魔のひととき
原民喜



 ここでは夜明けが僕の瞼の上に直接落ちてくる。と、僕の咽喉のなかで睡つてゐる咳は、僕より早く目をさます。咳は、板敷の固い寝床にくつついてゐる僕の肩や胸を揉みくちやにする。どんなに制しようとしても、発作が終るまでは駄目なのだ。僕は噎びながら、涙は頬にあふれる。だらだらと涙を流しながら、隣家の庭に咲いてゐる紫陽花の花がぽつと朧に浮んでくる。僕は泣いてゐるのだらうか、薄暗い庭に咲き残つてゐる紫陽花は泣かないのだらうか。死んだお前も、僕も、それから、このむごたらしい地上には、まだまだ沢山、こんな悲しい時刻を知つてゐる人がゐるはずだ。……

 発作が終ると、僕は寝たまま手を伸べて枕頭の回転窓の軽いガラス窓を押す。すると、五インチほどの隙間から夜明けの冷んやりした空気が、この小さなガラス箱(部屋の中)に忍び込んでくる。その少し硬いが肌理きめのこまかい空気は僕の顔の上に滑り込んでくる。僕の鼻腔から僕の肺臓に吸はれてゆく。発作の終つた僕は、何ものかに甘えながら、もう一度睡つてゆかうとする。(空気つて、いいものだなあ。さうだよ、もう一度ゆつくりおやすみ。こんな透明な夜明けがあるかぎり……)僕の吸つてゐる空気はだんだん柔かくなつて、僕は羽根のやうに軽くなつてゆく。小さな窓から流れてくるこの空気は無限につづいてゐる。死んだお前も、僕も、それから一切が今むかふ側にあるやうだ、僕は……。僕は……。僕は安心して睡つてゆけるかもしれない。僕は医やされて元気になれるかもしれない。安心してゐよう。あんな優しい無限の透明が向側にあるかぎり……。僕は……。

 突然、僕の耳に手押ポンプの軋む音が、僕をずたずたに引裂く。窓のすぐ下の方にある隣家の手押ポンプだ。それが金切声で柔かい僕の睡りを引裂く。バケツからザアツと水が溢れてゆく。僕の頭は水の音とポンプの音でひつくり返り滅茶苦茶にゆすぶられてゐる。僕は惨劇のなかに生き残つた男だらうか、僕は惨劇の呻きに揺さぶられてゐるのではないか。……固い寝床にくつついてゐる自分の背なかが、かちんと僕に戻つてくる。僕は宿なしの身の上をかちんと意識する。それは朝毎に甦つてくる運命のやうに僕の額に印されてゐるのではないか。漂泊、流浪──そんな言葉ではない。でんぐりかへつて、地上に墜落したのだ。僕の額の上を外のポンプの音が流れ、惨劇の影がゆれてゐる。僕はお前と死別れると、その土地の家を畳んで、郷里の広島へ移つた。すると、あの惨劇の日がやつて来た。それから、僕は寒村に移つて飢餓の月日を耐へてきた。それから僕はその村を脱出するやうに、この春上京して来た。しかし、僕を容れてくれた、ここの家も……。

 ふと、僕はさつきの発作をおもひだして、どきりとする。とこの固い寝床にくつついてゐる自分の背なかに、階下のありさまが、一枚の薄い天井板を隔てて、鏡のやうに透視されてくる。階下はまだ、しーんとしてゐるのだが、この冷んやりした奇怪なガラスの家の底には、何とも云ひやうのない憂悶が籠つてゐるのだ。たしかに、僕はあの咳を、この家の細君の耳に聴きとられたやうな気がする。と、僕には、このガラスの家全体が、しーんとして僕の息の一つ一つまで聴きとる装置のやうにおもへてくるのだ。

 前から僕はこの家の主人に、医者に診てもらへと、そつと注意されてゐた。恐る恐る僕は一度、病院の門を潜つた。医者は衰弱してゐることのほかは何も云つてくれなかつた。それはむしろ僕を吻とさせた。このやうな恐ろしい飢餓の季節に、文無しの僕がどのやうな養生ができるのか。僕は、疲労しないやうに、疲労しないやうに、と、飢ゑ細つてゆく自分の体をなるべく、ただ静かにしてゐるだけであつた。だが、僕を視るこの家の細君の眼は、──それは僕がこの家で世話になりだした最初から穏やかではなかつたやうだが──次第に棘々しくなつてゐた。澱粉類の配給がばつたり杜絶えて、菜つぱと水ばかりで胃の腑を紛らしてゆく日がつづいてゐた。と、ある日たうとう、この家の細君の癇癪は爆発した。僕は地べたに叩き伏せられた犬のやうな気持がした。宿なしの罪業感が僕を発狂させさうだつた。僕は怯えはじめた。ひとりでに僕は、この家の人たちから隔離の状態に置かれた。主人は僕を憐むやうな眼つきで眺めてくれたが、もう遠慮がちに何も語らなかつた。細君は僕と顔を逢はすことを明かに避けてゐた。ただ内側に押し潰されて籠るものが、この家全体の無気味なものが、無言のまま僕をとりかこんだ。そして、これは僕がこの部屋にゐる限り絶えることのない苛責なのだ。

