桑摘み
長谷川時雨
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庭木の植込みの間に、桑の細い枝が見える。桑畑に培はれたものよりは、葉がずつと細かい。山桑とでもいふのかもしれぬ。
おお、さういへば、かつて、兵庫の和田の岬のほとりが、現今ほどすつかり工場町になつてしまはないで、松林に梅雨の雨が煙り、そのすぐ岸近くを行く汽船の、汽笛の音が松の間をぬつて廣がりきこえるほど、まだ閑靜だつた時分、ある家の塀の中に、外から見えるほどたけ高く枝をさしかはして外を覗いてゐる桑の木があつた。小學生たちがそれを見つけたと見えて、蠶にやるのだからと貰ひに來た。たまたま、その家の泊り客だつたわたしが、庭逍遙をして、門のそとまで歩いてゐるときだつたので、わたしがその家のうちの人のやうな顏をして、摘んでやつたことがある。下枝の方にはもう摘む葉がなかつた。この間來て貰つていつたのだといふ。私は上の方へ手をのばしながら、小學生たちに、いくつ飼つてゐるのかときいた。去年はこの位だつたがと小さい掌を双方ぴつたりつけて、てんでに繭をすくひとるやうにくぼませて見せて、今年はもつと増やすのだといつた。
わたしが、いくつ飼つてゐると聞いたのもをかしいが、私にも思ひ出があつたからだつた。あたしのは子供のをり、たつた二つぶ──今思へば、小つぶな色も黄色つぽい、あんまり優良でない繭を貰つたのだが、はじめてほんものの繭といふものを手にしたので、紙へ包んでおいたり、小裂へくるんだりして、それはとても大切にしたものだつた。どこへ入れておいたら一番安全かと、寶石ずきが、素晴らしい寶石でも手に入れたときのやうに貴重な品とした。そこで、香箱の中へしまふことにした。その香箱のなかには、一個ひとつ、なにやら子供心に、身にとつて大事な、手離しがたいものが入れてあつて、毎日蓋をあけると、無言に對話してゐた馴染ぶかい品に、居處を明けさせたのだから、ね、みんなすこしの間、この香箱ね、繭さんにかしてあげてねと言ひきかせたりしたものだつた。
繭をもらつて來たはじめは、捨ててしまへといはれると大變だから、家のものに内密で袂へいれてゐたのだが、轉がして落してしまふといけないと、懷へ入れてゐたならば、はねが生へて飛び出しはしないかと、すこしばかり蠶のことを知つてゐるといふ、小さい女中がこつそり言つた。だが、この小さい女中の鑑定では、たぶんこの繭は、振つて見ると音がするから生きてはゐない、何時までもこのままだといふので安心して、香箱へ入れておいて、時々見ることにしたのだつた。
ある日、藏座敷のうすくらがりで、そつと箱の葢をとつて覗くと、黄色つぽい蛾が二ツバサ〳〵と忙しなく香箱の中を駈け𢌞つてゐて、私をおどろかせた。蟲類のきらひだつたあたしといふ子供は聲をあげて、呪魔の凾をあけたかのやうに騷いだ。
都會の子供は、蠶の出來るじゆんじよを知らなかつたのだ。蠶に桑の葉をやることは、實物をしらずに繪などで見ただけだつた。繭になるといふことも、どうやら知つてゐたがそのまた繭から蝶が飛出すことなどは、夢にもしらなかつたので騷いで、捨てられてしまつた。空になつた香箱をながめて泣いた。説明されても、香箱の中へ蠶をうませるのだとせがんだものだつた。養蠶をする田舍でも、種紙といふものは中々つくれないのだし、第一桑の葉がなければ、蠶のおまんまがないと、老母がきかせてくれたので、穴があいて、蟲が飛出してしまつた繭を、うらめしく、つくづくと見つづけてゐたものだつたから、そんな事を思ひだしながら、小學生たちに、彼等の手のとどかない、高いところの葉をとつてやつた。
ここまで書いて、ふと目を書棚にやると、諸國の働く女の姿──姿といふよりは、風俗が──服裝が知りたいので貰つた、桑摘み人形の郷土細工がある。背中に籠をしよつたのと、腰にさげてゐるのとがあるが、私が諸國で見かけた娘さんたちは、籠を背中にしよつてゐた。しかも、桑籠に盛りあがつてゐるくらゐはまだ輕い方で、背を丸くして、うつむいて歩くと頭を越すほど、嵩高な桑の葉を運ぶのだつた。
朝露のあるころは、まだしも見た目に、青さが凉しげで、勞働のいさぎよさと健康が羨ましくもあるが、日中の桑畑のいきれは、風など通しはしなかつた。上からは照りつけ、山畑に水などは一滴もない、見渡すかぎり日影もない桑畑だつた。汗もしどろに、摘みためたのをすぐ運んでゆくのだつた。炎天の路をゆくのだつた。
夕暮の野路でも、彼女たちは勞れきつて、默々と、まだ夜露にしめらない、土埃りのたつ道路を、まつ黒い影で二三人づつ歩いてゆくのだつた。
それは、家の中を風が吹きぬく、影の多い、小暗いほどの土間に、摘んだばかりの桑の葉が、青々と、籠のまま、もしくは莚にあけられてあるのを見た。俳畫にでもありさうな田園の風情とは、まつたく別ものの、生きた如實の生活の姿だつた。私たち明治期の、都會生れのものが、風俗畫からやしなはれて來た常識──茶舖でもらふ、茶摘み風景をゑがいた團扇や、海苔やの、海苔そだに小舟をあしらつたり、干し場の景色には、富士山が遠く紫ばんで見えたりするのや、うつくしげな養蠶風俗などとは、似てもにつかない生計の業であつた。糸をとるにしても、製糸工場はしばらくおき、乏しい、かなしげな小屋で、老女が鍋で煮ながら繰出してゐるのを見ると、手の指はまつ白にうぢやぢやけてゐた。蠶時には、幼兒が軒下で寢てゐるやうな家もあつた。家のなかは繭で何處もかも眞つ白だつた。人が從で、繭が主だつた。しかも、それほどの繭を積んで、よろこぶ筈の家の者の眉は曇つてゐた。繭商人が秤をもつて、とても安い價を言つてゐるからだつた。
一反の着物のなかには、原料だけにさへ、それほどの勞苦が織込まれてゐるのだ。といつて、消費者がなければ、その生産によつて暮す人は、差當り困るわけだ。もとより國内の消費より、輸出が絹の價格の高低をなすのであらうが、それはそれとして、國産である絹を、貧富の別なく、體力のおとろへた老人に着せてやる工夫はないものであらうか。美術工藝としての發達や、服裝美の上からの建前とは異つた方の見方からではあるが──
底本:「桃」中央公論社
1939(昭和14)年2月10日発行
初出:「新裝」
1935(昭和10)年7月1日
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年12月7日作成
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