春日若宮御祭の研究
折口信夫



おん祭りの今と昔と


春日のおん祭りに関しては、一番参考になるのは「嘉慶元年春日臨時祭記」のやうです。この本は南北合一の頃の記録であるが、元々若宮祭りの記事ではありません。所が、これが臨時祭りの記録であつたのかといぶかるほど、只今の若宮祭りの行事と、ある点までぴつたりと合つてゐる。役々の名前なども大方合つてゐる。其より昔の臨時祭りは、ずつと古い記録で見て、嘉慶記の様な風のものではないだらうかと思はれる程だが、事実さう書いてあるのだから、此頃の事として間違ひはあるまい。今行はれてゐる若宮祭りは、此臨時祭記によつて組織し直したものではないかと思はれるほど、よく似てゐる。

しかし、同時に春日祭り──普通、申祭サルマツりと通称する──も、今行はれてゐる若宮祭りと似たところがあります。今の若宮祭りといふのは、春日祭りと臨時祭りとを突き交ぜたものだといへば、大体さうした疑問は釈ける様な気がします。若宮祭りがある時代衰へたのを復興する時に、さうしたともとれるが、どうも春日祭りとしては、却つて此方が盛んであつたらしいから、其について又色々手入れをする機会があつたのではないかと思はれます。一つは此御祭は盛んは盛んでも、本宮の二度の恒例臨時の祭りと比べて、本質としての重要性が軽いとでも言ふか、まあそんな事から、時々延期したり、延期したまゝ挙行せずにすました年もあり、又もし行つても極々内々ですました年も度々あつたらしく、頻々と間隔が出来て居ります。勿論室町以後の記録です。其以前にもさういふ事がなかつたとは言へないとすれば、毎年行つて居なければ段々変形し、忘却して来る様な事はあつたといへます。

今度、二度目に若宮祭りを拝しまして、先に感じなかつたことを申せば、大乗院寺社雑事記を見ますと、毎年の恒例だからではありませうが──記事は頗、簡単である。けれども時々参考になるいゝ記事がある。譬へば、

祭礼行烈次第、別会五師以中綱進之。小番取進之──尋尊大僧正記(享徳三年十一月廿六日)

同様な文が後に見える。譬へば、長禄二年十一月廿七日の所に、

自別会五師方行烈次第以中綱進之。小番取進之。立紙ニ書、之本式也。但近例折紙ニ書之。馬長頭 弁法印・善定房法印権大僧都・宗禅房権少僧都・定清大法師・懐兼大法師。田楽頭 琳舜房権律師・浄真房擬講。流鏑馬……自余如例也。

これらによれば、田楽は興福寺から出すものである。さうして五師から、其々田楽頭の出ることも知れる。若宮祭りに年地を定める五師の坊から、若宮祭りをまかなふのであつて、本座新座の田楽も、五師の坊の監督で出る猿楽も、この五師の坊に関係はあるが、田楽から見ればずつと交渉が薄くなる。五師の坊中心に見れば、田楽はうちの者、猿楽はよそから来るといふやうな様子がみえる。

若宮祭りは若宮の神官が行ふのであるが、所謂「おんまつり」の行列は、五師の坊が行ふものというてよいのである。

「春日若宮御祭礼図」を見ても、只今とは時間が違ふ。お祭りの行列がお旅所に這入ると、直ぐに接続してお旅所の儀式が初まるやうで、だいぶ時間が変つて来ている。それよりも私の一番失望したのは、御旅所の芝舞台が臨時祭記にはちやんとした舞台としてあつたらしいことである。今のは即、土居の舞台である。前回来た時も今度と同様、芝舞台であつた。私は其が古くからの形だと信じて、相応の理論を導いて来た。芝舞台が先入主になつて、それからいろ〳〵空想してゐたのだが、それがはづれたのである。

臨時祭記の御旅所の舞台の図では、板の舞台でなければならないと思ふが、芝の様にも見える。もしそれなら、露台とでも書きさうなものだ。

又、図にある舞台前方の「中門」は、後にいふ埒であらうが、或はもとから、埒であつたのを、中門と呼んでゐたのかも知れない。


祭りのお練り


若宮を出てお旅所に這入るあのお練りは何であるか、と言ふと、同じく御神幸を中心とした行列と見えるが、実はあゝ言ふ風なのを私は近頃「招かれざる客」といつてゐる。方々の祭りの節、まれびととして臨む者の中、正座に来るのが真のまれびと。そしてそのまれびとに正式に随行して来る一行がある。所がさうした客座の外に立つて、之を眺めてゐるものが来る。これが精霊、すぴりつとに当る者で、祭りや饗宴を羨んでやつて来るのである。