 この低い白い脆さうな天井、……僕の寝てゐる頭とすれすれにあるガラス窓、……僕の足とすれすれにある向側の壁、……真四角な狭い、あまりにも狭い二・五米立方の一室……これは病室なのだらうか、隔離された独房なのだらうか。だが、僕は軽く、軽く生きてゆくよりほかはない。軽く、軽く、夜明けがた僕をつつんでくれた空気の甘いねむり、羽根のやうに柔らかなもの。……誰かが絶えず僕のことを祈つてくれてゐるにちがひない。……僕はぼんやり寝床の中でいつまでも纏らない思考を追つてゐる。

 僕の、僕だけの隔離された食事は、もう階下にできてゐる。僕はそつと細い階段を下りてゆく。この細い古びた階段や天井や、いたるところが壁ががはりに、すりガラスが使用されてゐて、柱らしいものはない。奇妙な家屋の不安定感は、僕が動くたびに僕を脅やかし、いつでも頭上に崩れ落ちて来さうなのだ。僕は、そつと祈るやうにしか歩けない。それに、この家で習慣づけられた、おどおどした動作はもう僕の身についてゐる。そして、僕が階下にゐると、この家の人たちは奥へ引込んでしまふのだが、僕はおどおどと囚人のやうな気持で貧しい朝の食事をのみこむ。それから、僕はそつと匐ふやうに階段を昇つてゆく。僕が階段を昇つてゆくのと入れちがひに、階下には細君の出てくる足音がきこえる。

 僕は自分の部屋に戻り、ほつと自分に立戻る。だが、すぐに、何かに呪縛されてゐる感覚が甦る。僕は板の上にごろりと横たはり、狭い真四角な箱(二・五米の部屋)を眺める。僕は幽閉されてゐるのだらうか。この小さな、すりガラスの窓から射してくる光は、実験装置の光線かもしれない。人間が何百日間、飢餓感に堪へてゆけるか、衰弱して肺を犯されかけた男が何百日間、凄惨な環境に生きてゆけるものか、──そんなことを測定されてゐるのかもしれない。(しかし、一たい、何のためにだ?)僕はガラス箱のなかの一匹の虫けらなのか。脱けだしたい。逃げだしたい。僕は少しづつ、ぢりぢりしてくる。……

 このガラス箱から僕が出てゆく時、と、僕はまだ板の間に横たはつたまま考へてゐる。と、あの穿きにくいゴム底靴の感覚がすぐ僕のあしうらにある。あの靴は僕が上京する時、広島の廃墟の露店で求めたものなのだが、総ゴム底のくらくらする、だぶだぶの靴は、僕のひだるい躯を一そうふらふらさす。そして僕がこの階段下の狭い玄関、一メートル四方にも足りない土間で、その靴を穿いて立上ると、この窮屈な家屋全体の不安定感は僕の靴の踵に吸収されてしまふ。だから、僕は道路の方へ歩きだしても、足もとの地面はくらくらし、遠い頭上から何かサツとおそろしい光線がやつて来さうになつたり、魔のやうな時刻がつきまとふのだが……。


