「なよたけ」の解釈
折口信夫



その頃、目に故障を持つてゐた戸板君が、戦争に出ることになつた。案じてゐると、もうどつかで苦しんでるだらうと思ふ時分、ひよつくり帰つて来た。よかつたねと言つてゐると、其場ですぐ言ひ出した。これもやはり南の方へ出て行つた加藤道夫君が、その以前書いておいた「なよたけ」が、雑誌に出はじめたから、其を読め〳〵、と大層慂めるのである。其で、三田文学に出てゐる間割合によく読んでおいた。戦争の後、読む書物のない時期が相応に続いて、八犬伝や、膝栗毛を精読したり、るぱんほるむすを読み返すやうな侘しい月日が続いて、読書呆けといふべき時期が長かつた。

長い間舞台にかゝるやうな評判の立ち消えになり〳〵したあの物語が、いよ〳〵舞台に上ることになつた。さて以前の「なよたけ」の筋は、殆あたまに浮んで来ない。だがかう言ふ程度に記憶の薄れた方が、愈舞台に向ふと、後から〳〵薄紙を剥ぐやうに思ひ出されて来て、適当な用意を持つて芝居に臨んでゐると謂つた頃合ひの知識になつてゐるだらうから、此はきつと楽しいぞ。静かな岩清水のやうに、沁み出る記憶にひたされながら、加藤君のお芝居を見ることが出来るだらう。そんな期待で出かけて行つた。だが、其にはあまり健忘の時間が、私の上に立ち過ぎてゐた。驚くばかり、何と記憶が払拭せられてしまつてゐた。

此は、作者に対してすまぬ訣だ、と何よりも加藤君に恥かしくなつた。其から情熱的な優人諸君に、しげ〳〵顔を見られてゐるやうな気が少々はした。そんな私だつたが、外のまじめな──又まじめ過ぎる見物の人々の心構へだけには、めつたについて行けない気がした。書き卸しの芝居を見に来た、といふ気込みが、見物席に充ち満ちてゐる。いつも新劇を見に行つて圧倒せられる──あの空気だ。源氏の歌舞妓化なども此間あつたばかりで、其時も之に似た気雰を感じた。初めてとり組むものとして、筋よりも何よりもまづ、てまだの思想だのが問題になつたやうだが、其は作者側にも責任はあつたらうが、見物も亦、作者との間の、芝居の黒幕の彼方を、一返に諒会しようと言ふ知識欲に駆られ過ぎてゐると思つた。知識につゝつかれて芝居を見てゐる人々。一体「ているす」さへ読んだことのない一見イチゲンの見物に、源氏が舞台を見ただけで直に訣るものと思つてゐることが、どうかしてゐるのである。どうも日本では、一返ぎり芝居を見なさ過ぎる。どこの国だつて梗概を見るつもりで、芝居を見にゆくのが、正しいことで通つてゐる筈はない。源氏の芝居でなくたつてさうだ。もつと頭のいらぬ舞台だつて──問題を惹き起す印籠をさげて、三島沼津をうろつく呉服屋の主人の心理にも、行きなり溶けこめる訣はない。行きあたりばつたり、よい気の気焔を吐く、浅薄な数寄屋坊主を書いた芝居だつて、行きなりの見物に、見る訣るとが同時に来る筈がない。さう言ふ見物の為に、芝居が用意せられるものだから、なよたけの作者も、原作をあんなに書きつめれば痩せる筈である。石上文麻呂から、今の世の大学生の思想演説のやうなものを聞かうとするのが本望だらうか。現に御社の先生──こんな皮肉めいた言ひ方は失礼だが──の中には、さう言ふ見方で、海老蔵を褒めておやりになつた方もある。だが海老蔵自身、あゝいふ新劇まがひの演出に従ふことは、窃かに嬉しいとしなかつたであらう。もつと新劇と史劇との限界を、踏み越える方法が教はりたかつたらう。役者は可愛さうである。結局彼ら自身の「勘」と、伝統的な「引き出し」にたよる外はなくなる。作者加藤君は、竹取原本をもつと活きて掴んでゐる。竹取自身の作者の狙ひよりは、二百年遅れた状況描写だとしても、ともかくも、王朝末の都大路は、そのまゝ移し得てゐた。なよたけどころか、かぐや姫をすら考へたことのない──唯新劇を見てゐるやうな硬い見物の視線にさらして置くのでは、梅幸だつて、なよたけから昇天して、かぐや姫になるそらがなかつたらう。幻想だか現実だかわからぬ中に、切り穴へめりこんでしまふのでは、はかな過ぎる。