田楽や猿楽についても其が言はれる。田楽は内々の者、猿楽は外のものである。だが同時に二つながら、若宮祭りからいへば、招かれざる客なのである。其田楽が正式のものゝ姿を備へて来ると、又猿楽が其に対して外の者として添うて来る。絵で見ても、田楽師の扱ひが違つてゐる。又、八処女等の神楽に対しては細男セイナウといふ異風なものが出て来る。

少し話は違ふが、雅楽を盛んにするのは、──此想像は大分問題になりさうだが──相撲に雅楽が附いて発達して来たゝめではないか。相撲の節会には、雅楽が附きものであつた。臨時祭記にも雅楽は見えてゐるが、どうも相撲との関係からさう思はれる。かうして見ると芸能の組合せにも、皆相当拠り所がある。わき芸とももどきとも附属芸ともいへる。それで、三つのものが六つにもなつてゐる。

芸能以外のもので見ると、行列の最初に、京都から来た氏の長者の使に当る者とせられてゐる日の使が出る。それに対して五師の坊から沢山の人が出る。馬長の稚児が出て来る。馬長頭と言ふ名目が大乗院寺社雑事記には見えて、五人出て居る。其が出ないで稚児だけが出るやうになつてゐるのだ。それをめぐつて供が出る。その外願主が一つの中心になつてゐるが、出る所がきまつてゐる。只今忘れたが、神様が外へお出ましになつて活躍して居られるときは、願をかけて聴いて頂けるものと信じた。其が祭りの時の願主である。主として神楽を奏して法楽を奉るつもりなのであらう。それは大和の豪族が出なければ願主が出ないから、祭りの要素が欠ける。それだから郡山其他大和の諸侯が参向するやうになつた。

その外大きな太刀を持つた者が出る。あれは奈良の六方法師・六方衆ともいふ者の流れであらう。これが芝居の六方の語源をなすものです。闊達といへば闊達、乱暴狼藉なる六方衆の風が、芸能化して伝つたのが芝居の六方である。この六方と語は変るが、かぶきと言ふ語からして、そもそもさうだし、其から寛闊丹前などゝ、外形も内容も変つて行つたが、この六方法師は祇園の犬神人、加茂の放免などに似た行装であつたからだらうと思ふ。野太刀も、其姿をうつしたものと思はれる。

春日祭りならば、宮廷から近衛使が出なければならず、それと共に内侍使が出ました。春日祭りはもと〳〵斎女が出て、それが内侍使になつたのです。近衛使はそれについて送つて行く形だつたのが、却て此方が使の本体らしく見え出したのです。其から藤氏の氏の長者自身、其と別に出向いて来る事がありました。此が氏使となつたのです。臨時祭りには近衛使や内侍使が来ない。これも特別の事があつて、もと氏使が来たのが、其も来ないで、その又代理といつた意味で、奈良で出すやうになつたのが日の使だといふ説がよい様です。

興福寺の僧が日の使に扮したのであるといふが、日の使の意義は、はつきりわからない。が、ともかく宮廷から来たものではない。この日の使は若宮祭りにもとからあつたかどうかわからない。此起原の説明として、藤原忠通が、これに当る役を勤めた処、急病で装束を楽人に与へて代理させ、その日の使に命じたから日の使といふ、といふ伝へは訣らぬ様で意味がありさうだ。交替で勤務することが、日の勤めであり、蔵人にも日下﨟ヒノゲラフなどいふ名称もある位だから、当番のことである。当番の人が使として来る位の義かも知れぬ。併し、春日祭りに本来の性質を等しくしてゐる、大原野祭りで見ると、此祭りには神主が卜ひ定められる。其には藤原北家長岡大臣(内麻呂)の子孫から採るといふ事になつてゐて、毎年さうしてゐたらしいことは、北山抄にあります。だから、京都から来なければならなかつた時代には此使が、神主以外に今一人毎年下つたと見られませう。さうして其が何時の代からか、出る家が──内麻呂流でも──きまつて、日野家一流といふ事になつてゐたのではないか。其は内麻呂流では、此流れと今一つ藤原本流ともいふべき冬嗣の系統の外は微々たるものだから、結果日野流が、かういふ方面には用ゐられるのでせう。大原野神社では一年神主であり、春日では若宮祭りに日野使が出た、かういふことになるのではありませんか。ともかく若宮祭りの行列に出るものゝ中には、興福寺から出るのに繋らず、臨時祭りは勿論、春日祭りに出た種目も出来る。僣上といへば僣上だが、一つの模擬行列です。さういふ所があります。だから前にも言ひました臨時祭りを型としてゐるものだといふ事が、はつきりして来ます。

