。

 いそがしくて困ります。昨夜は大変面白かった。毎木曜にああ猛烈な論戦があると愉快ですな。

      ○

明治三十九年十二月四日(葉書)

 拝啓 明後日は「千鳥」の作者が新作をもってくる由。どうか御出席の上朗読を願いたいものですが如何どうでしょう。

   十二月四日

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治三十九年十二月十日(封書)

 拝啓 いよいよ本日曜から『ホトトギス』に取りかかりました。学校があるから廿日までに出来るかどうか受合えない。然し出来るだけかいて見ましょう。時があれば傑作にして御覧に入れるがそうも行くまい。廿一日の朝には全部渡さなくてはいけませんか。ちょっときかして下さい。正月発行期日が後れても職人が働かないから同じ事でしょうか。

 僕の家主が東京へ転任するに就て僕に出ろという。甚だ厄介である。今時分転任せんでもの事であるのにと思う。然しむこうは所有権があるから出なければならない。君どうですか、いい所を知りませんか。あったら移りたいから教えて下さい。あれば今年中に移ってしまう。頓首。

   十二月九日夜

夏目金之助

     虚子先生座下

      ○

明治三十九年十二月十一日(封書)

「正義組」拝見趣向はいいですがあれでは物足りませんね。あれをもっとキュッと感じさせなくっては短篇の生命がありません。悪口を申して失礼です。こんなものは今の小説家がみんなやります。而してもっとうまくやります。これよりは写生文の方がよいように思われます。然し屑籠へ入れる必要はないでしょう。寺田が短篇をよこしました。これもあまり感服しません。然し他人はほめるかも知れない。とにかく御覧に入れます。以上。

   十二月十一日

     虚子様

      ○

明治三十九年十二月十六日(葉書)

あくび」御出来ごしゅったいのよし。小生ただ今向鉢巻大頭痛にて大傑作製造中に候。二十四日までに出来上る積りなれどただ今八十枚の所にて、予定の半分にも行って居らぬ故どうなる事やら当人にも分りかね候。出来ねば末一、二回分は二十日以後と御あきらめ下さい。

 小生立退きを命ぜられこれまた大頭痛中に候。今度の小説は本郷座式で超ハムレット的の傑作になるはずの所御催促にて段々下落致候。残念千万に候。

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治三十九年十二月十六日(葉書)

 只今頗ルえんナ所ヲカイテイル。

 表題ハ実ハキマラズ。「野分のわけ」位ナ所ガヨカロウト思イマス。ドウデショウ。中々人ガキタリ、何カシテ一気ニ書ケナイ。

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治三十九年十二月二十三日(葉書)

 拝啓 蝶衣ちょうい高田四十平たかだよそへい)君の所ハ淡路釜口デスカ。

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治三十九年十二月二十六日(葉書)

 廿七日引き越します。

 所は本郷西片町十ロノ七

であります。仲々まずい所です。喬木きょうぼくを下って幽谷ニ入ル。

夏目金之助

     高浜虚子様


    七


 明治四十年頃からの漱石氏はますます創作に油が乗って来て、その門下に集まって来た三重吉、豊隆とよたか草平そうへい臼川きゅうせんその他の人々に囲繞いじょうせられて文壇に於ける陣容も整うて来た事になった。その時に当って朝日新聞から社員として傭聘ようへいするという話が始まって、遂に氏は意を決して大学講師の職を辞して新聞社員として立つ事になった。同時に氏は素人の域を脱して黒人くろうとの範囲に足を踏ん込んだ事になったので、今までは道楽半分であった創作が今度は是非とも執筆せねばならぬ職務となった。氏の立場は堂々たるものになったと同時に気ままとか楽しみとかいうゆとりは無くなってしまった。が氏の謡の稽古を思い立ったのもその頃からの事である。氏は熊本に居る頃加賀宝生を謡う人に二、三十番習った事があったので、誰か適当な宝生流の師匠はなかろうかと言われた時に、私は松本金太郎翁を推挙したのであったが、遂にそれは宝生新氏に落着いて私らと同流の下宝生を謡うことになったのであった。氏はまた晩年になって絵を書いたり詩を作ったりする模様であった。氏も道楽なしには日を暮す事の出来ない人であったようである。大学の先生をしている間は創作が道楽であった。創作が本職になってからは謡や絵や詩が道楽となった。

 氏が大学を辞して朝日社員となって間もなく早稲田大学から氏を傭聘したいという申込みがあった。もっともそれは表向きではなく島村抱月氏から片上天弦かたがみてんげん氏を通じ私から漱石氏の意向を聞いてくれぬかという事であった。私はその事を漱石氏に話した時に氏は次の如く答えた。

「一度大学を辞した以上自分は最早大学に復帰する考えはない。もし今度何処かの学校に関係を持たねばならぬような場合が生じたら、その節は一番に早稲田大学の方に交渉を開く事にしよう。その点だけは堅く約束して置くが、今はそういう考は持たない。」とこういう返事であった。

 漱石氏はまた朝日新聞社員となった以上新聞のために十分の力を尽して職責を空しくしないようにしなければならぬという強い責任感を持っていた。そこで新聞社の方では他の雑誌、少くともその出身地である『ホトトギス』に時々稿を寄せる位の事は差支ない事としていたらしかったが──これは私が渋川玄耳しぶかわげんじ君から聞いた事であった──漱石氏は他の雑誌に書くとそれだけ新聞に書くべき物を怠るようになるという理由から新聞以外には一切筆を取らないと定めたようであった。これは創作が道楽でなくなって職業となり原稿紙に向うことに興味の念の薄くなって来た以上止むを得ぬ傾向と言わねばならなかった。私もこれを強いて要望する気にもならなかった。

 私が『国民新聞』のために国民文学をはじめた当時は能く漱石氏の談話筆記を紙上に載せた。また漱石氏を芝居に引ぱって行ってその所感を聞きとるような事もした。しかしそれも間もなく『東京朝日』紙上に朝日文芸欄が出来るようになってから中絶せねばならなかった。それは新聞そのものの立場から国民文学と朝日文芸とは自然対立しなければならぬ性質のものであったからである。数年前の漱石氏は創作の方面の直接の友としては全く私一人を有しているに過ぎなかったのであったが、この頃の漱石氏はその数多い門下生諸君と朝暮接触してそれらの人々のために謀ってやらねばならぬ止むを得ざる立場に立っていた。朝日文芸欄もそれらの要求から生れ出たものであったらしく、それが私の受持っている仕事と対立せねばならぬようになった事は残念なことであった。けれどもそれらは決して私と漱石氏との間を疎々うとうとしくするほどの大事件ではなかった。漱石氏の家で毎週催おされる木曜会には私は主な出席者の一人であった。漱石氏は常に私を激励する事を怠らなかった。