 このあたりの道がふと魔法のやうにおもはれてくる。さきほど僕は箱のなかから抜け出して、出勤にはまだ少し早いが、焼跡の往来を抜け溝橋を渡つて、とぼとぼとこの坂路をのぼつた。急な坂だが、そこを登りつめたところに、茫々とした叢がある。僕は何気なく叢の方へ踏み入つた。ふと見ると、坂の下に展がる空間は、樹木も家屋も空も、靄のなかに弱められてゐる。足許の草は黄色に枯れてゐて、薄の穂がかすかに白い。すべてが追憶のやうにうつすらとしてゐるのだ。なにもかも弱々しく、冷え冷えした空気まで実にひつそりしてゐる。これはどうした時刻なのだ?……突然、僕には疑問が涌く。僕はたしか昔何度もこんな時刻や心象を所有してゐた筈だが、それが今僕を迷路に陥し込んだのか。僕はこれから何処へ出掛けて行かうとしてゐるのだらう……(いつもの夜学へか?)これはいつもの路を歩いてゐるのだらうか。この路を歩いてゐるのは僕なのだらうか。僕はほんとに存在してゐるのか。眼の前にある靄を含んだ柔らかい空気は優しく優しく顫へてくる。僕のなかにも何か音楽のやうなものがふるへだす。これはどうした時刻なのだ?……冷え冷えした空気と僕の体温……溶けあつて僕はうつとり歩いてゐる。もしかすると、僕は荒涼とした地方を逍遙つてゐる贅沢な旅人かもしれない。砂丘や枯草が心細い影絵ではあつても、大理石の宿に着けば熱い湯がこんこんと涌いてゐる。僕のなかにメルヘンが涌く。メルヘン? あ、さうだ、僕はもう百日位、誰とも(生きてゐる人間と)話らしい話をしたことがないのだ。メルヘン? 僕はやつぱり孤独な旅人らしい。

 僕の提げてゐる骨折れ蝙蝠傘、……僕の踵に重くくつついてゐるゴム底靴、……僕の肩にぶらぶらする汚れた雑嚢、それらが、ふと僕をみじめな夜学教師に突落とす。メルヘン……災厄と飢餓の季節の予感に虫たちは、みなそれぞれ食糧や宝物を地下に貯へた。やがて天地を覆へす嵐が来た。そのとき僕はまる裸で地上に放り出された。あのときから僕はあはれな一匹の虫であつた。さうだ、虫けらのメルヘンなら、今も僕のゴム底靴の踵にくつついてゐる。メルヘン?……だが、今はもつと別の時刻なのだ。もつと美しい、たとへやうもなく優しげなものが今僕のなかに鳴りひびいてゐる。誂へむきに今この路はひつそりとして人通りが杜絶えてゐる。眼の前にある空気はこまかに顫へて、今にも雨になりさうなのだ。僕はじつと何かを怺へてゐる。だが時刻は刻々に堪へ難くなる。……地のはてにある水晶宮がふと僕の眼に見えてくる。その透明な泉に誰か女のひとが、ひつそりと影をうつしてゐる。その姿が僕には、だんだんはつきりわかつてくる。その顔は何ごとかを堪へ、じつと何ごとか祈ってゐるのだ。

 僕は感動に張裂けさうになり空を眺める。泉にうつつてゐる女の顔はキラキラとゆらめきだす。たしかに、その誰ともわからぬ女のひとは熱い涙とやさしい笑みをたたへたまま凝と雲のなかにゐるのだ。靄を含んだ柔らかい空気……それは僕の眼の前にある。僕の頬の下にも涙を含んだ顫へる靄が……。ふと、僕はいつのまにか、いつもの見なれた路を歩いてゐる自分をとりかへしてゐる。僕はやはり夜学へ行くのか……。だが、さつき僕を感動させたものはキラキラとまだ何処か遠方でゆらめいてゐる。ゆらめいてゐる。それはかすかに僕につき纏つてくる。僕はお前のことを考へてゐるのだらうか、お前に話しかけてゐるのだらうか、死んだお前が僕に話しかけてくるのだらうか。

 僕は駅前の雑沓が一目に見下ろせる焼跡の神社の境内に来てゐる。僕の足許のすぐ下に鋪道が見え、駅の建物は静かに曇つてゐる。僕の目はごたごたした家屋と道路の果てにある薄い一枚の白紙のやうな海にむかふ。その白紙のなかに空と海の接するあたりに、かすかに夢のやうな紫色の線をさぐる。陸地なのだ。僕が昔お前と一緒に暮してゐた土地なのだ。あそこの海岸から僕はよく空と海の接するあたりに黒い塊りを見てゐたが、それが今僕の立つてゐる地点なのだらう。やはり今でも向側の陸地から、こちら側の陸地を眺めてゐるものがゐるやうだ。それはやはり僕なのだらうか。それなら、お前はまだあの土地のあの家の病床で僕のかへりを待つてゐるのかもしれない。……僕の視線はそつと朧なものを撫でまはし、それから、とぼとぼと神社の境内を出て行く。……

