神楽(その二)
折口信夫



日本の神道に、最重大な意味をもつてゐる呪法の鎮魂法が芸能化した第一歩が神楽だと思ひますから、どうしても、日本の芸能史に於ては此を第一に挙げるべきでせう。その点であんたが此の問題に第一指を触れられたのは見識があつたと思ひます。

あんた自身もさうでせう、一緒にやつて来た私もつく〴〵感ずることですが、すべての芸能に対してもさうだつたやうに、殊に神楽では、我々の考へが幾度変つたか訣りません。其中でも神楽の起源については、実に豹変に豹変を重ねて来たわけで、何処まで自分の前説を取り消さなければならないかと考へる位です。さうして此頃やつと暫定式な結論だけは得たと思ひますが、併し、さうしてみると、昔の人の言つてをつたのと大して違はない所におちて来たやうな気がするのです。どうせあんたの今度の本にも出て来るでせうから、あんたの書いてゐる部分をまう一度繰り返すやうな形になるかもしれませんが、一言だけ付け添へることに致しませう。

私共が最初、内侍所の御神楽だけについて議論してゐた時、あんたから注意を与へられて、清暑堂の御神楽の方も考へなければならぬといふことが訣つたのですが、今になつてみると、結局清暑堂の御神楽の方が、内侍所の御神楽よりは古いものだつた。さうして、神楽の歴史については、まう一つ重要な暗示を含んでゐるものだ、といふことがだん〳〵訣つて来ました。平安朝中期以後の神楽の形を考へるのに、まづ、そのうちに清暑堂の御神楽の要素を強く認めなければならない。その外に、薗韓神まつりの神遊び、之を加へたゞけで大体伝つてゐる神楽の形はできると思ひます。その外に色々な地方の大社、或は国々の特殊な神遊びが宮廷に摂り入れられて、それが合体したものだ、と言へば、それで足りるのだと思ひますが、さうすれば清暑堂の御神楽といふものが、どうして起つたかといふことが問題になります。これは恐らく大嘗祭に接続して、豊楽殿の後房、即、清暑堂で行はれた御遊が、大嘗祭の意味に於て毎年繰り返される新嘗祭にも行はれたといふところから、毎年行はれる御神楽となつたことは、まづ間違ひないことだと思ひます。それならば、御神楽が何故大嘗祭に行はれ、十一月に行はれないか、といふことになりますが、これは簡単に説明出来ると思ひます。つまり、同じやうな神遊びをもつてゐる鎮魂祭が、新嘗祭に近く行はれるからです。それならば、鎮魂祭の時にどういふものが行はれるかといふと、神遊び、倭舞、此の二つといふことになつてゐます。その倭舞のかはりに薗韓神の神遊びが這入つたものが、とりもなほさず御神楽だといふことになるのです。同時に宮廷が大和においでになつた時代と、山城京にお遷りになつてからとの相違を見せてゐる訣なのです。

あんたには説明するまでもないことですが、この本を読まれる人たちの為に薗韓神を我々の考へてゐる形で説明しますと、韓神は山城京の定つたその場所の地主神、薗神は大和時代で言へば御県ミアガタの神、謂はゞ宮廷の御屋敷をとりまいて散在してゐる宮廷の御料の食物其他を生産する土地の神ですから、結局、この二神は御県の神と三輪或は大和オホヤマトの神にあたる訣です。だから御神楽といふものが、山城京になつてまとまつたものだといふことは、その一事でも説明出来ます。だが、世間の人にはまだ認められないことかもしれないが、我々仲間では定説にならうとしてゐる神楽のいま一つの大きな起源が、その上に加はつてゐることは疑はれません。つまりそれが、この本の中にも見えてゐる石清水系統の神遊びです。

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神楽の宮廷で行はれた、ごく自由な様子はよく訣らないのですが、御遊抄を見ますと、後一条院の長和五年の条に「他の宰相等相共に豊楽殿の東廂より建春門に到り歌曲を唱へ舞袖飄す」とあるのが、他の清暑堂の琴歌キンカ神宴の記述と違つて、神宴御遊果てゝ退出の時の様子を書いただけに過ぎませんが、凡、その時に行はれた神楽のもどき或はやつしと謂ふべき形が窺はれるのですから、従来考へてをつたやうな極めて狭い範囲のお庭のうちにかしこまつて行つてをつただけではなかつたやうに察せられます。さうして、この御遊抄から更に察せられますことは、所謂管絃の御遊に関しての記述ばかりで、舞ひを奉仕したことは、今挙げた例、或はそれより前の天慶九年村上天皇御宇の記述くらゐのものです。そこには「御神楽御遊内舎人ウドネリ十人、弾琴歌人二人」とあります。だから、全く舞ひが加はらなかつた訣ではなく、恐らく御遊と併行してそれが行はれてゐて、謂はゞ殿上と砌の下の舞ひとを、同時に行はれる別々のことに見てゐたやうに思はれます。これが一つになつて所謂琴歌キンカ神宴或は清暑堂御遊といふやうな名称を失うて、御神楽と称せられ、更にそれを庭上の神事といふ風に形を変へさせ、時期もくり下げて十二月に行ふやうになつたものと思はれます。さうして後に宮廷の御神、内侍所の神いさめに奉る風も生じて来たのだと思ひます。同じ宮廷にある御神でも神祇官にいらつしやる御神の為には既に鎮魂祭の神遊びがあるのですから、これが内侍所に止まつた理由も察せられます。さすれば、庭の神事或は庭の芸能になる道筋を言ふ必要はありませう。

