無頼の徒の芸術
折口信夫
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我々の生活してゐる明治・大正・昭和の前、江戸時代、その前室町時代、その前鎌倉時代──その鎌倉から江戸迄の武家の時代と言ふものが、どの時代でも同じやうに思はれますが、違つてゐます。武家の生活が型をもつて来る時代、それをかためる時代があり、──武家が土地に対して執著の少い時代と、土地をはなさない時代とがあります。民族性格からは、土地を自由に考へてゐますが、これは事実は明らかで、合戦記等の生活を書いたものには、あるものが旗挙げすると、その大将が国々を歩いてゆくうちに、大勢の人がつき、最後に行つたさきで生活します。義仲が信濃を歩くと、それについて都迄這入つて、その人々は信濃には帰らないで都ではてゝしまひます。かう言ふ例が地方の豪族には多く、土民の歴史はそれを考へぬとわかりません。それがいつしか時代と共に、武家が土地に執著するやうになり、大名の国替へで擾乱を起したりしますが、幕府のその国替への政策は無謀のやうですが、それがかつての土地を自由に思つてゐた時以来の考へであり、徳川の初め以来さう考へてゐたものが、治つて来ると土地への執著と共にさうゆかなくなります。
土地をうつしてゆく武家の生活の起りはどうか。系図を見ても歴史を見ても、土著の家と言ふのはなく、皆うつゝてゐます。相州小田原の早川氏が中国に来て、小早川の家を開いてゐるやうな例がいくらでもあります。伯耆の名和氏は、懐良親王につき九州へ下つて、八代辺を根拠地としてゐ、遠く琉球迄渡つてゐます。これは武家時代に初つたのではなく、昔からその生活法が行はれてゐたのが、次第に土地に根を下すことゝなつて、今日最後迄根を下さず残つたものが、所謂山窩と言はれるものです。これはおそらく諸国を転々してゐた流民の最後です。昔、土地を確然ともつてゐる人達の外に、周囲をまはつて来る今日の山窩の如き種族が、いくつあつたかわかりません。さう言ふものに、記紀にも見えてゐる海士の民があります。それらの連衆が多く前には文学を、日本の古代生活の上に供給してゐました。その海士が自分達は文学を失つて、のんきな歌人などの間に、「あまをとめ」等と言ふ語となつて残りました。
それが、土地をもたぬものは奴隷の如く考へられてくると、土著を始める様になり、世の主な流れにならつて生活します。その土著を誇りとする時代にあつて、ある一部のものたちが土著しきらないうちに、時代が変つてしまひます。それが又、平安朝時代から鎌倉時代になると、さう言ふ土著でなくともよいものが力を得、復活し、武家は諸国を、部下を従へて次々と歩きます。行く先々で土地を占めて其処におちつき、又あるものはそこをはなれ、はなれたものが又おちつきます。
疑問は、武士階級がはたして何処から出て来たかであります。武士階級は、平安朝の武官の階級ではなく、当時武官は結局文官と同じであつて、武士はそれとは違つて、地方から出たものです。武官・武士、この二つが調和したのが平家です。
武士と言ふ語そのものも起原がわかりません。何の為にこんな字を作り、こんな字が現れたのかです。武士の語以前、野伏・山伏等の語があり、これは仏教上の修行者です。この野伏・山伏が脱離して武士の語が出来たのではないかと仮に考へてゐます。たけ〴〵しい士と解するよりは、かう考へた方がまう一つさきを示してゐます。武士階級には、武官から奴隷のもの迄あり、すべて皆武士であつて、考へるべきは、武士の語が後には印象が綺麗になり、武士と言ふと大名を考へますが、そんなものばかりではありません。たとへば、合戦となると、百姓が竹槍をもつて出て来て落人を殺してものとりをしたりしますが、同時にたのまれて戦ひにも行き、都合が悪ければ盗人もやります。道徳などは、それは団体の道徳であつて、団体をはなれゝば道徳などはありません。その村だけの、村と言ふよりは永住の土地をもたない一部の人々の団体の道徳を守り、一致した行動をとります。そんな連衆が巡つてゐて、時代が変つてもゐます。応仁の乱等があると、それがどこからともなく、どか〳〵とやつて来ます。大坂の冬の陣・夏の陣などにも寄り集つてやつて来ます。一人づゝ来るのではなく大勢をつれてゐます。移動村落です。
それが落ち著いたのは江戸時代です。今迄動いてゐたものが土著してしまひ、残るものはなほ歩いてゐて所謂非御家人となつてしまひます。そんな時代に、御家人になれないものは都会へ出て来ます。それがどうするかと言ふと、人入れ稼業を初めます。こゝで江戸の奴の生活が出て来ますが、この奴の生活が一番近代的です。近代的だと言ふのは不良です。不良の徒の生活がいつの時代にも一つのもだん味があります。江戸時代のそれが奴です。これが世を風靡して、高い位置についてゐる人にも伝染し、旗本奴となり、又京都迄伝染して公卿や宮中の女の人にも奴風が模倣されます。これを歌舞妓風と言つてゐます。幕府がどんなに圧へても、圧へきれません。大久保彦左衛門など、その尻押しをしてゐます。つまり一番古いものと新しいものと提携してゐます。一緒になつて幕府のやり口を非難してゐます。後には大変な勢力となり、旗本奴と町奴と争つたりして、長兵衛が殺されたりします。その為に、それ自身が保てず崩壊しますが、この風は悪いことには違ひありませんが、時代を推進する力となつてをります。