 急な石段と忙しげな人通りが僕をゆるやかな追憶から切離す。僕は不安定なゴム底靴で弱々しい姿勢をピンと張りあげようとする。罹災以来、僕にのこされた、たつた一つの弱々しい抵抗の姿勢……それが僕に立戻つてくる。雑沓が僕をかすかな混乱に突きおとす。僕は前後左右から押されて駅のホームを歩いてゐる。生きる場所を喪つた人間がぐんぐん僕の方へのしかかり押してくる。僕は電車に押し込まれてゐる。僕は押されとほされてゐる。生きる場所を喪つた人間ならむしろ僕なのだが、僕の肩の骨が熱く疼く。僕の頤のすぐ側にある知らない人間の肩。ぎつしり詰つた肩のむかふから洩れてくる呻き……。物質の重量に挿まれて僕は何処かへ紛れ込んでしまひさうだ。かうした瞬間、かうした瞬間は何回繰返されてゐるのだらう。僕が死ぬる時、かうした窮屈な感覚はやはり痕跡を残すかもしれない。死んでゆく僕の幻覚に人間の固い肩が重なり、飢ゑてふらふらの僕を搾木でしめあげ……。靴の底にゆれる速度で、僕はときどきよろめく。かうした瞬間、僕は何を考へてゐるのだらう。僕は物質……肩は物質の……。やがて電車は僕の降りる駅に来て僕を放り出す。

 僕は人間の群に押されて、駅の広場に出てゐる。ここはもうすつかり夕暮のやうだ。僕は電車通を越えて、焼残りの露地に入る。ここは死んだお前のあまり知らない場所だが、僕にとつてはずつと以前から知つてゐる一角なのだ。この焼残つた露地のつづきに、唐黍畑や、今、貧弱なバラツクの見えてゐるあたりに、昔、僕の下宿はあつた。かういふ曇つた夕暮前の時刻に、学生の僕はよく下宿を出てふらふらと歩きまはつた。薄弱で侘しい巷の光線は僕のその頃の心とそつくりだつた。僕の眼は大きな工場の塀に添つて、錆びついた鉄柱や柳の枯葉にそそがれた。そんな傷々しいものばかりが不思議に僕の眼を惹きつけてゐた。その頃、僕には友人がない訳ではなかつたし、僕の境遇は不幸といふのではなかつた。だが、何故かわからないが、僕はこの世のすべてから突離された存在だつた。僕にとつては、すべてが堪へがたい強迫だつた。低く垂れさがる死の予感が僕を襲ふと、僕は今にも粉砕されさうな気持だつた。僕はガラスのやうに冷たいものを抱きながら狂ほしげに歩きつづけた。するとクラクラとして次第に頭が火照つたものだ。

 銀行か何かだつたらしい石段の焼残つた角から僕は表通りに出る。ここは殆ど焼跡の新築ばかりだ。電車の軌道は残されてゐるが電車の姿は見えない。僕のまはりにまつはる暮色と人通りはそはそはと動いてゆく。僕の背後から見憶えのある顔が二つ三つ僕を追ひこす。夜学の生徒なのだ。僕はいつあの生徒たちを憶えたのかしら……。瞬間、僕は教師のつもりになつてゐる。と、僕はずしんとする。剥ぎとられて叩きつけられた感覚だ。それが僕をふらふらさせる。と僕は何か見憶えのあるものの前に立ちどまつてゐる。新築の花屋だ。僕はシヨーウインドに近よる。僕はみとれる。みとれてゐる自分にみとれる。玻璃越しに見える花々がまるで追憶そつくりだ。さうだ、追憶はいま酒のやうに僕をふらふらさす。それに、このゴム底靴や凹凸の地面が、一そうふらふらさす。僕は何かもつと固い手応へを求めてゐるやうだ。何か整然とした一つの世界が僕に見えてくるやうだ。僕のまはりにまつはる雲母色の空気は殆どさきほどから、それを囁いてゐるのではないか。……その頃お前が入院してゐた病院は、野らも海も一目に見下ろせる高台の上にあつた。僕は澄んだ秋の光線のなかを、そこの坂の固い鋪道を靴の音を数へながら歩いてゐた。お前の病態は憂はしかつたし、僕の生きてゐる眼の前は暗澹としてゐたが、不思議に僕のなかには透明な世界が展がつて来た。坂の上に建つ、その殿堂のやうに大きな病院の、そのなかにお前の病室はあつたが、お前の病室と僕との距離に、いつも透明な光線が滑り込んでゐた。僕は自分の靴音を琺瑯質の無限の時間の中に刻まれる微妙な秒針のやうにおもひながら歩いてゐた。それから、僕がお前の病室を出て、坂の上に立つと、晩秋の空気は刻々に顫へて薄暗くなつてゆき、靄のなかには冷やかな思考と熱つぽいものが重なりあつてゐた。僕はあの靴の音をおもひ出さうとしてゐるのだ。

