根子の番楽・金砂の田楽
折口信夫
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今度秋田県北秋田郡荒瀬村根子といふ山の中の村から、番楽といふものが来る。番楽といふのは、奥州のあちらこちらにあるので、多く此字をあてゝゐるが、この字が当るかどうか訣らぬ。何かの参考になる様なお話をしよう。
日本の舞踊には、人間の性とか年齢とかによつて異るといふ規則がある。つまり、老人の舞ひ・処女の舞ひ・青年の舞ひと、此三つが、祭りの時に行ふ舞踊の重要な要素になつてゐるので、根子の番楽は、青年の舞ひが中心になつてゐる。併し、其中に青年のもの以外に独立してゐる舞ひもあるやうだ。尤、或部分は青年がするが、元から皆青年がしたとは言へない。
此は、出羽奥州に通じて行はれてゐる神楽系統の芸能の一つである。出羽奥州に行はれてゐる神楽といふものは、果して正確に、我々の考へてゐる神楽と言つていゝかどうかは問題だが、彼方では、凡そ神楽と言つてゐる。だが、神主・禰宜の神楽と、山伏の神楽とに、大体分れてゐる。ひつくるめて言へば神楽と言へるが、地方によつて、名が変り、同時に分裂してゐて、其地方特有の祭礼の歴史と結び付いたりもして、部分々々が残つてゐるといふ形になつてゐるのである。併し、此他に、出羽奥州を通じて、別系のものが無かつたとは言へない。別系のものがあつたのが、大きな神楽が這入つて来た為に、其中に取り込まれて了うた、と見た方がいゝのかも知れない。とにかく、簡単なものではなからう。
東北の神楽系統の芸能で、番楽といふ名をもつてゐるのは、凡そ翁・三番叟であるらしい。こゝの舞ひには、裏舞ひといふものがある。其に対して、元のものを表舞ひといふ。中央から西にかけて、古い芸を留めてゐるものが、もどきを持つてゐるのと同じだ。併しもどきよりはまう一層形のきまつたもので、もどきは、形が極つても即興的な意味をもつてゐるが、裏舞ひとなると、表舞ひと同じく固定して了つたものと思はれる。
不思議なことには、出羽奥州を通じて、部分々々に、偶然とは思へぬ一致がある。殊に曲目に於いて著しい。今度来る番楽の主体になつてゐる翁・三番叟にも、「松迎へ」の翁といふ裏舞ひがくつゝいてゐる。此は、奥州のにも段々ある。早池峯系統の神楽にもある。つまり、日本国中の神楽、或は其他の神事舞ひが、すべて翁・三番叟で統一された。其と同じ理窟で、此等のものが翁・三番叟をもつてゐるのだらう。
が、此翁・三番叟よりも主な処は、若い衆の舞ひだけに、能でいへば四番目物である現在物と、殆、同じ様なものが沢山ある。此が、この番楽の本態のやうに見える。此らのものを観た人は、率然として感じるだらう。此は、能楽の出羽奥州に残つた変型だと。併し、さう感じるのは、曲の内容だけで、台本もちがへば、所作に到つては非常にちがふ。何の通ずる処もない様に思はれる。が、今の能楽が古からあのまゝではなかつた筈だ。能の台本即、謡曲が変化して来てゐるのは、明らかな事である。だから、台本がちがふから両者が没交渉だといふ理窟にはならないし、所作のちがふのも、昔の能楽がどんなであつたかゞ訣らない以上、番楽と昔の能楽とが全然ちがつたものだといふ証明にはならない。とにかく現在の能楽とは、甚しくちがつてゐる。
一体、能の現在物は出所が大抵極つてゐる。大体、幸若舞ひから出てゐるのだ。番楽の台本は非常に断篇的なもので、能で言へば小謡みたいな部分、或は仕舞に関係してゐる部分だけ、と言つてもいゝ位、断篇的なもので、語の間違ひはしてゐるが、非常に要領を得た台本である。此は、奥羽の神楽の現在物に通じてのことで、幸若の文句と全く同じではないが、文脈は似てゐる。
処が、能楽との関係をさういふ風に否定するが、奥州の神楽の舞ひの源と思はれる、平泉の延年舞ひ其他のものを観ると、能楽と大分似てゐる点がある。能の謡ひを思はせるものもあるし、狂言の或種のものに近付いたと思はれるものもある。併し、平泉のを観ないと、能楽との関係が切れて了ふ。だから、此は考へ方による。平泉の毛越寺で行つてゐる延年舞ひ其他を先に観て了ふと、其に捉はれる。併し、此が必しも能から出てゐるとは言へない。恐らく後に、能楽・謡曲の影響をうけたのだらう。私はさう思ふ。