演出者に感謝は感謝として、小言を申しあげたい気がした。役者がさう演出者の語を守るものでないといふことは聞いてゐるが、あの人たちは、もつといためつけて貰つても、不服は言はない筈の教養人である。以前の歌舞妓の人々は、新劇だつて、立派に新劇としてしをふせたものだ。宗之助、勘弥それに左升──かう言ふだけで、瞳が潤んで来る。だが今度の場合は、我々の好意を持つ権十郎・照蔵などの人々の、ちつともめりはりだつて変つてゐない舞台を見て、演出者も作者も、遠慮が過ぎたといふ気がした。歌舞妓の脇や三枚目にをしへないで何が出来るものか。

作者の情熱の順調に乗つて来た都大路の場などは、幻想と現実の繋ぎ目もよく訣つたし、訣り過ぎてどうかと思つたが、詞も思想のまはし者としてでなく、活きてゐた。唯、いつも音楽や、陰の声の効果が現れ過ぎた。でも、この場の大伴の御主人ミウシの侫弁に、いつの世の政治家にも当る普遍なものを感心させたのは、演出と作者の力がぴつたりしたからであつた。

作者の懐抱して来た竹取物語は、「なよたけ」に到るまで、数段の発生を経てゐる。育つて来た過程が「なよたけ」であつて、行き尽した所が今ある「竹取物語」だとすれば、竹取に到達して却て、剰つたり、崩れたり、馴れすぎたりした所がある筈だと思つてよい。作者の胸で育つたかぐや姫の行儀のよい姿を見せたのが、このなよたけだと考へてもよい。物語のてまが解決するのは、けぶり吐く富士山である。其が見物には、見せられなかつた。あれでは、作者の作つたてまが、からつと解かれぬまゝにつき放された気がする。大向うのあたりに聳えてゐるのだらうとふり返つて、危く隣席から笑はれさうになつた私である。こゝまで物語が育つて──さうして更に到達する所の青空の富士の嶺。さう言ふおつぴらいた胸が、うつたうしい見物の惑ひを吹き払つてくれねばならぬ。

三幕目までなよたけ物語の現実で、四幕目から石上文麻呂の育てた「なよたけ」として出発するのだから、もつと原本の竹取より美しくしてもよい。又もつと演劇でなくては望めないやうな超人間的なことの連続であつてもよい。かうして様々の人間の期待や、失望や、欲念をこきまぜた竹取以前の物語──万葉の竹取翁の歌や、鶯姫や其他いろ〳〵の物語の間に澄んで一筋残つた物語が、この作者の書いたなよたけ物語だと見ればよいのだらう。

さう言ふ風に見物の腹にはひれば、「なよたけ抄」の効果は、一層あがつたことだらうし、四幕目はもつと有効な幕として、理くつ探求の見物心を満足させたことだらう。

底本:「折口信夫全集 22」中央公論社

   1996(平成8)年1210日初版発行

底本の親本:「かぶき讃」創元社

   1953(昭和28)年221日発行

初出:「演劇 第一巻第三号」

   1951(昭和26)年8

※底本の題名の下に書かれている「昭和二十六年八月「演劇」第一巻第三号」はファイル末の「初出」欄に移しました。

入力:門田裕志

校正:沼尻利通

2013年54日作成

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