東北民謡の旅から
折口信夫



奥州から出羽へかけての旅、時もちやうど田植ゑに近くて、馬鍬や、エブリを使ふ人々が、毎日午前中に乗つてゐた汽車の窓の眺めでした。かうして民謡試聴会場に這入ると必、何か農耕と関係の深い民謡や民俗舞踊を見せて貰ひました。昔、芭蕉は白河を越えるとすぐ、「風流のはじめや奥の田植唄」の句を作つてゐます。此は田植ゑに都風な唄を用ゐはじめた昔物語を聞いたからでせう。奥州の村人が都の風流にふれたのは、さうしてはこばれた田植ゑ唄を以つてはじめとする。ところが奥州へ這入つて、直に耳にしたのは、「田植ゑ唄」である。それを聞いて、恍惚として昔人に還つた思ひで居たのでせう。奥州の芸能文化の歴史が、人に知られるほどに、遠からぬ世のことだつたのです。私どもは、毎日々々聞いて廻つた民謡や、舞踊の上に、此句とおなじ感傷を浮べて聞いたり見たりしてゐました。

奥州の田植ゑ人に歌謡を与へたのは、平家物語を初めて弾いた生仏シヤウブツと言ふ盲人だと言ふのが、「菅菰抄」以来の説ですが、其菅菰抄には、今一説あつて、某大寺の住僧が、奥の人々のあぢきないたつきを憐んで田植ゑに唄を与へたのだといふ伝へもあつたやうです。ともかくも相当古い時代だとは言つて居るのですが、人がわかつて居るだけに、時代も自ら想像出来ます。年代が知れると言ふことは、伝説の上においては、それが史上の人物・時期を謂つてゐるにしても、可なり降つた世の事だと思はれるのです。ともかく相応に新しい世に、新しい文化の一つとして、田の芸能が奥州に這入つて来たことを知識にする前に、先以つて情緒に沁ませようとしたものである。此句は全く歴史を回想したものでない様に考へられ、其方が通つてゐる様でもある。旅人が奥州風流にふれた第一の印象が田植ゑする人、その「田植ゑ唄」だとするのである。それはともあれ、私どもは東北六県民謡の旅から帰る途にも、これと同じ感動を心に強く持つたのでした。これは座談会の節も申しましたが、芭蕉の心持ちも話したのでしたが、筆記には声がかすれて出て居ません。それでその出発点から筆をつけて、私の座談の行き届かない所を補ひます。

「田植ゑ唄」ばかりでなく、凡古風なと思はれる唄でも、奥へ這入つたのは、相当に新しい時代だつたことが思はれます。その当初の印象が、まだ唄の曲節の上に残つてゐると申したのも、此処のことでした。民謡舞踊一つ〳〵について、歴史がある訣ですが、詳しいことは勿論わかりますまい。唯、可なり古く這入つたものも、まだ生き〳〵として居り、それが極近代に這入つたものと、新鮮な感触を以つて接続してゐることを感じさせるのです。随つて土著の歴史の古いものは考へられても、今のところ固有のものをとり出して見るといふことは出来さうもありません。勿論生得東北根生など言ふのも、必、あるにはあるでせうが、どれがさうだと言ふ訣にはまゐりかねます。山唄を元とする山唄、「しほでこ節」「山子唄」「萩刈り唄」それから「木挽き唄」のあるものなどは、その労働の性質から見ても、土地と関係の深いものだといふことは訣るが、それでも唄の文句の類型などはなくとも、曲調がどうしても、おなじ東北の中で供給需要をくり返した記憶の明らかなものが多いのである。歌自身が、人の口に憑いて東北の山々をめぐつて来たのだと言ふ考へ方も出来る訣なのであります。今度の旅行にはわりに出ない方でしたが、それでも舞踊となると、どうしてもその俤を封じておく事は出来なかつたのは、東北風神楽の系統の芸能でした。そんな中には、あまり伝説の制約がやかましくて、詞もふりも類型過ぎるものは言ふまでもありませんが、かう言ふものになると、南部津軽の長い確執の歴史もものかは、と言ふ程に類似を保つて居ります。類似といふよりも、一つ物の岐れといふ方が正しいと謂つたものが多いのです。芸能文化ばかりは、政治経済の歴史状況の影響ばかりにおし籠められて居ないことが、はつきり訣つたのは愉快でした。相馬大作等が立てこもつた山の更に奥には、そんな感情ばかりに拘泥して居ない山の人が沢山居て、もつと嬉しい人情の文化を侘しい生活の上に、授受してゐたのです。田園を控へた村や町方に時を定めて出入した、乞食者流の芸能人は固よりそんな裏日本表日本の区劃よりも、もつと狭い土地の感性を寧、蔑視する様な顔をして自由に漂泊して歩いたやうです。さうしてそれ等のものゝ撒いて過ぎた唄や芸能は、唄は固より、元来芸能刺戟の乏しい地方人の心に愛惜せられて、物売りや祝言人の謡つたものが、その身ぶりと共に、とり上げられて、宴席の芸能となつたものも段々あるやうです。中には、秋田の花館万歳や、庄内の春田打ちの様に、ある地方には、ある家との関係から固定してしまつて、周囲の同様の芸能と比べると、まるで別物のやうに見えるほどの形を持ちこたへてゐるのもあります。又、あのどう言ふ道を通つてどうしてこんな所に来たのだらうと思はれるほど、その唄の歴史ある流行地から、隔絶した奥羽の村に職人唄や、物売り唄の謡はれてゐるのは、明らかに職人や物売りの移動の痕を残してゐるものです。