私は前にかう思つた。出羽の鳥海山は人眼につく山だが、此山を巡つて変つた芸能が分布してゐる。まだ西南の部分は訣らないが、他には飛び〳〵にあるやうだ。実は、今度来る番楽の先の候補──今春日本青年館に来た秋田県西馬音内の近く──田代にも番楽があるので、此が来なくなつて荒瀬のが来る事になつた。其田代が恰度鳥海山の南に当るのだ。又西北の麓には、ひやま舞ひがある。檜山とあてる様だが、此は必、ひやまといふ秋田辺の地名で、其処から移つて来た舞ひだと思ふ。此舞ひが、思ひがけなく我々を興奮させた。其後、鳥海山の附近を当つてみると、此に似た舞ひが相当に分布してゐる。それで、鳥海山の神楽といふものがあつたのではないかと考へた。が、其は大分当て違ひで、実は、もつと広く、奥州出羽に行き亘つてゐて、恐らくは奥州側から来たと思はれるものが、ずつと行はれてゐたのである。つまり、何処の舞ひもが其要素をもつてゐるといふ事になる。
今度来る番楽も其一種なのだ。
青年の舞ひといふものは、青年が、神事の中心になつた事から起つたので、起原的の意義を考へると、成年戒を授かる時の舞ひである。其印象が、何時までも残つたのだ。かういふ芸能をみる時、其処まで溯る必要はないが、何の為に青年が舞ひの中心になつてゐるかといふ点が大事なのである。
どうも、番楽其他、奥州に分布してゐる神楽の中には、何か訣らぬが、昔あつた、演芸種目をたくさんもつた芸能の末だといふ感を起させるものがある。どこか、統一があるといふ気がする。しかも、其元に当るものが思ひつかれぬのだ。我々は、何でも都から行つたと思つてゐるが、此考へは、ひよつとしたら間違つてゐるのかも知れない。曲目は、一致したものもあるが、無いのもある。其一致しないものに面白いものがあるが、何から出てゐるのか、どうも訣らない。かど〳〵の類似を集めれば、其はあるが、見当のつかないものが多い。
さういふ種類のものは、巫女舞ひ、即、神子舞ひといふべきものに多い。東北地方の神楽には、男が女に扮する場合が多い。我々からいふと、女装にしなくてもよい場合にもしてゐる。英雄に近い男性を現す場合にも、女性に扮してゐる。女形といふものゝあつた事が想像されるのである。
○
田楽は、古く田遊び(稲の豊作を祈る行事)の芸能化したものである。而も、今尚、田楽と称しながら、古い田遊び時代の俤を残してゐるものがある。とにかく、種々雑多な田遊び田楽が日本中に行はれてゐたので、その中の或ものは、脇芸である猿楽が非常な発達を示した。
田楽と猿楽との関係であるが、猿といふのは、水の神だといふ意見を、柳田国男先生が出さうとしてをられる。少くとも猿に似てゐるものをば水の精霊の一種だと思つてゐた様だ。水の精霊には種々あるが、その中、猿に類似したものが一番有勢だつたと言へる。猿が田の行事に関係あることは、猿聟の昔話等に依つても知れよう。猿楽といふ語も、多少これに関係をもつてゐる。其以外にも田楽には、猿が非常に関係を持つてゐる。
此田楽の重要な曲目をもつて独立したのが猿楽である。さうして、猿楽は段々盛んになり、田楽は衰へたが、衰へながらも保たれて来た。其は、社には、田遊び・神遊びの芸能が必要だつたからであるが、社又は寺によつて選択される時に、自由な選び方をしたので、どこのものも同じといふ事がないのである。これには、必然的な理由もあらうが、偶然の場合もあつたらう。殊に、社に田楽の残つた理由の一つは、幕府が、式楽に幸若、或は能楽を選んだので、諸国の社で其をまねて田楽を選んだのだと思はれる。或は、もつと自然な事情で伝つてゐるものもあらう。とにかく、諸処の田楽を綜合して、はじめて昔の形が訣るので、関西にも方々に残つてゐるが、関東にわりあひ有力に残つてゐるわけは、式楽といふ考へが働き掛けたのだらう。関東では、元の日光の田楽、王子権現の田楽、浅草三社の田楽が代表的なものだが、其と同じ様に名高い田楽が、常陸国久慈郡金砂といふ修験の山に保存されてゐる。此金砂山は、まう少し行けば、磐城国との堺に接した処なので(今は大分離れてゐるが)、常陸の平野から見れば、常陸の国の一番奥とみられたのであらう。そこに、修験の大きな根拠地があつた。早くから東西に分れたので、細い渓谷を隔てゝ対立してゐる。一体、修験の山は分離し易い。叡山・高野でも谷々に分れてゐる様に、よく二つに分れる。