 私が明治四十三年にチブスに罹って健康を損じて以来私は生活を一変せねばならぬ事になった。私は国民新聞社を辞して衰滅に傾きつつあった『ホトトギス』を私一人の力で盛り返す事に尽力すべく決心したが、健康が何時も不十分であった上に住居を鎌倉に移したために従来頻繁に往来していた旧友諸君と自然疎々しくなる傾きになってしまった。いわゆる「出来るだけ借銭をするのと同じように出来るだけ義理を欠く」方針の下に、東京に出て来て『ホトトギス』のために仕事をしてしまえば直ちに鎌倉に引き挙げ、何人を訪問する事もしなかった。自然漱石氏の家をわぬ事も久しい間の事であった。漱石氏が修善寺で発病した時、同地にこれを見舞いその後胃腸病院に入院している時に一度これを見舞い、尚おその南町の邸宅を一両度訪問した以外殆ど無沙汰をし続けにしてしまった。漱石氏もまた鎌倉の中村是公これきみ氏の別荘に遊びに行くついでに一度私の家の玄関まで立寄ってくれた事があった位の事であった。漱石氏の最後の手紙に、

「身体やら心やらその他色々の事情のためつい故人に疎遠に相成るようの傾」云々とあるのは独り漱石氏の感懐のみではない。かくの如くして私は氏が危篤の報に接して駆け付けた時、病床の氏は、後に聞けばカンフル注射のためであったそうであるが、素人目には未だ絶望とも思われぬような息をついていたので、私は医師の許を受けて、

「夏目さん、高浜ですが、御難儀ですか。」と声を掛けた。

「ああ、有難う、苦しい。」というような響きが私の耳に聞きとれた。それは苦し気の呼吸の中に私の耳にそう聞えた響きに過ぎなかったかも知れない。その後また、

「水、水。」と二、三遍繰返して言った言葉を私は確かに聞きとった。看護婦もその声に応じて水を与えたのであった。私はその臨終の模様から通夜の時の容子などを書きたいという考がないでもないが、これは別に人がある事と考えるからには略する事として、これでこの稿を終る。左には明治四十年から以後の氏の私に当てた手紙の全部を掲載する。ここに掲げる明治四十二年以後の手紙の少ないのは、もともと受取った手紙の少ないのでもあろうが、その頃から私は人の手紙を保存するという煩しさを感じ始めたので、大概の物は反古にしてしまった。氏の手紙も大分それがあったことと思う。此処に収録した二通はものに紛れて残っていたものである。


(時日不明、明治四十年一月と推定す。)(葉書)

 拝啓。来る三日木曜日につき大に諸賢を会し度と存候。かねて松根東洋城まつねとうようじょうが御馳走を周旋するといっていたから手紙を出して置きました。どうか来てまぜ返して下さい。

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治四十年一月六日。本郷区西片町十ロノ七号ヨリ(封書。はじめの部分切れて無し)

 まずこの位な処に候。御旅行結構に候。三日には大勢あつまり頗る盛会に候。小生「野分」をかいたからこの次は何をかこうかと考え居り候。何だか殿下様より漱石の方がえらい気持に候。この分にては神様を凌ぐ事は容易に候。人間もそのうち寂滅と御出になるべく、それまでに色々なものを書いて死に度と存候。以上。

   一月四日夜

金之助

     虚子先生

      ○

明治四十年一月十六日(葉書)

 寅彦が「枯菊の影」を送って来ましたから廻送します。今度の『ホトトギス』に僕の転居を広告してくれませんか。

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治四十年一月十八日(封書)

えにし」という面白いものを得たから『ホトトギス』へ差し上げます。「縁」はどこから見ても女の書いたものであります。しかも明治の才媛がいまだ曾て描き出し得なかった嬉しい情趣をあらわして居ます。「千鳥」を『ホトトギス』にすすめた小生は「縁」をにぎりつぶす訳に行きません。ひろく同好の士に読ませたいと思います。今の小説ずきはこんなものを読んでつまらんというかも知れません。鰒汁ふぐじるをぐらぐら煮て、それを飽くまで食って、そうして夜中に腹が痛くなって煩悶しなければ物足らないという連中が多いようである。それでなければ人生に触れた心持がしないなどと言って居ます。ことに女にはそんな毒にあたって嬉しがる連中が多いと思います。大抵の女は信州の山の奥で育った田舎者です。まぐろを食ってピリリと来て、顔がポーとしなければ魚らしく思わないようですな。こんななかに「縁」のような作者の居るのは甚だたのもしい気がします。これをたのもしがって歓迎するものは『ホトトギス』だけだろうと思います。それだから『ホトトギス』へ進上します。

   一月十八日

     虚子様

      ○

明治四十年一月十九日(封書)

 拝啓 春陽堂の編輯員本多直二郎ほんだなおじろう氏『新小説』紙上選句の件につき御目にかかり御話申度由につき御面会被下候えば幸甚に存候。まずは用事のみ余は拝眉千万。不一。

   一月十九日

夏目金之助

     高浜様

      ○

明治四十年一月二十一日(葉書)

 拝啓 庄野宗之助君の宿所をちょっと御報知願度と存候。以上。

   一月二十一日

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治四十年一月二十七日(葉書)

 虚子君三月の能(九段)の席上等をとって頂く訳に行きませんか。今度も連れて行ってくれという人がある。モリスも取りたいと申します。都合はつきますまいか。

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治四十年三月二十三日(葉書)

 先日は御来駕手拭を御被り被下難有候。さて『ホトトギス』小説選抜の件は当分むずかしく御座候。正月に執筆の事はどうなりますやら、小生が『朝日』へ書き得る分量次第かと存候。これはあらかじめ約束もむずかしかるべきか。ともかくも出来得る限り『ホトトギス』のために御用を務める事に致すべく候。以上。

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治四十年四月一日(京都下加茂二十四狩野方より)(封書)

 拝啓 京都へ参候。所々をぶらつき候。枳殻きこく邸とか申すものを見度候。句仏へ御紹介を願われまじくや。頓首。

   三月三十一日

     虚子先生

      ○

明治四十年四月十九日(封書)

 拝啓 もしや西京より御帰りにやと存じ一書奉呈致し候。近頃高等学校二部三年生にて美文をつくりこれを『ホトトギス』へ紹介してくれという人有之。一応披見致候処中々面白く小生は感服致候。乍毎度貴紙上を拝借致し度と存候が如何にや。来月分に間に合えば好都合と存候。

「京の都踊」、「万屋」、面白く拝見、一力に於ける漱石は遂に出ぬように存じ候。少々御恨みに存じ候。漱石が大に婆さんと若いのと小供のとあらゆる芸妓にもてた小説でも写生文でも御書き被下度と存候。近来の漱石は色の出来ぬ男のように世間から誤解被致居り大に残念に候。以上。

