能舞台の解説
折口信夫



此会の此役は久しく、先輩山崎楽堂さんが続けられてゐましたが、今度は私が代つて申すことになりました。謂はゞ翁の替りに、風流が出て来た様なものです。とは申せ、私にはお能の解説などゝ謂つた処で、全くの門外漢でございます。約束の多い舞台について、完全な解説などは出来さうもありません。唯、何処か一点づゝでも、皆さんの御参考になる処があれば、それで結構だと思うて出た次第です。

偖、先程皆様も御覧になりました「小袖曾我」梅若さんの御兄弟で、ちようど程よい年輩トシバイで、景英さんは如何にも思慮深い十郎そのものであり、安弘さんは、又元気な而もいぢらしい処のある能の五郎らしくて、感じ深く拝見しました。能に於ける曾我物は後の語の世話物とでも申しませうか、さうした意味のものゝ様です。なる程かうして観てますと、歌舞妓などゝ違つて却つて、今様と申しますか、近代的な感じが致すのも、不思議なもので御座います。

私の話は、当節のお能の上を語るのではなく、ずつと古く、譬へば梅若に関したことで申しましても、丹波や、或は伏見等で行はれてゐた時代に戻つてお話したいと存じます。そして其を話の本筋、お能の舞台にかけて話を進めて行くやうな事にしたいと思ひます。御覧の通り、最初からこんなに立派なお能の舞台が出来てゐたとは、誰しもお思ひにはなりますまいが、──尤、この会館の舞台は、仮設の物で、話の対象とするには完全なものではありませんが──譬へば此「橋掛」と言ふ長い廊下の様な処も、長さは実は色々だつたので、五間、七間乃至十一間と言つた長いのもありました。又、大概はこの様に本舞台の横についてゐますが、これが後についてゐるのもありました。現に京都の片山家の舞台にそれを見る事が出来ました。勿論、「鏡板の松」などもありやうはなかつたのです。大体、お能と言ふものは、どこからでも見られる様に、見物は舞台のぐるりの何処にでも控へてゐられるやうに出来てゐます。是は、お能と言ふものが、多くの見物人を本位としてゐなかつた事を示すものなのです。只一人の貴人、或は一家の主人と言つたその時の主座の人にのみ観せればよかつたのです。さうした相伴に見るものは、自由に見ることが出来る。勝手に芸をやつてゐるから見たい者は勝手にどこからでも御覧、と言つた自由な観客席をこさへて居たのです。その一つの例に、江戸柳営の町入能と言ふのがあります。あれがさうで、将軍の上覧の際、特に町人共にもお能拝見差許すと言つた意味なのです。

偖、前にも申しました能舞台は、その他の点に於ても、元来かうした完全な形式を備へてゐたものではありませんが、それでは、古くはどうであつたか、お話して見ませう。始めは多く、でやつたものだと思はれます。所謂、「庭の能」で、莚などの上でしたものゝやうです。だから勢ひ、勿論平舞台です。神社仏閣その他のぱとろんの庭で行つたものでせう。それがやがて舞台めいた小高い物、所謂露台を造つて、その上で演じる事になつたものゝやうです。それとてもきまつた方式があるのではなく、随分自由だつたものと考へてよいと思ひます。舞楽の舞台のやうなものになつた事もあるでせう。其には舞楽の影響もあつたかも知れません。その外に、「相撲節会」と言ふ儀式がありましたが、この場合の影響も舞台に現れてゐるのではないかと思はれます。又、移動舞台の名残は「曲舞」に残つてゐました。舞車の曲などを見ても、さう思はれます。

芝能又は芝居能と称せられるものは、築土塀の事を芝居と称することから見ても、芝の上に居てするといふ事ではないのが訣ります。謂はゞ土壇の上でするのです。奈良の若宮祭りの能が、今日まで、その俤を伝へてゐるやうです。

本道の事はすぐ訣りませんが、田楽と言ふものは、家の中でしたと言ふ記録は見当りません。大ていの田楽は庭の中門、──今も田舎では塀中門など言ふものを持つた建築が多いのですが──即、所謂、寝殿造りの中門の処で演ぜられました。それで、この演技で重要なものに、「中門口」と呼ぶものがあります。只一つ、中門から中に入つた記録が、「経覚私要鈔」と言ふ書に出てゐますのを、小林静雄氏が見つけて居られます。応仁元年五月五日の条に、「午刻猿楽参。楽屋公文所也。屏中門ヨリ入了。……」とあります。この「林」と言ふのは、即「松」の事でせう。「松囃子」──又松拍子・松拍など──と言ふ事は室町時代以下、江戸の末まで行はれてゐます。その松拍子などの中心になるものが、はやし即「林」だつたのです。当時、別にとりたてゝ言ふ程の事でなく、言はゞ家常茶飯事ですから、誰もその形容や用途は書き留めて置かなかつたのです。松拍といふ名称は行はれても、形式は次第に変つてゐたのです。記録的な文献がなかつたまゝで来たものと思はれます。つまり、始終お祭りやなんか祝言事でもありますと、「はやす」は元、木を伐ることです。「はやし」は伐つた大きな木の枝を幹ごと伐つて、これに当る事を後世にも松切マツキり又は松下マツオロしと言つてゐますが、それを、祝福すべき家へ担ぎ込んで、祝言を陳べ、又所作を行つたのです。中心に之を置くから「松林」(松囃子)と言つたものです。「囃」の聯想が深くなつて、はやされた木を忘れたのです。風流と言ふものにも、之に似たものが多かつた。場合によれば「林」を風流とも言ふが、団体の中心になるものと、個人々々の頭上なり、著物なりについてゐるものが、風流と言はれる様になつた。つまり風流をつけると、仮装した形になるのである。その俤を今も、千歳三番叟に附随して残つてゐる「風流」の類にも、見る事が出来ませう。そして、この松を担ぎ込んでそれを立て、その囲りで祝言を述べ、或は謡ひ舞ひしたものなのです。

