日本芸能の特殊性
折口信夫



私の演題には、二つの説明して置かなければならぬことがあります。第一は芸能と言ふこと、第二は特殊性と言ふことです。特殊性と言ふ語は、実は説明しなくともすむ事はすみますが、芸能と言ふことは、説明しなくては、承服なさらない方もあると思はれます。私の使ふ意味は、只今世の中で申して居る演芸──演芸と言つても漠然として居ますが、常識から申しまして演芸と言ふことで頭にはひつて来る、さう謂つた内容を持つものを芸能と言ふのです。尤此は、古くからある語でして、支那にもある芸能といふ熟字とは、起源は別だと思ひます。日本で「芸」と言ふ語と「能」と言ふ語とがあつて、それが自然に融合して来て、更に支那の芸能と言ふ熟語の意味の印象なども含んで来たものであるやうです。ですから、時代によつても用語例は違ひますし、人に依つても亦、其が違つて居ます。殊に語そのものゝ概念からして、はつきりして居りません。さう言ふ規定をしてかゝらぬ昔の事ですから、おなじ一人の人であつても、場合によつて色々な用語例をとつて居ります。譬へば梁塵秘抄口伝集などにもありますし、或は下学集あたりにもあります。下学集の芸態部──昔から、態の略字を能と書いたのです。即「能」は、ものまねなのです──を見ますと、とんでもない分類違ひのものまで這入つて居りますが、昔の事とて為方はありません。世阿弥の十六部集などでも可なりまち〳〵の意味に使つて居ます。それほどこの語は、時代と人とによつて同じでなく、同じ人同じ時代にすら、実に色々な違つた用語例を持つて居るのです。本質的と言つた意味の芸能、特に巧い芸能、或は個性風なもの、さうした風に使ふから、語が幽玄めいて聞えます。それから多くたゞの芸能、それから更に低く演芸風のものまで申して居ります。この意味が芸能の普通の用語例と見られるのです。

それから特殊性と申しますのは、此も我々がどう言ふ風にして研究したら宜いか、私共は斯う言ふ風に考へて居ります。まづ芸能と申しますものは、芸術に達しないもので芸術に至る素材であります。芸術になれば、芸能ではないのです。つまり民俗芸術の技術化したものなのです。其がまだ、芸術としての格と品とを具へないものなのです。その芸能をば、芸能のもつて居るてまと申しますか、──学術の上の語は出来得るだけ現在の語に近く表さうと思ひますが、この語なども、主題などゝ言ふ語で訳して居ります。そこに大変な間違ひが文学などで起つて来るのです。それで為方なく、てまと言ふ語を使ひます。──てまをば発見することが、我が国の芸能の特殊性を引き出して来ることになるだらうと、斯う考へるのです。かう言ふ特殊性、かう言ふ特殊性、と言つた風に、一々挙げて居つては限りもなし、又遺漏が出て来る訣です。で、とにかくさう言ふ特殊性を築き上げるまでの各方面の事実を申し上げたいのであります。併しそれ程の余裕もないこの話では、引括めて言ふことになります。

源氏物語の若菜の巻を見ると「上の巻」は、源氏が四十になつた年でありますが、源氏の養女なる──この頃も公家には厳格には養子制度はあつて、名はなかつた──玉鬘が源氏の為に年の賀を致します。その時にまづ玉鬘が六条院に出向いて若菜の羹を献じます。それが済んで、再、正式の式場へ出て、又若菜を奉る式があります。前は略式の儀式、次は厳格な規定によつた儀式と謂ふ風に繰り返します。斯う言ふ行き方、日本の儀式には、さうした同じ事を重ねる約束があつたものです。単に二度くり返すだけに限りません。頻々と反覆するのです。最厳粛な宮廷風の音楽、譬へば前に申した年の賀の祝ひの年賀音楽などもさうです。予め調楽、其から試楽を行ひます。普通此と似た場合には、其に次いで庭座の楽──此は年の賀の祝ひの場合は別だらうと思ひますが、臨時祭──京都附近の大社々々に音楽を奉る祭り──には、調楽を行ひ、試楽を行ひ、それから祭りが出発するに当つて、庭の座の楽を行ひます。勿論社へ行けば、又そこで、楽を奏します。さうして、宮廷に還れば、還立カヘリダちの御神楽ミカグラを奏します。さう言ふ風に幾度も繰り返さねばならなかつたのです。我々が考へると、その間に本式・略式の区別があるのだと思はれますが、さう思はれない程、どの場合も〳〵、殆正式に行はれたやうに思ひます。さう言ふお祭り・お祝ひと同じ精神を持つた宴会の場合を見ましても、宮廷の御祭りの後の饗宴、大饗などの場合に、座が度々改つて、穏の座・宴の座などゝ言ふ風に重り行はれるのです。話は飛躍しますが、それと似た精神が日本の芸術、或は芸能の上に出て来て居るのではないかと思ふのです。