   四月十九日

金之助

     虚子庵座側

      ○

明治四十年五月四日(葉書)

七夕たなばたさま」をよんで見ました。あれは大変な傑作です。原稿料を奮発なさい。先達せんだってのは安すぎる。

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治四十年五月四日(葉書)

「花瀬川」はものにならず。伝四先生何を感じてこの劣作をなせるか怪しむべし。

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治四十年七月十七日(松山一番町池内方高浜宛)(封書)

 啓 松山へ御帰りの事は新聞で見ました。一昨日東洋城からも聞きました。私が弓をひいたあずちがまだあるのを聞いて今昔の感に堪えん。何だかもう一遍行きたい気がする。道後の温泉へも這入りたい。あなたと一所に松山で遊んでいたらさぞ呑気な事と思います。「大内旅館」についての多評は好景気の様也。三重吉は大変ほめていました。寅彦も面白いといいました。そこへ東洋城が来て三人三様の解釈をして議論をしていました。小生はよくその議論をきかなかった。小生の思う所は「大内旅館」はあなたが今までかいたもののうちで別機軸だと思います。そこがあなたには一変化だろうと存じます。即ちあなたの作が普通の小説に近くなったという意味と、それから普通の小説として見ると「大内旅館」がある点に於て独特の見地(作者側)があるように見える事であります。詳しい事はもう一遍読まねば何ともいえません。とにかく色々な生面を持って居るという事はそれ自身に能力であります。御奮励を祈ります。五、六日前ちょっと何を考えたか謡をやりました。一昨日東洋城が来た時は滅茶々々に四、五番謡いました。ことによったら謡を再興しようと思います。いい先生はないでしょうか。人物のいい先生か、芸のいい先生かどっちでも我慢する。両者揃えば奮発する。「虞美人草ぐびじんそう」はいやになった。早く女を殺してしまいたい。熱くってうるさくって馬鹿気ている。これインスピレーションの言なり。以上。

   七月十七日

     虚子先生

      ○

明治四十年八月五日(同上)(封書)

 一昨日御話をした「糸桜」という小説はいそがぬから私に見てくれといいますからあなたへは送りません。今日『東亜の光』という雑誌を見たら小林一郎(哲学の文学士)という人が、近頃漱石氏の名前が出るにつれて追々非難攻撃するものが殖えて来た。もう少し文学者は雅量がなくてはいかんとありましたが、どうですか。私は未だ非難攻撃という程な非難攻撃に接した事がない。何だか小林君の説によると迫害でも受けているように見えて可笑しい。漱石をほめるものが少なくなったのは事実であります。然しこれは漱石が作家として一般の読書子から認められたからであります。漱石をえらい作家と認めれば認めるほど世間は無暗にほめなくなる訳だと思います。六号活字などを以て漱石を非難攻撃などというのは頗る軽重の標準を失しているではありませんか。今めしをくって散歩に出る前にちょっと時間がありますから気焔を御目にかけます。長い小説の面白い奴をかいて御覧なさらないか。そうして『朝日新聞』へ出しませんか。

 今度の「同窓会」は駄目ですね、あれは駄目ですよ。あなたを目するに作家を以てするから無暗にほめません。ほめないのはあなたを尊敬する所以であります。頓首。

   八月五日

     虚子先生

      ○

明治四十年八月十九日(同上)(封書)

 浜で御遊びの由大慶に存じます。大きな皷を御うちの由これも大慶に存じます。松本金太郎君はどこにいますか。私のいる所からあまり遠方では少々恐入ります。謡の道にかけては千里を遠しとするほどの不熱心ものであります。専門の学問をしに倫敦へ参った時ですら遠くって遠くって弱り切りました。金太郎君へ入門の手続はどうしますか、月謝はいくらですか、相成るべくは相互の便宜上師弟差向いで御稽古を願いたい。敢て同門の諸君子を恐るるにあらず、度胸がすわらざるが為めなり。あなたは二十日頃御出京と承わりました。然し御令兄の御病気ではいけますまい。どうか御大事になさい。人の悪口を散々ついてあとからあれは奨励のためだというのは面白いですね。六号活字の三行批評家や中学生徒に奨励されちゃたまらない。以上。

   八月十九日

     虚子先生

 謡の件は近々御帰りまで待ちましてもよろしゅう御座います。いそぐ事ではありません。

      ○

明治四十年九月十四日(葉書)

 宝生新君件委細難有候。早速始めたいが転宅前はちと困ります。転宅後も遠方になると五円では気の毒に思います。いずれ落付次第又御厄介を願いましょう。

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治四十年九月二十八日(葉書)

 私の新宅は

  牛込早稲田南町九番地

デアリマス。アシタ越シマス。

      ○

明治四十年十月八日(牛込早稲田南町七番地より)(封書)

 拝啓 宝生の件は御急ぎに及ばず。いずれ落付次第此方へ招待仕る方双方の便宜かと存候。実はケチな事ながら家賃が五円増した上に月謝が五、六円出ると少々答える故、ちょっと様子を伺った上に致そうかと逡巡仕る也。魯庵氏への紹介状別封差上候間御使可被下候。まずは用事まで。匆々。頓首。

   十月十八日

     虚子先生

      ○

明治四十年十月九日(葉書)

 御小児おんこども御病気如何。もし御様子よくば木曜の夕茸飯を食いに御出掛下さい。もっとも飯の外には何もなき由。人間は連中どやどや参ると存候。紹介状サッキ郵便で出しました。

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治四十年十月二十九日(封書)

 啓 先日霽月に面会致候処御幼児又々御病気の由にて御看護の由さぞかし御心配の事と存候。さて別封(小説「葦切よしきり」)は佐瀬と申す男の書いたもので、当人はこれをどこかへ載せたいと申しますから『ホトトギス』はどうだろうと思い御紹介致します。もっとも当人貧乏にて多少原稿料がほしい由に候。御一覧の上もし御気に入らずば無御遠慮御返却相成度ほかを聞いて見る事に致します。まずは用事まで。匆々。

   二十九日

金之助

     虚子先生

      ○

明治四十年十一月十日(封書)

 先日は失礼。御依頼の序文をかきました。御気に入るかどうだか分りませんがまあ御覧に入れます。ゆうべ大体の見当をつけて今朝十時頃から正四時までかかりました。然し読み直して見ると詰らない。然し大分奮発して書いたのは事実であります。そこを御買い下さい。頓首。

   十一月十日

     虚子様

当分序文ハカカナイ事ニシマス。ドウモ何ヲカイテ好イカ分ラナイ。然シアナタノ作ヲ読ムノハヒマガ入ラナカッタ。アレデハ頁ガ多クナリマセンネ。

      ○

明治四十年十一月十八日(葉書)