東と西とでは、田楽の種目が大分ちがふ。各、大体四つづゝある。四方固め・獅子舞ひが共通で、他は違ふ。記録の上では、東の方が遅れてゐる。東では、初春に乱声といふ事を行ふ。鬼と猿とが出て、いろんな動作をするらしい。この乱声が中心になつてゐる。私は、昭和七年に西金砂のが水木浜に降りて来たのをみた。七十三年目毎に行はれる行事で、壺に這入つた御神体の鮑を奉じて海辺に来るのであるが、壺の水の入れ替へか、御神体その物を入れかへるのか、神主もはつきりと言はない。東西、数日を隔てゝ、水木浜へ神幸するのであるが、その途中、あちらこちらに滞在して、そこでも田楽を行ふ。私は、西の田楽だけを見たのだが、見てゐて少しの興奮も起らない。西の特色は一本足の高足である。此と、東の乱声とが両者の特徴らしい。尚、西では種蒔きと称してびんざゝらを摺る。
七十三年目に一度行ふのでは、人間一代に又と来ないかも知れない。余程詳しい記録がなければ記憶出来ない訣であるが、実は七年目に一度づゝ小祭を行ふので、大体記憶に残る。東の方は初春ごとに繰り返す。
東西で、お互ひに相手のを田楽ではないといふが、特殊な芸能を区劃する為にかういつてゐるのだらう。とにかく、昔から名高い田楽である。たとひ、今見て何の興奮も感じないとしても、もとの田楽の形を再現する為には、あちらこちらのを見て、ある限りの要素を集め、そこから不純な点を取り去つて見る必要がある。さうした点からいつて、金砂の田楽は重要なものである。芸術的価値はあつてもなくても、芸能の発生・歴史を考へる為には、見ておく必要があるのだ。
東金砂では、巫女舞と乱声とを主としてゐる、といふよりは、其によつて、西の方と区別を立てゝゐるやうだ。西は、それのない事を誇つてゐる。
乱声といふのは、鬼と沢山の猿とが出て来る。猿は日吉山王の廿一社をしんぼらいずしたと思はれる。つまり此は、山伏の山に特有なもので、山伏の山の春の行事には、必、鬼が出る。その鬼と、権現さまに関係の深い猿とが絡んで出る訣だ。
西金砂の方では、其に当るものが、種蒔きである。此は、西の方で非常に重要なものにしてゐるので、此あるが為に西金砂の田楽があると考へてゐる程だ。観て面白くも何ともないものだが、神社の芸能は、興奮が起つて来れば芸能であるが、興奮が起つて来なければ只の行事に過ぎない。唯、其時に、古くから田楽に伴つてゐる一種の見立て、即、感染呪術(かまけわざ)をやつてゐる。びんざゝらを持ち出して種を蒔く形をするのである。
古くは、金砂の田楽もれぱあとりいを沢山もつてゐて、簓を摺つて種々の事をやつたと思はれるが、今は固定し切つて了つてゐる。四方固めは、どんな芸能でも、日本式の芸能なら必、持たねばならぬ要素である。鬼・天狗・巨人などが出て、四方或は五方を踏み固める。又、獅子舞ひは、本来日本在来のものだが、今は外来要素の方が、寧、多くなつてゐる。其が、どんな芸能にも割り込んでゐる。此等のものは、古い田楽にも重要な位置を占めてゐたらうが、田楽の本格的のものではない。衰へたやうな形になつてゐる高足や種蒔きの方に重大な意味があるのだ。極簡単なもので、我々が真似して出来ぬこともないが、我々が勝手にやるのと、形式的でも田舎に伝つてゐるのとでは、意義がちがふ。見れば、何かの刺戟にならう。
我々の興味は、譬へば、まづ、田楽をみて、田楽に対する或基礎を拵へておいて、他と比較することだ。現に東京にも、二个所の田楽がある。其浅草三社・王子のものと見較べると、皆異つてゐる。其を寄せ集めてみると、原の形が出て来ると思はれる。
西では、東のは後から出来たので、田楽ではないと言つてゐる。或はさうかも知れない。併し、対立してゐる社とか山とかでは、互ひに排斥しあふのが常だから、見ない限りは訣らない。
○
実のところ、我々は、観てほうとしたゞけで、何の感じも残つてゐないのだが、まあ、一言だけ言つて置かう。
恰度、あの二つの組み合せが、民俗芸能の歩みを示してゐると思うた。つまり、一つは信仰的関係を離れ切らないもの、一つは其から離れてしまうたもの、といふ事が見られたのである。