文学に於いて、芸能に当るものは、今言ふ大衆小説など言ふ種類です。江戸時代の戯作と称するものは、やはりこれなのです。戯作には殆、独創がない。又、事実、独創を故らに避けて居るやうに見えます。独創のあると言ふことが、罪悪でゞもあるやうに思つて居るのではないかと思はれる位です。何か気の咎める所があつて、自分の書いて居る所は、昔に拠り所がない。つまりある歴史的確実性がないと言ふことに当りませう。あまりそらごとに過ぎる。かう言ふ風に思つたのでせう。だから幾ら作物が重り出ても、昔のものゝ為立て直しです。だから遡つて行けば行く程単純な形に戻つてしまひます。時としては、昔の立派なものをば、意識して現代風に飜案してみようと言ふ風な企図も窺はれるのです。併し多くは、昔から伝つて居る低俗なものを、育てゝ行つたと言ふやうな、飜案の作物が非常に多い。さうするより外に、方法がなかつたと申しませうか。それは一つは人の心に這入り易い。受け入れる上に土台が出来て居るからであります。出来て居る土台は、代々続いて居ますから、その代々の人に適当に与へることが出来るといふところから、同じ態度が続けられて来たものと思ひます。

これとは又大分違つて来ますが、演劇の方、その中でたとへば、俳優の役割りの方から見て来たらどうかと思ひます。能を捉へて申しましても、能にして役・わき役がある。して・わきと言ふものゝ関係が、段々の歴史を経て能の上に遺つて来て居る。歴史を遡つて見ると、結局、してもわきも同じものではなかつたか。わき方から、してが出て来て、語自身矛盾したやうな事実に到達してゐるのです。それは能楽──猿楽能が元々他の芸、譬へば仮に田楽のやうな芸に附属したわき方芸であつた。それが段々田楽から独立し、田楽の主要演芸種目までを奪つてしまつて、自分が独立して来た。かうなると、元わき役であつた時代の歴史の印象は印象として持つて居る、それと共にそれ自体のことに、して役が出来る。さうでなくては、独立の実がないのです。そのわき役時代には、どんな形であつたかと言ふと、只今我々が能楽の舞台の上に、調和してゐるものゝやうだが何だか矛盾して感じられる狂言方の為事──あゝ言ふ職分に居つたものではないか、かう思はれます。能と狂言と言ふ分類の上の狂言ではなく、能の演奏中に交はる狂言方の為事を言ふのです。今見るやうに、わきと狂言との間に、あゝした隔りがあつた訣ではないと思ひます。段々一つの役が分化して次の役割が出て来る。又次の役方が出て来ると言ふ風にして、能役者の職分が出て来て居るのです。とにかく、其処にも一つの歴史を見ることが出来ます。

只今田楽に関聯して言ひましたから、ついでに田楽関係の事を一言します。田楽では「もどき」と言ふ役方がありました。この「もどき」と言ふ名は芸能には現代までも広く残つて居ります。東京などで言ふと、里神楽のひよつとこの役が「もどき」で、お面の名まで「もどき」と言ひます。この「もどき」役に当るものは、能を見ますとあらゆる所に顔を出して来ます。狂言なるものは、多くの場合「もどき」役であつて、その外の場合の為事が、わき役に直つて行つたと言ふやうな、幾分純正な方面をもつて居たと言ふに過ぎないのです。

譬へば能楽の中、最古く、最厳粛なものと思はれる「翁」を捉へて考へて見ますと、「翁」と「三番叟」の間にどれだけ区別がありますか。つまり、白い面と黒い面を替へると、従つて為事は変つて来ますが、その全体の持つて居る精神には殆違ひはない。結局、「翁」が出て来てした事を三番叟がまう一度現れてその説明をすることになるのだと思ひます。つまり三番叟は翁のもどきなのです。その「翁」の芸能が済むと、同時に、神能又は脇能と謂はれる番組になります。翁の芸にやはりその場合、その所、その人に妥当性を持たして、もつと適切に切実に演出するのが脇能であります。それが段々変化して能の五番能と言ふものが出て来たのだらうと、かう、大体能楽発生の方向を考へることが出来ます。