それから巫女、芸能の者が出て来る。更にも一つ流鏑馬が出る。これは願主に附属したものである。それから大和大名の連衆、六方の連衆が出た。それで一通り、祭り行列の整理がつく。つまり、神ではなく、招かれざる客の一行で、それが神の祝福に来た形だ。そしてそれは、春日祭りや臨時祭りの一行の形に似せた姿を見せてゐるのである。


公人の梅の白枝ズハエ


行列には二種類ある訣で、芸能の連衆と、京都からの使とに大別されるが、初めの方は、拍手の公人、戸上の公人とある。旧記には既に公人の字を書いてゐるが、公人は奈良だけの宛て字らしい。戸上拍手カシハデはわからないが、「とがめの公人」だといふ説もある。梅の白枝ズハエを持つてゐるのがそれで、多くの旧社の祭礼には、これが先頭に立つ事が多い。

これはチハヤをかけ、その裾を長く〳〵引いてゐる。臨時祭記にも出てをり、寺社雑事記にはこれに要する木綿の分量も書いてあります。このちはやは年中行事絵詞の加茂祭りの条にもあり、春日霊験記でもかけてゐる。加茂でも春日でも又余所でもかけてゐるが、異風な感を興させるもので、お祭りにはふさはしいものである。巫女がかける笈摺に似たもの、あれも襅である。能などでは袖なしの前のあいてる側継、あれがちはやである。公人のは裾を長く引きずるのが特長だが、加茂祭りもその通りである。元来このちはやは、裂地の中に穴をあけ、其処に首を入れて前にも後にも垂れるもので、原始的な着物である。着物が発達してからは、その上にかける、といふ状態になつたのである。

公人は奈良だけだらうと思ふのは、これが春日神社から出たのではなく、興福寺から出たものだからだ。「公人」は候人、即、さむらひゞとである。寺にゐる一種の武力をもつた奴隷法師なのである。「候人」を音読もし、又「さむらひぼふし」とも言つた。

梅の白枝はしもとで、警固の為の意味の物である。社々の前駆には、梅のずはえを持つことが実に多い。春日霊験記にある、鏡を盗んだ男を捕へ、鏡をとり返して帰る行列にもそれが出てゐる。申祭りの時に、故老の神人が南大門から南に向つて、祭りの終りに強盗々々と中音で言つたと言ふ。其理由はわからぬが、ともかくも昔からして居るのだと答へたよしが御祭礼図に見えてゐるが、其処にも書いてあるとほり、春日祭りにつきものゝ為来りだつたのが、江戸の享保まで残つてゐた訣だ。江家次第春日祭使途中次第に詳しくあります。一種のきまつた余興とも演劇ともとれるものです。之が昔は行はれてゐたのだが、後にさう言ふ事もなくなつて、しかも尚男の乳房のやうに、どこかに縋つて残つて居ようとした形が見えます。だから大宮祭りのが臨時祭りに、臨時祭りのが若宮祭りにといふ風に、次第に這入つて残るわけもわかります。一度さうした盗人が、春日使一行を襲うたことがあつたのでせう。其が歴史になつて、くり返された訣です。

白馬の節会に、犯人を作つて梅の白枝で打擲すると言ふ例があるが、北陣で検非違使が雑犯を裁断する式も、白馬節会のつきものです。起原が一つと考へられるのはおもしろいが、ちよつと場合が違ひますし、まあ宿題にしておいた方がいゝ。