で、田楽は、あんな単調なものだが、あれでかなり発達したものなのだ。昔の祭りの儀礼から、或点芸能化して、かなり発達した形が固定して、其が段々崩れてあゝいふ形になつた。面白くないのは、固定して崩れてゐるからでもあるが、又、元の形それ自身がまだそんなに進んでゐないからでもある。
私はあの後、柳田先生の賀の祝ひが大阪でもあつて行つたが、その時、私の少年時代からの友達である京大の西田が、丹波の田楽を三个所も活動写真に撮つたのを映して説明してくれたが、大分違ふ様だ。西田君の説明では、田楽でも、京都から出たのと、京を経過してゐないのとがある。丹波のは京を経過したもの、我々が見て廻つた遠州の田遊び、田楽は京を経過してゐないといふのである。その区別の大切なところをよく訊かなかつたので訣らないが、或はさういふ事があるかも知れない。しかし私には、まだ田楽の形が纏つて頭に這入つてゐないのである。前号でも言うた様に、田楽は何処でも片輪になつて残つてゐて、甚しいのは、元の田遊びに逆戻りした様な形で保存されてゐるのもある。だから、各所のものを集めて比較をして見ると、その全貌が窺はれるかも知れないと思ふが、しかしそれとても、田楽の盛りであつた時代以後の附加が必あるに違ひないから、さういふ計画も或点まで危険である。又、みな見ると言うても、我々の観察眼は不正確であるから、どうしてもとおきいに撮る必要がある。
此間の田楽には、芸能的な部分が殆ない。芸能的なと言へば、一本足の高足──あれは一足といふものだが、広い意味では、あれでも高足である──に乗るのがある。あれは曲芸をとり入れたのだが、田楽では大事なものである。しかしそれよりも、舞踊的なものが殆ない。田楽の芸能化とは舞踊化した事であるが、其がないのである。たゞ、西の田楽の種蒔きを蓮葉踊りというてゐるが、単に、蓮の葉の様な笠を冠るからさういふらしいので、あれは踊りといふよりは悠長に歩いてゐるので、其を種蒔きといふ田の行事で解釈したゞけである。編木を摺つての舞ひの技巧や興奮がなくなつてから、その動作を種蒔きで説明したので、段々種蒔きの動作に近づいたのだと見られる。で、かういふ風に考へる事が出来相だ。つまり、あゝいふ、種蒔きか何か訣らぬが、田を目的として動く形を模した動作が、早くなり、複雑になつて、田楽の舞ひの型が出来たと。が、あれはさうではない。一体、田楽は田遊びだけではあゝはならなかつた。呪師の芸能が這入つてあれだけになつたのだから、我々は、もつと呪師の内容を調べねばならない。
とにかく、先日の田楽で、田楽らしいと、我々普通の知識で言へるのは、種蒔きと高足とだけで、他の種目は忘れてしまうてゐるのである。
番楽の方にも、信仰的な匂ひがあると言へばある。譬へば、翁系統のものがある事だ。番楽といふ語の意味は訣らないが、翁を意味してゐるとも見られ、又、あの一聯の舞ひが其から延びて来たとも見られるので、さう考へれば、愈信仰的な匂ひがある訣だが、舞ひ自身には、もう信仰の形がなくなつてゐる。単に、翁があるからと言ふのだつたら、歌舞妓芝居にだつてあつた。詰り、民俗芸能には翁・三番叟が出ないと始まらない種類のものが多いので、別にそんなものが出なくても構はないと思はれる社々の神楽などにも相当に翁・三番叟から始まるものがある。でないと民俗芸能の約束に叛くと思うて容れて来たのである。で、あの番楽は、翁が基で延びて来たか、翁が後に這入つたか、両様に考へられる。私達の既に考へて来た事は、一つのものが次第に形を崩した演出が行はれた。其が翁と三番叟との関係で、更に其が形を変へ、意味を変へて演出された、と見られるので、大体はさうなのだが、個々何時でもさうだとは言へない。番楽も、さうだと言へるかも知れないが、先、さう決めてしまはない方が本道だと思ふ。あの中には、番楽そのものに関係のない新しい要素が這入つてゐる。譬へば鐘巻きに蛇が出るなどは、元からあつたものでないに相違ない。恐らく人形芝居の真似であらう。さういふ風にして後から割り込んで来たものがある。だが、此は西角井君の領分だが、東北の神楽系統のものには出入りが激しくて、含んでゐるもの・ゐないものが入り乱れてゐるのだが、大体、漠然と見て、かういふものが這入つて来れば神楽といふ気がするといつたもの──其を容れないと芸能に貫目が著かないとでも考へてゐさうなもの──がある様だ。