 昨日は御馳走になりました。私は二十二日入場の文芸協会の演芸会の特等の招待券をもらいました。(壱円五十銭)あなたはもらいませんか。もし行くなら一所に行きましょう。一人ならそんなに行きたくもない。

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治四十一年一月十日(封書)

 昨日は失敬。「班女」には大弱りに弱り候。さて本朝本間ひさしと申す人別紙原稿をよこし『ホトトギス』か『中央公論』へ周旋してくれぬかとの依頼故、まず以て原稿を供貴覧候。御気に入り候わば御掲載の栄を賜わりたく候。本人の申条に曰く。ある雑誌記者曰く、本間久は飜訳ばかりして創作は出来ぬ男だと。これに於てこの作ありと。即ち敵愾心てきがいしんの結果になれるものと覚候。原稿の価値は大したものにあらず少々物足らぬ様也。然し折角の希望故御紹介致し候。以上。

   正月十日

     虚子方丈下

      ○

明治四十一年二月七日(封書)

 啓上 謡本五冊わざわざ御持たせ御遣わし御懇切の段感謝致候。小生万事不案内につき御仰の通り宝生先生と相談の上御指定のうちを願い可申候。今夜「班女」は少しにて済む事と存候。もし御都合もつき候えば御入来御両人にて一番御謡あらまほしく候。まずは御礼まで。匆々。

   二月七日

     高浜様

      ○

明治四十一年二月十六日(封書)

 拝啓 青木健作氏論文拝見致候。『ホトトギス』へ掲載の儀は如何様にてもよろしかるべきか。是非共のせるべきほどの名論文とも存じ不申。然し載せては『ホトトギス』の資格に害を与うるとは無論思い不申候。昨日青年会館にて演舌、今日これを通読。問題が大に似たる処有之興味を感じ申候。以上。

   二月十五日

夏目金之助

     高浜老兄

      ○

明治四十一年二月二十四日(葉書)

『朝日』の講演速記は未だ参らず。如何なり候にや。かかりは中村翁に候。金曜に皷を以て御出結構に存候。渇望致候。『ホトトギス』へ出す時には訂正致し度と存候。時間がアレバアアイウ者デマトマッタモノヲ書キ度候。

皷打ちに参る早稲田や梅の宵

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治四十一年三月十四日(葉書)

 今日の「俳諧師」は頗る上出来に候。敢て一葉を呈して敬意を表す。頓首。

   三月十四日

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治四十一年三月十六日(葉書)

 藪柑子やぶこうじ先生「伊太利人」と申す名作を送り候。木曜に御出なければ締切に間に合うよう取りに御寄こしか、此方より御送致す事に致候。小生演説は明日位から取りかかる考に候。今夜御都合にて□衣御懐中可然候。

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治四十一年三月十七日(葉書)

 拝啓 講演をかきかけて見ましたら中々長くなりそうですがよろしゅう御座いましょうか。

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治四十一年三月十九日(封書)

 拝復 ページ数相分り候とよろしく候えどもまだ判然不仕。定めて御迷惑と存候がいくら長くてもよしとの御許故安心致、可相成全速力にて取片附一日も早く御手元へ差出し度と存候。御風邪ごふうじゃまだ御全快無之由存分御大事に願候。本日の面会日は謝絶致候。近来何となく人間がいやになり。この木曜だけは人間に合わずに過ごし度故先達失礼ながら御使のものにその旨申入候。もっとも謡の御稽古丈は特別に御座候。呵々。

 鏡花露伴両氏の作ただ今持ち合せず。『草迷宮』は先達て森田草平持ち帰り候。『たまかづら』は最初より無之候。近日来の「俳諧師」大にふるい居候。敬服の外無之候。ますます御健筆を御揮い可然候。以上。

   三月十九日

金之助

     虚子様

      ○

明治四十一年三月二十四日(封書)

出来るならば一欄に組んで頂きたいと思います。

題は「創作家の態度」と致して置きましょう。

 拝啓。多分明日は出来るだろうと思います。十九字詰十行の原稿紙でただ今二百五十枚許かいて居ります。多分三百枚内外だろうと思います。明日書き終って一遍読み直して差し上げたいと思います。何だかごたごたした事が出来て少々ひまをつぶします。頭がとぎれとぎれになるものだから大変な不経済になります。頓首。

   二十四日

金之助

     虚子様

 御風邪は如何で御座いますか。

      ○

明治四十一年五月二十八日(封書)

 拝啓

 この手紙持参の人は宮沢鍒一郎じゅういちろうとて俳道執心のものに有之よし。今般四年がかりにて俳諧辞書編輯をえ大倉書店より出版につき大兄の序文もしくは校閲願度旨にて参上仕候につき御面倒ながら御面会相願度と存候。本人は小生未知の人に候えども大倉書店よりの依頼にて一筆申上候。ただし大兄には運座の節一両度御目にかかり候由。まずは右当用のみ。草々不一。

   五月二十八日

金之助

     虚子先生梧下

      ○

明治四十一年五月三十日(葉書)

 拝啓。木曜日には雨天にて御出無之。「俳諧師」頗る面白く候。十風が北海道へ行ってからが心配に候。あともどうかあの位に御振い可被下候。

夏目金之助

     高浜清様

      ○

明治四十一年六月三十日(葉書)

 今日の北湖ほくこ先生磊々らいらいとして東西南北を圧倒致し候には驚入おどろきいり候。欣羨きんせん々々。

五月雨や主と云はれし御月並

   六月三十日

夏目金之助

     高浜清機

      ○

明治四十一年七月十日(封書)

 拝復。小光こみつはもっとさかんに御書きになって可然候。決して御遠慮被成間敷候。今消えては大勢上不都合に候。鼠骨そこつでも今日の弥次郎兵衛やじろべえの処は気に入る事と存候。「文鳥」十月号に御掲載被下候えば光栄の至と存候。十月なれば『東朝』へ承諾を求むる必要も無之かるべくと存候。「文鳥」以外に何か出来たら差上べく候えども覚束なく候。ドーデの「サッフォー」という奴をちょっと御読みにならん事を希望致候。名作に御座候。「俳諧師」の著者には大いに参考になるだろうと存候。

 今日の能楽堂例により不参に候。明日御令兄宅の御催し面白そうに候。ことによれば拝聴に罷り可出候。小生「夢十夜」と題して夢をいくつもかいて見ようと存候。第一夜は今日『大阪』へ送り候。短かきものに候。御覧被下度候。盆につき親類より金を借りに参り候。小生から金を借りるものに限り遂に返さぬを法則と致すやに被存甚だ遺憾に候。おれが困ると餓死するばかりで人が困るとおれが金を出すばかりかなあと長嘆息を洩らし茲に御返事を認め申候。頓首。