この仮装支度の風流をつけたものが、風流芸として分化し、更に其が風流であつたことすら忘れて了つて、一番の能として独立したらしいものもあります。狂言にもその風流から出た事を露骨に示してゐるものがあります。

能で申せば、譬へば今日最後にある「猩々」などに、やはりある本芸の間に、飛び入りのやうに、して・わきなどの詞・所作などにきつかけをつくつて出て来る風流の一つが、人間以外の異類の物が所作するといふ考への芸能が、あれだけに発達して来たのだといふ事が想像せられます。

古来、この「鏡板の松」については諸説色々でしたが、私はまづこの「松」の名残だと解して居ります。つまり神降しの為に設ける訣だつたのです。自然木のあるその囲りで、一種の神懸りを起して、神事を行ふ。其が段々儀式化して来る。影向の松の信仰が其であります。春日の社の一の松で行はれる松の下の式も其なのです。かうした事から、「鏡板の松」を暗示されたと言ふ解釈が先輩高野斑山翁によつてなされて参りました。私も以前、同様に「ヘウヤマ」、山・鉾の前型の研究から、其に似たことを申して居たことでした。だが唯今は、私は前述の様に、「林」を持ちこんで、祝言を述べた松拍子の松のある処でなければ、神事芸能は行はれない、其で後漸く「松」を描く鏡板が出来て、一方だけ見物を遮断することになつたのだと考へて居ります。さうした事から又、橋掛りの一の松・二の松・三の松等に関しても、同様な事が言はれるのではないかと考へられますが、そこまで立ち入る事は些か危険です。

松の木をはやした「林」又は「松拍」と謂はれるものは、諸芸能に広く通用してゐたので、唯記録類に見える「松拍」といふのは、一唱門師の徒の為事の様に見えるだけであります。

神懸りの状態になると申しましたが、今日これから梅若さんの舞はれる筈の井筒にしても、又杜若、一寸異りますが、松風、其に二人静の様なものに、さうした物を見出す事が出来ます。お能の本質的な演出に、かうしたものを見る事が出来るのは、慥かに前述の私の考への一証左になると思ひます。一人の役が二人分の芸を演ずることになつて居たり、又二人が同時に一つ事を演じたりするのは、つまり神懸りの形が、芸能式に発達変化して来たわけなのです。

従つて能舞台の構造に関する従来の諸説中、神楽殿の影響を深く見過ぎる説は、私はあまり賛成致しません。これは却つて能舞台の発達した後の形の模倣が見られる位ですから、まあ大した参考にはなりません。又雅楽舞台の影響についても、何等根拠のない事です。今も数種見ることが出来ますが、「鎌倉御所」の絵図と言ふものに、能舞台に似たものが見られますが、この「鎌倉御所」と言ふのは勿論嘘です。ですがともかく室町時代の柳営又は大名屋敷の僣上した建物のぷらんに違ひはありません。此図面には、大抵所謂寝殿造りの「泉殿」が能舞台の役目をして居まして、客殿──寝殿の変化──から見ることが出来る様になつて居るのです。つまり泉殿がまづ、庭の芸が舞台の芸になつた最初の建て物と見てよいのだと考へるのです。

更に芸をするものは神聖なものと言ふ一種の信仰、これは、その演者が神になつて、神技をするからです。ですから、その演技に対しても、一種の尊敬を認め、遥か遠方からそれを拝すると言つた風です。今でも、能舞台の周囲に「白洲シラス」と称し、見所との間に一定の間隔を保つてゐます。庭の芸・道の芸の場合には桟敷であつた訣です。だから、客殿と桟敷との考へが一つになつて、後世の見所といふものは発達して来たことが察せられます。甚だ荒つぽい話し方に筋を沢山盛り込みまして、お訣りになりかねた御見物があつたらうと思ひます。

底本:「折口信夫全集 21」中央公論社

   1996(平成8)年1110日初版発行

底本の親本:「折口信夫全集 第十七巻」中央公論社

   1967(昭和42)年325

初出:「梅若 第七巻第二号」

   1939(昭和14)年2月発行

※底本の題名の下に書かれている「昭和十四年二月「梅若」第七巻第二号」はファイル末の「初出」欄に移しました。

入力:門田裕志

校正:しだひろし

2011年210日作成

2016年414日修正

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