鷹狩りと操り芝居と
折口信夫
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今度計画せられた此書物は、類変りの随筆集といふだけに、識り合ひの方がたが、どんな計画で、思ひもかけぬ事を書かうとして居られるかといふ事が、かうして居る今でもまざ〳〵と胸に泛んで来る。多分皆さんが、専門違ひの変つた通の話を、試みられるらしく思はれる。これが、本屋の番頭さんが見えての話である。だからといふ訣ではないが、私も少々変つた話を申し上げたい。鷹に関係した書物、並びに鷹百首といつた類の書き物は、我々が見て居るだけでも随分際限のない未見の部分を予想せしめるものがある。その沢山あるものゝ中から、僅かに読んで、而も術語によつて覆はれないで理会せられた部分だけから、簡単な幾種の結論を、幸ひに引き出すことが出来た。これからの話もその一つである。
古く、平安の貴族社会に行はれた大臣大饗に、庭前で犬と鷹とを使つて、小鳥狩りの真似をした。これは愈、あるじぶるまひに這入つて、雉子を出すことの前提と見られて居る。光孝天皇の御幸運に関聯した物語を伴うて居るだけに、この雉子並びに小鳥狩りは、深い因縁を思はせるものがある。
物識りぶつた思はせぶりを差し挿む事が許されゝば、この日宮廷から遣される賜物の品物と共に、大変な興味と、疑問とを含めて居るものである。
武家時代の早い頃の絵巻を見ても、宴会の催される家の庭には、多く鷹が架の上に据ゑ置かれて居る構図が見られる(拾遺古徳伝など)。さきに出た絵巻の類型と思はれるのもあるが、事実あつたことには違ひなからう。その架には、所謂架衣と称する布が垂れてある。謂はゞ巾の広い几帳のやうなものと見てよさゝうだ。
新村出先生は、日本に於ける鷹狩り源流についての権威である。けれども今におき、其稿本を板行する気におなり下されない。其為に我々の話も、此程度で止めて置かなければならない程、孤立無援の有様にあるのだ。若しどうかした機会に、この漫談が先生の眼にふれて、苦笑を誘ふならば、それは一つは、先生自身の罪でもあるわけだ。
私どもの力では、大陸から半島への鷹法の伝来、或は渡来後の変化について、大きな口をきく資格はない。たゞ、この島のみかどに於いて、考へられて居たでもあらうその姿を考へ出して、一部分でも真実に当ることがあつたら、此上の幸ひはないと考へる。
端的に言へば、私の長い宿題として居る一つのものに、所謂、操り芝居のてすりと称するものがある。それが可なり近代まで、一枚の美しい布で出来て居たことの理由である。人は此をてすり即、欄干と言つた説明を胸に持つて居るであらうが、私にはまだその簡単な解説に同感する気がない。
一体、わが邦で古代の風と考へてもよい記録の叙述によると、とりのあそび(鳥遨遊)なることばが見え、さうした方法が呪術の上にあつた事を残して居る。事代主が天孫の使ひに留守をあけて、美保の崎に出かけて居たのは、此事の為だと謂はれて居る。だが、同様の事ならば、味耜高日子根神の場合にも、ほむちわけの命の場合にも、条件は不備ながら、これのあつた俤は想像出来る。言ふ迄もなく、この場合に目ざゝれるものは白鳥である。即、たましひをもたらす鳥を見ることが、その人の生命をあらたにし、威力を附加する方法となつたわけである。此点に於いて、我々の記憶は、急に渦巻きを造つて心に集つて来る。万葉の日並知皇子尊の舎人らの歌に現れた池の水鳥も、さうした用途に用ゐられたことが考へられる。或は出雲国造の神賀詞及びこれに関聯した献物、所謂生調として見えて居るものは、やはりこの白鳥である。その他、原因は一つで、形の上では関係の次第に遠い鳥の民俗をあげて来る段になれば、際限のないばかりだ。話が大分、こだはつて来た事を覚えるから、稍飛躍を許して戴くならば、此は鎮魂の方術に用ゐられたのである。即、かうした鳥を、白鳥の玩物と言つたらしい。常に身に近く置いて、それによつて、新しいたましひに触れようと言ふ信仰なのだ。
かうした用途に用ゐられた鳥は、恐らく、色々の種類を含んで居たものと思はれるが、其が白鳥の白鳥たる鵠に帰一したものと考へるのが順当らしい。しかも尚、その一致が崩れて、後々までも幾つかのたましひの鳥が考へられて居たやうだ。雁であり、鶴であり、鷺であり、猶また臨時に突拍子もなく出現する事によつて、日常目なれた鳥すらも、その役廻りに見なされた例が多い。話しつゞけて来た鷹も、此鳥の一つとして数へられるのである。