   七月一日

鮟鱇あんこうや小光が鍋にちんちろり

     虚子先生座右

      ○

明治四十一年七月四日(封書)

 拝啓 また余計な事を申上て済みませんが小光入湯の所は少々綿密過ぎてくだくだしくはありませんか。小光をも描かず小光と三蔵との関係も描かず、いわば大勢に関係なきものにてただ風呂桶に低徊しているのではありませんか。そうしてその低徊がそれ自身に於てあまり面白くない。どうか小光と三蔵と双方に関係ある事で段々発展するように書いて頂きたい。そうでないと相撲にならない。妄言多罪。頓首。

   四日

金之助

     虚子先生

      ○

明治四十一年七月十一日(封書)

拝復 御ふささんは異存はなかろうと愚妻が申します。然し松根がもらいたいのですかあなたが御周旋になるのですか伺ってくれと申します。

 御ふささんは妻のイトコです。貧乏です。支度も何もありません。以上。

   七月十一日

     虚子様

      ○

明治四十一年七月十二日(封書)

 又啓ゆうけい

 あなたがこの事件で歩を御進めになれば自然松根に直接意見をきく事になります。そうすると公平を保つために私の方でも御房さんにその事を話さなければなりません。即ちあなたの思いつきで松根に向って御房さんをもらわないかと口をかける由と通知するのであります。それで本人がいやだというたら直ぐ無駄な御骨折を御中止を願います。また異存なしと答えたら何分にも御面倒を願いましょう。ただ今愚妻留守につき帰り次第御房さんの考をきかせますから左様御承知を願います。頓首。

   七月十二日

金之助

     虚子先生

      ○

明治四十一年七月十四日(封書)

 謹白。

「私は無教育でありまして到底高等の教育を受けた人の奥様になる資格はありませんが──もう一年も仕事でも勉強して──」

 御房さんがこんな事をもしくは之に類似した事を愚妻まで申し出たそうです。これに由ってこれを観ると謙遜のようにもあり、いきたいようにもあり、ちょっと分りませんな。然し否ではないんでしょう。そう手詰に決答を逼る必要もないから愚妻はよく考えなさいと申したら、御房さんはよく考えて見ますと申したそうであります。

 右は小生の直接研究に無之候えども大体の見当は間違った愚妻の報知とも思われません。

 右迄草々。

   七月十三日

     虚子先生

      ○

明治四十一年七月二十三日(封書)

 拝啓 別封「花物語」は寅彦より送り越し候もの。中には中々面白きもの有之出来得るならば八月の『ホトトギス』へ御出し被下度候。

 新、旅行。小石川同心町の住人代稽古に参り候。中々上手に御座候。何と申す人にや、大蔵省へ隔日に宿直する人の由。修善寺は如何に候いしや。頓首。

   七月二十三日

     虚子先生

      ○

明治四十一年八月十九日(封書)

 御書面拝見。『朝日』への短篇遂に御引受のよし敬承。御多忙中さぞかし御迷惑と存候。然しこれにて渋川君は大なる便宜を得たる事と存候。今日「三四郎」の予告出で候を見れば大兄の十二日の玉稿如何にもつなぎのようにて小生は恐縮仕候。全く『大阪』との約束上より出でたる事と御海恕願候。「春」今日結了。最後の五、六行は名文に候。作者は知らぬ事ながら小生一人が感心致候。序を以て大兄へ御通知に及び候。あの五、六行が百三十五回にひろがったら大したものなるべくと藤村先生のために惜しみ候。

 昨紅緑来訪久し振に候。絽縮緬の羽織に絽の繻絆じゅばんをつけ候。なかなか座附作者然としたる容子に候いし。大兄を訪う由申居候参りしや。暑気雨後に乗じ捲土重来の模様。小生の小説もいきれ可申か。草々。

   八月十九日

金之助

     虚子先生

      ○

明治四十一年八月三十一日(封書)

 拝啓 森田友人にて高辻と申す法学士が謡がすきで今度の日曜に僕の宅へ来て謡いたいと申すよしに候。所が先生非常の熱心家なれど今年の正月からやったのだから僕と両人ふたりでやったらどんな事に相成り行くか大分心細く候につき音頭取りとして御出が願われますまいか。その上高辻氏は何を稽古しているか分らず。小生の番数は御承知の通り。共通のものがなければ駄目故かたがた御足労を煩わし度と思いますがどうでしょう。この人は城数馬のおやじさんに毎晩習うんだそうです。きのうも尾上に習いました。尾上は中々うまい。

「温泉宿」完結奉賀候。趣意は一貫致し居候ように被存候が多少説明して故意に納得させる傾はありますまいか。一篇の空気は甚だよろしきよう被存候。「三四郎」はかどらず、昨日の如きはかこうと思って机に向うや否や人が参り候。これ天の呪詛じゅそを受けたるものと自覚しとうとうやめちまいました。

 右当用に添へ御通知申上候。草々。

   二百十日

     虚子先生

      ○

明治四十一年十月二十三日(封書)

 啓 寺田に聞いて見ました処小説集に名前を出す事はひらに御免蒙りたいのだそうであります。序の事は本人は知らないらしかった。然し厭でもないのでしょう黙っていました。一遍集めたものを読み直した上の事に致したいと存じます。以上。

   十月二十三日

金之助

     虚子様

      ○

明治四十一年十二月三十一日(封書)

 拝啓 『ホトトギス』昨二十五日と、今二十六日をつぶし拝見、諸君子の作皆面白く候。そのうちで臼川のが一番劣り候。あれは少々イカサマの分子加わり居候。他は皆真物ほんものに候。

 大兄の作。先夜伺った時は少々失敬致しよく分らずじまいの処、活版になって拝見の上大いに恐縮、あれは大兄の作ったうちにて傑作かと存候。なお向後も『ホトトギス』同人の健在と健筆を祈りていささかここに敬意を表し候。他の雑誌御覧なりや。どの位の出来か彼らの得意の処を拝見致度候。以上。

   十二月二十六日

     虚子様

 子供の名を伸六とつけました。さるの年に人間が生れたから伸で六番目だから六に候。この間のあしたは取消故併せて御吹聴に及候。

『ホトトギス』は広く同人の小説を掲載すると同時に大いに同人間の論客を御養成如何にや。

 楽堂がくどうの舞踏談など面白く候。

      ○

明治四十三年十一月二十一日(麹町区内幸町胃腸病院ヨリ)(封書)

