信州新野の雪祭り
折口信夫
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東海道の奥から、信州伊那谷へ通じてゐる道が、大体三通りあります。其中、一筋は遠州から這入るもの、他の二筋は三河から越える道です。その真中にあたる道が、丁度花祭りの行はれる三州北設楽の村々を通つてゐるので、極僅かな傾斜を登ると、すぐ信州領になつてゐます。所謂新野峠が其境目で、此から半里も下ると、旦開村新野の町になるのです。而もこゝは、西へも北へも、或は東へも、すべて又、山坂を越えなければ通れない、盆地です。
東海道方面からやつて来た前代の文明は、或期間、此風の吹き溜りの様な山の窪地に、あたかも、吹き寄せられた木の葉の様に残溜してゐたのだと見られます。此村の伊豆権現、或は、以前此地の開発主であつた、伊東家に関聯した神事・儀式の伝承が、其を明らかに示してゐます。
我々、民俗芸術の会の仲間では、近い中に一度、皆で手わけをして此土地だけの村落調査をやつて見たいと言ひ合つて居る事です。若しさういふ事になれば詳細な報告を作る事が出来るでせうが、最近新野の雪祭りなる祭儀が東京へ来る事になつたのを機会に、先、小手調べとして、其に対する調査報告集を、同人の方々でお作りになる事になつてゐます。「花祭り」号の後に「雪祭り」号が出る事は、感じの上で、まことに快い事だと、我々も思ひます。それで、当然その時にも、行きがゝり上、私も仲間入りをしなければなりませんから、こゝにはほんのざつとした此春の祭りの輪廓だけを書いて、追つて行はれる雪祭り試演の為の、引札がはりにしたいと思ひます。
一体、下伊那の南部地方は、明治の初めに、謂はゞ奴隷解放とも言ふべき運動の盛んに行はれたところであります。つまり、昔から被官と称して居つた門百姓が、親方から独立した為に、大変もめた事でした。聞くところに依ると、理窟ばつた信州人の間でも、殊に解放問題を喧しく言ふのは、未だに下伊那が最甚しい相です。或は被官解放運動の名残りかも知れませんし、其運動自身が、起るべき理由のまた此土地に強く根ざして居たのかも知れません。新野ではさういふ運動があつたとは聞きませんでしたが、さうした気分は見えて居たと思ひます。
此雪祭りの行はれる、伊豆権現は、豆州の伊豆山権現が将来せられたものに違ひありません。そして此を携へて来たのが伊東氏なのです。だから、新野の土地と、伊東の家と、伊豆権現の社とは、村の開発の最初から、放つべからざる関係を持つて居ました。其が、明治になつて、完全に伊東家の手を離れたので、たゞ、社と村との続きあひだけが、前よりも一層濃くなつた様に思はれます。伊東氏の古邸は、現在でも新野の東方、大村といふところに残つては居ますが、しかし伊東家の人は、既に先代の時から村を追はれて、山沢一つ越えた北に住み替へてしまつたと言ふ事です。
此伊東家を中心とした行事が、今日では、多少形をかへて残つても居り、或は、既に伝説にくみ込まれた部分もあります。残つて居る部分は、大抵、伊東邸の代りに、同じ大村の中の諏訪神社の社殿で行はれる事になつて居る様です。一月十三日の此雪祭りも、元は、伊東家から行列が練り出したものですが、今では諏訪神社から出て、西へ長い新野の町を通つて、伊豆権現の山へ登る事になつて居ります。
元々此行事は、土地の精霊を意味する、夜叉神・羅刹神・麻陀羅神などゝ一つのものが群行して、まづ伊東家を訪れ、此を祝福した後、伊豆権現、或は其別当寺なる二善寺をことほぎする形だつたと思はれます。其は丁度、田楽に、水駅・飯駅・蒭駅など言ふ、立ち寄り場が考へられて居つたのと同じ意味で、精霊が群行して、豪家・宮・寺の祝福に廻る訣です。だから、大体は伊東家に於ても同じ事を行つたものと見られます。だが勿論此は、伊豆権現の神前で行ふのが本式と考へられて居ます。
只今残つて居る形を見ますと、さま〴〵なものゝ複合した跡は明らかでありますが、中心は何としても、田楽、殊に「夜田楽」と称すべきものだと思ひます。三州北設楽の花祭りと比べても、非常に似た部分が多い様です。が、よく見ますと、南から上つて来た芸能と、東から来て国境を南へ越えて三州へ行つた芸能との、交り合つて居る度合ひが、信・遠・三の国境地方の村々で、濃淡がいろ〳〵になつてゐる様です。私は、只今のところでは、南から来たものと、北から来たものとを見なければなるまいと考へて居ります。其北から来たものゝ或時期の足溜りになつたのが、此新野の雪祭りに印象して居ると見られます。尤、部分的に見れば、三河鳳来寺、或は田峯の芸能と共通するものがあります。しかし其は、根本的のものだとは受けとれません。