海上や、又それに続いた大河を通して来た民謡は、それこそ自由に遠い海港のものを辺土の浜や渚に残してゐます。そんな中にも筏唄など言ふものは、労働の性質、又職業の接続からでありませうが、木遣りの姿を見せてゐたのは愉快でした。海から上るとすぐその地の群飲・群舞の詞章となるらしくて、海岸地の宴席や「盆踊」などにはこれが未に栄えて居る様子が、まざ〳〵浮んで来ました。殊にあの編笠に紋つき羽織で、嫗たちの踊つた「十三の砂山」は唄の文句も相応に古いが、その詞章の載せられた曲節は、古く十三湊に海を渡つて来た西の唄であつた。唄自身はさうした歴史をうろ覚えに知つてゐて、故郷を忘れた悲哀を思ひ沁むやうに、謡ひての口から出て溜め息のやうに流れるのを感ぜずには居られませんでした。遠海を航して来た印象の深いのは、殊に裏日本の物に多いやうです。だから思ふ。日本海に向つた海辺で謡はれる唄が寂しいなどいふことは、津軽・秋田・庄内などの土地が、憂鬱な風景を四季に交替して見せるからと言ふやうなことは言へないやうです。唄その物の旅行と言ふことが哀切な余情を迸らして、詞章を悲しませるのである。津軽は措く。秋田や庄内は、何処に屈托した表情を示してゐるだらうか。今度の民謡の旅によつて、尠くとも私のした大きな学問は、東北の民謡が、全体として憂鬱な所のないといふ点である。「追分」が悲しいと思ひつく人もあらうが、「追分」その物の、出処に近い中央日本での方が、以前はもつと違つたものだつたかも知れないし、尺八に乗つて謡はれてゐる声は、声自身が悲しいといふよりも、尺八を携へて流浪した人の生活が訴へる幾代の旅愁が然らしめるものだと思ふ。「馬方唄」としての歴史を発達・流転の中間に持つてゐる「追分」は本質として悲しいよりは、朗らかな寂しい秋の空の高いのにも譬ふべきものでありませう。「牛追唄」も、山唄のある物も、それから「刈り上げ唄」なども、此類に這入るものであるのだが、南部の「牛方節」は、牛方の饗宴に用ゐられる事が多い為か、少しのどかさに過ぎた所があつた。田舎で実際挽いて歩いてる時は、もつと人を寂しがらせるふしがあるのでせう。東北には元来抱かれ易い空想があります。土地が古いと言ふ事が、自家の祖先の土着との歴史の古さを示すといふ錯覚を誘ふらしく、多くあいぬの居つた旧蹟といふ所が、世間人の話の間にも謂はれる。さうしてやつぱり、だから此辺は古くから開けて居たのだといふ。我々の祖先と先住民との関聯をどう説くかと言ふことを考慮の外にしてさう言ふことを言ふ人が、特にある地方には多い様です。あいぬを言はないまでも「にやにやとやら」の元歌がやはり、さうした傾向を以つて説かれてゐる。之を万葉仮名などで書いて、尊い御方の御作だと説いたりしてゐます。

元来何のこともない「何なとやれよ。何なと為されよ。何なとやれよ」と言ふ類の文句で、「さゝ何でもせい」と言ふ伊勢音頭の囃しと通じるものに過ぎない。謡ふ人は其意味は知つてゐるに違ひないが、書きとつた人が、土地の発音を、さうした風に説く事によつて、もの〳〵しく感じてゐるのです。それと余程用心しなければならないのが、誰一人異論なく今度の収穫の様に感じた「ほうはい」です。これの分布も思ひがけなく広いと思はれるのにも驚きました。町田・藤井両氏などには、既に調査ずみのやうでしたが、唯之をあいぬ関係と説くのには、程度によつて賛成いたしかねるのです。柳田先生も、其座ではつきり言明せられてゐますが、若し先住民が此辺にも居たゞらうと想像せられてゐる時代から、ずつと残存したものとする御意見が、此囃しのあいぬ起原説の中に、あるのだつたら、それは何処までも、反対申しあげねばならぬのです。第一、どうして聞き覚えたのか、其ともあいぬを以つて先祖とすると説いてもよろしいのか、又どう言ふ手順で少くとも千年以上の前に退却した筈の生蛮の囃しが、我々の時代まで残り得たのか、こんなむづかしい問題の横つて居ることを考へて頂きたいものです。併し、極近代或は明治以後でも、蝦夷松前へ出稼ぎに行つたものが、一種小唄のはしりのやうなつもりで持つて戻つて来たのが拡つたのだと説けぬこともないのですが、其さへ大分むづかしい問題を惹き起しさうに思はれます。珍しい事は、純粋無垢の我々旧民族の間にも頻々とあるのです。地の遠近を根柢にした系統観は、時には、同一民族を曾ての異種族の末としてしまひかねないことに注意して頂かねばなりません。