神々は音楽がお好きであり、又和やかな噪音が神慮に叶ふものであり、殊に末座の神々はさうした欲望が非常に深いものと古人は考へてゐたのですから、清暑堂に御遊がある節には、宮廷の地主神並びにその周囲の神々が垣間見をし、更にもの見高く内庭にまで這入つて来られる様子が考へられます。其故、その頃殊に新しい勢力を持つて都近くまで近寄つて来てをられた石清水の神が這入つて来られ、大体石清水風に庭の芸能を統一せられたものと思ひます。勿論それ以外にも、諸国の神々が宮内或は内庭に集つて来られ、それ〴〵の神遊びを宮廷に寄与せられた様子は残つてゐます。

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さつきの話ですが、人長の成立に関する想像を述べて見れば、大体神楽の疑問になる点が訣りさうですから述べてみませう。

京都辺の大社──賀茂・平野・梅宮・石清水、これ等の社の祭りにはそれ〴〵山人が参加してゐます。江家次第の平野祭に拠ると、山人は左右の衛士だといふ風にあります。其が而も、この祭りには二十人も出ます。これに対して梅宮では僅か二人です。どの社も山人が榊を持つて来て、これを斎庭に立てることになつてゐるやうですし、その上これが臨場する時に、祭りに関係した男女が出迎へることになつてゐるやうです。だから尠くとも、最古い祭りには真の山人が来たものとみてをつたに違ひありません。それが、段々仮装した山人になつた訣です。さうしてこの山人は、同時に薪を立て、庭燎を焚き、倭舞を舞うたことが梅宮に関する江家次第などの記述を中心として考へると訣ります。だから、山人は宮廷が大和においでになつたときからのものだといふことが推察出来るし、かたがたこの本にも出てゐるであらう「穴師の山の山人と」の歌などが傍証を示してゐます。これで神楽における庭燎の意味も相当に訣るし、同時に、人長その他の成立も知れるといふものです。楽家録に拠りますと、人長が手に持つ榊は、御神楽の日に、吉田山・賀茂山などから衛士が伐り出したのを、内侍所の女官に渡して置き、刻限に及んで内侍所の南階の下で、人長が女官から請ひ受ける。その時「人長の榊、人長の榊」と呼ぶやうにあります。女官が人長に授ける榊は、長さ四尺許りに切つてあつて、枝は上の方二尺ばかりにとゞめて、下はゝらつて柄として持てるやうになつてゐるさうです。これは、主客が顛倒したやうに見えますが、同時に人長が榊に関係の深い事、それから山人の為事から出て来た役だといふことも察せられるやうです。さうして人長が歌人・楽人等のザエを試すのは、つまり山人の主だつたものが、その仲間の中のものを一々指摘してその才を演じさせるといふことになる訣です。而もそれが後には、衛府の宮人の役になり、才男サイノヲとまた別に歌人・楽人があるやうに想はれて来たのでせう。

神楽で最目のつくものは、殆、人長ばかりが舞つてゐるやうに見えることですが、他の人々には各、それ〴〵の才があるので、その才を特殊なものにして来た結果、人長の一人舞といふ形を生じたのでせう。だから、譬へば、前張サイバリを勤めるものゝあることを韓神の後に述べて、自分の座にかへります。そこで前張が始つて、それがしまふと朝倉になります。かういふところから、また歌が分化して、外国音楽の呂律に合つた催馬楽が出て来ることになつたのでせう。清暑堂の御遊には、堂上方の歌ふものが呂と律とに分れてをつて、それが特殊なものゝ外、譬へば安楽塩・鳥の破の如きものゝ外は、所謂催馬楽なのです。堂上方の御遊と庭上の芸能とは、別々に並行してゐる筈なのが、何時か堂上のを庭上に移すやうなことにもなつて来たのです。この芸能のはじめ〳〵に勧盃ケンバイが行はれます。これが恐らく、今も東北地方の神楽系統のものに含まれてゐる剣舞ケンバイといふ風に理会され易いけんばいの名のもとなのでせう。つまり酒を飲んで芸廻しをするといつた意味と思はれます。