公人がするのかどうか、誰がするのかわかりません。古くは近衛使について行つた近衛府の下部のやうです。禄を分ける前提として、盗人を拵へ、之が隠匿した贓物の所在を白状する、といふ事になつてゐます。狂言の「瓜盗人」の鬼の責めが思ひ出されるが、斎藤香村氏によれば、「鬮罪人」はそれよりも、もつと為組みが複雑になつてゐます。祇園会の山鉾を出す相談で、地獄の鬼が罪人を責めるところを囃子物に乗せてしようといふことに定まり、主人が罪人、太郎冠者が鬼の鬮を引きあてゝその稽古をするといふのです。

愛知県には「かんど打つ」といふことがある。それは祝福に行つて物を貰ふことにさう言ふらしい。祭り日の闖入者、饗応の座を羨んで這入りこんで来る者といふことになる。さうした処に由来がある。白枝は、奈良のは特に長い。

十列の稚児はもと〳〵伶人なんでせう。舞人は武官です。使の伴だから陪従。其が素らしいのです。舞はないのではありませんが、普通は歌の方です。それが東遊びなどに関係します。


若宮の祭神


若宮様は、元は畏い神でおありになつたのかどうかと言ふことだが、これについては、明応七年十二月三日、

昨夕自九条殿御書到来。若宮御本地事、預御尋、可注進之也。

とあつて、其後に、案文が載つてゐる。

……春日若宮御本地事。文殊候。令師子間シシノマ給故也。(師子間者大宮殿第二御殿与第三御殿之間於申也)御出現時分事如仰長保五年候歟。不存知仕候。被別殿候事者、大治二年候。祭礼初候事者保延三年九月候。

其外、十一面観音、阿弥陀八幡が若宮と示現せられたともいふと謂つた風な異説をあげて、此にもまだ異説はあるが、悉皆を南無阿弥陀仏と御祈念あるべく候といふ様な答申をしてゐる。まるで落し咄です。九条殿では驚いたでせう。

若宮が天押雲命だといふ説は、御祭礼略記にあつて、「名法要集にあり。然れども若宮神主一家の秘にて知ることなし。長保五年三月三日、二三の御殿の間にあらはれさせ給ひしを、時風トキカゼ五代の孫中臣連是忠三の御殿に移し祝を奉る云々」と、こゝでも祟り神だとある。たゝり神をば、大きな威力のある神様に附属させて、若宮と呼んでナゴめ鎮めるやうにしたのだといふのが、柳田国男先生の若宮考です。殊に八幡神関係について詳しく説かれてゐます。

若宮と若宮八幡との関係を考へれば、細男の出るのは八幡系だといふ考へも出て来るが、それは少し合理化しすぎるでせう。

祭りの時期は、しきりに動いてゐる。動かない方が不思議だと思はれる様な時代さへありました。大和や河内に変事があつたりすると動いてゐます。

今は八月十一日に御旅所を造り、九月に棟上を行つてゐるが、寺社雑事記時代は、原則としては、十一月廿七日だと思ふが、それさへ動揺がある。若宮祭りは九月十七日に行つたといふのが記録にある古い形でせう。平安朝末期です。併しどういふ訣か、若宮の祭礼の日は動揺が激しいのです。第一、旧記類で見ても、戦乱や物忌みで延すのは勿論、雨や荒天で延期してゐる例も段々あります。祭りに附属した芸能の行はれない様な場合には、日を替へることが出来たらしいのです。本社の祭礼にも延引の例が多いのですが、何か我々には窺ひ知れない理由と、日を替へる方法とがあつたものと思はれます。殊に若宮祭りが五月に行はれてゐるのなどは、不思議だが度々あります。


大和猿楽・翁


猿楽の大和の四座は、春日神社からはかなり遠いと思はれるが、大した事はない。本家が他国に移つてゐたことが、中間にあるとすれば──京都でなく──其期間は別だ。宝生はやゝ遠くて、昔の足で半日だが、観世などは結崎だし、金剛の坂戸だつて半日かゝらない。

金春は、翁に対して、他流とは特別な点があるかどうかと言ふ問題だが、これについて、斎藤香村さんは、「金春は四座の中では最古いから、翁もやはり金春が古いと言はねばなるまいが、この翁について、金春と観世との間に、古く足利時代に問題が起つた事があつたらしい。それは、観世大夫が、代々京都の吉田神社から翁の伝授を受けてゐる一事から想像されるので、単に翁の神聖を裏書きする必要だけではない様な気がする」との説です。