今度の旅行で私として得た収穫は、「ほうはい」もさうですが、「よみうた」(読歌)とも言ふべきものを聴いたことです。上閉伊の「大漁唄」には殊に其傾向が甚しかつたので気づきました。其から注意して聴きました。古い宴歌には、共通要素として、こんな部分があつたのではないかと思ひます。

宴歌といふと思ひ出されるのは、「いざやまき」と「西馬音内の盆踊」です。あの二つに限らず、ちよつと見は関係ない様で居て、宴席に関係の深いものが多いことを感じました。座敷踊りのことは、町田さんの咄にもありましたが、座敷の外に、屋台で行ふ芸能があります。この違ふ点は、少数の人がするので、謂はゞ舞台に同じです。が、屋台に居る人の芸能に続いて、見物が囃したり、踊つたりするのは、舞台芸能と、宴席芸能との相違なのですが、舞台芸能も古いほど、段々宴席芸能に近づくのです。盆踊りも、実はその部類に這入るのです。扨「いざやまき」は今は其地以外ではどうなつてゐるか知りませんが、これは鶴岡の盆踊りに行はれたのが、初めのやうです。が、利用の範囲はもつと広くなつたものと思はれるのですが、放送局から貰つた本に、鶴岡の俳人河上兆而の筆にはじまると言ふ風にあります。ともかく気のとほつた人間の作には違ひはありませんが、分量の非常に多いものです。その中、大山に残つたものがこれで、千本桜関係の踊り歌の外に、くづれたのがあるやうです。鶴岡の町々で行うたものですが、唄から見れば芝居のふりつけか、役者の類が、ふりを一々つけたものに相違ありません。地方の文句と詞とは不即不離の所におもしろみがあり、ちよつとあくの抜けた感じがあります。此は踊り屋台のやうなものゝ上で踊つたのでせうが、淡路の大久保踊りの例によると、群舞としても行はれぬ事はありません。が、まづ一人踊りでせう。唄は前に言つた様で、よく出来てゐるが、民謡とは全然申されません。秋田の御山オヤマ囃しを参考に考へて見れば、かう言ふ風になつて行く径路は察せられます。其が性質をつきとめて来ると、座敷踊りになつて残るのは知れたことです。

秋田の方へ行つて「西馬音内」は、如何にも昔の踊り咄など言つた時代の俤のあるもので「秋田音頭」からしてさうですが、こゝのは咄の要素が非常に多い様です。それにやはり御山囃しの系統から出てゐるもので、屋台の上の芸が重要視せられて居ます。だから踊りは自然に任せてゐるといふところがあります。

此以上の事は、座談の方で申しました。ところが、民謡の旅の後、東京で小寺夫人清水和歌さんの舞踊会があつて、「西馬音内の盆踊」が出ました。これはなる程とうなづかれました。踊りの間が、わざとらしくなくて、極めて軽く調子に合つて行く。少しもぎくしやくすることなしに、うけ流し〳〵踊つてゐるやうでなる程と感じました。踊りや囃子と、踊りの手とが西馬音内以上にすら〳〵と触れあつて行くのです。はあ西馬音内から、此だけよいものを発見したのだなと感心しました。さうして、座談の時の主張のあつたことも訣りました様な次第です。

さてもつと〳〵話があるやうなのですが、あまり長くなりました。こゝで唄と舞との流伝の違ひを一口述べてやめませう。どうも唄は水上から来るものゝ方が、自由であり、又事実も偶然性と言つたものを土地の人情の上に持つてゐるやうです。之に反して踊りはどうも水上から来ることは少くて、従つてあまり思ひきつて遠く遊ばないのが、近代の形の様です。昔は、宗教と手をとりあつて、随分辺土へ〳〵と昂奮を捲き起しながら這入りこんで行つたやうですが、どうも近代は限度が自らあるやうです。其は一つは水上によることが不思議に少いことも、さう言ふ伝播性を縮めたのだと思はれますが、如何でせう。

底本:「折口信夫全集 21」中央公論社

   1996(平成8)年1110日初版発行

底本の親本:「折口信夫全集 第十七卷」中央公論社

   1967(昭和42)年325日発行

初出:「東北民謡試聴団座談会記録」

   1941(昭和16)年5月刊行

※表題は、底本の親本編集時に与えられたものです。

※底本の題名の下に書かれている「昭和十六年五月「東北民謡試聴団座談会記録」」はファイル末の「初出」欄に移しました。

入力:門田裕志

校正:フクポー

2018年928日作成

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