 僕の歩いて行く方向に、今僕の行く学校の坂路がある。その高台に建つX大学の半焼の建物はひつそりとして夕暮のなかに見える。かすかに僕はあの病院へ通ふ坂路を歩いてゐるやうなつもりなのだが、ふと、もの狂ほしい弾力の記憶がこの坂から甦つてくる。学生の僕はこの坂路を歩くとき、突然あたり一杯に生命感が漲ることがあつた。僕は何かに抵抗するやうに、何かに僕自身を叩きつけるやうな気分に駆られて、もの凄い勢でこの坂を登つたものだ。五月の太陽は石段の上に輝いてゐて、あたりには大勢の学生がぞろぞろ歩いてゐた。坂に添ふ小さな溝がピカピカ光り、学生達は瀟洒な服装をしてゐた。クラクラする僕の頭上には高台の青葉が燃えてゐた。ほとんど僕は風のなかを驀進するやうな気持で歩いてゐた。

 僕は今、よろよろと坂路を登つてゆく。僕の細長い影は力なく仄暗い風のなかにある。僕は殆ど乞食のやうな己れの恰好を疑はない。ここの石坂で僕はそつと煙草の捨殻を拾ひとることもあるのだ。そんなときの僕の姿は……。僕は後から後から次々に生徒に追越されてゐる。足許は既に暗い。ふと僕はそはそはしてくる。向うのコンクリートの三階建の校舎は生徒の群でざわざわしてゐる。僕の歩きかたも少しせかせかしてくる。僕は一階の廊下を廻つて、教員室の扉を押す。電燈の点いてゐるゴタゴタした部屋の片隅に僕は蝙蝠傘を置く。それから中央にある大きなテーブルに凭掛る。これが僕たち教員のテーブルなのだ。僕は出勤簿に印を押す。お茶を啜る。空腹がふと急に立ちもどつてくる。僕のまはりに教師たちが何か話しあつてゐる。電燈の色で見る先生の顔は何と侘しい暈なのだらう。僕はもう一杯お茶を啜る。今、廊下の外で頻りにドタドタ靴の音がしてゐる。誰か生徒が僕の側を通りすぎて、戸棚のところに行く。電球を持つて行くのだ。ああして生徒は毎日、電球を教室に持つて行つて着けたり、外づして持つて戻つたりするのだ。だが、そんなことが餓じい僕には珍しいのだらうか。部屋の隅にゐた小使がベルを振りだす。と、みんなそはそは廊下に出て行く。僕は壁に掛けてある出席簿を取り、箱の中からチヨークを二本把む。僕はそろそろ廊下に出て、三階まで階段を昇つてゆく。灯の点いてゐない階段は真暗で、僕は手探りで昇つてゆく。茫漠とした廊下の突当りの教室に灯が洩れてゐる。僕はそこの扉を押す。電燈の光のなかに四五十人の顔が蠢めいてゐる。僕は教壇の椅子に腰を下ろして、出席簿を机の上におく、パタンとそれをひらく。それから僕は急しげに生徒の名前を読みあげてゐる。僕の声が僕の耳にきこえる。(おや、こんな声だつたのか)これは僕が今日はじめて人間にむかつて声を出してゐるのだ。僕はくるりと後向きになつて、塗りのわるい黒板にプリントの字を書いてゆく。I can swim, Can I swim? You can swim, Can you ……ふと僕はチヨークを置いて、教壇を下りる。煤けた壁際に添つて、教室の後の方へ歩いてゆく。僕は眼をあげて黒板に書いてある自分の字を眺め、それから煤けて真黒の天井壁を眺める。天井からは何か黝ずんだ蜘蛛の巣のやうなものが、いくすぢも、いくすぢも、垂れ下つてゐる。あれは一たい何なのだらう。時間があんなところに痕跡を残してゐるのだらうか。

