おとづれ
長谷川時雨
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十五夜の宵だつた。新らしい借家に移つてから、ちよつと一度歸つて來て、そそくさと徹夜で書物をして出ていつたままのあるじから、幾日ぶりかで二度目の速達便が來た。丁度其日の新聞に連載ものが休みになつてゐたので、どこぞで病氣でもしてゐるのではないかと案じてゐたところなので、居所不明の手紙でもなんでも、無事だつたといふことが氣持ちを輕くさせてくれた。
例の通り、おわびやら、でたらめの改心やらを誓つた、歸宅の通知状だらうとは思つたが、このごろはそれさへあてにならない事が多いので、ただ無事だといふ知らせだけに、上書を見ただけですみさうな氣がした。中味はあんまりあてにすると失望させられるのを恐れて、すぐ見る氣にもなれかつた。
でも矢つぱりわたしは正直ものである。今の世に、正直とは、ばかといふ意味だとばかりに笑はれもするが、笑はれてもわたしは、笑ふものより幸福であるといつも思つてゐる。しかし、手紙をよむをりは、そんなことなど氣にも思ひはしなかつた。
おとづれは、中秋望月の夜にふさはしい風流なものであつた。
今夜、玉露をいただきに、SとNが、ことによると立よりたいさうです。とにかくはなれの準備だけねがひます。
それを讀むと、ああ居てよかつたと思つた。鶴見の家の縁に、葡萄や栗をお三寶に盛りあげて待つであらう老母のことを思ふと、今朝の空のやうに晴れしぶつてゐたのであつたが、何時留守に歸つて不自由をかけてもすまないと、このごろの留守居ぐせが習慣になつて、あの激しかつた暴風雨のあとの見舞にも行つて見なかつたのが、まづ役にたつたと思つた。
新居とはいへ、他人の住み古した古い古い家である。ただ疊の新しいだけがおもてなしでもあらうか、それに月は雲をきれてくまなくさしてゐる。我庭はせまいが塀のむかふには他家の廣庭がある。枝さしかはした影は我ものも同樣なので富んだものである。
山本の玉潤はきらしたが、宇治からもつて歸つた玉露が幸に味が逃げないである。土地に馴れず買ふ家も知らないので、總家鹽瀬の新栗むしをただひとつのおもてなしにと鉢に盛る。折よく竹生島の竹の菓子箸の新しいのがあつたのが嬉しかつた。
片月見をすると悲しいことがあるといふ古い諺にとらはれて、月見のしつらへをしなかつたのがかうなるともの足らない氣持ちがした。栗、きぬかつぎ、枝豆、そんなものでも持ちだしたかつたが、せめても、仁坊がとつて來てくれたお花が生きた。薄と紫苑を籠に入れて、床は嵐山渡月橋の幅にかけかへた。繪にはないが、この薄や紫苑のあるあたりが嵯峨野ともおぼせとほほゑみながら、さてもこの御住居の障子の煤けさはと氣になる。十月もなかばすぎたらば張りかへてと、月末の諸拂をあまり勘考しすぎたゆゑに手落とはなつたれど、すべては佗にかぎると拔道をこしらへて、夜更けてからの切りばり、大きな銀杏の葉二枚をきりぬいて張つた。
十一時、月はさやけし。十二時、いよいよ冴ゆる。一時、二時、もはやと縁の戸をたてきる。門は閉ざせど、叩かれて寢ぼけきつた顏をだすもいやとかしこまつてゐたが、湯加減を見ながらの退屈さは、舞臺の道具出來上つて、しばゐははじまらず、お客一人もない空席に、ぽつねんと坐つてゐるにも似てゐた。
だが訪れの主は、その時分には鯨飮して、速達を出したことなどは忘れてしまつてゐたであらうと思へば罪もない。
底本:「桃」中央公論社
1939(昭和14)年2月10日発行
初出:「不同調」
1926(昭和元)年
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年1月17日作成
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