 拝啓 その後は御無沙汰に打過候。修善寺にては御見舞をうけ難有候。なお入院中の事とて御礼にもまかり出ず失礼致居候。

 別封宮寛みやかんと申す男より参り候。中に大兄に関する事も有之候故入御覧候。この人は昔の高等学校生にて不治の病気のため廃学致候ものなる事御覧の如くに候。かかる人の書いたものを『ホトトギス』へでも載せてやったら嬉しがるだろうと思いかたがた入御覧候。文中小生の事のみ多く自分よりいえば夫がはばかりに候。文字は別段の光彩も無之内容もそれほどには見え不申、ただ普通のものよりは幾分か新しき事あらんかと存候。

 右用事まで申上候。当節は小説も雑誌もきらいにて、日本書はふるい漢文か詩集のようなもの、然らざれば外国の小六こむずかしきものを手に致し候。それがため文海の動静には不案内に候。その方却ってうれしく候。新聞も実は見たくなき気持致候。草々頓首。

   十一月二十一日

金之助

     虚子様

      ○

大正二年六月十日(封書)

 啓。「相模のちり」御採用被下候由にて難有存候。あれは未知の人なれど折角故ただ小生の寸志にてしか取計いたるまでに候。紹介様のもの御入用の由故わずかばかり認め申候。近頃一向御目にかからず、健康も時々御違和の由承り居候えども、疾に御全快の事とのみ存居候いしに、いまだに御粥おかゆと玉子にて御凌ぎは定めて御難渋の事と御察し申上候。それではひとの病気処にては無之、御見舞状を受けて却って痛み入る次第に候。『ホトトギス』は漸次御発展の由これまた恭賀。小生も何か差上度所存だけはとうから有之候えども身体やら心やらその他色々の事情のためつい故人に疎遠に相成るようのかたむき、甚だ無申訳候。四十を越し候と人間も碌な事には出合わず、ただこうしたいと思うのみにて何事もそう出来し事無之、耄碌もうろくの境地も眼前に相見え情なく候。御能へは多分参られる事と存居候。万事はその節。匆々頓首。

   六月十日

金之助

     虚子先生座右



   京都で会った漱石氏


 私は別項「漱石氏と私」中に掲げた漱石氏の手紙を点検している間に明治四十年の春漱石氏と京都で出会った時の事を昨日の如く目前に髣髴ほうふつした。これは「漱石氏と私」中に記載してもいい事であるけれども、手紙の分量の多いために、一々その聯想を書く事はわずらわしいので、そこにはこれを省き、別に一章としてその当時の回想を書き止めて見ようと思い立ったのである。

 それは春雨の降っている日であった。七条の停車場すてーしょんから乗ったくるまは三条の万屋の前に梶棒を下ろした。ほろの中で聞いている京都の春雨の音は静かであったが、それでも賑やかな通に出ると俥のわだちの音が騒々しく行きまじってやわらかみのある京都言葉も、あわただしげに強く響いて来るのであった。今俥の幌の中からぬけ出て茶屋の前に立った私は春めき立った京都の宿の緊張した光景をぐ目の前に見た。二、三人の客は女中たちに送られて門前に待っている俥に乗って何処どこかに出掛けて行くらしい様子であった。私の俥に並んで梶棒を下ろした俥からは、別の客が下り立って、番頭や女将から馴れ馴れしげに迎えられていた。私はその混雑の中を鞄をさげた女中の後にいて二階の一室に通された。客が多いにかかわらず割合広い座敷が私のために用意されていたので私の心は延び延びとした。

 私は座敷に落付くや否や其処そこすずりを取り寄せて一本の手紙を書いた。それは少し以前から此の地に来ているはずの漱石氏にてたものであった。下鴨の狩野亨吉かのうこうきち氏の家に逗留しているという事であったので、未だ滞在しているかもう行き違って帰京したか、若しまだ滞在して居るのならばこれから直ぐ遊びに行ってもい、また宿の方へ来てくれても好い、というような意味の事を書いてった。早速漱石氏からは、まだ滞在して居る、とにかく直ぐ遊びに来ないか、という返事があった。そこで私は俥に乗って下鴨の方に出掛けた。下鴨あたりの光景は、私が吉田の下宿に居た時分に比べると非常に変化していた。以前の京都では見られなかった東京風の家が建っていた。それには大学や高等学校の先生たちが大方すまっている模様であった。軒々に散見する名札の中には大分知った名前があった。その二十四番地に狩野という名札を見出して私は案内を乞うた。狩野氏の事に就いては漱石氏から時々話を聞いていた。現に私は漱石氏の最も信頼する友人として明治三十年頃紹介状をもらった事すらあった。もっとも私はその頃差支さしつかえがあってその紹介状はそのままにして狩野氏に逢う機会を見出さなかった。その紹介状は現に私の手元に残っていて、そうして初めて狩野氏に逢ったのは実に漱石氏の瞑目めいもくするその当夜であった。閑話休題として、その狩野氏は妻君を持たないで独身生活をつづけているという事を私はかねて漱石氏から聞いていたが、春雨の降って居る門内の白い土を踏んでその玄関に立った時私はあたかも寺の庫裡くりにも這入ったような清い冷たい感じを受けた。玄関には支那の書物らしいものがやや乱雑に積重ねてあって、古びた毛氈もうせんのような赤い布が何物かの上に置いてあった。その毛氈の赤い色が強く私の目を射た。それは確かに赤い色には相違なかったが、少しも脂粉の気を誘うようなものではなかった。表に降って居る春雨も、一度この玄関内の光景に接すると忽ちその艶を失ってしまうように思われた。私の案内の声に応じて現われたのは一人の破袴を穿いた丈高い書生さんであった。来意を通ずると直ちに私を漱石氏の室に通した。

 漱石氏は一人つくねんと六畳の座敷の机の前に坐っていた。第三高等学校の校長である主人公も、折ふし此の家に逗留しつつある菅虎雄すがとらお氏も皆外出中であって、自分一人家に残っているのであると漱石氏は話した。この漱石氏の京都滞在は、朝日新聞入社の事に関聯してであって、氏の腹中にはその後『朝日新聞』紙上に連載した「虞美人草」の稿案が組み立てられつつあったのであった。

何処どこかへ遊びに行きましたか。」と私は尋ねた。

「狩野と菅と三人で叡山へ登った事と菅の案内で相国寺や妙心寺や天竜寺などを観に行った位のものです。」と氏は答えた。

「お寺ばかりですね。」

 そういって私が笑うと氏もフフフンと笑って、

「菅の案内だもの」と答えた。

 ともかく何処かで午飯を食おうという事になって、私は山端の平八茶屋に氏を誘い出した。春雨の平八茶屋は我らの外に一人の客もなくって静かさを通り越して寧ろ淋しかった。四月発行の『ホトトギス』の話になった時、氏は私の『風流懺法ふうりゅうせんぽう』を推賞して、こういう短篇を沢山書いたらよかろうと言った。私は一月前斎藤知白さいとうちはく君と叡山に遊び、叡山を下りてから、一足さき京都に来ていた知白君と一緒に一力に舞子の舞を観て『風流懺法』を書いたのであったが、今度の旅行は奈良の法隆寺に遊ぶ積りで出掛けて来たのである。漱石氏に逢った上は今夕にも奈良の方へ出掛ける積りであったのであるが、漱石氏が折角せっかく京都に滞在していて寺ばかり歩いていると聞いた時、私は今夜せめて都踊だけにでも氏を引っぱって行こうと思い立った。

