初かつを
長谷川時雨
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鰹といふと鎌倉で漁れて、江戸で食べるといふふうになつて、賣るも買ふも、勇み肌の代表のやうになつてゐるが、鰹は東南の海邊では、どこでも隨分古くから食用になつてゐる上に、鰹節の製造されたのも古いと見えて、社の屋根の鰹木は、鰹節をかたどつたものだと、「舍屋の上に堅魚を」と古事記にあれば、水の江の浦島の子をよめる萬葉の長歌には
春の日の霞める時に住吉の、岸に出でゐて釣船の、とをらふ見れば古の事ぞ思ほゆ、水の江の浦島の兒が堅魚釣り、鯛釣りほこり七日まで──
と、魚の王鯛と同格に、といふとをかしいが、共に荒魚であり、釣上げて見る目も立派なので、食べるのも好まれたことと思ふ。だが鰹は足が早く、鯛ほどもたないので山國が首都の時代には貴人の口にはいらなかつたので、江戸が都會になつてから、やつと生きたものと見える。大阪は大都市で、早く難波の宮もあつたが、鯛が本場だから幅をきかせ──但し閑がなくて大阪の鰹のことを探さなかつたのではあるが──た。
目に青葉山ほととぎす初松魚
これは土佐でも住吉でも、自由にはめられる、五月日本のいさぎよさだが、鎌倉といふところに鰹の意義がある。鰹は勝男に轉じ、釣上げた姿もピンと張つてゐる強い魚で、牛の角でなくては釣れないといふし、大擧して寄せてくるといふところなど、勝夫武士とこぢつけないでも、その味と堅實さが、禪に徹し、法華經にひたぶるだつた鎌倉武士氣質に似てゐる。
だが、蜀山人の狂歌の
鎌倉の海より出し初鰹、みな武藏野のはらにこそ入れ
となぜなつたのであらう?
思ふに鎌倉武士のあらましは關東武士であつた。江戸の氣風は徳川權現樣三河御譜代の持參だとばかりは言へない。武藏特有の肝つ玉のあつたことと、土地に着すると、土の風にも化することは論らへない。江戸開府以來、諸國人が多く集まつたが、これらが尋常なキモツタマでないこと、その人たちのつくつた市井は、デモクラチツクなものであり、むさし野の空つ風は、それらの人を吹き晒しあげた。それが江戸ツ子であり、代表的勇みとなつたので、勇みは、いきや、すゐなのとは異ふ。勇ましいといふ語の轉であり略ではなからうか。
江戸人のなりたちは、士農工商のうち農だけが缺けてゐる。農の出の人も、農業では住へなかつた。士、工、商の三階級で、士と工とが江戸の氣風をつくつたものだといへる。知識階級の士は節度正しく、一死もつて奉公を念としてゐた。工は職場を命の捨どころ、武士の戰場同樣と心得てゐた。この二者が、明日の命をはからず、一念職に殉じようと心がけた。武士が食祿の多少でなく、心にはぢぬ生きかたをしようとし、美食せず、美衣せぬこと、文武を磨くことをもととし、帶刀を心の鏡として、錆ぬことを念願にした。工人(職人)は職場の印半纒の折目だつたのを著、晒しの下帶のいつも雪白なのを締め、女房はグチヤつかぬ炊きたての白い飯を辨當に詰めてやるといつた心意氣で、名を惜しみ、受持つ仕事に責任感が強かつたのが、自然女にまで行きわたり、割合に物堅く、キツプのよさとなり、負じ魂となり、死恥をさらすなのたしなみとなつた。
世がくだるにしたがつて、それが表面化し、勇み肌といへば、職業的な任侠の徒や、見得を大切にする根性になりさがつたが、大根はいまいつたやうなところにあつたのだ。士も工人も、揃つて商人を侮蔑してゐたことが、江戸文學、その他でも隨所に見えてゐる事實で、宵越の錢を持たないといふと、江戸下町人の惡い浪費癖のやうに今日の人はとるし、江戸末期の江戸人自體が、さうした間違つた解釋をしないでもなかつたが、あれは武人錢を愛せば、奉公の命が惜しくなる──溜ると汚くなるといつたものを、工人も持つてゐたので、手工業時代ゆゑ、工人は各自の名と手腕を實に大事にした。
それとこれが結びついて、初鰹の氣負のよさとなり、切れ味の冴えた肉のしまり、海から飛んできたやうな色艶や、キビキビした賣聲や、男性的颯爽たる諸條件がそろつて、初鰹は江戸の季節の一景物とまでなつたのだ。それゆゑ、金持ちが羨ましいこともあつたであらうが、利鞘をとつて衣食し、肥る商人を賤しめたのを、江戸の市井でうまれた「川柳」が、初鰹でもつてよく語つてゐる。
初鰹女の料る魚でなし
初鰹旦那ははねがもげてから
初鰹煮て喰ふ氣では値がならず
初鰹得心づくでなやむなり
初鰹値をきいて買ふ物でなし
「はねがもげてから」は飛ぶやうに賣れる勢のいいうち買はないといふことであり、「煮て喰ふ氣」はさしみにする品は高いからであり、「得心づくでなやむ」のは安かれ惡かれ、中毒るのを承知で買つた、といふ皮肉で、平日貧乏人と見下される側から、旦那側の、金持ち吝嗇をあざけつたものだ。
だが、裏長屋に住んで、袷をころしても、食ふといふにいたつては、初鰹の名に惚れすぎた結果で、早いとこをといふのが、早急になり、走りものずきになつた末期江戸人の病根で
初の字が五百、鰹が五百なり
初鰹女房日なしへいつけてる
初鰹女房は質を請けたがり
がよく諷してゐる。
私が、大正のはじめ京橋佃島にすんでゐたころでも、まだ押送り船が房州から、白帆をふくらませ、八丁櫓で波をきつて、鰹をつんではいつてきた。河竹默阿彌翁の「梅雨小袖昔八丈」の、髮結新三の長屋の場は、初鰹季節を描いて、その時分の初かつをのねだんまでが出てゐる。鰹賣が盤臺の肩をかへながら、時鳥が鳴いた空をちよいと見上げるところがあるが、東京の空を、ほととぎすが啼いてすぎる夜があるといふと、てんから嘘だとあきれ顏をする人に、默阿彌さんは明治まで生きてゐた人で、本所にお住居ゆゑ、おききになつて景色にそへたのに違ひない、といふことをいつて、おしまひにする。
底本:「桃」中央公論社
1939(昭和14)年2月10日発行
初出:「三田新聞」
1935(昭和10)年5月31日
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年12月7日作成
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