沖縄を憶ふ
折口信夫
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秋の日は、沖縄島を憶ふ。静かに燃ゆる道の上の日光。島を廻る、果てもない青海。目の限り遥かな水平線のあたりに、必白く砕ける干瀬──珊瑚礁の波。私は、島の兄弟らが、今どんな新しい経験をしてゐるか、身に沁みて思ふのである。
島の寂しい生活も、も少し努力すれば、心だけは豊かにさせることが出来た筈であつた。元々、我々「本土日本人」と毫も異なる所なき、血の同種を、沖縄びとの上に明らかにすることなく、我々は、今まで経過して来た。今になつても、まだしみ〴〵と血を分けた島の兄弟の上を思ひ得ぬのは、誰よりも、歴史・民族の学徒が、負はねばならぬ咎である。
我々と、島の兄弟とが、血と歴史とにおいて、こんなに親近な関係にあつたことを、本土と、島の全日本に、もつと早く学問の上から呑みこませて置かねばならなかつたのである。どうしても離れることの出来ぬ繋りと、因縁とを、なぜはつきり告げて置かなかつたかと言ふ後悔が、此頃頻りに私の心を噛む。
支那から殖民したものゝ子孫だといふ風に、沖縄びとの出自を空想してゐたことが久しかつた。その妄想が、少くとも島の知識人の間では、近年可なり正されて来てゐた。我々の兄弟であることを悟つて喜び誇り、手を取つて、相離れぬ深い因縁を感謝したことであつた。併し其間も、日本本土の人々は、知識あるも、又それの乏しきも、さう言ふことには、関心も感激も、持たぬ様な顔をしてゐた。けれどもさすがに、半世紀昔のやうな、新しく領属した島及び住民だと謂つた考へ方は、せぬ様になつて居た。
くり返して言ふ。
沖縄の人々は、学問上我々と、最近い血族であつた。我々の祖先の主要なる者は、曾ては、沖縄の島々を経由して、移動して来たものであつた。其故、沖縄本島を中心とした沖縄県の島々及び、其北に散在する若干の他府県の島々は、日本民族の曾て持つてゐた、最古い生活様式を、最古い姿において伝へる血の濃い兄弟の現に居る土地である。此だけは、永遠に我々の記憶に印象しておかねばならぬ事実である。
この島々、今後地図の色わけはどうなつて行かうとも、寂寥なる人生の連続することにおいては、ちつとも変ることはないだらう。さう言ふ島の人生の間にも、この血の歴史を思ひなぐさむよすがとして、空漠たる此から先の長い年月を、健康に長らへて行つてくれたまへ、と私はかう言ひたいのである。
島にはまだ、独自の芸術の生まれる機会はなかつた。さう言ふ博い人生の存在を暗示する文化が興るには、島の社会は、狭きに過ぎてゐた。たとへば、些少の誇張を用ゐれば、王宮の門と、町民の背戸とは、相望むことが出来た。事実においても、「尚」王家の数代前の御主「顥王」など言ふ御人は、離宮で作つた瓠を、那覇の市で売らしめた。人之を「王様瓢」と称へて、購ひ求めたと伝へてゐた。其程、王と市民との生活は、接近して居た。ほゝ笑ましい生活ではあつた。が、あまりにも世間が狭過ぎた。歴史上久しく、日本と支那に両属すると謂つた、首鼠両端の生活を破算して、元の姿に戻つたのは、明治初年以後のことであつた。彼我共に、歴史と歴史以前の民族の繋りに知識乏しい人々は、此時を以て、琉球が支那領を離れた時だと言ふ風に誤解して来たのである。此ほど、間違つた事はない。我々の親しい琉球の歴史・民族をそんな風に理会し、整頓して居たのだから、今日のやうな形に到達したのも無理はないとも言へよう。
藩籍奉還の後、俄浪士の嘗めた辛酸は、激しかつた。殊に江戸の町侍は、最苛烈な経験をした。琉球でも、廃藩後日清戦争までと言ふから、二十年の長きに渉つて、首里の旧士人の生活は、全く傷ましいものだつた相である。蛇皮線を愉しむだけの余裕すら失つた彼らは、唯二人三人相寄つて、ひそかに指拳を遊んだと言ふ。今も一つ話に伝へてゐる。大きな社会を背負はないところには、当然芸術に対する擁護力も考へられない。又、一躍して大芸術の生れる素地となるべき、面の広い技術なども、興つて来にくいものである。だから芸能はあつても、芸術に飛躍する時がなかつた。芸術に迫る程の芸能はあつても、其を躍進するだけ技術が進んでゐなかつた。
民俗芸術と、一口に言ふが、その内容は、水と油の様なものを一つにして、命けた名である。所謂民芸など略称せられてゐる造形物には、家具調度の外に、農具・建築の類まであつて、其が更に、もつと広い言語技術に関するもの、舞踊・演劇の素朴な種類まで含む。芸能といふ語を以てしても、やはり此位の範囲は、指すことになつて居る。
芸能と謂つてよい限りに於いては、沖縄には可なり優秀な物と件とがある。画や建築は発達しさうな種子を十分に示して居ながら、狭い社会が、之を発揮せしめなかつた。
