組踊りの話
折口信夫



組踊りは、また冠船踊りとも言うた。明治以前、今の尚侯爵の先祖が琉球国王であつた当時、その代替り毎に、支那がそれを認める冊封使サツポウシといふものをよこした。その使者を乗せた、飾り立てた船をお冠船といひ、それを迎へる踊りであつたからだ。其時には、王宮内に舞台を造つて、そこで演じたので、役者は、すべて貴族・士族の階級から、主として若いものを選んで訓練をしたのである。それを、踊りの性質から言つて組踊りと称した。

すべて演劇は綜合芸術であるが、殊に組踊りはおぺらの様なもので、沖縄の演劇・舞踊・歌謡・器楽の類を全部とり込んでゐるので、それが幾組か連続的に行はれるのである。で沖縄の人は、組踊りとは、幾組か組んだ踊りの意だ、と感じてゐる様であるが、私は、さうではあるまいと考へてゐる。何故ならば、演芸種目の全部が組踊りでなく、その中の、特に演劇的なものだけを言つてゐるからである。或は、殊に面白いものを言つてゐるのかも知れない。とにかく、普通沖縄では、劇的為組みの濃厚なものだけを組踊りと言つて、他の奇術的のものは、組踊りと考へてゐないのである。

ところが、只今では、沖縄でも、此組踊りをいつでも見るといふわけに行かないのである。一人でやれる芸でないから、いつでもやれる、又、一度やれば一年後にやれる、といつたものでなく、数人が相当の期間稽古をしなければならぬので、段々衰へて来た。明治以前は国王の保護があつたけれども、明治以後はそれがなくなつたので、もう真面目にやれなくなつたのである。只今残つてゐるのは、一代前の冠船踊りをやつた人が好きな人に伝へた、それが残つてゐるのであるが、その先輩達も、もう古老に達してゐるので、此人達がなくなれば演出をする人がなくなつてしまふ。我々が急いで此催しを企てた所以である。

今度もつて来る組踊り四つは、いづれも本土の能と関係のあるもので、考へ方によつては、能を観た沖縄の人が、国へ帰つてその地の事情に合ふやうに作りかへたとも見られるのであるが、本道は土台になるものが向うにあつたのである。それが、本土の発達した演劇に触れて、新しいものを書き、振りをつけ、曲をつけるやうになつたので、此中には、まださうした影響をうけない前のものと近代にとり入れたものとが交つてゐる。で、向うでもて囃されるものは、本土のを真似たもので、沖縄のものは、劇的興奮が少いと言はれてゐる。譬へば、「手水の縁」などは、沖縄の豪族の息子と娘とを取材にした、沖縄の事情に通じたものであるが、一向に面白くないと言はれてゐる。

此度持つて来る「二童敵討」は、疑ひなく「小袖曾我」の焼き直しである。工藤に当るのが、勝連の阿摩和利といふ伝説的の梟雄で、それを鶴松・亀千代の二人が討ちに行くのである。阿摩和利は、玉城盛重氏得意の芸で、花道を出て来て、七目付といふ事をする。沖縄の人は、それを大変感心して見てゐるが、恰度、能や歌舞妓を鑑賞するのに特別な見巧者があるのと同じで、約束上感心してゐるだけの事で、根本的には何もないのである。沖縄の人は、勿論、日本民族の別れであるが、永く隔たつてゐた為に、表情言語に通じない点がある。それを乗り超えて感心出来る処と、それが牆壁になつてどうしても感心出来ない処とがある。芸術に国境なしなどいふ事は、空想であると同時に、根本的に共通な点がある。此度のやうな機会に、それを自分の心で計つて見るのは一つの収穫であるだらう。