此祭りを、雪祭りと通称して居ますのは、譬ひ一握りの雪でも神前に供へなければ、此日の祭儀は行はれないと信じられて来て居たからです。それで若し、近辺に雪のない時には、二里余も西北に隔つた平谷峠あたりまでも出かけて雪をとつて来る相です。此は、言ふまでもなく、雪を以つて田の作の象徴と見るので、祭りの夜に当つて雪が降らなければ、当年の成り物は望みがないと考へたところから出た、変化であります。
此祭りを始める前に、第一に、社の上にあるがらん様と言ふ祠を祀ります。此は、所謂伽藍神で、前に申した、社・寺の地主なる、精霊の発動を意味する行事であります。此から、神事やら芸能が引き続いて行はれるので、翌朝午前まで続きます。只今では、大体午前の十時か十一時に終りますが、昔は、明け方、日の出を限りとしたらしいのです。
此行事の最後に行はれるのは、田遊びと称へるもので、宣命と称するものを、社地の一部で唱へて居る間に、芸能がすべて結着する様になつて居るのです。朝に残る芸が少々はありますが、大体は、日の出前に三匹の鬼が出て、神主に退散させられる儀式を境として居ります。鬼が退散するに当つて、其口へ朝日が差し込む様に事を運ばなければ、其年は不作だと言うた相ですが、今では、さうは出来なくなつて居ります。
私が、日本の芸能の歴史を考へようとした最初に、非常な興奮を催してくれたのが、此雪祭りの田楽の話を聞いた事でありました。しかし、こゝでは、其中二三の刺戟を含んだ部分を申すのに止めませう。
此行事の、主なる役廻りをするものは、右の鬼に扮する人達です。行列の山に上るのを迎へるのも、此人々です。後に言ひますが、矢取りの役を勤めるのも、やはり此人々です。
此祭りに於ける鬼は、殆、恐るべき鬼といふ考へはなく、親しむべく、信頼せられるものゝ様に見えます。そして最著しいのは、此鬼と、天狗とが、此雪祭りに於てはほゞ一つものに考へられて居る事です。
鬼の外に目につくのは、もどき・翁でありまして、もどきは二様に繰り返されて居ます。一つはさいほうと言ひ、更に其繰り返しをもどきと言うてゐます。二つながら、所謂鬼の面を被つて舞ふものです。翁は三種類あります。翁・松かげ・しやうじつきり、と言ふ三種類の面を被つて、引き続いて出て来て、各違つた唱へ言をします。つまり、翁の言ひ立てを三部分に区劃して語る事になるらしいのです。此翁に就いては、鳳来寺・田峯、或は花祭りのものと、比較研究の興味があります。
其外に、面をかついで出る役としては、此も一つ事でせうが、田畑の害物を圧伏するらしい、しづめの行事があります。これが二つに分れて、しづめ及び八幡として、面形も違ひ、身振りも変つて居ります。そして其対象も、鹿と駒とになつて居ります。此を見ますと、神楽系統の獅子の様に、獅子に扮するものが能動するのでなく、征服せられるものだといふ形が見えます。
人間の直面で行ふものとしては、牛系統のものと、簓・編木系統のものと、二つに分つ事が出来ます。牛の方では、競馬と称する三分芸を分化して居りますが、此は、乗りものに乗つた弓とりの姿を原とする様です。即、所謂牛が其です。此牛に乗る役は、最神聖なものと考へられて居ます。矢をつがへて、一度は社殿の屋根に向けて射放ち、今一度は、社地の境に居る鬼に向けて射る行事があります。鬼の場合は常識的にも解釈出来ますが、社殿に向つて射る形が残つて居るのは面白いと思ひます。つまり、矢は遠方に居る精霊、或は神に奉りものをする為の媒介物であります。此牛一つを見ても、日本の狩り場の社が、山の神・木の神・境の神に、上差しの矢を捧げた古俗の説明が思はれます。
秩序もなく、また、報告か解釈か訣らない様な文章を綴つて来ましたが、雪祭りの試演を御覧になるのに、此だけの漠然たる用意でも持たれる様にと思つたのです。
底本:「折口信夫全集 21」中央公論社
1996(平成8)年11月10日初版発行
底本の親本:「折口信夫全集 第十七卷」中央公論社
1967(昭和42)年3月25日発行
初出:「民俗芸術 第三巻第五号」
1930(昭和5)年5月発行
※底本の題名の下に書かれている「昭和五年五月「民俗芸術」第三巻第五号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:フクポー
2018年1月27日作成
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