影向松・鏡板・風流・開口


松の下の開口能の、例の影向の松だが、これは、昔からある標山シメヤマ──王朝時代の大嘗祭では、ひをのやま、或はへうのやまと言つた──の信仰から考へて、神様の天降りなさる場所を、人がこゝときめてゐる。さうした木のある所が標山で、春日の一の松もこれで解決すべきものだらう位に漠然と考へてゐました。ところが今日の能舞台などの「鏡板の松」をこの影向松を表したものだといふ高野斑山博士の説が発表になりました。如何にも尤だと賛同してゐました。勿論其通り、標山・鏡板もおしつめれば一つになるのですが、まうちよつと、鏡板の松に直接に関係あるものが介在してゐるやうな気がします。昔の松拍マツバヤシを考へると、松の木を切つたものを曳いて来て、其を中心に大家の祝福をして廻つてゐる。それが松拍マツバヤシなのです。神木の一部分を切つて持つて来る。即、其に御分霊がのりうつゝておいでになる。春日でいへば、時々都へ動座なされた神木といふのが、同じ信仰です。この伐りはやし(伐る・截るの祝福語)た木即、松のはやしを牽いて其下で演じた芸能であるから、中門から庭の芸になり、庭から舞台の芸になつても、なほ、はやした木だけは其形容を留めてゐる。其が段々誇張せられて老木を描くやうになつた。猿楽は古く松拍を行ふ徒だつたとは言ひきれません。尤、猿楽役者も後に松囃子を行うたことは確かですが、かう言ふ祝福芸能の村々では、拍子ハヤシ物を持つて居るのが多かつたし、拍子物の実体は囃すからはやし物でなく、さうしたひき物があり、ねりの中心になつてゐた事は考へなくてはならぬのです。ついでに橋掛りの松だが、斑山博士の説明は、橋掛りの松にも関聯して居まして、如何にも心ゆくうつくしい感じ方でした。此は私の方ではうまく説けないのです。唯、猿楽以前の先輩芸能の舞台に既に其があつたと見るのが、ほんたうではないかと思ふのです。

風流も、翁烏帽子狩衣で、私どもの考へてゐる風流といふものと違つて感じられる。斎藤氏によれば、三笠風流といふのは、明治になつてからの新作ださうです。


細男・高足・呪師


細男は主として退る足ばかり、舞楽は出る足ばかりでした。此は大変おもしろい事だと思ひます。斎藤さんが「大ていの芸能が出るのに呪師が出て来なかつたのは一寸意外に思つた」と言つてをられたが、田楽が発達して来ると、その中にとり込められて、呪師其ものは痕を潜めました。だから今日呪師を見ることは望めません。五師の坊であれだけ保護したのだが、流行の力がもつと大切だつたのでせう。流行しなくなると忽ち他の芸能の中へよい物が吸収せられて了ふ。田楽自身があの通りで、今度は刀玉など曲りなりにもやつてゐたが、前はあれもなかつた。

高足なども、工夫がしやべるを足で土へ突き込むやうな形をするだけで、一寸足をかけるだけで、一向たあいのないものだが、今だつて高足に乗る地方の祭りが多いのだから、何でもないのです。一本足の竹馬のやうにして、両足をかける横木がある。それに乗つて走るんでせう。正しくは一足でせうが、何処でも高足タカアシといふ様です。唯の一本の高足が、竹馬になつて珍しくなくなつてから、一足を高足と専ら言ひ慣らしたのでせう。

底本:「折口信夫全集 21」中央公論社

   1996(平成8)年1110日初版発行

底本の親本:「折口信夫全集 第十七巻」中央公論社

   1967(昭和42)年325

初出:「能楽画報 第三十五巻第四号」

   1940(昭和15)年4月発行

※初出時の表題は「春日若宮御祭猿楽の研究」です。

※底本の題名の下に書かれている「昭和十五年四月「能楽画報」第三十五巻第四号」はファイル末の「初出」欄に移しました。

入力:門田裕志

校正:しだひろし

2011年210日作成

2016年414日修正

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