「執心鐘入」も、道成寺の飜訳だと見られる。本土でも、鐘巻といふ語を使ひ、能では蛇が鐘に這入る事になつてゐる。それを、地理・事情だけは沖縄風にしてゐるが、土地が狭いので、空想を飛躍させる事が出来ない。従つて為組みも小さくなる。此などは、種が向うにあつてこちらの為組みを入れたのか、全然本土のものを持つて行つたのか、問題だが、私は、持つて行つたのだと考へてゐる。

「銘苅子」は、銘苅子といふ農夫が天人に遇つて羽衣を隠し、夫婦になつて二人の子供を儲けるが、十年の後、姉が弟を守りしながら、子守り唄で母の飛衣の在所をあかす。天人はそれを聞いて飛衣を得て再び天に舞ひ上がるといふ筋で、沖縄に昔からあつた話であるが、こちらにも、謡曲の「羽衣」以外に、色々な伝説があつたので、それが一緒になつてゐるのである。実は、銘苅子の発見したのは羽衣ではなかつたのであるが、それを謡曲の「羽衣」風に直してゐるので、「銘苅子」の方が、謡曲の「羽衣」よりも人間的であり、今残つてゐる戯曲の中で一番文学的なものであるが、あまり文学的なものは、却つて、見て面白くないかも知れない。

「花売の縁」は、首里の士族森川モリカハシーが零落して妻子を首里に残し、自分は国頭クニガミといふ田舎──昔の奥州といつた所──へ働きに行く。後、妻が出世をして、夫に遇ひに行くといふ筋であるが、それだけでは簡単であるから、中で猿曳きなどが出る。此趣向は、明らかに歌舞妓の影響と思はれるが、筋は本土にも大昔からある話で、その戯曲化されたのが謡曲の「蘆苅」である。沖縄の人にはやはり此が憐れに感じられるのであらうが、我々が見ては、「蘆苅」よりも、その点薄いやうである。

来る役者は、同地で名人として尊重されてゐる玉城盛重タマグスクセイヂユウ氏と、同じく名人と言はれてゐる新垣松含氏との外、二十名ばかりで、市会議員や女学校の先生なども交つてゐるのである。沖縄では、踊りも三味線も、男の芸になつてゐるので、女で三味線を弾くのは、尾類ズリといふ女郎だけである。勿論、近頃では、女学校で三味線を教へるやうになつた相だが、以前は、芸事はすべて紳士のものであつた。

で、かういふ組織の出来てくる前の形を見ると、村踊りといふものがある。今は、盂蘭盆に、若い者がやるので、それを年長者が指導するのであるが、本来は、若者に成年戒を授ける儀式として行つたものである事が考へられる。それが、都に這入つて複雑になつたのであるが、王に見せるといつても、京都の禁裡を思ひ浮かべてはならない。江戸柳営を頭に置いても、比論は成り立ち難いので、先、大々名の家庭に将軍家の生活気分を加味した位の考へ方がほんたうだらうと思ふ。それほど気易い処があつたのを思はねば、民間との交渉ぐあひが察せられないわけであるが、とにかく、この村踊りが宮廷に這入り、それが江戸時代になつて、朝聘の為、屡、江戸や京都に赴いて、能や歌舞妓を見て、その影響をとり込む事になつたのである。かやうな訣で、劇の筋は本土的のものが多いが、その為組みには、出来るだけ、歌や踊りがとり込まれてゐるので、その点に注意を向けられていゝものがあらうと思ふ。役者の身振りや表情などでは、こちらへ影響するものがあるまいけれども、器楽や舞踊には、必、影響するところ多からうと考へるのである。

底本:「折口信夫全集 21」中央公論社

   1996(平成8)年1110日初版発行

底本の親本:「折口信夫全集 第十七卷」中央公論社

   1967(昭和42)年325日発行

初出:「日本民俗 第十二号」

   1936(昭和11)年6月発行

※底本の題名の下に書かれている「昭和十一年六月「日本民俗」第十二号」はファイル末の「初出」欄に移しました。

入力:門田裕志

校正:フクポー

2019年830日作成

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