 昔、僕がこの大学の予科に入学した頃は、この三階の建物はまだ新しく、僕には何か大きな素晴しい城砦のやうな気持がした。ある天気のいい日曜日の一日を僕は蓮華の咲いてゐる郊外の河岸をぶらぶらと歩いた。その翌朝もまるで磨きたてのやうに美しい朝だつた。僕はこの三階のバルコニーに立つてゐた。むかふに見える大きな邸の煉瓦塀や鬱葱と繁つてゐる楠の巨木や空を舞つてゐる鳶に僕は見とれてゐた。すると、僕はそれからのすべてを領有してゐるやうな幸な気分だつた。ふと僕の側に一人の友人がやつて来た。が、僕と彼とはお互に暫く黙つたまま同じ景色のなかにゐた。「僕たちの時代が来るね」ふと彼は呟いた。僕たちはその頃お互を立派な詩人になれると思ひ込んでゐたし、祝福はちやんと約束してあるやうにおもへた。

 僕の立つてゐる窓の破れから、冷たい風が襟首を撫でる。僕は声を出してプリントを読みあげる。I can swim, Can I swim? You can ……喋りながら教室を歩く。なるべく疲労しないやうに、ふらふらと軽く……。それから椅子に戻つてくる。肩も足も疼くやうに熱つぽい。空腹で目もとは昏みさうになる。急に教室はざわざわしてくる。今ふらふらのこの半病人が生徒の眼にはどう映るのか。突然、僕は授業をやめてしまひたい衝動に駆られる。が、僕の眼は何かを探すやうにプリントに注いでゐる。なるべく疲労しないやうに、疲労しないやうに、と、その祈り……その祈りがふと僕に戻つてくる。僕はまた授業のつぎほを見つけてゆく。そのうちにベルが鳴る。僕は教員室に戻つてくる。

 僕があの海の見える中学ではじめて教師になつたとき、その頃、お前は、寝たり起きたりの病人であつた。はじめて教壇に立つた僕はあべこべにまるで自分が中学生にされたやうに、剥きだしに晒された自分を怖れた。ときどき、僕は家に残つてゐる自分の影をおもつた。そんな弱々しい僕を病人のお前は労はつてくれようとした。その僕の影は……。僕は今、頻りにお茶を飲んで空腹を紛らしてゐる。すると小使が部屋の隅でベルを鳴らす。僕は疲労を鞭打つて立上る。暗い階段を匐ふやうに昇つて行く。灯のついた教室に入る。僕は黒板の方へ向く。消してない字で一杯の黒板を僕はおそるおそる困つたやうに眺める。それから思ひきつて黒板拭きで消してゆく。おびただしい白い粉が僕のまはりに散乱する。それは今、僕に吸はれてゐる。と、僕は朝の咳の発作をおもひだす。淡い淡いあぢさゐの花……。疲れないやうに、疲れないやうに、と軽い、軽い、祈り……。僕はふらふらと授業を続けてゐる。ベルが鳴る時間を待ちかまへてゐる。その時刻は電燈の光のなかにちらちらしてゐる。そして、ほんとにベルが鳴る。僕は手探りで階段を降り教員室へ戻つてくる。

 蝙蝠傘を提げて、僕は坂を下りてゆく。坂の下の表通りの闇のなかの灯が眩しく、それは僕を吸ひ込みさうだ。夜の闇色と感触がずしんと深まつてゐて、今はまるで海のやうだ。僕はそのなかを泳ぐやうにして歩く。僕は電車通を越えて、省線駅に来る。暗いホームは人で一杯だが、電車は容易にやつて来ない。突立つてゐる僕の脚は棒のやうだ。突立つてゐる、昨日も今日も、それから恐らく明日も……。明るい灯のついた満員電車が僕の前で停まる。僕は棒のやうに押込まれてゆく。僕の胸を左右から人間が押してくる。押してくる人間のいきれが僕をつつんでゐる。僕は何を考へてゐるのだらうか。Can I swim? Can I swim? ……疲れないやうに、斃れないやうに、ふらふらの軽い、今日の勤めも果たした。それが今の僕の生活くらしを支へてくれるのではないのに、とにかく今日の今日も耐へて来た。それがとにかく僕に安心を与へてゐるのだらうか。人間のいきれ、……惨劇のなかに死んで行つた無数の人間、……吻と今、僕をつつんでゐる人間のいきれ、僕を滅茶苦茶に押してくる人間、人間の流れ──それが斃れさうな僕を逆に支へてゐるのかもしれない。……