「京都へ来てお寺ばかり歩いていても仕方がないでしょう。今夜都踊でも観に行きましょうか。」と私は言った。

「行って観ましょう。」と漱石氏は無造作に答えた。その時の様子が、今日一日は私のする通りになるといったような、極めてすなおな、何事も打まかせたような態度であった。

「それではともかくもこれから私の宿まで行きませんか。」と言って私は氏を私の宿に引っぱって帰った。

 宿屋に這入はいった後漱石氏は不思議な様子を私に見せた。狩野氏の家を出てから山端の平八茶屋で午飯を食うて此の宿の門前に来るまでは如何いかにも柔順すなおな子供らしい態度の漱石氏であったが、一度宿屋の門をくぐって女中たちが我らを出迎えてからは、たちまち奇矯ききょうな漱石氏に変ってしまった。万屋はもとより第一流の宿屋ではない。また三流四流に下る宿屋でもない。私たちは何の考慮を煩わす事もなしに、ただ自分の家の門をくぐるのと同じような気軽い心持で出入する程度の宿屋であったのだが、漱石氏の神経はこの宿のしきいをまたぐと同時に異常に昂奮した。まず女中が挨拶をするのに対して冷眼に一瞥いちべつをくれたままで、黙って返事をしなかった。そうしてしばらくしてから、

「姉さんの眼は妙な恰好の眼だね。」と言って、如何いかにもその女を憎悪するような顔付をしていた。平凡なおとなしいその京都の女は、温色おんしょくを包んで伏目になって引き下がった。やがて湯に這入らぬかと言って今度は別の女中が顔を出した。これはおじゅうという女中頭をしている気の勝った女であった。

「一緒に這入りませんか。」と私が勧めたら、氏は、

「這入りましょう。」と言って逆らわなかった。が、その時投げ出していた足をお重の鼻先に突き出して黙ってお重をめつけていた。お重は顔を赤くして、口を堅く引きめて、じっとそれを見ていたが漸く怒をおさえ得たらしい様子で、

「足袋をおがせ申すのどすか。」と言って両手を掛けてこはぜを外しかけた。その足袋の雲斎底には黒く脂が滲み出していて、紺には白く埃がかかっていた。片方の足袋を脱がし終ると更らに此方こちらの足を突き出した。それもお重は隠忍して脱がせた。私は何のために漱石氏がそんな事をするのかと、ただ可笑おかしく思いながら、その光景ありさまを眺めて居た。が、も少し宿が威張った宿であるとか、女中が素的な美人であるとかしたならば、この舞台も映えるかも知れないけれども、そんなに漱石氏が芝居をするほどの舞台でもあるまいというような少し厭な心持もせぬではなかった。私は氏を促し立てて湯殿に這入った。

 湯殿は大きな鏡があったり、蝋石のテーブルがあったり、新しい白木の湯槽ゆぶねに栓をねじると美しい京都の水がほとばしり出たり、四壁にはめたガラスを透して穏かな春の日影が流れ込んで来たりするので、漱石氏の心はよほど平らかになった模様であった。

「これは贅沢な風呂だ。」などと言いながら自分で栓をねじって迸り出る水を快さそうに眺めながら手拭を持った手で風呂の中を掻き廻しなどしていた。白い手拭が清澄な水の中で布晒ぬのさらしのように棚引いていた。二人は春の日が何時いつ暮れるとも知らぬような心持で、ゆっくりと此の湯槽の中につかって、道後の温泉の回想談やその他取りとめもない雑談をして大分長い時間を此の湯殿で費した。

 湯から出た後の漱石氏は前ほどに昂奮していなかった。お重にはさみを借りて縁に投げ出した足の爪を自らったりした。お重と二人廊下に立って春雨に曇った東山を眺めながら、あれが清水の塔だ、あれが八坂の塔だなど、話し合っていたりした。晩飯をすませてから灯火ともしびの巷の花見小路を通って二人は都踊に這入った。

 都踊の光景は何時来て見ても同じものであった。待合室に待って居る間に、客に連れられた一人の舞子が私に辞儀をした。

「君は舞子を知っているのですか。」と漱石氏は不思議そうに私にいた。

「あれは『風流懺法』の中に書いた松勇まつゆうという舞子です」と私は答えた。松勇らの一群は流るる水のように灯の下を過ぎて何処どこかに消えてしまった。今演ぜられつつある踊が一段落となって今の見物人が追い出されたために繰込むべく待合わしている此の待合室の客は刻々に人数にんずを増して来た。ガラス張りの戸棚のうちには花魁おいらんの着る裲襠しかけが電燈の光を浴びて陳列してあった。そのガラスの廻りにへばりついている人には若い京都風の男もあれば妻君を携帯している東京風の男もあった。それらの群集の中に手持不沙汰に突立っている一人の西洋人を見出したときに漱石氏は「あれはウッドでないか。」と口の中で呟くように言った。この待合室に這入った後の漱石氏はまた万屋の閾をまたいだ後の漱石氏と同じようにその顔面の筋肉は異常に緊きしまっているように思われたが、この時私はつかつかとその西洋人の方に進んで行く漱石氏の姿を認めた。

「アア、ユウ、ウッド?」という極めて鋭い漱石氏の発音が私の耳をつんざくように聞こえた。それと同時に私はあっ気に取られた顔をして無言のまま漱石氏を見下しているその西洋人の顔を見出した。私は漱石氏がそのウッドなる西洋人に対して何か深怨を抱いていて、今で出会ったを幸に、何事かを面責しようとしているのかと想像しつつこれを凝視していた。しばらく漱石氏の顔を見下していた西洋人は、やがてついと顔を外らして、向うの群集の中に這入ってしまった。

「どうしたのです。」と私は漱石氏を迎えて訊いた。

「勝手が判らなくってまごまごしているのは可哀想と思うたから……。」と言いかけて氏は堅く口をじて鋭い目で前方をにらんでいた。私は氏がその西洋人を旧知のウッドなる人を見違えたのだったろうと考えてその以上を追求して尋ねなかった。

