長唄のために
折口信夫
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私どもの様に大阪の町の中に育つた者にとつては、江戸長唄は生れだちから縁が少かつた。
上方では、旧幕時代から引き続いて、明治の中頃に到るまで、関東から来た芸謡は、すべて、長唄であらうと、清元であらうと、一中であらうと、新内であらうと、皆ひつくるめて、たゞ江戸唄と言つた。そしてどれも同じ様な三味線の節に、同じ様な歌ひぶりで歌つてゐた。
だからその後、明治三十年代になつて、上京して初めてこちらで時折、長唄や清元を聞いた訣だが、長唄にしても、清元にしても、これが所謂上方の江戸唄の系統のものかと驚いた程に、大阪で聞いた江戸唄の印象とは違つてゐた。おそらく、大阪ではじめて長唄を芝居へ入れたのは、斎入市川右団次(大正五年歿七十歳)であつたのだから、それ程大阪の町には、江戸唄は縁がなかつたのである。思へば不思議な事実である。
所で、長唄について、既にこれだけ改良せられて来たのであるから、私には、もはや改良せられる余地はないと思ふが、しかしどうしても長唄が濃厚に持つてゐる所の理想は、実は長唄そのものとは関係はないと思はれる。つまり私の言ふのは、今の長唄は、倫理的な心構へと言つたものを持つてゐる、と言ふことを言つて居るのだ。その為に長唄は、ます〳〵澄んでは来るが、それが同時に長唄を寂しくして行つて居ると言ふことが言へる。
しかし幸ひに長唄は、常磐津の如くには、まだ衰へて居ない。だからその将来の為には、今こゝで、まう少し豊かな人生を取り入れることが必要だと思ふ。豊かな人生を取り入れると言ふと、すぐ劇場音楽としての形に専心することを勧める様に聞えさうだが、さうではない。反対に、長唄はもつと劇場から離れて、長唄独自の発達をはかるのが本道だと思ふ。
大学の学生が集つて長唄の研究会を催したりすることが、何か似合しくない感じをおこさせるのは、実は、長唄の持つ劇場趣味がさうさせるのである。だから今こゝで、長唄の為に、長唄を学問的基礎の上に立てゝくれる人が出て来る必要があると思ふ。
底本:「折口信夫全集 21」中央公論社
1996(平成8)年11月10日初版発行
底本の親本:「折口信夫全集 第十七卷」中央公論社
1967(昭和42)年3月25日発行
初出:「慶応義塾長唄研究会 第三十一回定期演奏会プログラム」
1949(昭和24)年11月25日
※底本の題名の下に書かれている「昭和二十四年十一月「慶応義塾長唄研究会プログラム」」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:フクポー
2018年9月28日作成
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