 僕は人間の流れに押出されて、電車から降りる。人間の流れは広い鋪道を越えて、急な石段をぞろぞろ上つてゆく。僕もそろそろと石段を上つて行く。ほの暗い路が三つに岐れて、人間の流れも三つに岐れる。僕はいつもの谷間のやうな、ひつそりした、ゆるい坂路を歩いてゐる。僕のまはりに疎らになつた人間の足音がまだ続いてゐる。僕の少し前方でききとれる、コツコツといふ固い靴の音……。帰宅を急ぐ足どりの音……。あれはどういふ人間なのだらうか。はつきりとリズムを刻んで進んでゆく静かな靴の音……。僕はそれに惹きつけられて、その後について歩いてゐる。コツコツといふ軽い快げな靴の音が僕の耳に鳴る。あれは明確な目的から目的へ静かに進んでゐるのだ。ふと僕の耳に僕のゴム底靴の鈍い喘ぐやうな音がきこえる。いつのまにか、さつきの美ごとな靴音は消えてゐる。

 僕はがくんと突離されたやうな気持だ。路は急な下り坂になつてゐる。そこから茫とした夜の塊りが見える。僕の帰つて行く道もあの中にある。僕は溝の橋を渡つて、仄暗い谷底のやうな路を進んでゆく。……と、僕のなかには、あの家の前の暗い滑りさうな石の段々が、夢のなかの情景のやうに浮んでくる。あの石段と僕のふらふらのゴム底靴が触れあふ瞬間、僕はあの、しーんとし息を潜めたガラスの家の怒りが、こちらへ飛掛つて来さうな気持がするのだ。……が、僕は今もうその石段のところまで来てしまつてゐる。ひつそりとした、階下も二階の方にもまるで灯が見えない。停電らしいのだ。僕はおどおどと段々を踏んでゆく。僕は喘ぐやうに、その家の扉をそつと押す。狭い狭い入口に屈んで、難しい姿勢で靴の紐を解く。この棒のやうに重い脚、ふらふらの頭、僕の心臓は早く打ち、息が苦しげなのがわかる。僕はそつと靴を下駄箱に入れて、ふわふわと立上る。それから僕の眼は暫く暗闇のなかでぼんやり戸惑つてゐる。

 ガラス壁の側にあるテーブルに白い紙のやうなものが仄かに見える。たしかあそこはいつも僕の食事が置いてある場所なのだ。僕はおそるおそる床板の上を歩いてゆく。匐い寄るやうな気分で、椅子の上に腰を下す。テーブルの上の新聞紙をそつと除けてみると、たしかに何か食べものが置いてある。僕は手探りで箸を探す。だが、ふとぼんやり疑が浮ぶ。僕は食べて差しつかへないのだらうか、これはほんとに僕のだらうか……。何かわからないが僕に課せられてゐる苛責が、それが冷やかに僕の眼の前に据ゑてあるのではないか……。だが、僕はわからないが、その、しーんとしたものを既に食べ始めてゐる。冷たい菜つぱ汁とずるずるの甘藷が、暗闇のなかで僕に感じられる。僕は食べながら、かすかに泣いてゐるやうな気がする。どこか体がぐつたり熱くなつてゆくやうな、やりきれない感覚に悩まされる。僕はひそひそと静かに急いで食べ了つてしまふ。それから、椅子を離れ、そろそろ闇のなかを手探りで歩く。細い細い階段を泳ぐやうに登つてゆく。僕の部屋の扉を手探りで押す。真暗な小さなガラス箱の部屋が僕に戻つてくる。やつと戻つたのだ。僕は蝙蝠傘をそつと板の間に置き、肩にぶらさげた雑嚢を外す。それから、ごろりと板の上に身を横たへる。ぐつたりとして、かすかに泣きたいやうな熱いものが、……僕はぐつたりと板に横たはつてゐるのだ。

 と、暗闇のなかにある堅い板の抵抗感が、僕に宿なしの意識を突きつける。僕はそつと板の感触をはづし、軽く軽く、できるだけ身を軽く感じやうとしてゐる。が、どうしても、ぐつたりとしたものが僕を押しつけてくる。

 ふと僕はさつきから、何か小さな、ぼんやりした光を感じてゐたやうな気がする。見ると、その光はたしかに回転窓の三インチばかりの隙間のところから射して来るのだ。僕はだんだん不思議な気持がしてくる。たしかに、あれは星の光なのだが、どうしてたつた一つの星があんな遙かなところから、こんな小さな隙間に忍び込んで来ることができるのか。今夜のやうに、どんよりとした空に、今の時刻を選んで、僕の方に瞬きだすことができるのか。この小さな光はまるで無造作に僕のところへ滑り込んできて何気なく合図してゐる精霊のやうなのだ。……今、僕の眼の前には、昼間の、あの靄を含んだ柔らかい空気が顫へだす。地の果てにある水晶宮のキラキラした泉の姿が……。