 やがて時間が来て待合室を出た一同は、ぞろぞろと会場に流れ込んで目の前に何十人という美人が現われ出たのを眺め入るのであった。漱石氏も別に厭な心持もしなかったと見えて、かつて本郷座や新富座の芝居を見た時のような皮肉な批評も下さずに黙ってそれを見ていた。踊がすんで別室で茶を喫む時も、一人の太夫が衆人環視の中で、目まじろかずと言ったような態度で、玉虫色の濃い紅をつけた唇を灯に輝やかせながら、茶の手前をしているのを氏は面白そうに眺めていた。その手前がすむとたちまち数十人のお酌が人形箱から繰り出したように現われて来て、列を作って待受けている我らの前に一ぷくずつの薄茶茶碗を運んで来るその光景をまた氏は面白そうに眺めていた。そうして京都言葉で喋々ちょうちょうと喋り立てる老若男女に伍して一服の抹茶をすするのであった。

 都踊を出て漱石氏はその儘下鴨の狩野氏の家に帰る心持もしなかったようであった。私は三条の私の宿に同道しようとも思うたのであったが、花見小路の灯の下のぬかるみの中に立って、漱石氏に、

「『風流懺法』の一力に行って見ましょうか。まだ一、二時間は遊ぶ時間があるだろう。」と言った。

「ええ行って見ましょう。」と漱石氏は答えた。

 都踊時分の一力は何時も客が満員であると聞いていた。とても座敷が明いていないだろうと思いながら、私は前月知り合いになった仲居の誰れ彼れに交渉して見たら、幸に一つの座敷が明いているとの事であったので、その座敷に上った。『風流懺法』に書いた名前の舞子はなかば以上顔を見せた。けれどもそれは舞子たちのみであって、姉さんたちの芸子は新らしい顔ばかりであった。その中におつねさんという顔も美しくなければ三味線も達者に弾けない、服装なりも他に比べて大分見劣りのする芸子が一人混っていた。それが何かにつけて仲居からも他の朋輩からも軽蔑される様子のある事が痛ましく眺められた。私は此の芸子の名前がお常というのであった事を何故今でも記憶しているかと言うと、それは漱石氏の次の言葉を今も忘れずに牢記しているからである。

「あのお常さんという女は芸者を止めてよろしく淑女となるべしだ。」

 私はこの言葉を聞いた時に覚えず噴き出して笑った。漱石氏もまた笑った。

 燭台の蝋燭ろうそくの光は何時いつもの如く大きく揺れていた。仲居の大きな赤前垂の色は席上に現われたり消えたりした。三味線の糸の切れる音や、舞扇の音を立てて開く音なども春の夜の過ぎ行く時を刻んで、時々鋭く響き渡った。そんな時間が経過しているにお常さんの姿も席上から消えてくなってしまい、多くの芸子舞子の姿も消えて失くなってしまった。漱石氏はその手に携えていた書家が持つようなスケッチ帳を拡げて舞子に何かを書かしていた。それは先刻お常さんが淋しい声で歌った唄の文句であるらしかった。舞子の頭にかざしたくしの名前が花櫛という事や畳の上を曳きずっている長い帯をだらりという事や、そういう名称なども舞子の片仮名交りの文字でその帳の上に書きとめさせていた。

「それでいい、なかなか千賀菊ちがぎくさんは字がうまいね。」などと漱石氏は物優しい低い声で話していた。千賀菊というのは『風流懺法』で私が三千歳みちとせと呼んだ舞子であった。

 多くの舞子が去った後に残っていたのは、此の十三歳の千賀菊と同じく十三歳の玉喜久たまぎくとの二人であった。二人とも都踊に出るために頭はふだんの時よりももっと派手な大きな髷にっていた。花櫛もいつものよりももっと大きく派手な櫛であった。蝋燭の焔の揺らぐ下に、その大きな髷を俯向うつむけて、三味線箱の上に乗せたスケッチ帳の上に両肱を左右に突き出すようにして書いている千賀菊の姿は艶に見えた。

 私たちはその夜は此の十三歳の二人の少女と共に此の一力の一間に夜を更かしてそのまま眠ってしまった。

 暁の光が此の十三歳の二人の少女の白粉おしろいを塗った寝顔の上に覚束なく落ち始めた頃私たちは宿に帰る事にした。二人の少女は眼を覚まして我らを広い黒光りのしている玄関に送り出して来た。其処そこには我ら四人の外一人の人影もなかった。二人の少女は大きな下駄箱の中からただ二つ残っている下駄を取り出して私たちのために敷台の下に運んでくれた。我ら二人が表に出る時二人の少女は声を揃えて

「さいなら。」と言った。漱石氏は優しく振り返りながら、

「さよなら。」と言った。私は今朝漱石氏がまだ何も知らずに眠りこけている玉喜久の濃い二つの眉を指先で撫でながら、

「もう四、五年立つと別嬪べっぴんになるのだな。」と言っていた言葉を思い出した。私は京都に来て禅寺のような狩野氏の家に寝泊りしていて、見物するところも寺ばかりであった漱石氏を一夜こういう処に引っぱって来た事に満足を覚えた。昨日狩野氏の門前では何の色艶もないように思われた春雨が、今朝はまた漱石氏と私とを包んで細かくあでやかに降り注ぎつつあるように思われた。

 その日私たちは万屋でたもとを別って、漱石氏は下鴨の狩野氏の家に帰り、私は奈良の方に向った。

 漱石氏の「虞美人草」の腹案はその後狩野氏の家でいよいよ結構が整えられたらしく、その月の上旬に帰京し、私は法隆寺の前の宿に泊って短い「斑鳩物語」の材料を得た。

 京都に於ける漱石氏の記憶というのもこれだけに過ぎぬ。もう少し長くなる積りで書いて見たが、書いて見るとこんな短なものになってしまった。

 その後漱石氏はまた一度京都に遊んで、祇園の大友という茶屋で発病してその家に十数日横臥し、介抱のために妻君が西下して来たような事もあったとの事である。然しその頃の漱石氏の消息は私は委しくは知らない。ただ横臥した家が祇園の茶屋であったという処から推して考えて見ても、その時の漱石氏はもう寺ばかりを歩いて居たのではなかったろうと想像される。千賀菊は数年前請け出されて人の妾となり、既に二、三人の子持であるという事を寸紅堂の主人が何時か上京のついでに話した。玉喜久は今なお祇園の地に在って、姉さん株の芸子である事を一昨年京都に遊んだ時に聞いた。当年の二少女は一夜の漱石氏の面影を記憶に存しているかどうか。

底本:「回想 子規・漱石」岩波文庫、岩波書店

   2002(平成14)年820日第1刷発行

   2006(平成18)年95日第5刷発行

底本の親本:「漱石氏と私」アルス

   1918(大正7)年113

初出:「ホトトギス」

   1917(大正6)年2~6月号、9月号

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※〔〕内の編集者による注記は省略しました。

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2009年1228日作成

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