手芸に属する所謂「民芸品」は、柳宗悦さんの同人方が、ほゞ調査し尽して居られる。殊に女の手芸に、著しいものがある。何しろ島の月日は、「暇」と「根気」とに飽かせた為事をするに、十分であつた。「紅型」として、以前から愛好者のあつた染め物などを見ると、家庭工芸の虔しやかな成迹の、段々高まつて来た径路が感ぜられるのである。
沖縄には種類は少くても、他に類例がない程、壺屋の技術が発達した。つまり琉球焼きといふのが、其である。瓦と壺との間を行く様な物で、実は、墓に置く骨甕の用が多い所から、出来た産物である。却て泡盛容れの徳利などは、沖縄の地出来ではない様である。
古渡りの工芸品といへば、玉の類だが、之は古くは、首里王宮から下げられ、後には佩用者自身が買ひ求めるやうになつたらしいが、その水晶或はがらす玉を貫いた御統の珠の多くは、我々の夢にも知らなかつた間に、本土の玉磨りの手から交易して求めた物が多いらしい。今日見ると、極めて古い由緒を言ひ立てる邑々の巫女の伝へる物も、心惹くこと少き工芸品であつた。だが、記録も伝説も伝へず、想像すら入れる余地のなかつたやまとと島との交通が、かういふ品々から考へられて来る。
織りと染めとは、やまとでも、王朝の昔から、家庭の女、殊に主婦の手わざの第一義的なものであつた。やまと女は、早く染め物だけは、専門の染め屋の手に任せることになつたが、島では今も、年中手を藍色にして、女たちが染めの工夫にうき身をやつしてゐる。
女の為さうなことで、之に手をふれるのを厭うて居るのは、楽器類殊に三味線──所謂蛇皮線である。之を弾く者は男であり、女は遊女に限つて、糸を爪弾く。だから、「何々節」と謂はれるものを謡ひ乍ら三味線を弾くことは、紳士の表芸としてやまとの社会よりも、高く見られて来た。唄も踊りも、地方では男女共に謡ひ又は踊る機会は多く、訝しまれることもないが、都ではやはり、男芸となつて居た。田舎の唄・踊りは、まだ風の音・浪の響きさながらの歌であり、野の魅霊・山の木霊の踊りを思はせるほど、自然の中から遊離したばかりの感じの深いものだが、首里那覇のは、既に芸能から、芸術にすら踏み入つてゐた。其だけに、之を謡ひ踊りする者は、本格的には、男のすることであつた。唄も踊りも、さうして地方のものを、都会でとりあげ、修正し整頓し、主題を明示した。多少とも芸術的評価を受けてよい「某々節」と称する多くの曲目が其だ。其だけ自然の魂魄は、地方民謡にあつて、王宮貴族の間で改調せられた謡には、正雅はあつても、純朴は失はれて居る。踊りの場合だつて、同じである。都の踊りは、芸術として見ても相当なものはあるが、やはり溌剌とした所を失うてゐる。さう言ふこと自身が、この舞踊の価値と品位のある所以だとさへ思はれて来た。今は、良家の女の踊ることもあるが、やはり正しくは、男が女装して踊るのであつた。
併し琉球舞踊として、誰が見ても、特殊な感覚、異常なる新鮮味、更に、島の芸能としての価値の大半を定める異郷趣致は、地方的な踊りに、見られるのである。却て芸術化した御殿踊りとも言ふべきものには、それが失はれて居る。殊に、地方の男女が月夜、謡ひ乍ら踊る毛遊びその他の群舞、伝説を断片化した短篇舞曲などの早間なものに、沖縄芸能の高潮した情熱を疼い程に感受するのである。
だが、此種の地方舞踊と御殿踊りとを折り合せ、編曲の基礎をやまとの申楽能や歌舞妓狂言に取つたと思はれる組踊りは、楽劇として、最異色のあるものであつた。
風のたよりに聞けば、今度の壊滅で、三味線を弾く紳士たちは、あら方戦死したらしい。組踊りを演出することの出来る先輩役者も死に絶えた。辛うじて其部分々々を習ひ覚えた中年の俳優たちも、流離し尽したらしい。
国頭の山の緋桜のやうに、寂しいけれど、ぽつかりとのどかに匂うて居た沖縄の音楽・舞踊・演劇を綜合した組踊りも、今は再見られぬ夢と消えてしまつたのであらう。
あゝ蛇皮線の糸の途絶え──。そのやうに思ひがけなく、ぷつゝりと──とぎれたやまと・沖縄の民族の縁の糸──。
底本:「折口信夫全集 21」中央公論社
1996(平成8)年11月10日初版発行
底本の親本:「折口信夫全集 第十七卷」中央公論社
1967(昭和42)年3月25日発行
初出:「時事新報」
1946(昭和21)年8月29~31日
※底本の題名の下に書かれている「昭和二十一年八月二十九・三十・三十一日「時事新報」」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:フクポー
2019年6月28日作成
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