この風が、もしなかつたとすれば、江戸の文学はあんな形では出なかつたと思ひます。江戸の文学は、歌舞妓者の文学、つまり無頼の徒の文学です。無頼の徒の情熱ですべてを突破して出たもの、これが江戸の文学です。江戸の文学が何故元禄中心で大きく、後は下り坂となつたかは、歌舞妓風と官憲の力の衝突の静まる時代、調和の時代がそこにあるからです。そこには大きな情熱があります。圧するものと圧されまいとするものとの情熱です。時代の力とうちあつて圧しきれない処に、その価値があります。近松・芭蕉・西鶴にも、この無頼の味があります。西鶴のよさは、無頼の味です。無頼の力で、人が顔をしかめるやうなことを平気でどん〳〵書いてゐます。近松にも、戦国生き残りの無頼の型があります。近松の文学には、戦国生き残りの生活方便として軍書読みの生活が、流れ込んでゐる型が見えます。隠者と言ふ語がありますが、江戸の文学者に限つて言へば、隠者の立ち場でものを見てゐます。隠者として、無頼の味をもつて、世間を見てゐます。言ひたいことを言ひ、書きたいことを書いてゐます。それを一蝶などは余りやりすぎたので、やられてゐます。この隠者は幇間のやうなことをやつてゐ、歌を作り、文を作り、貴族の子弟を教育してゐます。その主眼は男女のものゝあはれを教へる、手紙の書き方・歌の作り方を教へてゐます。それを、新興特殊階級の遊女のもとへつれてゆき、遊女は遊女でそれに対する方式を作り上げ、発達させてゐますが、それらは皆無頼の隠者に教へられてゐます。江戸の文学を推進した力は、遊女の力です。
我々の国には、隠者が平安末から現れて、貴族・勢力家の家々へ自由に出入してゐました。歌を作り、文を直したりしてゐました。これは個人として社会以外に出たものです。この者は、階級の別にしばられることなく、大抵の階級に自由に出入が出来ました。芸能の田楽・幸若・猿楽等にもこれを認めることが出来ます。つまり、社会外の人達がある日に限つて、松の内とか盆とかに限つて、家々に出入出来る自由が与へられてゐて、信仰と芸能の両方をもつてゐます。さう言ふ芸人達は破格の取り扱ひをうけてゐます。つまり社会外の社会のみでは工合が悪く、信仰行事をとり行ふと言ふ型をもつてゐます。これによつて家々に這入つてゆきます。田楽・猿楽でも、もとはしれてゐます。定つた日に村々の主な家を祝福にゆくのですが、芸能が発達し次第にぱとろんがふえて来ると、結局附属がわからなくなります。興行団体の色彩をもち、社寺をはなれて、信仰行事の色彩なしの芸能となります。併し芸能は信仰から出発してゐます。神社の神人はその信仰を普及する為に芸能を行ひます。大和猿楽も春日につき、興福寺・七大寺に関係し、さらに諸国をまはります。
さうしたなかには信仰の中心をふり落す団体もあります。一例は平安朝の祇園の信仰です。日本的に言へば、素盞嗚尊、自由に言へば牛頭天王の信仰です。祇園神人は京のみでなく地方へも出て行きます。最盛んであつたのは、鎌倉をすぎて室町戦国の時分ですが、芸能が非常に発達してゐました。祇園囃子がそれです。これはかつて、祇園の信仰でもち歩かれた一つの神輿、又はそれに類似のものが渡御になる道の楽です。併し祇園の芸能はそれにとゞまりません。信長は異風の装ひをしましたが、あれには型がありました。つまり祭りの昂奮にまきこまれたもので、都から来た祭りの行列にまきこまれたものです。祇園の神人は、他の祭りにも放免と言ふ名で参加します。その型は歌舞妓に残つて、車引などに出てゐます。
ともかくさう言ふ変つた服装が祇園信仰の神人行列中にあつて、世間の人は皆真似てゐます。この異風は当時の一番もだんなものです。結局時代を下ると歌舞妓風です。歌舞妓の語はかぶく、乱暴の振舞ひをする事です。それが固定して、かぶきが芝居につき、歌舞妓のうちに、寛闊・六法等の語が出ます。六法などは、やはり寺の奴隷六法法師の動作で、そのねつて歩く動作が芝居に残つたものです。つまり神人でも奴隷でも一つの傾向になつて来て、同じ流行によつて流れてゆくやうになります。寺では奴隷のことを候人と言ひ、或は日本流にさむらひ法師とも言ひますが、寺での位置はわかりきつてゐます。豪族についてゐるさう言ふ連衆がさむらひです。それを後には、内容が変つて、さむらひと言ふと才分の高いものを言ふやうになります。
つまり、日本の芸能・文学が、我々の板につき、我々のものになつたのは、低い階級のものゝ為事が認められ出してからのもので、この低い階級のものは皆宗教家です。これらの人々は、皆社会外の社会にゐて、無頼の徒です。土地もなく、祭りの時だけ許されて無頼が出来ます。平安朝末の法師達の振舞ひはこれと同じことです。これが近代迄も社につき、又ははなれて動いてゐて、社につく神人が、山や川を越えて御札をくばつて歩いたもので、その行動は無茶苦茶なことが多かつたのです。これらが下級の武士の出て来る処となります、かうして、近代の芸能にたづさはるものと、信仰生活にゐる人々の中のある部分と、武家のある階級は、皆一つであつたと言ふことになります。
底本:「折口信夫全集 21」中央公論社
1996(平成8)年11月10日初版発行
底本の親本:「折口信夫全集 第十七卷」中央公論社
1967(昭和42)年3月25日発行
初出:「水甕 第二十三巻第六号」
1936(昭和11)年6月1日発行
※底本の題名の下に書かれている「昭和十一年六月「水甕」第二十三巻第六号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:植松健伍
2019年9月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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