だが、もつとよく思へば、逸れ行くたましひをつきとめ、もたらし帰るもの、と考へた方面も忘れるわけには行くまい。たましひの鳥であつて、同時にたま覓ぎの鳥なのだ。かうしたものを求める動作は、おほよそたましひの場合に限つて、こひと称して居る。これが、一方恋愛のこふと言ふ形を分化して行くわけだ。一例をあげると、ほむちわけの場合には、たましひの鳥、鵠を追うて行つた人の名として、山部大鶙と言ふことになつて居る。たましひの鳥を追うたがために鷹の名をとつたのか、或は説話学の考へ方に従つて、鷹の人格化せられた名と見るべきか、いづれにしてもたまごひと鷹との関係を思はせる。
我々の国で、小鳥狩りの行はれた冬の時期は、ほゞ鎮魂祭と同じ頃ほひである。後には、次第にさうした関係を忘れて、二つの儀礼を分離して来たことゝ思はれる。鳥の使ひの帰る帰らぬを問題にした物語の多いのは、この信仰に根ざして居るものと見てよからう。鷹には鈴をつけて放すのが定りである。この鈴の音が、呪術とうらなひとに交渉を持つて居るものであらう。
扨、さうした鷹は謂はゞたましひの一時の保有者とも考へられる。だから此鷹によつて、鎮魂を試み、或はうらなひを行ふことになつた過程が思はれる。
我々の間に語原も訣り、その風習の起源も知れて居乍ら、猶一部不明なものを残して居るのは、雛遊びの式である。何のためにひなと言ふのかと言ふ点になると、実はまだ確答は与へられて居ないのだ。人間の雛形なる人型の故に、ひなと言ふだけでは物足りない。
必、鳥に関する聯想が近く、最密接であつたに違ひない。私は、所謂ひゝなについて、単に人型の撫物を称するとは思つて居ない。所謂、ひゝなの殿なる謂はゞ箱のやうな物の中にある場合に於いてのみ、この鳥と関係のある名を称へて居たものと考へて居る。実は、却つて取つて置きの結論を流用することになつたが、ひゝなの殿は、人形使ひの首に下げ、淡島願人の携へて歩いた箱などに変化して行くものだと思ふ。その箱の中に於いて、鳥を使ふ方法が一つの技術と見做されて来て、それが次第に、傀儡の徒の芸と歩み寄つたものと考へる。箱の中で使はれるひな、箱の外に於いては架垂のかげから使はれる鷹、かうした形を考へることに依つて、所謂鷹匠の秘密の職分が想像せられる。
我々の知つて居る鳥占には、様々の方法がある。が、其一つに加へていゝものは、べろ〳〵の神と称せられる、尖端の曲つた枝、或は紙縒を以てする方法である。即、その鉤の先の向いた方向を積極とする約束を持つ卜法である。これは又、べろ〳〵の鉤とも称せられて、童遊びとしての分布も可なり広い。秋田市などでは、神体不明だが、この神を祀つた祠すらある。これと所謂おしらさまとは、ほゞ一線をたどる因縁の近いものと思はれる。
此点に於いても、おしらさまに依つて説明されるひな神のもとの形が想像出来る。鷹の習性をよく観察した方々は、その首の振り方に特殊なものゝあることを、感じて居られるであらう。即、此を以て一つのべろ〳〵の神様と見たものと言ふことが出来よう。
話は最後に近づいて、端折らなければならなくなつた。これがもつと具体的な説明を要することは勿論であるが、この上更に鷹部屋と人形箱及びあやつり芝居との関係を説かなければ、輪廓だけでも完成しない訣なのだ。それは、別の場合があるであらう。たゞ結びでもない結びをつけて置かうならば、幕のかげからさし出して使ふ人形と、箱の中に手をさし込んで使ふものと、見た所は大変差別のあるやうだが、その距離はごく僅かである。少くとも、所謂てすり芝居の起源をたづねるには、鷹使ひの習慣のこまやかな研究が前提となつて居なければならぬと言ふ処で、この話をとぢめたい。
横著をして、若い私の友人に、この文を綴つていたゞいた感謝を申し添へたい。
底本:「折口信夫全集 21」中央公論社
1996(平成8)年11月10日初版発行
底本の親本:「折口信夫全集 第十七卷」中央公論社
1967(昭和42)年3月25日発行
初出:「国文学者一夕話」六文館
1932(昭和7)年7月刊行
※底本の題名の下に書かれている「昭和七年七月「国文学者一夕話」」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:フクポー
2019年5月28日作成
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