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勿論、皆さういふ(才を試される男と才男とは同じ語)つもりで記録は書いてゐると思ひますし、或は語はそこから出てゐるかも知れません。しかし、語原は、別に考へられることは、あんたもさうだつたし、私も今まで言つて来たところで説明は尽きてゐるのですが、逆にかうした順序をとつて出て来た語と言へないこともないのです。しかしさうすると、宮廷以外の人形をもつてする才男の説明が、全部宮廷の才男をもととして説かなければならないことになるのです。たゞ、どちらでも宜しいが、人形をサキにする方が如何にも才男の説明には都合がよかつたのですが、さういふことが若し言へるとすれば、語だけは宮廷の才男が原であつても、人形は人形で自ら他の社或は国に於て発達し、宮廷の才男は又別に発達して来て而もその才男の中から、地方の人形のするワザと最近い芸能を行ふものだけの名称を才男といふことになつたとも説明出来ませう。しかしこれは、宮廷側の記録の才男の説明が、或予断があつて出来てゐるものと思はれますから、今のところはまだ〳〵そちらへは決められません。

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どうも、人長の持つ輪といふものは、楽家録には鏡に見立てたものだとあつたり、曲玉マガタマに見立てたのだといふ風にもありますけれども、それはたゞ、さう考へただけのことで、輪そのものゝ形は、到底榊の枝に下げられるやうなものではないのです。即、輪の製法は「小円木を以て作る、径八寸」とありますから相当に長い枝を折り曲げたものです。それと共に「柄有り、長さ一尺八寸」とありますから、謂はゞ靫猿ウツボザルの踊りに見ることの出来るやうな、又、どうかすれば普通の猿廻しも持つてをつた環鞭のやうなものなのです。さうして「白粉を以て之を塗り、白糸を以て輪を柄に結び附く」とあります。而もこの輪が、登比加介留トビカケル又は釣招といふ名であつて、「庭燎諸歌の時、人長のとびかけるときこれを投げ掛く」とあるのは、誰に投げ掛けるのか訣りませんが、「人長輪を冠にかけて之を引き止む」とありますから、人にかけることは確かです。輪をとびかけらして人を捉へたところからこの名が出来たものと思はれますが、今ではその目的が訣りません。しかし、かういふ為方で他をつりまねくことは、恐らく同等の人間にすることではなかつたでせう。そこに、神楽の人数の中には異常なものが混つてゐることを示したことが訣ります。即、たゞの宮人たちが神楽を勤めるのではなく、人以外の者が来て祝福の芸能を演じたことを意味してゐるのではないでせうか。

それから、あんたの言はれたヒザツキを蹴るといふことですが、これ亦人長のする特殊なことで、楽家録には、軾を蹴るやうに見えるだけだといふ風な説明もしてをります。「人長庭燎に立つて本末に行く時、軾を蹴る事、之を故実となす、然れどもこれ不解の説か、今案ずるに人長軾の前に立つて三つ拍子を踏み、東方に行き立ち、又軾の前を経て東方に行き立ち、その度毎に腰をめぐらし裾をよせる形をなす、事を好むもの誤つてその躰を見てこの説をなすものか」とあつて、寛永の内侍所の御神楽の時に、四辻大納言がオホノ備前守盛忠を呼んで、軾を蹴らないやうに下知せしめた云々とありますが、是等は証拠になりません。たゞ、三拍子を踏むのも事実だつたのでせう。それをすることが即、軾を蹴ることにあたるのだつたら、別にかうした説は意味のあるものとは思はれません。人長が左右左と足踏みするのは、三拍子の法を書いた条を見ても訣る如く、これは反閇の単純なものらしいのです。たゞ軾が常に用ゐられるのは円座と同じ用途なのですから、それを蹴るといふことに或不調和を感じてかうした説を立てたのでせうが、我々が畳莚は座る為に用ゐてゐながら、又、反閇の範囲を模型式に示すことがあるのを思へば訣る筈です。つまり軾が、畳莚の代りに踏まれる、大地を意味してゐるものと見るのがほんたうなのでせう。祝福に来臨したものが、その庭を踏み鎮めることはあるべき筈で、舞踊と目的を一つにしてゐて、而も、もつと明らかにその目的を示してゐるものでせう。譬へば、猿楽能における翁・三番叟の踏むことゝ、他の五番能に於いて舞ふのと両立してゐるやうなものです。たゞ、あまりにこの神楽なる芸能が発生の時を去ること遠く、宮廷に這入つても、早く部分々々の意義を忘れてしまつてゐた為に、後世から思へば、とんでもないことが行はれてゐた訣なのでせう。それはあんたのこの御本に詳しく説明されてゐることですけれども、日本民族の間に、神楽以後に発達した芸能が、何等かの形に於て他の芸能を出来るだけとり込んで来たやうに、既にさうした日本芸能の宿命風な方向を、この最古い最神聖な芸能が暗示してゐたと申されるでせう。

底本:「折口信夫全集 21」中央公論社

   1996(平成8)年1110日初版発行

底本の親本:「折口信夫全集 第十七卷」中央公論社

   1967(昭和42)年325日発行

初出:「神楽歌研究」畝傍書房

   1941(昭和16)年5月刊行

※底本の題名の下に書かれている「昭和十六年五月刊、西角井正慶著「神楽歌研究」序。著者との対談」はファイル末の「初出」欄に移しました。

入力:門田裕志

校正:フクポー

2018年426日作成

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