ほんの一例に過ぎませんが、何故斯う言ふ事をば、我々の文学・芸能の上でして居るのか。

尤、かうした事実は或は他国にもあることかも知れません。人間のすることだから、ない訣はないと思ひます。併しそれは比較研究の十分に行はれた上の話です。此だけでも言つておくことは其だけ日本芸能の傾向をはつきりさせ、考へ深めて置くことになると思ひます。比較研究の成績のあがつて来ない間、比較研究の準備として、かうした事もあらうかと言ふ問題を提出してゐると見て貰つてもよいのです。まう一度さつきの話の話しかけをひき続いて申します。宮中の御祭りの一番大きくて一番厳粛な大嘗祭を考へましても、祭事の行はれる大嘗宮は、実に二つの宮殿が建てられてゐます。その悠紀殿・主基殿における御行事は、殆同じ儀式を遊ばすと伺つて居ります。それは勿論、色々な説明の方法もありますけれども、結果としては、やはり同じ事の繰り返し──悠紀殿でなされた事が、主基殿でも遊ばされる訣なのです。宮廷についでは、まづ日本国中で最古くからの神道の様式・知識を伝へて居た、出雲大神を繞る社と家。此国造家で代替りになつた時に、新国造が京都へ上つて行きます。さうして出雲国造神賀詞を奏上しますが、前年と次の年と二度行ひます。この二度奏寿を行ふ理由も、解けては居りません。ともかくやはり複式に行ふ祭事の例です。

それにも自ら起源もあり、歴史もありませう。併し多くの場合、厳重な意味の起源と言ふことは知れるか、と言ふことをまづ考へなければならぬ。我々に知れるのは、ある遡源態度の到達点だけです。本道の起源には想ひ到ることはなか〳〵容易ではないのです。譬へば、言語の場合、語源など言ふものは忘れることが多い。ある語源が出て来ると、又先に語源があると言ふ形になつて居りますのが普通です。出雲国造の例で、はつきり考へられるのは、昔の人が新しく臣下として仕へて、叛きませぬと言ふ誠意を示す方式の繰り返されて居る所に因があるのだらうと思ひます。我々の側から申しますと、偉大な神に対して精霊の行ふ誓ひの式が極めて重大な意義を持つてゐました。その服従の誓ひは、場合によつては、誓ひの動作で以つてすることもあり、また時には、大きな神の言はれることを復誦することも多かつたのであります。さうした祭りを、我が国では昔から繰り返して居まして、宮廷に限らず地方でも行ひました。而も、宮廷には長く久しく遺りましたので、それが次第に様式化して芸能になつて行きました。このやうに、宮廷に忠勤を擢んでる誓ひをする儀式を、何時までも繰り返して居つた。それで国々の風俗歌、又東遊び──その歌──及びそれと併称せられた東国を中心にした風俗などが、出来たのです。さういふ宮廷になつたものだけでなく、又地方でもそれが模倣せられて儀式となり或は伝説化して、それが遺つて行きました。さうして又、其処に繰り返しの形式が出来たのです。

儀式の行動が段々変化すると、芸能になつて来るのでありますから、芸能の復演式の形をもつて来るのは、自然な事だと思ひます。所がそれならばさう言ふ芸能を通じてのてまと言ふものがあるか、あつたらどう言ふものだと申しますと、恐らく長上を祝福すると言ふ気分を出来るだけ表現しようとするにあるのだと思ひます。それが時によつて変ります。そこに種々の変化が起り、芸能の目的に分化が生ずるのです。

このとほり、日本の芸能の気分の上の傾向は、段々分化して殖えて行く。さう思ひます。唯音楽ばかりに就いて言ふと、音楽の技術が進まぬ間に、あまり進み過ぎた外来音楽に逢着してしまつた。その為、固有の音楽は急速に変化してしまひました。さうして、その音楽が仏教のてまをとり入れた為に、仏教の啓蒙風な、悲哀から道に這入らせようといふ態度が煩ひして、音楽そのものは非常に近代まで悲しい感じを与へるものでした。それが我々明治時代に学生として育つた者に、日本の文学・音楽は非常に悲観分子を有つて居ると教へられ、若い心を、非常に傷ましめられました。が、今になつて考へると、世間の人は、この悲しい声や、気分の音楽を、別に悲しい心で歌つて居る訣ではないのでした。譬へば巡礼歌を歌ひながら踊ることも、江戸で流行し、今もつて残つて居ます。

念仏踊りの歌は、盂蘭盆には、新盆を修する家々では、その家庭・座敷・主人の為の褒め詞にも使つて居ります。歌の持つて居る気分と、目的とがさう言ふ風に相距つて行くと言ふ事も、日本の芸能の上には、極めてざらにあることなのです。時間がありません。話の糸尻の結ばれぬ所は、質問で聞きついで頂ければ結構だと思ひます。

底本:「折口信夫全集 21」中央公論社

   1996(平成8)年1110日初版発行

底本の親本:「折口信夫全集 第十七卷」中央公論社

   1967(昭和42)年325日発行

初出:「日本諸学振興委員会研究報告 第六篇(芸術学)」文部省教学局

   1940(昭和15)年3月発行

※底本の題名の下に書かれている「昭和十五年三月「日本諸学振興委員会研究報告 第六篇 芸術学」教学局」はファイル末の「初出」欄に移しました。

入力:門田裕志

校正:植松健伍

2020年221日作成

青空文庫作成ファイル:

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