 僕はお前の骨壺を持つて郷里に戻ると、その時、兄の家で古いアルバムを見せてもらつたことがある。昔の写真のなかから、僕は久し振りに懐しい面影を見つけた。僕が少年の頃、死別れた姉の写真であつた。こんな優しい可愛い娘さんだつたのかと、僕はそんな女のひとがこの世に存在してゐたことを不思議に思ひ、僕がその女の弟であつたことまで誇らしく思へた。姉は結婚して二年目に死んだのだから、娘さんとは云へないだらうが、僕の目にはあまりに可憐で清楚なものが微笑みかけ、それが柔かく胸を締めつけるやうであつた。僕は大切にその面影を眼底に焼きつけておいた。

 それから僕はときどき、こんな想像に耽けりだした。もしも死んだお前が遙かな世界を旅してゐるのであるなら、どうか僕の死んだ姉のところを訪ねて行つて欲しいと。だが、この祈願は、今ではかなへられてゐるのではないかと思ふ。僕は、眼もとどかない遙かなところで、お前と僕の姉との美しい邂逅を感じることが出来るやうだ。

 お前と死別れて一年もたたないうちに、僕は郷里の街の大壊滅を見、それからつぎつぎに惨めな目に遇つて来てゐるが、僕にはどこか眼もとどかない遙かなところで、幸福な透明な世界が微笑みかけてくる瞬間があるやうだ。

 僕の姉は僕が中学に入る前の年に死んだ。僕は姉の死ぬる少し前、姉の入院してゐる病室を訪ねて行つたことがある。ベツドの中の姉は少し弱々しさうだつたが、不思議に冴えて美しい顔色だつた。澄んで大きく見ひらかれた眼が僕を見つめ、──こんな風な回想をしてゐると、僕はその女のひとが姉だつたのか、それともお前だつたのか、ふとわからなくなるやうだ。──姉は僕に何か話をしてくれさうな様子だつた。僕はその頃ひどく我儘で癇癪持ちの子供だつたが、姉の前でだけはいつも素直な気持になれるのであつた。姉の唇もとが動きだすのを僕は恰度お前の唇もとが動きだすのを待つやうな気持で待つてゐた。やがて、姉は静かに話しだした。僕はすつかりその話に魅せられてゐた。それはアダムとイブの、僕がはじめて聴く創世記の物語であつた。姉の澄んだ眼は、彼女がこの世のほかに、もつと遙かな場所──そんな場所をお前もどんなに熱心に求めてゐたか──を疑はない眼つきだつた。そしてそれはまつすぐ僕にも映つて来た。姉の話が終つたとき僕は何か底の底まで洗ひ清められてゐた。急に僕の眼には今迄と世界が変つて来たやうにおもはれた。その夕暮、僕がその病院を出て家に戻つてくる途中、街はづれにある青い山脈が何か活々と不思議におもはれ、僕のまはりにある凡てのものが、もつと遙かなところから繋がつてゐるのではないかとおもへた。僕は生れ変るのではないかとおもへた。僕は僕のうちにどんな世界がひらけてくるのか、まだ分らなかつたが、視えない世界の光が僕のなかに墜ちてくるのを思つてぞくぞくしてゐた。

 僕が幸福の予感にふるへ、その世界をもつともつと姉から教へてもらひたかつた時、恰度その時、僕の姉は死んだ。臨終には逢へなかつたので、僕が姉と逢つたのは、あの病室を訪ねて行つた日が最後だつた。僕は姉が話してゐた、あの遙かな世界に、もうほんとに姉は行つてしまつたのだらうと思つた。だが、僕の上には何かとり残されたものの空虚が滑り墜ちてゐた。そのうちに姉の追憶がやつて来て、その空虚を満たすやうになつた。幼い時から僕はこの姉が一番好きだつたし、僕はこの姉から限りない夢を育てられたやうな気がする。子供の僕は姉が裁縫してゐる傍で不思議なお伽噺をうつとりとききとれたものだが、姉が嫁入したときのことも僕には何だかお伽噺のやうにおもへる。お伽噺の王女のやうに幸福さうだつた姉がほんとに死んでしまつたのだ。死んでしまつたといふことも僕にはだんだん美しい物語のやうにおもへた。二階の窓を夕陽が赤く染めてゐる時、僕は遙かな遙かな世界を夢みてゐる少年であつた。

底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版

   1983(昭和58)年81日初版第一刷発行

初出:「群像」

   1949(昭和24)年1月号

入力:ジェラスガイ

校正:Juki

2002年720日作成

2011年1121日修正

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