又、地理的に言ふと、津軽領と南部領と、津軽領の影響をうけた秋田と、此二つは、地理的には区劃があつて、はつきり別れてゐるが、神楽に限つて、かなり共通したものを持つてゐる。此は山伏の神楽とか禰宜の神楽とかいふ事を土台にして言ふ事は出来ない。どの神楽か訣らないが、自由に南部領と津軽領との間を動いてゐた事が言へるのである。
更に注意すべき事は、東北各所の神楽系統のものが、若、古い昔に別れてゐたのなら、台本にもつと変化があるべきだが、台本が何れも近似してゐる。此動きが比較的近代で、その以前はどこが元であつたかは訣らないが、とにかく或地で永く保たれ、相当芸能の価値を持つまでに進んだものが、或時期に諸国に散らばつたと見られるのである。
尚、あれを見て感じた事は、見物に芸能を感じる能力がなければ続いて行はれなかつたらうと思はれるものがある事だ。譬へば、蕨折りなどは、あの文句から女の所作を観照するだけの能力がなければ面白くない筈だ。如何に演ずる人が主要なものだといつて繰り返しても、見る人が訣らなければ続かなかつたらう。津軽領・南部領の人達にも、あれを観照する能力があつたと見なければならぬ。
蕨折りは以前にも見たが、何をしてゐるのかよく訣らない点があつたが、此間のでよく訣つた。あゝいふものでも、幾つも見たから解釈がついたのである。
次に、あの台本であるが、都の方で出来たものが東北へ持ち運ばれたのか、東北根生ひのものか、其はいづれとも断言出来ないが、大体、番楽その他、神楽系統のものが、含んでゐるものによつて、此はどういふ種類のものであるかといふ事だけは見当がつく。平泉の方へ行つて見ると、能楽以前の延年舞ひも形式化して残つてゐる。能楽・狂言の影響をうけて、又原へ戻つたと見られるものもある。一方、平泉あたりで、能楽或は能楽以外の古いものに添うて発達したもの、其とは何の関係もなく出来たもの、など種々あつて、中には、能の現在物──武家社会の人情・事件を写した、当時の世話物で、能楽に於ける幸若的要素──幸若は能にとり入れられて現在物になつた──と、曲目も、其に通じてゐる感情も殆似てゐるものが少くないが、しかし、其によつて直に、古く幸若が東北へ這入つてあゝした形で残つたとは断言出来ない。根子の番楽の中、曾我や鈴木三郎の様な現在物式は頗る乱暴で、改良剣舞の様なところもあるが、東北の芸能には通じてあゝした要素があるのだから、此を直に能楽の原の形と見るのは危険である。別にさうした系統のものがあつたのだらう。あまりに能楽と似な過ぎる。台本も違ふ。勿論、能楽も昔は今の様に納まりかへつたものではなく、活溌なものであつたらうが、さうしたもので説明するよりも、能楽と違つたものゝあつた事を考へて見るのが本道だと思ふ。
とにかく、この間の大会は、日本の芸能にどこまでもつき纏うてゐる要素──念仏──を避けてやつた訣だ。事実、念仏要素は、大抵の舞踊・歌謡に這入つてゐるので、陰惨な気持ちがさせられるが、此度はそれがなかつた。その点もの足りなかつたが、いつになく陰鬱な気持ちから解放されて非常によかつた。
底本:「折口信夫全集 21」中央公論社
1996(平成8)年11月10日初版発行
底本の親本:「折口信夫全集 第十七卷」中央公論社
1967(昭和42)年3月25日発行
初出:「日本民俗 第四、五号」
1935(昭和10)年11、12月発行
※初出時の表題は「解説」「大会所感」です。
※表題は、東京日比谷公会堂における第一回民俗芸能大会での三つの芸能の上演に向けての解説と上演後の批評をまとめて、底本の親本編集時に与えられたものです。
※底本の題名の下に書かれている「昭和十年十一・十二月「日本民俗」第四・五号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:フクポー
2019年3月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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