芸能民習
折口信夫
|
あまり世の中が変り過ぎて、ため息一つついたことのなかつた我々も、時々ほうとすることがある。鳥が粟を拾ふやうにと言ふが、ほんたうに零細な知識を積んで来た私どもの学問も、どうかかうか、若い人たちが継承して行つてくれるに任せるほかはない。そんな妙な方法で、学問と言へるのか、変な学問もあつたものだと言はれ〳〵して来た私たちの研究も、おのづから中絶する日が、そこに見えて来た。
人の用意してをつた知識を素直に受け入れないことが、学問の発足と言ふのが、本たうだとすれば、私ども位、先人の学説から自由をふるまうて来た者も尠からうと思ふ。
と言つて、其を自慢する訣でもない。たゞ今まで口にしたことのない胸臆を書きつけて見れば、どんな気持ちがするだらうと言ふ気で書きはじめたまでのことである。
かう言ふ書き出しをつくつて見たが、さて何も変つたことが出て来さうにもない。此後、国文学などを研究して行く若い人々のうちに、かう言ふことを考へる人もあらうかと思つて、言はゞ身後の笑ひを予期しながら、其をまた一つの力に感じながら書いて置かうと思ふことの緒口をつけてゐる訣である。あのごつた返した昭和の末に、こんなことを書いて、隠者ぶつて居た男があつたのだ、と言はれようと言ふ志願を持つてゐると、まあ言へば、さう言ふ風にも言へる。
私などは、生れだちから歌舞妓役者や芸能人を極度に軽蔑するやうに為向けられ、教へられて育つて来た。だからそんな小屋の立ち並んでゐる盛り場に入りこんでゐて、知つた人にでも逢はうものなら、忽赤い顔をして、人ごみへ隠れてしまふ。其でゐて、さう言ふ人だかりの中へ、まるで韜晦するものゝ如く這入りこむことが、嬉しいのではないが、もう一生の癖になつてしまつた。だから、私の学問も、一端に、芝居町や稽古屋の生活に繋つてゐるやうなものである。
日本流の劇や音楽を、如何にもはな〴〵しい、艶やかなものゝやうに思つてゐる若い人達に、其だけは、明治末期から、東京人士の持ちはじめた錯覚だと言ふことが告げたい。私はやはり紳士の足を入るべからざる小屋の中に踏みこんでゐるのだと言ふ肩身狭い思ひを忘れないで、以下の芝居学問を話し続けようと思つてゐる。
「曾我物語」と芝居との関係は、ともかく長いものである。殊に江戸歌舞妓などになると、まるで全演目が、曾我狂言の分化したものゝやうにすら思はれさうなころもある。併し江戸時代の古い上演目録を作つて見ると、存外其は近代に寄つての姿で、古くは我々が持つ予期ほどには、曾我物語が、歌舞妓を圧倒してゐた訣ではなかつたのである。
春芝居から五月興行まで、据ゑ置きもあり、さし替へもあるが、ともかく皆曾我の世界の狂言を続けてゐると言ふことは、あまり偏つた江戸歌舞妓の習慣であつた。こんなことは京大坂その他の地方の芝居にはない事実であつた。其だけに又、江戸芝居の曾我偏重は目立つたものである。誰の経験か今では訣らなくなつたが、栗原氏、尾上松助の言ひひろめたものゝ様に考へられてゐる、奥州の「判官びいき」の話がある。義経に関係のない狂言にも、幕開きはまづ舞台空虚の、上手の障子屋台から、判官義経現れ、「一間の内より義経公悠々として出で給ひしが、さして用事もなかりければ、再一間に入り給ふ」と語る浄瑠璃に連れて、影を消す。其と共に本狂言が始まるのだと伝へてゐた。松助も誰かの後を受け伝へたに過ぎないのだらう。此伝へには、まさか幕毎に、さうしたことがあるとは言はないが、どの幕に限るとも言はない点が、確実性を疑はせる。だがともかくも、誰かの経験が、軽佻な楽屋生活者の間を、持ち廻らして適度な笑ひを含めて来たことは、察してもよい。多くの地方の芝居小屋の一日が、序に先立つ三番叟の踏まれることなくては行はれなかつた様に──恐らく本来の意味は違つて居るのだらうが──、必義経の出る小幕或は其に準じてよい場面があつたのであらう。固定した習慣を理会なく積み重ねて来た歌舞妓の芸団では、其一座々々特有の狂言、又共通の狂言があつて、其を演ずることが、言ひ知らぬ古い約束に対して、其一座を成立させる必須の条件だと言ふ風に考へ、又その信仰によつて、興行の日々に其狂言・場面を演じることを忘れなかつたのである。
たとへば江戸歌舞妓の三座──中村・市村・守田──が、おの〳〵へんてつのなさ過ぎる脇狂言を持つて居て、興行の間、毎日之を演じたのもやはり其一種であつた。さうして、其上更に三番叟は行うてゐたのである。つまり芝居興行の条件として、二つの形式的な芸能が行はれなければならなかつたのである。若し三座の興行条件として、其上に奥州風の義経開口と謂つた場面が添うて居たとしても、不思議はない。さう言ふこぐらかつた習俗の間を摺りつ、潜りつして発生した芸能が歌舞妓なのだから。
その義経出場に当るものが、江戸における曾我狂言だつたと考へることは出来る筈である。三番叟や脇狂言乃至は奥の芝居の義経が添へ物で、曾我は眼目の江戸狂言であり、本芸だから、其等とは別と考へようとするなら、其は大きな間違ひと言うてよい。
歌舞妓が最初から、あの様に我々の鑑賞に堪へる内容を持つてゐたり、又本芸となるだけの目的あるちやんとした狂言を持つて居たものと言ふことになるのである。
今日優れた芸能・芸術と見てゐるものが、最初の目的から分化した目的によつて活きて居り、本来の目的は却て、失はれてしまつたものゝ多いことを思はないやうでは、こんな世界のことはわからない。三番叟が歌舞妓の本筋だと言ふ考へも、地方芸能の比較の結果から言ふことも出来るのである。又狂言の如きも、其々の劇団の草昧時代には、本芸であつたことも、正面きつて言はれぬことはないのである。
曾我を本芸としたある劇団が、江戸において栄えた結果、周囲の他の劇団を風化したのだと言へぬこともない。曾我狂言を演ずると言ふことが、曾我を誇るべき名作・名狂言と自負して居たと言ふことにはならないのである。「曾我物語」と言ふ題材が流行を促すだけの力を、偶然持つた作物であり、又別にさうなる筈の遠因があつたのだと言ふことは言つてよい。同じ事は、奥州芝居で笑ひの種「義経記」の場合にも通じて言はれる。義経記の流布が奥浄瑠璃を発達させたと同じ力が、他の奥芸能に働きかけたとすれば、奥州芝居において、義経の出場なくしてははじめられないと言ふ固定観念を持たせることになつた道筋も考へられる。
曾我信仰流行の地盤であつた駿河、甲斐に近い相摸、武蔵の土地が、早期には曾我信仰を出発点とする歌舞妓を持つて居なかつたとしても、別に余所ほかから、大成しかゝつた姿で流れこんだ曾我芝居をとり入れ、更に之を自由に、放恣に伸して行つたとすれば、江戸の曾我歌舞妓隆盛の勢ひは、自らにして来るのである。さうなれば、最初からあつた狂言を守るやうな形で、曾我狂言を中心にして演じる風の起るのも当然である。
其上に尚今一つ、別の理由があつて、一つ狂言を凡半年に渉つて演じとほすやうな風を作らせたのである。
江戸の芝居は元々、年中開場してゐると言ふ様な風はなかつた。恐らく年一度二度と言ふ風の制度を守つて、其以外に臨時興行と言つた形で、次第に興行度数が殖えて行つたのであらう。前回の出し物とおなじ物を出して居ても、不思議のない程間遠であり、同時に又、年中行事と言つた積りがあるから、出し物はくり返されても不思議ではなかつたのであらう。興行者の企画が進む其を出来るだけ、改めて行くと、曾我のくり返しにしても、その都度一部分づゝ、狂言のさし替へ・作り替へを入れてゆくと言ふ様なことになつて行く訣である。新しい観客ばかりをあてにする後々の興行とは違ふので、見物は常に固定してゐたのである。
ところが五月が来ると、愈曾我の祥月である。彼等が知らぬ間に、彼等の習俗の土台になつてゐた知識は忘れてゐた。其が何となく、彼等の心を刺戟して、ほのかな幻影のやうなものを浮べさせた。
まう御存じのない人々も多いだらうが、曾我兄弟はなぜあんなに、弟の方に印象が深くあるか、殊に昔の江戸つ児と言はれる人々が公平並みに五郎を崇拝するかと言ふと、其竹を割つたやうな気性や、勇力を渇仰するからだと思うてゐるだけでは、答へにはならない。彼の名のごらうが、中世以後の信仰に深い関係を感じさせたからである。此は柳田国男先生も既に言はれた、佐倉宗吾などの怪談も、宗五郎と言ふ名の発音が御霊を聯想させたからだと言ふ説は、動すことの出来ぬ学説になつてゐる。堀田家何代前の殿様を苦しめたと言ふ伝へも、宗五郎のごらうといふ名に因縁があつたのである。さう考へれば、さうした怨霊信仰と関係のある五郎は、鎌倉権五郎以来随分ある。曾我の五郎兄弟は、富士の両麓の国では、随分御霊としての凄い力を現して、何の縁もない後世の百姓たちをも悩してゐる。其為、あの本の土台も出来たかと思はれる程、深い畏れを人に持たし、彼等の短い一代記が段々に成長して行つた。殊に名が御霊の古い一つの発音だつたごらうであつた弟の方が、痩形のやうに段々想像の発達して行つた兄よりも、執念の強いものゝやうに思はれたのである。
義経なんかも、ごらう(ごりやう)に何の縁もない名だが、やつぱり死後の亡魂の恐がられる理由はあつたのである。其為にこそ、関東から奥州へかけて、あんなにまで判官びいきを流行させたのも、謂はゞ恐歓待の現れだつたと言はれぬこともない。若くて心の伸べられなかつた、怨みを持つて死んだらしい人々が、とりわけ恐れられて、京の御霊八社の同族のやうに見られてゐたのである。だから其に持つて来て、五郎など言ふ名があつたものなら、其畏れや思ふべしである。心安らかに死んだはずの五郎なども、おちついて死なしては置かれなかつたのである。若し、純な志の、寃屈して死んだはずだと、押しつけに五郎兄弟も、義経も、幸福な人々の住む後世の農村を祟りまくるものと思ひ定めてしまつたのである。
聯想は無責任なものだけれど、よくまあ此ほどに手をひろげて引つかゝりをつけると思ふ程、合理化の範囲をひろめるものである。日本の田舎では、容易にひつかゝりもつきさうにない遠方同士の間に、同じ様なことを言うてゐる。其が亦、民俗の常態で、不思議とするにはあたらないが、端午の節供(五月五日)を五月御霊といふことなども、かけ離れた土地と土地とが同じ考へを持つてゐる。端午の節供でもあるが、同時に昔の御霊会に関係があつたらしい。五日の日の事にはなつてゐるが、日本の農村では、五月一个月が最重大な物忌の月であつた。謹んだ上にも虔まねばならぬ月である。田植五月であり、五月雨月でもあつた。而もこの月の廿八日は、富士の裾野で兄弟の仇討ちがあつて、ついで二人別々に切られてゐる。五月御霊は、古い御霊会を意味した名だが、かう呼ぶことが既に、色々な聯想の中心に立つた信仰のあつた事を示してゐる。五郎のとむらひ月だといふ、農民たちの考へが、其である。「大磯の虎が涙雨」と言つて、曾我討ち入りの夜に降る雨を言ふと伝へた雨も、唯虎御前に責任を負はせたゞけの昔語りで、さういふことを言ひ出した原因は、農村における皐月の意味の深さ、説いても説きゝれぬ五月の心理を、あゝ言ふ形に説いて見たばかりである。
曾我兄弟をもてはやしたのも、だから簡単に封建人の思想などゝきめてしまつては、先人を謬ることになる。却つてそんな事に関心を持たぬ農民が、あれまでに二人に対する信仰や、伝説を育てゝ来たのであつた。「五月御霊」を、曾我の五郎の記念月のやうに考へた田舎びとが、関東にひろく住んで居て、恐らく曾我にかけかまひもなくなつた後世までも、五月にさへなれば、この若い横死者の伸べ難い心をとひ弔うて慰めなければ、どうも祟られさうで、心がやすまらなかつたのである。其為に、江戸の早期から、曾我座とも言ふべきものがあつて、年が年中、招かれゝば何処へでも出向いて行つて、農村を荒さないやうに御霊の一種になつてゐた曾我殿原の霊を斎ひ鎮める、──念仏狂言にも近いものを行つて居たものであらう。
其が、五月になればひとまづ舞ひ収めて、在所へ戻る、と言ふやうな為来りになつて居たのであらう。一時代も二時代も前の田楽猿楽の時代から、頼まれて地方興行に出たのは、まづ田植時までゞ、その時来れば、さつときりあげて一旦故郷へ戻ると言ふ慣はしになつてゐたやうである。そんな中に近代の初め、武州足立郡に根拠を持つてゐた中村勘三郎などの座が、さう言ふ曾我の狂言を携へ歩いたものではなかつたか。其も此も、風に舞ひたつ田居のほこりのやうに、証拠からまづ亡びてしまつた。
さう言ふ座で舞ひ荒された田舎曾我が、本流めいて立ち直る機会は幾らでもある。其は曾我物語のてきすとを、その演芸の種目にとり入れて、台本の整理をすることであつた。其てきすとこそ、数多い曾我物語の諸本であり、又外に最有力な女舞大夫等──幸若の女舞──の練りに練つた「舞の本」があつた。此は曾我物語の異本のことで、最人望の深かつたものであつた。
底本:「折口信夫全集 21」中央公論社
1996(平成8)年11月10日初版発行
底本の親本:「折口信夫全集 第十七卷」中央公論社
1967(昭和42)年3月25日発行
初出:「新小説 第四巻第八号」春陽堂
1949(昭和24)年8月発行
※「御霊」に対するルビの「ゴリヤウ」と「ゴラウ」の混在は、底本通りです。
※底本の題名の下に書かれている「昭和二十四年八月「新小説」第四巻第八号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:hitsuji
2019年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。